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「ユニード」の版間の差分

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[[1967年]](昭和42年)、丸栄は、[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]紙屋町2丁目に広島店(のちのユニード広島店)を開店。さらに[[1970年]](昭和45年)には商号を「株式会社ユニード」に変更し、[[大阪府]][[堺市]]に堺東店を開店した。九州各地に加え、中国・近畿にも進出し、当時としては屈指のナショナルスーパーマーケットチェーンに発展、「九州の雄」とまで言われるようになったが、結果的にはこの非効率な出店戦略が後に仇となる。
[[1967年]](昭和42年)、丸栄は、[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]紙屋町2丁目に広島店(のちのユニード広島店)を開店。さらに[[1970年]](昭和45年)には商号を「株式会社ユニード」に変更し、[[大阪府]][[堺市]]に堺東店を開店した。九州各地に加え、中国・近畿にも進出し、当時としては屈指のナショナルスーパーマーケットチェーンに発展、「九州の雄」とまで言われるようになったが、結果的にはこの非効率な出店戦略が後に仇となる。


[[1973年]](昭和48年)には、ショッピングセンター「アピロス」を開発。[[1978年]](昭和53年)には福岡証券取引所に、翌[[1979年]](昭和54年)には大証二部にも上場したが、株価は低迷。この頃には、お膝元である九州では壽屋の後塵を拝する状態となっていた。経営状態も悪化していたものの、毎年2月末の決算で黒字となるように、取引先への過剰な値引き交渉に加え、対価支払を次の決算期に先送りするなどして表面化するのを回避している状態であった。百貨店からナショナルスーパーマーケットへと家業を一代で発展させた渕上栄一であったが、金融機関の後押しもあり、ついに[[1980年]](昭和55年)の暮れ、同業ライバル関係にあったダイエーの[[中内]]と密会し、提携に向けた交渉を始める。
[[1973年]](昭和48年)には、ショッピングセンター「アピロス」を開発。[[1978年]](昭和53年)には福岡証券取引所に、翌[[1979年]](昭和54年)には大証二部にも上場したが、株価は低迷。この頃には、お膝元である九州では壽屋の後塵を拝する状態となっていた。経営状態も悪化していたものの、毎年2月末の決算で黒字となるように、取引先への過剰な値引き交渉に加え、対価支払を次の決算期に先送りするなどして表面化するのを回避している状態であった。百貨店からナショナルスーパーマーケットへと家業を一代で発展させた渕上栄一であったが、金融機関の後押しもあり、ついに[[1980年]](昭和55年)の暮れ、同業ライバル関係にあったダイエーの[[中内]]と密会し、提携に向けた交渉を始める。


== ダイエーとユニードの統合 ==
== ダイエーとユニードの統合 ==
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一方のユニードは、ダイエーグループ入りのきっかけとなった経営不振を試算した結果、[[1981年]](昭和56年)2月末時点で10億円もの赤字が出ることが判明した。従来のからくりでは黒字化できない額でありこのままでは上場以来初の赤字決算となってしまうこと、ダイエーとの統合をユニードにとって少しでも有利にしたいとの思いなどから、ユニードは、ある“奇策”を実行する。それは、外商で赤字を解消するというものであった。それまでのユニードは、テレビやエアコンなど、単価が高く「一家に一台」の商品を外商販売の主力としてきた。しかし、これで10億円の利益を得るのは困難であると予想された。そのとき、[[長崎屋]]がフランスベッドの羽毛布団を1年間で10億円売り上げたことをヒントに、ユニードは、単価が低く「一人に一枚」の羽毛布団を外商販売の主力とし、フランスベッドと協力して、[[1981年]](昭和56年)の1月と2月の2か月間で20億円売り上げることを決めた(この20億円は、納入価格を定価の50%として20億円売り上げることで、その50%である10億円がユニードの利益となるものである)。各店舗間で、売上額を競争させたり、販売手法を伝授しあったりした結果、実際に2か月間で21億円以上を売り上げることに成功した。
一方のユニードは、ダイエーグループ入りのきっかけとなった経営不振を試算した結果、[[1981年]](昭和56年)2月末時点で10億円もの赤字が出ることが判明した。従来のからくりでは黒字化できない額でありこのままでは上場以来初の赤字決算となってしまうこと、ダイエーとの統合をユニードにとって少しでも有利にしたいとの思いなどから、ユニードは、ある“奇策”を実行する。それは、外商で赤字を解消するというものであった。それまでのユニードは、テレビやエアコンなど、単価が高く「一家に一台」の商品を外商販売の主力としてきた。しかし、これで10億円の利益を得るのは困難であると予想された。そのとき、[[長崎屋]]がフランスベッドの羽毛布団を1年間で10億円売り上げたことをヒントに、ユニードは、単価が低く「一人に一枚」の羽毛布団を外商販売の主力とし、フランスベッドと協力して、[[1981年]](昭和56年)の1月と2月の2か月間で20億円売り上げることを決めた(この20億円は、納入価格を定価の50%として20億円売り上げることで、その50%である10億円がユニードの利益となるものである)。各店舗間で、売上額を競争させたり、販売手法を伝授しあったりした結果、実際に2か月間で21億円以上を売り上げることに成功した。


