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「石勒」の版間の差分

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==== 西晋の崩壊 ====
==== 西晋の崩壊 ====
===== 苦県の戦い =====
===== 苦県の戦い =====
これより以前の310年11月、朝廷を掌握していた東海王司馬越は、洛陽の精鋭20万や太尉[[王衍 (西晋)|王衍]]を始めとした朝廷の主要な公卿官僚を多数動員し、大々的に石勒討伐に乗り出した。討伐軍は[[梁郡]]項県まで進出したが、かねてより司馬越の専横を恨んでいた懐帝は征東大将軍[[苟晞]]に密詔を与え、司馬越を朝敵であるとして討伐を命じた。これにより司馬越はもはや石勒討伐どころではなくなってしまい、311年3月には憂憤の内に病没してしまった。彼は没する前に王衍に後事を託したが、王衍はこれを拒んで襄陽王[[司馬範]]に譲り、司馬範もまた受けなかった。その為、西晋軍は指揮官不在の状態となり、当初の目的も曖昧となったまま、ひとまず司馬越の遺体を[[東海郡|東海]](司馬越の封国)へ移送するために東へ軍を動かした。司馬越病死の報が洛陽に届くと、司馬越の側近であり洛陽の留守を預かっていた[[衛将軍]][[何倫]]・右衛将軍李惲もまた、妃の裴氏と子の[[司馬ヒ|司馬毗]]を伴って東海へ向けて軍を発した。
これより以前の310年11月、朝廷を掌握していた東海王司馬越は、洛陽の精鋭20万や太尉[[王衍 (西晋)|王衍]]を始めとした朝廷の主要な公卿官僚を多数動員し、大々的に石勒討伐に乗り出した。討伐軍は[[梁郡]]項県まで進出したが、かねてより司馬越の専横を恨んでいた懐帝は征東大将軍[[苟晞]]に密詔を与え、司馬越を朝敵であるとして討伐を命じた。これにより司馬越はもはや石勒討伐どころではなくなってしまい、311年3月には憂憤の内に病没してしまった。彼は没する前に王衍に後事を託したが、王衍はこれを拒んで襄陽王[[司馬範]]に譲り、司馬範もまた受けなかった。その為、西晋軍は指揮官不在の状態となり、当初の目的も曖昧となったまま、ひとまず司馬越の遺体を[[東海郡|東海]](司馬越の封国)へ移送するために東へ軍を動かした。司馬越病死の報が洛陽に届くと、司馬越の側近であり洛陽の留守を預かっていた[[衛将軍]][[何倫]]・右衛将軍李惲もまた、妃の裴氏と子の[[司馬毗]]を伴って東海へ向けて軍を発した。


4月、石勒は軽騎兵を率いて東下している司馬越軍を追撃し、梁郡苦県の寧平城において強襲を仕掛けた。王衍は石勒襲来を知り将軍[[銭端]]に迎撃を命じたが、石勒はこれを破って銭端を討ち取った。西晋軍は戦意喪失して総崩れとなり、石勒は騎兵を分けて敵軍を包囲すると、一斉射撃を浴びせ掛けた。これにより10万人を越える将兵が折り重なるように倒れ、死体は天高く山のように積み上がり、逃げ切れた兵はほとんどいなかった。この戦いで王衍を始めとして、襄陽王司馬範・任城王[[司馬済]]・西河王[[司馬喜]]・武陵王[[司馬澹]]・梁王[[司馬禧]]・斉王[[司馬超]]・廷尉[[諸葛銓]]・吏部尚書[[劉望 (晋)|劉望]]・豫州刺史[[劉喬]]・太傅長史[[ユガイ|庾敳]]といった面々を生捕りとした。彼らはみな朝廷の中核を為す人物であり、この戦いにより晋朝の敗亡は決定的となった。
4月、石勒は軽騎兵を率いて東下している司馬越軍を追撃し、梁郡苦県の寧平城において強襲を仕掛けた。王衍は石勒襲来を知り将軍[[銭端]]に迎撃を命じたが、石勒はこれを破って銭端を討ち取った。西晋軍は戦意喪失して総崩れとなり、石勒は騎兵を分けて敵軍を包囲すると、一斉射撃を浴びせ掛けた。これにより10万人を越える将兵が折り重なるように倒れ、死体は天高く山のように積み上がり、逃げ切れた兵はほとんどいなかった。この戦いで王衍を始めとして、襄陽王司馬範・任城王[[司馬済]]・西河王[[司馬喜]]・武陵王[[司馬澹]]・梁王[[司馬禧]]・斉王[[司馬超]]・廷尉[[諸葛銓]]・吏部尚書[[劉望 (晋)|劉望]]・豫州刺史[[劉喬]]・太傅長史[[ユガイ|庾敳]]といった面々を生捕りとした。彼らはみな朝廷の中核を為す人物であり、この戦いにより晋朝の敗亡は決定的となった。

2020年7月31日 (金) 10:20時点における版

明帝 石勒
後趙
初代天王(皇帝)
王朝 後趙
在位期間 319年 - 333年
都城 襄国
姓・諱 㔨→石勒
世龍
諡号 明皇帝
廟号 高祖
生年 泰始10年(274年
没年 建平4年7月21日
333年8月17日
周曷朱
王氏
后妃 劉皇后
陵墓 高平陵
年号 太和 : 328年 - 330年
建平 : 330年 - 333年

石 勒(せき ろく、274年333年8月)は、五胡十六国時代後趙の創建者。は世龍。上党郡武郷県(現在の山西省晋中市楡社県の北西)を本貫とする羯族匈奴羌渠種の末裔)である。元の名をと言い[1]、幼名は㔨勒[2]と言った。祖父は耶弈于[3]、父は周曷朱[4](または乞翼加)。前趙の将軍として河北・河南を転戦し、王浚劉琨段匹磾曹嶷といった北方の諸勢力を次々と滅ぼした。3代皇帝劉聡の死際には後事を託されたが、5代皇帝劉曜と対立するようになると自立して後趙を興し、前趙を滅亡に追いやって華北に覇を唱えた。奴隷の身分から中原を統べる皇帝まで昇った、中国史上唯一の人物である。

生涯

若き日

飢饉に遭遇

元々の名は㔨であるが、本記事では石勒の表記で統一する。

祖父の耶弈于・父の周曷朱はいずれも部落小帥(部族の中の小集団を束ねる者)の地位にあったが、父は凶悪粗暴な性格だったので傘下の諸胡人から信頼されていなかった。その為、石勒はいつも小帥の地位を代行して部内の統治に当たっており、父とは異なり皆から信愛を得ていたという。

太安年間(302年303年)、并州では飢饉の発生に伴い、騒乱が各地で多発するようになった。その為、石勒は傘下の諸胡人と共に災いを避けて遠方へ逃散したが、やがて雁門より郷里に帰還し、かねてより親交のあった陽曲出身の甯駆に庇護を求めた。北沢[5]都尉[6]劉監は彼らを捕縛して売り捌いてしまおうと考えたが、甯駆は上手く石勒らを匿ったので難を逃れる事が出来た。

別の都尉である李川は劉監と異なり寛大な処遇を示していた事から、石勒は密かに彼の下に投降しようと考えて再び移動を始めたが、道中で食料が尽きてしまいほとんど食事が摂れず、また寒さにも苦しんだ。そんな最中、かねてより交流のあった鄔県出身の郭敬に出会うと、石勒は涙ながらに彼へ窮状を訴えて援助を請うた。郭敬もまたこれに同情して涙を流し、手持ちの銭と食料や衣服を提供したので、石勒らは難を逃れる事が出来た。石勒は郭敬と語らい合い「今、大飢饉に見舞われており、ただ困窮するのを待つべきではありません。諸の飢餓は甚だしいものがありますから、穀物があると言って彼らを冀州に招いて、捕らえて売ってしまうべきです。そうすれば、あなたも我々も共に飢えを凌ぐことが出来ます(奴隷にはなるが食事は与えられる為)」と述べると、郭敬もまたこれに深く賛同の意を示した。

奴隷階級へ

当時、并州刺史司馬騰はこの飢饉を乗り切る為、将軍郭陽張隆らに命じて各地の胡人を捕らえさせ、山東へ売り捌こうとしていた。この一行が冀州を通過した時、石勒らもまたその中に組み込まれて連行された。その途上、石勒は何度も張隆から暴行を受けて辱められたが、郭敬は連行の任務に当たっていた族兄の郭陽とその甥である郭時をあらかじめ石勒の傍につけており、郭陽らはいつも張隆に暴行を控えるよう訴えて石勒を庇った。また、道中は飢えや病にも苦しんだが、郭陽の世話により石勒は命を繋いだ。

一行は東へ移動し、平原まで至った所で売りに出された。石勒は茌平に住む師懽という人物の下に売り渡され、しばらくは彼の奴隷となって農作業に従事するようになった。やがて師懽は石勒の外見・風貌からただならぬものを感じとり、石勒は奴隷から解放された。だが、これまでの苦難の過程で部族の民は散り散りとなってしまい、母の王氏や甥の石虎とも離別する事となった。

汲桑・十八騎との出会い

師懽の家の隣には馬牧場があり、その牧場の主は汲桑という人物であった。石勒は奴隷だった頃から彼と交流があり、また石勒には馬の状態を見抜く能力があったので、自由の身となって以降は汲桑を頼るようになった。

また、魏郡武安臨水一帯で傭兵稼業を行うようになり、各地で遊軍となって働いた。さらには8人の騎兵(王陽支雄夔安冀保呉豫劉膺桃豹逯明)を傘下に招き入れると群盗として活動するようになり、後に10人の騎兵(郭敖劉徴劉宝張曀僕呼延莫郭黒略張越孔豚趙鹿支屈六)が加わり、総勢18人となった。石勒は彼らを総称して『十八騎』と号した(石勒十八騎)。

やがてまた東に帰還すると、赤龍・騄驥などの各地の馬牧場へ侵入して馬を手に入れ、広範囲に渡り絹や宝玉を略奪して回った。ここで略奪した品物は汲桑に献上し、これまで世話になった恩を返したという。

晋朝への反乱

公師藩の乱に参加

に勢力基盤を築いていた成都王司馬穎は、304年初頭に丞相・都督中外諸軍事・皇太弟の位に就き、洛陽を間接統治して事実上朝政を牛耳っていたが、これに反発する東海王司馬越やその一派と対立するようになった。やがて司馬越の派閥である都督幽州諸軍事王浚・東嬴公司馬騰らに敗れた事で鄴を放逐されて長安まで落ち延び、以降は失脚してその地位を剥奪されていた。

305年7月、司馬穎の旧臣である公師藩楼権郝昌らが清河郡鄃県[7]で挙兵し、河北から司馬越の勢力を一掃する事で司馬穎を再び鄴に迎え入れようと目論み、数万の兵が志を同じくして集結した。汲桑と石勒もまたこれを足掛かりとして一旗揚げようと考え、配下の牧人数百騎を引き連れて公師藩の下へと駆けつけた。公師藩はこれを迎え入れ、石勒を前隊督に抜擢した。

この時、汲桑は石勒を漢人化させるため、『石』という姓、『勒』という諱、『世龍』という字を与えた(これ以前は『㔨』という名のみで呼ばれていた)。

公師藩らの軍は進軍を開始すると、各地の郡県を攻略して陽平郡太守李志汲郡太守張延を始めとした二千石長吏を次々に討ち取り、転戦しながら目標の鄴へ迫った。当時鄴を鎮守していた平昌公司馬模(司馬越の兄弟)はこれに驚愕し、配下の趙驤馮嵩に迎撃を命じた。さらに范陽王司馬虓は配下の濮陽郡太守苟晞を鄴救援に赴かせ、広平郡太守丁紹もまた郡兵を率いて救援に到来した。公師藩軍はこれらに尽く敗戦を喫したが、それでも攻勢を止める事は無く、9月には転進して平原郡太守王景清河郡太守馮熊らを攻め、いずれも討ち取っている[8]

306年9月、公師藩軍は白馬から黄河を渡って南下を図ったが、兗州刺史苟晞より攻撃を受けて公師藩は斬り殺されてしまった。これによりその軍兵はみな散走し、石勒・汲桑もまた茌平の馬牧場へと戻ってその身を隠した。これにより反乱は鎮圧され、復権を画策して河北へ戻っていた司馬穎もまた捕縛されて鄴城で処刑された。

汲桑と挙兵

307年3月、汲桑は再起を図ると、石勒を伏夜牙門に任じて配下の牧人を指揮させ、兵を集めさせた。石勒は各地の郡県を襲撃して囚人を開放し、また山間のに隠れ潜んでいた公師藩軍の残兵招集に当たり、その多くは帰属の意思を示したので、彼らを傘下に加える事でその勢力を再び拡大させた。ここにおいて汲桑は大将軍を自称すると、司馬越・新蔡王司馬騰(司馬越の弟であり、当時鄴を統治していた。石勒を奴隷に堕とした張本人でもある)を誅殺し、司馬穎の仇を取る事を大義名分に掲げて挙兵した。そして鄴を第一目標に定めて進軍を開始すると、石勒は軍の前鋒として幾度も戦功を挙げ、向かう所みな容易く勝利を収めた。功績により掃虜将軍に昇進し、忠明亭侯に封じられた。

汲桑軍はさらに進軍を続けて鄴城へ迫った。5月、魏郡太守馮嵩は撃って出て汲桑軍の侵攻を阻んだが、石勒は前鋒都督に任じられてこれを迎え撃ち、大勝利を挙げた。勢いのままに進撃を続けると、遂に鄴を攻め落とした。司馬騰は軽騎兵のみを従えて逃亡を試みたが、汲桑配下の李豊により斬り殺された。汲桑らは鄴城において1万人以上の士民を殺害し、大規模に略奪を行った。さらには宮殿を焼き払うと、その炎は10日前後を経過しても収まらなかったという。

その後、鄴から兵を引き上げた石勒らは続いて許昌を守る司馬越の討伐を目論み、延津より渡河して南の兗州へ侵攻した。司馬越はこの知らせに驚愕し、配下の苟晞・陳留内史王讃らに迎撃を命じた。

汲桑軍は幽州刺史石尟が守る楽陵を攻め、これを破って石尟の首級を挙げた。次いで、石尟救援の為に5万の兵を率いて進軍してきた乞活(流民集団)の田禋を迎え撃つと、石勒がこれを返り討ちにした。その後、石勒らは苟晞らの軍と平原陽平の間で対峙し、睨み合いは数か月に渡った。大小合わせて30を超える戦を繰り広げられたが、両軍とも譲らなかった。なお、この戦いで西晋の山陽公劉秋(後漢献帝の曾孫)を討ち取っている。

7月、苟晞らの苦戦に司馬越は動揺し、自ら軍を率いて官渡まで乗り出し、苟晞の援護に当たった。8月、司馬越の支援を受けた苟晞は東武陽において汲桑軍を攻撃し、大敗を喫した汲桑軍は清淵まで後退した。9月、苟晞は追撃を掛けて8つの砦を攻め降し、汲桑軍は1万人余りが打ち取られた[9]。当時、匈奴攣鞮部劉淵西晋に対して大規模な反乱を起こしており、漢(後の前趙)王朝を建国していた。その為、汲桑と石勒は敗残兵をかき集めると、劉淵へ亡命しようと考えた。だが、冀州刺史丁紹が赤橋(現在の山西省太原市の南西)に軍を展開して進路を遮断しており、汲桑軍は再び大敗を喫した。ここで汲桑と石勒は袂を分かち、汲桑は茌平の馬牧場へと戻って身を潜め、石勒は楽平へと向かった。

12月、乞活の田禋・田蘭薄盛らは司馬騰殺害の報復として汲桑討伐の兵を挙げ、汲桑は楽陵において討ち取られた[10]

劉淵に帰順

当時、胡部大(異民族の長)張㔨督馮莫突は数千の衆を擁して上党に割拠していた。汲桑戦死より前の307年9月、逃亡を続けていた石勒は張㔨督らの下へ赴いて庇護を求めると、快く迎え入れられて重遇を受けた。

その後、石勒は張㔨督らへ「劉単于(劉淵)は晋朝打倒の為に挙兵したが、部大(張㔨督)らはこれを拒んで従おうとしていない。果たしてこのまま独立を保ち続ける事が出来ると思うかね」と尋ねると、張㔨督は「無理であろう」と答えた。これに石勒は「それならば、どうして早く兵馬を帰属させないのか!今、部落はみな既に劉単于から褒賞を賜ると共に招集を受けている。しばしば衆人は議論し、部大に背いて単于に帰順しようとしているぞ。早く計を為すべきだ」と説いた。張㔨督らには初めから謀略など何も無く、石勒の意見を受けて部族の離反を大いに恐れるようになった。

10月、張㔨督らは石勒の勧めに従う事を決め、密かに石勒に伴われて単騎で劉淵の下を訪れ、漢に帰順を申し出た。劉淵はこれを喜び、張㔨督を親漢王に封じ、馮莫突を都督部大に任じた。また、石勒は輔漢将軍[11]に任じられ、平晋王に封じられて彼らを統率する立場となった。石勒は張㔨督を自分の義兄としてその名を石会と改めさせ、言葉遣いは自らと同等とした。

当時、烏桓張伏利度は2千の兵を従えて楽平に拠点を築いており、劉淵は以前より何度も招いていたものの決して応じなかった。

同月、石勒は劉淵より罰せられたと偽称し、張伏利度の下へ赴いて帰順を願い出た。張伏利度は石勒の到来を大いに喜んで義兄弟の契りを結ぶと共に、諸胡人の兵を彼に与えて各地の侵攻略奪を命じた。石勒はこの命に従って出撃すると、向かう所敵無しの強さを見せつけたので、諸胡人はみな恐れて敬服するようになった。石勒は兵の心が自らに付いたと確信し、頃合いを見計らって張伏利度を捕らえた。そして、傘下の諸胡人へ「今、大事を起こすにあたり、我と伏利度(張伏利度)のどちらが主君としてふさわしいか」と問うと、みな石勒を推戴した。ここにおいて石勒は張伏利度を解放すると、その部族を引き連れて劉淵の下へと帰還した。劉淵はこの功績に報いるべく、石勒に都督山東征討諸軍事を加えると、張伏利度の兵を全て配属させた。

以降、石勒は正式に漢の傘下に入り、その軍事行動に参画するようになった。

漢将時代(河北・河南転戦時代)

河北を席巻

再び鄴を攻略

当時、漢王朝は并州を中心に強大な勢力基盤を築いていたが、河北には西晋の并州刺史劉琨や幽州刺史王浚などの対抗勢力がひしめき合っており、漢軍は一進一退の攻防を繰り広げていた。

308年1月、劉淵は諸勢力討伐の為、石勒を始めとした10人の将軍を東方の趙・魏の地方に派遣し、各地の討伐に当たらせた。2月、石勒は軍を率いて常山へ侵攻した。西晋の幽州刺史王浚はこれを迎え撃ち、石勒は敗北を喫した。

9月、漢の将軍王弥と共に魏郡の鄴県[12]へ侵攻した(石勒はかつて汲桑と共に鄴城を攻め落として宮殿を焼き払ったが、石勒らが放棄した後は再び西晋の支配下となっていた)。漢軍の到来を恐れた守将の征北将軍和郁は鄴城を放棄して逃走したが、魏郡太守王粋は三台(鄴城にある氷井台・銅雀台・金虎台の3つの宮殿)を守り、鄴の防衛を継続した。また、懐帝車騎将軍王堪東郡の東燕県に駐屯させ、石勒の襲来に備えさせた。

10月、劉淵が皇帝に即位した。石勒の下に劉淵から使者が到来し、石勒は持節・平東大将軍・校尉・都督に任じられ、平晋王の称号はこれまで通りとする旨が告げられた。

11月、劉霊閻羆ら7将と共に兵3万を率いて魏郡・汲郡頓丘郡一帯へ侵攻し、50を超える砦を降伏させた。石勒は帰属してきた砦の守将には仮に将軍・都尉の称号を与え、強壮な者5万人を選抜して兵士とし、老人や弱者には以前の通りの平穏な暮らしを約束した。その軍は規律が守られており、略奪行為を働く者はいなかったので、民は石勒に心を許したという。

同月、石勒は再び魏郡へ侵攻すると、遂に鄴城の三台を攻め落とし、魏郡太守王粋を捕らえて殺害した。さらには趙郡へ侵攻して冀州西部都尉馮沖を討ち取り、続けざまに中丘へ侵攻すると乞活赦亭・田禋を尽く掃討した。

官僚機構を整備

309年3月、これまでの戦功により、劉淵より安東大将軍に任じられた。また、開府(独自に役所を設けて属官を置く事)の権限を認められ、左右長史・司馬・従事中郎などの役職を独自に置く事が許された。

4月、鉅鹿常山へ侵攻し、これを攻め降して2郡の守将を討ち取った。さらには冀州の郡県で100を超える砦を陥とし、10万以上の兵を帰順させた。その中から衣冠の者(官吏・士大夫)を集めて政権の中枢を担う組織を作り上げると、これを『君子営』と称した。この時、後に石勒の頭脳となる張賓を引き入れ、彼を謀主・軍功曹に任じた。また、刁膺張敬を股肱に、夔安・孔萇を爪牙に、支雄・呼延莫・王陽・桃豹・逯明・呉豫を将帥に任じた。彼らの大半は石勒の群盗時代から付き従っていた十八騎の面々であった。

その後、石勒は張斯に別動隊を率いさせて并州の山北にある郡県を巡察させ、当地の羯人やその他諸々の胡人に対して利害を説いて帰順するよう説得に当たらせた。彼らは石勒の威名を恐れていたので、その多くが傘下に入った。

同月[13]、漢の楚王劉聡・征東大将軍王弥が壷関へ侵攻すると、石勒は前鋒都督に任じられ、兵7千を率いて前鋒となった。西晋の并州刺史劉琨は将軍黄粛[14]韓述を壷関の救援に向かわせたが、石勒は黄粛軍を白田で打ち破り、黄粛を斬り捨てた。西晋の太傅司馬越は配下の将軍に迎撃させたが、漢軍は高都・長平の間で彼らと戦ってこれを大破した。さらに屯留・長子を攻略すると、上党郡太守龐淳は壷関ごと漢に降伏した。

討伐軍の到来

9月、再び常山へ侵攻し、諸将を派遣して中山博陵高陽の各県へ侵攻させた。これにより数万人が戦わずして降伏した。同月、幽州刺史王浚は段部の首領段務勿塵と結託して大々的に石勒討伐に乗り出し、将軍祁弘に10万を超える段部の騎兵を与え、石勒を攻撃させた。石勒は祁弘軍と飛龍山(現在の河北省石家荘市元氏県の北西)において一戦を交えたが、1万以上の兵を失う大敗を喫した。その為、黎陽まで兵を退いて軍を立て直し、諸将を派遣してまだ帰順していなかった砦や石勒から離反していた砦を攻撃した。そうして30を超える砦を攻め下すと、守備兵を配置して民衆の慰撫に努めた。

