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匈奴の大首長は「[[単于]]」(ぜんう)と呼ばれる<ref>H.W.Haussing(1953年)や内田吟風(1956年)によると、「単于」の原音は「tarγü」に近いものであったと推考される。また、完称である「撐犁孤塗単于」について、“撐犁”はテュルク語、モンゴル語の「tengri:天」、“孤塗”はツングース語の「guto:子」あるいはエニセイ語の「(bi)kjai」に相当するとされる。意味は『漢書』匈奴伝に「匈奴、天を云いて撐犁となし、子を云いて孤塗となす。単于は広大の貌なり」とある。</ref>。単于の直轄地(単于庭)は領国中央の[[代郡]]、[[雲中郡]]北方にあった。単于の下には屠耆王(賢王)<ref>白鳥庫吉(1941年)は屠耆をモンゴル語の「čige:正直」、トルコ語コイバル方言の「sagastex:賢」に比定し、B.Munkacsi(1903年)はモンゴル語の「čečen, seseŋ:賢」に比定した。《『騎馬民族史1』p13 注22》</ref>、谷蠡王、大将、大都尉、大当戸、骨都侯<ref>白鳥庫吉(1941年)はモンゴル語の「khutuk」、トルコ語の「kut, kutluk:威厳神聖」に比定し、[[ピーター・A・ブドバーグ|P. Boodberg]](1936年)は、この官が単于族の姻族に占められていることより、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」が付いたものと解し、L. Bazin(1950年)は「幸福をもたらす者」の義を有する古モンゴル語「qurtulγu」であると想定した。《『騎馬民族史1』p10 注17、p13 注21》</ref>と呼ばれる官位があり、それぞれ左右に分かれて領土を統括した。諸大臣の官は[[世襲]]であり、呼衍氏、蘭氏、その後に須卜氏が加わり、この三姓が匈奴の貴種であった。左方の王や将たちは東方に住み、[[上谷郡]]から東の地域を管轄し、[[ワイ人|濊貊]]や[[朝鮮]]と境を接した。右方の王や将は西方に住み、[[上郡]]以西を管轄し、[[月氏]]、[[ |
匈奴の大首長は「[[単于]]」(ぜんう)と呼ばれる<ref>H.W.Haussing(1953年)や内田吟風(1956年)によると、「単于」の原音は「tarγü」に近いものであったと推考される。また、完称である「撐犁孤塗単于」について、“撐犁”はテュルク語、モンゴル語の「tengri:天」、“孤塗”はツングース語の「guto:子」あるいはエニセイ語の「(bi)kjai」に相当するとされる。意味は『漢書』匈奴伝に「匈奴、天を云いて撐犁となし、子を云いて孤塗となす。単于は広大の貌なり」とある。</ref>。単于の直轄地(単于庭)は領国中央の[[代郡]]、[[雲中郡]]北方にあった。単于の下には屠耆王(賢王)<ref>白鳥庫吉(1941年)は屠耆をモンゴル語の「čige:正直」、トルコ語コイバル方言の「sagastex:賢」に比定し、B.Munkacsi(1903年)はモンゴル語の「čečen, seseŋ:賢」に比定した。《『騎馬民族史1』p13 注22》</ref>、谷蠡王、大将、大都尉、大当戸、骨都侯<ref>白鳥庫吉(1941年)はモンゴル語の「khutuk」、トルコ語の「kut, kutluk:威厳神聖」に比定し、[[ピーター・A・ブドバーグ|P. Boodberg]](1936年)は、この官が単于族の姻族に占められていることより、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」が付いたものと解し、L. Bazin(1950年)は「幸福をもたらす者」の義を有する古モンゴル語「qurtulγu」であると想定した。《『騎馬民族史1』p10 注17、p13 注21》</ref>と呼ばれる官位があり、それぞれ左右に分かれて領土を統括した。諸大臣の官は[[世襲]]であり、呼衍氏、蘭氏、その後に須卜氏が加わり、この三姓が匈奴の貴種であった。左方の王や将たちは東方に住み、[[上谷郡]]から東の地域を管轄し、[[ワイ人|濊貊]]や[[朝鮮]]と境を接した。右方の王や将は西方に住み、[[上郡]]以西を管轄し、[[月氏]]、[[氐]]、[[羌]]の諸侯と境を接した。左右賢王と左右谷蠡王が最大の領土をもち、左右骨都侯は政治を補佐した。左右賢王から当戸に至るまで、多い場合は1万騎、少ない場合は数千騎の兵を統率した。全部で24人の集団長があり、「[[万騎]]」という称号で呼ばれた。24人の集団長たちは、各自千人長、百人長、十人長を任命し、裨小王、相、封都尉、当戸、且渠などの役目を置いた。 |
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毎年の正月(1月)に、各集団長は単于庭で小会議を開いて祭りを行い、5月には籠城で大会議を開き、彼らの祖先、天と地、神霊を祭った。秋に馬が肥えると、蹛林で大集会を開催し、人民と家畜の数を調べて課税した。新しい単于を選出する時も全体の集会によって決定される。<ref>『漢書』匈奴伝</ref> |
毎年の正月(1月)に、各集団長は単于庭で小会議を開いて祭りを行い、5月には籠城で大会議を開き、彼らの祖先、天と地、神霊を祭った。秋に馬が肥えると、蹛林で大集会を開催し、人民と家畜の数を調べて課税した。新しい単于を選出する時も全体の集会によって決定される。<ref>『漢書』匈奴伝</ref> |
2020年8月11日 (火) 03:36時点における版
モンゴル高原 | |||
獫狁 | 葷粥 | 山戎 | |
戎狄 | |||
月氏 | 匈奴 | 東胡 | |
南匈奴 | |||