[[1981年]](昭和56年)5月23日、[[公正取引委員会]]は、ユニードと九州ダイエーとの合併について「[[独占禁止法]]違反」との見解を示した。これは、合併後の販売額シェアが福岡県内と長崎県内において25%を超えることが分かったためとして、25%を超えないように一部店舗を他社へ譲渡するか、ダイエーが(合併後の)ユニード株を保有する率を引き下げることを要求したものであった。これに対しダイエーの[[中内]]社長は、シェア25%で区分する理由が不明確であり、将来的に流通業界再編を阻害する要因になりかねないとして抵抗しつつも、合併を計画どおり進めるために、合併自体は計画どおり行うが合併後にダイエーがユニード株を一部売却することを表明したうえで、[[1981年]](昭和56年)6月10日に合併契約書に正式調印した。また、ユニードは合併前、[[イオン (企業)|ジャスコ(現:イオン)]]・[[ユニー]]・[[イズミヤ]]・[[忠実屋]]と、仕入れや開発を共同で行う会社[[アイク (卸売)|アイク]]を設立しグループを形成していたが、合併を機にアイクグループを離脱することになった<ref group="注釈">2007年3月にダイエー・[[丸紅]](当時のダイエー筆頭株主)・イオンとの間で資本業務提携が交わされた事により旧「ユニード」並びに旧「忠実屋」店舗へのアイク(2013年9月に[[イオントップバリュ]]に商号変更)からの商品供給が復活した。</ref>。
[[1981年]](昭和56年)5月23日、[[公正取引委員会]]は、ユニードと九州ダイエーとの合併について「[[独占禁止法]]違反」との見解を示した。これは、合併後の販売額シェアが福岡県内と長崎県内において25%を超えることが分かったためとして、25%を超えないように一部店舗を他社へ譲渡するか、ダイエーが(合併後の)ユニード株を保有する率を引き下げることを要求したものであった。これに対しダイエーの[[中内]]社長は、シェア25%で区分する理由が不明確であり、将来的に流通業界再編を阻害する要因になりかねないとして抵抗しつつも、合併を計画どおり進めるために、合併自体は計画どおり行うが合併後にダイエーがユニード株を一部売却することを表明したうえで、[[1981年]](昭和56年)6月10日に合併契約書に正式調印した。また、ユニードは合併前、[[イオン (企業)|ジャスコ(現:イオン)]]・[[ユニー]]・[[イズミヤ]]・[[忠実屋]]と、仕入れや開発を共同で行う会社[[アイク (卸売)|アイク]]を設立しグループを形成していたが、合併を機にアイクグループを離脱することになった<ref group="注釈">2007年3月にダイエー・[[丸紅]](当時のダイエー筆頭株主)・イオンとの間で資本業務提携が交わされた事により旧「ユニード」並びに旧「忠実屋」店舗へのアイク(2013年9月に[[イオントップバリュ]]に商号変更)からの商品供給が復活した。</ref>。


[[1981年]](昭和56年)9月1日、ユニードと九州ダイエーが合併した(合併比率は1:1、存続会社はユニード、資本金は21億4000万円)。当初は、ユニード店と旧ダイエー店とでそれぞれ従来どおりの営業であったが、少しずつ、ダイエーの手法に一本化されていった。合併以後に開店した店舗は、しばらくは「ユニード」や「アピロス」で開店されたが、これらも、既存店舗ともども、ダイエー式の「ダイエー」「[[ショッパーズプラザ|ショッパーズ]]」さらには「[[グルメシティ]]」「[[トポス (ディスカウントストア)|トポス]]」などに改称されていった。そして、株式会社ユニード自体も、合併から10年となる[[1991年]](平成3年)9月1日に株式会社ユニードダイエーに改称されたのち、[[1994年]](平成6年)に、ダイナハや忠実屋とともにダイエーに吸収合併され、消滅した。
[[1981年]](昭和56年)9月1日、ユニードと九州ダイエーが合併した(合併比率は1:1、存続会社はユニード、資本金は21億4000万円)。当初は、ユニード店と旧ダイエー店とでそれぞれ従来どおりの営業であったが、少しずつ、ダイエーの手法に一本化されていった。合併以後に開店した店舗は、しばらくは「ユニード」や「アピロス」で開店されたが、これらも、既存店舗ともども、ダイエー式の「ダイエー」「[[ショッパーズプラザ|ショッパーズ]]」さらには「[[グルメシティ]]」「[[トポス (ディスカウントストア)|トポス]]」などに改称されていった。そして、株式会社ユニード自体も、合併から10年となる[[1991年]](平成3年)9月1日に株式会社ユニードダイエーに改称されたのち、[[1994年]](平成6年)に、ダイナハや忠実屋とともにダイエーに吸収合併され、消滅した。

2020年7月11日 (土) 10:11時点における版

ダイエー > ユニードダイエー
株式会社ユニードダイエー
Uneed Daiei Co., Ltd.

