「黄忠」の版間の差分
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関羽率いる劉備軍が長沙に攻め寄せると、韓玄配下としてこれに応戦する。その際、関羽との一騎討ちで互角に戦うが、馬が躓き危うく討ち取られそうになる。関羽は黄忠の武勇を認め「貴殿のお命しばし預けた。早く馬を換えて戦いに戻られよ。<ref>「我且饒你性命!快換馬來廝殺!」(第五十三回)</ref>」と言い、これを見逃している。これに恩義を感じた黄忠は再戦時に、関羽の兜の緒に矢を命中させる事で、関羽の命を奪うことなく撤退させるが、韓玄に敵軍に内応しているのではと疑われ、捕縛され処刑されそうになる。しかし、[[魏延]]の反乱で韓玄が死亡すると、劉備に仕えることになる。 |
関羽率いる劉備軍が長沙に攻め寄せると、韓玄配下としてこれに応戦する。その際、関羽との一騎討ちで互角に戦うが、馬が躓き危うく討ち取られそうになる。関羽は黄忠の武勇を認め「貴殿のお命しばし預けた。早く馬を換えて戦いに戻られよ。<ref>「我且饒你性命!快換馬來廝殺!」(第五十三回)</ref>」と言い、これを見逃している。これに恩義を感じた黄忠は再戦時に、関羽の兜の緒に矢を命中させる事で、関羽の命を奪うことなく撤退させるが、韓玄に敵軍に内応しているのではと疑われ、捕縛され処刑されそうになる。しかし、[[魏延]]の反乱で韓玄が死亡すると、劉備に仕えることになる。 |
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漢中攻略時には、同じく老将である設定の[[厳顔]]とコンビを組み、[[張郃]]・[[夏侯尚]]らを破り、自分を兄の仇と狙う韓玄の弟である設定の[[韓浩]]を討ち取っている。その後は定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中平定後に[[五虎大将軍]]の一人とされるのである。関羽が黄忠を老将と侮り、同列扱いされるのを嫌うのは史実通りである。 |
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また史実では220年に亡くなっているが、『演義』では[[夷陵の戦い]]にも参加している。その最中、劉備が[[関興]]・[[張苞]]といった若者を称え、老兵を軽んじる発言をしたため、部下十数名で[[呉 (三国)|呉]]の[[潘璋]]の陣へと斬り込んでいる。しかし最後は[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]の矢にあたり、それが元で死亡してしまう。 |
また史実では220年に亡くなっているが、『演義』では[[夷陵の戦い]]にも参加している。その最中、劉備が[[関興]]・[[張苞]]といった若者を称え、老兵を軽んじる発言をしたため、部下十数名で[[呉 (三国)|呉]]の[[潘璋]]の陣へと斬り込んでいる。しかし最後は[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]の矢にあたり、それが元で死亡してしまう。 |
2020年7月26日 (日) 09:16時点における版
黄忠 | |
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清代の書物に描かれた黄忠 | |
蜀漢 後将軍・関内侯 | |
出生 |
不詳 荊州南陽郡 |
死去 | 建安25年(220年) |
拼音 | Huáng Zhōng |
字 | 漢升 |
諡号 | 剛侯 |
主君 | 劉表→劉琮→曹操→劉備 |
黄 忠(こう ちゅう、 拼音: ? - 220年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は漢升(かんしょう)。荊州南陽郡(現在の河南省南陽市)の人。子は黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。
生涯
劉備軍の勇将
劉表に仕え、中郎将に任じられた。また、劉表の従子である劉磐と共に、長沙の攸県の守備の任についていた。しかし劉表が亡くなり、曹操が荊州を降伏させた後は、曹操より仮の裨将軍に任じられ、職務はそのままで長沙太守であった韓玄の配下についた。
赤壁の戦いの後に、劉備が荊州南4郡を平定すると、黄忠は劉備に帰順して仕えた。その後は劉備に従い益州に入り、劉備軍の一将として劉璋を攻撃し、常に先駆けて敵の陣地を攻め落とすなど、その勇猛さは軍の中でも鳴り響いた(劉備の入蜀)。益州平定後、討虜将軍に任命された。
建安24年(219年)春、劉備が漢中攻めを行なうと、曹操配下で関中方面の総司令官であった夏侯淵と、定軍山において対峙し戦った。曹操配下として、勇猛果敢であると名を知られていた夏侯淵であったが、法正の指示を受けた黄忠は率先して、軍を率いて背後から夏侯淵に襲いかかり、これを討ち取って大勝利を収めた(定軍山の戦い)。これを受け、劉備は漢中を平定し漢中王となった。この功績で黄忠は征西将軍に昇進した。
後将軍
同年秋、劉備が漢中王になると黄忠を後将軍に任命しようとしたが、諸葛亮は「張飛殿・馬超殿らは彼の活躍を見ているので文句は言わないでしょうが、(荊州に残った)関羽将軍はそのことを知らないので、納得しないでしょう」と進言した。だが劉備は、関羽の説得は自分がすると言って、黄忠を後将軍に任命し、関内侯の爵位を与えた。後日、やはり諸葛亮の不安が的中し、関羽は黄忠を「老兵」と侮って同列の前将軍になることを拒否したが、費詩の説得で前将軍に就任した。
翌年(220年)亡くなった。子が早世していたため、彼の家は断絶した。景耀3年(260年)に剛侯の諡を送られた。
なお、同じ巻に纏められた関羽・張飛・馬超・趙雲ら四人と比べても黄忠伝は記述が少なく、裴松之による注釈も無い。他に彼の人柄を表す資料として、『三国志』蜀書の末尾に記載されている『季漢輔臣賛』の9番目に名前があり、「義に厚い壮士」であったとされている。
陳寿は、趙雲と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰、夏侯嬰に比している[1]。
三国志演義での活躍
小説『三国志演義』では、60歳を過ぎた老将でありながら、弓の名手としてその腕前を披露する姿が描かれ、敵将を一騎討ちで討ち取る場面も多い。老いるともなお勇猛果敢な活躍を見せている。
関羽率いる劉備軍が長沙に攻め寄せると、韓玄配下としてこれに応戦する。その際、関羽との一騎討ちで互角に戦うが、馬が躓き危うく討ち取られそうになる。関羽は黄忠の武勇を認め「貴殿のお命しばし預けた。早く馬を換えて戦いに戻られよ。[2]」と言い、これを見逃している。これに恩義を感じた黄忠は再戦時に、関羽の兜の緒に矢を命中させる事で、関羽の命を奪うことなく撤退させるが、韓玄に敵軍に内応しているのではと疑われ、捕縛され処刑されそうになる。しかし、魏延の反乱で韓玄が死亡すると、劉備に仕えることになる。
漢中攻略時には、同じく老将である設定の厳顔とコンビを組み、張郃・夏侯尚らを破り、自分を兄の仇と狙う韓玄の弟である設定の韓浩を討ち取っている。その後は定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中平定後に五虎大将軍の一人とされるのである。関羽が黄忠を老将と侮り、同列扱いされるのを嫌うのは史実通りである。
また史実では220年に亡くなっているが、『演義』では夷陵の戦いにも参加している。その最中、劉備が関興・張苞といった若者を称え、老兵を軽んじる発言をしたため、部下十数名で呉の潘璋の陣へと斬り込んでいる。しかし最後は馬忠の矢にあたり、それが元で死亡してしまう。
現在の中国では、老いて益々盛んな人を、演義の中で描写された黄忠のイメージから指して「老黄忠」と呼ぶ様になっている。