丁零 | 鮮卑 | ||
高車 | 柔然 | ||
鉄勒 | 突厥 | ||
東突厥 | |||
回鶻 | |||
黠戛斯 | 達靼 | 契丹 | |
ナイマン | ケレイト | 大遼 | |
(乃蛮) | (客烈亦) | モンゴル | |
モンゴル帝国 | |||
大元(嶺北行省) | |||
北元 | |||
(ハルハ・オイラト) | |||
大清(外藩・外蒙古) | |||
大モンゴル国 | |||
中国人の占領 | |||
大モンゴル国 | |||
モンゴル人民共和国 | |||
モンゴル国 |
匈奴(きょうど、拼音: )は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。
名称
語源
「匈奴」というのは彼らの自称した(もしくは他称された)民族名の音訳と考えられており[1]、その語源については諸説ある。[2]
- 葷粥(くんいく)の古代音「ヒュエンツュク」からきているとする説[3]。
- 「匈奴(Chiung-nu)」という名称はその始祖である「淳維(Chiun-yü)」からきているとする説[4]。ただし『史記』匈奴列伝の説に従えば、四方に住む全ての異民族は夏の末裔とする。当然のこととして、あくまで根拠の示されないお伽話であり信憑性はない[5]。
- 「匈」「奴」ともに中国語における悪字で、匈は胸に通じ「匈匈」は喧騒・騒乱を意味する、奴も下に見た呼び方で、「匈奴」は騒乱を起こす連中の意、これを周・春秋戦国時代の北方民族の音写「葷粥」「胡貉」「昆夷」「玁狁」に当てたとする説[6]。
- 匈奴という族名はそのトーテム獣の名称であり、匈奴のトーテム獣はノヨン・オール(ノインウラ)匈奴王侯墳出土の縫込刺繍毛織物に見られる豕形奇獣がそうではないかとする説[2]。
また、中国の史書にでてくる「匈奴河水」という河川名が匈奴の語源なのか、匈奴が割拠していたからついた河川名なのかは不明である。[2]
読み
現在、「匈奴」は日本語の漢音で「きょうど」と読まれ、中国語(普通話、北京官話)では「ションヌゥ(Xiōngnú)」と読まれている。そして、中国史における呼称の例に倣い、非漢字圏各国における呼称も中国語に準じて"Xiongnu"と表記するのが一般である。しかし、中国語音韻学の研究によれば、前漢代における「匈奴」の発音は、各地の現在の発音とは大きく異なっていたと考えられている。まず、中国語音韻学の知見に基づく古典的な推定音[7]の代表的なものを下に記す。
研究者 | カールグレン | 王力 | 李方桂 |
---|---|---|---|
発音記号 | xi̯uŋ no | xioŋ na | hjuŋ naɡ |
カタカナ近似 | ヒュン・ノ | ヒョン・ナ | ヒュン・ナグ |
しかし、上述のように、「匈奴」はあくまで漢代の中国人による漢字音写であることから、漢字の推定音がそのまま彼らの発音ではない。この点、中国語音韻学の研究と相前後して、歴史学者は様々な観点を加味して、「匈奴」がどのような発音を記していたのか(漢語の音写元となる発音)を考察している。
- ドイツのG.Halounは古代中国語では「xbron-no」であったとした。
- 白鳥庫吉は「奴(ヌ・ド)」の字が古代中国では「ナ」と発音され「Hu-na」、「Hun-na」であったとした[8]。
- 桑原隲蔵は「Hunni」であったとした[9]。
- 内田吟風は、ほぼ「flōŋ-nah」であったとし、フンを指すギリシア語の「Φροῦνοι」と関連し、ソグド人が前趙の匈奴人を「フン」と呼んでいたことと合わせ、「匈奴」の古代音は「フン」ないし「フルノイ」に近いものであったとした[10]。
その他、欧ソの学者が断片的に様々な論考をした。
「フンナ(Hun-na)」説に関しては、五胡十六国時代のタリム盆地などにおいて匈奴人(前趙)のことを「フン」と呼んでいた事などから[11]、18世紀から現代に至るまで直接的に結びつける物から一部に関連があったとする物まで、様々な匈奴とフン族を結び付ける説(フン=匈奴説)が提唱されている。
起源
史書による起源
史書における記述としては、『戦国策』、『山海経』、周朝の詔勅文書を集めた『逸周書』(いずれも戦国時代末期~前漢初期の成立)に匈奴の名が登場する。直接的な言及は、『戦国策』・燕策・燕太子丹質于秦に登場するのが最も早期のもので、仮託した記述としては、『逸周書』・王会篇・湯四方献令に殷・周の時代の初めに犬やラクダ、馬、白玉、良弓を貢献する民族という記述がある。[12]
考古学による起源
スキタイは近年、東方起源説が有力になっている[13]。墳墓の出土品(金製品など)から漢(中国)-匈奴(ブリャーチャ)-サルマタイ(西北カフカス)の間に交易が行われていたとされる[14]。
歴史
戦国時代
紀元前318年、匈奴は韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃したが、五国側の惨敗に終わった。[15]
趙の孝成王(在位:前265年 - 前245年)の時代、将軍の李牧は代の雁門で匈奴を防ぎ、単于の軍を撃破した。[16]
秦の時代
紀元前215年、秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。単于の頭曼は始皇帝および蒙恬の存命中に中国へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によってふたたび黄河を越えて河南の地を取り戻すことができた。ある時、単于頭曼は太子である冒頓を人質として西の大国である月氏へ送ってやった。しかし、単于頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を攻撃し、冒頓を殺させようとした。冒頓は命からがら月氏から脱出して本国へ帰国すると、自分に忠実な者だけを集めて単于頭曼を殺害し、自ら単于の位についた。
