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(関羽・張飛の二人は、ひとりで万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣《勇猛な家臣》であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は[[厳顔]]の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。)|『三國志』巻36蜀志6 關張馬黄趙傳<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷36#.E9.97.9C.E7.BE.BD|author=陳壽|wslanguage=zh}}</ref>}} |
(関羽・張飛の二人は、ひとりで万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣《勇猛な家臣》であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は[[厳顔]]の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。)|『三國志』巻36蜀志6 關張馬黄趙傳<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷36#.E9.97.9C.E7.BE.BD|author=陳壽|wslanguage=zh}}</ref>}} |
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[[程昱]]からは「関羽と張飛の武勇は一万の兵に相当する」と評価された(『三国志』魏志「程昱伝」)。 |
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[[郭嘉]]も同様に張飛・関羽は共に1万の兵に匹敵するとし、劉備の為に死を以て働いていると評した(『傅子』)。 |
[[郭嘉]]も同様に張飛・関羽は共に1万の兵に匹敵するとし、劉備の為に死を以て働いていると評した(『傅子』)。 |
2020年7月12日 (日) 10:35時点における版
関羽 | |
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歌川国芳「通俗三国志之内」 | |
蜀漢 漢寿亭侯 / 前将軍・仮節鉞 | |
出生 |
生年不詳 河東郡解県 (現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村) |
死去 |
建安24年12月(220年1月) 荊州臨沮県 (現在の湖北省襄陽市南漳県) |
拼音 | Guān Yǔ |
字 | 長生 → 雲長 |
諡号 | 壮繆侯/忠義侯 ほか |
別名 |
渾名:髯 神号: 協天大帝関聖帝君(道教) 伽藍菩薩(仏教) 文衡聖帝(儒教) |
主君 | 劉備→曹操→劉備 |
関 羽 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 關 羽 |
簡体字: | 关 羽 |
拼音: | Guān Yǔ |
注音符号: | ㄍㄨㄢ ㄩˇ |
ラテン字: | Kuan1 Yu3 |
発音: | グァン ユー |
広東語拼音: | Gwaan1 Jyu5 |
日本語読み: | かん う |
英文: | Guan Yu |
関 羽(かん う、拼音: グァン ユー、? - 建安24年12月(220年1月)[1])は、中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。
蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた(爵諡を参照)。
悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた[要検証 ]。
小説『三国志演義』では、「雲長、関雲長あるいは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。
見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、諸葛亮からは「
生涯
道教 |
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カテゴリ |
劉備に仕える
黄巾の乱が起きると、義勇兵を挙げた劉備・張飛と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務めた。劉備が平原の相になると、関羽は張飛と共に別部司馬に任命された。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから兄のように従ったという(『三国志』蜀志「張飛伝」)。しかし、関羽・張飛は大勢の前ではあくまで劉備を主君として立てて仕えた[3]。
