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- 満州国
- 滿洲國
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→(国旗) (国章) - 国の標語: 五族協和の王道楽土
- 国歌: 満州国国歌[1]
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公用語 満語[2]、モンゴル語、日本語、ロシア語 首都 長春[3](1932年3月1日 - 1932年3月14日)
新京[4](1932年3月14日 - 1945年8月9日)
通化[5](1945年8月9日 - 1945年8月18日)-
満州国執政(1932年 - 1934年)
満州国皇帝(1934年 - 1945年) -
1932年 - 1934年 愛新覚羅溥儀 1934年 - 1945年 康徳帝 - 国務院総理(1932年 - 1934年)
国務総理大臣(1934年 - 1945年) -
1932年 - 1935年 鄭孝胥 1935年 - 1945年 張景恵 - 面積
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1,133,437km² 1933年 1,191,000km² - 人口
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1933年 33,697,920人 1937年 36,933,206人 1942年10月1日[6] 44,242,000人 - 変遷
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建国宣言 1932年3月1日 皇帝即位・帝制実施 1934年3月1日 皇帝退位宣言 1945年8月18日
通貨 圓[7] 時間帯 UTC +9[8] 現在 中華人民共和国
(中国東北部)
満州国(まんしゅうこく、旧字体:滿洲國、拼音: )は、1932年(大同元年[1])から1945年(康徳12年)の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる。
帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」(だいまんしゅうていこく)あるいは「満州帝国(滿洲帝國)」(まんしゅうていこく)などと呼ばれていた。日本(朝鮮、関東州)および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。
概要
清が領有していた満州と呼ばれる地域のうち、外満洲はアイグン条約及び北京条約でロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順・大連は日露戦争までは旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、戦後はポーツマス条約により日本の租借地となっていた。さらに内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、日露戦争以前には義和団の乱の際に進駐して来たロシア帝国陸軍が鉄道附属地を中心に展開し、日露戦争後は長春(寛城子)以北の北満洲にロシア陸軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本陸軍が南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。
清朝は満州族の故地満州に当たる東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907年)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも袁世凱の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。
1912年の清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督趙爾巽も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、趙爾巽の部下だった張作霖が日本の後押しもあって台頭し、奉天軍閥を形成し、満洲を実効支配下に置くようになった。
また日本は1922年(大正11年)の支那ニ関スル九国条約第1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。北伐により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満州に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される(張作霖爆殺事件)と、後を継いだ息子の張学良は、1928年(昭和3年)12月29日に奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順(易幟)させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。
1929年、日本は国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。
1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国建国に至った。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。
満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。
満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と南満州鉄道の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた[2]。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。
しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国などの第二次世界大戦の日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸陣営寄りの中立国や、エルサルバドルやポーランド、コスタリカなどの後の連合国の構成国も満洲国を承認した。さらに国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置した[3]。またイギリスやアメリカ合衆国、フランスなど国交を樹立していなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。
第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を破った赤軍(ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の日本の降伏により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後国共内戦で中国国民党と中国共産党が争奪戦を行い、最終的に1949年に建国された中華人民共和国の領土となっている。
日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満州」という修飾と共に呼称する。また、満洲国を、日本や関東軍の傀儡国家とみなす立場があり[4]、山室信一、加藤陽子、並木頼寿のような日本の研究者もいる[5]。一方で新渡戸稲造は在米中の1932年(昭和7年)8月20日、CBSラジオでスティムソンドクトリンに反論する形で「満州事変と不戦条約」について言明しており、「満州事変は自己防衛の手段としてなされたものであって侵略ではなく、満州国は一般に考えられているように日本の傀儡政権ではない」と表明している[6]。
中華民国(台湾)政府および中華人民共和国政府は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、「偽満」「偽満洲国」と表記する[7]。同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北部」と呼称している。
国名
1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。この国号は、1934年(康徳元年)3月1日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用された[8]。帝制実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定められた[9]。
歴史
満洲の歴史 | |||||||||||||
箕子朝鮮 | 東胡 | 濊貊 沃沮 |
粛慎 | ||||||||||
燕 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
秦 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
前漢 | 遼西郡 | 遼東郡 | 衛氏朝鮮 | 匈奴 | |||||||||
漢四郡 | 夫余 | ||||||||||||
後漢 | 遼西郡 | 烏桓 | 鮮卑 | 挹婁 | |||||||||
遼東郡 | 高句麗 | ||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
魏 | 昌黎郡 | 公孫度 | |||||||||||
遼東郡 | |||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
西晋 | 平州 | ||||||||||||
慕容部 | 宇文部 | ||||||||||||
前燕 | 平州 | ||||||||||||
