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[[1991年]]から[[2011年]]は野球解説者・[[ニュースキャスター|スポーツキャスター]]として[[テレビ朝日]]( - [[1993年]]、[[2001年]]以降)、[[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]](1993年<ref>『TBS50年史』資料編P234の「主なスポーツ番組解説者」に掲載されたプロ野球解説者の一覧より参照。</ref> 以降、テレビ解説は[[2000年]]まで{{Refnest|group="注"|『12球団全選手カラー百科名鑑2001』(『[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]』2001年3月号増刊。[[日本スポーツ出版社]]発行)の解説者名鑑内では「TBSを卒業」という旨の記述をしているが、テレビ解説の活動先をテレビ朝日に移しただけで、TBSラジオでの解説者活動は引き続き行っていた<ref>[http://web.archive.org/web/20010413160947/http://www.tbs.co.jp/baseball/onair/profiles.html 2001年当時のTBSラジオ『ザ・ベースボール』公式サイト内解説者一覧] - インターネットアーカイブ2001年4月13日付保存キャッシュより</ref>。}})に出演。[[スポーツニッポン]]専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。 |
[[1991年]]から[[2011年]]は野球解説者・[[ニュースキャスター|スポーツキャスター]]として[[テレビ朝日]]( - [[1993年]]、[[2001年]]以降)、[[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]](1993年<ref>『TBS50年史』資料編P234の「主なスポーツ番組解説者」に掲載されたプロ野球解説者の一覧より参照。</ref> 以降、テレビ解説は[[2000年]]まで{{Refnest|group="注"|『12球団全選手カラー百科名鑑2001』(『[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]』2001年3月号増刊。[[日本スポーツ出版社]]発行)の解説者名鑑内では「TBSを卒業」という旨の記述をしているが、テレビ解説の活動先をテレビ朝日に移しただけで、TBSラジオでの解説者活動は引き続き行っていた<ref>[http://web.archive.org/web/20010413160947/http://www.tbs.co.jp/baseball/onair/profiles.html 2001年当時のTBSラジオ『ザ・ベースボール』公式サイト内解説者一覧] - インターネットアーカイブ2001年4月13日付保存キャッシュより</ref>。}})に出演。[[スポーツニッポン]]専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。 |
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2004年から[[白鷗大学]]助教授、2007年から准教授。2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた<ref>{{Cite web|url=http://hakuoh.jp/business/business_06_09.html|title=経営学部 経営専攻紹介 教員紹介 教員紹介詳細|publisher=白 |
2004年から[[白鷗大学]]助教授、2007年から准教授。2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた<ref>{{Cite web|url=http://hakuoh.jp/business/business_06_09.html|title=経営学部 経営専攻紹介 教員紹介 教員紹介詳細|publisher=白鷗大学|accessdate=2011-09-04}}</ref>。なお、現在は監督業のため休職という扱いになっており、白鷗大学に籍を残している。 |
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TBSラジオ解説者としてのコピーは'''熱中先生国際派'''。2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは'''熱血先生'''。 |
TBSラジオ解説者としてのコピーは'''熱中先生国際派'''。2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは'''熱血先生'''。 |
2020年7月24日 (金) 09:26時点における版
北海道日本ハムファイターズ 監督 #80 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都小平市 |
生年月日 | 1961年4月26日(63歳) |
身長 体重 |
174 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1983年 ドラフト外 |
初出場 | 1984年10月8日 |
最終出場 | 1990年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
| |
この表について
|
栗山 英樹 | |
