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1961年、15歳のときに[[将棋のアマチュア棋戦#全日本アマチュア名人戦|全日本アマチュア名人戦]]で北海道代表<ref name="ss2000">「[[将棋世界]]」2000年1月号付録</ref><ref>東の準決勝まで進出したという(優勝は[[若松政和]])。</ref>。1962年には[[十段戦 (将棋)|十段戦]]でアマチュア枠において参加、[[大内延介]]に敗れた。同年、中学卒業と同時に上京して[[新進棋士奨励会|奨励会]]を受験。当初は1級での受験であるが成績がふるわず不合格になるはずだったものの、温情で2級での入会が許されたという。渡辺東一門下となった。下宿先は[[京須行男]]([[森内俊之]]の母方の祖父)の実家であったという。
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1年半ほどの期間で三段となり、旧制度の三段リーグ(奨励会A組)ではしばらく足踏みしたが、1966年度前期・後期の2期連続で関東優勝し、1967年4月に四段昇段してプロ入りした。昇段を決めた一局の相手は、[[森けい二|森&#38622;二]]<ref name="ss2000"/>。
1年半ほどの期間で三段となり、旧制度の三段リーグ(奨励会A組)ではしばらく足踏みしたが、1966年度前期・後期の2期連続で関東優勝し、1967年4月に四段昇段してプロ入りした。昇段を決めた一局の相手は、[[森二]]<ref name="ss2000"/>。


第13期(1968年度後期)[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]で本戦初出場。1回戦で[[山田道美]]を破る。
第13期(1968年度後期)[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]で本戦初出場。1回戦で[[山田道美]]を破る。

2020年7月16日 (木) 23:06時点における版

 勝浦修 九段
名前 勝浦修
生年月日 (1946-05-08) 1946年5月8日(78歳)
プロ入り年月日 1967年4月1日(20歳)
棋士番号 96
出身地 北海道紋別市
師匠 渡辺東一名誉九段
段位 九段
棋士DB 勝浦修
戦績
一般棋戦優勝回数 3回
2017年8月25日現在
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勝浦 修(かつうら おさむ、1946年5月8日 - )は、将棋棋士、九段。2011年、引退。渡辺東一名誉九段門下。棋士番号は96。北海道紋別市出身。竜王戦1組4期、順位戦A級7期在籍。

棋歴

父が将棋好きで、旅館業を営む傍ら出入りの業者を相手に朝から晩まで将棋を指している環境で育ったという。

福井資明九段に師事[1]。福井との縁は小学3年生の頃に指導を受けてからの縁で、中学入学と同時に内弟子生活に入ったという。

1961年、15歳のときに全日本アマチュア名人戦で北海道代表[2][3]。1962年には十段戦でアマチュア枠において参加、大内延介に敗れた。同年、中学卒業と同時に上京して奨励会を受験。当初は1級での受験であるが成績がふるわず不合格になるはずだったものの、温情で2級での入会が許されたという。渡辺東一門下となった。下宿先は京須行男森内俊之の母方の祖父)の実家であったという。

1年半ほどの期間で三段となり、旧制度の三段リーグ(奨励会A組)ではしばらく足踏みしたが、1966年度前期・後期の2期連続で関東優勝し、1967年4月に四段昇段してプロ入りした。昇段を決めた一局の相手は、森雞二[2]

第13期(1968年度後期)棋聖戦で本戦初出場。1回戦で山田道美を破る。

順位戦では、プロ2年目の第23期(1968年度)C級2組で9勝3敗・2位となり、C級1組へ昇級(五段昇段)。また、C級1組では1年目に9勝3敗で次点(3位)に終わるも、2年目に10勝3敗・1位となり、B級2組へ昇級(六段昇段)。さらに、B級2組2年目で8勝2敗・2位となり、B級1組へ昇級(七段昇段)。そして、B級1組3年目の第30期(1975年度)で10勝3敗・1位の成績を収め、1976年4月1日付けでA級八段となった。ちょうどこのとき名人戦の主催紙移行問題のため順位戦の開始が延期され、勝浦は初めてのA級順位戦を戦い始めるまで待たされた。A級に5期連続在籍の後にB級1組に降級したが、その後、A級に復帰したこともある。A級在籍は通算7期。