前秦 | 平州 | ||||||||||||
後燕 | 平州 | ||||||||||||
北燕 | |||||||||||||
北魏 | 営州 | 契丹 | 庫莫奚 | 室韋 | |||||||||
東魏 | 営州 | 勿吉 | |||||||||||
北斉 | 営州 | ||||||||||||
北周 | 営州 | ||||||||||||
隋 | 柳城郡 | 靺鞨 | |||||||||||
燕郡 | |||||||||||||
遼西郡 | |||||||||||||
唐 | 営州 | 松漠都督府 | 饒楽都督府 | 室韋都督府 | 安東都護府 | 渤海国 | 黒水都督府 | 靺鞨 | |||||
五代十国 | 営州 | 契丹 | 渤海国 | 靺鞨 | |||||||||
遼 | 上京道 | 東丹 | 女真 | ||||||||||
中京道 | 定安 | ||||||||||||
東京道 | |||||||||||||
金 | 東京路 | ||||||||||||
上京路 | |||||||||||||
東遼 | 大真国 | ||||||||||||
元 | 遼陽行省 | ||||||||||||
明 | 遼東都司 | 奴児干都指揮使司 | |||||||||||
建州女真 | 海西女真 | 野人女真 | |||||||||||
清 | 満洲 | ||||||||||||
東三省 |
ロマノフ朝 (沿海州/緑ウクライナ/江東六十四屯) | ||||||||||||
中華民国 (東三省) |
極東共和国 ソ連 (極東) | ||||||||||||
満洲国 | |||||||||||||
ソ連占領下の満洲 | |||||||||||||
中華人民共和国 (中国東北部) |
ロシア連邦 (極東連邦管区/極東ロシア) |
北朝鮮 (薪島郡) | |||||||||||
中国朝鮮関係史 | |||||||||||||
Portal:中国 |
満洲地方には、ツングース系、モンゴル系、扶余系など多くの国や民族が勃興し、あるいは漢民族王朝が一部を支配下に置いたり撤退したりしていた。土着民族として濊貊・粛慎・東胡・挹婁・夫余・勿吉・靺鞨・女真などが知られるが、その来歴や相互関係については不明な点が多い。満洲南部から朝鮮半島の一部にかけては遼東郡、遼西郡が置かれるなど、中華王朝の支配下にあった時期が長い。土着系とされる民族による国家としては、高句麗、渤海、金、後金などが知られる[10]。モンゴル系とされる鮮卑族による前燕などや契丹族による遼が支配した事もある。チベット系の氐族の立てた前秦の支配が及んだ事もある。12世紀以降、金、元、明、清と、首都を中国本土に置く、あるいは移した王朝による支配が続いていた。女真族(後の満洲民族)の建てた王朝として、金や後金(後の清)が成立した。
清朝末期から満州事変まで
清朝の中国支配の後、満洲族の中国本土への移出が続き満洲の空洞化が始まった。当初清朝は漢人の移入によって空洞化を埋めるべく1644年(順治元年)より一連の遼東招民開墾政策を実施した[11]。この開墾策は1668年(康熙7年)に停止され、1740年(乾隆5年)には、満洲はアイシン国(満洲語aisin gurun, 金国)創業の地として本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満洲の地は「ほぼ空白地」[12]と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満洲地域には無数の移民が流入しはじめた。chen[13]の試算によれば1851年に320万人の満洲人口は1900年には1239万人に増加した[12]。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満洲地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。内モンゴル(奉天から哈爾濱・北安に至る満州鉄道沿線の西側)については蒙地と呼ばれモンゴルの行政区画である「旗」の地域があり、清朝の時代は封禁政策により牧地の開墾は禁止されていたが実際は各地域で開墾が行われ(蒙地開放)「県」がおかれていた。これらの地域は「旗」からは押租銀や蒙租を、「県」からは税を課され、蒙租は旗と国とが分配していた。また土地の所有権(業主権)は入植者になく永佃権や永租権が与えられ開放蒙地の所有権はモンゴル人王公・旗に帰属するとされていた[14]。これらの地域ではモンゴル人と入植した漢人との間でしばしば民族対立が生じており、1891年の金丹道暴動事件では内モンゴルのジョソト盟地域に入植した漢人の秘密結社が武装し現住モンゴル人に対して虐殺をおこなっていた。その後、秘密結社が葉志超により鎮圧されたが、入植した漢人に対して復讐事件が生じていた[15]。
清朝はアヘン戦争後の1843年に締結された虎門寨追加条約により領事裁判権を含む治外法権を受け入れることになった。
ロシア帝国もまたアロー戦争後の1858年に天津条約を締結して同等の権利を獲得することに成功し、1860年の北京条約でアムール川左岸および沿海州の領有権を確定させていた。
日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期の1823年、経世家の佐藤信淵が満洲領有を説き[16]、幕末の尊皇攘夷家の吉田松陰も似た主張をした[17]。明治維新後の日本は1871年(明治4年)の日清修好条規において清国と対等な国交条約を締結した。さらに日清戦争後の下関条約及び日清通商航海条約により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得た。
ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順(港)大連(湾)租借に関する条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得した。日本は、すでに外満洲(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなした。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと日英同盟を結んだ。
日露両国は1904年から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は戦勝国となり、南樺太割譲、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招いた。駐日ポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている[18]。
- 清朝から中華民国へ
1911年から1912年にかけての辛亥革命により満洲族による王朝は打倒され(駆除韃虜)、漢民族による共和政体中華民国が成立したが、清朝が領土としていた満洲・モンゴル・トルキスタン・チベットなど周辺地域の政情は不安定となり、1911年にモンゴルは独立を宣言、1913年にはチベット・モンゴル相互承認条約が締約されチベット・モンゴルは相互に独立承認を行った。
満州は中華民国臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、東三省総督の体制、組織をそのまま引き継ぎ、中華民国の統治下に入っている。この中に、東三省総督の趙爾巽の下で、革命派の弾圧で功績を上げた張作霖もいた。
しかし、袁世凱と孫文が対立し、中華民国が分裂、内戦状態に入ると、張作霖が台頭し、奉天軍閥を形成し、日本の後押しも得て、満洲を実効支配下に置いた。
日本は日露戦争後の1905年に日清協約、1909年には間島協約において日清間での権益・国境線問題について重要な取り決めをおこなっていたが、中華民国成立によりこれらを含む過去の条約の継承問題が発生していた。
- 満蒙問題と日中対立
第一次世界大戦に参戦した日本は1914年(大正3年)10月末から11月にかけイギリス軍とともに山東半島の膠州湾租借地を攻略占領し(青島の戦い)その権益処理として対華21カ条要求を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、満蒙問題に関する重要な取り決めがなされ、満洲善後条約や満洲協約、北京議定書・日清追加通商航海条約などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争[19]へ導くこととなる。
1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた連合国は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した(シベリア出兵)。日本はコルチャク政権を支持しボリシェヴィキを攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙は「日本の生命線」と見なされるようになった。とくに1917年及び1919年のカラハン宣言は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、孫文をはじめとした中華民国政府を急速に親ソビエト化させ、あるいは1920年には上海に社会共産党が設立され、のち1921年の中国共産党第一次全国代表大会につながった。第一次国共合作により北伐を成功させた蒋介石の南京国民政府は、1928年7月19日に一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び条約上の特殊権益は重大な危機に晒されることになった。
満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。清末の袁世凱は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した1919年の寛城子事件(長春事件)では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。
