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初参加から4期目のC級2組[[順位戦]](第39期、1980年度)で、7勝3敗の成績ながら前期の好成績による高順位が活き、3位でC級1組へ昇級<ref>当期は、同様の理由で[[鈴木輝彦]]も7勝3敗の成績でありながら2位でC級1組へ昇級を決めた。3敗でのC級1組昇級は珍しく、鈴木及び伊藤を最後に出ていない。</ref>。また、第12回(1981年度)[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]で準優勝(優勝は[[田中寅彦]])。さらには、本戦出場者が50人となってから初めての[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]](第31回、1981年度)で準優勝(優勝は[[加藤一二三]])。これらの活躍の原動力<ref name="ss2000"/>となったのが、[[穴熊囲い|居飛車穴熊]]への対策として<ref name="ss2000"/>自ら考案した「'''[[風車 (将棋)|風車]]'''」'''戦法'''であった。相手の攻めに備えることに特化した戦法である。 |
初参加から4期目のC級2組[[順位戦]](第39期、1980年度)で、7勝3敗の成績ながら前期の好成績による高順位が活き、3位でC級1組へ昇級<ref>当期は、同様の理由で[[鈴木輝彦]]も7勝3敗の成績でありながら2位でC級1組へ昇級を決めた。3敗でのC級1組昇級は珍しく、鈴木及び伊藤を最後に出ていない。</ref>。また、第12回(1981年度)[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]で準優勝(優勝は[[田中寅彦]])。さらには、本戦出場者が50人となってから初めての[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]](第31回、1981年度)で準優勝(優勝は[[加藤一二三]])。これらの活躍の原動力<ref name="ss2000"/>となったのが、[[穴熊囲い|居飛車穴熊]]への対策として<ref name="ss2000"/>自ら考案した「'''[[風車 (将棋)|風車]]'''」'''戦法'''であった。相手の攻めに備えることに特化した戦法である。 |
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第8期(1995年度)[[竜王戦]]2組で[[屋敷伸之]]・[[森 |
第8期(1995年度)[[竜王戦]]2組で[[屋敷伸之]]・[[森雞二]]に勝って[[先崎学]]に敗れた後、昇級者決定戦決勝に回り、[[森内俊之]]に勝って2組3位で'''1組昇級'''。次期(1996年度)は初戦で[[米長邦雄]]に勝ち、1組残留。第10期(1997年度)は残留決定戦で[[羽生善治]]に敗れ、2組降級。 |
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第14期(2001年度)竜王戦3組の昇級者決定戦を制し、2組に復帰。同年度、第20回[[朝日オープン将棋選手権]]で予選を突破するが、本戦初戦で羽生に敗れる。 |
第14期(2001年度)竜王戦3組の昇級者決定戦を制し、2組に復帰。同年度、第20回[[朝日オープン将棋選手権]]で予選を突破するが、本戦初戦で羽生に敗れる。 |
2020年7月16日 (木) 23:06時点における版
伊藤果 八段 | |
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名前 | 伊藤果 |
生年月日 | 1950年9月16日(74歳) |
プロ入り年月日 | 1975年6月19日(24歳) |
棋士番号 | 118 |
出身地 | 京都府京都市南区 |
師匠 | 高柳敏夫名誉九段 |
段位 | 八段 |
棋士DB | 伊藤果 |
戦績 | |
通算成績 | 472勝554敗(0.4600) |
伊藤 果(いとう はたす、1950年9月16日 - )は、将棋棋士。改名前の氏名は伊藤喜和。2011年、引退。高柳敏夫名誉九段門下。棋士番号は118。京都府京都市南区出身。
棋歴
11歳、小学5年生の頃、父から無理やり将棋を教えられる[1]。
1963年、実戦経験が少なくアマチュア5、6級であったにもかかわらず[2]奨励会試験を受験して合格し、南口繁一九段門で関西奨励会に6級で入会。「記録要員」としての合格[2]と言われた。ところが、1か月で5級に上がり、半年後には2級に到達する。
旧制三段リーグ(奨励会A組)への参加は1967年度後期からである。9期・4年半指した後、1972年に半年休場。この頃、喜和から果に改名し、また、南口門から関東の高柳門に移る。以降、3期・1年半指したところで三段リーグ制度が廃止。それから約1年後の1975年6月19日、よいとこ取り12勝4敗の規定により四段昇段( = プロ入り)。なお、三段時代の1973年度、第17回古豪新鋭戦で準優勝している(優勝は森安秀光)。
1979年度、12連勝(全棋士中1位)を記録し、将棋大賞の連勝賞を受賞。
第21期(1980年度)王位戦でリーグ入り。
初参加から4期目のC級2組順位戦(第39期、1980年度)で、7勝3敗の成績ながら前期の好成績による高順位が活き、3位でC級1組へ昇級[3]。また、第12回(1981年度)新人王戦で準優勝(優勝は田中寅彦)。さらには、本戦出場者が50人となってから初めてのNHK杯戦(第31回、1981年度)で準優勝(優勝は加藤一二三)。これらの活躍の原動力[2]となったのが、居飛車穴熊への対策として[2]自ら考案した「風車」戦法であった。相手の攻めに備えることに特化した戦法である。