忠義を貫く
徐州を得た劉備は呂布と争い曹操を頼って逃れた。建安3年(198年)、曹操が呂布を破ったとき、関羽は張飛とともに戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された(『華陽国志』劉先主志)。また、このとき関羽は呂布の部将の秦宜禄の妻を娶ることを曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。
建安4年(199年)、劉備は曹操を裏切り徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。このとき、劉備は小沛に戻り、関羽が下邳の守備を任され太守の事務を代行した[4]。
建安5年(200年)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受けて敗れ、下邳に撤退せず北上し袁紹の元に逃げると、関羽は曹操の捕虜になった。曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺し殺し、その首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。曹操は即刻上表して、漢寿亭[5]侯に封じた。
曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽が自分の下に長くとどまるつもりはないと思い、張遼に依頼して関羽に質問させたところ、関羽は劉備を裏切ることはないことと、曹操への恩返しが済んだら立ち去るつもりであることを述べた。そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。
顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。
荊州を預かる
劉備が袁紹の元を去って荊州の劉表の元に身を寄せると、関羽も同行した。
建安13年(208年)、劉備が襄陽の名士の諸葛亮を三顧の礼で迎え重用するようになると、張飛と共に不満を覚えたが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものである(水魚の交わり)と述べたという(『三国志』蜀志「諸葛亮伝」)。
同年、劉表が病死し曹操が荊州に侵攻すると、樊の地より南下して江陵を目指した劉備の指示で数百隻の船団からなる別働隊の指揮を執った。途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は抜け道を使って漢津に逃れ、関羽の船団と合流し難を逃れ、共に夏口に向かった(長坂の戦い)。孫権が劉備に援軍を出して曹操を防いだため、曹操は撤退した(赤壁の戦い)。
建安14年(209年)、荊州の南郡攻防戦では北道を封鎖したが、李通が手勢を率いてこれを攻撃し曹仁を救い出した。また、漢津で徐晃と満寵の攻撃を受けた(『三国志』魏志「徐晃伝」)。(『三国志』魏志「李通伝」)。劉備は江南の諸郡を平定すると、関羽のそれまでの功績を評価し、襄陽太守[6]・盪寇将軍に任命した。関羽は長江の北の守備を任された。
劉備が益州に入ると(劉備の入蜀)、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任された。後に劉備が益州を攻撃すると、諸葛亮は張飛・趙雲らと益州入りし、荊州には関羽が留守を預かることとなった。この頃、襄陽に駐屯していた曹操配下の楽進と襄陽郊外の青泥まで進出して対峙してたがその攻撃をうけて蘇非と共に逃走している。このとき文聘が関羽の輜重、軍船を焼いている(『三国志』蜀志「先主伝」、魏志「楽進伝」「文聘伝」)。荊州刺史の傅羣の主簿の楊儀が下ってくると、関羽は楊儀を功曹に任命して、劉備の元に使者として派遣している(『三国志』蜀志「楊儀伝」)。
劉備が益州を征服すると、関羽の功績は張飛・諸葛亮と同等と評価され(『三国志』蜀志「張飛伝」)、関羽は荊州の軍事総督に任命された[7]。しかし同僚の麋芳・士仁・郝普、そして州の事務を一任された荊州治中の潘濬とは互いに嫌忌する間柄だった (『季漢輔臣賛』、『三国志』呉志「潘濬伝」)。
孫権との衝突
