郭務悰
かく むそう 郭 務悰 | |
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生誕 |
不詳 唐国 |
死没 | 不詳 |
職業 | 官吏 |
活動期間 | 664年? - ? |
時代 | 飛鳥時代後期 |
活動拠点 | 唐国 → 日本 |
肩書き | 上柱国 |
郭 務悰(かく むそう、生没年不詳)は、中国唐代の官吏。白村江の戦い後に日唐関係修復交渉のため、3度(あるいは4度)倭国(日本)を訪問している。
略歴
[編集]郭務悰の事績はすべて『日本書紀』・『善隣国宝記』に引用された『海外国記』に記述されたもののみであり、大陸側の史料には一切現れていない。
最初の訪日は、664年(麟徳元年、天智天皇3年5月)、百済の鎮将劉仁願により、朝散大夫の郭務悰らが派遣され、
『日本書紀』に描かれた記述は以上のようになるが、『海外国記』では、664年(天智天皇3年)の4月に郭務悰ら30人、百済の佐平である禰軍ら100人あまりが対馬に到着し、倭国側からは大山中の采女通・僧侶の智弁らが遣わされたとある。9月に津守吉祥・伊吉博徳・智弁らが筑紫大宰の言葉として、「客人たちのもってきた書状を見ると、天子(唐の皇帝)からの使いではなく、百済の鎮将の私使であることが分かったので、朝廷には奏上しなかった」とあり、使節団は入京を許されなかった。なお、郭務悰はこの時劉仁願からの「
翌665年(麟徳2年、天智天皇4年9月)、劉徳高らが倭国に派遣された際にも郭務悰と禰軍は同行し[4]、この時の一行は合計254人からなる大使節団であり、7月28日に対馬に到着し、9月20日に筑紫に入り、22日に
その後、669年(天智天皇8年)、郭務悰らが2,000人あまりを率いて来朝した、と『書紀』に記されているが[6]、これは後出する天智天皇10年記事の重複であるようである。
668年(総章元年)8月、劉仁願は対高句麗戦における失策を
しばらくして12月3日天智天皇が崩御し[11]、その知らせは翌年、阿曇稲敷を通じて郭務悰らに伝達された。郭務悰は哀悼の意を表し、喪服を着て、東に向かって拝んだ[12]。その上で、唐の皇帝の国書の書函と
その後、『日本書紀』によると、692年(持統天皇6年閏5月)に、郭務悰が天智天皇のために造った阿弥陀像を上送せよ、という天皇の詔が出されている[15]
脚注
[編集]- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇3年5月17日条
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇3年10月1日条
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇3年10月4日条
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇4年9月23日条
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇4年10月17日条
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇8年是歳条
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年7月11日条
- ^ 上田雄 2006, p. 67.
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条
- ^ 『古代日本と朝鮮・中国』、直木孝次郎:著、講談社学術文庫、1988年(昭和63年)よりp175 - p210「近江朝末年における日唐関係」
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年12月3日条
- ^ 『日本書紀』巻第二十八、天武天皇上 元年3月18日条
- ^ 『日本書紀』巻第二十八、天武天皇上 元年3月21日条
- ^ a b 上田雄 2006, p. 68.
- ^ 『日本書紀』巻第三十、持統天皇6年閏5月15日条
参考文献
[編集]- 『日本古代氏族人名辞典』p183(吉川弘文館、坂本太郎・平野邦雄監修、1990年)
- 『古代日本と朝鮮・中国』(直木孝次郎:著、講談社学術文庫、1988年)
- 『白村江―古代東アジア大戦の謎』(遠山美都男、講談社現代新書、1997年)
- 『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(倉本一宏、講談社現代新書、2017年)
- 『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』(河上麻由子、中公新書、2019年)