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木素貴子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

木素 貴子(もくそ きし、生没年不詳)は、百済官吏武人。官位は達卒。故国の滅亡に伴い、白村江の戦いの後に倭国日本)へ亡命した。

記録

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日本書紀』によれば、天智天皇2年(663年)9月24日(甲戌)、余自信憶礼福留谷那晋首ら百済の国民と倭の船師達と共に弖礼城に至り、翌日倭国へ向けて出航した[1]

懐風藻』によると、皇太子となった大友皇子の賓客として、沙宅紹明塔本春初吉大尚許率母らとともに重用されたとある[2]

兵法に詳しく、天智天皇10年(671年)1月に大山下の冠位を授けられた[3]

一族に、持統天皇5年(691年)12月に呪禁博士として銀20両を賜与された木素丁武(もくそ ちょうむ)がいる[4]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇2年9月24日条。9月25日条
  2. ^ 『懐風藻』淡海朝大友皇子二首 序文より
  3. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年正月是月条
  4. ^ 『日本書紀』巻第三十、持統天皇5年12月2日条

参考文献

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関連項目

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