ユニードダイエー時代のロゴ

「くらしの夢を育てる」時代のロゴ
種類 株式会社(1994年3月1日付で消滅)
市場情報
大証2部(廃止) 8272
1979年9月1日 - 1994年2月22日

福証 8272
1978年10月 - 1994年2月
略称 ユニード、ユニダイ
本社所在地 日本の旗 日本
福岡県福岡市博多区祇園町7番20号
本店所在地 福岡県福岡市博多区祇園町7番20号
(渕上店、本社と同じ)
設立 1958年(昭和33年)8月14日(株式会社 丸栄)
業種 小売業
事業内容 スーパーマーケットの経営及び指導、不動産の賃貸
代表者 亀山博光(代表取締役社長)
宗兼浩(代表取締役副社長)
支店舗数 渕上店含む68店舗
決算期 2月
関係する人物 渕上久三郎(渕上呉服店創業者)
渕上栄一(株式会社 渕上呉服店創設者)
特記事項:1994年に消滅する時点での社名・内容で記述。
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株式会社ユニードダイエー: Uneed Daiei Co., Ltd.)は、かつて存在したスーパーマーケット

名前の由来は、"You Need"とも言われているが、「Unity」(統一)と「Need」(必要)を合わせたもの。九州を中心に、西日本各地にチェーン展開していた。

1981年(昭和56年)にダイエーグループに参入後、株式会社ユニードダイエーに社名変更するも1994年(平成6年)にダイエーに吸収合併され、消滅した。

概要

  • 九州の人々の間では今でもダイエーのことを「ユニード」や「渕上」、「渕上ユニード」または「アピロス」と呼ぶ習慣が存在する。本項目では「渕上」及び「アピロス」の事や、株式会社ユニード時代についても説明する。
  • 本店所在地は、福岡県福岡市博多区祇園町7-20。ルーツである渕上百貨店のあった場所である。設立は1958年(株式会社丸栄)で、証券コードは8272(大証2部(現・東証2部)・福証)。

沿革

ユニード時代の大規模小売店舗表示板
イオン下大利店にて撮影)
  • 1895年明治28年) - 初代渕上久三郎が、呉服雑貨商「渕上商店」を福岡市に創業。二代目徹郎が継承し家業を確立。
  • 1947年昭和22年) - 戦時中の企業整理を経て、再度開店。
  • 1950年(昭和25年) - 株式会社渕上呉服店を設立。代表取締役に渕上栄一が就任。実弟の亀之助・禮藏も協力。
  • 1953年(昭和28年) - 百貨店事業を始めるため、株式会社渕上に商号変更。
  • 1958年(昭和33年) - 労働争議をきっかけに、株式会社丸栄を設立し福岡市西新に1号店(後のユニード西新店→トポス西新店→ダイエー西新店→イオン西新店)を開店。スーパーマーケットのチェーン展開を開始。
  • 1963年(昭和38年) - 渕上百貨店が火災で焼失。
  • 1965年(昭和40年)10月21日 - 1963年(昭和38年)に焼失した渕上百貨店跡地に、丸栄を開店[注釈 1]。これで、渕上一族の経営基盤が、百貨店からスーパーマーケットに完全シフトしたことになる。
  • 1970年(昭和45年) - 株式会社丸栄を株式会社ユニードに商号変更。堺東店の開店を皮切りに、関西にも進出。
  • 1973年(昭和48年) - ショッピングセンター「アピロス」の1号店を香椎に開店(のちのダイエー香椎駅前店)。
  • 1978年(昭和53年)
    • 日付不明 - ユニード、福岡証券取引所に上場。
    • 日付不明 - ユニードの呉服売場を、新設の株式会社ゆう苑(現:渕上ファインズ)に譲渡。
  • 1979年(昭和54年) - ユニード、大阪証券取引所2部に上場。
    • 10月 - スーパーマーケットと百貨店の中間業態店舗「熊本城屋」を開業。ユニードが出資したが、ユニード直営ではなく株式会社熊本城屋の運営とした。(のちに城屋ダイエーに改称後、1995年(平成7年)9月1日にダイエー熊本下通店に業態転換)
  • 1981年(昭和56年)
    • 2月21日 - 熊本城屋の資本金を1億円から10億円に増資。うち5億円をダイエーが出資し、残りをユニードが出資することで、熊本城屋はユニードとダイエーの折半同額出資となった。
    • 日付不明 - フランスベッドと協力し、2か月間の外商で布団を21億円売り上げる。
    • 日付不明 - 株式会社都チェーンストア(アパレル企業。現:株式会社ミヤコ。CDショップのミヤコとは無関係)と提携(1991年に提携解消)。
    • 日付不明 - 株式会社ゆう苑に婚礼衣裳部門を譲渡。
    • 9月1日 - 株式会社九州ダイエーを合併。ダイエーグループになり、この時点での商号は「株式会社ユニード」のままであったが、マークはダイエーと同じマークになった。
  • 1987年(昭和62年)5月 代表取締役社長が、創業者の渕上栄一から、ダイエー出身の平山敞に交代。
  • 1990年平成2年) - ユニード元社長渕上栄一・副社長渕上亀之助・専務渕上禮藏の3兄弟が、財団法人渕上育英会を設立(創業者渕上一族の、ユニードからの事実上の離脱)。
  • 1991年(平成3年)
    • 5月 - 亀山博光が代表取締役社長に就任。
    • 9月1日 - 「株式会社ユニードダイエー」に商号変更。
  • 1994年(平成6年) - 株式会社忠実屋・株式会社ダイナハと共に株式会社ダイエーに吸収合併。
  • 2004年(平成16年)11月 - 「株式会社ユニードダイエー友の会」が解散。
  • 2005年(平成17年)10月31日 - ダイエーにより、グルメシティ渕上店(渕上百貨店跡地のユニード本店から改称)が閉店。
  • 2006年(平成18年)11月10日 - 東京建物が、グルメシティ渕上店跡地をダイエーから約50億円で購入。建物解体後、約2,800平方メートルの敷地にオフィスビルを新築して、グルメシティが入居する。
  • 2009年(平成21年)3月1日 - 渕上店跡にダイエーグルメシティ博多祇園店が開業。
  • 2015年(平成27年)9月1日 - ダイエーが運営するダイエー店舗24店舗をイオンストア九州[注釈 2]、ダイエー1店舗とグルメシティ13店舗をマックスバリュ九州へ移管、店舗ブランドを「イオン」と「マックスバリュ」および「ザ・ビッグ」へ変更。
  • 2016年(平成28年)
    • 3月1日 - 本州で唯一残った旧ユニード店のダイエー富雄店をイオンリテールへ移管。3月27日迄はダイエーとして営業、2日間の臨時休業を経て3月30日にイオン富雄店に名称を変更した。
    • 5月31日 - イオン九州により、丸栄→ユニードの第1号店であるイオン西新店が老朽化のためこの日を以て閉店、58年の歴史に幕を下ろした。
  • 2017年(平成29年)
    • 2月28日 - イオン九州により、丸栄→ユニード→ダイエー→イオンで営業を続けてきたイオン銅座店(旧ユニード長崎店。長崎県長崎市)が、老朽化のためこの日を以て閉店、47年間の歴史に幕を下ろした。
  • 2019年(令和元年) 10月31日 - イオンリテールにより営業を続けてきた本州で唯一残っていた旧ユニード店のイオン富雄店が閉店、46年の歴史に幕を下ろした。
  • 2020年(令和2年)5月31日 - イオン九州により営業を続けてきた、旧ユニード店のイオン島原店が建て替えのため閉店、47年の歴史に幕を下ろした。