---|---|
生誕 |
1961年4月26日(63歳) 日本・東京都小平市 |
教育 | 東京学芸大学 |
職業 |
プロ野球選手 プロ野球監督 野球解説者 野球評論家 スポーツジャーナリスト 大学教授 |
活動期間 | 1984 - |
代表経歴 |
ヤクルトスワローズ選手(1984年 - 1990年) テレビ朝日野球解説者(1991年 - 1993年、2001年 - 2011年) TBSテレビ野球解説者(1993年 - 2000年) TBSラジオ野球解説者(1993年 - 2011年) スポーツニッポン専属野球評論家 (1991年 - 2011年) 東京学芸大学講師 白鷗大学教授(2008年 - ) 北海道日本ハムファイターズ監督(2012年 - ) |
栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年4月26日 - )は、東京都小平市出身の元プロ野球選手(外野手、右投両打)、プロ野球監督。マネジメントは有限会社オフィスマリーン。
選手引退から監督就任までの間は、野球解説者、スポーツジャーナリストのほか、白鷗大学教授としても活動していた。2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を務める。
日本のプロ野球監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物はともに史上初めてである[注 1]。
経歴
プロ入り前
野球好きの兄に誘われ、小学校時代に軟式野球を始める。中学校では一度野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。この時に会得したフライングレシーブが、後の外野守備での華麗なダイビングキャッチを生み出すことになる[1]。中学3年時には、地元小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場、大会MVPを獲得する。大会後、小平市内の創価高校野球部の熱心なスカウトに心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。
創価高校では1年時からベンチ入りし、3年時には主将兼エースとしてチームを牽引したが、春の全東京大会では早稲田実業に0-3で敗れて惜しくも関東大会出場を逃し、優勝候補として期待された夏の西東京大会でも4回戦で敗退し、甲子園への夢は断たれた。高校一年と二年の年末に1週間、広島商業で合同練習を行う[2]。「当時学んだ広商野球は今も僕のベースになっている」と話している[2]。その後は教員を目指して東京学芸大学教育学部に合格する。
東京学芸大学では硬式野球部に入部し、投手、内野手として活躍する。東京新大学野球連盟では投手として1年春、2年春のシーズンをリーグ制覇するも、スライダーを投じた際に右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向することになる。 東京新大学野球連盟での通算成績は、投手として25勝8敗、打者として打率.389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した。在学中に小・中・高の教員免許を取得し卒業後は教員を目指していたが、野球への夢が再燃して4年時には社会人・朝日生命へ内定[3]、その後プロチームの入団テストを受け、その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外入団が決まった。担当スカウトは片岡宏雄[4]。
ヤクルト選手時代
1年目の1984年に遊撃手として一軍デビューを果たしたが、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。
さらに2年目の1985年からは、平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。最初にメニエール病の症状に襲われたのは5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし、一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠して頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという[1]。同年には外野手として一軍でのスタメン出場を果たし、ジュニアオールスターゲーム出場。オフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的に症状を抑え込んでいる。
またこのオフには若松勉(翌年から打撃コーチ補佐兼任)が、栗山の俊足を生かすためにスイッチヒッターに挑戦させてはどうかと土橋正幸監督に提案。栗山はもともと右打ちだったが[5]、若松の指導の下、左打ちの猛練習に取り組んでスイッチへと転向した。この猛練習が功を奏し、翌1986年の5月末に杉浦享が負傷して外野のポジションが空くと、6月からは1番右翼手としてレギュラーに定着し、規定打席未満ながら打率.301をマークした。
しかし、シーズン終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになり、オフには治療に専念するため、長期入院を余儀なくされた。栗山はいつ症状が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送っていたが、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供たちが自分よりもはるかに深刻な病を持っていることを知らされてからは、自分の甘さを恥じて「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」と、前向きな気持ちになれたという[6]。