第22期(1972年度)王将戦で初めて王将リーグ入り(A級より定員が少ない難関)。4勝3敗で残留したが、次の第23期で陥落。以降、第27期・第29期・第30期・第31期の王将戦では、リーグ復帰と即陥落を繰り返している。

第16期(1975年度)王位戦で初のリーグ入り。第17期(1976年度)王位戦でタイトル初挑戦七番勝負では中原誠王位に2-4で敗れる。以降も何度も王位リーグ入りしている。

1979年度は、テレビで放映される2つの早指し棋戦で、いずれもベスト4に進出(第29回NHK杯戦、第13回早指し将棋選手権)。

第3回(1980年度)オールスター勝ち抜き戦で7連勝。5連勝以上は優勝扱いのため、これが棋戦初優勝。

第29回(1981年度)王座戦(タイトル戦昇格以前)で挑戦者となり、決勝三番勝負では大山康晴王将に1-2で敗れる。同年度、第14回日本将棋連盟杯争奪戦で大山康晴(準々決勝)、加藤一二三(準決勝)、森安秀光(決勝)を破って優勝。第8回将棋大賞で技能賞を受賞。

第46期(1985年度前期)棋聖戦にて本戦で中原誠・森雞二・谷川浩司らを破り、米長邦雄棋聖への挑戦権を獲得。五番勝負は1-3で敗退。「カミソリ(自分のこと)が泥沼(米長のこと)に浸かって切れ味が鈍ってしまった」との言葉を残している[2]。勝浦の1勝は、ロサンゼルスで行われた第2局で挙げたもので、内容は勝浦先手の相掛かりからの乱戦であった。

同年度、オールスター勝ち抜き戦で自身2度目の5連勝以上(6連勝)を達成。

1985年11月1日、八段昇段後250勝を達成し九段に昇段。年間25勝を超えるハイペースであった。

竜王戦では、第2期(1989年度)に2組優勝。本戦は初戦で敗退するが、1組初昇級。第4期(1991年度)竜王戦1組では3位となり本戦でベスト4進出。1組には通算4期在籍。

1993年、通算600勝を達成(将棋栄誉賞)。

1997年、フリークラス宣言により順位戦B級2組からフリークラスに転出。65歳を迎える2011年度(または2012年の最終対局日)まで指す権利があったが、本人の意思で1年早く引退することが発表された[4]。残す対局は第61期王将戦と第24期竜王戦6組昇級者決定戦であったが、いずれも敗れて2011年8月19日(竜王戦敗退、対伊藤真吾戦)をもって引退となった[5]