渕上ユニードの発展

戦後、渕上百貨店から、スーパーマーケット業に転換し始めたのは、労働争議によると言われている。そごう三越などと同様に、もともと呉服店や衣料品店だったものを百貨店に転換した渕上であったが、一方で、戦後のこの時期にスーパーマーケット業態が成長し始めており、のちにイオンとなる岡田屋やフタギ洋品店、あるいはイトーヨーカドーが呉服店や衣料品店からスーパーマーケットに転換していくように、渕上は、スーパーマーケット業に参入するようになる。

1958年(昭和33年)、株式会社丸栄を設立し、福岡市西新町に第1号店となる西新店を開店した(後のダイエー→イオン西新店)。これを機に、渕上一族は、スーパー丸栄の店舗を少しずつ増やしていった。この時点では、渕上一族は「渕上・丸栄グループ」、すなわち、百貨店「渕上百貨店」を経営する株式会社渕上と、スーパーマーケットチェーン「丸栄」を経営する株式会社丸栄との2本立てで経営を行っていた。しかし、1963年(昭和38年)に渕上百貨店が大火災に見舞われ焼失、さらには、1964年(昭和39年)に博多駅ビルに大光百貨店を開店したもののほどなく撤退することになった。1965年(昭和40年)、渕上百貨店跡地に、渕上百貨店の再建ではなく、スーパーマーケットの丸栄を開店した。明治に呉服店として創業し百貨店に転換した流れはここで終わり、のちに「ユニード」と改称してナショナルチェーンへと発展していくスーパーマーケット丸栄に一本化される。

1967年(昭和42年)、丸栄は、広島市中区紙屋町2丁目に広島店(のちのユニード広島店)を開店。さらに1970年(昭和45年)には商号を「株式会社ユニード」に変更し、大阪府堺市に堺東店を開店した。九州各地に加え、中国・近畿にも進出し、当時としては屈指のナショナルスーパーマーケットチェーンに発展、「九州の雄」とまで言われるようになったが、結果的にはこの非効率な出店戦略が後に仇となる。

1973年(昭和48年)には、ショッピングセンター「アピロス」を開発。1978年(昭和53年)には福岡証券取引所に、翌1979年(昭和54年)には大証二部にも上場したが、株価は低迷。この頃には、お膝元である九州では壽屋の後塵を拝する状態となっていた。経営状態も悪化していたものの、毎年2月末の決算で黒字となるように、取引先への過剰な値引き交渉に加え、対価支払を次の決算期に先送りするなどして表面化するのを回避している状態であった。百貨店からナショナルスーパーマーケットへと家業を一代で発展させた渕上栄一であったが、金融機関の後押しもあり、ついに1980年(昭和55年)の暮れ、同業ライバル関係にあったダイエーの中内㓛と密会し、提携に向けた交渉を始める。

