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「カミノテシオ」の版間の差分

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|medaltemplates={{medal八大競走|[[天皇賞(秋)]]|1974年}}{{medalオープン|[[京成杯]]|1973年}}|母父=ハロウェー<ref name="jbis" />}}
'''カミノテシオ'''は[[日本]]の[[競走馬]]。稀代のアイドルホース・[[ハイセイコー]]の同期で、第70回[[天皇賞]]優勝馬。名前の由来は [[冠名]]「カミノ」に、[[イタリア]]の天才[[ブリーダー]]として知られる[[フェデリコ・テシオ]]からの「テシオ」。
'''カミノテシオ'''(欧字名:{{lang|en|Kamino Tesio}}、[[1970年]][[4月25日]] - [[1996年]][[11月21日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|和書|title=カミノテシオ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000037844/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-07-08}}</ref>。


1974年の[[天皇賞(秋)]]を制した。
== 戦績 ==
[[1971年|前年]]の[[優駿牝馬]](オークス)を[[カネヒムロ]]で制するなど新進気鋭の若手騎手として期待されていた[[岡部幸雄]]が騎乗してのデビュー戦を、後方待機策で2馬身半差という内容で快勝し、早速素質の高さを見せた。この年戦績は5戦2勝と、翌年の[[クラシック (競馬)|クラシック]]有力候補としては悪くない成績を残している。


== 生涯 ==
翌[[1973年]]、当時の関東ナンバー1騎手・[[加賀武見]]を鞍上に迎え、この年の緒戦・[[京成杯]]を1番人気で優勝し重賞初制覇。この年のクラシック戦線の主軸の一頭としてシーズンを迎えることとなった。ところが、この年のクラシックは[[大井競馬場|大井]]から移籍してきたハイセイコー一色状態であり、3番人気で挑んだ[[弥生賞]]ではハイセイコーの4着。さらに競走中に[[球節]]を傷めてしまったことが災いし[[皐月賞]]は7着と敗れ、さらに [[東京競馬場|東京]]開催のオープン戦優勝を経て挑んだ[[東京優駿]](日本ダービー)ではレース直前で出走取消となってしまった。この故障のためカミノテシオは1年以上をその回復に費やした。


=== デビューまで ===
[[1974年]][[7月]]に復帰を果たしたカミノテシオは、勝利は掴めなかったものの復活の兆しを見せ、[[馬齢|古馬]]最高のタイトル天皇賞制覇を目指すこととなった。この年の天皇賞(秋)はハイセイコーが鼻出血によって出走取り止めになったものの、17頭の出走馬が顔を揃えた。レースは最後の直線でダービー2着の[[イチフジイサミ]]との競り合いを制し、悲願のタイトル奪取を果たした。


ミスチェスターは、[[北海道]][[浦河町]]の辻牧場で生産された牝馬である。[[平地競走]]で21戦3勝、[[障害競走]]で14戦4勝という成績を残し、[[繁殖牝馬]]となった<ref name="優駿-1991-5-61">『優駿』1991年10月号 61頁</ref>。1969年、フランスで生産され日本に輸入された[[種牡馬]]の[[ムーティエ]]を交配。1970年4月25日、浦河町の富田牧場にて[[栗毛]]の牡馬(後のカミノテシオ)が誕生する<ref name="優駿-1991-5-60">『優駿』1991年10月号 60頁</ref>。
しかし、その後は球節炎の悪化により成績不振。天皇賞以降は勝利を挙げることなく、[[1976年]]暮れに引退となった。