結局、翌1987年のユマキャンプには参加できず、開幕にこそ間に合ったが、調整不足のため打撃不振に陥ってレギュラーを外された。復活を期する栗山は再び若松の指導の下で猛練習を重ねて調子を取り戻し、1988年のユマキャンプで左足の肉離れを起こしてしまったため、この年の開幕には間に合わなかったものの、6月に復帰すると1番・中堅手に定着してヒットを量産。出遅れが響いて規定打席には33打席足りなかったが、打率.331を記録した。
1989年には開幕から中堅手のレギュラーに定着。当初は1番を打っていたが、ルーキーの笘篠賢治が1番に固定されると2番に回り、37犠打を記録した。シーズン序盤は攻守ともに絶好調で打率も3割以上を維持していたが、6月中旬にメニエール病の症状が再発すると打率が急降下した。そのため8月以降は先発を外れることもあり、スタメンの場合でも7番・8番に打順を下げての出場が多くなった。結局この年は打率.255に終わったものの、初めて規定打席に到達し、守備範囲の広さを評価されてゴールデングラブ賞を獲得した。なお、斎藤雅樹がプロ野球新記録となる11試合連続完投勝利を達成した同年7月15日の対巨人戦では9回表2死で打席に立ち初球を一直に打ち取られ最後の打者となった。
しかしメニエール病の症状はシーズン終了後もなかなか好転せず、満足な練習ができないまま次のシーズンに臨まざるを得なくなり、翌1990年に野村克也が監督に就任すると、当時無名だった柳田浩一にレギュラーを奪われた。それでも途中出場となった4月7日の開幕戦(対巨人)では大森剛の抜ければサヨナラという左中間の強烈なライナーをダイビングキャッチでアウトにする活躍を見せたが、メニエール病の症状に加えて古傷の右肘の故障も再発したため極度の不振にあえぎ、レギュラーの座を奪い返すことはできなかった。
栗山は、特別な才能に恵まれているわけではない自分にとっては、120%の努力をすることがプロの世界で生きていくための最低条件であり、それができなくなってしまった以上はプロ生活を続けられないと考え、この年限りで現役を引退した[7]。
現役引退後
1991年から2011年は野球解説者・スポーツキャスターとしてテレビ朝日( - 1993年、2001年以降)、TBSテレビ・TBSラジオ(1993年[8] 以降、テレビ解説は2000年まで[注 2])に出演。スポーツニッポン専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。
2004年から白鷗大学助教授、2007年から准教授。2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた[10]。なお、現在は監督業のため休職という扱いになっており、白鷗大学に籍を残している。
TBSラジオ解説者としてのコピーは熱中先生国際派。2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは熱血先生。
北海道の栗山町から観光大使を依頼され、栗山町民との親交を深めたことがきっかけで、私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた「栗の樹ファーム」を2002年に完成させている。「栗の樹ファーム」では少年野球教室や大会が開かれ、子どもたちの夢を育む舞台にもなっている。2009年にはこの功績が認められ、芝生学会より日本芝生文化大賞を受賞した。また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からはHBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。
2000年代以降は日本野球機構などが開催するシンポジウム「夢の向こうに」で第1回(2003年)から司会を務めるなど、プロ野球選手と高校球児の交流事業にも積極的に参加している。
2007年には、栗山の古巣であるヤクルトの選手兼任監督・古田敦也の引退により監督候補として有力視されたが実現しなかった。
2009年には、日本高等学校野球連盟が定めるアマチュア資格を満たさない元プロ野球選手としては初めて、同連盟から高校球児への直接取材を特別に認められた(日本学生野球憲章第10条の特例措置[11])。同年以降の全国高等学校野球選手権大会期間中には、プロ野球解説・評論などの活動と並行しながら、朝日放送(ABCテレビ)の「熱闘!高校野球ナビゲーター」として地方大会から同局制作の情報番組(『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当していた。
2011年11月3日、北海道日本ハムファイターズの監督就任(梨田昌孝の後任)が決定した[12]。契約期間は2年[12]。11月9日には就任会見が行われた。背番号は私淑する三原脩(元日本ハム球団社長)にあやかって「80」となった[13][14]。
日本ハム監督時代
- 2012年
- 監督就任1年目となった2012年はチームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、吉川光夫、中田翔ら若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。10月2日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。なお、プロ野球史上初めてリーグ5球団のうち3球団(西武、ソフトバンク、楽天)に負け越して優勝した。クライマックスシリーズでもファイナルステージで福岡ソフトバンクホークスを無傷の4連勝(リーグ優勝チームのアドバンテージの1勝を含む)で降し、現役時代は出場経験がなかった日本シリーズへの出場権を獲得したが、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは2勝4敗で敗れ、日本一獲得はならなかった。日本シリーズ敗退後、栗山との確執が報道された投手コーチの吉井理人が退団した[15]。しかし、吉井は後に2016年から一軍投手コーチとして復帰している。