ダイエーとユニードの統合

ダイエーは、ユニードとの統合以前に、1963年(昭和38年)、株式会社フクオカダイエーを設立して、福岡市天神を皮切りに九州に進出した。1969年(昭和44年)にフクオカダイエーをダイエーに吸収合併して以後は、九州地区のダイエーも株式会社ダイエーが直轄営業していたが、1980年(昭和55年)11月に株式会社九州ダイエーを設立。これは、九州地区のダイエーを、「(ダイエーグループの)株式会社ユニード」のもとで営業させるための準備であったとされる。1981年(昭和56年)5月に九州地区のダイエーは九州ダイエーに譲渡された。なお、この九州ダイエーは、九州スーパーマーケットダイエー(後のグルメシティ九州。現在はダイエー本体に吸収合併され消滅)とは関係ない。

一方のユニードは、ダイエーグループ入りのきっかけとなった経営不振を試算した結果、1981年(昭和56年)2月末時点で10億円もの赤字が出ることが判明した。従来のからくりでは黒字化できない額でありこのままでは上場以来初の赤字決算となってしまうこと、ダイエーとの統合をユニードにとって少しでも有利にしたいとの思いなどから、ユニードは、ある“奇策”を実行する。それは、外商で赤字を解消するというものであった。それまでのユニードは、テレビやエアコンなど、単価が高く「一家に一台」の商品を外商販売の主力としてきた。しかし、これで10億円の利益を得るのは困難であると予想された。そのとき、長崎屋がフランスベッドの羽毛布団を1年間で10億円売り上げたことをヒントに、ユニードは、単価が低く「一人に一枚」の羽毛布団を外商販売の主力とし、フランスベッドと協力して、1981年(昭和56年)の1月と2月の2か月間で20億円売り上げることを決めた(この20億円は、納入価格を定価の50%として20億円売り上げることで、その50%である10億円がユニードの利益となるものである)。各店舗間で、売上額を競争させたり、販売手法を伝授しあったりした結果、実際に2か月間で21億円以上を売り上げることに成功した。

1981年(昭和56年)5月23日、公正取引委員会は、ユニードと九州ダイエーとの合併について「独占禁止法違反」との見解を示した。これは、合併後の販売額シェアが福岡県内と長崎県内において25%を超えることが分かったためとして、25%を超えないように一部店舗を他社へ譲渡するか、ダイエーが(合併後の)ユニード株を保有する率を引き下げることを要求したものであった。これに対しダイエーの中内㓛社長は、シェア25%で区分する理由が不明確であり、将来的に流通業界再編を阻害する要因になりかねないとして抵抗しつつも、合併を計画どおり進めるために、合併自体は計画どおり行うが合併後にダイエーがユニード株を一部売却することを表明したうえで、1981年(昭和56年)6月10日に合併契約書に正式調印した。また、ユニードは合併前、ジャスコ(現:イオン)ユニーイズミヤ忠実屋と、仕入れや開発を共同で行う会社アイクを設立しグループを形成していたが、合併を機にアイクグループを離脱することになった[注釈 3]

1981年(昭和56年)9月1日、ユニードと九州ダイエーが合併した(合併比率は1:1、存続会社はユニード、資本金は21億4000万円)。当初は、ユニード店と旧ダイエー店とでそれぞれ従来どおりの営業であったが、少しずつ、ダイエーの手法に一本化されていった。合併以後に開店した店舗は、しばらくは「ユニード」や「アピロス」で開店されたが、これらも、既存店舗ともども、ダイエー式の「ダイエー」「ショッパーズ」さらには「グルメシティ」「トポス」などに改称されていった。そして、株式会社ユニード自体も、合併から10年となる1991年(平成3年)9月1日に株式会社ユニードダイエーに改称されたのち、1994年(平成6年)に、ダイナハや忠実屋とともにダイエーに吸収合併され、消滅した。

なお、1987年(昭和62年)には、創業者の渕上栄一が代表取締役社長を退任し、代わりにダイエー出身の平山敞が就任した。ユニード社長を4年間務めた平山は、ダイエーの手法を導入しつつユニードの経営を立て直した人物として語られることもある(平山は1991年(平成3年)、中内功が自身の後継を模索する中でダイエーの代表職を身内で固める人事の末にダイエーを追放され独立するが、その後、中内の退任した2001年(平成13年)に代表取締役副社長としてダイエーに戻りダイエーの経営再建を手がけているほか、数々の企業の経営再建実績がある)。

1988年(昭和63年)10月の、プロ野球南海ホークス買収も、当初はユニードが有力買収先と報じられ、福岡ユニードダイエーホークスとなる予定だったが、最終的にはダイエーが買収し、福岡ダイエーホークスとなった。これは、ユニードが経営難だった為である。

渕上一族のユニードからの離脱

渕上一族にとっては、自ら開業したユニードをダイエーに事実上奪われる結果となった。それでも社長の渕上栄一をはじめ一族はけっして代表権を返上せず、あくまで「渕上ユニード」を維持し続けたが、それにも限界があった。