建安20年(215年)、荊州領有を巡る争いが解決しないことに業を煮やした孫権の命令で呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、呂蒙に謀られた郝普は呉に降伏した。それを承け関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣。劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った(『三国志』蜀志「先主伝」)。だが、関羽と通じた長沙郡の安成・攸・茶陵の三県と、揚州廬陵郡の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、長沙郡の安成県令の呉碭と中郎将の袁龍が関羽と機略を通じ再び反乱を起こした(『三国志』呉志「呂岱伝」)。さらにこの年、曹操が自ら大軍の指揮を執って漢中の張魯を攻撃した事など、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した(単刀赴会)。会談は孫権側の魯粛のペースで進行し、関羽はしばしばやり込められた(『三国志』呉志「魯粛伝」)。結局、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領となった(『三国志』蜀志「先主伝」)。此の時に郝普も劉備陣営に帰還したが、直ぐに関羽絡みで呉に帰投した。
建安22年(217年)の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙は、関羽を警戒する計画をひそかにめぐらしていたが、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。しかし、関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができなかった(『三国志』呉志「陸遜伝」)。
あるとき、孫権から関羽に対し、関羽の娘[8]に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを断り[9][10]、孫権を怒らせた。
樊城の戦いと最期
建安23年(218年)、侯音は宛で曹操に対して反乱を起こし、関羽と手を結んだ。建安24年(219年)春正月、曹操の部将の曹仁と龐徳は宛を陥落させ、侯音を斬った。
同年秋、関羽ら群臣らが劉備を漢中王に推挙した。劉備が漢中王を称するようになると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられた。節は内政の、鉞は軍事の独断専行権であり、劉備の制禦の無い関羽の荊州は事実上半独立勢力であった。
直ぐに関羽は独断で、呉へも援軍を要請した上で水陸両軍3万の指揮を執り、子の関平・都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍の指揮を執っていた于禁が駆けつけたが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没した。関羽は船団を指揮して攻撃をかけ、于禁と彼が指揮を執っていた3万の兵を降伏させ、さらに樊城の北に駐屯していた龐徳を斬った。また、このとき荊州刺史の胡修・南郷太守の傅方らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、梁・郟・陸渾といった曹操領内の群盗などが一斉に蜂起し、中原は震動した。同時に勢いに乗じた関羽は上庸の劉封・孟達に援軍を求めたが、上庸が安定していないことを理由に拒絶された(『三国志』蜀志「劉封伝」)。
援軍要請を受けた孫呉は関羽の樊城攻略成功の可否が不明な為に緩り援軍を送り、援軍とは別の使者を関羽に遣わした。于禁降伏後に到着した呉の使者に腹した関羽は「樊城陥落の次は孫呉を攻め滅ぼす」と放言した。
曹操はこの事態に狼狽し、遷都まで考えるほどであったが、曹操の配下の司馬懿と蒋済は于禁を弁護し、これ以前に和議を結んでいた孫権を利用して、長江南を領有することを条件に関羽を背後から攻撃させる策を提案し、曹操は孫権と密約を結んだ[11]。その一方で、徐晃を派遣して曹仁を救援させた。これにより関羽は、逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまうことになる。曹操の配下の董昭は曹操に「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の我が軍への戦意を喪失させるために、孫権が殿と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の我が軍と関羽に漏らすべきです」と提案した。曹操はこの提案に従い、徐晃を介して樊城の曹操軍と関羽軍に孫権参戦の情報を伝えさせた。この情報を聞いた樊城の曹操軍の士気は大いに上がった。
関羽は孫権への備えを当初はおこたらず、長江沿いに守備兵を置いていたが、呂蒙が病気と称して前線を離れたこと、さらに後任として陸口に派遣されてきた陸遜の謙った手紙にあっさり警戒を解き、江陵・公安からさらに兵・物資を前線に送ってしまったという(『三国志』呉志「呂蒙伝」、「陸遜伝」)。更に孫呉討滅の放言、于禁ら降伏した曹操軍の捕虜3万を養う為に孫権軍の軍需物資を強奪したこともあった(『三国志』呉志「呂蒙伝」)[12]。