産まれた仔は、ムーティエ産駒の傾向に反して、素直であり、良い体型の持ち主であった<ref name="優駿-1991-5-61" />。夏には、[[高橋英夫 (競馬)|高橋英夫]][[調教師]]が、「カミノ」の冠名を用いる馬主である保手浜正康と仔を引き合わせた。保手浜は、直接仔を見に行くことはせずに、占いで良い結果が示されたことを根拠に所有することを決め、仔を850万円で購入した<ref name="優駿-1991-5-60" />。なお、馬主名義は保手浜正康であるが、実際は正康の弟である[[保手浜弘規]]との共同所有である<ref name="shin8"/>。
== 引退後 ==
引退翌年([[1977年]])から[[種牡馬]]入りしたカミノテシオであったが、その父が気性難で有名なムーティエであった事も災いして種付け頭数が伸びず、さらに国産種牡馬が冷遇される当時の風潮にも圧されて、6年間の種牡馬生活の間に僅か14頭の産駒しか送り出せないという結果に終わってしまった。


成長するにつれて、オロマップ育成牧場で育成が施された<ref name="優駿-1991-5-61" />。保手浜により、自身の冠名「'''カミノ'''」にイタリアの著名な競走馬生産者の[[フェデリコ・テシオ]]から「'''テシオ'''」を組み合わせた「'''カミノテシオ'''」という競走馬名が与えられた<ref name="優駿-1991-5-60" />。
[[1983年]]、種牡馬を廃用となったカミノテシオは、[[去勢]]手術を施された上で[[乗馬]]に転向となった。その後は順風満帆な生活を送り、[[1996年]][[11月21日]]、繋養先のスタッフが目を離していた間に老衰で死亡した。蹄鉄とたてがみの一部は、晩年を過ごした[[日本中央競馬会|JRA]]宇都宮育成牧場内の馬魂碑に収められている。

=== 競走馬時代 ===

==== 3-4歳(1972-73年) ====
1972年9月3日、[[中山競馬場]]の[[新馬|新馬戦]](芝1000メートル)に[[岡部幸雄]]が騎乗し、単勝3番人気でデビュー。後方から追い上げて、2馬身半差をつけて初勝利を挙げた<ref name="優駿-1991-5-61" />。続いて条件戦と[[京成杯3歳ステークス]]敗退の後、11月5日、[[東京競馬場]]の条件戦を1馬身4分の1差で2勝目を挙げた。その後、[[朝日杯3歳ステークス]]へ出走するはずだったが、調教での怪我により回避した<ref name="優駿-1991-5-62">『優駿』1991年10月号 62頁</ref>。しかし、長期の離脱には至らず、年末のオープン競走にも出走した<ref name="優駿-1991-5-62" />。

1973年、4歳となり、1月14日の[[京成杯]]に1番人気で出走。後方待機を選択し、最後の直線では5番手ほどに位置から抜け出していたニューサントに外から並びかけた<ref name="優駿-1991-5-62" />。2頭並んで入線したが、カミノテシオが[[写真判定]]によりハナ差先着していることが認められた。騎乗した[[加賀武見]]は「直線競り合いになった時、勝てると思いました。並んだら絶対に負けないのがムーティエ産駒のよさです。(中略)馬ごみ{{ママ}}にもまれて強いし、追えば確実に伸びてくるあたりは実に頼もしい。<ref name="優駿-1991-5-62" />」と評している。

続いて3月4日の[[弥生賞]]に出走。[[大井競馬場|大井]]で無敗の6連勝を達成した後、[[中央競馬]]に移籍した[[ハイセイコー]]に注目が集まり1番人気となり、一方のカミノテシオは3番人気であった<ref name="優駿-1991-5-62" />。後方待機から、好位のハイセイコー目指して追い上げたが、並ぶことなく4着に敗れた。競走中に右前脚をぶつけて[[球節]]を傷つけていたため、仕上がることがないまま[[皐月賞]]に出走し7着敗退<ref name="優駿-1991-5-62" />。騎乗した加賀は、終始馬群の中に位置したことを敗因としていた<ref name="優駿-1991-5-62" />。