単于となった冒頓はさっそく東の大国である東胡に侵攻してその王を殺し、西へ転じて月氏を敗走させ、南の楼煩、白羊河南王を併合した。さらに冒頓は楚漢戦争中の中国へも侵入し、瞬く間に大帝国を築いていった。
白登山の戦い
冒頓が北の渾庾、屈射、丁零、鬲昆、薪犁といった諸族を服属させた頃、中国では漢の劉邦が内戦を終結させて皇帝の座に就いていた。紀元前200年、匈奴は馬邑城の韓王信を攻撃し、彼を降伏させることに成功した。匈奴はそのまま太原に侵入し、晋陽に迫った。そこへ高祖(劉邦)率いる漢軍が到着するが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかった。冒頓は漢軍をさらに北へ誘い込むべく偽装撤退を行うと、高祖は匈奴軍を追った挙句に白登山へ誘い込まれ、7日間包囲された。高祖は陳平の献策により冒頓の閼氏(えんし:歴代単于の母)を動かして攻撃を思い止まらせその間に逃走した。これ以降、漢は匈奴に対して毎年貢物を送る条約を結び、弱腰外交に徹する。
西域を支配下に置く
紀元前177年、匈奴の右賢王が河南の地へ侵入し、上郡で略奪をはたらいた。そのため、漢の孝文帝(在位:前180年 - 前157年)は丞相の灌嬰に右賢王を撃たせた。白登山の一件以来、初めて匈奴に手を出した漢であったが、その頃の単于冒頓は西方侵略に忙しく、とくに咎めることなく、むしろ匈奴側の非を認めている。この時、単于冒頓は条約を破った右賢王に敦煌付近にいた月氏を駆逐させるとともに、楼蘭、烏孫、呼掲[18]および西域26国を匈奴の支配下に収めている。
中行説を手に入れる
冒頓が亡くなると、息子の老上単于(在位:前174年 - 前161年)が即位した。孝文帝は公主と貢納品を贈るが、随行員の中に中行説もいた。中行説は匈奴行きを何度か固辞したが否応なく使節の列に加えられ、匈奴へ着くなり漢に背いて匈奴の単于に仕えた。中行説は老上単于の相談役となり、漢への侵攻を促しては漢帝国を苦しめた。[17]
武帝の登場
匈奴で軍臣単于(在位:前161年 - 前127年)が即位し、漢で景帝(在位:前156年 - 前141年)が即位。互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。しかし、武帝(在位:前141年 - 前87年)が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、河南の地を奪取することに成功した。
元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまった。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年 - 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 - 前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになった。
太初3年(前102年)、漢の李広利は2度目の大宛遠征で大宛を降した。これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。
その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いていった。
構成諸族の離反
壺衍鞮単于(在位:前85年 - 前68年)の代になり、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に敗れた時の報復をした。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。
漢の大将軍の霍光はこの情報を得ると、中郎将の范明友を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせて遼東郡から出陣させた。范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴は引き揚げていた。そこで、范明友は烏桓族が力を失っているのに乗じて攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還した。
壺衍鞮単于はこれを恐れて漢への出兵を控え、西の烏孫へ攻撃を掛け車師(車延、悪師)の地を取った。しかし、烏孫は漢との同盟国であったため、救援要請を受けた漢軍は五将軍を派遣して匈奴に攻撃を仕掛けた。匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなる。その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃した。しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死し、これに乗じた傘下部族の北の丁令、東の烏桓、西の烏孫から攻撃され、多くの兵と家畜を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大きく弱体化した。
匈奴の内紛と呼韓邪単于
漢に対抗できなくなった匈奴は何度か漢に和親を求め、握衍朐鞮単于(在位:前60年 - 前58年)の代にもその弟を漢に入朝させた。しかし一方で、握衍朐鞮単于の暴虐殺伐のせいで匈奴内で内紛が起き、先代の虚閭権渠単于の子である呼韓邪単于(在位:前58年 - 前31年)が立てられ、握衍朐鞮単于は自殺に追い込まれた。これ以降、匈奴国内が分裂し、一時期は5人の単于が並立するまでとなり、匈奴の内乱時代を迎える。やがてこれらは呼韓邪単于によって集束されるが、今度は呼韓邪単于の兄である郅支単于が現れ、兄弟が東西に分かれて対立することとなる。呼韓邪単于は内部を治めるため漢に入朝し、称臣して漢と好を結んだ。漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせた。漢と手を組んだ呼韓邪単于を恐れた郅支単于は康居のもとに身を寄せたが、漢の陳湯と甘延寿によって攻め滅ぼされた。
