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謝介石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
謝 介石
Xie Jieshi
1935年
生年月日 1878年5月3日
出生地 清の旗 福建省台北府新竹県竹北一堡
(現:新竹県竹北市
没年月日 1954年
死没地 中華人民共和国の旗 中国 北京市

在任期間 1932年3月1日 - 1934年2月28日
執政 愛新覚羅溥儀

在任期間 1934年3月1日 - 1947年5月21日
皇帝 康徳帝

在任期間 1935年5月25日 - 1935年6月19日
皇帝 康徳帝
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謝介石
職業: 政治家
各種表記
繁体字 謝介石
簡体字 谢介石
拼音 Xiè Jièshí
和名表記: しゃ かいせき
発音転記: シェ ジェエシー
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謝介石(しゃかいせき、1878年光緒4年〉5月3日 - 1954年)は満洲国初代外交部総長。満洲国の台湾人で最高官職に就任した人物である。字は又安幼安とも作る)。

生涯

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幼少にして私塾に学び、日本統治時代には新竹国語伝習所日本語を学び、伊藤博文が訪台した際には通訳を務めている。その後日本に留学、明治大学法学部を卒業後、天津張勲の下で勤務した。

1904年10月から二年間、台湾協会専門学校(現・拓殖大学)台湾語教師。1915年、日本国籍を放棄し中華民国国籍を取得、張勲が1917年溥儀復辟を画策した計画に謝介石も参加している。

1927年、謝介石は溥儀の外務部右丞兼天津行在御前顧問に就任、その後吉林省に赴任し、吉林省省長熙洽の吉林省陸軍部尚書に転任している。1932年大同元年)3月9日に満洲国が正式に建国され、翌10日に謝は初代外交部総長に任官された[1]。同年、中華民国国籍を放棄し、満洲国国籍を取得した。1935年(康徳2年)5月21日、参議府参議に移ったが[2]、直後の25日に初代駐日満州国全権大使に起用されている[3]。謝介石の満洲国での成功を見た多くの台湾人が満洲にわたり、行政機関への就職を求めている。謝介石は台湾への一時帰国を果たし、またその後は実業部長などを歴任した。

1937年(康徳4年)6月、謝介石は駐日大使を辞任して満洲国に戻り、その後は満洲国国営事業の董事長などを務めた。日本の敗戦により満洲国が瓦解すると漢奸として逮捕され、その後北京の獄中で病死した。

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  1. ^ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
  2. ^ 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和10年(1935年)5月22日夕刊。
  3. ^ 「初代駐日大使とし謝氏赴任に決定す」『東京朝日新聞』昭和10年(1935年)5月26日夕刊。