5月3日、東京競馬場マイルのオープン競走で、中団から5馬身の差をつけて4勝目を挙げた。この勝利に高橋は「東京コースの2400メートルなら、この馬の良さが十分に発揮できると思う<ref name="優駿-1991-5-62" />」と話していた。5月27日の[[東京優駿]](日本ダービー)に出走を予定し、日曜日の発走を前に1枠3番の枠順が与えられた。横尾一彦によれば、木曜日の調教では「絶好の動き<ref name="優駿-1991-5-62" />」を見せており「ストップ・ザ・ハイセイコーの筆頭<ref name="優駿-1991-5-64">『優駿』1991年10月号 64頁</ref>」と評されていたという。しかし、土曜日の軽めの調教で最後の仕上げをした後に歩様がおかしくなり、右前脚[[球節炎]]の診断を受けて東京優駿は[[出走取消]]<ref name="優駿-1991-5-62" />。それから、治癒まで長引き1年以上の長期休養となった<ref name="優駿-1991-5-62" />。

==== 5-6歳(1974-75年) ====
[[1974年]][[7月14日]]、[[新潟競馬場]]のBSN杯で復帰し、12頭立て10番人気ながら4着。その後、[[京王杯オータムハンデ]]では、[[スガノホマレ]]が日本レコードで制する中3着。[[毎日王冠]]でも3着となるなど重賞でも好走するようになった<ref name="優駿-1991-5-62" />。11月3日の[[目黒記念(秋)]]では、初めて2500メートルに出走したが1番人気に推され、1馬身4分の3差で2着となった<ref name="優駿-1991-5-63">『優駿』1991年10月号 63頁</ref>。11月14日、天皇賞(秋)に5番人気の支持で出走。直線でイチフジイサミとともに内を突いて抜け出し、2頭並んで競り合いとなったが、イチフジイサミに半馬身先着して優勝した<ref name="優駿-1991-5-63" />。騎乗した加賀は「(前略)折り合いもついたし、直線で内にヨレたが、あれは仕方がない。ダービーのうっぷんを晴らせてホッとしましたよ{{ママ}}<ref name="優駿-1991-5-64" />」と述懐、[[タカマガハラ]]、[[アサホコ]]、[[ベルワイド]]に続いて天皇賞4勝目を挙げた<ref name="優駿-1991-5-64" />。

天皇賞以降、6歳でも現役を続行したが、勝利を挙げられなかった。一時休養してまで再起を試みたものの出走することなく、[[1976年]]末に競走馬を引退した<ref name="優駿-1991-5-65">『優駿』1991年10月号 65頁</ref>。

=== 種牡馬時代 ===
[[1977年]]、北海道[[門別町]]の[[下河辺牧場]]にて種牡馬となった<ref name="優駿-1991-5-65" />。[[内国産馬|内国産種牡馬]]を冷遇する時代にあって種付け数が伸びず、6年間で14頭の産駒、うち勝利した馬は4頭に留まった<ref name="優駿-1991-5-65" />。

1982年11月に種牡馬を廃用となり、[[福島競馬場]]で[[乗用馬]]となった<ref name="優駿-1991-5-65" />。その後、[[馬事公苑]]を挟んで、1986年5月末に[[宇都宮育成牧場|JRA宇都宮育成牧場]]にて[[功労馬]]となった<ref name="優駿-1991-5-65" />。特に馬事公苑では、[[障害馬術]]のスポーツ少年団にも用いられた<ref name="優駿-1991-5-65" />。[[1996年]][[11月21日]]、繋養先のスタッフが目を離していた間に老衰で死亡。蹄鉄とたてがみの一部は、晩年を過ごした[[日本中央競馬会|JRA]]宇都宮育成牧場内の馬魂碑に収められている。

== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|和書|title=カミノテシオの競走成績|url=https://db.netkeiba.com/horse/000a000bd0/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-07-08|language=ja}}</ref>およびJBISサーチ<ref>{{Cite web|和書|title=競走成績:カミノテシオ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000037844/record/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-07-08}}</ref>の情報に基づく。
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
!競走日
!競馬場
!競走名
!格
!距離<br/>(馬場)
!頭<br/>数
!枠<br/>番
!馬<br/>番
!オッズ<br/>(人気)
!着順
!タイム
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!斤量<br/>[kg]
!1着馬<br/>(2着馬)
|-
|[[1972年|1972]].{{0}}[[9月3日|9.{{0}}3]]
|[[中山競馬場|中山]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|
|芝1000m(良)
|7
|1
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|{{00}}7.1{{0}}(3人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}{{0|-}}59.1
|{{0}}[[岡部幸雄]]
|52
|(トリノオーギ)
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月16日|9.16]]
|中山
|あかね賞
|2下
|芝1200m(不)
|7
|4
|4
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|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|1:12.5
|{{0}}岡部幸雄
|52
|アーレス
|-
|{{0|0000.}}[[10月15日|10.15]]
|中山
|[[京成杯3歳ステークス|京成杯3歳S]]
|
|芝1200m(良)
|8
|6
|6
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|{{0}}7着
|1:12.8
|{{0}}[[郷原洋行]]
|53
|マミーブルー
|-
|{{0|0000.}}[[11月5日|11.{{0}}5]]
|[[東京競馬場|東京]]
|白菊賞
|2下
|芝1400m(良)
|9
|4
|4
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|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|1:24.1
|{{0}}岡部幸雄
|52
|(サンポウ)
|-
|{{0|0000.}}[[12月28日|12.28]]
|中山
|3歳オープン
|
|芝1600m(重)
|7
|5
|5
|{{00}}3.8{{0}}(1人)
|{{Color|darkgreen|{{0}}3着}}
|1:40.7
|{{0}}[[加賀武見]]
|54
|ユウシオ
|-
|[[1973年|1973]].{{0}}[[1月14日|1.14]]
|東京
|[[京成杯]]
|
|芝1600m(良)
|10
|2
|2
|{{00}}4.4{{0}}(1人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|1:37.2
|{{0}}加賀武見
|54
|(ニューサント)
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月4日|3.{{0}}4]]
|中山
|[[弥生賞]]
|
|芝1800m(良)
|10
|8
|9
|{{0}}15.1{{0}}(3人)
|{{0}}4着
|1:51.4
|{{0}}加賀武見
|55
|[[ハイセイコー]]
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月15日|4.15]]
|中山
|'''[[皐月賞]]'''
|
|芝2000m(重)
|16
|2
|4
|{{0}}26.7{{0}}(5人)
|{{0}}7着
|2:08.0
|{{0}}加賀武見
|57
|ハイセイコー
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月3日|5.{{0}}3]]
|東京
|4歳オープン
|
|芝1600m(不)
|6
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|{{00}}3.7{{0}}(2人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|1:37.9
|{{0}}加賀武見
|56
|(シャダイプリマ)
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月27日|5.27]]
|東京
|'''[[東京優駿]]'''
|
|芝2400m(良)
|28
|1
|3
| colspan="3" |[[出走取消]]
|{{0}}加賀武見
|57
|[[タケホープ]]
|-
|[[1974年|1974]].{{0}}[[7月14日|7.14]]
|[[新潟競馬場|新潟]]
|BSN杯
|
|芝1600m(良)
|12
|8
|12
|{{0}}15.9(10人)
|{{0}}4着
|1:35.2
|{{0}}加賀武見
|56
|サンポウ
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[8月10日|8.10]]
|新潟
|4歳上オープン
|
|芝1200m(良)
|9
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|9
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|{{0}}5着
|1:10.3
|{{0}}榮森己喜男
|53
|[[サクライワイ]]
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月8日|9.{{0}}8]]
|東京
|[[京王杯オータムハンデキャップ|京王杯AH]]
|
|芝1800m(良)
|9
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|8
|{{00}}5.0{{0}}(2人)
|{{Color|darkgreen|{{0}}3着}}
|1:47.1
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|54
|[[スガノホマレ]]
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月22日|9.22]]
|東京
|[[毎日王冠]]
|
|芝2000m(重)
|10
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|2
|{{00}}3.4{{0}}(2人)
|{{Color|darkgreen|{{0}}3着}}
|2:02.0
|{{0}}加賀武見
|56
|[[タケクマヒカル]]
|-
|{{0|0000.}}[[11月3日|11.{{0}}3]]
|東京
|[[目黒記念(秋)]]
|
|芝2500m(良)
|8
|7
|7
|{{00}}3.5{{0}}(1人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|2:35.5
|{{0}}加賀武見
|55
|[[イナボレス]]
|-
|{{0|0000.}}[[11月24日|11.24]]
|東京
|'''[[天皇賞(秋)]]'''
|
|芝3200m(良)
|17
|4
|7
|{{0}}15.1{{0}}(5人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
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|58
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|-
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|[[アメリカジョッキークラブカップ|AJCC]]
|
|芝2400m(稍)
|11
|2
|2
|{{00}}1.8{{0}}(1人)
|10着
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|56
|[[ストロングエイト]]
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月9日|3.{{0}}9]]
|中山
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|
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|6
|12
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|10着
|1:50.9
|{{0}}加賀武見
|56
|ヒカルジンデン
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[8月9日|8.{{0}}9]]
|新潟
|4歳上オープン
|
|芝1200m(良)
|5
|4
|4
|{{00}}9.2{{0}}(4人)
|{{0}}5着
|1:10.9
|{{0}}吉岡薫
|54
|ブルームーン
|-
|{{0|0000.}}[[10月19日|10.19]]
|東京
|4歳上オープン
|
|芝1600m(不)
|9
|2
|2
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|{{0}}5着
|1:38.3
|{{0}}富田正信
|55
|[[フジノパーシア]]
|-
|{{0|0000.}}[[11月2日|11.{{0}}2]]
|東京
|目黒記念(秋)
|
|芝2500m(稍)
|13
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|{{0}}4着
|2:35.7
|{{0}}岡部幸雄
|59
|キクノオー
|-
|{{0|0000.}}[[11月30日|11.30]]
|中山
|[[クモハタ記念]]
|
|芝1800m(良)
|10
|2
|2
|{{0}}15.2{{0}}(8人)
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|1:51.4
|{{0}}[[柴田政人]]
|59
|ハーバーヤング
|}