こうしてふたたび匈奴を統一した呼韓邪単于は漢との関係を崩さず、その子たちもそれを守り、しばらく漢と匈奴の間に平和がもたらされた。
王莽の登場
烏珠留若鞮単于(在位:前8年 - 13年)の時代、漢では新都侯の王莽が政権を掌握し、事実上の支配者となっていた。この頃から漢の匈奴に対する制限が厳しくなり、他国からの人質、投降者、亡命者などの受け容れを禁止する4カ条を突き付けられた。呼韓邪単于以来、漢の保護下に入っていた匈奴はそれを認めるしかなかった。
始建国元年(9年)、王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国した。王莽は五威将の王駿らを匈奴へ派遣し、単于が持っている玉璽を玉章と取り換えさせた。その後、烏珠留若鞮単于はもとの玉璽がほしいと言ったが、すでに砕かれており、戻ってくることはなかった。
王莽による一連の政策に不満を感じた烏珠留若鞮単于は翌年(10年)、西域都護に殺された車師後王須置離の兄である狐蘭支が民衆2千余人を率い、国を挙げて匈奴に亡命した際、条約を無視してこれを受け入れた。そして狐蘭支は匈奴と共に新朝へ入寇し、車師を撃って西域都護と司馬に怪我を負わせた。時に戊己校尉史の陳良らは西域の反乱を見て戊己校尉の刁護を殺し、匈奴に投降した。
王莽の単于冊立
王莽は匈奴で15人の単于を分立させようと考え、呼韓邪単于の諸子を招き寄せた。やって来たのは右犁汗王の咸と、その子の登と助の3人で、使者はとりあえず咸を拝して孝単于とし、助を拝して順単于とした。この事を聞いた烏珠留若鞮単于はついに激怒し、左骨都侯で右伊秩訾王の呼盧訾、左賢王の楽らに兵を率いさせ、雲中に侵入して大いに吏民を殺させた。ここにおいて、呼韓邪単于以来続いた中国との和平は決裂した。
この後、匈奴はしばしば新の辺境に侵入し、殺略を行うようになった。王莽の蛮族視政策は西域にも及んだため、西域諸国は中国との関係を絶って、匈奴に従属する道を選んだ。
新の滅亡と後漢の成立
始建国5年(13年)、烏珠留若鞮単于は即位21年で死去し、王莽によって立てられた孝単于の咸が後を継いで烏累若鞮単于(在位:13年 - 18年)となった。烏累若鞮単于は初め、新朝と和親を結ぼうとしたが、長安にいるはずの子の登が王莽によって殺されていたことを知り、激怒して侵入略奪を絶えず行うようになった。そこで王莽は王歙に命じて登および諸貴人従者の喪を奉じて塞下に至らせると、匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させた。こうして、烏累若鞮単于は王莽の金幣を貪る一方、寇盗も従来通り行った。
地皇4年(23年)9月、更始軍が長安を攻め、王莽を殺害、新朝が滅亡した。更始将軍の劉玄は皇帝に即位し(更始帝)、漢を復興する(更始朝)。匈奴では呼都而尸道皋若鞮単于(在位:18年 - 46年)が即位していたが、新末において匈奴がたびたび辺境を荒らしていたために更始朝が新朝を倒すことができたと言い始め、更始朝に対して傲慢な態度をとった。しかし、そうしているうちに赤眉軍が長安を攻撃して劉玄を殺害、その赤眉軍も光武帝によって倒されて後漢が成立した。呼都而尸道皋若鞮単于は後漢に対しても傲慢な態度を取り、遂には自分を冒頓単于になぞらえるようになった。
匈奴の南北分裂
匈奴による侵入・略奪は日に日に激しくなったが、蒲奴(在位:46年 - ?年)が単于に即位すると、匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡するという大飢饉に見舞わされた。単于蒲奴は後漢がこの疲弊に乗じて攻めてくることを恐れ、使者を漁陽まで派遣して和親を求めた。
時に右薁鞬日逐王[20]の比(ひ)は南辺八部の大人(たいじん:部族長)たちに推戴され、呼韓邪単于と称して(本当の単于号は醢落尸逐鞮単于)南匈奴を建国し、匈奴から独立するとともに後漢を味方につけた(これに対し、もとの匈奴を北匈奴と呼ぶ)。南匈奴は北匈奴の単于庭(本拠地)を攻撃し、単于蒲奴を敗走させた。これにより単于蒲奴の権威は失墜し、その配下の多くが南匈奴へ流れて行った。
北匈奴の滅亡
その後、北匈奴はしばしば中国の辺境を荒らしては後漢と南匈奴に討たれたので、次第に衰退していった。章和元年(87年)、東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴の左地(東部)に入って北匈奴を大破させ、優留単于を斬り殺した。さらに飢饉・蝗害にもみまわされ、多くの者が南匈奴へ流れていった。永元元年(89年)、南匈奴の休蘭尸逐侯鞮単于(在位:88年 - 93年)が北匈奴討伐を願い出たので、後漢は征西大将軍の耿秉と車騎将軍の竇憲とともに北匈奴を討伐させ、北単于を稽落山の戦いで大破した。翌年(90年)、休蘭尸逐侯鞮単于は使匈奴中郎将の耿譚とともに北単于を襲撃し、その翌年(91年)にも右校尉の耿夔の遠征で北単于を敗走させたので、遂に北匈奴は行方知れずとなり、中華圏から姿を消した[22](その後の北匈奴は康居の地に逃れて悦般となる[23]。)。
また、18世紀以降から、4世紀にヨーロッパを席巻したフン族と同一視する説が存在するが(フン族#フン=匈奴説)、未だ決定的な見解がでていない[24]。
南匈奴
