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その人となりは聡明叡智で、秀才と称されている。『[[懐風藻]]』によれば、[[弘文天皇|大友皇子]]の学士の一人で、[[木素貴子]]・[[答ホン春初|答㶱春初]]・[[吉大尚]]・[[許率母]]らとともに賓客とされた<ref>『懐風藻』淡海朝大友皇子二首 序文より</ref>。文章にも優れ、『[[藤氏家伝]]』によると、[[藤原鎌足]]の碑を作ったという。 |
2020年8月16日 (日) 06:48時点における版
沙宅 紹明(さたく じょうみょう、生年不詳 - 673年)は、百済の貴族、学者。氏は沙吒、名は昭明とも記す。故国の滅亡に伴い、倭国(日本)へ亡命した。
経歴
同族に、543年(欽明天皇4年)12月条の上佐平沙宅己婁、660年(斉明天皇6年)7月条の注および同年10月の注に見える大佐平沙宅千福、百済滅亡時に捕虜となり、のちに郭務悰の船団に参加する沙宅孫登がいる。
その人となりは聡明叡智で、秀才と称されている。『懐風藻』によれば、大友皇子の学士の一人で、木素貴子・答㶱春初・吉大尚・許率母らとともに賓客とされた[1]。文章にも優れ、『藤氏家伝』によると、藤原鎌足の碑を作ったという。
671年(天智天皇10年)1月、法官大輔(律令制下の式部省の次官)の時に、余自信とともに大錦下を授けられた[2]。673年(天武天皇2年)閏6月に死去し、その報に接した天武天皇は驚愕し、外小紫位を贈り、重ねて故国百済の大佐平の位を与えている[3]。
子孫には、691年(持統天皇5年12月)に銀20両を賜った呪禁博士沙宅万首[4]、768年(神護景雲2年7月)に無位から従五位下に叙せられた女孺沙宅万福らがいる[5]。
脚注
参考文献
- 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p572(三省堂、1993年)
- 『日本書紀』(五)岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『続日本紀』全現代語訳(中)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
- 『懐風藻』、全訳注江口孝夫、講談社学術文庫、2000年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
- 『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』倉本一宏、講談社現代新書、2017年