* 表中の'''太字強調'''は、[[八大競走]]を表す。


== 血統表 ==
== 血統表 ==
70行目: 439行目:
*ボディーガード(又甥-[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]、[[阪急杯]])
*ボディーガード(又甥-[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]、[[阪急杯]])
*リンデンスワロー(又甥-[[黒潮皐月賞]]、[[黒潮菊花賞]])
*リンデンスワロー(又甥-[[黒潮皐月賞]]、[[黒潮菊花賞]])

== 脚注 ==

=== 注釈 ===

=== 出典 ===
<references />

== 参考文献 ==

* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1991年10月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 65】天才のステイヤー カミノテシオ」
*『新評』第23巻第6号(新評社、1976年6月)
**「河合純子の馬主さん訪問 (8)神に託す人と馬との武運長久 ゲスト 保手浜忠弘さん」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2024年11月21日 (木) 10:17時点における最新版

カミノテシオ
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1]
生誕 1970年4月25日[1]
死没 1996年11月21日
ムーティエ[1]
ミスチェスター[1]
母の父 ハロウェー[1]
生国 日本北海道浦河町[1]
生産者 富田牧場[1]
馬主 保手浜正康・保手浜弘規[2]
調教師 高橋英夫[1]白井
厩務員 佐藤[3]
競走成績
生涯成績 21戦5勝[1]
獲得賞金 8660万8800円[1]
勝ち鞍
八大競走 天皇賞(秋) 1974年
オープン 京成杯 1973年
テンプレートを表示