残された南匈奴は後漢に服属して辺境の守備に当たった。しかし、次第に配下の統制が利かなくなり、南単于の権威が弱くなっていった。時に匈奴のいなくなったモンゴル高原では東の鮮卑が台頭しており、その指導者である檀石槐は周辺諸族を次々と侵略していき、中国の北辺を脅かした。屠特若尸逐就単于(在位:172年 - 177年)は後漢の護烏桓校尉や破鮮卑中郎将、使匈奴中郎将らとともに鮮卑に対抗したがまったく相手にならず、けっきょく檀石槐の存命中は何もすることができなかった。その後の中国は後漢末期の動乱期(いわゆる三国時代)に突入し、黄巾の乱やその他の戦乱に南匈奴も駆り出されることとなった。そんな中、南匈奴内部で内紛が起き、単于於夫羅(在位:188年 - 195年)は南匈奴本国から放逐され、流浪の末に時の権力者である曹操のもとに身を置いた。呼廚泉(在位:195年 - ?年)の代になって南単于は鄴に抑留され、五分割された南匈奴本国は右賢王の去卑がまとめることになった。以降、南単于は魏代・晋代において中国王朝の庇護のもと、存続することができたのだが、単于の位はすでに名目上のものとなっており、実際の権威は左賢王に移っていた。やがて西晋が八王の乱で疲弊すると、於夫羅の孫にあたる劉淵は大単于と号して西晋から独立、国号を漢(のちの前趙)と定めた。その後、漢は西晋を滅ぼし(永嘉の乱)、時代は五胡十六国時代へと突入する。
五胡十六国時代
漢の劉淵(在位:304年 - 310年)はやがて中国風君主号である皇帝を名乗るようになり、単于号は異民族に対する単なる称号となった。劉聡(在位:310年 - 318年)の代になって西晋を滅亡させ、劉曜(在位:318年 - 329年)の代に国号を趙(前趙)に改めた。これまで着々と中原を制覇してきた前趙であったが、その政権は不安定であり、何度も君主の廃立が行われた。そうしているうちに配下の石勒が襄国で独立して後趙を建国し、329年には前趙を滅ぼしてしまう。しかし、その後趙も後継争いが起きて漢人の冉閔によって国を奪われた(冉魏)。[25]
一方、独孤部や鉄弗部といった匈奴系の部族は鮮卑拓跋部の建国した代国のもとにあり、独孤部は代国に臣従していたものの、鉄弗部にいたっては叛服を繰り返していた。376年、前秦の苻堅は代国を滅ぼしてその地を東西に分け、東を独孤部の劉庫仁に、西を鉄弗部の劉衛辰に統治させた。やがて拓跋珪が北魏を建国すると、独孤部はそれに附いたが、鉄弗部は対抗して赫連勃勃の代に夏を建国した。その後、夏は北魏と争ったが、吐谷渾の寝返りもあって431年に滅んだ。[26]
北魏以降
古くから北魏(拓跋氏)に仕えていた独孤部は道武帝(在位:398年 - 409年)の「諸部解散」もあって部族として存在しなくなったが、北魏内で重要な役職に就くようになり、北朝・隋唐時代における名門貴族、劉氏、独孤氏となっていった。[2]
民族・言語系統
民族系統
そもそもの「匈奴」すなわち、攣鞮氏を中心とする屠各種族の民族系統については、『晋書』四夷伝に「夏代の薰鬻、殷代の鬼方、周代の獫狁、漢代の匈奴」とあるように獫狁、葷粥と呼ばれる部族が匈奴の前身である可能性が高い。
言語系統
すくなくとも非漢語(非中国語)であったことは史書より知られるが、匈奴語がどの言語系統に属すかについては、今日まで長い間論争が繰り広げられており、いまだに定説がない。18世紀から20世紀初頭のヨーロッパにおける匈奴史研究の主眼は、匈奴が何系統の民族(言語)であるかを解明することにあった。例えば、イノストランツェフの『匈奴研究史』(1942年、蒙古研究叢書)に代表されるように、匈奴がアルタイ語派のうちモンゴル系かテュルク系、またはウラル語派のうちフィン系かサモエード系などと確定することが、当時の匈奴研究の最大の関心事であった。こうした西洋の研究を受けて日本でも白鳥庫吉、桑原隲蔵らが中国史料に散見される匈奴語を抽出し、それらより匈奴の民族系統を探り当てることを研究の主眼としていた。しかし、宮脇淳子が指摘するように[27]、多民族が融合する遊牧国家においては、中国文献に音写されたわずかな匈奴語が、今日のテュルク諸語やモンゴル語で解読されたとしても、それらが匈奴と呼ばれた遊牧民全体の言語系統を示す根拠とはされていない。[28]
習俗・文化
匈奴は文字を持たないため、自身の記録を残していない。よって、遺物等の直接的な史料を除けば中国文明の文字記録を参考にするしかない[29]。『史記』に「騎射を善くする」とあるように、匈奴民族には馬はかかせない。遊牧民族であるため、戦になれば男は皆従軍するほか、女も軍事行動と共に移動する。特徴的なこととして「若くて強い者が重んじられ、老人は軽んぜられる」、「一家の長が亡くなると、その跡を継いだ子は自分の生母以外の父の妃達を受け継ぐ」という『史記』の記述があるが、前代単于の年老いた閼氏(単于の妻)が尊重されていた事や、後代の突厥・モンゴルでは老人が尊重されていた事から判断して、儒教の倫理観と相反する事例を強調して匈奴を非難しているにすぎないという意見もある[30]。
衣食住
匈奴の衣類は主に動物の毛皮・革製の物と毛氈(フェルト)製の物を着用し、騎馬民族には欠かせない胡服と呼ばれる袴(こ:ズボン)をはいていた。戦国時代当時の中国ではズボンの概念はなく、いわゆる着物を着ており、馬にまたがることができず、常に戦車と呼ばれる馬車に乗って戦っていた。しかし、それでは騎馬戦術に長ける騎馬民族に劣っていたため、趙の武霊王は胡服騎射(騎馬民族風の服を着て、騎射を行う)を中国で初めて取り入れて戦に活用したという[29]。また、単于はフェルト製の幘(さく:帽子)をかぶっていたが、匈奴には特に階級に応じた冠や帯の服飾がなかった。食物は主に肉類(牛、馬、羊、兎、鳥、魚)と酪(らく:ヨーグルトの類)を食す。住居は固定した建造物ではなく、穹廬(きゅうろ:ゲル、パオ)と呼ばれる折りたたみ式テントに住み、冬になると低地(キシュラック)に移動し、夏になると高地(ヤイラック)に移動して牧畜を行うトランスヒューマンス方式をとる[31]。この他に、中国人奴隷などのための固定型住居もあり、半地下式の住居址や城塞址、炉の址などが20世紀になって発見された[29]。