さらに中国内地では蒋介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況のなか1920年3月には、外満洲のニコラエフスク(尼港)で赤軍によって日本軍守備隊の殲滅と居留民が虐殺される尼港事件が起き、満洲が赤化されていくことについての警戒感が強まった。1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって万里の長城以東の全満洲を中国国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。
- 満洲事変
1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民革命軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、張作霖を殺害した(張作霖爆殺事件)。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となってしまい、張作霖の跡を継いだ張学良は日本の関与に抵抗し楊宇霆ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。
日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。
満州国の誕生
柳条湖事件発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満洲領有計画は陸軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。
翌1932年2月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。
1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。
その後、1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号は康徳に改元[20])。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。
- 満洲国をめぐる国際関係
一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。1932年3月から6月まで日本、中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年10月2日に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には完全に支那の一部分なるも」[21]とし、満州国政権を「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」[22]とし、「満州に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」[23]と指摘した。その上で満州地域自体には「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」[24]と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に中国主権下の満州国とは異なる自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。
同年9月15日に斎藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。
リットン報告書をもとに連盟理事会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」を作成し、1933年2月24日には国際連盟総会で同意確認の投票が行われた。この結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項[25]および6項[26]についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。
隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく[27]、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935年にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。 国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、張鼓峰事件などの軍事衝突が起きている。
モンゴル人民共和国との間にも国境に関して認識の相違があり、ノモンハン事件などの紛争が起きていた。
1941年4月13日、日ソ間の領土領域の不可侵を約した日ソ中立条約締結に伴い、日本のモンゴル人民共和国への及びソ連の満洲国への領土保全と不可侵を約す共同声明が出された[3]。
第二次世界大戦
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに英米仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を実施させた。このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が日本軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった。
日本の敗色が濃くなった1944年の後半に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国のイギリス軍基地内に展開したアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。
1945年2月11日にソ連、アメリカ、イギリスはヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ返還、北満鉄路・南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の租借地とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した[28]。なおこの頃満州国の駐日本大使館は、東京の麻布町から神奈川県箱根に疎開する。
1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国で連合国との戦いを続けることになる。太平洋戦線では3月には硫黄島が、6月には沖縄が連合国の手に落ち、イギリス軍やアメリカ軍機による本土への攻撃が行われるなど、日本の敗戦は時間の問題となっていた。
- ソ連の侵攻
1945年6月、日本は終戦工作の一環として、満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にソ連はヤルタ会談での秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦を決定していたため、日本の提案を取り上げなかった[29]。
8月8日、ソ連は1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。ソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は防衛法(1938年4月1日施行)を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。
一方、満洲国を防衛する日本の関東軍は、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は8月10日、憲兵の護衛付き特別列車で脱出したため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果彼らは武器も持たないまま置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。
ソ連軍は軍紀が乱れ、赤軍将兵により日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発した。8月14日には葛根廟事件が起こった[30][31]。ソ連軍により、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。
一方ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。
滅亡
皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。
2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した[32]。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。
8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。
その後の満洲地域
- 日本兵と日本人入植者
戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性が収容され、65万人以上が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留によって、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれる。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺された通化事件も発生した。
また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。
- ソ連軍政下
