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「佐世保市の歴史」の版間の差分

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** [[4月30日]]:第25代市長に[[光武顕]](元衆議院議員)が就任する。
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* [[1996年]](平成8年)
* [[1996年]](平成8年)
** [[7月19日]]:「[[世界・の博覧会]]<ref>博覧会ロゴでは「炎」には火を3つ重ねた異字体(焱)を使用。</ref>」が開幕(~同年10月13日まで)。市内には三川内、ハウステンボスの2ヶ所の地域サテライト会場が開設された。
** [[7月19日]]:「[[世界・の博覧会]]<ref>博覧会ロゴでは「炎」には火を3つ重ねた異字体(焱)を使用。</ref>」が開幕(~同年10月13日まで)。市内には三川内、ハウステンボスの2ヶ所の地域サテライト会場が開設された。
** [[11月]]:第1回[[きらきらフェスティバル]]開催。
** [[11月]]:第1回[[きらきらフェスティバル]]開催。
* [[1997年]](平成9年)
* [[1997年]](平成9年)

2020年7月25日 (土) 22:06時点における版

佐世保市 > 佐世保市の歴史

佐世保市の歴史(させぼしのれきし)では、現在の長崎県佐世保市に属する地域の歴史を詳述する。なお、行政区域の変遷については親記事を参照されたい。

概説

現在の佐世保市域に人類が住み始めたのは有史以前、旧石器時代からで、世界最古であった縄文土器が出土した泉福寺洞窟豆粒文土器)や福井洞窟隆起線文土器)等の洞窟・岩陰遺跡があり、その数は全国最多を誇る[1]。また自然水銀黒曜石、サヌカイトの産地でもあり、前記の遺跡群と共に、門前遺跡(国内最古の建築形式である胴張形掘立柱建物跡)、独自のイモガイ文化を持つ宮の本遺跡、大野台遺跡、四反田遺跡など日本史を解明する上で重要な遺跡が旧北松浦郡地域に偏在する。

現在の佐世保市域は、古代中世には肥前国に属し松浦郡彼杵郡にあたる。[2]

奈良時代に編纂された肥前国風土記によれば、現在の早岐付近に速来津姫をいただく土蜘蛛と呼ばれる土着豪族があり、景行天皇の命により討伐されたという。なお、同風土記には、早岐の特産品としてワカメが挙げられている。

平安時代の松浦郡相浦、中里、竹辺地域には武辺胤明と初期松浦一族の相神浦氏の存在が見られる。平安末期、一族不和のため相神浦堅が小城郡多久に移住。現在も北多久に相ノ浦という地名と相神浦から勧請した飯盛神社がある。

鎌倉時代になると松浦党が北松浦半島周辺に勢力を広げ、室町時代になると本家にあたる宗家松浦氏が相浦付近に武辺城を築いて一帯を支配した。一方、同族のうち現在の市域中心部に拠った者が佐世保城を築き、佐世保姓を名乗った。古文書には佐世保城主として「佐世保清」「佐世保諫」等の名が残っている。

戦国時代には平戸松浦氏・宗家松浦氏・大村氏等が激しく争いを繰り広げ、最終的には現市域の大半が平戸松浦氏の支配に帰し(→平戸藩)、そのまま廃藩置県に至った(宮地区は大村氏(→大村藩)、宇久地区は宇久氏改め五島氏(→福江藩)が支配)。

江戸時代には平戸往還が整備され、中里・佐世保・早岐に本陣が置かれた。この当時は相神浦(現在の相浦)と早岐に比較的大きな集落がある以外は農漁村地帯が広がっており、新田開発も各地で行われた。藩内で採れる石炭を、相神浦の港から製塩の中心地であった本州・四国の瀬戸内海沿岸地域に輸出し財を築いた、塩屋松五郎に恋塚左平や草刈太一左衛門がいる。

平戸松浦藩9代藩主松浦清(静山)の随筆甲子夜話」には、江戸中期享保時代(1720年頃)の佐世保名物として針尾駒、早岐白荒生、焼酎。権成寺蓮、同浦白和布。三河内陶器。日宇真綿。佐世保葛粉。相神浦上米。知見寺の鶉、賎津浦伊勢海老。同浦恵美須嶋釣針松。白魚川白魚、鮎と記してある。