人物

  • 詰将棋作家としても活動。本人の弁によれば塚田正夫名誉十段の影響を受けており、実戦的でスッキリした手順を好んでいる[6]。解くのも早い[2]。また、兄弟子であり詰将棋仲間の二上達也九段を敬愛している一方で彼からも高い評価を受けており、後述するカミソリ流という名に掛けて「電動式ではない、詰将棋の作風も表しているゾーリンゲンのカミソリ」と評されている[7]
  • その二上達也が師範を務めていた新宿将棋センターでは、三段時代から手合い係を務めており、プロになってからも六段になるまで手合い係を続けた[8]。ある日、客として通っていた土地のやくざと指導対局を行い、そのやくざから「若先生[9]、どうしたらいくらかでも強くなれますか」と問われ、「もう少し考えることです」とアドバイスを送った。そのやくざとは、若き日の安部譲二であり、本人はその指摘が「真にその通りだったので、おかしくて堪らなかった」という[10]
  • 中終盤での切れ味に特徴がある棋風は「カミソリ流」と評される。引退後には後輩ながら谷川浩司の将棋スタイルが理想であったと述べた。
  • 弟子に森内俊之野月浩貴金沢孝史広瀬章人、および、女流棋士久津知子がいる。森内と広瀬はタイトルを獲得した(森内は十八世名人の資格を持つ)。野月・金沢・広瀬・久津は、勝浦と同じく北海道の出身である。
  • 日本将棋連盟の理事には1976年に初めて選任されて以来、7期14年にわたり務めた。小学生時代にソロバン一級を取得するなど、事務処理能力の高さを買われてのものであったという。また、人柄の良さも評価されており、米長邦雄は「計算が得意だけれど決して計算は高くないのが彼のいいところ」と評している[11]
  • 田丸昇によると、1994年の林葉直子の休養・失踪騒動において、林葉から休養の申し出を直接受けた理事は勝浦であったという。また、田丸は林葉が連盟に無断で手記を発表した処分をめぐって、林葉の除名・引退勧告を強く主張した理事として勝浦の名前を挙げ、「当初の経緯を思うと、その気持ちはよくわかる。」と記している[12]
  • 趣味パチンコ[1]の他、麻雀競輪競馬を一通りたしなむ。親交のあった阿佐田哲也にはプロ雀士にスカウトしたいと評されたほどの腕前だという。大山に挑戦した王座戦の第1局には、一人福岡での麻雀大会に参加してから会場の石川に向かったという。

昇段履歴

  • 1962年 2級 = 奨励会入会
  • 1963年 初段
  • 1967年4月1日 四段 = プロ入り
  • 1969年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1971年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1973年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1976年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
  • 1985年11月1日 九段(勝数規定 = 八段昇段後250勝)
  • 2011年8月19日 引退

主な成績

通算勝敗

1411対局 714勝697敗 勝率0.5060

タイトル戦登場

  • 王位挑戦 1回(1976年度 = 第17期)
  • 棋聖挑戦 1回(1985年度前期 = 第46期)
登場回数合計2、獲得0

優勝

優勝合計3回

クラス

  • 竜王戦1組在籍 通算4期(1990年度(=第3期) -1992年度、1994年度)
  • 順位戦A級在籍 通算7期(1977年度(=第36期)-1981年度、1984年度-1985年度)

受賞

将棋大賞
  • 第8回(1980年度) 技能賞
  • 第39回(2011年度) 東京記者会賞[13]
その他受賞

脚注

  1. ^ a b 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟
  2. ^ a b c d 将棋世界」2000年1月号付録
  3. ^ 東の準決勝まで進出したという(優勝は若松政和)。
  4. ^ 引退棋士のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月25日閲覧。
  5. ^ 勝浦 修九段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月25日閲覧。
  6. ^ 『勝浦詰将棋選集』はしがきより
  7. ^ 『勝浦詰将棋選集』あとがきより
  8. ^ 勝浦修『勝浦修名局集』日本将棋連盟、2013年4月30日、218頁。 
  9. ^ 師範代が二上達也だったので、そのやくざは勝浦のことを「若先生」と呼んでいた
  10. ^ 安部譲二『賞ナシ罰アリ猫もいる』株式会社文藝春秋、2002年2月20日、電子書籍版頁。 
  11. ^ 週刊将棋2011年11月23日号掲載インタビューより。発言場所は引退バーティーにおいての祝辞。
  12. ^ 田丸昇『将棋界の事件簿』100頁より。
  13. ^ 第39回将棋大賞が決まる!|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月25日閲覧。

出典

  • 将棋世界」2000年1月号付録
  • 田丸昇『将棋界の事件簿』(2005年、毎日コミュニケーションズ
  • 高橋呉郎『感想戦後の感想 第74回』(将棋世界 2011年11月号 152頁)
  • 週刊将棋 2011年11月23日号掲載インタビュー(取材:小暮克洋)

関連項目

外部リンク