満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続き、撫順市や長春市などには八路軍が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた(東北問題)。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。
- 中華民国
1946年5月にはソ連軍は撤退し、満洲は蒋介石率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。しかしその後国共内戦が再開され、中華民国軍は、人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転した。
- 中華人民共和国
1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の人民解放軍が満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。
旧満州国軍興安軍である東モンゴル自治政府自治軍はウランフによって人民解放軍に編入され、チベット侵攻などに投入された[33]。
1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満州国領だった東モンゴル地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人たちは内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)[34][35]。ソ連軍から引き渡された満州国関係者の多くは撫順戦犯管理所で中国共産党の思想改造を受けたが、毛沢東によって元満州国皇帝の溥儀はロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連より優越している中国共産党の証左として政治利用されることとなった[36]。溥儀は釈放後、満州族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
地理
主な都市
行政区分
- 上記の括弧内に記載した省・自治区はこれらの満洲の省が属する現在の中華人民共和国の行政区分である。
人口
1908年の時点で満洲の人口は1583万人だったが、満洲国が建国された1932年10月1日には2928万8千人になっていた[37]。人口比率としては女性100に対して男性123〜125の割合で、1942年10月1日には人口は4424万2千人にまで増加していた[38]。移民国家としての側面もあり、内地からの日本本土人以外でも、隣接する外地の朝鮮からの移住者が増加した[39]他、台湾人も5000人移り住んだ。
国務院総務庁と治安部警務司の統計では1940年(康徳7年)10月1日の満洲国の人口は4108万0907人、男女比は120:100[40]。国務院国勢調査では[41]、同時期の満洲国の人口は4323万3954人、男女比は123.8:100であった[40]。統計に開きがあるのは、警察戸口調査においては現住人口調査主義[42]を、臨時国勢調査においては現在人口調査主義[43]を採用したことによる[44]。
人口の構成としては、
全人口 | 全人口に占める割合 | |
---|---|---|
満洲人(漢族、満洲族) | 38,885,562人 | 94.65% |
日本人 | 2,128,582人 | 5.18% |
その他外国人(白系ロシア人を含む) | 66,783人 | 0.16% |
上記の「日本人」の中には、130万9千人の朝鮮人を含む。台湾人は朝鮮人に含まれている[40]。
主要都市の人口は下記のとおり[40]。
都市名 | 全人口 | その内の日本人の人口 | データ |
---|---|---|---|
奉天 | 1,003,716人 | 170,580人 | 1940年 |
哈爾浜 | 558,829人 | 51,650人 | 1940年 |
新京 | 490,253人 | 129,321人 | 1940年 |
大連 | 338,872人 | 84,794人 | 1938年 |
安東 | 246,129人 | 43,358人 | 1940年 |
営口 | 176,917人 | 8,320人 | 1940年 |
吉林 | 145,035人 | 17,941人 | 1940年 |
斉斉哈爾 | 118,708人 | 14,290人 | 1940年 |
国籍法の不存在
満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、満洲国籍を有する者の範囲は法令上明確にされず、慣習法により定まっているものとする学説が有力であった[45][46]。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の統治下にあった朝鮮人を日本国民として内地人と同等に扱っていた朝鮮政策との整合性の問題や、白系ロシア人の帰化問題などがあった[46]。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。日本人が満州国で出生した場合には国籍が不明確になるが、満州国の特命全権大使にその旨を届け出て、大使が内地の本籍地にそれを回送することで日本人として内地の戸籍に登録された。
日本人・満蒙開拓移民の人口
1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の満洲には59万人の日本人(朝鮮・台湾籍を含む)が居住し、うち10万人は農民だった。営口では人口の25%が日本人だったという。
満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓団」と称する満蒙開拓移民を募集した。さらに日本政府は1936年(昭和11年)から1956年(昭和31年)の間に、500万人の日本人の移住を計画していた。結局は、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾での日本の降伏により満州国は消滅したために、この計画は頓挫に終わった。1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)の間には20万人の農業青年を、1936年(昭和11年)には2万人の家族移住者を送り込んだ。
しかし、内地からの移住計画はきわめて低調で満洲への移住者の過半が朝鮮籍日本人であり、内地から満洲に移住した家族の大半は軍関係者あるいは南満洲鉄道および附属企業関係者とその家族であった。満洲で逐次開設されていった小学校の日本人教員の募集は内地の給与の7割から17割5分増しで募集された[47]。
終戦時、ソ連対日参戦によりソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、85万人の日本人移住者を抑留している。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人々は1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて段階的に連合国軍占領下の日本に送還されている。
朝鮮人移住者
建国当時日本領であった朝鮮半島から多くの朝鮮籍日本人が満洲国へ移住した。水商売や小規模商店などの事業を行うものも多かった。しかし現地の住民たちの反感を買う事例もあったという[39]。
1934年(昭和9年)10月30日、岡田内閣(岡田啓介首相)は朝鮮人の内地への移入(在日韓国・朝鮮人)によって失業率や治安の悪化が進んでいる日本本土を守ろうと、朝鮮人が満洲に向かうよう満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している[48]。
ユダヤ人自治州
満洲事変以前からヨーロッパにおけるユダヤ人問題に関心を持ち始めていた日本政府は、満洲国内におけるユダヤ教徒によるユダヤ人自治州を企図し、反ユダヤ政策を推進していたナチス・ドイツ政府に対し、その受け入れを打診していた(河豚計画)。
しかしその後、日中戦争(支那事変)に突入したことなどにより、日満両政府が本格的に遂行することはなく、第二次世界大戦前夜のナチス・ドイツやソビエト連邦による反ユダヤ人政策を嫌悪し、満洲国経由でアメリカ合衆国や南米諸国に亡命しようとしたユダヤ人のうち少数が満洲国に移住したにとどまった。
国家体制
国旗・国歌
政治
満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされた。共和制国家であるアメリカ合衆国をモデルとするとしていたものの、皇帝を国家元首とする立憲君主制国家である。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。
その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織(ロシアファシスト党)を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。
満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援の下、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。
国家機関
満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。
国務院には総務庁が設置され、官制上は国務院総理の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。
元首
元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)3月1日の帝位継承法制定以後は溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。
帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している。
国民