これを承け[13]孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽討伐の軍を起こした。劉備は糜芳に南郡を、士仁に公安を守備させていたが、両者は関羽を憎悪しており、其処に着目した呂蒙は両者に誘いをかけ寝返らせ、関羽の拠点たる江陵・公安を奪った。その後も陸遜らの働きで荊州の劉備領は忽ち攻略されてしまった。
関羽は襄陽・樊城を落とせぬまま、徐晃に攻撃を受けて敗れ樊城の包囲を解いた[14]。
その後、孫権は関羽軍の輜重を奪ったが、それを聞いた関羽は襄陽の包囲も解き、撤退した[15]。関羽は使者を何度も呂蒙の元に送り連絡をとろうとしたが、呂蒙はその度ごとに関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇していることをわざと使者に知らせた。使者の口からこのことを知った関羽の部下たちは敵対心を失って、やがて関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権軍に降伏した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。
正常な判断を完全に失った関羽は迷走の果てに当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、それを恐れて西の麦城に逃走した (『三国志』呉志「呉主伝」「呂蒙伝」)。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は降伏を受けるふりをし更に逃走した(『三国志』呉志「呉主伝」)。しかし219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首された[16][17]。
関羽の死後
関羽の首は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼をもって当陽に彼の死体を葬った(『呉歴』)。一方、曹操は諸侯の礼をもって洛陽に彼の首を葬った(『関羽伝』)。
章武2年(222年)、関羽を殺された劉備は孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが大敗を喫した。
景耀3年(260年)、蜀漢の2代皇帝劉禅より壮繆侯[18](または壮穆侯)の爵諡を送られた。
関羽の子孫は蜀漢の列侯の1人として続いたが、炎興元年(263年)に鍾会らにより蜀が滅んだ際、龐徳の子であった龐会が関羽の一族を皆殺しにしたという(『蜀記』)。ただし、王隠の『蜀記』は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の陳寿、蜀臣の孫である常璩も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。『宋書』に登場する河東郡の関康之[19]や唐代の宰相関播は関羽の後裔とされる[20]。
唐代には、武廟六十四将に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。
現在、関羽62代目の子孫を名乗る関新剛なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である(今泉恂之助『関羽伝』)。
人物
『春秋左氏伝』を好み、ほぼ暗誦できた[21]ことから、儒教の素養に富んでいた。当時、儒教を修められたのは一定の所得階級以上であったため、関羽の生家も士大夫階級には遠く及ばぬものの、それなりに裕福であったことがわかる。
219年に龐徳から毒矢を受けた際[22]、骨にまで毒が染み込んでいたために、肘を切開して毒が染み込んだ部分を削り取らせたことがあったが、宴会の最中であったにもかかわらずその場で切開させ、痛むそぶりも見せずに酒や肉を飲食し、平然と談笑していたという[23]。
自信過剰なために、部下には優しいが同僚とは折り合いが悪く、荊州治中の潘濬、南郡太守の糜芳、将軍の士仁・郝普は関羽を恨んでおり、孫権に降伏し、呉蜀間で裏切り者として笑い者になったという[24]。潘濬は士大夫階級の、縻芳は儒教に措いて賤業と定義される商人の出であり、挙兵時からの同僚である可能性の士仁は出自が幽州・広陽である。また諸葛亮も才を認める以前は嫉視していたと謂う。
黄忠が後将軍に任じられた際、関羽は「あんな老兵と同格になれるか」と不満を表し、前将軍への就任を拒否しようとしたが、使者である費詩に諌められると彼の言葉に大いに感じ入り、過ちを悟って即座に拝命した(『三国志』蜀志「費詩伝」)。此処で謂う「兵」とは何の才覚も無い「雑兵」の意で、夏侯淵を討取る大功を挙げた黄忠を愚弄する尊大倨傲さが窺える。