11月、信都へと侵攻して西晋の冀州刺史王斌を撃ち破り、その首級を挙げた。同月、西晋の車騎将軍王堪・北中郎将裴憲は石勒討伐の為に洛陽から出陣した。これを聞いた石勒は陣営と兵糧を焼き払うと、両軍を迎え撃つ為に黄牛砦に入った。この時、西晋の魏郡太守劉矩は石勒に降伏して郡を明け渡し、石勒は劉矩にその砦兵の指揮権を与えて中軍左翼に配置した。さらに石勒は黎陽まで進撃すると、恐れた裴憲は軍を捨てて淮南に逃亡し、王堪もまた倉垣へ退却した。

劉淵は石勒の功績を称えて鎮東大将軍に任じ、汲郡公に封じ、持節・都督・平晋王は以前通りとされた。だが、石勒は汲郡公の爵位については固く辞退した。

その後、漢の将軍閻羆と共に䐗圏・苑市の2つの砦を攻撃し、いずれも陥落させた。この戦闘の最中、閻羆が流れ矢に当たり戦死したので、石勒は彼の兵を吸収した。

河南へ進出

諸州郡を侵犯

310年1月[15]、密かに軍を石橋から渡河させると、白馬を急襲して攻め落とし、男女3千人余りを生き埋めにした。王弥は3万の兵を率いてこれに合流し、共同で徐州・豫州・兗州を荒らし回った。

2月、東へ進んで鄄城を強襲し、兗州刺史袁孚を撃ち破った。袁孚は配下の裏切りにより殺された。次いで倉垣へ侵攻すると、これも陥落させて王堪を殺害した。さらに再び北へ渡河すると、冀州の広宗・清河・平原・陽平などの諸郡に立て続けに攻め込んだ。これにより、石勒に降伏した者は9万人を超えた。

5月、石勒は汲郡へ侵攻して汲郡太守胡寵を捕らえた。その後、またもや軍を返して南へ渡河すると、石勒の到来を恐れた滎陽郡太守裴純建業へと逃亡した。

7月、楚王劉聡・始安王劉曜・安北大将軍趙固河内へ侵攻すると、石勒は騎兵を率いてこれに合流し、武徳の懐城を守る河内郡太守裴整を包囲した。西晋の懐帝が征虜将軍宋抽・冠軍将軍梁巨を救援の為に派遣すると、石勒は諸将に武徳攻略を任せ、平北大将軍王桑と共に長陵に進んで梁巨・宋抽を迎え撃ち、これらを撃破した。梁巨は降伏を願い出たが、石勒は聞き入れなかったので、梁巨は城壁を乗り越えて逃亡を図るも、兵士に取り押さえられた。

9月、河内人の楽仰は裴整を捕らえ、劉聡らに降伏した。石勒もまた軍を返して武徳に戻ると、捕らえた兵1万人余りを生き埋めにし、梁巨の罪を数え上げてからその首を刎ねた。これにより残った西晋軍も総退却してしまったため、河北の各砦には激震が走った。彼らはみな石勒に降伏を請い、こぞって人質を送りその傘下に入った。

洛陽を攻撃

8月、劉淵の死去に伴い長男の劉和が帝位を継いだが、その異母弟の劉聡はこれを殺害して代わって帝位に即いた。石勒は劉聡により征東大将軍・并州刺史に任じられ、汲郡公に封じられ、持節・開府・都督・校尉・平晋王は以前通りとされた。しかし、石勒は将軍職については固く辞退したので、征東大将軍の位は見送りとされた。

10月、漢の河内王劉粲・始安王劉曜・王弥が兵4万を率いて洛陽攻略ヘ向かった、石勒は長史刁膺に9万の兵を与えて重門に輜重を移らせ、自らは騎兵2万を率いて大陽において劉粲軍に合流した。そして、澠池に進んで西晋の監軍裴邈を撃ち破り、進撃を続けて洛河まで到達した。その後、石勒は攻勢を継続せずに成皋関より洛陽盆地を出ると、倉垣へ侵攻して陳留郡太守王讃を包囲した。だが、王讃軍の反撃に遭ったので、河北へ撤退して文石津に駐屯した。

その後、北上して幽州に割拠する王浚を攻めようと考えた。王浚は段部の段文鴦に騎兵を与えてこれを防がせると共に、配下の王甲始に遼西鮮卑1万騎を与え、文石津の北で漢の将軍趙固[16]を破った。これを聞いた石勒は船と営舎を焼き払って柏門まで軍を退き、重門に留めていた輜重を回収してから石門より黄河を渡った。

王如らを討伐

同月、襄城郡太守崔曠の守る繁昌を攻略し、崔曠を斬り殺した。さらには陳郡において豫州刺史馮嵩を攻めるも敗北を喫し、兵を一旦北へ引くと、その後南陽へ向かった。

当時、雍州からの流民である王如侯脱厳嶷淮南一帯で反乱を起こしており、彼らは石勒の到来を憂慮し、兵1万を割いて襄城の守りを固めていた。石勒は進撃してこれを撃破し、敗残兵を尽く捕虜とすると、さらに南陽へ進んで宛北の山に布陣した。を拠点としいた王如は石勒を大いに恐れ、珍品や車馬を送って慰労すると共に義兄弟の契りを結んで和睦する事を求めると、石勒はこれに応じた。

王如はかねてより侯脱と不仲であった事から、石勒に侯脱の守る宛を攻めるよう持ち掛けた。石勒はこの要請を聞き入れ、夜を待って全軍に命令を発し、夜明けと共に出陣した。日が昇る頃には宛の城門を制圧し、さらには2日掛けて城を陥落させて侯脱を捕らえた。厳嶷は石勒が宛へ侵攻したと知り、手勢を率いて侯脱の救援に向かったが、到着した時には既に敗れていたので石勒の下を訪れて降伏した。石勒は侯脱の首を刎ね、厳嶷を漢の首都である平陽へ護送した。こうして石勒は両軍の兵を吸収し、その勢力は益々盛強となった。

その後、南の襄陽へ侵攻し、さらに漢水を下って江西(長江の西)の砦30余りを攻め落とした。石勒は刁膺に襄陽の守りを委ねると、次いで王如討伐を目論んで精鋭3万を率いて穣へ向かったが、王如軍の士気が未だ盛んであった事からひとまず襄城に入った。この時、王如もまた石勒を排除せんとしており、弟の王璃に騎兵2万5千を与え、表向きは石勒軍を慰労すると称してその陣営を強襲しようとした。だが、石勒はこれを見破っており、機先を制すべく迎撃に出て、王璃の軍を尽く潰滅させた。その後、再び江西に駐屯した。

江夏・新蔡へ北上

311年1月、石勒は江漢(長江・漢水一帯)の地に割拠して自立しようと考えたが、張賓はこれに反対して北に還るよう勧めた。石勒はこれに従わなかったものの、張賓を参軍都尉・領記室に任じ、位を司馬の次として軍中の事業全般を統べさせた。

江南を統治する琅邪王司馬睿(後の東晋元帝)は、石勒の侵攻を憂慮して王導に討伐を命じた。この時、石勒軍では兵糧の輸送がうまくいっておらず、また疫病も重なった事で多数の兵士を失っていた。その為、結局張賓の策を採用し、輜重を焼き払って兵士に携帯できるだけの兵糧を甲に巻き付けさせた上で、沔水を渡河して江夏を急襲した。江夏郡太守楊岠は石勒到来を知ると、郡を放棄して逃亡した。

2月、北へ進んで新蔡へ進出し、南頓において新蔡王司馬確を撃ち破り、その首級を挙げた。これにより、朗陵公何襲・広陵公陳眕上党郡太守羊綜広平郡太守邵肇はみな兵を引き連れて石勒に降伏した。石勒はさらに許昌に侵攻し、これを陥落させて平東将軍王康を討ち取った。

西晋の崩壊

苦県の戦い

これより以前の310年11月、朝廷を掌握していた東海王司馬越は、洛陽の精鋭20万や太尉王衍を始めとした朝廷の主要な公卿官僚を多数動員し、大々的に石勒討伐に乗り出した。討伐軍は梁郡項県まで進出したが、かねてより司馬越の専横を恨んでいた懐帝は征東大将軍苟晞に密詔を与え、司馬越を朝敵であるとして討伐を命じた。これにより司馬越はもはや石勒討伐どころではなくなってしまい、311年3月には憂憤の内に病没してしまった。彼は没する前に王衍に後事を託したが、王衍はこれを拒んで襄陽王司馬範に譲り、司馬範もまた受けなかった。その為、西晋軍は指揮官不在の状態となり、当初の目的も曖昧となったまま、ひとまず司馬越の遺体を東海(司馬越の封国)へ移送するために東へ軍を動かした。司馬越病死の報が洛陽に届くと、司馬越の側近であり洛陽の留守を預かっていた衛将軍何倫・右衛将軍李惲もまた、妃の裴氏と子の司馬毗を伴って東海へ向けて軍を発した。

4月、石勒は軽騎兵を率いて東下している司馬越軍を追撃し、梁郡苦県の寧平城において強襲を仕掛けた。王衍は石勒襲来を知り将軍銭端に迎撃を命じたが、石勒はこれを破って銭端を討ち取った。西晋軍は戦意喪失して総崩れとなり、石勒は騎兵を分けて敵軍を包囲すると、一斉射撃を浴びせ掛けた。これにより10万人を越える将兵が折り重なるように倒れ、死体は天高く山のように積み上がり、逃げ切れた兵はほとんどいなかった。この戦いで王衍を始めとして、襄陽王司馬範・任城王司馬済・西河王司馬喜・武陵王司馬澹・梁王司馬禧・斉王司馬超・廷尉諸葛銓・吏部尚書劉望・豫州刺史劉喬・太傅長史庾敳といった面々を生捕りとした。彼らはみな朝廷の中核を為す人物であり、この戦いにより晋朝の敗亡は決定的となった。

石勒は晋の重臣たちを幕下に引き入れると、西晋凋落の原因を彼らに問うた。王衍は晋朝衰退の原因を詳細に話し、晋滅亡は必然であったと述べた。また王衍は自らが政務に興味が無く世事には預からなかったと述べ、媚び諂って石勒へ帝位に即くよう勧める事で、罪を免れようとした。これに石勒は「汝は若い頃から朝廷に仕え、名声は四海に及び、その身は重任を担ってきた。どうして官界に興味がないなどと言えようか!天下の破滅が汝のせいでないというのなら、誰のせいだというのか!」と叱責し、左右の側近に命じて外に連れ出させた。ただその一方、石勒は王衍の名声や清弁を重んじていたので免罪する事も考えたというが、孔萇の諫めにより取りやめた[17]

司馬済を始めとした諸大臣たちはみな死を恐れて弁明と命乞いを繰り返していたが、司馬範だけは厳然とした顔つきで泰然自若としており「今日の事で、どうして今更紛紜とする事(じたばたと悪あがきする事)があろうか!」と啖呵を切ったので、石勒はその神気に大いに感嘆した。その為、爪牙の孔萇へ「我は天下の多くを見てきたが、このように立派な人物は見たことがない。生かしておくべきではないか」と尋ねたが、孔萇は「彼は晋の王公です。我々に仕える事は無いでしょう」と答えたので、これもまた取りやめた。ただ、石勒は「致し方ないか。しかし刃を用いて殺すべきではないぞ」と述べ、処刑に際しては特別扱いするよう命じた。

諸王公や卿士は外に引き出され、一人一人順番に首を刎ねられ、その死者はおびただしい数に上った。王衍と司馬範についてはこの場で処刑せず、夜になってから人を派遣して壁を押し倒し、その下敷きにして圧殺した。その後、石勒は司馬越の棺を暴き、その屍を焼き払うと「天下を乱したのはこの男である。天下のために報いを与え、その骨を焼いて天地に告げよう」と宣言した。

次いで石勒は洧倉まで軍を進め、東海へ向かっていた何倫・李惲の軍を攻撃し、これもまた潰滅させた。これにより司馬毗を始め宗室48人の王[18]や官僚を生け捕りにし、その場で全員を処断した[19]。ここでも死者はおびただしい数となった。ただ何倫・李惲だけが難を逃れ、何倫は下邳へ、李惲は広宗へと逃亡した。

洛陽陥落

5月、漢の前軍大将軍呼延晏禁兵2万7千を率いて洛陽へ侵攻すると、石勒はこれに呼応して精鋭3万を率いて成皋関より洛陽盆地へ入り、同じく洛陽へ軍を進めていた龍驤大将軍劉曜・征東大将軍王弥に合流した。この時、洛陽は酷い食糧不足に陥り、人が互いに食い合うような有様であり、民衆は離散してしまい百官は河陰に逃亡してしまっていた。

6月、漢軍の攻勢により洛陽が陥落し、捕縛された懐帝は平陽に連行された。この時をもって実質的に西晋は滅亡する事となった(永嘉の乱)。王弥らは兵を放って大々的に大掠奪を行い、陵墓を暴いて宮殿や宗廟を焼き払ったが、石勒は洛陽攻略の功績を王弥・劉曜らに譲ると先んじて洛陽を離れ、轘轅関を通って許昌に軍を置いた。

劉聡はこれまでの功績を称えて征東大将軍に任じる旨を告げたが、石勒はまたも固辞して受けなかった。

王弥誅殺

王讃・苟晞を捕らえる

同年9月、沛郡穀陽県に侵攻し、西晋の冠軍将軍王茲を撃ち破ってその首級を挙げた。さらには陳郡陽夏県へ侵攻して王讃を破り、その身柄を捕らえると、後に彼を従事中郎に取り立てた。

次いで沛郡山桑県の蒙城を急襲し、苟晞軍を撃ち破ると、苟晞と豫章王司馬端を捕縛した。石勒は苟晞の首を鎖で繋いで連行したが、後に左司馬に取り立てた。

劉聡はその功績を称えて石勒を征東大将軍・幽州牧に任じた。石勒は幽州牧については受けたものの、またも将軍職を固辞して受けなかった。

王弥との対立

洛陽攻略の折、漢の大将軍王弥は皇族の劉曜と方策の違いから対立してしまい、次第に郷里の青州に戻って自立を画策するようになっていた。当時、青州には元配下の青州刺史曹嶷が勢力を築いており、王弥は彼と連絡を取り合って独立の算段を進めていたが、石勒の存在を憂慮していたのでなかなか実行に移す事が出来なかった。石勒と王弥は表面上親しく振舞っていたものの、かねてより内心疎ましく思っており、また互いの動向を警戒して常に密かに備えていたのであった。その為、王弥は側近劉暾の進言を受け、曹嶷を呼び寄せて共に石勒を挟撃しようと考え、劉暾を曹嶷の下へ使者として派遣した。一方で石勒に対しては共に青州へ向かおうと申し出て油断させようと図り、さらには洛陽から略奪した美女や宝貨を多く贈った。た。だが、劉暾は東阿まで至った所で石勒の游騎部隊に捕らえられてしまい、その懐から王弥が曹嶷に宛てた書状が発見された。その内容を見た石勒は劉暾を殺害し、自分を仇なそうとした王弥もまた除こうと心に決めた。石勒は劉暾の処刑を秘匿したので、王弥は劉暾が殺された事を最期まで知ることはなかった。

また同じ頃、王弥は石勒が苟晞を捕らえて配下に加えた事を知り、その功績を妬んだが、敢えてそれを表に出さずに石勒へ「公(石勒)は苟晞を捕えながらこれを許された。何と神なる事であろうか!苟晞を公の左に据え、この弥(王弥)を公の右に据えれば、天下もすぐに定まるであろう」という謙った内容の書を送り、石勒の出方を窺った。この書を見た石勒は、側に控えていた張賓に「王弥は位が重いのに、その言葉は卑しいな。我を図ろうとしているに違いない。恐れるのはその狗のような心が表に現れる事だが」と語った。張賓は「王公(王弥)の動きを見ますに、その心は青州にあるのでしょう。桑梓・本邦(いずれも故郷を指す)というのは誰しも強い情念を抱くものであり、明公(石勒)にも并州を思う心があるでしょう。王公が躊躇して行動に移らないのは、明公がその背後を襲うのではないかと恐れているからです。その為、明公の考えを測ろうとしておりますが、幸いにもまだそれを得ておりません。今のうちにこれに対処しなければ、恐らく曹嶷が合流して彼の羽翼となりましょう。そうなれば、後で悔やもうとも及びませんぞ!徐邈は既に去り(少し前に側近の徐邈・高梁は兵士数千人を率いて王弥の下から離反していた)、軍勢も弱体化していますが、その影響力を見ますになお盛んであります。誘い出して潰滅させるべきです」と答え、王弥の誅殺を勧めると、石勒はこれに同意した。

同月、石勒は陳留郡浚儀県の蓬関に進んで乞活陳午と交戦した。この時、王弥もまた乞活の劉瑞と対峙していたが、劣勢に立たされたので石勒へ救援を要請して来た。石勒は初めこれを無視しようとしたが、張賓は進み出て「明公はかねてより王公へ近づく機会が得られぬ事を憂慮しておられました。今、天はその好機を我らに授けられたのです。 陳午など小人に過ぎず、どうして寇(大敵)に成り得ましょうか。王弥こそ傑物であり、我らの害とならんとするでしょう」と述べ、王弥を救援してその信用を得るよう勧めた。石勒はこれに従って軍を転進させ、劉瑞軍を急襲してその首級を挙げた。これに王弥は大いに喜び、劉暾が殺害されたのを知らなかったこともあり、石勒に警戒心を抱く事は無くなった。

その後、石勒はすぐさま軍を返して再び陳午と肥沢において交戦したが、陳午の司馬である李頭は「公は生まれながらにして神武を有し、まさに四海(天下)を平定しようとしております。四海の将士、庶民はみな明公を仰望し、塗炭の苦しみ(泥に塗れ火に焼かれるような酷い苦しみ)から救ってくれる事を望んでおります。公と天下を争う者は他におりますのに、公はこれを図らずに却って我ら流民を攻めております。我らはたかが郷党(郷里の同胞の集まり)に過ぎず、まさに公を奉戴しようとしておりますのに、どうしてこの様に急に逼ろうとするのですか!」と述べ、石勒へ停戦を請うた。石勒はこれに同意し、翌日軍を撤退させた。

暗殺実行

10月、石勒は遂に計画を実行に移し、陳留郡己吾県において酒宴を催して王弥を誘い出した。王弥はこれに疑う事無く宴席に赴き、心行くまでそれを楽しんだ。酒宴がたけなわとなった頃、石勒は刀を片手に王弥に接近すると、そのまま斬り掛かって殺害した。こうして王弥の兵を吸収すると共に、さらに平陽へ使者を派遣し、王弥に反逆の意志があった為に誅殺したと劉聡に報告した。

この報告に劉聡は激怒し、すぐさま使者を派遣して石勒へ「公輔(宰相)を独断で害するとは、無君の心でも有したか」とその行動を責め咎めた。だが、石勒の勢力は強大であったことから、その離反を恐れて処罰を加えることは出来なかった。逆に石勒は鎮東大将軍・都督并幽二州諸軍事・并州刺史に昇進し、持節・征討都督・校尉・開府・幽州牧も以前通りとなった。

この後、苟晞・王讃は石勒に謀反を起こそうと企てたが、石勒は事前にこれを察知し、両者と苟純(苟晞の弟)を処刑した。

葛陂に駐屯

母との再会

同月、石勒は将軍左伏粛を前鋒都尉に任じ、彼を前鋒にして豫州諸郡を襲撃すると、そのまま長江に達した所で軍を返し、葛陂(汝陰郡鮦陽県にある、現在の河南省駐馬店市新蔡県)に軍を留め、この地を活動拠点とした。ここで楚地方にいる諸々の夷族を降伏させ、彼らを将軍や2千石以下の官吏に任じた。そして、食料を寄付という名目で供出させて軍の兵士に与えた。

石勒は奴隷として売り飛ばされて以来、母の王氏とは生き別れになっていた。当時、その王氏は石勒の従子である石虎と共に、西晋の并州刺史劉琨の庇護下にあった。劉琨は石勒の懐柔を画策し、配下の張儒に命じて2人を石勒のいる葛陂まで送り届けさせた。併せて書も送り[20]、晋朝に帰順して共に漢帝劉聡を討つよう要請した。だが、石勒は取り合わずに「事功(国家に尽くして勲功を挙げる事)の道は一つではない。腐れ儒者どもには分かりようもないだろうがな。君は本朝(晋)に忠節を尽くしていればいい。我はもとより夷(異民族)であり、(彼らの為に)力は尽くすのは難しい」という内容の返書を送った[21]。だが、母と石虎を送ってくれたことに対しては感謝の意を示し、使者の張儒を厚くもてなして名馬・珍宝を贈って見送った。そしてこれ以後、劉琨との関係を断ち切った。

同月、自ら大軍を率いて滎陽へ侵攻した。石勒の到来を知った滎陽郡太守李矩は老人や弱っている者を山に避難させ、さらに牛馬を解き放った上で伏兵を設けて敵軍を待ち受けた。石勒の兵士は牛馬を見つけるや先を争って捕らえようとしたが、ここで李矩は伏兵を一斉に出撃させ、大呼して襲い掛かった。これにより石勒軍は大敗し、多くの兵を失い、撤退を余儀なくされた。

建業侵攻を画策

312年2月、石勒は建業の制圧を目論み、葛陂に砦を築いて軍事拠点として整備する共に、農業と造船に力を注いで軍備を整えた。これを知った琅邪王司馬睿(後の東晋の元帝)は諸将に江南の兵を率いさせて寿春に集結させ、揚威將軍紀瞻を総大将として全軍を統括させて石勒を迎え撃たせた。

石勒は着々と侵攻の準備を進めていたが、葛陂では3カ月に渡って長雨が降り続くようになり、軍中では飢餓に加えて疫病が蔓延するようになった。これにより兵の大半を失ってもはや戦どころではなくなってしまい、さらには檄書がひっきりなしに次々と届き、晋軍が刻一刻と接近している事が知らされた。

進退窮まった石勒は諸将を招集して対応策を検討すると、右長史刁膺は進み出て「ひとまず司馬睿に降伏する旨を伝えて許しを請い、晋将として河北を平定する事を申し出るのです。そうして敵軍が退却するのを待ち、それからじっくりと対応策を検討すればよいかと」と進言したが、石勒は何も答えずに深い溜息をついた。次いで中堅将軍夔安は、高所に逃れて雨水を避ける様進言したが、石勒は「将軍は何を怯えているのか!」と怒った。続いて孔萇・支雄を始めとした30将余りは「呉軍(江南の軍)は未だ集結しておりません。萇(孔萇)らにそれぞれ300の歩兵をお与えください。船で三十道余りを分散して進み、夜襲を掛けて城を登り、呉の将頭(総大将)を斬って御覧に入れましょう。城を得てしまえば、兵糧もこちらの物となります。そうなれば、今年中には丹陽を撃ち破り江南を平定し、 司馬家の児輩(子供ら)を諸共捕らえる事が出来ましょう」と進言すると、石勒は「これこそ勇将の計略である!」と笑い、各々に鎧馬1匹を下賜した。