結婚
匈奴の婚姻において、単于氏族の攣鞮(れんてい)氏には特定の姻族がおり、貴種とされた呼衍氏、蘭氏、須卜氏がそれにあたる。これらの氏族は屠各(とかく)種と呼ばれる匈奴の中心種族に属し、『晋書』四夷伝では他の種族と交わらないと記されている。また、漢より公主が嫁ぐと夫人として迎え、子が単于になれば、その閼氏となる。遊牧民における特徴的な風習として、夫に先立たれた妻はその夫の兄弟の妻となり、またその夫が先立てばふたたびその兄弟もしくは子の妻となる。これについて匈奴の高官である中行説は「家系が失われるから」と答えている。[2]
埋葬
漢の武帝の時期の司馬遷『史記』卷110『匈奴列伝』においては、「死者を棺と槨(かく:棺の外側の箱)に安置し、金銀や衣裘を副葬品とするが、封(もりつち)をしたり、樹を植えたり、喪服をすることもない。側近や寵愛された妾の殉死者は、多ければ数千百人にのぼる。」と記されている。「もりつち」がないのは後の高車にも見られる風習である。
最盛期の王侯の墓はまだ発見されていないが、匈奴の壺衍鞮単于(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代には烏桓により過去の匈奴の王墓が暴かれている。
他方、紀元前後に東匈奴が前漢と和平状態にあった頃、もしくはその後に匈奴が一時盛り返した頃のものと思われる匈奴の王墓が、モンゴル北部のウランバートル北部や、ロシアのブリヤート共和国南部で発見されている[32]。ウランバートルのノイン・ウラ遺跡(ノヨン・オール)では二重の木槨が発見され、その内槨の底には毛氈(フェルト)が敷かれ、その上に枕木をして木棺を置いていた。副葬品には土器、銅器、玉器や木製品、染織品、漆器などが出土し、主に中国製の副葬品が多い。一方で銅鍑(どうふく)や、(鷲グリフィンのような)怪鳥がトナカイ(ヘラジカ)を襲う文様など、遊牧民文化特有の物も出土している。刺繍された角と翼をもつ獅子は中国の天禄・辟邪の影響であろうが、それは遠くアケメネス朝の獅子グリフィンに起源をもつ[33]。ブリヤートでは、イリモヴァヤ・パヂ遺跡(Ilimovaya padi)で二重の木槨が発見され、ツァラーム遺跡(Tsaram)では紀元前1世紀~紀元後1世紀に陪葬された遺体が発見された。これらにより紀元前後の匈奴の墓相がおおよそ判明した。これらの墳墓は“張り出し付き方墳”と呼ばれ、スキタイ族の墳墓クルガンとの類似点もあるとはいえ、その起源はいまだ不明である。[29]
刑法
刑の種類はだいたい3種類あり、死刑、軋、家財没収がある。軋(あつ)とは、車で骨を引き砕くとも、刀で顔面を切るともいわれる[34]。匈奴の刑法については中行説が「法規は簡素で実行し易い」と言っているように、簡単であるが、厳格である。[2]
- 死刑
- 刀を1尺(約22~23センチ)抜いた者、傷害・殺人を犯した者
- 不臣者、反逆者
- 惰弱敗戦者
- 集会不参加者
- 逃亡者
- 軋刑
- 小さい罪
- 家財没収
- 窃盗(家畜など)
宗教
匈奴の宗教としてはシャーマニズム(薩満教)、上天信仰があり、年三回集まって大祭祀を開いた。シャーマニズムは後の鮮卑、高車、柔然、突厥にも見られる。
農業
匈奴は牧畜と狩猟を生業とし、たびたび中国に侵入・略奪を行った。そこで匈奴が遊牧を専らとし、農耕は行っていなかったと考えられるが、近年の考古学調査の結果から、連れ去った農耕民奴隷によるバイカル湖畔での農業生産が確認されている。1920年代からロシアのブリャーチヤ共和国でイヴォルガ遺跡の発掘が行われ、そこから中国人奴隷のための住居跡が見つかった。この他にも約20か所の集落遺跡が発掘されている。これにより、かつて匈奴が漢へ侵入略奪を行った際の奴隷や、戦における捕虜などが北方のバイカル湖畔において、匈奴のために農業や手工業生産に従事させられていたことがわかった[29]。この他にもタリム盆地のオアシス定住民に対しても、同様のことが行われ、匈奴が肉ばかりではなく、穀物も食べていた(もしくは売買していた)ことが分かる[35]。
単于庭
匈奴の単于庭、すなわち都の位置について、『史記』や『漢書』では「代郡、雲中郡の北」としており、内田吟風は情勢によって時折所在を変えており、非常時にはケルレン河畔に一時的に遷したが、原則的には、内モンゴル自治区のフフホト付近に在り、児単于(在位:紀元前105年 - 紀元前102年)以降はモンゴルのカラコルム付近に在ったとしている。[2]
政治体制
匈奴の大首長は「単于」(ぜんう)と呼ばれる[36]。単于の直轄地(単于庭)は領国中央の代郡、雲中郡北方にあった。単于の下には屠耆王(賢王)[37]、谷蠡王、大将、大都尉、大当戸、骨都侯[38]と呼ばれる官位があり、それぞれ左右に分かれて領土を統括した。諸大臣の官は世襲であり、呼衍氏、蘭氏、その後に須卜氏が加わり、この三姓が匈奴の貴種であった。左方の王や将たちは東方に住み、上谷郡から東の地域を管轄し、濊貊や朝鮮と境を接した。右方の王や将は西方に住み、上郡以西を管轄し、月氏、氐、羌の諸侯と境を接した。左右賢王と左右谷蠡王が最大の領土をもち、左右骨都侯は政治を補佐した。左右賢王から当戸に至るまで、多い場合は1万騎、少ない場合は数千騎の兵を統率した。全部で24人の集団長があり、「万騎」という称号で呼ばれた。24人の集団長たちは、各自千人長、百人長、十人長を任命し、裨小王、相、封都尉、当戸、且渠などの役目を置いた。