明治時代に入ると海軍において九州西部に軍港の建設が求められた。いくつかの候補のうちから当時人口千人余りの寒村だった東彼杵郡佐世保村[3]が適地とされ、鎮守府の設置以後急速に海軍施設と街の整備が進められた。1902年には村から一足飛びに市制を施行[4]、市民の8割が隣の佐賀県からの移住者であった。九州でも五指に入る大都市として発展していくが、第二次世界大戦末期に空襲で市中心部が焦土と化し、終戦と海軍解体とともに人口の急減をみた。これは市民の殆どを占めた移住者が、地元に帰ったためである。

戦後、公選初代の市長中田正輔を中心に旧軍港市転換法による佐世保港の商港への転換と九十九島を中心とした西海国立公園の指定による観光地としての基盤整備を図るが、朝鮮戦争勃発とともに米軍を中心とした国連軍の朝鮮戦線に向けての前進基地として再び軍港としての機能を担うことになり、現在まで米軍及び海上自衛隊を中心とした軍港としての機能と商港としての機能の棲み分けが大きな課題となっている。

地名の由来

郷土史家の澤正明は、佐世保という地名は松浦氏の一族とみられる“佐世保氏”の名前に由来するとして、現在も松浦市内に佐世保田代や佐世保崎という小字が残っていることから、15世紀に松浦氏が拠点を松浦市から相浦地区に移したときに一緒に移動してきた一族の「佐世保氏」の名前が定着したとしている[5]

一方、坂田直士の説では、狭い川瀬を意味する「狭瀬(させ)」に、保は中世の荘園公領制国衙との関わりで成立した「」がついたと推定している[6]

他にも「サセブ」と称する植物が繁茂した様子を由来とする説やアイヌ語由来の説などが云われており、はっきりとした事は判っていない[6]

年表

中世

  • 1179年治承3年)
    • 相神浦堅、一族不和のため小城郡多久原(現在の佐賀県多久市北多久)に移住。
  • 1202年建仁2年)
    • 下松浦党の祖である松浦直の長男御厨清の系譜にある相神浦松浦家(宗家松浦氏)の4代当主・堯(めぐる)が武辺城を築城。
  • 1457年長禄元年)
    • 宗家松浦氏第13代当主の松浦親、武辺城を本城とする。朝鮮と年1回の歳遣船派遣について条約を結ぶ。
  • 1490年延徳2年)
    • 宗家松浦氏14代当主の松浦丹後守定、大智庵城(佐世保市瀬戸越)を築城。また宗家松浦氏の菩提寺として教法寺を創建。当初は宗家松浦氏の居城である大智庵城の城下に建てられていたが、建立後まもない1498年明応7年)に同城が落城した際に兵火にかかり焼失、その後現在地に移った。
  • 1498年明応8年)
    • 宗家松浦氏の拠る大智庵城を平戸松浦氏の松浦弘定・松浦興信が攻略し、宗家松浦氏15代当主の政が敗死する。宗家松浦氏の後ろ盾であった少弐氏の勢力も低下していたことも敗因の一つだった。政の子・幸松丸は平戸に拉致されるが、政の旧臣に助けられ、有田の唐船城に移り、そこで成人し、親(ちかし)を名乗る。なお『壺陽記』によれば、1512年8月2日、平戸松浦弘定がキ坪城への政の攻撃への報復をしたとあり、年代が一致しない[7]
  • 1531年享禄4年)
    • 宗家松浦氏16代当主の松浦親、平戸松浦氏と和解し、旧領を回復する。
  • 1535年天文4年)
    • 松浦親、飯盛城を築城。この頃、大内氏が少弐氏を滅ぼし、平戸松浦との対立が再燃する。
  • 1542年(天文11年)
  • 1560年永禄3年)
    • 松浦隆信は武雄の後藤貴明と同盟を組み、惟明を後藤への養子にする。
  • 1563年(永禄6年)
    • 龍造寺隆信が有馬氏を降すと、再び平戸松浦隆信・松浦鎮信は後藤貴明とともに飯盛を攻める。宗家松浦氏が平戸松浦氏に降る。
  • 1578年天正6年)
    • 養父である後藤貴明との戦いから逃れて松浦家に戻り、日宇を預かった惟明は、白岳神社を建立する。
  • 1586年(天正14年)
    • 松浦氏と大村氏、舳の峯峠(重尾町と瀬道町の境)に境界を確定する。