最後に石勒は張賓の方を顧みると「君はどう思うかね」と問うた。張賓は「将軍(石勒)は京師(洛陽)を攻略し、天子の生け捕りや王侯の殺害、妃主の略奪にも加担しました。(晋の人間にとっては)将軍の髪を全て引き抜いたとしても罪の数に及ばないでしょう。どうして再び臣下として(晋朝を)奉る事が出来ると思えましょうか!そもそも去年に王弥を誅殺した後、ここに拠点を築くべきではなかったのです。今、天は数百里に渡って長雨を降らせているのは、将軍にここに留まるべきではないと示しているのでしょう。鄴には険固なる三台(氷井台・銅雀台・金虎台の3つの宮殿)があり、西はすぐ漢都平陽に接して四方を山河によって囲まれています。まさしく『喉衿の勢(要害の地勢)』を有しております故、北に移ってこれに拠り、河北を経略するのです。背く者を討って降伏する者を慰撫し、その上で河北が平定されれば、天下に将軍の右に出る者はいなくなりましょう。今、晋軍は寿春を守っており、将軍が攻めてくるのを恐れております。我々が軍を返したと聞けば、彼らは喜んで兵を退くことでしょう。奇兵で襲撃する暇などありますまい。将軍は先に輜重を北道に沿って先発させ、自らは大軍を率いて南下して寿春に向かう振りをするのです。輜重が十分遠くまで行ってから、大軍をゆっくりと転進させれば、どうして進退を恐れる事などありましょうか!」と答えた。石勒は服の裾を払って立ち上がり、髯を震わせると「張君(張賓)の計こそ是である!」と、方針を決した。

続け様に刁膺へ「貴公は補佐をする立場にあり、共に大功を成すこと考えるべきであるのに、何故に怖気づいて我に降伏を勧めたのか!このような策は斬首に値する!だが、君が臆病なまでに慎重なである事は熟知している。故に特別に不問に付そう」と叱責し、彼を右長史の任から解いて将軍に降格し、代わりに張賓を右長史に昇進させて中塁将軍を加えた。これ以後、石勒は張賓の事を名指しで呼ぶ事はなく、「右侯」と呼び敬うようになった。

葛陂より撤退

石勒は葛陂を出発して北へ向かうと共に、時間を稼ぐために石虎に騎兵2千を与えて寿春に向かわせた。石虎が軍を進めると、江南からの米や布を積んだ輸送船数10艘に遭遇したが、石虎の将兵は我先にとこれらに群がって備えを怠ってしまった。そこに紀瞻率いる晋軍の伏兵が一斉に姿を現わしたため、石虎軍は巨霊口で敗北を喫して500人を超える水死者を出し、さらに100里に渡って追撃された。紀瞻軍が石勒本隊に近づくと兵士は動揺し、晋軍本隊がそこまで迫っていると口々に語り合った。石勒は陣を布いてその来襲に備えさせたが、紀瞻も逆に石勒の伏兵を警戒していたので、敢えて軍を進める事無く寿春へ軍を返した。こうして石勒は無事に葛陂を脱する事が出来た。

漢将時代(襄国統治時代)

地盤を確立

棘津を渡河

6月、石勒は北に向かったものの、行く先々で砦は堅く守られ、農作物は略奪されないように全てが取り除かれており、略奪しようにも得る物が無かった。軍は深刻な飢餓状態に陥り、遂に兵同士が食糧を巡って争い合うまでに至った。東燕(現在の河南省新郷市延津県)まで達すると、汲郡出身の向冰が数千の衆を纏め上げて枋頭の砦に拠っていた。石勒は棘津(黄河の渡し場であり、延津県東北にある)から北に渡河しようと考えていたが、向冰に阻まれる事を憂慮し、諸将を集めて策を練った。張賓は進み出て「聞くところによりますと、冰(向冰)の船は瀆中(水路)にあり、岸に上げられていないようです。勇猛な者千人を選抜して、間道を縫って密かに渡河させ、その船を急襲して奪い取りましょう。その後に大軍を渡河させてしまえば、必ずや向冰を生け捕りにする事が出来ましょう」と献策すると、石勒はこれに従った。

7月、支雄・孔萇を文石津から筏を使って密かに渡河させた。石勒自身は酸棗から棘津へと向かった。向冰は石勒軍が動いたと知り、船を集めて迎撃しようとした。その時既に支雄らは渡河を完了させて向冰の砦門に到達しており、船30艘余りを手に入れると、兵を全て渡河させていた。そして、主簿鮮于豊に向冰を挑発させ、3ヶ所に伏兵を配置して撃って出てくるのを待ち受けた。向冰が挑発に乗り撃って出てくると、3方から伏兵が一斉に姿を現わし、向冰は挟み撃ちに遭い軍は潰滅した。この勝利によって石勒は食糧や資材を手に入れ、軍はようやく息を吹き返した。

襄国に拠る

同月、さらに進軍を続けて鄴城へ侵攻した。石勒にとってはこれが3度目の鄴攻めとなった。鄴を鎮守する北中郎将・魏郡太守劉演は鄴城内の三台に籠って守りを固めたが、配下の臨深牟穆は数万の兵を伴って石勒に降伏した。

諸将はみな勢いのまま三台を攻略しようと考えていたが、張賓だけは「演(劉演)は弱いといえどもなお数千を従えており、加えて三台は険固な地であります。すぐに降すのは難しいと思われますが、捨て置いたとしてもやがて彼は自潰するでしょう。今、王彭祖(王浚)・劉越石(劉琨)こそが公(石勒)にとって大敵といえます。彼らの備えが整う前に攻め取るべきであり、演(劉演)は顧みるほどの存在ではありません。天下では大乱が巻き起こっており、明公(石勒)は大兵を擁していはおりますが、遊行や羇旅の身分(拠点を定めずに各地を流浪していた事を指す)のままでは人は志を定める事は出来ず、万全を保って天下を制することなど出来ません。密かに便益なる土地を選んで拠点とし、広く兵糧や資材を運び入れ、西の平陽(漢の都)と連携を取り合い、幽・并(王浚のいる幽州と劉琨のいる并州)の地を掃定するのです。これでこそ桓文(斉の桓公と晋の文公)の業績を打ち立てたといえましょう。そもそも地を得た者は栄えるものであり、地を失った者は亡ぶものなのです。この地には邯鄲襄国というの旧都が存在し、険阻な山を頼みとした形勝(要害)の地といえます。これら2つの邑(都市)より1つを取って都とし、然る後に将軍を四方に放ち、奇略を授けて各地の併呑に当たらせるのです。『推亡固存(亡びに向かう勢力を打ち倒し、自らの勢力を強固にする事)』・『兼弱攻昧(弱者が連携して衰えた強国を打ち倒す事』をもってして群凶を除けば、王業は図れましょう」と進言した。この意見に石勒は「右侯の計略こそ正しい!」と全面的に賛同し、遂に方針を変えて襄国へと軍を進め、これを占拠した。これまで石勒は敢えて活動拠点を設けずに各地を流浪していたが、これ以後は襄国を本拠地として河北の平定へ突き進む事となる。

さらに張賓は「今、我らがこの地に居した事で、彭祖(王浚)・越石(劉琨)の警戒は深まったと思われます。恐れるのは、城の堀が未だ固まらず、物資も整わぬ内に、二寇(王浚・劉琨)が共に至る事です。広平の諸県は豊作との事ですので、速やかに諸将に穀物を徴収させ、備えをしておくべきです。また、使者を平陽(漢の都)へ派遣し、この地に拠点を築いたことの意図について具に伝えておくべきです」と進言した。石勒はこれを聞き入れ、劉聡へ上表の使者を送ると共に、諸将に冀州郡県の砦を攻撃させた。これによりその多くが降伏し、兵糧を襄国へ送った。上表文を受け取った劉聡は使者を派遣し、石勒を使持節・散騎常侍・都督冀幽并営四州雑夷征討諸軍事・冀州牧に任じ、上党郡公に進封する旨を告げた。また、5万戸を加増し、開府・幽州牧・東夷校尉の地位についてはこれまで通りとした。

段部の襲来

当時、広平出身の游綸張豺は数万の兵を擁して広平郡任県の苑郷城に拠点を構えていた。王浚は石勒への備えとして、游綸と張豺に官位を授けて傘下に引き入れ、石勒に対抗させた。

12月、石勒は夔安・支雄ら7将を苑郷攻略の為に出撃させ、彼らは瞬く間に城の外壁を撃ち破った。だが、王浚はこの隙を突き、督護王昌・中山郡太守阮豹らに諸軍を統率させて手薄となった襄国攻略を命じた。さらに、王浚の傘下に入っていた鮮卑段部段疾陸眷段末波段匹磾段文鴦らもまた、5万余りの兵を率いて王昌と共に襄国へ進撃した。

この時、襄国城では堀の改修作業が終了していなかったため、石勒は城から離れた場所に幾重にも防御柵を築かせ、進路を遮断して守りを固めた。段疾陸眷軍が渚陽に屯営すると、石勒は諸将を繰り出して続け様に決戦を挑んだが、全て蹴散らされた。

勢いづいた段疾陸眷は攻城具を大いに製造し、一気呵成に城を攻め落とさんとした。この情報が石勒軍に伝わると、兵の間に動揺が走った。石勒は将を集めて軍議を開くと「今、寇(敵軍)はいよいよ迫っており、敵は多く我らは寡兵である。城塹(城の外堀)も固まっておらず、包囲して攻められれば、解く事は不可能であろう。外からの救援も無く、内にも兵糧が底を突いている。たとえ孫呉(孫武と呉起)が生き返ったとしても守り切る事は出来ぬであろう。そこで我は将士を選抜し、大陣を布いて野戦で雌雄を決しようと考えるが、どう思うか」と意見を求めたが、諸将はみな「堅守して敵の疲弊を待ち、敵軍が自ら退いてから追撃するべきです。これで勝てない訳がありません」と口を揃えた。その為、石勒は張賓と孔萇の方を顧みて「君らどう考えるかね」と意見を求めた。張賓らは「疾陸眷(段疾陸眷)らは来月上旬にも北城に決死行を仕掛けるとの報告があります。その大軍は遠くより到来し、連日の戦闘で我が軍勢の弱さを知った事で、我らに野戦などする気概は無いと考え、必ずや注意を怠っている事でしょう。今、段氏の種族は勢い盛んでありますが、その中でも末波(段末波)が最も秀でており、精強なる兵は事ふぉとく彼の下に配備されております。出撃して一戦を交えなければ、我が軍が弱勢である事を示すだけです。ここは速やかに北壁に穴を開けて20余りの突門を造らせ、その完成を待ってから、賊どもが守備を整える前にその不意を突いて撃って出るのです。そのまま直進して末波(段末波)の陣営を急襲すれば、敵は必ずや慌てふためき、計略を設ける暇も無いでしょう。これこそ『迅雷は耳に及ばず』です。段末波軍が敗れ去ったとなれば、他は攻めずとも自ら瓦解するでしょう。彼さえ生け捕ることが出来れば、彭祖(王浚)など遠からず破れましょう」と勧めた。石勒は笑ってこの意見を採用し、軍議を閉じた。そしてすぐさま孔萇を攻戦都督に任じて北城に突門を造らせた。

想定通り段部は北壁の近くに布陣をし、攻勢を開始した。石勒は城壁の上から望み見て、その陣営がまだ整っておらず、将士が武器を手許に寄せずに眠り込んでいるのを確認した。そこで、密かに連れてきた将士に城壁の上で太鼓を鳴らさせ、これを合図に孔萇が各突門に配していた伏兵を出撃させた。孔萇自身も段末波の陣へと急襲を掛けたが、段末波の兵は精鋭揃いであったので、打ち破れずに兵を退かせた。段末波はすぐさま追撃を掛けて門へと侵入したが、深入りしすぎたために石勒軍に生け捕られた。段疾陸眷らは段末波の敗北を知ると戦意喪失し、散り散りに逃げ去った。孔萇はこの勝利に乗じて追撃を掛けて散々に撃ち破り、鎧馬5千匹を鹵獲する大戦果を挙げ、道中には敵兵の屍が30里余りに渡って転がった。段疾陸眷は敗残兵を収集し、渚陽まで退却した。

石勒は彼らの下へ使者を立てて講和を求めると[22]、段疾陸眷はこれに応じ、鎧馬250匹、金銀各々1簏を贈ると共に段末波の弟3人を人質に差し出し、段末波との交換も求めた。諸将はみな段末波を殺して敵の戦意を挫く事を勧めたが、石勒は「遼西鮮卑(段部を指す)は強国であり、もとより我らとの間に怨恨など無く、ただ王浚に利用されたに過ぎぬ。今、1人を殺して、1国から怨みを買うのは計略とはいえぬ。解放してやれば必ずや我らの特に深く感謝し、二度と王浚に利用される事も無くなろう」と言い、申し出を受け入れた。さらには金や絹を厚く贈ると共に、石虎を渚陽へ派遣して段部との盟約を交わさせ、さらに石虎と段疾陸眷の間に兄弟の契りを結ばせた。これにより、段疾陸眷らは渚陽より退却し、王昌もまた単独で交戦を続ける事は出来ず、薊に引き上げた。石勒は段末波を召し出して酒宴を執り行い、ここで父子の誓いを交わした。そして、使持節・安北将軍に任じ、北平公に封じてから遼西へと帰還させた。段末波は石勒の厚恩に感じ入り、帰路の途中、日毎に南へ向かって3度拝礼したという。これ以後、段疾陸眷や段末波は王浚の石勒討伐に加担しなくなり、段部は内部分裂を起こすようになった。これにより王浚の威勢は次第に衰えていく事となった。

石勒は参軍閻綜を劉聡の下に向かわせ、勝利を上奏させた。

同月、苑郷を守っていた游綸・張豺もまた段疾陸眷の敗北を知り、石勒に帰順した。石勒は幽州攻略の準備を進めており、将士を養うべき時だったので、彼らの帰順を認めた。そしてみな将軍として取り立て、さらに游綸を主簿に任じた。

三度目の鄴攻略

同月、石勒は兵を派遣して信都を攻め、冀州刺史王象を討ち取った。王浚は邵挙に冀州刺史を代行させ、信都の守りを固めさせた。

313年4月、石虎に鄴への侵攻を命じた。石虎は城に攻め入って三台を陥落させ、守将の劉演を濮陽郡廩丘県へと敗走させた。劉演配下の将軍謝胥田青郎牧は三台の流民を引き連れて石虎へ降伏した。石勒は桃豹を魏郡太守に任じて鄴の統治を委ね、彼らを慰撫させた。

同月、安平郡広宗県に進出し、上白城を守る乞活(流民集団)の李惲を撃ち破り、その首級を挙げた。石勒は降伏した兵を生き埋めにしようとしたが、その中にかつての恩人である郭敬の姿が見えた。石勒は彼に近寄ると「汝はもしや郭季子ではないか」と尋ねた。郭敬は叩頭して「その通りでございます」と答えた。石勒はすぐさま馬から下り、郭敬の手を取ると「今日ここで再び相見みえる事が出来たのは、正に天の思し召しである!」と涙を浮かべた。そして衣服と車馬を郭敬に与え、上将軍に任じ、降伏した兵も全て許して彼の配下につけた。

5月、孔萇に命じて襄城郡定陵県を攻撃させ、王浚が任じた兗州刺史田徽を斬り殺した。乞活の薄盛[23]勃海郡太守劉既を捕らえると、5千戸を引き連れて石勒に帰順した。これにより山東の郡県は相次いで石勒の支配下に入った。

劉聡はこれまでの功績を称え、石勒を侍中・征東大将軍に任じ、それ以外の官爵はこれまで通りとした。また、母の王氏を上党国太夫人、妻の劉氏を上党国夫人とし、王妃と同等の章綬首飾をつけることを許した。

烏桓審広漸裳郝襲もまた王浚に見切りを付け、密かに石勒に使者を派遣して帰順を申し出た。石勒はこれを受け入れ、手厚く慰撫した。

この時期、人質として留まっていた段末波の弟が遼西へと逃亡した。石勒はこれに激怒し、見逃した役人を皆殺しにした。

司州や冀州が次第に安定を取り戻し始めると、人民はまた租税を納めるようになった。石勒は太学を設置すると、経学に精通して文学の才能がる官吏を文学掾として取り立て、将校の子弟から選抜した300人を教授させた。またこの時期、石勒は母の王氏を亡くした。彼はその亡骸を山谷深くに埋葬し、その詳しい場所を知る者は誰もいなかった。九錫の礼を備えた上で、襄国城の南において改めて公式に母の葬儀を行った。

この時期、石勒は桃豹に代わって石虎を魏郡太守に任じ、鄴城と三台の統治を任せた。

王浚を滅ぼす

併呑を画策

西晋崩壊後、幽州を支配する王浚は独断で皇太子の擁立や百官の配置を行うなど、自立の動きを鮮明にしていたが、この時期になると遂には帝位の僭称を目論むようになった。だが、反対した群臣や名士を尽く弾圧した事で士人らの離反が相次ぐようになり、さらには頼みとしていた鮮卑段部や烏桓にも背かれてしまった。加えて幽州では蝗害や旱害が連年に渡って続いており、その勢いは益々衰える一方であった。

11月、石勒は王浚の勢力併呑するを目論み、先んじて使者を派遣してその動向を観察しようと考えた。これを受け、群臣はみな「羊祜陸抗に書を送って互いに通じ合ったように、対等に彼と接するべきです」と勧めた。この時、張賓は病で床に伏せていたが、石勒は彼の下に赴いてこの件について相談すると、張賓は「王浚は三部の力(段部・宇文部・烏桓)を頼みとし、南面して称制しております(南を向くのは皇帝として臣下に応待する際の作法)。表向きは晋の臣下を称してはいますが、晋を廃して自ら立つ志を抱いているのは明白です。必ずや四海の英雄と協力して事業の完遂を図ろうと考えているでしょうが、これに従う者はおりません。今、将軍(石勒)の威声は内外に響き渡り、その動向一つが(王浚の)存亡に関わります。楚(項羽)が韓信を招いたように、彼は将軍を自分の配下に取り込もうとするでしょう。今、使者を派遣して動向を探ろうと考えておられるようですが、誠款の形(誠実さ)が無くば猜疑を生んでしまうかも知れません。こちらの企みがばれてしまえば、後に奇略を用いようとしても、用いる所が無いでしょう。そもそも大事を成す者は、必ず先にへりくだって身を低くするものです。節を曲げて称藩(王浚の臣下を称する事)し、これを推奉したならば、どうして疑われる事を恐れましょうか。羊祜と陸抗の話は、ここでは当たらないかと思います」と答えた。これに石勒は「右侯の計略こそ正しい」と感嘆し、その計画を採用した。

使者を往来

12月、石勒は舎人王子春董肇に多くの珍宝を持たせて王浚の下へと派遣し、王浚を天子に推戴すると称して上表文を奉った。その内容は『この勒は本来はしがない胡人であり、の子孫に過ぎません。晋の綱紀の緩みにより海内(天下)は飢乱に陥り、流民は困苦に喘いで冀州に逃げ込み、その命を守るために密かに互いに結集し合っております。今や晋祚(晋室)は零落し、遠く会稽の地に移ったため、中原から主がいなくなり、蒼生(庶民)は頼みとするものがありません。伏して惟みますに、明公殿下(王浚)は州郷(両者の郷里である并州を指す)において人望を有して貴い身分にあります。四海(国内)を纏め上げて帝王となる者が公の他に誰がいましょうか!この勒が身命を投げ打って義兵を興し、暴乱を誅しているのは、正に明公のためであります。伏して願いますのは、殿下が天に応じて時に順じ、皇阼(皇帝位)に登られることであります。勒が明公を奉戴するのは天地父母を慕うのと同じであり、明公がこの勒のささやかな心を察していただければ、子の如く従うものであります』というものであった。また、王浚の側近である棗嵩にも書を渡すと共に厚く賄賂も贈った。この頃、王浚の陣営では段疾陸眷が反乱を起こしており、士民の多くが彼の下を去っていたため、王浚は石勒の申し出を大いに喜んだが、これが本心かどうか計りかねていた。だが、王子春が石勒の忠節を盛んに言い立てた[24]ので、王浚は遂に信用して石勒の下に使者を派遣する事を決め、返礼として贈り物も携えさせた。

同月、王浚の司馬游統(前年に石勒に帰順した游綸の兄)は范陽の統治を任されていたが、彼は王浚を見限って石勒に帰順しようと考え、密かに使者を出した。だが、石勒は使者の首を刎ねると、その首を王浚の下へと送り届けて自らの誠実さを示した。王浚は游統を罪に問わなかったが、ますます石勒の忠誠を信じるようになり、その忠義を疑う事は二度となかった。

314年1月、王子春が王浚の使者と共に襄国へ戻って来た。石勒は予め勇猛な兵や精巧な武具・兵器を見えないよう隠しておくよう命じ、その替わりに弱った兵や空虚な府庫のみを王浚の使者に見せつけた。また、北面してその使者に会い(北を向くのは皇帝に謁見する時の作法)、王浚からの書を受け取った。さらに王浚から贈られた払子を敢えて手に取らず、壁に掛けて朝・夕に拝礼すると、使者へ向けて「我は王公(王浚)と直に会う事は叶いませぬので、王公から賜った物に対して、王公に会うかのように拝しているのです」と語った。そして再び上表文を奉って董肇に渡し、王浚の下へと派遣した。そこには『3月中旬には自ら幽州へ参上し、尊号を奉上しようと思っております』と言う内容が記していた。また、棗嵩へも并州牧・広平公の地位を求める内容の手紙をしたため、本気で王浚に従属する姿勢があることを示した。

使者を返した後、石勒は王子春を呼び出して王浚の政事に関して質問した。王子春は「幽州は去年の大洪水のため、人民は穀類を食す事が出来ておりませんが、浚(王浚)は粟百万を積んでいるにもかかわらず、これを救済しようとしませんでした。それ所か、刑事も政事も苛酷を極め、租税も甚だ盛んと言った有様です。賢良なる者を害して諫める者を誅し、下々の者はこれに堪えられず、尽くが背いて他所へ流れていきました。 外では鮮卑・烏桓が離反し、内では棗嵩・田矯らが私腹を肥やしております。その為に人心は乱れて士卒は疲弊し、誰もがその敗亡を理解しております。さらには楼閣を建てて百官を並べ、自らを漢高(劉邦)や魏武(曹操)ですら比べるには足りぬと豪語しております。幽州では怪しげな謡が甚だ流行り、聞いた者はみな心を寒くしているといいますが、それでもなお王浚は泰然自若として不安を抱く様子もありません。その滅びる時期は近いでしょう」と答えた。これを聞いた石勒は机を撫でながら笑みを浮かべて「これで王彭祖は間違いなく生け捕れるな」と自信を覗かせた。

その後、王浚の使者は薊城に帰還すると「石勒の形勢は寡弱であり、その忠誠に二心は無いでしょう」と王浚へ告げた。これに王浚は大いに喜び、益々石勒への信頼の度を強めると共に、さらに増長して備えを怠るようになった。