カミノテシオ(欧字名:Kamino Tesio1970年4月25日 - 1996年11月21日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1974年の天皇賞(秋)を制した。

生涯

[編集]

デビューまで

[編集]

ミスチェスターは、北海道浦河町の辻牧場で生産された牝馬である。平地競走で21戦3勝、障害競走で14戦4勝という成績を残し、繁殖牝馬となった[4]。1969年、フランスで生産され日本に輸入された種牡馬ムーティエを交配。1970年4月25日、浦河町の富田牧場にて栗毛の牡馬(後のカミノテシオ)が誕生する[5]

産まれた仔は、ムーティエ産駒の傾向に反して、素直であり、良い体型の持ち主であった[4]。夏には、高橋英夫調教師が、「カミノ」の冠名を用いる馬主である保手浜正康と仔を引き合わせた。保手浜は、直接仔を見に行くことはせずに、占いで良い結果が示されたことを根拠に所有することを決め、仔を850万円で購入した[5]。なお、馬主名義は保手浜正康であるが、実際は正康の弟である保手浜弘規との共同所有である[2]

成長するにつれて、オロマップ育成牧場で育成が施された[4]。保手浜により、自身の冠名「カミノ」にイタリアの著名な競走馬生産者のフェデリコ・テシオから「テシオ」を組み合わせた「カミノテシオ」という競走馬名が与えられた[5]

競走馬時代

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3-4歳(1972-73年)

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1972年9月3日、中山競馬場新馬戦(芝1000メートル)に岡部幸雄が騎乗し、単勝3番人気でデビュー。後方から追い上げて、2馬身半差をつけて初勝利を挙げた[4]。続いて条件戦と京成杯3歳ステークス敗退の後、11月5日、東京競馬場の条件戦を1馬身4分の1差で2勝目を挙げた。その後、朝日杯3歳ステークスへ出走するはずだったが、調教での怪我により回避した[6]。しかし、長期の離脱には至らず、年末のオープン競走にも出走した[6]

1973年、4歳となり、1月14日の京成杯に1番人気で出走。後方待機を選択し、最後の直線では5番手ほどに位置から抜け出していたニューサントに外から並びかけた[6]。2頭並んで入線したが、カミノテシオが写真判定によりハナ差先着していることが認められた。騎乗した加賀武見は「直線競り合いになった時、勝てると思いました。並んだら絶対に負けないのがムーティエ産駒のよさです。(中略)馬ごみ〔ママ〕にもまれて強いし、追えば確実に伸びてくるあたりは実に頼もしい。[6]」と評している。

続いて3月4日の弥生賞に出走。大井で無敗の6連勝を達成した後、中央競馬に移籍したハイセイコーに注目が集まり1番人気となり、一方のカミノテシオは3番人気であった[6]。後方待機から、好位のハイセイコー目指して追い上げたが、並ぶことなく4着に敗れた。競走中に右前脚をぶつけて球節を傷つけていたため、仕上がることがないまま皐月賞に出走し7着敗退[6]。騎乗した加賀は、終始馬群の中に位置したことを敗因としていた[6]

5月3日、東京競馬場マイルのオープン競走で、中団から5馬身の差をつけて4勝目を挙げた。この勝利に高橋は「東京コースの2400メートルなら、この馬の良さが十分に発揮できると思う[6]」と話していた。5月27日の東京優駿(日本ダービー)に出走を予定し、日曜日の発走を前に1枠3番の枠順が与えられた。横尾一彦によれば、木曜日の調教では「絶好の動き[6]」を見せており「ストップ・ザ・ハイセイコーの筆頭[3]」と評されていたという。しかし、土曜日の軽めの調教で最後の仕上げをした後に歩様がおかしくなり、右前脚球節炎の診断を受けて東京優駿は出走取消[6]。それから、治癒まで長引き1年以上の長期休養となった[6]

