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大山下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大山下(だいせんげ)は、649年から685年まで日本で用いられた冠位である。大仙下とも書く[1]664年までは19階中12位で上は大山上、下は小山上。664年以降は26階中15位で上が大山中になった。

概要

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大化5年(649年)2月の冠位十九階で導入された[2]。前の13階制の大青大山上と大山下に分割されたうちの一つである。

天智天皇3年(664年)2月9日の冠位二十六階で、大山は大山上・大山中・大山下の3階になった[3]

天武天皇14年(685年)1月21日の冠位四十八階で冠位の命名方法が一新したときに廃止された[4]

大山下の人物

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日本書紀』に見える大山下の人物には遣唐使が多い。まず白雉4年(653年)に遣唐使の大使になった高田根麻呂[5]、翌年に副使になった薬師恵日[6] がいる。斉明天皇5年(659年)の遣唐使では、津守吉祥[7]が大山下で、天智天皇4年(665年)に小山位で出発した境部石積が、2年後の帰国時に大山下になっていた[8]

斉明天皇7年(661年)9月には、百済に帰国しようとする豊璋を大山下の狭井檳榔らが5千の兵で送った[9]

天智天皇10年(671年)、亡命百済人に一斉に冠位を授けたとき、達率谷那晋首木素貴子憶礼福留答本春初本日比子賛波羅金羅金須が大山下になった[10]

天武天皇6年(677年)には、百済人の大博士率母が大山下位を授かった[11]

そして天武天皇10年(681年)に川島皇子ら12人が帝紀と上古の諸事の記し定めることを命じられたとき、その最下位に大山下の平群子首がいた[12]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第26、斉明天皇5年(659年)7月戊寅(3日)条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の222-223頁。
  2. ^ 『日本書紀』巻第25、大化5年2月条。新編日本古典文学全集版『日本書紀』3の170-171頁。
  3. ^ 『日本書紀』巻第27、天智天皇3年2月丁亥(9日)条。新編日本古典文学全集版『日本書紀』3の262-263頁。
  4. ^ 『日本書紀』巻第29、天武天皇14年正月丁卯(21日)条。新編日本古典文学全集版『日本書紀』3の444-445頁。
  5. ^ 『日本書紀』巻第25、白雉4年5月壬戌(12日)条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の192-193頁。
  6. ^ 『日本書紀』巻第25、白雉5年2月条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の196-197頁。
  7. ^ 『日本書紀』巻第26、斉明天皇5年7月戊寅(3日)条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の222-223頁。
  8. ^ 『日本書紀』巻第27、天智天皇4年是歳条、同6年11月乙丑(9日)条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の268-269頁、272-273頁。
  9. ^ 『日本書紀』巻第27、天智天皇即位前紀(斉明天皇7年)8月条或本、9月条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の250-251頁。
  10. ^ 『日本書紀』巻第27、天智天皇10年正月是月条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の288-289頁。
  11. ^ 『日本書紀』巻第29、天武天皇6年5月甲子(3日)条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の376-377頁。
  12. ^ 『日本書紀』巻第29、天武天皇10年3月丙戌(17日)条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の406-407頁。

参考文献

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関連項目

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