- 2013年
- 2年契約の2年目だったが、キャンプ直前の1月25日に糸井嘉男がトレードでオリックス・バファローズに移籍が決まると、その翌日に球団は急遽栗山と2014年までの契約延長を発表した。高卒1年目の大谷翔平を二刀流で起用し、話題を集める。大谷は打撃でも期待に応え、投手では3勝を挙げるなど投打で采配に応えた。陽岱鋼が盗塁王(球団史上初)、新外国人のミチェル・アブレイユが本塁打王のタイトルをそれぞれ獲得し、4番の中田も初の3割を達成するなど明るい話題が多かったが、吉川が前年から成績を大きく落とし、前年オフに移籍した田中賢介や糸井の穴埋めができず、また中田も骨折で終盤離脱するなど苦戦し、12年ぶり最下位でシーズンを終えた。前述の通り契約延長により、2014年も指揮を執る事となった。
クジ運が悪く、2013年10月25日のドラフト会議では、松井裕樹、柿田裕太、岩貞祐太を立て続けに外し続けた。競合ドラフトの同日3連敗は、2010年の当時オリックスの監督岡田彰布以来となった。
- 2014年
- 大谷が日本プロ野球初の同一シーズンでの10勝10本塁打を達成し、抑えに武田久が離脱したことで増井浩俊を起用し、これが当たり増井は抑えに定着した。最終的にチームは3位となり2年ぶりにクライマックスシリーズ進出を決めた。CSではファーストステージで2位のオリックスを2勝1敗で破り、ファイナルステージではソフトバンクと対戦したが3勝4敗で敗れた。
- 2015年
- 79勝62敗2分となり、リーグ優勝した2012年の勝率、勝利数を上回る好成績を残したが、この年のリーグ優勝チームの福岡ソフトバンクホークスには12ゲーム差をつけられ2位となった。クライマックスシリーズでは3位のロッテに1勝2敗で敗れた。
- 2016年
- 開幕から首位を独走したソフトバンクに一時最大で11.5のゲーム差をつけられながら、6月19日から7月11日まで球団新記録となる15連勝などで猛追。特に、監督就任からケガを除き一貫して4番打者として起用し続けた中田が不振に陥った際、6月27日の対西武戦では好機で中田に代打矢野謙次を送ったり、開幕から不調が続く守護神増井を8月から先発に転向させたりするなどの策を講じた。また、開幕から打撃が好調の大谷が先発投手の試合において、DHが使用できるパ・リーグ主催試合でありながら、スタメンに敢えてDHを使用せず「投手・大谷」を入れ(5月29日の対楽天戦など)、7月にマメの影響で大谷の登板が不可能となった際には、二軍降格ではなく指名打者として一軍に帯同させながら、9月の投手復帰に向けた調整をさせた。天王山となった9月21日、22日のソフトバンク最終2連戦では2連勝しマジックを点灯させると、9月28日の対西武戦に勝利し4年ぶりのリーグ優勝を果たした(最大11.5ゲーム差からの大逆転劇は、1996年のセ・リーグペナントレース前半終了した時点で暫定首位広島と暫定4位巨人との差が11.5ゲームの差だったが、後半戦開始から、巨人が猛反撃をして最終戦直前の試合で中日に勝利して、大逆転優勝を果たした。その事例を含めると、そのシーズンで2例目である)。クライマックスシリーズでもファイナルステージで2位のソフトバンクを4勝2敗で降し、4年ぶりに日本シリーズへの出場権を獲得した。そして、広島東洋カープと対戦した日本シリーズを4勝2敗で制覇し、球団としては10年ぶり3度目、自身としては初の日本一を獲得した。また、日本一を決めた第6戦は2009年に開場したマツダスタジアムで行われたため、同球場の初代胴上げ監督となった[注 3]。11月2日に1年契約を延長したことが発表された[16]。
- 2017年
- 開幕直後に大谷が負傷離脱し、先発陣が軒並み不調に苦しむこととなった。4月に6連敗と10連敗を繰り返し4月を最下位で終えた。5月3日にロッテ戦に勝利し5位に、5月下旬に4位に浮上するが交流戦初戦でDeNAに敗れて5位に転落してからは順位を上げることも出来ず、早々にチーム再建へ舵を切る年となった。得意にしていた交流戦も初めて負け越し、9位に終わる。交流戦終了後の7月には、3度の5連敗を喫するなど1度も連勝することが出来ずに4勝18敗と大きく負け越した。それでも7月26日のロッテ戦で、2004年の北海道移転後からの通算1000勝を達成。8月に入ってからは、8月16日のロッテ戦で約2ヶ月ぶりの2連勝、それ以降チームの調子も上向き、11勝10敗と5月以来の月間勝ち越し、9・10月も16勝13敗と勝ち越してシーズンを終えた。なお、最終戦ではメジャー移籍を志望していた大谷が4番・投手で出場して10奪三振と2安打を記録し、チームも完封勝利で有終の美を飾った。最終順位は5位で2013年以来4年ぶりBクラスとなる5位に終わった。
- 2018年
- 前年守護神を務めた増井がオリックスへ移籍したこともあり、新外国人のマイケル・トンキンを守護神に抜擢し、交流戦以降は4年目の石川直也を起用するなど投手陣を再編成し、西武との優勝を争ったが後半戦から失速したが2年ぶりAクラスとなる3位でシーズンを終了した。クライマックスシリーズファーストステージでは2位・ソフトバンクに1勝2敗で敗退した。オフには三塁手として2016年のリーグ優勝と日本一にも貢献したブランドン・レアードが退団し、ロッテへ移籍した。
- 2019年
- オリックスのエースだった金子弌大が加入。この年開幕当初はオープナーを採用し、実際に加藤貴之や堀瑞輝を起用し、第2先発として金子を起用し、5月以降は本来の先発でも起用した。前半戦は2位で終えるも、8月以降は9連敗を喫するなど5勝20敗と大きく負け越し、9月は10勝10敗と5分に戻したが、8月の失速が響き5位に終わった。