ユニードがダイエーと提携を始める以前の1978年(昭和53年)には、ユニード店内にあった呉服売場を「株式会社ゆう苑」として分離独立させていた。しかしユニードのダイエー後は、渕上のルーツが呉服商だったこともあり、ゆう苑が渕上一族の商売の拠り所になっていく。

1990年(平成2年)、渕上栄一・亀之助・禮藏の3兄弟が財団法人渕上育英会を設立。このとき3人ともユニードを離れており、同財団法人はユニードではなくゆう苑の関連として設立されている。

現在、渕上一族が携わっている法人は、次の企業である。

  • 株式会社渕上ファインズ
  • 株式会社彩苑
  • 株式会社渕上コミュニティ

なお、ゆう苑設立時の主力事業であったきもの宝飾部門(1978年(昭和53年)にユニードから譲り受けた呉服売場と、1980年(昭和55年)に開始した宝石部門)については、2004年(平成16年)に株式会社九州さが美(後の株式会社白水)に譲渡している。

渕上・丸栄→ユニードの出店

徳力アピロス(2009年閉店)閉店まで「アピロス」の名前が残った最後の店舗。建物の建替え後、2011年頃再出店予定であったが紆余曲折の末2012年秋にサンリブが出店することとなった。
ダイエー福重店(旧福重アピロス)
2015年9月にイオン福重店へ名称を変更した。
マックスバリュエクスプレス博多祇園店
(旧ユニード本店・ダイエー渕上店・ダイエーグルメシティ博多祇園店)
旧:ダイエー別府店。鉄道高架下という制約があるためにユニード時代からあまり改装されていない店舗であった。
ダイエー西新店。現存では最古の店舗。
2015年9月にイオン西新店へ名称を変更した。
2016年5月31日閉店

ここでは、1981年(昭和56年)8月31日以前にフクオカダイエー、ダイエー、九州ダイエーが開店した店舗は含んでいない。

☆は「イオン」として、★は「マックスバリュ」として○は「ザ・ビッグ」として現存している店舗(2016年6月現在)。

  • 1895年(明治28年):渕上商店創業(→1953年(昭和28年)から渕上百貨店。1963年(昭和38年)に火災焼失)
  • 1958年(昭和33年):西新店(スーパー丸栄の第1号店→1967年(昭和42年)改築→ユニード西新店→トポス西新店→ダイエー西新店→2015年(平成27年)にイオン西新店へ名称変更)
  • 1960年(昭和35年):久留米店
  • 1961年(昭和36年):小倉店
  • 1963年(昭和38年):若松店
  • 1964年(昭和39年):天神店(ダイエーの天神店とは無関係、1975年(昭和50年)閉店)、熊本駅前店、黒崎店、大光百貨店(後の博多井筒屋)、箱崎店
  • 1965年(昭和40年):本店(→ダイエー渕上店→ダイエーグルメシティ渕上店→2005年(平成17年)に改築のため一時閉店→2009年(平成21年)よりダイエーグルメシティ博多祇園店→2015年(平成27年)にマックスバリュ博多祇園店へ名称変更★・渕上百貨店跡)
  • 1966年(昭和41年):大分店(1975年(昭和50年)閉店)、熊本上通店
  • 1967年(昭和42年):蓑島店、別府店[注釈 4][1]、佐賀店、広島店(中国地方に進出)
  • 1968年(昭和43年):下関店、佐世保店、八代店、岩国店(1975年(昭和50年)閉店)
  • 1969年(昭和44年):長崎店(→銅座店☆、現在のイオン長崎店とは別)、岡山店
  • 1970年(昭和45年):堺東店(関西に初進出、1973年(昭和48年)閉店)、大牟田店
  • 1971年(昭和46年):八幡店(八幡丸物百貨店からのリニューアル)、鶴見橋店(大阪、閉店・跡地にスーパーはやしが出店)
  • 1972年(昭和47年):朝日ヶ丘店、久留米国鉄駅前店(→JR久留米駅前店)、三萩野店★、諫早店、雑餉隈店★
  • 1973年(昭和48年):富雄店(奈良、現イオン富雄店)☆、島原店☆、香椎アピロス
  • 1974年(昭和49年):アピロス二日市店(現イオン二日市店)☆、伊万里店、宮崎店(後にアピロス宮崎店)、井尻店★、アピロス日向店、友泉亭店
  • 1975年(昭和50年):屋形原店
  • 1976年(昭和51年):アピロス野間店、岡南店(岡山)
  • 1977年(昭和52年):古賀店、直方店、遠賀川店
  • 1978年(昭和53年):春日店(アピロス春日)、野芥店☆(2013年12月7日GC野芥店から改称)、日田店☆、門司店、昇町店
  • 1979年(昭和54年):オオツカ筑後店、三田川店、上白水店★、湯町店、周船寺店、今宿店、野方店、アピロス東郷店、大川店、南庄店、有田店、熊本城屋→(ダイエー熊本下通店
  • 1980年(昭和55年):福間店、相生店、徳力アピロス2009年(平成21年)に閉店・跡地にはサンリブが出店)、篠栗店
  • 1981年(昭和56年):鞍手店、舞松原店、荒江店、原田店、ダイコー宮田店、湯布院店★、ホームセンター麦野店(→GC麦野店→南福岡店★(1999年(平成11年)改称))
  • 1982年(昭和57年):基山店、三筑店○、曙店、健軍店、Fバーンズ安徳店、アピロス春日店
  • 1983年(昭和58年):小笹店、大橋店★、甘木店、Fバーンズ八女店、ショッパーズ六ッ門店アピロス水巻店☆、福重アピロス
  • 1987年(昭和62年):ダイエー下大利店(現イオン下大利店)☆(以後、ユニード○○店ではなくダイエー○○店で開店する)