出征を決断

2月、石勒は兵士を揃えて王浚討伐を決行しようとしたが、并州に割拠する劉琨や鮮卑・烏桓の勢力が後顧の憂いであったため、躊躇してなかなか出発する事が出来なかった。この様子を見た張賓は進み出て「そもそも、敵国を強襲するにはその不意を突かねばなりません。それなのに今、出陣準備をしておきながら幾日経っても出陣されようとしない。劉琨・鮮卑(段部)・烏桓が後患となる事を恐れているのではないですか」と尋ねた。石勒は「その通りだ。どうしたらよいだろうか」と問うと、張賓は「彭祖(王浚)は幽州に拠っておりますが、それも三部の力に頼っての事でした。今、その全てが離反し逆に対立している状況です。これはつまり、外からの援護も無いまま、我が軍と対しなければならないと言う事です。幽州は食料に乏しく、人民はみな粗末な食事をしております。親しい物ですら離反が相次ぎ、兵も弱体化しております。これは内に強兵の無いまま、我が軍を防がなければならないと言う事です。もし大軍が郊(都の傍)に姿を見せれば、必ずや土が崩れるように瓦解するでしょう。今、三方の賊は平定されておりませんが、その智勇は将軍に及ぶわけも無く、将軍が遠征したとしても動く事は出来ないでしょう。しかも奴らは将軍が千里の遠方である幽州を取れるとは考えていないようです。軽騎であれば往復に二日と掛かりませんから、仮に三方が動いたとしても急ぎ軍を返せばいいのです。そうすれべ、彼らが出陣を謀議している間に我らは帰還していましょう。機に応じて電撃的に発し、好機を逃してはなりません。また、劉琨と王浚と言えば、名目上は同じ晋の臣下ですが、実際には仇敵同士です。もし琨(劉琨)に書を送り、人質を送って講和を求めておけば、必ずや喜んで我が方に付いて浚の亡びを喜ぶ事でしょう。そうなれば浚を救おうとも、我らを襲おうとも思わないでしょう」と答えた。これを聞いた石勒は「我がまだ長らく悩んでいる事に、右侯は既に結論を出していたのか。もはや我は何を迷おうか!」と述べ、出征を決断した。

薊城攻略

同月、まだ夜の明けきらぬ内に、火を焚きながら軽騎兵を率いて出陣した。

主簿游綸の兄の游統は王浚に仕えて范陽を統治しており、彼は石勒に帰順する意思を示していたが、石勒は逆に游綸が寝返って游統に経略を漏らす事を懸念し、柏人まで進軍した時に游綸を殺した。

また、張慮を使者として劉琨の下へ派遣し、書を渡して『我の過ちはとても多く重い。浚を討つことで少しでも償いい』と伝え、併せて人質も送った。劉琨は以前より王浚と対立関係にあったので、この申し出に大いに喜び『我が猗盧(王の拓跋猗盧)と共に勒討伐を決めたところ、進退に窮した勒は幽都(王浚)討伐によって贖罪することを願い出た。よって我々は六脩(拓跋六脩)を南下させて平陽(漢の首都)を攻撃し、僭偽の逆類(皇帝を僭称した劉聡)を除かん。そうすれば、死を悟った逋羯(石勒)も降るであろう。天に順じて民を助け、皇家を翼奉するのだ。ここに及んで、かねてより積んできた誠心により、神霊の助けたる所となるであろう!』と諸州郡に檄文を飛ばした[25]

3月、石勒軍が易水まで進軍すると、王浚の督護孫緯は薊城へ急報を知らせると共に、軍を繰り出して防ごうとしたが、石勒に寝返ろうと考えていた游統が反対した事により軍を動かせなかった。石勒到来が薊城にも知れ渡ると、王浚の将士はみな「胡(石勒)とは貪欲であり、そこに信義などありません。必ずや詭計を有しております。どうかこれを迎え撃たせてください」と求めたが、王浚は「石公がここまで来たのは、正に我を奉戴しようとせんがためである。これ以上これを撃つなどと言う者はこの場で斬る!」と怒鳴った為、諸将は口をつぐんだ。王浚は石勒を持て成す為に宴席を設けるよう命じ、その到着を待った。

石勒は早朝に薊に至ると、門番に命じて開門させた。また、兵が潜んでいるのではないかと疑い、王浚に献上する礼物であると偽ってまず牛や羊数千頭を駆け込ませ、 街道を埋め尽くす事でもし伏兵がいても身動きが取れないようにした。この事態に王浚は初めて不信感を抱き、驚き戸惑って完全に冷静を失った。さらに石勒は入城するや兵を放って略奪を行わせ、ここに至って王浚の側近は兵を繰り出して対処する事を求めたが、彼はそれでも許可を出さなかった。石勒はそのまま庁堂(政務を行う官府)に入殿すると、部下に命じて逃亡を図った王浚を捕らえさせ、その妻と共に自らの前に連れてこさせた。王浚は「胡奴如きが及公(目下の者へ向けて使う一人称)を謀るとは。どうしてこのような凶逆をなすか!」と罵ったが、石勒は記室参軍徐光を介して 「君の位は高く、爵は上公に列せられていた。幽都と言う精強な国に拠り、その勢力は突騎の郷である燕の地を全て跨ぎ、強兵を手中にしていた。しかし、京師(洛陽・長安)が陥落しようとしているにもかかわらず、ただ傍観するだけで天子を救おうともせず、あまつさえ自ら取って代わろうとしていたな。何と凶逆であろうか!また、姦暴(暴虐)なる者に欲しいままにさせ、百姓を虐げ、忠良の士を殺害した。己の欲望のままに行動し、毒を燕の地に蔓延させた。これが誰の罪と思うか!お前を残していても、天のためにはならぬ」と王浚と責め立てさせた。また、民衆が餓えているのにも関わらず、穀物五十万石を溜め込んだまま振給しなかったことも併せて咎めた。

その後、石勒は将軍王洛生に騎兵500を与え、王浚を襄国まで護送させた。その途上、王浚は隙を見て自ら水に身を投じて自殺を図るもあえなく引き上げられた。そして襄国まで連行され、石勒が帰還した後に市場に引きずり出され、その首を刎ねられた。

戦後処理

薊城を制圧した後、王浚に仕えていた将佐達は次々に石勒の下を訪れては謝罪し、賄賂を贈って命乞いをしたが、石勒は朱碩・棗嵩・田嶠らが賄賂を横行させて政事を乱し、幽州において患いを為していた事、また游統が王浚に忠を尽さなかった事を責めてその首を刎ねた。さらには王浚直属の精鋭1万人も処刑し、烏桓の審広・漸裳・郝襲・靳市については襄国へ送還した。その一方、荀綽・裴憲についてはその忠実さと清廉さを称え、荀綽を参軍に、裴憲を従事中郎に各々抜擢し、車と服を支給した。また、王浚に拘留されていた流民は解放し、各々の故郷へと帰してやった。

石勒は薊に2日留まった後、宮殿に火を放って焼き払い、軍を返して襄国へと帰還した。その際、元々西晋の尚書であった劉翰を寧朔将軍・行幽州刺史に任じて薊の統治を委ね、また各郡県に長官を置いた。

帰還の途上、王浚の督護であった孫緯は進路を遮断して強襲を仕掛けて来たが、石勒は辛うじて逃げ延びた。

襄国に帰還を果たすと、東曹掾傅遘に左長史を兼務させた上で使者として漢の首都平陽へ派遣し、王浚の首を奉じさせ、併せて戦勝の報告をさせた。劉聡は使者柳純に節を持たせて襄国へ派遣し、幽州平定の勲功をもって石勒を大都督・陝東諸軍事(陝東とは陝塬(現在の河南省三門峡市陝州区)より東側の地域を漠然と指す)・驃騎大将軍・東単于に任じ、使持節・侍中・開府・校尉・二州牧もこれまで通り継続とする旨を伝えた。また、金鉦・黄鉞(黄金で飾った打楽器と斧)、さらに鼓吹を前後二部、12郡を増封されたが、石勒はこれを固辞して2郡のみを受けた。

また、石勒は左長史張敬ら11人を伯・子・侯に封じ、その他の文武官もその功績によって進位させた。

同月、王浚が任じた楽陵郡太守邵続厭次に割拠しており、石勒は子の邵乂(邵乂は王浚の督護であったので、薊にいた)を派遣して帰順を誘った。邵続はこれに応じたので、石勒は邵乂を督護に任じて傍に仕えさせた。

薊城失陥と邵続の寝返り

薊の統治を委ねられた劉翰であったが、彼は石勒への従属を拒んで段部の有力者である段匹磾の下へと帰順し、その勢力を薊城へ迎え入れてしまった。さらに4月[26]、邵続もまた厭次ごと段匹磾に呼応して石勒から離反し、劉胤江東に派遣して司馬睿(後の東晋の元帝)と連携し合った。これに怒った石勒は邵続の子の邵乂を殺害し、さらに8000騎を率いて邵続の守る厭次を包囲したが、邵続は石勒の攻撃に備えて予め段匹磾に救援を要請していた。段匹磾は弟の段文鴦を邵続の救援に送り、石勒はこれを知ると、攻城具を捨てて東に撤退した。邵続・段文鴦により安陵まで追撃を受け、これを振り切ったものの官吏が捕らえられ、三千家余りが奪われた。また、邵続らは騎兵を派遣して石勒領の北辺を脅かし、常山が襲われて二千家が奪われた。

并州を獲得

劉琨・劉演との争い

9月、石勒の将軍支雄は廩丘へ侵攻して北中郎将劉演と争うも、返り討ちに遭った。勝ちに乗じた劉演は将軍韓弘潘良頓丘を襲撃させ、石勒が任じた頓丘郡太守邵攀を斬った。だが、支雄は追撃して韓弘らを攻め、廩丘において潘良を討ち取った。

10月、劉琨は楽平郡太守焦球常山へ侵攻させ、石勒が任じた常山郡太守邢泰を討ち取った。さらに劉琨の司馬温嶠が西の山胡(匈奴の部族)討伐に向かったが、将軍逯明はこれを待ち伏せ、潞城において返り討ちにした。

同年秋、幽州・冀州が次第に安定してくると、石勒は初めて戸籍の実情を丹念に調べるよう州郡に命じた。そして、絹2匹、穀物2斛を出させるよう各々の戸に命じた。

同年、石勒の将軍陳午は統治する浚儀ごと反旗を翻した。

また同年、逯明は茌平へ侵攻して甯黒と交戦し、これを降伏させた。そのまま進軍を続けて東燕酸棗と立て続けに攻略し、2万戸余りを襄国に引き連れて軍を返した。

315年3月、石勒は漢朝廷へ「曹嶷は東方で割拠する意思があります。討伐すべきです」と上書した(当時、漢の青州刺史曹嶷は斉・魯一帯の郡県を尽く攻略し、臨淄を拠点として総勢10万を超える兵を擁していた。また、以前より前趙への貢献を絶やしており、独断行動が目立つようになっていた)。しかし、上書を受け取った劉聡は、石勒が曹嶷を滅ぼす事で更に勢力を拡大するのではと恐れ、進言を却下した。

7月、石勒は将軍葛薄濮陽侵攻を命じた。葛薄は濮陽を陥落させ、濮陽郡太守韓弘の首級を挙げた。

9月、劉聡が大鴻臚范龕に節を持たせて使者として襄国へ派遣し、石勒に弓矢を下賜すると共に書を下し、陝東伯の爵位を加え、征伐の自由を与える旨を告げた。また、刺史・将軍・守宰・列侯の任命について全て石勒に委ね、年毎に報告させることとした。さらに、長子の石興を上党国世子に立て、翊軍将軍を加え、驃騎副貳(驃騎大将軍である石勒の補佐)に任じた。

同年、劉琨は配下の王旦を石勒領の中山へ侵攻させ、王旦は石勒が任じた中山郡太守秦固を駆逐した。だが、石勒の将軍劉勉は望都関で敵軍を迎え撃ち、王旦を生け捕りにした。

316年4月、章武出身の王眘が科斗塁で挙兵し、石勒領の河間・勃海の諸郡を荒らし回っていた。そこで石勒は揚武将軍張夷を河間郡太守に、参軍臨深を勃海郡太守に任じ、各々に歩兵騎兵合わせて3千を与えて鎮圧にあたらせた。また、長楽郡太守程遐を昌亭に布陣させ、援護をさせた。また、平原烏桓の展広劉哆等の部落3万戸余りを襄国に移した。

廩丘を攻略

同月、石虎に乞活の王平が守る梁城を攻撃させたが、石虎は敗北を喫して退却した。

5月、石虎は劉演の守る廩丘へ侵攻した。邵続は段文鴦を劉演救援に差し向けたが、石虎が盧関津を固めていたため、段文鴦はこれ以上の進軍が出来ず、やむ無く景亭に軍を留めた。兗州・豫州一帯の豪族である張平らもまた挙兵して劉演救援に向かったが、石虎は夜の内に陣営を放棄して、外に伏兵を配置し、河北に帰還すると周囲に言いふらした。張平らはこれを信じ込み、空になった石虎の陣営に侵入した。これを確認した石虎は急襲を掛けて張平軍を撃ち破ち、勢いのまま廩丘へ攻め込んで遂にこれを陥落させた。劉演は段文鴦軍に逃げ込んだが、その弟である劉啓を捕縛し、襄国へと護送した。劉演・劉啓は劉琨の甥であり、石勒はかつて劉琨に母を庇護してもらった事により彼に恩義を感じていたので、劉啓に田宅を下賜し、儒官をつけて経を学ばせた。

同月、甯黒が石勒の下から離反すると、支雄・逯明が甯黒の守る東武陽を陥落させた。甯黒は河に身を投じ、支雄らは民1万人余りを襄国に移した。

この時期、蝗害が大発生し、中山・常山の被害が最も酷かった。中山に住まう丁零族翟鼠はこれに乗じて石勒に反旗を翻し、中山・常山に攻め込んだ。石勒は騎兵を率いて翟鼠軍の討伐に当たり、彼の母妻を生け捕りにすると、軍を返して帰還した。翟鼠は胥関に留まったが、やがて代郡へと逃亡した。

7月、河東や平陽にも蝗害は波及し、10人のうち5~6人が流亡するか餓死した。石勒は将軍石越に騎兵2万を与えて并州に駐屯させ、流民を綏撫して自らの領土へ招引させると、これにより20万戸の民が石勒に帰順した。劉聡は黄門侍郎喬詩を派遣して石勒の行為を責め咎めたが、石勒はこれを無視した。さらに、密かに曹嶷と結ぶようになった。

坫城の戦い

11月、石勒は楽平郡太守韓拠が守る坫城へと攻め込んだ。韓拠は劉琨に援軍を請うと、劉琨は箕澹衛雄に歩兵・騎兵併せて2万[27]を与えて石勒軍に当たらせると共に、自らも広牧に進軍して箕澹の援護についた。石勒は箕澹到来を聞いてこれを迎え撃たんとしたが、ある者が「澹(箕澹)の兵馬は精盛であり、一戦を交えるべきではありません。ここは兵を退いてこれを避け、溝を深く塁を高くしてその鋭気を挫き、攻守の勢が変わるのを待つべきです。そうすれば、必ずや万全を得られるでしょう」と諫めた。だが、石勒は「澹は大軍であるが、遠征してきているがために、体力は尽きている。また、多いと言っても烏合の衆に過ぎず、号令すら行き渡っていない。一戦を交えれば捕えられるというのに、どうしてこれを強いなどというか!しかも敵はすぐそこまで来ているのに、どうして退き下がることが出来るのか。大軍が一旦動き始めたなら、易々途中で引き返せぬぞ!もし澹が我が軍の退却に乗じたならば、反転して当たる暇も無くなる。そうなれば、どうして溝を深く塁を高くなど出来ようか!ここで戦わねば、自ずと滅亡の道をたどる事になるであろう」と反論し、言い終えると同時に立ち上がり、この者を斬り捨てた。

そして、孔萇を前鋒都督に任じ、三軍に「退き下がった者は、その場で斬る!」と命じた。また、険峻な地に拠ると、山上に囮の兵を配置し、その前に伏兵2部隊を潜ませた。その後、石勒は軽騎兵を率いて箕澹軍と戦ったが、頃合を見て兵を収め、北に逃げたように見せ掛けた。箕澹は兵に追撃を命じたが、十分に誘い込んだ所で石勒は伏兵を発し、その前後から挟撃を加えた。これによって箕澹軍を大破し、鎧馬1万匹を鹵獲した。箕澹・衛雄は騎兵千余りと共に代郡へ落ち延び、韓拠は劉琨の下に逃げ込んだ。この報告に并州は震えあがったという。

12月、劉琨の長史李弘は石勒に寝返り、劉琨の治める陽曲を始めとした并州の領土を明け渡した。進退窮まった劉琨は遂に段匹磾の守る薊へと逃亡した。石勒は陽曲・楽平の住民を分けてその一部を襄国に移し、守宰を設置してから軍を返した。石勒は左長史張敷を劉聡の下に派遣して戦勝報告をさせた。

同月、孔萇は桑乾まで箕澹を追撃し、そのまま代郡まで攻め込み、箕澹の首級を挙げた。

流民を収容

石勒が楽平の征伐に出た際、南和県令趙領は広川・平原・勃海の数千戸を招集して石勒から離反し、邵続の下へと帰順した。河間出身の邢嘏もまたかねてより石勒から招聘を受けていたが応じず、遂に数百の衆を糾合して石勒に背いた。これを受け、石勒は右司馬程遐を寧朔将軍・監冀州七郡諸軍事に任じ、冀州の諸郡県の巡察に当たらせた。

当時、司州・冀州・并州・兗州からの流民数万戸が遼西に居留していたが、相次いで様々な勢力から招引されたため、人民は生業を満足に出来なかった。

同月、孔萇らは幽州・冀州一帯で群盗として活動していた馬厳・馮䐗を攻撃したが、なかなか撃ち破れずにいた。石勒は濮陽侯張賓へ計略を尋ねると、張賓は「厳(馬厳)・䐗(馮䐗)はもともと、明公に恨みがあるわけではありません。また遼西の流民はみな故郷への思慕の念を抱いております。今はこれを攻めずに軍を返して、良き統治者を選抜して龔遂の事業を行わせるべきです。常制に拘らず、人徳と恩沢を明らかにして威武を掲げれば、幽冀の寇(幽州・冀州の略奪行為)は待たずして静まるでしょう。そうなれば、遼西の流民も相次いで帰順してくるでしょう」と進言した。石勒は「右侯の計こそ正しい」と述べると、孔萇らを帰還させた上で、武遂県令李回を易北都護・振武将軍・高陽郡太守に任じた。馬厳の兵の多くはかつて李潜という人物の部下であり、李回はかつて李潜の府長史であったため、馬厳の兵は李回の威徳を慕っていた。李回が着任したと聞くと、多くの兵が馬厳から離反して李回に付いた。馬厳は部下が離反したので恐れを抱き、幽州へと逃亡を図ったが、その途中に水に溺れて溺死した。馮䐗は兵を率いて石勒に降伏し、李回は易京へと移った。数千の流民がこの年だけで石勒に帰順したため、石勒は大いに喜んだ。この功績を賞して李回を弋陽子に封じ、300戸を加増した。また張賓には1千戸を加え、前将軍に昇進させたが、彼は固辞して受けなかった。

段部内乱

317年6月、前年より北伐を敢行していた東晋の豫州刺史祖逖が譙城へ進出した。石勒は石虎を派遣して譙を包囲させたが、桓宣が援軍を率いて譙に向かうと、石虎は撤退した。

石虎は長寿津を渡河して梁国へ侵攻し、梁国内史荀闔を殺した。

この時期、河朔ではまたも大規模な蝗害があり、并州・冀州では甚だ酷かった。

7月、劉琨は段匹磾・段渉復辰・段疾陸眷・段末波らと固安で面会し、石勒を討つべく謀議を重ねた。石勒は参軍王続を段末波の下に派遣し、貢物を贈って離間させようとした。段末波はかつて石勒に受けた恩に報いようと考えており、そこへ手厚い賄賂が贈られたため、段渉復辰・段疾陸眷へ引き返すよう説得した。この3人が離脱したため、劉琨と段匹磾もやむなく薊城へと帰った。

邵続は甥の邵済に石勒の領地である勃海を攻撃させ、邵済は3千人余りを略奪して帰還した。劉聡配下の趙固は洛陽ごと東晋に帰順したが、石勒の強襲を恐れて参軍高少に石勒を崇拝する書を奉じさせ、併せて劉聡を討つ事を求めた。石勒は大義をもってこれを責め、この要請を拒否した。趙固は深く恨んで、郭黙と共に河内・汲郡を襲撃した。

318年1月、段末波は鮮卑単于の段渉復辰を殺すと、段驎を単于に擁立した。段匹磾は幽州から段末波に攻撃を仕掛けたが、逆襲に遭って撃ち負かされ、段匹磾は幽州へと逃げ帰った。

4月、西晋の司徒荀組は許昌に駐屯していたが、石勒の逼迫により、100人の衆を従えて長江を渡った。

5月、段匹磾が劉琨を殺すと、劉琨の将士は相継いで石勒に帰順した。段末波は弟に騎兵を与え、段匹磾のいる幽州を攻撃させた。段匹磾は兵数千を引き連れて邵続の下に逃走を図った。石勒の将軍石越は渤海郡高城県の塩山において段匹磾軍を遮断し、大いに撃ち破った。その為、段匹磾は再び幽州に戻り、守りを固めた。この戦いで石越が流れ矢に当たって戦死したので、石勒は彼のために音楽を3ヶ月に渡って慎むと、平南将軍を追贈した。

漢帝国崩壊

靳準の乱

7月、劉聡は自らの病が重篤になると、石勒の下へ早馬を出し、大将軍・録尚書事に任じて輔政を委ねる遺詔を託したが、石勒はこれを固辞した。それでも劉聡は再び使者に節を持たせて派遣し、石勒を大将軍・領幽冀二州牧に任じ、持節鉞を与え、都督・侍中・校尉・二州牧はこれまで通りとし、10郡を増封する旨を伝えたが、石勒はこれも受けなかった。その後数日して劉聡は死去し、子の劉粲が皇帝位を継いだ。

8月、劉粲は漢帝国を凌ぐ領土を持つ石勒の存在を危険視しており、その討伐を密かに目論んでいた。だが、政務・軍務全般を委ねていた外戚の大将軍靳準が突如として政変を起こし、劉粲は皇太子劉元公と共に殺害され、平陽にいる漢の皇族もみな処刑された。また、永光・宣光の二陵(劉淵と劉聡の墓)も暴かれ、劉聡の屍も毀された上で宗廟も焼き払われた。この報を受けた石勒は張敬に騎兵5千を与えて前鋒に任じ、靳準討伐を命じた。石勒自身も精鋭5万を率いて後続となり、襄陵の北原に本陣を置いた。これにより周辺の羌族・羯族4万部落余りが石勒に帰順した。靳準もまた軍を繰り出し、何度か決戦を挑もうとしたが、石勒は砦の守りを固めて動かず、敵軍の鋭気を削いだ。この時、長安を統治していた漢の丞相劉曜もまた軍を発し、蒲坂まで軍を進めていた。