人物
独身で結婚歴もない。また、監督就任当初は実際の自宅は東京にありながらも栗山町に生活拠点を置いていたが、2015年中に正式に栗山町に自宅を構えた。木田優夫によると、野球道具を集める趣味で栗山町の家はその倉庫となってしまい、近くにもう一つ家を建てて住んでいるという。
マスコミの前では敗戦時や大型連敗時でも個人批判や厳しい言葉を滅多に発さないが、ロサンゼルス・エンゼルスへ移籍した大谷翔平にはマスコミの前でも厳しく苦言を呈することが度々あった。そこで「満足」してしまっては慢心がうまれ、より魅力的なプレーヤーになることができず、結果を出せなければ「二刀流」ひいては大谷自身に批判が集まるのは事理明白で、大谷を批判し、新たな目標を提示できるのは立場上監督である栗山しかいないからである[17]。別のインタビューでは「俺が認めてしまったら、その瞬間に(大谷の)成長が終わってしまう怖さを感じている。だから、絶対に認めないし、心の底から『まだまだ』と思っている」と明かした。この厳しい姿勢は清宮幸太郎にも向けている[18]。
だが厳しい言葉を発している一方で裏では「体、大丈夫か?」と気遣いの言葉をかけており、大谷を守るために厳しくやっていたことを明かし、それは大谷も栗山の本心を理解している[19]。
北海道胆振東部地震の影響で札幌ドームでの試合に影響が出ていた中、ある選手は「本当に僕たちは試合をやっていいんですかね……」と被災者への申し訳なさを漏らした。すると栗山は「われわれは野球をやれることへの感謝を持ちながら野球をする使命がある。1人でも元気になってもらえるなら意味があるはず。その姿が大事。それが見せられないようならプロ野球球団が存在する意味がない」と言葉を紡いだ[20]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984 | ヤクルト | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1985 | 29 | 18 | 18 | 9 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .278 | .278 | .333 | .611 | |
1986 | 107 | 258 | 239 | 34 | 72 | 5 | 0 | 4 | 89 | 14 | 8 | 5 | 9 | 0 | 4 | 0 | 6 | 26 | 0 | .301 | .329 | .372 | .701 | |
1987 | 72 | 99 | 92 | 13 | 18 | 1 | 1 | 0 | 21 | 5 | 0 | 1 | 3 | 0 | 3 | 1 | 1 | 7 | 3 | .196 | .229 | .228 | .457 | |
1988 | 90 | 370 | 338 | 33 | 112 | 11 | 4 | 0 | 131 | 17 | 7 | 5 | 20 | 0 | 7 | 0 | 5 | 33 | 0 | .331 | .354 | .388 | .742 | |
1989 | 125 | 484 | 420 | 49 | 107 | 18 | 3 | 2 | 137 | 26 | 4 | 4 | 37 | 4 | 17 | 2 | 6 | 34 | 5 | .255 | .291 | .326 | .617 | |
1990 | 69 | 109 | 96 | 15 | 22 | 0 | 1 | 1 | 27 | 4 | 3 | 0 | 10 | 0 | 2 | 0 | 1 | 7 | 3 | .229 | .253 | .281 | .534 | |
通算:7年 | 494 | 1339 | 1204 | 153 | 336 | 36 | 9 | 7 | 411 | 67 | 23 | 15 | 79 | 4 | 33 | 3 | 19 | 108 | 12 | .279 | .308 | .341 | .649 |
年度別監督成績
- リーグ公式戦
年 度 |
球 団 |
順 位 |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
引 分 |
勝 率 |
ゲ | ム 差 |
本 塁 打 |
打 率 |
防 御 率 |
年 齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2012年 | 日本ハム | 1位 | 144 | 74 | 59 | 11 | .556 | - | 90 | .256 | 2.89 | 51歳 |
2013年 | 6位 | 144 | 64 | 78 | 2 | .451 | 18.5 | 105 | .256 | 3.74 | 52歳 | |
2014年 | 3位 | 144 | 73 | 68 | 3 | .518 | 6.5 | 119 | .251 | 3.61 | 53歳 | |
2015年 | 2位 | 143 | 79 | 62 | 2 | .560 | 12.0 | 106 | .258 | 3.62 | 54歳 | |
2016年 | 1位 | 143 | 87 | 53 | 3 | .621 | - | 121 | .266 | 3.06 | 55歳 | |
2017年 | 5位 | 143 | 60 | 83 | 0 | .420 | 34.0 | 108 | .242 | 3.84 | 56歳 | |
2018年 | 3位 | 143 | 74 | 66 | 3 | .529 | 13.5 | 140 | .251 | 3.77 | 57歳 | |