店名の別称

店舗によっては、別称として「(ユニード)○○ショッピングバザール」[注釈 5]という店名表記を用いていたところもある。この表記が用いられた店舗の大半は、建物が2階建て以上の中・大規模店舗。現在この表記は使われていないが、大規模小売店舗法での届出名や登記の名義が変更されないまま更新(承継)されているものも少なくなく、現在も当該自治体の公告などでこの表記を確認することができる。

☆は「イオン」として、★は「マックスバリュ」として現存している店舗。

奈良県

  • 富雄ショッピングバザール(ユニード富雄店→ダイエー富雄店→イオン富雄店[2]

広島県

  • 広島ショッピングバザール[2]

山口県

  • 下関ショッピングバザール[3]

福岡県

  • 野芥ショッピングバザール(野芥店☆)[4]
  • 香椎ショッピングバザール(香椎店)[4]
  • 箱崎ショッピングバザール(箱崎店)[4]
  • 松崎ショッピングバザール(松崎店)[4]
  • 西新ショッピングバザール(ユニード西新店→トポス西新店→ダイエー西新店→イオン西新店)[5]
  • ショッピングバザール西新ハウジング(西新店の住関連商品部門と思われる)[3]
  • ユニード徳力ショッピングバザール(徳力アピロス・徳力店)
  • 小笹ショッピングバザール(グルメシティ小笹店)[6][4]
  • 井尻ショッピングバザール(井尻店★)[4]
  • 安徳ショッピングバザール[4]
  • 雑餉隈ショッピングバザール(雑餉隈店★)[4]
  • 春日ショッピングバザール[4]
  • 二日市ショッピングバザール(二日市店☆)[7]
  • 篠栗ショッピングバザール(篠栗店)[4]
  • 水巻ショッピングバザール(水巻店☆)[8]
  • 久留米ショッピングバザール[2]
  • 久留米駅前ショッピングバザール[3]
  • 東郷ショッピングバザール[4]
  • 三萩野ショッピングバザール(三萩野店★)[9]
  • 八幡ショッピングバザール(八幡店)[9]
  • 朝日ケ丘ショッピングバザール(朝日ケ丘店)[5]
  • 黒崎ショッピングバザール(黒崎店)[2]
  • 小倉ショッピングバザール[3]
  • 大牟田ショッピングバザール(大牟田店)[2]
  • 直方ショッピングバザール(直方店)[2]
  • 甘木ショッピングバザール(甘木店)[2]
  • 大川ショッピングバザール[2]

佐賀県

  • 佐賀ショッピングバザール[2]
  • 伊万里ショッピングバザール(伊万里店)[2]
  • 有田ショッピングバザール(有田店)[2]

長崎県

  • 諫早ショッピングバザール(諫早店)[2]
  • 長崎ショッピングバザール(銅座店☆)[10]
  • 島原ショッピングバザール(島原店☆)[11]
  • 佐世保ショッピングバザール(佐世保店)[2]

熊本県

  • 熊本駅前ショッピングバザール(熊本駅前店)[2]
  • 上通りショッピングバザール[2]
  • 健軍ショッピングバザール[2]
  • 八代ショッピングバザール[2]
  • 芦北ショッピングバザール[2]

大分県

  • 日田ショッピングバザール[2]
  • 別府ショッピングバザール(別府店)[3]

宮崎県

  • 宮崎ショッピングバザール[2]
  • 日向ショッピングバザール[2]

ロゴマーク

スーパー丸栄時代

「丸栄」や「Super Maruei」の表記が使われていた。また当時は、スーパーマーケットの用語が一般化する前で「S.S.D.D.S.」(言葉の意味はこちらを参照 )と業務形態をしていた。

ユニード時代

初代

赤(ややワイン色に近い)をバックに白抜きの文字で「ショッピングバザール ユニード」と書かれていた。太陽をモチーフにしたロゴには、中心に小文字で「un」、外周のコロナに相当する部分はunをイメージしたものが描かれている。

2代目

葉っぱのようなものが右に1枚、左に2枚あるもの。鳥が羽ばたいているようにも見える。この頃のキャッチコピーは、「くらしの夢を育てる」。

3代目(1981年以降)