敵方でありながら張遼・徐晃とは親交があり、彼らとは互いに尊敬しあっており『傅子』では張遼は関羽を兄弟と呼び、『蜀記』では関羽は徐晃を大兄と呼んでいる。「大兄」は己と同年齢以上の敬服能うる男性に対する敬称であり、徐晃が関羽より年長であった可能性が伺える。また、時代の流れと共に己を成長させ「国家の大事の前では旧交は些事」と大人の考えが出来た徐晃に対し、変わることができなかった関羽は大人の考えがまるで理解出来なかった。
『三国志』を著した陳寿は、關張馬黄趙傳の最後に関羽・張飛2人の人物評をこうまとめている。
程昱からは「関羽と張飛の武勇は一万の兵に相当する」と評価された(『三国志』魏志「程昱伝」)。
郭嘉も同様に張飛・関羽は共に1万の兵に匹敵するとし、劉備の為に死を以て働いていると評した(『傅子』)。
董昭は関羽・張飛は劉備の羽翼であり恐れるべきであると評した(『三国志』魏志「董昭伝」)。
章武元年(221年)、劉備が呉に報復を行うかを曹丕(文帝)が臣下に諮った際に、臣下は「蜀は小国で、名将と呼べるのは関羽一人でございました(その関羽と荊州を失った以上、蜀には戦う力が無いので、報復など行えない)」と答えている(『三国志』魏志「劉曄伝」)。また、同じ劉曄伝には「勇三軍に冠とする将たり」ともある。
『傅子』には、張飛と共にその武勇と義は、天下に知れ渡っており、諸葛亮と合わせに人傑であって、この三人が劉備を助けているのだから蜀を平定できないわけがないと語られている。
また周瑜は関羽を張飛と共に熊虎之将であり、劉備から切り離し自らが使わしめば、大事を定めることも可能であるとした(『三国志』呉志「周瑜伝」)。
袁準は張飛と共に劉備を支え爪牙となった腹心の武人であるとした(『袁子』)。
一方、廖立からは「(荊州を攻めるに当たって)自分の勇名を恃んで猪突猛進したため、前後の戦役(青泥・樊城・夷陵)でたびたび兵を失う原因となった」と批判された。
三国志演義では
小説『三国志演義』では、身の丈9尺(後漢から三国時代の尺度で約216cm)、2尺(約48cm)の髭、「熟した棗(=なつめ)の実のような」と形容される紅顔で重さ82斤(後漢から三国時代の尺度で約18kg)の青龍偃月刀(冷艶鋸:れいえんきょ)と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っている。主人公的存在だけあって、史実に比べ活躍は非常に華々しいものとなっており、たとえば、
- 董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話
- 張遼に説得され曹操へと投降する際に3つの条件を出す。
- 曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に手形がなかったことから見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話(五関突破)
- 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話
など、講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられている。
名馬赤兎については呂布の死後曹操が持っており、降伏した関羽の心を得るべく譲ったことになっている。曹操からの贈り物は二夫人への贈り物を含め全て封印した関羽であるが、「この馬は一日に千里を駆けると知っております。今幸いにこれを得たならば、もし兄者(劉備)の行方が知れました時、一日にして会う事が出来ましょうぞ」として唯一これを受け取り、以降は関羽の愛馬として活躍する。
また、養子として関平が、次男として関興、三男として関索が出てくる。正史によれば、関平は実子。関興は諸葛亮にその才能を評価されていたものの二十数歳で亡くなっている。関索に至っては正史やその註にも一切記載が無く、後世に作られた伝承「花関索伝」の登場人物を流用したもので、実在しない人物だと考えられる。
赤壁の戦いに敗走した曹操を華容で待ち伏せるが、憔悴した曹操を見兼ねて旧恩により見逃す。このことを諸葛亮に咎められ死罪を言い渡されるが、玄徳のとりなしで事なきを得ている。
死後に呂蒙を呪い殺すとされているが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、また非現実的であることなどから近年では削除される事もある。その場面によると孫権は関羽を処刑した後、祝宴を開いて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に親しく杯を渡す。呂蒙は恭しく杯を受け取るが、突然その杯を地面に叩きつけるなり、孫権の胸倉を掴んで押し倒し「青い眼の小童よ、拙者が誰か解るか」「我こそは関雲長なり」と大喝。祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると、呂蒙はばったりと倒れ、全身の穴という穴から死ぬことになる。関羽の魂が乗り移ったように描かれている。またその首を贈られた曹操が戯れに「お変わりありませんでしたかな?」と声をかけると眼と口を開いて睨み付け曹操を驚かせた。その後、曹操は関羽の亡霊を恐れ衰弱し病死したとも語られている。