2019年 | 5位 | 143 | 65 | 73 | 5 | .471 | 13.0 | 93 | .251 | 3.76 | 58歳 | |
通算:8年 | 1147 | 576 | 542 | 29 | .515 | Aクラス5回、Bクラス3回 |
- 2019年度シーズン終了時
- 順位の太字は日本一
- ポストシーズン
年 度 |
球 団 |
大 会 名 |
相 手 |
勝 敗 |
---|---|---|---|---|
2012年 | 日本ハム | パ・リーグクライマックスシリーズ ファイナルステージ(※1) |
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ3位) | 4勝0敗=日本シリーズ進出 (※2) |
日本シリーズ | 読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) | 2勝4敗=敗退 | ||
2014年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ |
オリックス・バファローズ(パ・リーグ2位) | 2勝1敗=ファイナルステージ進出 | |
同 ファイナルステージ(※1) |
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ1位) | 3勝4敗=敗退 (※3) | ||
2015年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ |
千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) | 1勝2敗=敗退 | |
2016年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ(※1) |
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位) | 4勝2敗=日本シリーズ進出 (※2) | |
日本シリーズ | 広島東洋カープ(セ・リーグ1位) | 4勝2敗=日本シリーズ優勝 | ||
2018年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ |
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位) | 1勝2敗=敗退 |
- ※1 クライマックスシリーズファイナルステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
- ※2 アドバンテージの1勝を含む。
- ※3 ディスアドバンテージの1敗を含む。
表彰
- ゴールデングラブ賞:1回 (外野手部門:1989年)
- パ・リーグ連盟特別表彰:2回 (優勝監督賞:2012年、最優秀監督賞:2016年)
- 正力松太郎賞 (2016年)[21]
- テレビ朝日スポーツ特別功労賞 (2011年[22])
- ビッグスポーツ賞 スーパーベースボール賞 (2012年[23])
- テレビ朝日スポーツ放送大賞 (2016年[24])
記録
- 初記録
- 初出場:1984年10月8日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(明治神宮野球場)、9回表に水谷新太郎に代わり遊撃手として出場
- 初安打:1985年8月1日、対横浜大洋ホエールズ12回戦(明治神宮野球場)、8回裏に宮本賢治の代打として出場、遠藤一彦から単打
- 初先発出場:1985年10月5日、対横浜大洋ホエールズ20回戦(明治神宮野球場)、8番・右翼手として先発出場
- 初盗塁:1985年10月12日、対横浜大洋ホエールズ21回戦(横浜スタジアム)、6回表に二盗(投手:門田富昭、捕手:小山昭晴)
- 初打点:1985年10月9日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、8回表に福間納から内野ゴロの間に記録
- 初本塁打:1986年6月28日、対阪神タイガース14回戦(明治神宮野球場)、9回裏に伊藤文隆からソロ
- その他の記録
背番号
- 46 (1984年 - 1989年)
- 4 (1990年)
- 80 (2012年 - )
関連情報
著書
- 単著
- 『栗山英樹29歳:夢を追いかけて』(池田書店、1990年4月、ISBN 4262143759)
- 『スポーツキッズのほうれん草:スポーツサイエンス・リポート』(全国朝日放送、1992年6月、ISBN 4881311778)
- 『夢は正夢』(扶桑社、1994年7月、ISBN 4594014739)
- 『復活:地獄を覗いた男たち』(1994年10月、ベースボール・マガジン社)ISBN 4583031610
- 『忘れちゃいけないものがある:スポーツを愛する人たちへ』(1996年8月、小学館)ISBN 4093871914
- 『栗山英樹のベースボールアカデミー』(2005年7月、出版芸術社)ISBN 4882932717
- 『栗の樹ファーム物語:栗山英樹、野球場をつくる:北の大地で育む"フィールド・オブ・ドリームス"』(2006年3月、マキノ出版)ISBN 4837670555
- 『栗山英樹が選ぶアスリートたちの世界集』(2007年2月、学習研究社。「中学生のためのショート・ストーリーズ」第8巻として発行)ISBN 9784052026331 ※複数の著作家によるスポーツ選手の物語を栗山が選定したもの(「栗山英樹選」のクレジットあり)。
- 『怪物前夜:"60億円の男"松坂大輔を育てた「嫌いにさせない」子育て術』(2007年3月、東京学参)ISBN 9784808007737
- 『はるかなる甲子園:もう一つの高校野球物語』(2010年11月、日刊スポーツ出版社)ISBN 9784817202826