近世

  • 1608年(慶長13年)
    • 相神浦(相浦)洪徳寺住職の亀翁良鶴が長崎へ行き晧台寺を創建。長崎地域における仏教敷衍のため。
  • 1650年慶安3年)
    • 平戸藩が中野(現在の平戸市)から陶工を三川内山へ移す(現在の三川内焼のおこり)。
  • 1688年元禄元年)
    • 平戸藩七浦奉行の山下庄左衛門、藩命により江迎で酒造業を始める(現在の潜龍酒造)。
  • 1784年(天明4年)
  • 1812年(文化9年)
    • 伊能忠敬が平戸藩領沿岸を測量、相神浦(現在の佐世保市相浦)で文化10年の新年を迎える。
  • 1850年嘉永3年)
  • 1866年慶応2年)
    • 平戸藩が相神浦・早岐周辺14ヶ村を管轄する相神浦筋郡代役所を中里に設置。翌年現在の谷郷町に移る。

明治・大正時代

  • 1883年(明治16年)
  • 1886年(明治19年)
    • 4月21日:「第三海軍区鎮守府」を佐世保に置くことが決定される。
  • 1889年(明治22年)
    • 7月1日:海軍佐世保鎮守府が開庁する。初代鎮守府司令長官は赤松則良中将が任命される。(開庁式典は翌年4月に挙行)
    • 大阪と佐世保港の間に初の民間航路が開通。
  • 1896年(明治29年)
    • 親和銀行の源流となる第九十九国立銀行の佐世保支店が開業。
  • 1897年(明治30年)
  • 1898年(明治31年)
  • 1900年(明治33年)
    • 佐世保駅~八幡町に定期乗合馬車の運行が開始される。
    • 5月:岡本貯水池竣工。
    • 10月22日:皇太子(大正天皇)が来佐。
  • 1902年(明治35年)
    • 黒島天主堂竣工。
    • 4月1日:市制施行。東彼杵郡佐世保からを飛び越して一気にとなる。県内では長崎に次ぐ都市に(当時の人口45,766人)。市制反対の意思を示していた一部の地域を分離し、東彼杵郡佐世村が発足。[4]
  • 1905年(明治38年)
    • 日露戦争当時の連合艦隊旗艦三笠が佐世保港内で爆発事故により沈没。瞬時に沈没し339人が殉職。翌年浮揚して修理(1908年修理完了)。
  • 1906年(明治39年)
  • 1907年(明治40年)
    • 第九十九国立銀行を佐世保銀行と改称、本店を佐世保に移転。
    • 8月:与謝野鉄幹ら「五足の靴」一行が来佐。
    • 9月:海軍水道からの分与により、市内に水道管からの水道水の供給を開始。
    • 9月13日:ペスト流行のため、下矢岳町全域167棟を焼却(~20日)。跡地は練兵場となる(現在は佐世保中央インターチェンジ)。
  • 1908年(明治41年)
    • 3月:山の田水源池ダム・浄水場が竣工。
  • 1920年(大正9年)

昭和時代

平成時代

令和時代

  • 2019年(令和元年)
    • 8月27日:長崎県内が前線の影響による大雨に見舞われ、佐世保市内の江迎川が氾濫。江迎地区に避難指示、同地区を除く市内全域に避難勧告が出される。

参考文献

  • 佐世保市 編『佐世保の今昔』、1934年。(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 佐世保市 編『佐世保志 上巻下巻』、1915年。(国立国会図書館デジタルコレクション)

脚注

  1. ^ 日本の洞窟・岩陰遺跡
  2. ^ 市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 郡変遷 1889年4月1日
  3. ^ 市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1889年4月1日
  4. ^ a b 市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1902年4月1日
  5. ^ 澤正明「宗家松浦戦国記」芸文堂、2010年
  6. ^ a b 佐世保地名の由来 市制百周年記念 佐世保の歴史(国立国会図書館インターネット資料収集保存事業)
  7. ^ 外山幹夫肥前松浦一族』 新人物往来社 2008年、164頁
  8. ^ もともと佐世保湾という呼称は無く、それ自体、大村湾の一部であった。江戸時代の地図にも埋め立てられる前の基地周辺が大村湾の佐世保浦と描かれている。鉄道唱歌に「大村の湾をしめたる佐世保には」とあるように。
  9. ^ 古厩忠夫『裏日本-近代日本を問いなおす-』岩波新書 (1997) 。データの原典は『明治大正国勢要覧』。なお同表では福岡市は95,381人で17位、長崎は176,534人で7位。
  10. ^ 博覧会ロゴでは「炎」には火を3つ重ねた異字体(焱)を使用。

外部リンク