劉曜即位

10月、劉曜は河東郡皮氏県の赤壁まで到達すると、群臣の勧めにより帝位に即いた。石勒の下にも使者が到来し、大司馬・大将軍に任じられ、九錫を加えられ、10郡が増封された。これで以前の封郡と併せて13郡となり、さらに爵位は趙公に進んだ。

石勒は兵を出撃させて平陽の小城を攻めると、平陽大尹周置らは6千戸余りを率いて石勒に降伏した。また、巴氐族・羌族・羯族併せて10万余りの部落が帰順してきたので、石勒は彼らを司州の諸県に移した。劉曜もまた石勒に呼応し、征北将軍劉雅・鎮北将軍劉策を汾陰へ駐屯させた。

11月、靳準は侍中卜泰を使者に立て、乗輿と服御を持たせて石勒に講和を求めた。この時、表向きは石勒と劉曜は協力し合っていたが、実際にはどちらが先に平陽の勢力を取り込むかを争っていた。その為、石勒は卜泰を捕らえると、敢えて劉曜の下へと送り、靳準が劉曜では無く石勒に対して講和を求めてきた事を伝えた。これにより、もはや劉曜に帰順する事は出来ないと平陽城内へ知らしめ、その軍勢を動揺させて意気を挫こうとした。だが、劉曜は卜泰と会見すると、靳準がもしこちら側に降伏するならば全てを許して政事を任せる、と伝えて密かに盟約を結び、そのまま解放して平陽に帰してやった。卜泰が平陽に戻る事を知った石勒は、卜泰と劉曜が謀を企てて逆に自分をはめるつもりなのではないかと疑い、卜泰を捕らえて斬ろうとした。しかし諸将は皆 「今、卜泰を斬ったならば、準(靳準)の降伏は二度と望めません。ここは、泰(卜泰)は漢(劉曜)と城内で盟約を結び、協力して靳準を誅殺する事としたと城中に発表させるのです。そうすれば、準は震え上がって必ずや速やかに我らの下に降伏してくるでしょう」と言った。石勒はしばらく考え込んだ後、諸将の意見に従って卜泰を帰した。卜泰は平陽に帰ると、劉曜からの提案を伝えたが、靳準は劉氏の一族を皆殺しにしている事から、投降を躊躇った。

乱の終結

12月、靳準配下の左車騎将軍喬泰・右車騎将軍王騰・衛将軍靳康馬忠・卜泰らと共に兵を挙げ、靳準を殺して代わりに子の靳明を盟主に推戴した。さらに、卜泰・卜玄が使者として劉曜の下へ赴き、伝国の六璽を送り届けて帰順の意を示した。石勒は靳準の勢力を取り込もうと目論んでいた為、劉曜に出し抜かれたことに激怒した。その為、令史羊升を平陽に派遣し、靳準を殺害したことを責め立てた。靳明は怒ってその場で羊升を斬り捨てると、これを知った石勒は怒り心頭となり、靳明討伐の軍を挙げた。靳明は出撃して迎え撃つも大敗を喫し、屍が2里に渡って連なった。敗走した靳明は城門を築いて守りを堅め、無策に撃って出る事をしなくなった。

同月、石虎もまた幽州・冀州の兵を率いて、石勒軍の平陽攻めに合流した。靳明は幾度も敗戦を喫し、遂に劉曜に使者を派遣して救援を要請すると、劉曜はこれに応じて征東将軍劉暢を救援に差し向けた。これにより、石勒は止む無く攻勢を中止し、軍を蒲上に留めた。劉曜はまた劉雅・劉策に靳明らを出迎えさせると、靳明は平陽の士女1万5000人を伴ってこれに帰順した。その後、劉曜は西の粟邑へと屯営を移すと、靳氏一族を尽く捕らえてみな誅殺した。

平陽に入った石勒は宮室を焼き払い、また裴憲・石会(張㔨督)に命じて劉淵・劉聡の二墓を修復させ、劉粲を始めとした100余りの屍を収容して葬った。その後、平陽にある渾儀(天体の位置を観測する器械)や楽器を襄国に移し、守備を置いてから帰還した。

319年2月、石勒は左長史王脩を劉曜のいる粟邑に派遣して、戦勝報告をさせた。劉曜もまた司徒郭汜らに節を持たせて石勒の下に派遣し、石勒を太宰・領大将軍に任じ、趙王に進爵させ、以前からの20郡に加えて7郡を増封する旨を伝えた。また、朝廷での儀礼についても特別待遇が与えられ、着用する冕冠は十二旒(12条の玉串。本来皇帝のみに許される)とし、外出の際には金根車(皇帝の乗る車駕の一種)を六頭の馬で牽引させ、さらに警蹕(声を挙げて人払いをさせる事)を行わせる事を認めた。これらは曹操が漢の輔佐をした際のものに準じるものであった。また、夫人は王后に、子の石興は王太子に立てられた。王脩や副使の劉茂もみな将軍となり、列侯に封じられた。

趙王時代

前趙から離反

劉曜との対立

同月、王脩の舎人曹平楽は王脩と共に劉曜への使者として派遣されていたが、彼はそのまま劉曜の下に留まり仕えようと考え、劉曜へ「大司馬(石勒)は脩(王脩)らを派遣して表面上は恭順の態度を示していますが、その実、大駕(天子、この場合は劉曜)の強弱を探らせているのです。脩の帰りを待って謀事を立て、まさに乗輿を急襲せんとしているのです」と述べた。この時、劉曜の軍勢は傷つき疲弊していたため、この発言を信じ込み、王脩がこの事を石勒にばらすのを恐れた。劉曜は怒りを露わにすると、郭汜らに帰還を命じて王脩の首を粟邑の市で刎ねた。そして、石勒への太宰の任命を停止した。

3月、同じく使者として派遣されていた劉茂は何とか襄国へ逃げ帰り、王脩が殺された経緯を報告した。これに石勒は激怒し、曹平楽の三族を皆殺しとし、王脩に太常を追贈した。また、官位の授与が停止された事も知らされると、怒りは頂点に達して「我ら兄弟は劉家を奉じ、人臣の道を極めてきた。もし我ら兄弟がいなければ、どうして南面して朕を称することが出来ただろうか!その基業は全て我が築いてきたのだ。既にその志を得るや、我を図らんとしてきたが、天は悪を助けずに靳準に手を貸した。孤が思うに、事君の形は、舜を補佐した瞽叟(舜の父)の義を求めるべきだ。故に、再び令主として推崇し、以前同様に好みを通じようと思っていた。それがどうして悪を助長して改めようともせず、奉誠の使を殺してもよいだろうか。帝王が起こるのに、どのような決まりがあろうか!趙王・趙帝の位は我自らが名乗ることにする。名号の大小をどうして他者に決められる謂れがあろうか!」と言い放った。

そして、太医・尚方・御府諸令を新たに設置(いずれも皇帝に関する役職である)し、参軍晁讃に命じて正陽門を作らせた。また、宣文・宣教・崇儒・崇訓を始めとした10余りの小学を襄国の四門に新たに設置し、将軍や豪族の子弟100人余りを選抜して学問を受けさせた。さらに撃柝の護衛(拍子木を叩いて巡回する衛兵)を配備し、挈壷署(時刻を管理する官署)を設置し、専門の造幣局を設けて『豊貨銭』と名付けた貨幣を鋳造させるなど、自立色を鮮明にした。

青州に割拠する曹嶷は317年頃より東晋へ帰属して官爵を授かるようになっていたが、建業からは遠く隔たっていたため、援護が望めない状態だった。そのため、石勒の勢力が強大化するにつれて侵攻されるのを憂慮するようになり、318年5月には使者を派遣して臣従する旨を告げた。これを受け、石勒は曹嶷を東州大将軍・青州牧に任じ、琅邪公に封じた。

319年4月、石勒が正式に自立した事を受け、曹嶷は使者を派遣して貢物を献上すると、黄河を境に互いの領土を定めることを要請し、石勒は同意した。

群臣の要請

10月、石虎・左長史張敬・右長史張賓・左司馬張屈六・右司馬程遐ら群臣100人余りが、石勒に尊号(帝位)を称するよう進言した。だが、石勒は書を下して「我は猥りにして徳が少ないながら、忝くも崇寵を担ってきたが、いつも恐惧して深淵を臨むかのように警戒して振舞ってきた。それなのに、どうして尊号を僭称し、四方の人から詰られる事など考えられようか。かつて、周文(周の文王)は天下の3分の1を占めながらも殷朝に服属した。小白(桓公)は周室を凌ぐ紀雄があったが、それでも周室の尊崇を続けた。そうして彼らは国家を殷周よりも強国としたのだ。我の徳は2伯に大きく劣るのだぞ!即座にこのような議を止め、二度と繰り返すことのないように。これより敢えて口にした者は、容赦無く刑に処する!」と述べ、取り合わなかった。

石勒は再び書を下し「今は大乱の最中にあって、律令は日に日に煩雑になっている。なので、律令の要点だけを選び取り、条制を定めて施行することにする」と述べ、法曹令史貫徹志[28]に命じて『辛亥制度』5千文を作成させ、これを施工して10年余りに渡り律令とした。

11月、石虎を筆頭に張敬・張賓・左右司馬の支屈六・程遐ら文武百官29人が「臣らが聞いたところによると、非常の度には必ず非常の功があり、非常の功があれば必ず非常の事が起きるといいます。三代(夏・殷・周)が次第に衰えると、五伯(春秋五覇)が代わる代わる興り、難を静め時代を救いました。いずれも英明なる君主であると言えましょう。伏して惟いますに、殿下(石勒)は上天より聖哲を授かり、天運に応じて宇宙(あらゆる世界)を鞭撻し、皇業を補佐しました。そのため、普天率土(全ての大地)は困苦から息を吹き返し、嘉瑞や徴祥は日を追って相継ぎ、人望は劉氏を超えたと言え、明公を畏れ従う者は、10人いればその内9人となりました。こうして今、山川は静まり、星に変事なく、夏海(四海)を次々と翻す様を見て天人は思慕敬仰しております。誠に中壇に昇り、皇帝位に即いて[29]、攀附の徒(立身出世を図る者達)にわずかばかりの潤を授けるべきなのです。劉備が蜀に在し、魏王(曹操)が鄴に在した故事に依って、河内・魏・汲・頓丘・平原・清河・鉅鹿・常山・中山・長楽・楽平の11郡と、元々の趙国・広平・陽平・章武・勃海・河間・上党・定襄・范陽・漁陽・武邑・燕国・楽陵の13郡を併合し、合計24郡、29万戸を以って新しい趙国とする事を求めます。昔に倣って太守から内史に改め、禹貢に倣って魏武が冀州の境を定めたように、南は盟津、西は龍門、東は黄河、北は塞垣として国境を定めるべきでしょう。そして、大単于が百蛮(多数の異民族)を鎮撫するのです。また并州・朔州[30]・司州の3州を廃して、部司を置いて監督させるのです。伏して願いますに、上は昊天に謹んで従い、下は群望を汲み取らん事を」と上疏した。石勒はこれを西面して5度断り、南面して4度辞退したが、百官がなおもみな叩頭して強く求めたため、遂にこの上疏を聞き入れた。但し、帝位ではなく王位を称する事とした。

後趙樹立

同月、石勒は趙王の位を称し、領内に大赦を下した。また、紀年を改めて319年を元年としたが、春秋の列国や漢初の侯王が、代ごとに元年を称したのに基づいて、元号は用いなかった。百姓の租税を半分にし、親や兄姉に孝行する者、耕地を新たに開いた者、義の為に死んだ者に絹を、孤児や老人、未亡人に対して穀物3石を下賜した。また、即位に祝賀する宴会を7日に渡って催した。社稷、宗廟を建立し、東西に宮殿を造営した。使者を派遣して州郡を巡行させ、農事と養蚕を励行させた。朝会に際しては天子の礼楽をもって群臣に饗するようになり、衣冠・儀物や朝廷内の礼儀作法についても体裁が整えられた。

従事中郎裴憲、参軍傅暢杜嘏を領経学祭酒に、理曹参軍続咸庾景を律学祭酒に、任播崔濬を史学祭酒に任じた。中塁将軍支雄・游撃将軍王陽を領門臣祭酒に任じ、胡人の訴訟に専従させた。張離・張良・劉羣劉謨を門生主書に任じ、胡人の出内を管理させた。また、胡人の禁法を重くして衣冠の者や華族に対する横暴を押さえ込ませ、胡人の事は『国人』と呼称するように定めた。

張賓に大執法を加え、朝政を取り仕切らせると、あらゆる官僚の首位とした。石虎を単于元輔・都督禁衛諸軍事に任じ、さらに驃騎将軍・侍中・開府を加えて中山公に封じた。前将軍李寒を領司兵勲に任じ、国人の子に撃刺戦射の法を教授させた。その他の群臣も格差をつけて爵位を授けた。記室佐明楷程機に『上党国記』を、中大夫傅彪賈蒲江軌に『大将軍起居注』を、参軍石泰石同石謙孔隆に『大単于志』を編纂させた。

群臣が改めてこれまでの論功を議する事を求めると、石勒は「我が軍を起こして以来、16年の歳月が流れた。文武の将士で我の征伐に付き従ってくれた者で、矢石を受けなかった者はおらず、皆苦難を乗り越えてきた。その中でも、葛陂での戦いで功績が最も著しかった者に先に賞を与えるべきであろう。生き残った者には、軽重や功位に従って爵封し、既に死した者には賞一等を加える事とする。存命している者にも亡くなった家族に対しても、十分に慰撫して我の心を伝えてほしい」と答えた。

また書を下し、国人に対して親兄弟の嫁を娶ったり喪中の婚礼を禁止し、葬儀も漢人の習俗のようにさせた。

礼楽・法の整備

320年、国内では大雨が連日降り止まず、各地で水害が発生した。中山・常山では特に被害が凄まじく、長雨により滹沱河が氾濫を起こし、山谷が崩落した。また、松の巨木が根こそぎ流されて滹沱河から渤海まで至り、低湿地には流木が山の如く積み重なった。

石勒は軒懸の楽(打楽器を三面にぶら下げた諸侯の楽器)、八佾の舞(雅楽に用いられた舞)を制定し、金根大輅(天子の乗る車)、黄屋左纛(天子が車上で用いる装飾物)、天子車旗(天子の旗)を備えるなど、礼楽を整えた。朝臣で掾属以上の士族の300百戸を襄国の崇仁里に移すと、公族大夫を置いてこれを統治させた。宮殿や諸門が完成すると法令を更に厳しく運用するようになり、特に胡をとする事に最も重きを置いた。

321年、石勒は五品を定めて張賓に領選を任せた。この後に九品を制定した。張班を左執法郎に、孟卓を右執法郎に任じ、士族を見定めさせ、推挙の任務を補佐させた。公卿や州郡に命じ、秀才・至孝・廉清・賢良・直言・武勇の士を毎年各1人ずつ推挙させた。都部従事を1州に1部を置き、俸給は2千石とし、その職務は丞相司直に準じさせた。

石勒は令を下して「去年の水害によって巨材が流され、至る所で山積み状態になっている。これは天が、我に宮殿を修繕せよと仰ってるのだ。そこで洛陽の太極殿を模して、建徳殿を建てる事とする」と述べると、従事中郎任汪に工匠5千を指揮監督させて、木材の回収に当たらせた。

この時期、建徳校尉王和が丸石を掘り当てた。そこには『律権石、重四鈞、同律度量衡、有新氏造』と銘が刻まれていた。議者でも詳しいことは分からなかったが、瑞兆ではないかと論じた。参軍続咸は「王莽の時代の物のようですね」と言った。当時の兵乱の後、法令や制度が失われてしまっていたので、礼官に命じて法令規則を定めさせた。さらに同じ時期、1つのが発見された。容積は4升ほどで、中に大銭30文が入っており、「百が千となり、千が万となる」と記載されていた。また、13字の銘が刻まれていたが、篆書だったので解読出来なかった。これらは永豊倉に収められた。これ以後、公私に銭を使うよう令が下されたが、民衆はあまり喜ばなかった。市錢により絹の価格が定まり、中絹1匹が1千200、下絹が800と公布された。しかし百姓の間では、中絹が4千、下絹が2千で取引されていた。ずる賢い者は、私銭を用いて不当に安く絹を買い、公官に高く売りつけていた。だが、事が露見してしまい、連座を含めて10数人が処刑されるといった事が後を絶たなかったため、遂に銭が広まる事は無かった。

石勒は洛陽にあった銅馬、翁仲の2つの像を襄国に移し、永豊門に列した。

石勒は百姓がまだ業を再開して間もない事から、資産がまだ十分に蓄えられていないだろうと考え、酒の醸造を禁止した。そのため、郊祀や宗廟には醴酒を使用させた。これが数年間続いたため、醸造をする者はいなくなった。また、命を下して「武郷は我にとっての豊沛(劉邦が挙兵した地)である。我が死した後には、魂霊が帰す場所となろう。三世に渡って税を免除す」と述べた。

諸勢力を併呑

邵続を捕縛

これより以前の319年4月、河西鮮卑の日六延が叛乱を起こすと、石勒は石虎へ討伐を命じた。石虎は日六延を朔方において撃破し、2万の首級を挙げ、3万人余りを捕らえ、獲得した牛馬は10万を数えた。

同月、孔萇は幽州諸郡に侵攻して尽くを平定した。段匹磾軍は食糧不足のために四散してしまい、彼は薊を放棄して上谷へ拠点を移した。だが、拓跋鬱律は精鋭を繰り出して上谷を攻撃させたので、段匹磾は妻子を棄てて邵続の支配圏である楽陵へと逃亡した。

320年1月、段匹磾が段文鴦と共に後趙の領土であるを攻撃すると、石勒はその隙を突いて中山公石虎に邵続が守る厭次を包囲させた。また、孔萇も邵続を攻撃して11の陣営全てを陥落させた。2月、邵続は自ら石虎を迎撃したが、石虎は伏せていた騎兵に背後を遮断させ、遂に邵続を生け捕りにした。石虎は邵続を厭次城下に連れていき、城内に投降を呼びかける様命じたが、邵続は応じなかった。段匹磾は薊から引き返そうとした所で邵続が捕虜になったと知り、その士兵が離散した。石虎軍は厭次への進路を塞いだが、段文鴦が数100の兵を率いて力戦し、なんとか厭次に入城した。段匹磾は邵続の子の邵緝、兄の子の邵存・邵竺らと共に城を固守した。

石虎は邵続を襄国に送ると、石勒は邵続を忠臣と認め、礼をもって遇して従事中郎に任じた。更に「今後戦に勝って士人を捕えても、勝手に殺してはならない」という命を下した。

6月、孔萇は段文鴦の陣営10余りを陥落させたが、勝利に驕り守備を怠ってしまった。守りが手薄なのを知った段文鴦は孔萇の陣営に夜襲を掛け、孔萇は大敗を喫して退却を余儀なくされた。

東晋の司州刺史李矩が前趙領の金墉(洛陽城内の西北の角にある小城)を攻略すると、劉曜配下の左中郎将宋始、振威将軍宋恕尹安・趙慎は寝返って洛陽ごと石勒に降伏した。石勒は石生を派遣して宋始らを迎えさせたが、彼らは心変わりして李矩に投降した。李矩は潁川郡太守郭黙に兵を与えて洛陽に入らせた。石生は宋始軍を攻撃して将兵を尽く捕虜とし、黄河を渡って北へ引き上げた。河南の人々は皆、李矩に帰順したので、洛陽が空になった。

徐龕の帰順

これより以前の318年12月、東晋の彭城内史周撫沛国内史周黙を殺害して彭城ごと石勒に降伏したが、319年2月に東晋の泰山郡太守徐龕徐州刺史蔡豹下邳内史劉遐らに滅ぼされた。だが、徐龕は論功行賞においてその功績が不当に低く評価された事に不満を抱き、319年4月に泰山郡ごと石勒に寝返っていた。

320年6月、東晋の徐州刺史蔡豹が檀丘で徐龕を撃ち破った。徐龕は石勒の下へ使者を派遣し、蔡豹討伐の計略を述べて救援を要請すると、石勒はこれに応じて王伏都を派遣して徐龕軍の前鋒に据え、さらに張敬に騎兵を与えて後続させた。だが、張敬軍が東平まで進出した時、徐龕は張敬より攻撃されるのではないかと恐れ、王伏都を始め300人余りを殺害して再び東晋に寝返った。石勒はこれに激怒し、張敬に要害の地に拠って徐龕と対峙するよう命じ、持久戦に持ち込んで疲弊するのを待った。そして数カ月後、石虎に歩兵騎兵合わせて4万を与えて徐龕討伐を命じた。石虎軍が近づくと、徐龕は長史劉霄を石勒の下に派遣し、妻子を人質に差し出す条件で降伏を願い出たので、石勒はこれを聞き入れた。この時、蔡豹は卞城に軍を屯営していたが、石虎は転進してこれに攻め込むと、蔡豹は夜の闇に紛れて逃亡した。石虎は軍を退いて封丘に城を築いてから帰還した。また、朝臣で掾属以上の士族300戸を襄国の崇仁里に移し、公族大夫を置いてこれを統治させた。

祖逖襲来

これより以前の319年4月、蓬陂の塢主であり陳留郡太守を自称する陳川が、祖逖の侵攻に対抗する為に浚儀の地ごと石勒に帰順した。祖逖が蓬関へ進んで陳川と一戦を交えると、石勒は石虎に兵5万を与えて救援に向かわせた。石虎は浚儀で祖逖軍を撃ち破り、梁国へと退却させた。さらに石虎は揚武将軍左伏粛に祖逖を攻撃させ、石勒もまた桃豹を蓬関に送り込むと、祖逖は淮南郡まで退いた。石虎は陳川の部衆5千戸を広宗に写し、桃豹に陳川の故城を守らせた。

320年6月、桃豹は陳川の故城を守っていたが、祖逖は韓潜を派遣してその故城に侵入させた。桃豹は西台を拠点とし、韓潜は東台を拠点とし、両軍は40日余り対峙した。

祖逖は布袋に土を詰めて米のように見せ、1000人余りを使って台上に運び、桃豹に見せつけた。また、同時に数人に米を担がせて道中で休憩しているように見せ、桃豹軍が来ると米を棄てて逃走させた。桃豹は食料が乏しかったため、東晋軍に充分な食糧があると思い恐れた。劉夜堂驢馬千頭を使って桃豹に食糧を送らせたが、祖逖は韓潜と馮鉄に命じて汴水でこれを奪った。桃豹は夜に乗じて城を離れ、東燕城に撤退した。祖逖は韓潜を封丘に駐軍させて桃豹に迫り、馮鉄は二台を占拠し、祖逖自身は雍丘に駐軍した。この後、祖逖軍がしばしば後趙を攻め、多くの拠点が祖逖に降ったため、後趙の領土が削られた。