第8期(1995年度)竜王戦2組で屋敷伸之・森雞二に勝って先崎学に敗れた後、昇級者決定戦決勝に回り、森内俊之に勝って2組3位で1組昇級。次期(1996年度)は初戦で米長邦雄に勝ち、1組残留。第10期(1997年度)は残留決定戦で羽生善治に敗れ、2組降級。
第14期(2001年度)竜王戦3組の昇級者決定戦を制し、2組に復帰。同年度、第20回朝日オープン将棋選手権で予選を突破するが、本戦初戦で羽生に敗れる。
第60期(2001年度)C級2組順位戦で累積3つ目の降級点を喫し、フリークラスに陥落。以降、順位戦への復帰を果たせないまま年齢制限となる還暦を迎え、2011年6月7日の対・佐藤慎一戦(竜王戦6組)での敗戦を最後に同日付で引退[4]。
人物
- 棋界きっての詰将棋愛好家であり、詰将棋作家として塚田賞受賞の実績も持つほか、将棋世界の詰将棋サロン審査員も永きに亘り務めた。詰将棋を題材とした著書も数多く出版されているほか、ゲームソフト等の問題制作も担当したことがある。創作を始めたのは15歳の時であり、父からの影響である[2]。当時から詰将棋作家として名高い若島正、上田吉一と並ぶ京都三羽烏と呼ばれた過去もあり、詰将棋パラダイスに幾度となく入選作を送っている。トーナメント棋士として引退してからも「晴れて真の詰将棋作家となった」と発言しているほどで、連日のようにTwitterなどに自作詰将棋を記載している。詰将棋が好きな理由として、「勝ち負けがなくて、誰にも邪魔されずに一人でも楽しめる。自分にとって最高の趣味でもあり、実益にもつながる。寂しがり屋な性格だが、詰将棋は全てを忘れさせてくれる」と回答している。
- テレビ時代劇の『新・必殺仕置人』の第5話「王手無用」で将棋指し・伊藤宗看の役で出演し、劇中で煙詰を披露したことがある。
- 実娘の伊藤明日香は弟子(女流棋士)であり、将棋界初の父娘プロ。果よりも明日香のほうが先に引退した。多くのプロ棋士を輩出した名伯楽でもあり、他の弟子に堀口一史座、及川拓馬、竹部さゆり、上田初美、野田澤彩乃らがいる。
- 1988年度のNHK将棋講座「初級実戦クリニック」で講師を担当した。
昇段履歴
- 1963年 6級 = 奨励会入会
- 1966年 初段
- 1975年6月19日 四段 = プロ入り
- 1981年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1986年12月2日 六段(勝数規定)
- 1995年10月6日 七段(勝数規定)
- 2011年6月7日 引退
- 2016年4月1日 八段(引退棋士昇段規定)[5]
主な成績
- 通算成績
- 1026対局 472勝554敗 勝率0.4600
- 棋戦
在籍クラス
- 竜王戦 自己最高1組(通算2期)
- 順位戦 自己最高C級1組
将棋大賞
- 第7回将棋大賞(1979年度)連勝賞(12連勝)
- 第46回将棋大賞(2018年度)東京記者会賞
表彰等
- 1999年6月3日 通算400勝
- 1999年 現役勤続25年表彰
主な著作
著書
- 詰将棋の創り方 実例と楽しみ方(1983年、日東書院)ISBN 4528004844
- 伊藤果直伝! 風車の美学(1994年、毎日コミュニケーションズ)ISBN 4895636011
- 王様殺人事件(1996年、毎日コミュニケーションズ。吉村達也氏との共著。)ISBN 4895636534 のちMYCOM将棋文庫SP(2004年) ISBN 483991611X
- 将棋の初歩の初歩(監修)(1997年、金園社)ISBN 4321552230
- 一人で強くなる将棋入門―基本を覚えれば上達が早くなる(1998年、日本文芸社)ISBN 4537019107
- 強くなる実戦詰将棋120題―基本の3手詰から初段のカベを破る15手詰まで(2004年、日本文芸社)ISBN 4537202882
- 伊藤果の詰将棋110(マイコミ将棋BOOKS)(2007年、毎日コミュニケーションズ)ISBN 978-4839925109
- 将棋連盟文庫 詰将棋タイムトライアル(2012年、日本将棋連盟)ISBN 978-4839941833
ゲームソフト
出演
テレビ
ウェブテレビ
- チーム対抗 詰将棋カラオケ(2018年4月9日、ニコニコ生放送)[6] - 詰将棋審査員・問題作成
- 叡王戦記念特番 東西対抗 詰将棋カラオケ(2019年3月30日、ニコニコ生放送)[7] - 詰将棋出題、解説
脚注
- ^ 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
- ^ a b c d e 「将棋世界」(日本将棋連盟)2000年1月号付録
- ^ 当期は、同様の理由で鈴木輝彦も7勝3敗の成績でありながら2位でC級1組へ昇級を決めた。3敗でのC級1組昇級は珍しく、鈴木及び伊藤を最後に出ていない。
- ^ “伊藤果七段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
- ^ “昇段・引退棋士のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
- ^ ニコファーレ, 【叡王戦開催記念】チーム対抗 詰将棋カラオケ|スケジュール|nicofarre. “【叡王戦開催記念】チーム対抗 詰将棋カラオケ|スケジュール|nicofarre ニコファーレ”. http://nicofarre.jp/. 2018年4月17日閲覧。
- ^ “【叡王戦記念特番】東西対抗 詰将棋カラオケ”. ニコニコ生放送 (2019年3月30日). 2020年3月21日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 伊藤果|棋士データベース|日本将棋連盟
- 伊藤果 (@hi1844) - X(旧Twitter)