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「袁氏」の版間の差分

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=== 歴史 ===
=== 歴史 ===
袁姓の人間が歴史上で数多く活躍し始めるのは[[前漢]]の頃からである。[[右扶風]]安陵の人[[袁オウ|袁{{Lang|zh|}}]]は直言で名を馳せ、後に起きた[[呉楚七国の乱]]の鎮圧に一役買った。漢代には陳郡の隣の[[汝南郡]]を本拠地とし、陳郡袁氏の同族を称する[[汝南袁氏]]が台頭した。汝南袁氏は中央政界の名門として4世代で5人の[[三公]]を輩出したが、[[後漢]]末の動乱で一族の高官が次々に非業の死を遂げ、更に地方で群雄として台頭していた[[袁紹]]、[[袁術]]が相次いで没落するに及んで歴史の表舞台から姿を消した(但し、袁術の子孫は[[孫権]]に仕えた)。一方の陳郡袁氏は陽夏、扶楽など複数の家系に分かれて有力な貴族家門として着実に成長し、[[六朝]]時代から[[唐]]末の[[9世紀]]頃まで名門貴族として繁栄した。
袁姓の人間が歴史上で数多く活躍し始めるのは[[前漢]]の頃からである。[[右扶風]]安陵の人[[袁盎]]は直言で名を馳せ、後に起きた[[呉楚七国の乱]]の鎮圧に一役買った。漢代には陳郡の隣の[[汝南郡]]を本拠地とし、陳郡袁氏の同族を称する[[汝南袁氏]]が台頭した。汝南袁氏は中央政界の名門として4世代で5人の[[三公]]を輩出したが、[[後漢]]末の動乱で一族の高官が次々に非業の死を遂げ、更に地方で群雄として台頭していた[[袁紹]]、[[袁術]]が相次いで没落するに及んで歴史の表舞台から姿を消した(但し、袁術の子孫は[[孫権]]に仕えた)。一方の陳郡袁氏は陽夏、扶楽など複数の家系に分かれて有力な貴族家門として着実に成長し、[[六朝]]時代から[[唐]]末の[[9世紀]]頃まで名門貴族として繁栄した。


その後も[[北宋|宋]]代の記録で約26万人、[[明]]代の記録で約53万人と着実に拡大し、現在では[[台湾]]も含めた中国各地に広がっている。
その後も[[北宋|宋]]代の記録で約26万人、[[明]]代の記録で約53万人と着実に拡大し、現在では[[台湾]]も含めた中国各地に広がっている。
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* [[袁カイ (前漢)|袁{{Lang|zh|噲}}]] - 前漢の政治家。[[周勃]]の友人。
* [[袁カイ (前漢)|袁{{Lang|zh|噲}}]] - 前漢の政治家。[[周勃]]の友人。
* [[袁オウ|袁{{Lang|zh|}}]] - 前漢の政治家。袁{{Lang|zh|噲}}の弟。呉楚七国の乱の鎮圧に貢献したが、戦後、皇太子に立てるのを反対された梁王[[劉武]]により暗殺された。
* [[袁盎]] - 前漢の政治家。袁{{Lang|zh|噲}}の弟。呉楚七国の乱の鎮圧に貢献したが、戦後、皇太子に立てるのを反対された梁王[[劉武]]により暗殺された。
* [[袁チュウ|袁{{Lang|zh|种}}]] - 前漢の政治家。袁{{Lang|zh|盎}}の甥。呉に赴任する袁{{Lang|zh|盎}}に忠告した。
* [[袁チュウ|袁{{Lang|zh|种}}]] - 前漢の政治家。袁{{Lang|zh|盎}}の甥。呉に赴任する袁{{Lang|zh|盎}}に忠告した。
* [[袁安]] - 後漢の政治家。公平な政治で評価され、子孫が繁栄した。
* [[袁安]] - 後漢の政治家。公平な政治で評価され、子孫が繁栄した。

2020年8月13日 (木) 08:59時点における版

袁の字の小篆(1世紀)
中国語
中国語 ユエン
繁体字
簡体字
発音記号
標準中国語
漢語拼音Yuán
国語ローマ字Yuan
注音符号ㄩㄢˊ
呉語
上海語ローマ字Yoe1
粤語
粤拼Jyun4
閩南語
閩南語白話字Ôan
朝鮮語
ハングル
漢字
英語Won, Wŏn, Weon, Woon, Wone, Wun, One

(えん)氏は、漢姓の一つ。

中国

(えん)氏は、中華圏の一つ。河南省を発祥の地とし、四川華北江南にかけて幅広く分布する。

袁姓を名乗るのは漢民族だけではなく、非漢族の人々の姓としても珍しくない姓である。代には早くも四川の非漢族で袁姓の首長が現れており、また代以降の満洲旗人にも袁姓を名乗る氏族が見られる。現在の中華人民共和国において袁姓の人口はおよそ650万人であり、総人口のおよそ0.5%を占める大族である。

起源

  • 媯姓袁氏(陳氏)
    • 全ての袁氏の遠祖は五帝の一人、に遡るとされる。歴史書に伝えられる伝説によれば、舜の子孫であるの公族、轅濤塗が陽夏(現在の太康県)に領土を与えられ、その子孫が祖にちなんで袁を姓としたのに始まるという。轅濤塗以来の由来を誇る袁氏は、発祥地の陽夏が陳郡に属したことから通常は陳郡袁氏と呼ばれる。

歴史

袁姓の人間が歴史上で数多く活躍し始めるのは前漢の頃からである。右扶風安陵の人袁盎は直言で名を馳せ、後に起きた呉楚七国の乱の鎮圧に一役買った。漢代には陳郡の隣の汝南郡を本拠地とし、陳郡袁氏の同族を称する汝南袁氏が台頭した。汝南袁氏は中央政界の名門として4世代で5人の三公を輩出したが、後漢末の動乱で一族の高官が次々に非業の死を遂げ、更に地方で群雄として台頭していた袁紹袁術が相次いで没落するに及んで歴史の表舞台から姿を消した(但し、袁術の子孫は孫権に仕えた)。一方の陳郡袁氏は陽夏、扶楽など複数の家系に分かれて有力な貴族家門として着実に成長し、六朝時代から末の9世紀頃まで名門貴族として繁栄した。

その後も代の記録で約26万人、代の記録で約53万人と着実に拡大し、現在では台湾も含めた中国各地に広がっている。

著名な人物

袁安碑

朝鮮

(ウォン)は、朝鮮人の姓の一つである。2000年の国勢調査による大韓民国内での人口は中国語版と合わせて120,465人。

著名な人物

氏族

氏族(本貫) 始祖 割合 (%) (2000年)
比安袁氏

関連項目