1981年(昭和56年)以降はダイエーと同じロゴマーク・書体に統一され、店の看板等も順次変更された。

関連企業 

大光百貨店
3代目博多駅の駅ビル博多ステーションビル[注釈 6]の核店舗として渕上家が渕上百貨店や丸栄とは別に立ち上げた百貨店。しかし駅前の発展が未熟だったこと等の要因から売り上げが伸び悩み、わずか4か月弱で撤退してしまった。
関西ユニード
ユニードの関西地区事業会社であったが、1991年(平成3年)10月に富雄店をダイエーに譲渡したうえで、会社は1992年(平成4年)に清算された。
ユニテック総合サービス(施設管理・保険業)
ユニードのダイエーへの吸収合併を前に、1992年(平成4年)9月にダイエーグループの同業社・朝日セキュリティシステムズ(現・ザイマックスビルマネジメント、現在はグループを離脱)と合併した。
株式会社デオニー(家電小売業)
1981年(昭和56年)、ユニードの全額出資で設立され(本社は北九州市)、第一産業(現:エディオン)と事業提携したうえで同年4月にデオニー1号店を小倉に開店。1986年(昭和61年)に第一産業の子会社となる。(前述のデオニー1号店は後に閉店して建物は取り壊され、跡地はしばらく有料駐車場として利用されていたが、その後、再び同地に現在の「デオデオ小倉本店」が出店した。事実上の再出店である)。2001年7月2日に(旧)株式会社デオデオテクノネットを完全子会社化した上で2001年(平成13年)10月1日に同社を吸収合併して株式会社デオデオテクノネットに商号変更。2005年(平成17年)3月31日に株式会社デオデオ(現・株式会社エディオン)に吸収合併され消滅。

脚注

注釈

  1. ^ のちのユニード(ダイエー)本店→ダイエー渕上店→グルメシティ渕上店→ダイエーグルメシティ博多祇園店、現在のマックスバリュエクスプレス博多祇園店
  2. ^ 業務委託契約に基づき実際の運営はイオン九州が担当している。
  3. ^ 2007年3月にダイエー・丸紅(当時のダイエー筆頭株主)・イオンとの間で資本業務提携が交わされた事により旧「ユニード」並びに旧「忠実屋」店舗へのアイク(2013年9月にイオントップバリュに商号変更)からの商品供給が復活した。
  4. ^ 2012年(平成24年)3月末で閉店。
  5. ^ フレッシュバザールなどを展開するさとうグループとは全く関連はない。
  6. ^ 2011年(平成23年)現在は改築してJR博多シティとなっている。また、核テナントのデパートは博多井筒屋博多阪急となっている。

出典

  1. ^ ダイエー 別府店を来春閉店 西日本新聞 2011年11月12日閲覧)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 参考資料:通産省産業政策局「全国市町村別大規模小売店舗要覧 -第1種大規模小売店舗と商業状況一覧-」1984年。2012年4月17日閲覧
  3. ^ a b c d e 参考資料:西日本新聞社「九州の顔 天神 小売商業の変化と都市構造」114—119P、1977年。2013年9月12日閲覧
  4. ^ a b c d e f g h i j k 参考資料:西日本新聞「'82福岡商圏調査-地下鉄開通に伴う影響分析-」1982年。
  5. ^ a b 参考資料:平成14年度大規模小売店舗立地法法附則第5条(変更)届出の概要
  6. ^ 産業・経済>大規模小売店舗 福岡市中央区 - 2012年8月12日閲覧
  7. ^ 大規模小売店舗立地法に基づく届出一覧(福岡県) 2011年7月29日閲覧
  8. ^ 大規模小売店舗立地法に基づく届出一覧(福岡県) 2011年7月29日閲覧
  9. ^ a b 参考資料:北九州市広報第1430号
  10. ^ 長崎県公報 大規模小売店舗設置者の変更事項届出(公告) - 2011年7月17日閲覧
  11. ^ 平成15年度 大規模小売店舗立地法 法附則第5条(変更)届出の概要】

参考文献

  • 「ユニードは何故ダイエーに敗れたか 〜ダイエーの九州戦略を見つめる〜」 - 平野久止 著(1989年葦書房

関連項目

  • 大洋デパート火災 - 火災後、大洋デパートが再建、再開業するが倒産。倒産後の引き受け会社としてユニードの出資により「熊本城屋」を設立。1995年にダイエー直営となり、同社の熊本下通店となるが、建物老朽化のため2014年に閉店。
  • 西鉄福岡市内線 - 1960年代に岩田屋と共に、無料の送迎電車(ショッピングトレイン)を運行した。
  • 西鉄バス - 1974年2月より、当社の商品配送業務を担当。
  • RKBラジオ - 一社提供のラジオ番組『(渕上)ユニードスピーディー・クイズ』→『ユニードおしゃべりタイム』のスポンサーを務めた。
  • KBCラジオ - 1980年代に『朝日新聞ニュース』の金曜日のスポンサーを務めた。
  • エフエム福岡 - 一社提供のラジオ番組『ユニードダイエーおや?親マタニティ』のスポンサーを務めた。
  • 星野知子 - 女優。1979年 - 1980年頃に当社のイメージキャラクターを務めた。

外部リンク