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王 騰(おう とう、? - 325年)は、五胡十六国時代の後趙および前趙の軍人。出身は不明。『晋書』では王勝と記されている[1]。初め後趙に仕えたが、前趙に寝返った。後趙の石虎に攻撃され、敗れた。
後趙に仕え、西夷中郎将に任じられていた。
325年4月、并州刺史崔琨、上党内史王慎を攻撃して殺害、并州を占拠して前趙に降伏した。
325年6月、并州で後趙の車騎将軍石虎に攻められた。王騰は敗れ、捕らわれて殺害された。王騰の士卒7千余は生き埋めとされた[2]。
- ^ 『晋書』巻105 載記第5 石勒下
- ^ 『晋書』巻103 載記第3 劉曜では、石虎が劉岳・王騰ら80余人の将、氐族・羌族3千余の兵を捕らえ、襄国に送ったと記されている。