満州国は瓦解に至るまで国籍法を定めず、法的な国民の規定はなされなかった。結果、移民や官僚も含めた満州居住の日本人は日本国籍を有したままであり、敗戦後、法的な障害無しに日本へ引き揚げる事が出来た。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。
行政
1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。
しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長官や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。
公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かった。これらの日本内地人は日本国籍を有したままである。俸給、税率面でも日本人が優遇された。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。これに対し、石原莞爾は強く批難していた。しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど[49]、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。しかし、これも日本に従順である事が前提で、初代総理の鄭孝胥も関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれている。
地方首長は建国当初は現地有力者が任命される事が多かったが、これも次第に日本人に置き換えられていった。
以上の事実に鑑み、日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価[50]がされることが多い。
選挙・政党
憲法に相当する組織法には、一院制議会であるとして立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、満洲国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、実質的に民意を汲み取る機関として期待された。
法制度
憲法に相当する組織法や人権保障法を始めとして、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察機構が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。
標準時
満州国版図では日露中の支配域ごとに異なる標準時が用いられていたが、満州国は東経120度を子午線とし、+8:00を標準時として統一した。1937年1月1日に日本に合わせて+9:00に変更された[51]。変更後の子午線は東経135度となり、満州国内を通っていない。
外交
正式な外交関係を結んでいた諸国
第二次世界大戦開戦前、エチオピア侵略で経済制裁を受け国際連盟を脱退したイタリア(1937年12月承認[52])や再軍備でベルサイユ条約を破棄し連盟を脱退したドイツ(1938年2月承認[53][54])が承認した。さらに第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国、タイ王国などの日本の同盟国、クロアチアやスペインなどの枢軸国の友好国、ドイツの占領下にあったデンマークなど、合計20か国が満洲国を承認した。1939年(昭和14年)当時の世界の独立国は60か国未満であった。ただし、フィリピン、ビルマ、中華民国(汪兆銘政権)、蒙古聯合自治政府、自由インド仮政府は日本の占領下で樹立された政権である。また、スロバキア共和国、クロアチア独立国もドイツの影響下で樹立され、従属国、傀儡国と見なされている。ルーマニアはファシスト政権であり、ハンガリー、ブルガリアは領土拡大を図りドイツと協力関係にあった。
- 日本(枢[55]) - 1932年(大同元年)9月15日、日満議定書によって承認
- ドイツ国(枢) - 1938年(康徳5年)5月12日、満独修好条約締結
- イタリア王国(枢) - 後に日満伊貿易協定を締結
- エルサルバドル(連)- 1934年(康徳元年)3月3日、日本に続いて2番目の承認国[56]
- コスタリカ(連)- エルサルバドルと同時に承認[57]
- 中華民国(南京国民政府)(枢) - 1940年(康徳7年)11月30日の日満華共同宣言によって相互承認
- タイ(枢)
- ビルマ国(枢)
- フィリピン(枢)
- 蒙古聯合自治政府(枢)
- スペイン
- ポーランド(連)。ポーランドについては1938年10月19日交換公文により相互に最恵国待遇を承認し、満洲国からは事実上の国家承認とみなされていた[58]
- 自由インド仮政府(枢)
- クロアチア独立国(枢)
- ハンガリー王国(枢)
- スロバキア共和国(枢)
- ルーマニア王国(枢)
- ブルガリア王国(枢)
- デンマーク(ドイツ占領下)
- フィンランド(枢)
満洲国は上記の国のうち、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた[59]。東京に置かれていた満洲国大使館は麻布区桜田町50(現在の港区元麻布)にあり、ここは日本国と中華民国との間の平和条約の締結後に中華民国大使館となり、日中国交正常化後に中華人民共和国大使館に代わった[60]。
外交上の交渉接点があった諸国
満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。奉天とハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の総領事館が設置されていた。
ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交があり、イタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した[58]。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタとブラゴヴェシチェンスク[61]に満洲国の領事館設置を認めた[27]。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道讓渡協定により北満鉄道(東清鉄道から改称)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。
また、満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国やエストニア、リトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。このほか、バチカン(ローマ教皇庁)は、教皇使節(Apostolic delegate)を満洲国に派遣していた[62]。
外交活動
国交を樹立した国に外交使節を派遣したほか、経済部大臣の韓雲階を団長にした「満洲帝国修好経済使節団」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国を訪問し、ピウス12世やベニート・ムッソリーニ、アドルフ・ヒトラーらと会談している。また1943年(康徳10年)に東京で開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加し、タイや自由インドなど各国の指導者と会談している[63]。
1941年(康徳8年)にはハンガリーやスペインとともに防共協定に加わっている。一方、満洲国は日独伊三国同盟には加盟しておらず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すほか、軍の主導権を握る位置に日本人が多数送られていた上に、軍備の多くが日本から提供もしくは貸与されているなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる。
軍事
満洲国の国軍は、1932年(大同元年)4月15日公布の陸海軍条例(大同元年4月15日軍令第1号)をもって成立した。日満議定書によって日本軍(関東軍)の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、軍隊というより関東軍の後方支援部隊、準軍事組織や国境警備隊としての性格が強かった。
後年、太平洋戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。
経済
政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。
三井財閥や三菱財閥の財閥系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業であるテレフンケンやボッシュおよびフィアットも進出していた。なお、日産コンツェルンは1937年(康徳4年)に持株会社の日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発(満業)を設立している。さらに国交のないアメリカの大企業であるフォード・モーターやゼネラルモーターズおよびクライスラーやゼネラル・エレクトリック等、イギリスの香港上海銀行なども進出し、1941年7月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けた。
通貨
法定通貨は満州中央銀行が発行した満州国圓(圓、yuan)で、1圓=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、同じく法幣の意味をもつ満洲国の通貨は「国幣」と表記して区別した。中華民国の銀圓・法幣(及び現在の人民元、台湾元、香港元)と同様、漢字で「元」と表記したが、満洲国内の貨幣法では、日本国と同様に「圓」(円)の表記が採用された。