また関羽が斬首された後、その霊が玉泉山の普浄という僧の前に、同じくして死んだ関平と周倉、それに家臣の霊と共に現れ、呉や呂蒙に対する恨みを綴るが普浄の説得により成仏する、という話もある。普浄という人物は話によっては、関羽を以前助けた人物だとも、関羽が死んでから百年後にいた人物だとも言われており、存在した年代がはっきりしておらず、フィクションなのか実在したのかさえもわからない。
死後の関羽と関羽信仰
六朝時代の道教における、神格化された人間の一覧『真霊位業図』には曹操・劉備はいるが、関羽はいない。六朝時代ではまだ関羽の評価は固まっていなかった証拠といえる。北宋期『漢天師世家』で張天師が関羽を呼び出す話があり、この頃には人間に呼び出される程度の扱いであった。明初に書かれたとされる『道法会元』には「関元帥」と記されており、この時点でかなりの地位の向上がある。その後に「協天大帝関聖帝君」として神格化された。神格化されたのは仏教よりも後なのは確かである。
その仏教では唐代の『荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記』に、隋代の智顗禅師の元に関羽が現れて、僧坊を提供し守護神となったとする話が載り、南宋期に書かれた『仏祖統紀』には智顗禅師の元に関羽の霊が訪れ、仏法に帰依したいと請われた禅師が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神(伽藍菩薩)」に封じたとしている。現在では「関帝菩薩」とも呼ばれている。
儒教では五文昌の一人「文衡聖帝」とされて、「山西夫子」と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。
政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の徽宗皇帝が爵諡の「忠恵公」後に「武安王」として封じ、「崇寧真君」とした。その後、南宋期には「義勇武安王」とされたと伝わる。明初には神号「協天護国忠義関聖大帝」とされてから、熹宗皇帝が「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じ、清代に入ると順治帝が「忠義神武関聖大帝」として、後に宣統帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」と次々と追贈している。多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお、清朝が公認した関帝信仰は、満州を劉備、蒙古を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった(徐珂『清稗類鈔』、喪祭類「以祀関羽愚蒙」)。
同時に、清代には県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が中華人民共和国初期に多数破壊された結果、現在では関帝廟が単独で多く各地に残る結果となっている。
一方、民衆の人気も高く、各地の中華街には関帝廟が建立されており、日本においては横浜中華街と神戸南京町の関帝廟が著名である。『水滸伝』には関羽の子孫である関勝が、銭彩原『説岳全伝』には関勝の子関鈴がそれぞれ登場する。また民間伝承では玉帝に比する「左玉皇」とされていて、「関恩主」とも敬称される。なお、民間では関帝の聖誕日を5月13日 (旧暦)もしくは6月24日 (旧暦)としており、台湾では旧暦6月24日に祭りが行われる。
関羽のプロフィールについても、民間伝説により補完されている。銭静方『小説叢考』は、清代に「発見された」関羽の墓碑なるものを根拠に、関羽の生年を延熹3年6月24日とし、父の名は関毅、妻は胡氏[26]であるとする。さらに関平を関羽の実子とし、光和元年に生まれたとする。
中国聯合準備銀行が1938年から1945年まで発行していた10元紙幣に肖像が採用されていた。
京劇における関羽
京劇での関羽役は、主な四つのキャラクターのうちの生(Sheng、ション=男役の総称。男役の中でも武人・英雄などは「武生(ウーション)」と細分化して呼ばれる)に分類されるが、特に「紅生」と呼ばれ、専門の役者が演じる。顔は造作の線を除いて、忠義を示す赤一色に塗り、完璧な忠義を表現する。