7月、祖逖はに拠点を構えると、兵の訓練を重ねて穀物を蓄え、中原奪還の準備を始めた。祖逖はいかに戦わずに自陣営に取り込むかを考え、巧みに慰撫した。そのため、黄河以南の多くが石勒から離反して、祖逖に帰順を申し出た。石勒は祖逖を難敵と判断し、自分から動こうとはしなかった。そして書を下して「祖逖は何度も国境を脅かしているが、彼は北方の出身であるので故郷への思いは強いであろう。そこで幽州政府は祖氏の墳墓を修復し、守冢二家を置くように。上手くいけば、祖逖が恩義を感じてその寇暴を止めてくれるであろう」と述べ、幽州政府に祖逖の先祖や父の墓を修築させ、墓守として二家を置かせた。更に石勒は祖逖に手紙を送り、交易を開始するよう要請した。祖逖は手紙を返さなかったが、互いに市を開いて通商を始めることを黙認した。これによって互いに多くの利を得ることができた。

ある時、祖逖の牙門童建が新蔡内史周密を殺して後趙に降ったが、石勒は童建を斬ると、首を祖逖に送り「我は叛臣や逃吏を最も憎む。将軍(祖逖)が嫌う者は、我が嫌う者と同じである」と伝えた。祖逖は深く感謝し、後趙を裏切って祖逖に降る者がいても受け入れず、諸将には後趙の民を侵犯しないよう命じた。また、参軍王愉を石勒の下に派遣し、貢物を贈って修好すると、石勒は王愉を厚くもてなした。祖逖は再び左常侍董樹を派遣し、馬百匹、金50斤を贈った。これにより豫州の地は平安を取り戻し、つかの間の平安が実現した。

321年、石虎に命じて託侯部の掘咄那のいる岍北を攻撃させた。石虎は掘咄那を大破して、牛馬20万余りを略奪して帰還した。

同年、石虎を車騎将軍に任じ、騎兵3万を与えて鮮卑の鬱粥がいる離石を攻撃させた。石虎は鬱粥を破り、牛馬10万余りを獲得した。鬱粥が烏丸へと逃亡すると、諸城は尽く降伏した。

段匹磾討伐

321年3月、石虎は厭次に進軍して段匹磾と戦い、孔萇は領内の諸城を陥落させた。段文鴦は数10騎を率いて出陣し、多くの兵を斬ったが、後趙の兵が四方から包囲を縮めると、段文鴦はついに力尽きて捕えられた。これにより城内の戦意が消失し、段匹磾は単騎で東晋に奔ろうとしたが、邵続の弟の邵洎がこれを留め、城を挙げて石虎に降った。石虎は段匹磾を襄国へと護送し、石勒は段匹磾を冠軍将軍に、弟の段文鴦と将軍衛麟を左右中郎将に任じ、金章紫綬を授けた。また、段匹磾に従っていた流民3万戸余りを解散させ、故郷に帰らせると、守備兵を置いて慰撫させた。これにより冀州・并州・幽州が後趙の支配下に入り、遼西以西の諸集落は皆石勒に帰順した。

段匹磾は石勒に臣従せず、東晋の朝服を着て東晋の符節を持った。その為、暫くして石勒は段匹磾・段文鴦・邵続を殺した。

322年2月、世子の石興が死去していたため、次男の石弘を世子に立てて中領軍を統率させた。

徐龕討伐

石虎に中外の精兵4万を与え、徐龕の討伐を命じた。徐龕は泰山郡城に籠城したので、石虎は長期戦に備えて耕作を行い、城を何重にも囲んだ。

王敦の乱が勃発すると、東晋の鎮北将軍劉隗は石勒の下に帰順し、石勒は鎮南将軍に任じて列侯に封じた。

7月、石虎は徐龕軍を撃ち破り、徐龕を捕らえて襄国へと護送した。石勒は徐龕を袋に詰め込み、百尺の樓上からその袋を地面に叩きつけさせた。そして、かつて徐龕により殺された王伏都らの妻子に徐龕の骸を袋から出させて、それを切り割かせると、食べるよう命じた。降伏した徐龕軍の兵3千は、皆生き埋めにされた。

これを知った東晋の兗州刺史劉遐は大いに恐れ、鄒山から下邳まで退却した。琅邪内史孫黙は石勒に帰順し、徐州・兗州の間の砦の多くが人質を送って降伏を願い出た。これらを皆受け入れ、守備兵を置いて慰撫した。

この時期、張賓がこの世を去った。訃報を聞いた石勒は「天は我に事業を成就させないつもりか!何故に我から右侯をこんなに早く奪ったのか!」と慟哭した。程遐が張賓に代わって右長史に任じられ、権勢を握った。朝臣でこれを恐れない者はおらず、皆程氏に取り入るようになった。しかし、程遐は石勒の意に沿わない建議を度々行ったので、石勒は「右侯は我を見捨てて逝ってしまった。我はこのような輩と事業を共にしなければならなくなった。何と残酷なのだ!」と嘆き、涙を流す日々を重ねた。

河南侵攻

10月、祖逖が前月に死去したのを受け、石勒は河南へ侵攻して襄城城父の2県を支配下に入れた。さらに、征虜将軍石他[31]が西進して東晋軍を撃ち破り、将軍衛栄を生け捕りにして帰還した。石勒が焦を包囲すると、豫州刺史祖約はこれを撃退できず、恐れて寿春まで退却した。石勒は遂に陳留を奪還し、梁・鄭一帯が再び戦禍に見舞われることとなった。

この時期、後趙では広範囲に渡り疫病が発生し、10人の内2・3人が死亡した。そのため、石勒は徽文殿の建設を中止した。

石勒は王陽を豫州に配置して、東晋への侵攻の機会を窺った。これにより兵難が連日訪れ、梁鄭の間はさらに騒然となった。

323年3月、饒安東光安陵の3県で火災があり、7千家余りが燃え、1万5千人が犠牲になった。

後趙軍が彭城と下邳へ侵攻し、東晋の徐州刺史卞敦と征北将軍王邃盱眙に撤退した。

4月、石勒は慕容廆へ使者を送って和を結ぼうとしたが、慕容廆は使者を捕えて東晋の首都建康に送った。

青州占拠

同年、石虎に中外の歩兵騎兵合わせて4万を与え、曹嶷の討伐に向かわせた。石虎が山東へ到来すると、曹嶷は海中の根余山に逃れて兵力を保とうと考えたが、病の為実行できなかった。石虎が兵を進めて広固を包囲すると、東莱郡太守劉巴長広郡太守呂披が郡ごと降った。曹嶷は配下の羌胡軍を黄河の西に駐屯させると、石勒は征東将軍石他に攻撃させ、これを撃破した。左軍将軍石挺が援軍を率いて広固に至ると、曹嶷は遂に降伏した。石虎は襄国へ送ると、石勒は曹嶷を殺害して配下の3万人を穴に生き埋めにした。

石虎は曹嶷の下にいた人民を皆殺しにしようとしたが、青州刺史劉徴が諫めたので、男女700任を留めて劉徴に広固を治めさせた。これにより、青州の諸郡県や砦は、全て後趙の支配下となった。

後趙の司州刺史石生陽翟を守る東晋の揚武将軍郭誦を攻撃したが打ち破れず、襄城へ転進して千人余りを捕虜にして帰還した。

司州・兗州を領有

石勒はしばしば太学や小学に臨み、諸学生への経義の授業を観察し、優秀な者には帛を賞与した。右常侍霍皓を勧課大夫に任じ、典農使者朱表・勧都尉陸充と共に州郡を巡行させた。その結果を下に戸籍を作成させ、農業を励行させた。また、農業において成果をなした者に、五大夫を賜爵した。

324年1月、後趙の将兵都尉石瞻が下邳に進攻し、東晋の将軍劉長を撃ち破った。さらに蘭陵まで進軍すると、続けざまに彭城内史劉続を破った。東莞郡太守竺珍と東海郡太守蕭誕は反旗を翻して郡ごと石勒に帰順した。石勒は徐州・揚州で徴兵を行い、下邳に進軍して石瞻と合流した。劉遐は大いに恐れ、下邳から泗口へと退いた。

後趙の司州刺史石生が前趙領の新安を攻め、河南郡太守尹平を殺し、10を超える砦を陥落させ、5000戸余りを奪って撤収した。ここから両国の戦いが始まり、河東弘農一帯の戦禍が絶えなくなり、民が苦難に陥った。

石生を延寿関から許潁(許昌・潁川)へと出撃させた。1万人余りを捕虜とし、2万人を降伏させ、遂に康城を陥落させた。東晋の将軍郭誦は石生に猛追を掛け、千人余りの首級を挙げた。石生は離散した兵をかき集めて康城に入り、汲郡内史石聡はこれを知ると救援に向かい、郭黙軍に攻撃を掛けて男女2千人余りを捕らえた。石聡はさらに攻撃して郭黙と李矩を撃ち破った。

325年1月、石勒は宇文乞得亀に官爵を送り、慕容廆を攻めさせたが、慕容廆の子の慕容皝に阻まれた。

3月、北羌王の盆句除が劉曜の傘下に入ると、後趙の将軍石他が雁門から上郡へと侵入して盆句除を攻撃し、3000部落余りを連れ去り、牛馬羊100万余りを強奪して去った。劉曜は激怒してこの日の内に渭城まで軍を進め、中山王劉岳に追撃を命じた。劉曜自らは富平に進軍し、劉岳を援護した。劉岳は石他軍と河濱で戦って大勝を収め、石他を始め甲士1500の首級を挙げた。河に追い詰められて水死した者は5000を超えた。劉岳は捕虜や家畜を悉く奪還し、帰還した。

東晋の都尉魯潜が反旗を翻すと、石勒に許昌を明け渡して帰順した。

4月、石瞻が東晋の兗州刺史檀斌が守る鄒山に攻め込み、その首級を挙げた。後趙の西夷中郎将王騰[32]は并州刺史崔琨と上党内史王慎を殺害し、并州ごと前趙に帰順した。

5月、後趙の石生が洛陽へ駐屯し、河南を荒らし回った。李矩・郭黙は迎撃したが度々敗北し、兵糧が欠乏したこともあり、前趙へ降伏の使者を派遣して救援を求めた。劉曜は劉岳を盟津から渡河させ、鎮東将軍の呼延謨には荊州・司州の兵を与えて、崤澠から東へ進軍させた。劉岳は盟津・石梁の2砦を攻め、これを陥落させて5000余りの首級を挙げた。さらに金墉へ進むと、石生を包囲した。中山公石虎が歩騎兵合わせて4万を率いて、成皋関から救援に向かった。劉岳はこれを察知すると、陣を布いて待ち受けた。両軍は洛西で衝突した、劉岳は劣勢となり石梁まで退き下がった。優位に立った石虎は塹壕を掘り柵を環状に並べ、劉岳軍を包囲して外からの救援も遮断した。包囲された劉岳軍は兵糧が底を突いて久しく、馬を殺して飢えを凌ぐ状態までになった。さらに石虎は呼延謨軍を撃ち破り、呼延謨の首級を挙げた。劉曜は自ら軍を率いて劉岳の救援に向かったが、石虎が騎兵3万を以って行く手を阻んだ。前軍将軍の劉黒が石虎配下の石聡を八特坂で撃破した。劉曜は金谷まで軍を進めたが、兵士たちは後趙を恐れて動揺し、散り散りに逃亡してしまい仕方なく長安に戻った。

6月、劉岳を始めとして、部下80人余り、氐羌3000人余りが、石虎によって生け捕りにされ、襄国へと護送された。士卒9000が石虎によって生き埋めにされた。さらに石虎は并州にいる王騰を攻撃し、彼を捕らえた後に殺害し、7000人余りの兵卒を穴埋めとした。石聡もまた郭黙を破り、建康へ奔らせた。李矩は劉岳の敗北を知ると大いに恐れ、滎陽から逃げるように帰った。李矩の長史崔宣は、李矩の兵2千を連れて石勒に降伏した。この戦いによって、司州・兗州の全域を領有するようになり、徐州・豫州の淮河に臨む諸郡県は、全て石勒に帰順した。

寿春攻略

石勒は日時計を洛陽から襄国に移し、単于庭に列した。また、建国の大業をなした功臣39人の名を石函に刻み、建徳前殿に置いた。また、襄国に桑梓苑を設けた。

326年4月、石生が汝南へ侵攻し、内史祖済を捕らえた。

10月、石勒は鄴に宮殿を作り、世子の石弘に鄴の統治を任せようと考え、程遐と密かに謀った。そして、石弘に禁兵1万人を配し、石虎が統べていた54の陣営全てを任せた。さらに、驍騎将軍・領門臣祭酒王陽に六夷の統率を命じ、石弘の補佐に当たらせた。鄴は以前より石虎が守っており、彼は自らの勲功が重いので鄴を譲る考えは全く無かったが、三台が修築されると石虎の家室は無理矢理移された。石虎は程遐を深く怨み、左右の者数10人を夜に程遐の家を襲わせ、彼の妻娘を陵辱して衣物を略奪させた。

11月、石聡が寿春に攻め込むと、祖約は何度も救援を要請したが東晋朝廷は応じなかった。石聡は逡遒阜陵へ侵攻して5千人余りを殺掠した。建康は大いに震撼し、司徒王導江寧へ派遣して備えた。蘇峻配下の韓晃が石聡を攻撃すると、石聡は撤退した。

12月、東晋の済岷郡太守劉闓・将軍張闔らが反旗を翻し、下邳内史夏侯嘉を殺し、石生に帰順して下邳を明け渡した。石瞻は河南郡太守王羨が守るに攻め込み、これを陥落させた。東晋の彭城内史劉続は蘭陵・石城に拠ったが、石瞻が攻め落とした。

石勒は州郡に命じ、掘り返されて晒されたままの墳墓について、盗掘した犯人を探し出すよう命じた。また、野晒し状態となっている骸骨を収めさせるために、県に棺衾を備えるよう命じた。また、牙門将王波を記室参軍に任じ、諸子百家の九流を定めさせた。また、秀才孝廉の制度を始めた。

327年12月、石勒は石虎に5千騎を与えて代の国境へ侵攻させた。拓跋紇那句注陘北で迎撃に当たったが、不利となったために大寧に移った。

328年1月、茌平県令の師懽が黒兎を獲らえると、石勒に献上した。程遐らは「これこそ龍が飛翔し革命を為す吉兆であります。晋は水を以って金を承けました。兎は陰精の獣であり、黒は水です。これは、殿下が速やかに天人の望みに従うべきであると示しているのです」と言った。これを受けて大赦が下され、太和元年と改元した。

4月、石堪が宛城を攻撃し、東晋の南陽郡太守王国を降伏させた。南陽都尉董幼は反旗を翻し、襄陽の兵を引き連れて降伏した。石堪はさらに軍を進めて祖約が守る寿春へ侵攻し、淮上まで軍を進めた。祖約配下の陳光は挙兵して祖約を攻め、祖約はかろうじて逃れたが、陳光はそのまま後趙に帰順した。

6月、祖約の諸将は皆、密かに石勒に使者を送って内応した。石聡は石堪と共に淮河を渡り、寿春を攻めた。

7月、祖約の軍は壊滅し、祖約は歴陽へと敗走した。こうして寿春は後趙の勢力圏となった。寿春の百姓で石聡に捕虜とされたのは、2万戸余りに上り、皆石勒の下に送られた。

前趙を滅ぼす

劉曜捕縛

同月、石勒は石虎に4万の兵を与えると、軹関から西に向かい、前趙領の河東を攻撃した。石虎に呼応したのは50県余りに上り、石虎は易々と蒲坂まで軍を進めた。劉曜は自ら中外の水陸精鋭部隊を率いると、蒲坂救援に向かった。劉曜が衛関から北へと渡河すると、石虎は恐れて退却を始めた。劉曜はこれに追撃を掛け、8月に入ると高候で追いつき、石虎軍を潰滅させた。将軍石瞻を斬り、屍は200里余りに渡って連なり、鹵獲した軍資はおびただしい数となった。石虎はかろうじて朝歌に逃げ込んだ。劉曜は大陽から渡河して、一気に金墉(洛陽城内の西北角にある小城)を守る石生に攻撃を仕掛けると、千金堤を決壊させて水攻めにした。滎陽郡太守尹矩と野王郡太守張進は劉曜に降伏したので、襄国に激震が走った。

11月、石勒は自ら洛陽の救援に向かおうとしたが、左右の長史・司馬の郭敖と程遐は、劉曜はの士気が高いことから反対した。これに石勒は激怒し、剣を手にして程遐らを怒鳴りつけ、退出を命じた。そして、2年前に石勒に不遜な態度をとった為、獄に繋がれていた徐光を赦免して呼び出してこの事を尋ねると、徐光は今こそ天下平定の好機であると進言した。仏図澄も「大軍を出せば、必ずや劉曜を生け捕れましょう」と徐光の意見を後押ししたため、石勒は大いに喜んだ。内外に戒厳令を下し、諫言した者は容赦無く斬ると宣言した。

石堪と石聡及び豫州刺史桃豹らに、各々兵を率いさせて滎陽で合流させた。また、石虎に命じて石門に進軍させた。左衛将軍石邃を都督中軍事に任じ、石勒自らも歩兵騎兵合わせて4万を率いて金墉へと向かい、大堨から渡河した。石勒は振り返って徐光に「劉曜は兵を成皋関に置けば上計であり、洛水を守っていれば次計だ。何もせずただ洛陽を守っているだけならば、生け捕りに出来ようぞ」と言った。

12月、後趙の諸軍が成皋へと集結すると、その数は歩兵6万、騎兵2万7千に上った。石勒は劉曜の守備軍がいないのを見ると大いに喜び、手を突き上げて天を指差した。また自分の額を差すと「天よ!」と叫んだ。そして、兵に銜枚を甲に巻き付けさせ、急いで軍を進め、鞏・訾の間に出た。劉曜は後趙の増援が来たと知ると、滎陽の守備兵を追加して黄馬関を閉じた。さらに石勒自らが到来したと知ると、金墉城から撤退して洛西の南北10里余りに渡って布陣し直した。劉曜が城西に布陣した事を知ると石勒はますます喜び、側近に「天は我を賀しているか!」と言った。石勒は歩兵騎兵4万を率いて宣陽門から進入すると、旧太極前殿に昇った。石虎は歩兵3万を率いて城北から西進し、劉曜の中軍に突撃した。石堪・石聡は各々精騎8千を率いて城西から北進し、劉曜軍の前鋒と西陽門で決戦を繰り広げた。石勒自らも甲冑を身に着け、閶闔門から出撃し、南北から挟撃した。これにより劉曜軍は潰滅し、石堪が劉曜を生け捕って石勒の下に送った。劉曜は軍内で晒し者となった。5万人余りを斬首し、屍は金谷まで続いた。石勒は「捕らえたかったのはこの1人だけであり、すでに事は済んだ。将士は武器を収めて帰命の路に就くがよい」と命を下し、軍を返した。

石勒の前に引っ立てられた劉曜は「石王(石勒)よ、重門の盟(310年に共同で河内を包囲した時に交わした誓い)を忘れたか」と問うと、石勒は徐光を介して「今日の事は天がそうさせたのだ。他に何を言うことがあるか」と伝えた。劉曜は河南の丞廨に置かれ、傷が激しかったので金瘡医の李永によって傷の治療を受けた。石勒は劉曜を李永と共に馬輿へ乗せ、征東将軍石邃に騎兵を与えて劉曜の護衛をさせながら、襄国へと送った。帰国すると、石勒は前趙の皇太子劉煕への降伏勧告の書を劉曜に書かせようとしたが、劉曜は「諸大臣と共に社稷を維持せよ。我が意に背くことの無い様に」とだけ記した勅書を書いた。石勒がこれを見ると、大いに気分を害し、しばらくしてから劉曜を暗殺した。

上邽攻略

329年1月、冠軍将軍趙胤甘苗を派遣し、歴陽で祖約を破った。祖約は側近数100人を連れて、闇夜に紛れて石勒の下へと亡命した。さらに配下の牽騰も軍を伴って降伏した。祖約と面会した石勒は、王波に命じて「卿は反逆するも進退行き詰まって帰服してきたが、我が朝廷は逃げ込む藪とでも考えているのか。卿は何の面目があって顔を出せるというのか」と責め立てさせ、前後の檄書を示したが、後に祖約を許した。

劉煕らは劉曜が捕縛されたと知ると、長安を去って上邽に逃げ込んだ。石勒は石虎に兵を与えてこれを討たせた。諸将は守備を放棄して逃亡したので、関中は騒乱に陥った。将軍蒋英辛恕は数10万の兵を擁して長安に拠ると、使者を派遣して石勒を招き入れた。石勒は石生に洛陽の兵を与え、長安に入らせた。

8月、劉胤劉遵は数万の兵を率いると、長安へと攻め込んだ。隴東武都安定新平北地扶風始平の諸郡のは皆挙兵して劉胤に呼応した。劉胤が仲橋まで軍を進めると、石生は長安の守りを固めた。石勒は石虎に騎兵2万を与え、劉胤を迎え撃たせた。

9月、両軍が義渠で激突した。劉胤は石虎軍に破れ、兵5000余りを失った。劉胤が上邽へと敗走すると、石虎は勝利に乗じて追撃を掛け、上邽を攻め落とした。屍は1000里に渡って転がり、劉煕を始め、王公卿校以下3千人余りが捕らえられ、石虎はこれらを全て殺した。さらに、台省の文武官、関東の流民、秦雍の豪族9000人余りを襄国へと移し、王公と5郡の屠各5000人余りを、洛陽で生き埋めにした。こうして、前趙は劉淵から劉曜に至るまでの3世27年で滅亡した。主簿趙封伝国の玉璽・金璽・太子玉璽を持たせ、石勒の下に送り届けさせた。

石虎は集木且羌が守る河西に進攻し、これを陥落させた。数万人を鹵獲し、秦隴の地は尽く平定された。前涼張駿は驚愕し、使者を派遣して称藩するとともに、石勒に貢物を献上した。また、氐王の蒲洪・羌酋長の姚弋仲が石虎に降伏を願い出た。石虎は蒲洪を監六夷軍事に、姚弋仲を六夷左都督に任じ、氐・羌の15万部落を司州・冀州に移した。

石勒は冀州の諸郡を巡行して、高年・孝悌・力田・文学の士と対面し、それぞれに穀帛を下賜した。遠近の牧守に命を下し、属城に対して「言いたい事があれば、包み隠さず些細な事であっても発言する事を望む」と通達させた。