貨幣法(教令第25号)の公布は、満州国が成立した同年(1932年)6月11日である。 金解禁が世界的な流れとなる中で日本では金解禁が行われていたが、通貨は中華民国と同じく銀本位制でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた銀元通貨)と等価とされたが、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)11月4日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側の銀行券は回収され、国幣に統一された。
満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に中華民国中央銀行が発行した東北九省流通券(東北流通券)に交換され、流通停止となった。
満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。
こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)11月4日の満洲国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。
貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。
郵政事業
中華郵政が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。
同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手[64]も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。
1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。
満洲国で最後の発行となった郵便切手は、1945年5月2日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。
アヘン栽培
日本は内地及び朝鮮を除いてアヘン(阿片)専売制と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもアヘン栽培は実施されていた。名目上はモルヒネ原料としての薬事処方方原料の栽培だが、これらアヘン栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。
1932年(大同元年)に阿片法(大同元年11月30日教令第111號)が制定され、アヘンの吸食が禁止された。ただし未成年者以外のアヘン中毒者で治療上必要がある場合は、管轄警察署長の発給した証明書を携帯した上で政府の許可を受けた阿片小売人から購入することができた。
交通・通信
鉄道
日本の半官半民の国策会社・南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した東清鉄道南満州支線を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、フラッグ・キャリアの満洲航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。
新京〜大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」の運行など、主に日本から導入された南満洲鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。
一方、満洲国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満洲国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて国有化され、満洲国有鉄道となった。しかし満洲国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満洲国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。新規に建設された鉄道路線、1935年にソビエト連邦との交渉の末に満洲国に売却された北満鉄路(東清鉄道)など私鉄の接収・買収路線も全て満洲国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は朝鮮半島の朝鮮総督府鉄道のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満洲国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。
満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、沿線各駅一帯に広大な南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)を抱えていた。満鉄附属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地だった。都市在住の日本人の多くは満鉄附属地に住み、日本企業も満鉄附属地を拠点として治外法権の特権を享受し続け、満洲国の自立を阻害する結果となったため、1937年に満鉄附属地の行政権は満洲国へ返還された。
満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満洲国鉄の路線となったものや、満洲国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。以下に満洲国が存在した時期に一貫して私鉄であったものを挙げる(※印は補償買収後に廃止になった路線)。
1940年前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満洲国崩壊に遭って建設中止となり、未成線になっている。
この他、首都・新京を始めとして奉天・哈爾濱など主要都市の市内には路面電車が敷設されていた。新京及び奉天では地下鉄建設計画もあったが、実現しなかった[65][66]。
航空
1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたフラッグ・キャリアの満洲航空が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。
中島AT-2やユンカースJu 86、ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国製旅客機の他にも、自社製の満洲航空MT-1や、ライセンス生産したフォッカー スーパーユニバーサルなどで満洲国内の主都市を結んだ他、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である国際航空を設立した。
満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。
通信・放送
電話・ファックスなどの通信業務やラジオ放送業務も、1933年に設立された満洲電信電話(MTT)に統合された。放送局はハルビン、新京、瀋陽などに置かれており[67]、ロシア人を中心に作られたハルビン交響楽団、後に日本人を中心に作られた新京交響楽団による音楽演奏も毎週これら放送局だけでなく、日本租借地にある大連放送局へも中継された。聴取者から聴取料を徴収していたが、内地に先駆けて広告も扱っており、また海外へ外国語による放送も行われていた[68]。
言語
「満語」と称された標準中国語と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で日本語が教授言語とされた。モンゴル語、ロシア語などを母語とする住民も存在した。また、簡易的な日本語として協和語もあった。
大本の教祖である出口王仁三郎は布教活動の一環としてエスペラントの普及活動も行っていたが、満州国の建国に際し、信奉者である石原莞爾の協力を得てエスペラントを普及させる計画があったが実現しなかった。
教育
高等教育機関については 満州国・関東州の高等教育機関を参照。
満洲国の教育の根本は、儒教であった[69]。教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。
最高学府として建国大学の他、国立大学の大同学院、ハルピン学院などが設置された。
小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4年+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。教科書は、建国以前に用いられていた三民主義教科書に代わってあらたに国定教科書が編纂された。僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。
中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。
師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った[70]。ほか実業教育機関として職業学校があった。
文化
映画
1928年に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937年に設立された国策映画会社である「満洲映画協会」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。
漫画
田河水泡の当時の人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜のため、大陸建設の夢のため、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。
序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満洲生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していたところの「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。