毎年の正月(1月)に、各集団長は単于庭で小会議を開いて祭りを行い、5月には籠城で大会議を開き、彼らの祖先、天と地、神霊を祭った。秋に馬が肥えると、蹛林で大集会を開催し、人民と家畜の数を調べて課税した。新しい単于を選出する時も全体の集会によって決定される。[39]
歴代単于
匈奴の歴代単于は代々屠各種攣鞮氏出身の人物によって世襲された。また、「単于」という君主号が頭曼以前からあったものなのか、頭曼から称すようになったのか、それとも冒頓から称すようになったのかは不明である。
統一匈奴帝国時代
- 頭曼単于(頭曼、在位:? - 紀元前209年)
- 冒頓単于(冒頓、在位:紀元前209年 - 紀元前174年)…頭曼の子
- 老上単于(稽粥、在位:紀元前174年 - 紀元前160年)…冒頓の子
- 軍臣単于(軍臣、在位:紀元前160年 - 紀元前126年)…老上単于の子
- 伊稚斜単于(伊稚斜、在位:紀元前126年 - 紀元前114年)…老上単于の子
- 烏維単于(烏維、在位:紀元前114年 - 紀元前105年)…伊稚斜の子
- 児単于(詹師廬、在位:紀元前105年 - 紀元前102年)…烏維の子
- 呴犁湖単于(呴犁湖、在位:紀元前102年)…伊稚斜の子、烏維の弟
- 且鞮侯単于(且鞮侯、在位:紀元前102年 - 紀元前96年)…伊稚斜の子、呴犁湖の弟
- 狐鹿姑単于(在位:紀元前96年 - 紀元前85年)…且鞮侯の子
- 壺衍鞮単于(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)…狐鹿姑単于の子
- 虚閭権渠単于(在位:紀元前68年 - 紀元前60年)…壺衍鞮単于の子
- 握衍朐鞮単于(屠耆堂、在位:紀元前60年 - 紀元前58年)…烏維の来孫
分裂時代
再統一時代
- 復株累若鞮単于(雕陶莫皋、在位:紀元前31年 - 紀元前20年)…呼韓邪単于の子
- 捜諧若鞮単于(且麋胥、在位:紀元前20年 - 紀元前12年)…呼韓邪単于の子、復株累若鞮単于の弟
- 車牙若鞮単于(且莫車、在位:紀元前12年 - 紀元前8年)…呼韓邪単于の子、捜諧若鞮単于の弟
- 烏珠留若鞮単于(嚢知牙斯、知、在位:紀元前8年 - 13年)…呼韓邪単于の子、車牙若鞮単于の弟
- 烏累若鞮単于(咸、在位:13年 - 18年)…呼韓邪単于の子、烏珠留若鞮単于の弟
- 呼都而尸道皋若鞮単于(輿、在位:18年 - 46年)…呼韓邪単于の子、烏累若鞮単于の弟
- 烏達鞮侯単于(烏達鞮侯、在位:46年)…呼都而尸道皋若鞮単于の子
王莽が冊立した単于
- 孝単于(咸、在位:11年 - 13年)…烏累若鞮単于
- 順単于(助、在位:11年)…烏累若鞮単于の子
- 順単于(登、在位:11年 - 12年)…烏累若鞮単于の子、助の弟
- 須卜単于(当、在位:18年 - 21年)…須卜氏の右骨都侯
北匈奴
南匈奴
- 醢落尸逐鞮単于(比、在位:48年 - 56年)…烏珠留若鞮単于の子
- 丘浮尤鞮単于(莫、在位:56年 - 57年)…烏珠留若鞮単于の子、醢落尸逐鞮単于の弟
- 伊伐於慮鞮単于(汗、在位:57年 - 59年)…烏珠留若鞮単于の子、丘浮尤鞮単于の弟
- 醢僮尸逐侯鞮単于(適、在位:59年 - 63年)…醢落尸逐鞮単于の子
- 丘除車林鞮単于(蘇、在位:63年)…丘浮尤鞮単于の子
- 湖邪尸逐侯鞮単于(長、在位:63年 - 85年)…醢落尸逐鞮単于の子、醢僮尸逐侯鞮単于の弟
- 伊屠於閭鞮単于(宣、在位:85年 - 88年)…伊伐於慮鞮単于の子
- 休蘭尸逐侯鞮単于(屯屠何、在位:88年 - 93年)…醢落尸逐鞮単于の子
- 安国単于(安国、在位:93年 - 94年)…伊伐於慮鞮単于の子、伊屠於閭鞮単于の弟
- 亭独尸逐侯鞮単于(師子、在位:94年 - 98年)…醢僮尸逐侯鞮単于の子
- 萬氏尸逐侯鞮単于(檀、在位:98年 - 124年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子
- 烏稽侯尸逐鞮単于(抜、在位:124年 - 128年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子、萬氏尸逐侯鞮単于の弟
- 去特若尸逐就単于(休利、在位:128年 - 140年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子、烏稽侯尸逐鞮単于の弟
- 車紐単于(車紐、在位:140年)
- 呼蘭若尸逐就単于(兜楼儲、在位:143年 - 147年)
- 伊陵尸逐就単于(居車児、在位:147年 - 172年)
- 屠特若尸逐就単于(在位:172年 - 178年)
- 呼徴単于(呼徴、在位:178年 - 179年)…屠特若尸逐就単于の子
- 羌渠単于(羌渠、在位:179年 - 188年)
- 持至尸逐侯単于(於夫羅、在位:188年 - 195年)…羌渠の子、劉豹の父
- 呼廚泉単于(呼廚泉、在位:195年 - 216年)…持至尸逐侯単于の弟
新羅金氏王族の匈奴渡来説
韓国では、新羅の金氏王族が匈奴から渡来してきたという説がある。
脚注
- ^ 音訳とする根拠は、各史書における表記の差異による。史書における表記には、恭奴(『漢書』匈奴伝)、凶奴(『蔡中郎集』黄鉞銘、『釈迦方志』巻上、『慈恩寺三蔵法師伝』、『三国史記』新羅紀)、兇奴(『大唐求法高僧伝』巻上)、胸奴(『塩鉄論』巻三十八)、降奴(『漢書』王莽伝)などがあり、類似の音を漢字で表記していることがわかる。
- ^ a b c d e f g 内田 1975
- ^ 林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、182頁
- ^ ユリウス・クラプロートが『史記』『漢書』匈奴列伝の「匈奴は夏后淳維の子孫である」という記述をもとに提唱。
- ^ 『匈奴史稿』P117
- ^ 『匈奴史稿』P121