趙帝時代

皇帝即位

330年2月、群臣達は石勒の功業が既に充分であり、吉兆も多く集まっていることから、今こそ尊号を王から帝へ改め、天地の望みに答える時期が来ているのではないか、と議論した。石虎らは皇帝の璽綬を奉じ、石勒に尊号を奉ったが、石勒は聞き入れなかった。群臣が固く要請すると、石勒は「皇帝の代行」たる、趙天王と称した。また、祖父の耶弈于に宣王、父の周曷朱に元王の尊号を贈り、妻の劉氏を王后に、世子の石弘を太子に立てた。子の石宏を持節・散騎常侍・都督中外諸軍事・驃騎大将軍・大単于に任じて、秦王に封じた。左衛将軍石斌を太原王に封じ、小子の石恢を輔国将軍に任じて、南陽王に封じた。中山公石虎を太尉・守尚書令に任じ、中山王に封じた。石生を河東王に、石堪を彭城王に封じた。石虎の子である石邃を冀州刺史に任じて、斉王に封じ、散騎常侍・武衛将軍を加えた。石宣を左将軍に任じ、石挺を侍中に任じて、梁王に封じた。左長史郭敖を尚書左僕射に任じ、右長史程遐を右僕射・吏部尚書に任じ、左司馬夔安、右司馬郭殷、従事中郎李鳳、前郎中令裴憲を尚書に任じた。参軍事徐光を中書令・秘書監に任じた。論功封爵により、開国郡公に文武21人、郡侯に24人、県公に26人、県侯に22人が封じられ、その他の者もそれぞれ格差に応じて封じられた。

侍中任播らは参議し、趙が金を承けて水徳となったことから、旗幟は黒と、牲牡は白とし、子年に社を祭り、丑年に臘を行うべきであると述べると、石勒はこれに従った。石勒は「今より疑難の大事があれば、八座[33]と委丞郎を東堂に集め、議論した上で決する事とする。また、軍国の要務であれば、令僕尚書は寒暑昏夜の区別なく入朝して申し述べるように」と書を下した。

石勒は祖約が晋朝に忠を尽くさなかったことから忌み嫌っており、長らく面会をしなかった。程遐は石勒へ祖約誅殺を勧めると、安西将軍姚弋仲もこれに同意したので、石勒は彼を殺害することを決めた。祖約と彼の一族を呼び寄せると、石勒は病気を理由に程遐を代役に立て、祖約を始め宗族の者を連行させた。祖約は自分に禍が降り掛かると知り、大いに飲んで酔い潰れた。市に至った所で引き出されると、外孫を抱きかかえてそのまま泣き崩れた。祖約はそこで斬り殺され、諸子姪親属の100人余りも尽く誅殺された。婦女や伎妾は、諸胡人に下賜された。

5月、前涼の張駿は前趙滅亡を契機に河南の地を奪還すると、狄道まで勢力を伸ばし、武街石門候和漒川甘松の5カ所に護軍を置き、後趙との国境とした。

6月、石勒は鴻臚孟毅を派遣して張駿を征西大将軍、涼州牧に任じて九錫を授ける旨を伝えたが、張駿はこれを受け容れずに使者を拘留した。

丁零の翟斌が後趙に入朝してくると、石勒は句町王に封じた。

9月、群臣が再三に渡って石勒に尊号に即くよう求めた。石勒は遂にこれ受け入れ、皇帝位に即いた。境内に大赦を下し、建平と改元した。襄国から臨漳に遷都した。高祖を順皇、曾祖父を威皇、祖父を宣皇、父を世宗元皇帝、母を元昭皇太后と追尊した。また、文武官をそれぞれ格差をつけて進封した。妻の劉氏を皇后に立て、昭儀・夫人の位を上公に、貴嬪・貴人を列侯に見なし、員数はそれぞれ1人とした。また、三英・九華を伯爵に、淑媛・淑儀は子爵に、容華・美人は男爵に見なし、賢淑から選び出して員数は不定とした。太子の石弘を皇太子に立てた。

石勒が徐光へ「大雅(石弘)は穏やかな性格で、将家の子でないかのようだ」と言うと、徐光は「漢祖(劉邦)は馬上で天下を取り、孝文(劉恒)は静かにそれを守りました。聖人の後、必ずや世に粗暴な者は不要となります。これこそ天の道なのです」と答え、石勒は大いに喜んだ。徐光は再び「皇太子は仁孝温恭ですが中山王(石虎)は雄暴多詐であり、もし一旦陛下に不慮のことがあれば、社稷の危機を招くのではないかと憂慮しております。中山の威権を少しずつ奪い、太子を早く朝政に参画させられますように」と進言すると、石勒は内心同意したが従わなかった。

襄陽攻略

同月、荊州監軍郭敬、南蛮校尉董幼が襄陽に進攻した。東晋の南中郎将周撫は監沔北軍事に任じられて襄陽を守った。石勒は郭敬に命じて樊城に軍を引かせ、城の旗幟を全て収めて誰もいないように見せかけさせた。さらに、もし不審に思った偵察がやって来たならば『せいぜい城を堅守しておくがいい。後7、8日もすれば、騎兵の大軍が至るであろう。そうなっては、逃げるのは難しかろう』と告げるよう命じた。郭敬は人を派遣して馬に水浴びさせ、全頭を終えると、また最初から浴びさせ、昼夜休む事無く続けさせ、多くの馬がいるように見せかけた。間諜は帰ると、襄陽を守る南中郎将周撫にこのことを報告した。周撫は石勒の本軍が至ったのだと思い込み、恐れおののいて、武昌へと逃げ込んだ。郭敬軍が襄陽に入ると、中州の流民は尽く後趙に帰属した。郭敬は兵に略奪を働かせなかったため、百姓は安堵した。東晋の平北将軍魏該の弟の魏程らは、その兵を引き連れて、石城を開いて郭敬に降伏した。郭敬は襄陽城を壊し、百姓を沔北に移すと、樊城の守りを固めた。郭敬は荊州刺史に任じられた。

秦州休屠の王羌が石勒に反旗を翻すと、秦州刺史臨深は司馬管光に州軍を与えて討伐に向かわせた。しかし、管光軍は王羌軍に返り討ちにされたため、隴右は騒然となり、氐羌は一斉に叛乱を起こした。この事態に石勒は、石生を隴城に向かわせた。王羌の兄の子である王擢は王羌と不仲であったので、石生は王擢に賄賂を贈って王羌を挟撃した。これにより王羌は大敗して涼州へと敗走した。そして、秦州にいる夷人の豪族5千戸余りを雍州に移した。張駿はこれを聞くと大いに恐れ、拘留していた孟毅を帰らせた。

331年1月、劉徴は婁県を攻撃し、武進を占領したが、郗鑒により撃退された。

統治

石勒は書を下して「今より法を処する事があれば、尽く科令に準拠するように。我の怒りを買った者であっても、徳位が高ければ訓罰すべきではない。あるいは、職務に殉じた者の遺児が罪に遭遇したならば、門下は皆各々にこれを奏すように。さすれば我が良く考えて対応しよう」と述べた。

高句麗粛慎が矢を、宇文屋孤が名馬を献上してきた。張駿は長史馬詵を派遣して、書物を奉じて高昌于闐鄯善大宛の使者を後趙へ送り、貢物を献上させた。東晋の荊州牧陶侃は長史王敷を派遣して、江南の珍宝奇獣を献上した。秦州は白獣と白鹿を、荊州は白雉と白兎を、済陰苑郷を降して木連理・甘露を送った。吉兆が相次ぎ、また程遐らが義を慕っているとして、石勒は3年以下の刑を赦免し、百姓の去年の払われていない祖税を等しくした。また、涼州でも死刑以下に特赦を下し、涼州の計吏を皆郎中に任じ、絹10十匹、綿10斤を下賜した。また、使者を派遣して張駿を武威郡公に封じ、涼州諸郡を食邑とした。

ある時、南郊において白気が壇から天に昇っているのを見ると、石勒は大いに喜んで宮殿に戻り、4年の刑を赦免した。その後、石勒は藉田を行い、宮殿に帰ると5年以下の刑を赦免して、公卿以下に各々格差をつけて金帛を下賜した。

日蝕が起こると、石勒は3日に渡り正殿を避け、群公卿士にそれぞれ封事を上げるよう伝えた。州郡に命じて、諸々の祠堂の内、正典に則っていない物を禁じて、全て除かせた。だが、雲雨を呼ぶと伝えられる物は、百姓にとって有益であるとして例外とした。また、郡県に改めて祠堂を建てさせ、嘉樹を植えさせ、岳や瀆などを差をつけて祭った。

4月、石勒が鄴に宮殿を建造しようとすると、廷尉続咸は上書して強く諫めた。石勒は激怒し「この老臣を斬らねば、朕の宮殿は成し得ないだろう!」と言い、御史に命じて続咸を収監させた。中書令徐光は「陛下は天性の聡叡があり、唐虞(堯・舜)をも超越しています。にもかかわらず、忠臣の言に耳を貸さないとは、夏癸(夏の桀王)、商辛(殷の紂王)が如き君と同じではありませんか。彼の進言が採用するに足るのであれば用い、足りなくともそれを許容すべきです。どうして一度の直言だけで、列卿を斬るというのですか!」と進言すると、石勒は感嘆して「人君となった以上、自分勝手な事をしてはならんな!どうしてこの発言の忠であることに気づかなかったのか。これまでの事は戯れと思ってくれ。人家であっても100匹の資産があれば、市に別宅を欲しがるものだ。我は天下の富、万乗の尊を有していながら同じことをするとはな!いずれ宮殿は建造するが、今はいったん造営を中止して、我が直臣の思いを顕すことにしよう」と述べた。そして、続咸に絹100匹、稲100斛を下賜した。また、公卿百僚に書を下して、賢良・方正・直言・秀異・至孝・廉清の者を毎年一人を推挙させ、答策を行って上位の者を議郎に、中位の者を中郎に、下位の者を郎中に任じ、その推挙された者にも更に推薦させて、招賢の路を広げるように、と伝えた。この時期、明堂・辟雍・霊台を襄国城西に建てた。

9月、大雨が連日のように続き、中山の西北では川が氾濫し、巨木100万根余りが流されて堂陽に集まった。これに石勒は大いに喜び「諸卿は知らぬのか。これは災いではなく、天が我に鄴都を造営せよと言っておるのだ。」と公卿に述べた。そして、少府任汪、都水使者張漸に造営を監督させ、石勒自ら口出しを行った。

同時期、蜀の梓潼建平漢固の三郡の巴蛮が、石勒に帰順した。

洛陽の土中には成周(西周時代の洛陽の呼称)があり、またかつて漢晋の旧都であったことから、石勒は洛陽に遷都する意志を抱いた。そして、洛陽を南都として、行台を置いて書侍御史に洛陽を治めさせた。

石虎の野心

程遐は石勒へ「中山王の勇武権智は群臣のうちに及ぶ者がありません。ですが、その振る舞いを観ますと陛下以外の者は皆蔑んでおります。専征の任を担って久しく、威は内外に振るっておりますが、性格は不仁で残忍無頼です。その諸子も皆成長して兵権を預かっております。陛下の下にいる間は二心は抱かないでしょうが、その心中は怏怏としており、おそらく少主(石弘)の臣になることを良しとしないでしょう。どうか早くこれを除き、大計を図られますように」と進言したが、石勒は「今、天下はまだ平定されておらず、兵難も未だやんでいない。大雅(石弘)も幼いことから強い輔佐が必要である。中山は佐命の功臣であり、魯衛に等しい存在であるぞ(魯は周公旦の封国。衛は弟の康叔の封国。両者とも善政を布き、その統治ぶりも兄弟の様であると評された)。やがては伊霍(伊尹霍光)の任務を委ねようとしている。どうして卿の言に従えようか。卿が恐れているのは、幼主を補佐する際に実権を独占出来なくなることであろう。卿も顧命には参加させる。そのようなことを心配するでない」と返した。程遐は涙を流し「臣は公事について上奏しておりますのに、陛下は私事をもってこれを拒まれます。何故忠臣の必尽の義を、明主が襟を開いて聞き入れないのですか。中山は皇太后に養育されたとはいっても陛下の近親者ではなく、親族の義を期待してはなりません。陛下の神規に従って鷹犬の功を建てるには至りましたが、陛下はその父子に対して恩栄をもって、もう充分に酬いておられます。魏は司馬懿父子を任用したが為に、遂に国運を握られてしまいました。これを観て中山がどうして将来に渡って有益な存在であると言えるでしょうか。臣は幸いにして東宮を任されるようになりましたが、もし臣が陛下に言を尽くさなければ誰が言うことが出来るでしょうか。陛下がもし中山を除かなければ、宗廟は必ずや絶える事でしょう」と述べたが、石勒は聞き入れなかった。

徐光もまた機会を得て石勒へ「陛下は八州を平定され、この海内に帝として君臨されているのに、どこか喜んでおられないように見えますが何故でしょうか」と問うと、石勒は「呉蜀の地がまだ平定されておらず、中華は未だ統一されていない。司馬氏はなおも丹楊に余命を保っているので、後世の人々が我を符籙に応じていないと考えるのではないだろうか。これを考える度に顔色が優れないのだ」と答えた。徐光は「臣は陛下がなぜ腹心の患を憂うことなく、四肢を憂えているのか不思議に考えます。魏は漢を承けて正統な帝王となり、劉備が巴蜀の地に拠ったとは言え、これをもって漢が続いたなどとは言えません。呉は江東の地に割拠しましたが、魏の美を損なうことはありません。陛下は既に二都を包括して中国の帝王となられており、司馬氏の後継者は玄徳と大差なく、李氏もまた孫権のようなものです。符籙は今陛下の下にはありませんが、これがどこに帰すかは四肢の軽患に過ぎません。中山王は陛下から神略を授けられ、天下では皆その英武は陛下に次ぐものだと言っておりますが、残虐多姦であって利を見て義を忘れるという性質からして伊・霍の忠はありません。彼ら父子の爵位が重くなれば王位を傾ける勢いとなりかねません。彼の様子を見ますと、常に不満の心を抱いているのが良く分かります。最近でも東宮の側で宴を行うなど、皇太子を軽んじる様子がありました。陛下はこれを許容しておられますが、もし陛下の御代が終わりになりましたら、臣は宗廟が必ずや荒れ果てることになると恐れております。これこそ心腹の重疾であって陛下はこれを図られるべきです」と進言した。石勒は黙然としてしまい、ついに従うことはなかった。

東晋の将軍趙胤が馬頭を攻略すると、石堪は将軍韓雍を救援に向かわせたが間に合わず、南沙海虞を落とされ、5千人余りが捕らえられた。

郭敬が軍を退いて樊城に留まると、東晋軍が再び襄陽城に入った。4月、郭敬は再び襄陽に攻撃を仕掛け、これを陥落させると、今度は守備兵を置いてから戻った。

石勒は太子の石弘に尚書の奏事を決済させ、中常侍厳震に監督させて征伐・刑断の大事を預けた。これによって、厳震の威権は大いに高まり、宰相をも凌ぐものとなった。その一方で、石虎の下を訪れるものは減り、一時の権勢を失ったので大いに不満を抱いた。

石勒は鄴に赴くと、石虎の邸宅へと向かい「汝の功績に並ぶ者はいないのだ。宮殿が完成したら、次は王(石虎)の邸第を築くので、卑小な事に囚われることのないように」と述べると、石虎は冠を脱いで拝謝した。すると石勒は「我は王と共に天下を取ろうとしているのに、謝する必要など無い!」と声を掛けた。

7月、郭敬が南の江西へと進攻すると、東晋の太尉陶侃は子の平西参軍陶斌と南中郎将桓宣を派遣し、虚を突いて樊城に攻め込ませ、城中の人民を連れ去った。郭敬は軍を返して樊城の救援に向かい、涅水で桓宣軍に追いつき、戦闘を繰り広げた。郭敬の前軍は大敗を喫し、桓宣軍も兵の大半が死傷したが、略奪した物全てを取り返してから去った。陶侃はさらに兄の子の陶臻竟陵郡太守李陽新野に攻め込ませ、陥落させた。これを受け郭敬は撤退した。桓宣は南の襄陽を陥落させると、軍を留めて守備に当たらせた。後趙はその後再び襄陽を攻めたが、桓宣は弱兵でこれを退けた。

郡国に命じて学官を立て、郡ごとに2人の博士祭酒を置かせ、弟子150人を教授させた。良く励んで修了した者は、御史台に顕彰させた。さらに、太学生5人を佐著作郎に抜擢して、時事を記録させた。

この時期、日照りが続いていたため、石勒自ら廷尉に臨んで囚人の記録に目を通し、5年以下の刑については速やかに判決を下し、罪が重い者には酒食を下賜して沐浴を許し、秋まで判決を待った。

333年1月、成漢の李雄に使者を送り修好を求めたが、李雄はその貢物を焼いた。

5月、石勒は灃水宮に赴いたが、病状が悪化したため引き返した。石虎と太子石弘、中常侍厳震を呼び出すと、禁中に控えさせた。だが、石虎は石勒の命と偽り、石弘・厳震を始め内外の群臣や親戚を退けた。これにより石勒の病状を把握する者はいなくなった。石虎は再び命を偽り、石宏・石堪を襄国に召還した。石勒の病状が少し回復すると、石宏がいるのを見て驚き「秦王は何故にここに来るか?王に藩鎮を任せたのは、正に今日のような日に備えるためではないか。誰かに呼ばれたのか?それとも自ら来たのか?誰かが呼んだのであれば、その者を誅殺してくれよう!」と声を挙げた。この言葉に石虎は大いに恐れ「秦王は思慕の余り、自らやってきたのです、今、送り返すところです」と述べた。数日後、石勒が再び石宏について問うと、石虎は「詔を奉じてから既に発っており、今は既に道半ばと言った所かと思われます」と答えたが、実際には石宏を外に駐軍させ、帰らせなかった。

広阿で蝗害が発生すると、石虎は密かに子の石邃に騎兵3千を与え、蝗が発生した所を回らせた。

最期

石勒の病状がいよいよ悪くなると「死して三日の後に葬り、内外の百僚は葬儀が終わり次第、喪を解くと共に婚姻・祭祀・飲酒・食肉の禁を取りやめるように。征鎮や牧守は喪といえども持ち場を離れないように。死体を棺に収めるには時服、載せるのは常車を用い、金宝や器玩を副葬する必要は無い。大雅(石弘の字)はまだ幼いので、恐らく朕の志を継ぐにはまだ早いであろう。中山(中山王の石虎)以下、各々の群臣は、朕の命に違う事の無きよう努めよ。大雅は石斌と共に協力し、司馬氏の内訌を汝らの戒めとし、穏やかに慎み深く振舞うのだ。中山王は深く周霍(周公旦と霍光)を三思せよ。これに乗じる事の無い様に」と遺命を告げた。

333年7月、石勒は死去した。享年60、在位すること15年であった。夜の内に密かに山谷に埋葬されたため、その所在を知る者はいなかった。文物を備えて虚葬され、高平陵と号した。諡号を明皇帝、廟号を高祖とされた。死後、その遺命は守られず、石虎が事実上実権を握り、石弘はその傀儡と化した。

人物・逸話

成長すると壮健な肉体と何事にも動じない胆力を身につけた。また、武芸に秀でており、特に騎射の才能には並はずれたものがあった。字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞くのを好み、漢人士大夫を登用して律令・官制を整えた。また、『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。かなりの激情家であり、怒りに任せて失敗を犯す逸話が数多く記載される。その一方で寛大な面も持ち合わせていた。

性格を表す逸話

  • 316年12月、石勒の姉の夫である広威将軍張越は諸将と博打に興じており、石勒はそれを眺めていた。この時、張越は石勒へ冗談を述べてからかったが、石勒はこれを真に受けて激怒し、力士を怒声で呼び寄せた。そして、張越の首を折るよう命じ、そのまま殺してしまった。
  • 319年3月、石勒が劉曜から離反した時の事、参軍晁賛に命じて正陽門を築かせた。しかし、突如としてその門が崩壊すると、これに石勒は激怒して晁賛を死罪とし、怒りに任せて性急に刑を執行させた。だが、しばらくしてこれに後悔し、晁賛に棺服を下賜し、大鴻臚を追贈した。
  • 320年、宮殿や諸門が完成すると、法令を更に厳しく運用するようになり、特に胡を諱とする事に最も重きを置いた。ある時、酔っ払った胡人が馬に乗ったまま、止車門に突入した。これに石勒は激怒し、宮門小執法の馮翥を呼びつけて「人君が令を制定するのは、天下に威行を広めるためである。まして、天下より狭い宮殿の間では尚更である。馬を走らせて門より入ってきた者は、何人であった。なぜ裁かなかったのだ」と問い質すと、馮翥は恐怖と緊張のあまり「馬にて入ってきたのは、酔った胡人でありまして、甚だこれを制止したのですが、言葉が通じなかったようでして」と、諱とされた「胡」を使ってしまった。これに石勒は「胡人であれば、言葉は通じ難いな」と笑いながら答えると、馮翥を大目に見て罪しなかった。
  • 321年、従事中郎の劉奥は建徳殿の造営の際、天井の木の寸法を誤って小さくしてしまい、石勒に殿中で斬られた。石勒は後にこれを悔やみ、太常を追贈した。
  • 321年11月、石勒は武郷の父老や旧友を襄国に招いた。一団が到着すると石勒は座を囲んで宴会を開き、語らいの中で石勒の過去話になった。まだ石勒が郷里で暮らしていた頃、家がすぐ近くに李陽という人物がいた。彼は頑固で人に従わない性格であり、石勒の事を軽んじていたので、いつも両者は漚麻の池(現在の山西省晋中市楡社県)で喧嘩し、時には殴り合いになる事もあった。その為、李陽は恐れて宴会に参加しなかった。石勒は座を共にしている父老に「李陽は壮士であるが、どうして来ていないのだろうか。麻池での事であったら、布衣(庶民)の時のいざこざに過ぎん。我は正に天下を治めようとしているのに、どうして匹夫に仇なそうとするというのか」と語り、使者を派遣して李陽を呼び寄せた。李陽が到着すると石勒は杯を交わし、酔いが回り始めると、李陽の腕を引き寄せながら「我はかつて卿の老拳に嫌気が差していた。卿もまた我の毒手に飽き飽きしておろうな」と笑った。李陽に立派な邸宅を下賜し、参軍都尉に任じた。
  • 324年、参軍の樊坦は清廉な人物であったが、暮らしが貧しかった。樊坦は章武内史に抜擢され、石勒に謁見すると、石勒は樊坦の衣服がぼろぼろなのを見て「樊参軍はそれ程までに貧であったのか。どうして朝服がそれほどぼろぼろなのだ」と大いに驚いた。樊坦は誠朴な人柄であり、ついうっかり「先日、無道な羯胡に資財の全てを奪われ、このように貧窮しております」と、石勒が羯族の出身であるのを忘れて、軽率に答えてしまった。石勒は「羯賊の暴掠に遭われたのであれば、その補償をしてやろねばな」と笑いながら返した。樊坦は大いに恐れて、叩頭しながら涙を流し、応対もままならなかった。石勒は「我が法律は俗士を遠ざけるためにあるのだ。卿は老書生であり、何も心配する事は無い」と声を掛け、車馬・衣服・銭300万を下賜した。そして、俗世の振る舞いにもう少し興味を持つよう勧めた。
  • 石勒は常日頃より文学を好み、軍旅の最中でも常に儒生に史書を読ませてそれを聴いていた。また、古代の帝王の善悪について自分なりの考えを論じ、朝賢や儒士が称賛するほどその見識は深かった。人に漢書を読ませていた時、酈食其が六国の後裔を王に立てる事を勧めた場面に差し掛かると「これは失策である。どうしてこれで天下を統一できようか」と大いに驚いた。話が進んで留侯(張良)がこの策を諫めた場面になると「これならば信頼できる」と感想を述べた。彼の天資英達は、このようであった。
  • 324年、石勒が近郊で狩りに出ようとした時、主簿程琅は「劉氏(前趙)や司馬氏(東晋)の刺客が林の如く放たれております。もし変事が起きてしまえば、帝王といえども一夫の敵に過ぎません。孫策の禍を忘れてはなりません。枯木や朽株でさえ尽く障害と成り得ます。馬を走らせると害が起こるのは、今古よりの戒めとすべきです」と諫めたが、石勒は顔色を変えて怒り「自分の幹力は自分が一番知っている。対応出来ぬと思うか。卿はただ文書を見て言ってるだけであろう。卿如きが心配する事ではない」と言い返した。この日、石勒は獣を追っていたが、その際に馬が木に激突して死に、石勒も危うく大けがをする所であった。石勒は「忠臣の言を用いなかったのは、我の過ちであったか」と言い、程琅に朝服と錦絹を下賜し、爵位を関内侯とした。この事が朝臣に伝わると、謁見の際には忠言を争ってするようになった。
  • 326年3月、夜に石勒は密かに軍営を検察しようと思い、絹や金銀を門番に渡して外に出ようとした。しかし、永昌門の門衛王假はこれを認めずに捕らえようとしたが、従者が至ると慌ててそれを止めさせた。明朝、石勒は王假を呼び出すと、職務に忠実であることを称え、振忠都尉に任じると共に、関内侯に封じた。