雑誌
新京の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。
服装
多民族国家・満洲国では、各民族の衣装が混在していた。初代国務院総理の鄭孝胥は、生涯中国服を通したといわれる。
一方、後任の張景恵は、「協和(会)服」と呼ばれる満洲国協和会の公式服を着用することが多かった。国民服に似たデザインと色だが、国民服より先に考案された。階層によって材質・デザインに違いがあったとされるが、上は国務総理大臣から下は一般学生まで、民族を問わず広く着用され、石原莞爾や甘粕正彦のような日本人の軍人・官僚・有力者も着用した。協和服には、飾緒のような金モールと、満洲国国旗と同じ色をした五色の房の儀礼章が付属した。ループタイのように首からかけて玉留めで締め、左胸に房を引っかける形で佩用する。慶事には房の赤と白、弔事には黒と白の部分を強調することで対応した[71]。
なお、宮廷行事等では、日本の大礼服と同様のものが用いられた。
スポーツ
1932年に満洲国体育協会が設立された。満洲国の国技はサッカーであり[72]、満洲国蹴球協会やサッカー満洲国代表チームも結成されている。野球でも、日本の都市対抗野球大会に参加したチームがあり、日本プロ野球初の海外公式戦として、1940年に夏季リーグ戦を丸々使って満洲リーグ戦が行われている。
建国当初の満洲国ではオリンピックへの参加も計画されており、1932年5月21日に満洲国体育協会はロサンゼルスオリンピック(1932年7月開催)への選手派遣を同オリンピックの組織委員会に対して正式に申し込んでいるが、結局参加は出来なかった[73]。ちなみに、派遣する選手としては陸上競技短距離走の劉長春や、中距離走の于希渭(謂)などが挙げられていた(ただし劉は満洲国代表としての出場を拒否し、中華民国代表として出場している)[74][75]。
1936年に開催されたベルリンオリンピックへの参加も見送られたが、1940年に開催される予定であった東京オリンピックには選手団を送る予定であった。しかし、日中戦争の激化などを受けて同大会の開催が返上されたため、オリンピックに参加することはできなかった。なおその後、実質的な代替大会である東亜競技大会が開催されている。
音楽
満州国へは多くの日本人音楽家が渡り、西洋音楽の啓蒙活動を行った。満州国建国以前よりこの地には白系ロシア人を中心としたハルビン交響楽団が存在したが、これに加えて日本人を中心に新京交響楽団が結成され、両者は関東軍の後援を受けてコンサートや放送のための演奏を行った。1939年には「新満州音楽の確立及び近代音楽の普及」を目的として新京音楽院が設立された。
園山民平は音楽教育や満州民謡の収集・研究に尽力した他、満州国国歌を作曲した。その他、指揮者の朝比奈隆、作曲家の太田忠、大木正夫、深井史郎、伊福部昭、紙恭輔などの音楽家が日本から短期間招かれ、例えば太田は「牡丹江組曲」、大木は交響詩「蒙古」、深井は交響組曲「大陸の歌」、伊福部は音詩「亜寒帯」、紙は交響詩「ホロンバイル」を作曲した。
崔承喜は1940年代当時、世界的に有名な舞踏家であるが、当時の満州、および中国各地を巡業していた[76]。
祝祭日
国花
満洲国の国花は蘭[77]とされることが多いが、蘭は「皇室の花(ローヤル・フラワー)」であり、日本における菊に相当するものであった。いわゆる「国花(ナショナル・フラワー)」は高粱であり[78]、1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある[79]。
現在
満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。例外的に地名として満洲里がその名をとどめている程度である。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。
満洲国を扱った作品
「Category:満州国を舞台とした作品」を参照。
満洲国生まれの人物
満洲国で出生した日本における人物についてはCategory:満州国出身の人物を参照。
脚注
- ^ 元号は、大同(1932年3月1日 - 1934年3月1日)、康徳(1934年3月1日 - 1945年8月18日)
- ^ 「満洲国指導方針要綱」、昭和8年(1933年)8月8日閣議決定
- ^ a b “日ソ中立条約,声明書”. 日本外交主要文書・年表 (1), 52ページ. 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 (1941年4月13日). 2011年4月5日閲覧。
「大日本帝国政府及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦カ満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス」 - ^ The Puppet State of Manchukuo, Louise, Young (1999). Japan's Total Empire: Manchuria and the Culture of Wartime Imperialism. University of California Press. p. 40. ISBN 9780520219342
- ^ 山室信一『キメラ-満洲国の肖像-』中公新書1138、1993年、p.6。加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』岩波新書1046、2007年、p.i、(並木頼寿 2008, p. 70)
- ^ この点についてはその背景についても福原好喜、「新渡戸と軍国主義」『駒沢大学経済学論集』 2003年 3巻 3-4号 p.1-33, 駒沢大学経済学会
- ^ 姜念東・解学詩ほか『偽満洲国史』(吉林人民出版社、1980年)など
- ^ 同1934年(康徳元年)3月1日施行された組織法第1条に「満洲帝国ハ皇帝之ヲ統治ス」(『政府公報日譯』による)。
- ^ 1934年(康徳元年)4月6日の外交部佈告第5号
- ^ なおこの点については学術的に議論があり、また現代における国際政治的焦点でもある。詳しくは中国朝鮮関係史及び東北工程を参照
- ^ 小林秀夫「〈満州〉の歴史」講談社現代新書
- ^ a b 荒武達朗、「論文 1870-90年代北満州における辺境貿易と漢民族の移住」『アジア経済』 2005年8月 46巻 8号 p.2-21, 日本貿易振興機構アジア経済研究所
- ^ Chen Nai-Ruenn1970 "Labor Absorption in a Newly Settled Agricultural Region:The Case of Manchuria"Economic Essays(国立台湾大学経済学研究所経済論文叢刊)、直接の引用は荒武2005.8
- ^ 広川佐保、「満州国における「蒙地奉上」について」『アジア経済』 2002年 43巻 8号 p.2-23, 日本貿易振興会アジア経済研究所
- ^ 同事件の根底にはモンゴル人と移住者である漢人との間の土地を巡る争いがあったとされる。モンゴル人や旗の王府は襲撃を受け、モンゴル人は数十万規模でジェリム盟やジョーオダ盟北部に避難移住した。娜荷芽、「清末における「教育興蒙」について : 内モンゴル東部を中心に」『アジア地域文化研究』 2011年 7巻 p.61-81, 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究会
- ^ 1823年(文政6年)に著した『混同秘策』「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし。」
- ^ 『幽囚録』にて「北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」
- ^ ヴェンセスラウ・デ・モラエス『日本通信』 京都外国語大学付属図書館
- ^ モーゲンソー日記によれば、ルーズベルト大統領は「結局、イタリアと日本が宣戦布告せず交戦する技術を進化させてきたとすれば、なぜ我々は同様の技術を開発できないのか」と語ったとされる。高橋文雄、「経済封鎖からみた太平洋戦争開戦の経緯」『戦史研究年報』 2011年 14巻 p.27-56, 防衛省防衛研究所
- ^ 当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更
- ^ リットン報告書9章「問題の複雑性」『右地域ハ法律的ニハ完全ニ支那ノ一部分ナルモ其ノ地方政権ハ本紛争ノ根底ヲナス事項ニ関シ日本ト直接交渉ヲナス程度ノ広範ナル自治的性質ノモノナリキ』
- ^ リットン報告書6章「満州国」第1節「新国家建設の階段」
- ^ リットン報告書9章「問題の複雑性」『前二章ニ述ヘタル所ニ鑑ミ満州ニ於ケル現政権ノ維持及承認モ均シク不満足ナルヘシ。斯ル解決ハ現行国際義務ノ根本的原則若ハ極東平和ノ基礎タルヘキ両国間ノ良好ナル了解ト両立スルモノト認メラレス。』
- ^ リットン報告書9章「問題の複雑性」
- ^ 紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ
- ^ 聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)
- ^ a b 森島守人 1984, p. 86.
- ^ 『ヤルタ協定』米国国務省、1945年2月11日 。
- ^ 塚瀬進 1998, p. 147.
- ^ 秦郁彦「日本開拓民と葛根廟の惨劇 (満州)」秦郁彦・佐瀬昌盛・常石敬一編『世界戦争犯罪事典』文藝春秋、2002年8月10日 第1刷、ISBN 4-16-358560-5、260~261頁。
- ^ 坂部晶子「開拓民の受難」貴志俊彦・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、二〇一二年 (平成二十四年) 十二月十日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-01469-4、543頁。
- ^ 児島襄 1983, 3巻、p283-292.