- 『覚悟 理論派新人監督は、なぜ理論を捨てたのか』ベストセラーズ、2012年10月。ISBN 978-4584134535 。
- 『伝える。 言葉より強い武器はない』ベストセラーズ、2013年3月。ISBN 978-4584134849 。
- 『未徹在』ベストセラーズ、2015年11月。ISBN 978-4584136867 。
- 『「最高のチーム」の作り方』ベストセラーズ、2016年12月。ISBN 978-4584137666 。
- 『栗山魂』(河出書房新社、2017年3月、ISBN 9784309617091)
- 『稚心を去る』(ワニブックス、2019年1月、ISBN 9784847097515)
- 『野球が教えてくれたこと』(KADOKAWA、2019年3月、ISBN 9784048961141)
- 共著
- 『スポーツ新人類たちへ:軽やかにスポーツを語ろう:栗山英樹対談集』(ソニー・マガジンズ、1993年4月、ISBN 4789708020)
- 『栗山英樹のスポーツおもしろランド』シリーズ(保立浩司絵、小峰書店)
- 『スポーツと食べ物のひみつ』(1996年7月、第1巻)ISBN 4338134011
- 『スポーツのうそ・ほんと』(1996年9月、第2巻)ISBN 433813402X
- 『ためしてみよう!スポーツのふしぎ』(1996年11月、第3巻)ISBN 4338134038
- 『うまくなるコツとひみつ 1:野球・陸上競技・バスケットボール編』(1997年1月、第4巻)ISBN 4338134046
- 『うまくなるコツとひみつ 2:サッカー・バレーボール編』(1997年3月、第5巻)ISBN 4338134054
- 『Get sports:テレビ朝日『ゲット・スポーツ』:野球を極める』(2003年5月、アスキー・コミュニケーションズ。南原清隆との責任編集)ISBN 4776200481
- 監修
- 『言葉の魔球:野球名言集』(2005年10月、出版芸術社)ISBN 4882932849
- 『わが子をプロ野球選手に育てる本:体・眼・心・食のスペシャリストが指導』(2005年10月、マキノ出版。立花龍司・真下一策・児玉光雄・海老久美子著)ISBN 4837670490
- 『メジャーリーガーになれるか?!』(2008年7月、泉書房)ISBN 978-4-86287020-9
- 訳書
- 『ラクロスの基礎』(ロバート・E・レイノルズ著、ベースボール・マガジン社、1993年12月、ISBN 4583030967)
連載
出演番組
テレビ
解説者のみならず、スポーツ情報番組を主体に司会者としても活動した。
- スーパーベースボール(1991年 - 1993年、2001年 - 2011年。解説。朝日放送・北海道テレビなど系列局制作の中継にも不定期出演)
- スポーツフロンティア(1991年4月 - 1993年3月。メインキャスター)
- 楽天GIGランド(名古屋テレビ。1992年10月 - 1993年3月。司会)
- 速報!スポーツCUBE(2000年 - 2001年。メインキャスター)
- ベストポジションSPORTS(2001年 - 2002年。コーナー司会)
- 報道ステーション(2004年 - 2011年。プロ野球コメンテーター)
- GET SPORTS(1998年 - 2011年。ナビゲーター)
- 熱闘甲子園(朝日放送・テレビ朝日。2009 - 2011年度)
- 長島三奈とともに、スタジオ司会と全国高等学校野球選手権大会各都道府県代表校への大会中取材を担当。
- 速報!甲子園への道(朝日放送、2009 - 2011年度)
- コメンテーター兼リポーター。長嶋とともに、全国高等学校野球選手権大会地方大会を随時取材していた。
- JAPAN MAJOR BASEBALL(1993年 - 2000年。解説)
- JNNニュースの森(プロ野球年末総括やシーズン前の順位予想で出演した)
- JNNスポーツ&ニュース(1993年 - 1997年、メインキャスター。本人の歌う『天使というより魔法使い』がエンディングテーマに使われた)
- オールスター感謝祭(1993年4月3日、1993年10月9日、1994年4月2日、1994年10月1日、1995年4月1日、1995年9月30日、1996年3月30日、1996年10月5日、1997年3月29日、1997年10月4日、1998年3月28日)
- スポーツマンNo.1決定戦(第8回芸能人サバイバルバトルまでのメインリポーター)
ラジオ(特記ない限り、パーソナリティとしての出演)
- TBSラジオ エキサイトベースボール(1993年 - 2011年。解説)
- 栗山英樹のスポーツBEAT ON!(1995年4月 - 1996年9月)
- サタデー・デイ・キャッチ!スポーツ(1996年10月 - 1997年3月)
- 初田啓介の激アツ!ビバ!プロ野球→初田啓介の激アツ!エキサイトベースボール!(2005年10月 - 2006年3月)
- 栗山英樹のエキサイトサンデー(2006年10月 - 2007年3月)
- HBCファイターズナイター(2003年 - 2006年。解説。2007年以降もTBSラジオ制作の裏送りには出演していた)
- 栗山英樹 Dream Navigation(2000年4月 - 2011年12月)
- 栗山英樹 NEXT INNING
- サタデー・オン・ザ・ウエー
- ハロー・サンシャイン
- ゲット・ユア・ドリーム
- 夢の翼に
- 各地のAM局
- 栗山英樹のミュージックブルペン(1993年 - 2011年)
- 栗山英樹の夢を追いかけて
- 栗山英樹の野球場に行こう!(2012年2月5日 - 。毎月第1日曜19:00 - 19:30の『ぞっこんほっかいどうアワー』枠で放送)
CM
音楽