5-6歳(1974-75年)

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1974年7月14日新潟競馬場のBSN杯で復帰し、12頭立て10番人気ながら4着。その後、京王杯オータムハンデでは、スガノホマレが日本レコードで制する中3着。毎日王冠でも3着となるなど重賞でも好走するようになった[6]。11月3日の目黒記念(秋)では、初めて2500メートルに出走したが1番人気に推され、1馬身4分の3差で2着となった[7]。11月14日、天皇賞(秋)に5番人気の支持で出走。直線でイチフジイサミとともに内を突いて抜け出し、2頭並んで競り合いとなったが、イチフジイサミに半馬身先着して優勝した[7]。騎乗した加賀は「(前略)折り合いもついたし、直線で内にヨレたが、あれは仕方がない。ダービーのうっぷんを晴らせてホッとしましたよ〔ママ[3]」と述懐、タカマガハラアサホコベルワイドに続いて天皇賞4勝目を挙げた[3]

天皇賞以降、6歳でも現役を続行したが、勝利を挙げられなかった。一時休養してまで再起を試みたものの出走することなく、1976年末に競走馬を引退した[8]

種牡馬時代

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1977年、北海道門別町下河辺牧場にて種牡馬となった[8]内国産種牡馬を冷遇する時代にあって種付け数が伸びず、6年間で14頭の産駒、うち勝利した馬は4頭に留まった[8]

1982年11月に種牡馬を廃用となり、福島競馬場乗用馬となった[8]。その後、馬事公苑を挟んで、1986年5月末にJRA宇都宮育成牧場にて功労馬となった[8]。特に馬事公苑では、障害馬術のスポーツ少年団にも用いられた[8]1996年11月21日、繋養先のスタッフが目を離していた間に老衰で死亡。蹄鉄とたてがみの一部は、晩年を過ごしたJRA宇都宮育成牧場内の馬魂碑に収められている。

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.com[9]およびJBISサーチ[10]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離
(馬場)