怪異譚

『晋書』や『十六国春秋』を始めとした数多くの書物に、石勒の正当性を示す為に創作されたと思われる怪異な逸話が散見されている。

  • 石勒が生まれた時、赤い光が室内を照らし、白い気が天から中庭に降り注いだ。この光景を見た者は、生まれた子が非凡な存在になると思ったという。
  • まだ石勒が若い頃、住処を構えていた武郷北原の山下で騎兵のような形の草木が見られた。さらに、石勒の家の庭中には人参が突如として生え、周りの花もまた葉が盛んに茂り、その見た目は人の姿にそっくりだった。この奇妙な現象に村長や人相見が石勒の下に集まって「この胡(石勒の事)の容貌は非凡であり、並々ならぬ志度(志と度量)が見られる。これは計り知れぬぞ」と口を揃え、村人に対して石勒を厚遇するよう勧めた。ほとんどの人は失笑してまともに取り合わなかったが、鄔県出身の郭敬と陽曲県出身の甯駆だけは正に言う通りであると感じ、共に石勒に資金援助をした。石勒はこの二人に恩を感じ、農作業に協力してそれに報いたという。
  • ある時、耕していた土地より刀を拾った。その刀には『石氏昌(石氏が盛んとなる)』と隷書で刻まれており、これを見た石勒は内心大いに喜んだという。
  • 石勒が村で農作業を行っていた時、鞞鐸(戦場で合図に用いる太鼓や角笛・鈴の事)の音が聞こえてきた。以前にも何度か同じことがあったので、不審に思った石勒は帰るとこの事を母に告げたが、母は「働きすぎて耳鳴りがしてるだけでしょう。不吉な予兆などではないでしょう」と気にも留めなかった。その後、師懽の家で奴隷として働いていた時、野に耕作に出た石勒はまたもや度々鞞鐸の音を聞くようになっていた。石勒は他の奴隷にこの事を告げると、他の者も同じように音が聞こえていると答えた。石勒は「我がまだ幼く家にあった頃、いつもこの音が聞こえていたのだ」と語った。奴隷達は帰って師懽にこの事を報告すると、師懽もまたかねてより石勒の風貌にただならぬものを感じていため、この報告を聞いて奴隷から解放する事を決めたという。
  • 石勒が郷里を離れて郭敬の庇護を受けていた頃、襄国において「力在左、革在右。讓無言、或入口(東に力あり、西に革あり[34]。讓は言無く、或は口に入る)」という歌謡が流行った。「力」と「革」を併せると勒となり、「讓」から「言」を除けば「襄」となり、「或」の字が「口」の中に入れば「國」の字を成す。つまり、後に石勒が襄国に入る事を暗示していたものであった[35]
  • 師懽の家で奴隷となっていた時、ある老父が石勒へ「君は魚龍が髪際にあって四道に成長している。これは人主となる貴い相である。甲戌の歳(314年)、王彭祖(王浚の事、彭祖は字)を図るように」と声を掛けた。この言葉を聞いた石勒は「もし公(あなた)の言う通りとなったらば、その徳を決して忘れないでしょう」と返した(実際に石勒は314年に王浚を滅ぼしている)が、その老父は忽然と姿を消したという。その後、奴隷から解放された石勒は武安の臨水で傭兵稼業を行うようになり、遊軍として活動していたが、ある時敵軍に捕まってしまった。ちょうど鹿の群れが近くを走り抜けて行き、敵の兵士は我先にと追い始めたので、その隙を突いて石勒は逃げる事が出来た。その後、石勒の前にまたもやあの老父が姿を現した。老父は石勒に近づき「向こうから来た鹿の群れは我が放ったものだ。君は中州の主となるべき人物であるから、救ったまでだ」と述べた。石勒は彼へ拝礼し、その天命を受け入れた。
  • 328年11月、石勒は洛陽奪還の為に兵を挙げ、大堨から渡河した。延津は流氷で覆われ、猛烈な風が吹き荒れていたが、石勒軍が到着すると氷は融けて風も和らいだ。そして、渡河し終えると、再び流氷が延津を埋め尽くした。石勒はこれを神霊の助けであると捉え、この地を霊昌津と名づけた。
  • 332年、象のように大きく、尾足が蛇形の流星が出現し、北極から西南に流れていくこと50余丈、その光明は地を照らした。遂に河へと落ち、その時の音は900里余り先まで聞こえた。また、黒龍が鄴の井戸から現われ、石勒はこれを見ると喜び、群臣を鄴に集めて朝会した。
  • 333年、熒惑(火星)が昴に入り、隕石が鄴の東北60里の所に墜落した。始め、赤・黒・黄の雲が入り混じって幕のようになり、その長さ数10匹に渡った。墜落音は、雷が轟いたかのようであった。墜ちた辺りの土地は、空気が火のように熱せられ、舞い上げられた塵は天まで届こうとしていた。農家の者が墜落現場を見に行ったところ、土が燃えているかのように沸き立っていた。また、1尺余りの石が1個あり、青色で軽く、叩いてみると磬のような音がしたという。石勒が死去したのはそれから21日後の事であったという。

その他

  • 石勒は14歳になると村人に付き従って洛陽へ行商に出るようになった。ある時、東門に寄り掛かって詩歌を吟じていると、通りを行く人から注目を受け、その中の一人に西晋の政治家王衍がいた。王衍は石勒を一目見るや優れた才覚の持ち主であると見抜いた。そして東門を通り過ぎた後、ふと従者へ向けて「向こうにいる胡雛(胡族の少年)の声色や容貌を見るに、常人ならざる志が感じ取れるであろう。恐らく将来、天下の患になるであろうなあ」と語り、従者の一人に彼を連れてくるように告げた。これを受けて従者は東門へ戻ったが、既に石勒は去った後だったという。
  • 313年、石勒は鄴を支配下に入れるようになると、張賓へ「鄴は魏の旧都であり、我はここに都を再建しようと考えているのだが、風俗が乱れており賢人にこれを整備させる必要がある。誰が適任であろうか」と尋ねると、張賓は「かつて晋の東莱郡太守であった南陽趙彭は、忠義の人にして品行方正で機敏な人物であり、補佐の任にあった時にその才覚を発揮しておりました。将軍がもし彼を任じましたならば、必ずや期待に沿うことでしょう」と答えた。その為、石勒は趙彭を召し出すと、魏郡太守に任じる旨を伝えた。だが、趙彭は石勒の前に出ると「臣はかつて晋室に仕えてそのを食んでいた者です。その晋の宗廟は今や茂みとなり、川の氾濫が東に向かったように、江南へ移ってしまいました。犬馬というものは主を慕い、決して恩を忘れないそうです。明公(石勒)が天意によって事業を起こし、この彭に命を授けたとなれば、これほど光栄なことはありません。しかし、この栄誉を受けると言う事は、二君に仕える事に他ならず、この彭の望む所ではありません。恐らく、明公自身もこれを良くは思わないでしょう。もし、この彭の余命を自由にさせて頂けるのでしたら、明公による恵みであると考えます」と涙ながらに述べたため、石勒は黙り込んでしまった。そこに張賓が「将軍の神旗が通り過ぎた時、晋の貴族や官僚は保身に走り容易に忠節を曲げ、大義ではなく目先の利益で進退を考える者ばかりでした。ですが、趙彭のような賢人であれば、将軍が高祖となったとき、自ずと四公となり得ましょう。いわゆる君臣相知るということであります。これも将軍を不世の高祖とするために必要な事であり、だからこそ趙彭を何としてでも官吏とすべきなのです」と述べると、石勒は大いに喜んで「右侯の言は、我の心を得ている」と称賛した。そして、趙彭に安車駟馬を下賜して卿禄を与えると、子の趙明を参軍に任じた。
  • 314年3月、王浚が石勒に滅ぼされると、棗嵩を始めとした王浚の側近はみな先を争って石勒の軍門へ詣でて謝罪し、こぞって賄賂を贈った。ただ、尚書裴憲と従事中郎荀綽だけは全く動じずに私室に籠っていた。石勒はかねてよりその名を聞いていたので、裴憲らを召集すると「王浚は幽州において虐暴をなし、人も鬼も等しく憎むところであった。故に我は天命を恭しく奉じ、ここに庶民を救ったのだ。束縛されていた人々はみな歓声を挙げ、道行く先々で喜び感謝した。二君(裴憲と荀綽)は威に驕る同悪であり、誠信が阻絶している。防風の戮(防風とはに誅殺された部族)が誰に帰そうとしているかが分からぬか」と責めた。裴憲は顔色を変えずに剛直に振る舞っていたが、涙を流すと石勒へ「臣らは代々晋の栄を担い、その恩遇は隆重でありました。王浚は凶粗にして悪直でありましたが、それでもなお晋の遺藩であったのに変わりはありません。故に臣らはこれに従い、敢えて二心を抱く事はありませんでした。此度の聖化を喜んではおりますが、それでも義は誠心より優先されるものでしょう。武王紂王を討った後、商容(殷の政治家。賢人として称えられたが、紂王により罷免された)を郷里において顕彰したといいますが、商容自身が紂王に背いて討伐に寄与したという話は未だ聞いておりません。明公(石勒)が徳・義による教化を望まず、威刑を専らとしようと考えているのであれば、防風の戮も臣らの本分といえましょう。どうして逃れようなどと考えましょうか!そうであればただ死を請うのみであり、どうか今すぐ役人をここに呼んでくださいますよう」と応え、拝礼せずに退出した。石勒はこの応対を深く称賛し、賓客の礼をもって彼らを待遇した。その後、石勒は王浚の側近や親族の家を調べ上げると、みな巨万の富を抱えていたが、裴憲と荀綽の家だけは百帙余りの書物と十斛余りの米や塩があるのみであった。石勒はこれを知ると、長史張賓へ「その名は虚ではないな。我は幽州を得た事は喜ばぬが、二子(裴憲と荀綽)を得た事が嬉しい」と語り、裴憲を従事中郎に、荀綽を参軍に抜擢すると共に、車と服を支給した。
  • 332年1月、高句麗と宇文屋孤の使者が到来すると、石勒は宴会を行ってもてなした。宴もたけなわになった頃、徐光へ「朕は古えの基礎を開いた君主と比べてどうであろうか」と問うた。徐光は「陛下の神武謀略は高皇(劉邦)を凌ぎ、雄芸卓犖は魏祖(曹操)を超越しております。三王(禹王湯王文王)以来比べるべき存在はおらず、軒轅(黄帝)に次ぐ存在といえるでしょう!」と答えると、石勒は笑って「人が自らを知らないことがあろうか。卿の言は甚だ過ぎたるものである。もし朕が高皇に出会ったならば北面してこれに仕え、韓彭(韓信彭越)と鞭を競って功を争うだろう。光武(劉秀)に遇したならば共に中原を駆け、天下の覇権を取り合ったであろう。大丈夫が事を行う時は公明正大に、日月を皎然とするべきであるのだ。曹孟徳(曹操)や司馬仲達父子(司馬懿司馬師司馬昭)のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺いて天下を取ってはならぬのだ。朕は二劉の間にはあろうが、軒轅と比べるなど畏れ多い!」と答えた。群臣は皆、頓首して万歳を称した。
  • 332年、暴風雨が吹き荒れ、建徳殿端門と襄国市西門に雷が落ち、5人が死亡した。また、西河の介山では鶏の卵程の大きさのある雹が降り、平地では3尺降り、窪地では1丈余りも積もった。さらに、禽獣に襲われて死亡した人が万人を超え、太原・楽平・武郷・趙郡・広平・鉅鹿に渡る千里余りで樹木が倒壊し、穀物は全滅した。石勒は東堂で正服すると、徐光へ「過去にこれ程の禍があったであろうか」と問うと、徐光は「周・漢・魏・晋の全てに見られました。災いは天地の常事ではありますが、明主が変を為さなければ起こる事は無く、故に敬天の怒に触れたのではないかと思われます。去年、寒食を禁じられましたが、介子推(彼の死を偲んで清明節の前日には火を使わず冷たい食事をとる風習が生まれた)は陛下の郷里では神とされ、歴代が尊ぶ所であり、この風習を替えてはなりません。たった1人の慨嘆によって、王道は損なわれます。まして群神の恨みを買ってしまえば、上帝が怒動しない事がありましょうか!天下をこの様には出来ません。介山一帯は晋の文候が封じられた所であり、百姓にこれを奉じさせるのです」と答えた。これを受けて石勒は「寒食は既に并州の旧風となっており、朕はその俗に生まれ育ったので、これを異とする事は出来ないな。以前外議を行った際、子推は諸侯の臣に過ぎないので、王たるものこれを忌とすべきではないとの議があり、故にこれに従っていたが、或いはこのために災いが到ったのではなかろうか!子推は朕の郷里の神であり、寒食の法を正しく定めれば乱は起きないであろう。尚書は速やかに旧典の定議を調べて、それを聞かせるように」と書を下した。これを受けて有司は上奏し、介子推が歴代から尊崇を集めていることから、寒食を復活させ、更に嘉樹を植えて祠堂を建て、戸を給して祀を奉じさせる様。申し述べた。これに黄門郎韋謏が反論し「『春秋』より案じますに、蔵氷によって道は失われ、陰気が漏れ出して雹となると記載があり、子推の以前より雹が降っていたことは明らかです。故に今回の一見は子推とは関係なく、陰陽から乖離したため発生したに他なりません。子推は賢者であり、どうしてこのような暴害を為すというのですか!今回の原因を死人に求めると言うのは、間違っていると思われます。今、氷室を造りましたが、恐らく蔵氷の所在は厳冬の地に無く、多くが山川の側にあるため、気が漏れ出て雹となったと思われます。子推の如き忠賢を以て、介休・綿山の間でこれを奉じさせれば、天下に通らないことがありましょうか」と述べた。石勒はこれに従い、氷室を地下の厳寒の場所に移させた。また、以前通りに并州では寒食が行われるようになった。

宗室

兄弟

后妃

  • 石興(最初の世子、早世)
  • 石弘(太子、後の皇帝)
  • 石宏(秦王)
  • 石恢(南陽王)
  • 石斌(石虎の子で、石勒の養子となる)
  • 石堪(旧姓は田、石勒の養子となる、彭城王)
  • 石生(石勒の養子)

脚注

  1. ^ 『晋書』・『資治通鑑』による
  2. ^ 『魏書』による
  3. ^ 石耶弈于とも記載されるが、元々は石姓ではないために、おそらく石勒が死後に姓を与えたものと思われる。
  4. ^ 石周曷朱とも記載されるが、祖父同様におそらく石勒が死後に姓を与えたものと思われる。
  5. ^ 北沢とは上党郡北部一帯を指す
  6. ^ この当時の都尉とは、胡族を管轄する権限のある属国都尉の事を指す
  7. ^ 『十六国春秋』では清河郡鄃県で挙兵したと記載があるが、『晋書』にはより大まかに趙・魏の地一帯で挙兵したと記載されている
  8. ^ 『晋書』巻4 帝紀第4による
  9. ^ 『十六国春秋』では事の経過に相違があり「8月、司馬越の支援を受けた苟晞は鄴において汲桑軍を攻撃した。9月、苟晞は東武陽において追撃を掛けて9つの砦を攻め降し、汲桑軍は1万人余りが打ち取られた。大敗を喫した汲桑軍は陣営を放棄すると、夜闇に乗じて清淵まで後退し、城を固守して敗残兵を収めた」という流れになっている
  10. ^ 『晋書』では平原で晋軍に打ち取られたと記載がある
  11. ^ 『十六国春秋』では護漢将軍とも
  12. ^ 『十六国春秋』では趙郡へ侵攻したとする
  13. ^ 『十六国春秋』では308年4月の出来事とする
  14. ^ 『晋書』では黄秀とも
  15. ^ 『十六国春秋』では309年12月の出来事とする
  16. ^ 『十六国春秋』では石勒を破ったとする
  17. ^ 『晋書』王衍伝によると『石勒は孔萇に「我は天下の多くを見てきたが、このように立派な人物は見たことがない。生かしておくべきではないか」と尋ねた。しかし孔萇は「彼は晋の三公です。我々に仕える事は無いでしょう。どうして貴ぶに足りましょうか!」と答えたので、石勒は「致し方ないか。しかし刃を用いて殺すべきではない」と述べ、処刑に際しても特別扱いするよう命じた。』という逸話がある。但し、これは後述する司馬範の逸話(『資治通鑑』に記載がある』)とほぼ同じものである。
  18. ^ 『晋書』司馬越伝では36人とある
  19. ^ 『晋書』では司馬毗は生死不明と記されている
  20. ^ 書の内容は次の通り。「将軍は河北で立身し、兗州・豫州を席巻すると、長江・淮河・漢水・沔水の間を縦横無尽に駆け巡った。古来の名将と言えども、比較できる者はいないであろう。にもかかわらず、城を落としても民衆を得られず、地を攻略しても占有出来ず、軍をまとめてもすぐに散亡してしまっている。将軍にはこれが何故だかお分かりか。存亡を決するのは、正しい主君を得るかどうかにあり、勝敗を決するのは、どの勢力に付くかによる。主を得れば則ち義兵となり、逆に付けば則ち賊衆となる。義兵は敗れたとしても、功業は必ずや成し遂げるだろう。賊衆は勝ちを得たとしても、最後には必ずや殲滅される。その昔、赤眉軍や黄巾党は天下を横行したが、わずかな間に敗れ去った。その理由は、正に大義名分無き挙兵であったためであり、故に禍乱となったのである。将軍が天挺の質(天より選ばれた才質)をもって領内にその威を振るい、徳が有る者を見定めて推し崇め、時望に従ってこれに帰順すれば、その勲功・大義たるや堂々たるものとなり、長きに渡って栄光を手に出来よう。劉聡に背いて禍を除き、正しい主君に従えば福が至るであろう。もし将軍がこれまでの過ちを受け入れ、方針を改めるならば、天下を平定するのに、逆賊を掃討するのに足りない事があろうか。今、持節・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・侍中・襄城郡公を将軍に授けよう。将軍は内外の職務を統率し、華戎(漢人と胡人)の封号を兼ね備え、大郡を治めてその地位を明らかにするのだ。これを持って将軍の特殊な才能を顕彰する。これらを受ける事は、あらゆる民の望みに従う事である。古えより、確かに戎人(胡人)から帝王に登った者は無いが、名臣として功業を建てた者は存在している。今、天下は大乱しており、雄才大略を持った人物が待ち望まれている。将軍は攻城野戦においては神機妙算であり、兵書を見ていないにもかかわらず孫武・呉起に匹敵している。生まれながらにして知る者は最も優れており、学んで知る者はその次である。精鋭騎兵5千と将軍の才があれば、打ち破れないものなど何もない。全ての誠心と事実はこの書にある」
  21. ^ 『資治通鑑』に注釈をつけた胡三省は「勒(石勒)の文書には雄爽なる意度(識見と風格)がある。これは間違いなく張賓が書いたものである」と述べている。
  22. ^ 『晋書』石勒伝では段疾陸眷から講和を持ち掛けられた事になっている
  23. ^ 『晋書』では彼を烏桓族としている
  24. ^ 「将軍(石勒)は英才にして士馬も雄盛であり、それは明公(王浚)のおっしゃる通りであります。ただ、明公には何代にも渡る名声があり、その威声は天下に広がり、戎夷すらもその徳を歌っております。将軍はそれを仰ぎ見ているのです。その昔、陳嬰が王とならず、韓信は帝とならなかったのは智力だけでは帝王に成りえないと知っていたからです。将軍と明公では、陰精の太陽と江河の海を比べられるようなものです。項籍や子陽(公孫述)の没落は遠い過去の事ではなく、将軍はそれをよく理解しているのです。古えより、胡人で名臣であった者は実際におりましたが、帝王となったものは未だ一人もおりません。将軍は天下の人が許す地位までしか至らぬつもりであり、だからこそ明公に帝王を譲るのです。どうか疑うことなきように」
  25. ^ 『晋書』石勒載記では『勒は天命を知るや過ちを省み、連年の咎を反省し、幽都を抜いて善を尽す事を願い出てきた。今この願いを聞き入れ、任を授けて講和する事とした』という内容となっている。
  26. ^ 『十六国春秋』では、これを316年4月の出来事とする
  27. ^ 『晋書』には10万余りとある
  28. ^ 『資治通鑑』では貫志とする
  29. ^ 『資治通鑑』では、皇帝即位を勧めたという記録は無く、大将軍・大単于・領冀州牧・趙王を勧めた事になっている。
  30. ^ 西晋では朔州を設置していない。また漢(前趙)にもそのような記録は無く、誰がどこに設置したものかは不明。
  31. ^ 『資治通鑑』では石佗と記載される
  32. ^ 『晋書』では王勝と記載される
  33. ^ 八座は時代によって変わり、後趙の八座は判明していない(後漢では六曹尚書・尚書令・尚書僕射が八座であった)
  34. ^ 当時の中国では皇帝は南を向いて座につく為、皇帝から見て『東』を『左』、『西』を『右』と称する
  35. ^ 異苑』巻四より

参考文献

  • 三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』東方書店
  • 晋書』巻104、105「石勒載記上下」
  • 魏書』「列伝第八十三 - 羯胡石勒」巻95
  • 資治通鑑』「晋紀」巻86 - 95
  • 十六国春秋』「後趙録」