- 「好敵手/それぞれの旅」(1992年7月25日・シングル)※2曲ともさだまさしの作詞作曲。
- 『フォー・シーズンズ』(1993年9月26日・アルバム)
ゲームソフト
- プロ野球 熱スタシリーズ(2006年・2007年、バンダイナムコゲームス。大塚光二とともに解説者として声の出演)
映画
- 探偵はBARにいる3(2017年) - 本人役
脚注
注釈
- ^ 日本のプロ野球の監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物で、リーグ制覇・クライマックスシリーズ制覇・日本選手権シリーズ制覇を達成したのも史上初である。
- ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2001』(『ホームラン』2001年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)の解説者名鑑内では「TBSを卒業」という旨の記述をしているが、テレビ解説の活動先をテレビ朝日に移しただけで、TBSラジオでの解説者活動は引き続き行っていた[9]。
- ^ 2016年まで、現在のマツダスタジアムでセ・リーグ優勝監督・CS制覇チーム監督の胴上げが行われた事は一度も無く、同球場での日本シリーズ開催は2016年が初めてであった。尚、2016年の広島のセ・リーグ優勝の胴上げは東京ドーム(9月10日の巨人対広島戦)で行われた。
出典
- ^ a b 栗山英樹『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』[要ページ番号]
- ^ a b 「栗山英樹 熱中甲子園」スポーツニッポン、2009年8月10日6面。
- ^ 東京中日スポーツ 1985年1月21日付
- ^ “プロ不合格に幻の長嶋内閣入り。“日本一”栗山監督を作った2つの転機”. THE PAGE (2016年11月1日). 2017年5月26日閲覧。
- ^ 『1984ヤクルトスワローズファンブック』(ヤクルト球団、1984年)36頁
- ^ 『栗山魂』130~133頁
- ^ 『覚悟』53頁
- ^ 『TBS50年史』資料編P234の「主なスポーツ番組解説者」に掲載されたプロ野球解説者の一覧より参照。
- ^ 2001年当時のTBSラジオ『ザ・ベースボール』公式サイト内解説者一覧 - インターネットアーカイブ2001年4月13日付保存キャッシュより
- ^ “経営学部 経営専攻紹介 教員紹介 教員紹介詳細”. 白鷗大学. 2011年9月4日閲覧。
- ^ “高野連、元プロ栗山英樹さんの取材に特例許可”. 読売新聞 (2009年8月3日). 2011年10月17日閲覧。
- ^ a b “栗山氏 日本ハム新監督就任 「責任をひしひしと感じている」”. スポーツニッポン (2011年11月3日). 2011年11月3日閲覧。
- ^ 栗山新監督が背負う!三原魔術の「80」(1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(2011年11月10日付記事)
- ^ 栗山ハム新監督“三原イズム”で勝つ! - デイリースポーツonline(2011年11月10日付記事)
- ^ 中日スポーツ:ハム激震 吉井投手コーチも退団 栗山監督との確執が原因 2012年11月5日
- ^ 栗山英樹監督契約延長のお知らせ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト 2016年11月2日配信
- ^ なぜ栗山監督は大谷に厳しいのか SHIGEFIKA PONDAN.2016年10月12日
- ^ 「そんなことでは褒めません」――日ハム栗山監督の清宮指導はなぜ厳しい? full-count
- ^ 大谷、厳しい言葉の裏で栗山監督が守ってくれた「本心は理解しているつもりです」 日刊スポーツ.2017年12月26日
- ^ ベースボール・マガジン社『週刊ベースボール』2018年10月1日号 p.109.
- ^ “栗山監督に正力賞「本当におこがましい。辞退したいくらい」”. スポニチアネックス. (2016年11月18日) 2016年11月18日閲覧。
- ^ “2011年 第46回テレビ朝日ビッグスポーツ賞” (PDF). 2017年7月27日閲覧。
- ^ “テレビ朝日『第47回 ビッグスポーツ大賞』ワールドプロレスリング賞にオカダ・カズチカが受賞!”. 新日本プロレスリング (2013年1月19日). 2017年7月27日閲覧。
- ^ “大谷が萩野公介、ベイカー茉秋らと「同世代トーク」”. Full-Count (2017年1月13日). 2017年7月27日閲覧。
- ^ サンケイスポーツ (2014年7月3日). “テレ朝系SPドラマで栗山監督、美姫さん、工藤氏が友情競演!”. 2014年7月3日閲覧。
- ^ 参考:栗山英樹氏のサインボールをゲット!『ワースタ5』発売記念キャンペーン! - 『電撃オンライン』2001年4月25日付
- ^ 第一三共ヘルスケアホームページ内に掲載されていた、CM情報 - インターネットアーカイブ2008年9月17日付保存キャッシュ
参考資料
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
関連項目
- 東京都出身の人物一覧
- 東京学芸大学の人物一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
- 岩崎なおあき - 物まねを演じる舞台俳優。
外部リンク
- 個人年度別成績 栗山英樹 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 北海道日本ハムファイターズホームページ内プロフィール
- 栗の樹ファーム - スポニチアネックス内