その一方、関羽を演じる役者は、化粧のとき故意にその顔に黒子や黒い線をつけるなど、完璧なくまどりになることを避ける。これは神として扱われる存在に対して、劇中の関羽は人間の行う模倣であり、関帝そのものではないと言う、京劇関係者の関羽に対する礼儀と遠慮を表すための伝統である。
脚注
- ^ 『三国志』呉志「呉主伝」
- ^ 出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、そのため塩の密売に関っていたという伝説もある。また、地元・山西省の伝承によると、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗ったともいわれる(今泉恂之介『関羽伝』)。
- ^ 山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといわれている(前掲、今泉『関羽伝』)。
- ^ 『魏書』によると、関羽が徐州を治めたという。
- ^ 漢寿亭は曹操の支配の及ばない荊州武陵郡にあり、名目的なものだった。三国時代は呉の支配下にあったため、「呉寿」と改称され、西晋で「漢寿」に戻された。蜀漢の漢寿は益州広漢郡の葭萌県を改称したもので、別の地名。
- ^ 実際は襄陽には楽進が駐屯しており、関羽は赴任していない
- ^ 『三国志』蜀志「先主伝」によると、劉備の牙爪となる武臣として、張飛・馬超と共に関羽の名がその筆頭にあがっている。
- ^ この『三国志』の記述から膨らませたと思われる民間伝承に、「関三小姐(あるいは関銀屏)」の存在がある。彼女はその通称の通り関羽の三女とされ、関羽死後に李恢の子の李遺に嫁いでいる。この説話に基づき、李恢の出身地である建寧郡兪元県(現在の澄江市)には夫婦の墓が存在している。
- ^ 「虎の娘を犬の子にやれるか」との発言が『演義』等に見られるが、正史には見られない。ただし、注に引かれた『典略』によると、孫権は関羽に救援を申し出ていながら、わざとゆっくり兵を進めさせた。そこで関羽は「狢子」と孫権を罵倒したため、孫権は下手に出て陳謝したという。「狢子」は、江東など南方の住人に対する蔑称の一つである。
- ^ この記事を引いた裴松之は、関羽を襲撃した呂蒙は密かに兵を進めたが、援軍を送る約束をしていたならそのようにする必要はなかったとして、この記事の信憑性に疑問を呈している。
- ^ 『三国志』呉志「呉主伝」によると、孫権の側から曹操に対し、関羽を討つ申し出があったこととなっている。
- ^ 『典略』によると、関羽は孫権に援助を出すことを要求し、援助が遅いことに怒りを覚え、孫権の使者を罵倒したこともあったという。関羽#cite_note-6参照。
- ^ 『三国志』呉志「呉主伝」によると閏10月
- ^ 『蜀記』によると、関羽と徐晃は旧知の間柄で、再会して世間話を交わしたという。
- ^ 『三国志』魏志「趙儼伝」
- ^ 『三国志』呉志「呂蒙伝」によると、孫権は朱然と潘璋に命じて関羽の退路を塞がせたとある。また同書「呉主伝」によると、章郷で潘璋の部下の馬忠が関羽・関平・趙累を捕虜としたという。
- ^ 『蜀記』によれば、孫権は関羽を部下として使いたいと考えたところ、側近に「曹操は彼を殺さなかった為に、遷都まで考える事態となった」と進言され、諦めたという記述が残る。だが裴松之は、「正史の記述から、関羽は臨沮で即座に斬殺されており、おそらく江陵に居たであろう孫権に同意を求める事は不可能だろう」と推測している。また、『三国志』呉志「諸葛瑾伝」注によれば、裴松之は「孫権は関羽を討伐した事により、後漢王室の為に尽くすという大義名分は失われた」と評している。
- ^ 「繆」は「武功がならなかった」という意味で、荊州失陥を批判する意味合いになる。「穆」ならば「徳を広め表裏がない」という意味。ただし、程敏政の説によると、「繆」が「穆」の同義として使われたことがあったという。ちくま学芸文庫版の日本語訳では、この説に従い「繆」の字に「ぼく」の振り仮名を振ってある。
- ^ 今泉恂之助 『関羽伝』
- ^ 『新唐書』巻七十五下 宰相世系表
- ^ 『江表伝』
- ^ 『魏志』「龐徳伝」
- ^ 『蜀志』「関羽伝」には「言笑自若(げんしょうじじゃく)」との表現があり、これは「泰然自若」の同義の四字熟語になっている。
- ^ 『季漢輔臣賛』
- ^ 陳壽 (中国語), 三國志/卷36#.E9.97.9C.E7.BE.BD, ウィキソースより閲覧。
- ^ 『花関索伝』では胡金定。
参考資料
- 『三国志』
- 『三国志演義』
参考書籍
- 『正史 三国志5 蜀書』 (陳寿、裴松之 注/井波律子訳、ちくま学芸文庫)ISBN 4480080457
- 『三国志外伝』(湖北省群衆芸術美術館編/立間祥介・岡崎由美訳)
- 『関羽伝』 今泉恂之介、新潮選書、2000年11月、ISBN 978-4106005954
関羽を主題とした作品
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