オッズ
(人気)
着順 タイム 騎手 斤量
[kg]
1着馬
(2着馬)
1972.09.03 中山 3歳新馬 芝1000m(良) 7 1 1 007.10(3人) 01着 0-59.1 0岡部幸雄 52 (トリノオーギ)
0000.09.16 中山 あかね賞 2下 芝1200m(不) 7 4 4 003.10(1人) 02着 1:12.5 0岡部幸雄 52 アーレス
0000.10.15 中山 京成杯3歳S 芝1200m(良) 8 6 6 008.30(3人) 07着 1:12.8 0郷原洋行 53 マミーブルー
0000.11.05 東京 白菊賞 2下 芝1400m(良) 9 4 4 005.20(2人) 01着 1:24.1 0岡部幸雄 52 (サンポウ)
0000.12.28 中山 3歳オープン 芝1600m(重) 7 5 5 003.80(1人) 03着 1:40.7 0加賀武見 54 ユウシオ
1973.01.14 東京 京成杯 芝1600m(良) 10 2 2 004.40(1人) 01着 1:37.2 0加賀武見 54 (ニューサント)
0000.03.04 中山 弥生賞 芝1800m(良) 10 8 9 015.10(3人) 04着 1:51.4 0加賀武見 55 ハイセイコー
0000.04.15 中山 皐月賞 芝2000m(重) 16 2 4 026.70(5人) 07着 2:08.0 0加賀武見 57 ハイセイコー
0000.05.03 東京 4歳オープン 芝1600m(不) 6 4 4 003.70(2人) 01着 1:37.9 0加賀武見 56 (シャダイプリマ)
0000.05.27 東京 東京優駿 芝2400m(良) 28 1 3 出走取消 0加賀武見 57 タケホープ
1974.07.14 新潟 BSN杯 芝1600m(良) 12 8 12 015.9(10人) 04着 1:35.2 0加賀武見 56 サンポウ
0000.08.10 新潟 4歳上オープン 芝1200m(良) 9 8 9 011.20(5人) 05着 1:10.3 0榮森己喜男 53 サクライワイ
0000.09.08 東京 京王杯AH 芝1800m(良) 9 8 8 005.00(2人) 03着 1:47.1 0加賀武見 54 スガノホマレ
0000.09.22 東京 毎日王冠 芝2000m(重) 10 2 2 003.40(2人) 03着 2:02.0 0加賀武見 56 タケクマヒカル
0000.11.03 東京 目黒記念(秋) 芝2500m(良) 8 7 7 003.50(1人) 02着 2:35.5 0加賀武見 55 イナボレス
0000.11.24 東京 天皇賞(秋) 芝3200m(良) 17 4 7 015.10(5人) 01着 3:22.4 0加賀武見 58 イチフジイサミ
1975.01.19 東京 AJCC 芝2400m(稍) 11 2 2 001.80(1人) 10着 2:33.5 0加賀武見 56 ストロングエイト
0000.03.09 中山 中山記念 芝1800m(良) 16 6 12 011.20(6人) 10着 1:50.9 0加賀武見 56 ヒカルジンデン
0000.08.09 新潟 4歳上オープン 芝1200m(良) 5 4 4 009.20(4人) 05着 1:10.9 0吉岡薫 54 ブルームーン
0000.10.19 東京 4歳上オープン 芝1600m(不) 9 2 2 007.90(4人) 05着 1:38.3 0富田正信 55 フジノパーシア
0000.11.02 東京 目黒記念(秋) 芝2500m(稍) 13 4 5 010.50(4人) 04着 2:35.7 0岡部幸雄 59 キクノオー
0000.11.30 中山 クモハタ記念 芝1800m(良) 10 2 2 015.20(8人) 06着 1:51.4 0柴田政人 59 ハーバーヤング

血統表

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カミノテシオ血統プリンスローズ系(セントサイモン系)/Pharos-Fairway 5×3=15.63%) (血統表の出典)

*ムーティエ
Moutiers
1958 栗毛
父の父
Sicambre
1948 黒鹿毛
Prince Bio Prince Rose
Biologie
Sif Rialto
Suavita
父の母
Ballynash
1946 鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Ballywellbroke Ballyferis
The Beggar

ミスチェスター
1958 鹿毛
*ハロウェー
Harroway
1940 黒鹿毛
Fairway Phalaris
Scapa Flow
Rosy Legend Dark Legend
Rosy Cheeks
母の母
スズマサ
1950 鹿毛
ミナミホマレ *プリメロ
フロリスト
時孝 月友
第参ソネラ F-No.4-r

主な近親

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m カミノテシオ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年7月8日閲覧。
  2. ^ a b 「河合純子の馬主さん訪問 (8)神に託す人と馬との武運長久 ゲスト 保手浜忠弘さん」『新評』第23巻第6号、新評社、1976年6月、126-129頁。 
  3. ^ a b c d 『優駿』1991年10月号 64頁
  4. ^ a b c d 『優駿』1991年10月号 61頁
  5. ^ a b c 『優駿』1991年10月号 60頁
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 『優駿』1991年10月号 62頁
  7. ^ a b 『優駿』1991年10月号 63頁
  8. ^ a b c d e f 『優駿』1991年10月号 65頁
  9. ^ カミノテシオの競走成績”. netkeiba.com. 2021年7月8日閲覧。
  10. ^ 競走成績:カミノテシオ”. www.jbis.or.jp. 2021年7月8日閲覧。

参考文献

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  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1991年10月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 65】天才のステイヤー カミノテシオ」
  • 『新評』第23巻第6号(新評社、1976年6月)
    • 「河合純子の馬主さん訪問 (8)神に託す人と馬との武運長久 ゲスト 保手浜忠弘さん」

外部リンク

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