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2011年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月29日閲覧。
- ^ 『東西交渉史上より観たる遊牧民族』
- ^ 『張騫西征考』
- ^ 『騎馬民族史1』p4 注1
- ^ オーレル・スタインの発見した『ソグド語古代書簡』より。《森安 2007,p100》
- ^ しかし、これらの記述について小川琢治は『北支那先秦蕃族考』において後の『史記』における匈奴との関連を否定している。そして『史記』匈奴列伝、『後漢書』南匈奴伝では、匈奴の始祖は夏の一族である夏后氏の淳維であることが記されている。この記述を信頼すれば、匈奴は夏王朝の末裔であり、その意味では匈奴は夏人(≒中国人)である。『楽彦括地譜』でも、夏の桀王の子の獯粥が北野に避居し、随畜移動するようになったと記している。
- ^ 1970年代に発見された南シベリアのアルジャン古墳出土品の考古学的分析による。《林 2007,P78-86,P120
- ^ 林 2007,p311-312。
- ^ 『史記』秦本紀
- ^ 『史記』廉頗藺相如列伝
- ^ a b c d e 『史記』匈奴列伝
- ^ 「烏掲」、「呼偈」とも記され、のちのテュルク系民族オグズ(Oγuz)の祖先とされる。《『騎馬民族史1』p19 注31、P100 注3、p106 注18》
- ^ a b c d e f g 『漢書』匈奴伝
- ^ 「薁鞬」は「奥鞬」とも記され、唐の顔師古が「奥の音は郁」と注すことから「いくけん」と発音する。Groot(1921年)はこれを「Orkhon」(オルホン)を写したものとしたが、顔師古の注や康居国内に奥鞬城なるものがあったことなどから、モンゴルの「オルホン」に結び付けることは困難であり、むしろのちの突厥などに見られる官号「irkin」(イルキン)に比定する説の方が有力となっている。《『騎馬民族史1』p95 注78、p99 注2》
- ^ 『漢書』匈奴伝、『後漢書』南匈奴列伝
- ^ a b c d 『後漢書』南匈奴列伝
- ^ 『魏書』列伝第九十、『北史』列伝第八十五
- ^ 沢田1996 p187
- ^ 『晋書』劉元海載記・劉聡載記・劉曜載記・石勒載記上・石勒載記下・石季龍載記上・石季龍載記下
- ^ 『魏書』帝紀第一・列伝第十一・列伝第七十一上、列伝第八十三『晋書』赫連勃勃載記
- ^ 『最後の遊牧帝国』(講談社選書メチエ、1995年)
- ^ 沢田 1996
- ^ a b c d e f 林 2007
- ^ 『匈奴史稿』
- ^ 岩村 2007,p39
- ^ G.エージェン『흉노 귀족계층 무덤의 연구』
- ^ 小松 2005,p52
- ^ 内田吟風『北アジア史研究 匈奴篇』において、踝(くるぶし)を押しつぶす刑であったとしている。
- ^ 沢田 1996,p98
- ^ H.W.Haussing(1953年)や内田吟風(1956年)によると、「単于」の原音は「tarγü」に近いものであったと推考される。また、完称である「撐犁孤塗単于」について、“撐犁”はテュルク語、モンゴル語の「tengri:天」、“孤塗”はツングース語の「guto:子」あるいはエニセイ語の「(bi)kjai」に相当するとされる。意味は『漢書』匈奴伝に「匈奴、天を云いて撐犁となし、子を云いて孤塗となす。単于は広大の貌なり」とある。
- ^ 白鳥庫吉(1941年)は屠耆をモンゴル語の「čige:正直」、トルコ語コイバル方言の「sagastex:賢」に比定し、B.Munkacsi(1903年)はモンゴル語の「čečen, seseŋ:賢」に比定した。《『騎馬民族史1』p13 注22》
- ^ 白鳥庫吉(1941年)はモンゴル語の「khutuk」、トルコ語の「kut, kutluk:威厳神聖」に比定し、P. Boodberg(1936年)は、この官が単于族の姻族に占められていることより、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」が付いたものと解し、L. Bazin(1950年)は「幸福をもたらす者」の義を有する古モンゴル語「qurtulγu」であると想定した。《『騎馬民族史1』p10 注17、p13 注21》
- ^ 『漢書』匈奴伝
- ^ 『史記』匈奴列伝、『漢書』匈奴伝
参考文献
- 『史記』(秦本紀、秦始皇本紀、高祖本紀、匈奴列伝)
- 『漢書』(匈奴伝)
- 『後漢書』(南匈奴列伝)
- 『晋書』(劉元海載記、四夷伝)
※以上は中央研究院 漢籍電子文獻を参照。 - 内田吟風、田村実造他訳注『騎馬民族史1 正史北狄伝』(平凡社東洋文庫、1971年)
- 内田吟風『北アジア史研究 匈奴篇』(同朋舎〈東洋史研究叢刊〉、1975年、ISBN 481040627X)
- 沢田勲『匈奴-古代遊牧国家の興亡』(東方書店〈東方選書〉、1996年、ISBN 4497965066)
- 小松久男編『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
- 岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』(講談社学術文庫、2007年、ISBN 9784061598034)
- 林俊雄『興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明』(講談社、2007年、ISBN 9784062807029)
- 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(講談社、2007年、ISBN 9784062807050)