李恪 (呉王)
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李 恪(り かく、武徳2年(619年)- 永徽4年2月6日(653年3月10日))は、中国唐の太宗李世民の三男。呉王に立てられた。
経歴
[編集]李世民と楊妃(隋の煬帝の娘)の間に生まれた。武徳3年(620年)に長沙王に封じられ、武徳9年(626年)に漢王に進封された。貞観2年(628年)、蜀王に改封され、益州大都督となったが、赴任しなかった。のちに斉州都督に任じられて赴任を命じられた。貞観10年(636年)、呉王に改封され、貞観12年(638年)に安州都督に任じられた。李恪は文武ともにすぐれ、太宗に愛されて、李承乾が廃位された後は太子位に望まれたが、長孫無忌の諫言により取りやめられた。
高宗の即位後、司空・梁州都督に任じられた。長孫無忌に忌避されて、永徽4年(653年)に房遺愛や高陽公主の謀反事件に連座して処刑された。顕慶5年(660年)、鬱林王に追封された。神龍初年、司空の位を追贈され、諸侯の礼で改葬された。
子女
[編集]子に李仁・李瑋・李琨・李璄がいたが、李恪の処刑後にともに嶺南へ流刑となった。李恪が鬱林王に追封された後、李仁は鬱林県侯に封じられ、襄州刺史に任じられた。のちに李千里と改名し、唐州・廬州・許州・衛州・蒲州の刺史を歴任し、成王に封じられ、左金吾大将軍に上った。神龍3年(707年)、李重俊が武三思を殺して兵変を謀った事件に参加し、失敗の後に処刑された。
李瑋は早逝した。李琨は、武則天のときに淄州・衛州・宋州・鄭州・梁州・幽州の刺史を歴任した。李璄は、帰政郡王に封じられ、宗正卿となり、李千里が処刑されると、南州司馬に左遷された。