- ^ 楊海英 (2014年11月15日), チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史, 文芸春秋
- ^ 楊海英『墓標なき草原 : 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』岩波書店、2009年。ISBN 9784000247719。
- ^ モンゴル自由連盟党とは? モンゴル自由連盟党
- ^ Behr, Edward (1987). The Last Emperor. Toronto: Futura. p. 283-285
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- ^ 住民台帳を利用して人口を算出したもの
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- ^ 『満洲帝国現住人口統計(職業別編)』凡例、1942年(康徳9年)
- ^ 山室信一『キメラ』p.298
- ^ a b 遠藤正敬「満洲国草創期における国籍創設問題」早稻田政治經濟學誌No.369,2007年 10月,pp143-161
- ^ 「満州国小学校教員募集ニ関スル件」昭和13年(1938年)1月14日秋田県学務部長通牒。逸見勝亮、「師範学校「特別学級」について」『北海道大學教育學部紀要』 1978年11月 35巻 p.105-121, hdl:2115/29186, 北海道大學教育學部
- ^ 「朝鮮人移住対策ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A03023591400 (1934年10月30日)
- ^ 権逸
- ^ 「(関東憲兵隊は)民族共和どころか民族間の反目、離間をはかることを統治手段とみていたことがうかがえる」(山室信一『キメラ—満洲国の肖像』中公新書1138、1993年、p.282)、菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』(講談社、2005年、p.313)、宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』(PHP新書387、2006年、p.220)。
- ^ 「内地時間と歩調を合せ行政的な統一が成った」満州日日新聞 1936.11.11
- ^ 1937年(昭和12年)12月1日、満州国承認(外務省: 『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第一冊』(日独伊三国同盟・日ソ中立条約))
- ^ 1938年(昭和13年)2月10日のヒトラー演説により、実質的に満州国承認。同年5月12日に満独修好条約を締結。(外務省: 『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第一冊』(日独伊三国同盟・日ソ中立条約))
- ^ 『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.54
- ^ (枢)のついている国は第二次世界大戦時の枢軸国(その後離脱した国を含む)(連)のついている国は連合国
- ^ 飯島みどり、「ある「親日国」の誕生 : 「満州国」問題と1930年代エル・サルバドル外交の意図(その1)」「岐阜大学教養部研究報告』 1995年 32巻 p.59-78,岐阜大学教養部
- ^ JCA-NET
- ^ a b 森田光博、「「満洲国」の対ヨーロッパ外交(二)」『成城法学』 76巻 p.61-164, 2007-03, NAID 110006470968
- ^ 塚瀬進 1998, p. 155.
- ^ 今尾恵介「失われた地名を手がかりに東京町歩き」 特集・東京の地名 町それぞれの物語 『東京人』(都市出版株式会社)第20巻第5号、平成17年5月3日発行。在日本大使の一覧も参照されたい。
- ^ 塚瀬進 1998, p. 154.
- ^ バチカンの福音宣教省が派遣する教皇使節はバチカンとの外交関係がない国々にも派遣される派遣される例がある(上野景文、『バチカンの聖と俗』、かまくら春秋社、2011、pp91-92)
- ^ 『黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち』 文藝春秋 1991年
- ^ 中国語では「紀念」と表記するが、「建国一周年記念」切手は日本語の「記念」表記となっている
- ^ 「橋本敬之氏の新京地下鉄調査談」『土木建築工事画報』第15巻第10号、1939年10月
- ^ 大阪市電気局高速鉄道部編『奉天市地下鉄道計画書』、今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 満洲樺太』(新潮社刊、2009年)
- ^ 満州国の放送とラジオ
- ^ 満州文化物語(2)
- ^ 院令第2号(1932年3月25日公布)「各学校課程ニハ四書孝経ヲ使用講授シ以テ礼教ヲ尊崇セシム凡ソ党義ニ関スル教科書ノ如キハ之ヲ全廃ス」
- ^ 高級中学師範科もこれとほぼ同様の教育内容であった。
- ^ 山下幸生『花も嵐も わが一代記』(文芸社)117ページ。
- ^ 満州国の国技は“蹴球”-読売新聞記事より、蹴球本日誌
- ^ 入江克己、「近代日本における植民地体育政策の研究(第2報)」『鳥取大学教育学部研究報告 教育科学』1994年 36巻 1号 P.86-87, 鳥取大学教育学部。本内容は『満洲建国十年史』からの引用。
- ^ 高嶋航「「満洲国」の誕生と極東スポーツ界の再編」『京都大學文學部研究紀要』第47号、京都大學大學院文學研究科、2008年3月、131-181頁、NAID 40018917923。, hdl:2433/72827
- ^ 劉らの動きに関わりなく満洲国側は大日本体育協会の支援を受けて参加に向けた活動を続けたものの、最終的に断念した。断念理由について、上記高嶋論文には二つの説が挙げられている。
- ^ 『中国東北部の「昭和」を歩く』 2011年7月28日発刊 東洋経済新報社 ISBN=978-4-492-04429-2 68p
- ^ 「18.東京高等師範学校教授末松直次満州視察 昭和十一年十二月」 アジア歴史資料センター Ref.B05015686200
- ^ 千田萬三『満洲事典』満鉄社員会、1939年(昭和14年)
- ^ 「建国後三年間の堅実な歩み 満洲国の重要記録」、『満洲日報』1935年(昭和10年)3月1日付
参考文献
- 浅野豊美『帝国日本の植民地法制——法域統合と帝国秩序』(名古屋大学出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7)
- 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』岩波新書1046、2007年
- 並木頼寿『日本人のアジア認識』山川出版社〈世界史リブレット, 66〉、2008年。ISBN 9784634346604。
- 黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』ワック・マガジンズ、2005年
- ブロンソン・レー『満洲国出現の合理性』 田村幸策翻訳、日本国際協会、1936年
- 大杉一雄『日中戦争への道』講談社学術文庫、2007
- 植民地文化学会・中国東北淪陥14年史総編室 編『「満洲国」とは何だったのか 日中共同研究』小学館、2008
- 山田豪一『満洲国の阿片専売—「わが満蒙の特殊権益」の研究』 汲古書院、2004
- 田中隆一『満洲国と日本の帝国支配』有志舎、2007
- 塚瀬進『満洲国 : 「民族協和」の実像』吉川弘文館、1998年。ISBN 9784642077521。
- 森島守人『陰謀・暗殺・軍刀 一外交官の回想』岩波書店〈岩波新書 青版38〉、1984年。 NCID BN09840221。
- 児島襄『満州帝国』文藝春秋〈文春文庫 全3巻〉、1983年。
関連図書
- レジナルド・ジョンストン『紫禁城の黄昏』
- 貴志俊彦・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、2012
- 貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア——ポスター・絵はがき・切手』吉川弘文館、2010
- 山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠——忘れられた日本人の満洲国』朝日新聞出版、2010
- 緒方貞子『満州事変――政策の形成過程』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2011年8月。ISBN 978-4006002527。
- 木立順一『偉人伝:児玉源太郎(後篇)現代人が今一番目指すべき姿』メディアポート、2014