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2020年7月5日 (日) 05:23時点における版
国司氏(くにしし、くにしうじ)は、日本の氏族のひとつ。安芸国高田郡国司荘[注釈 1]を領して、毛利氏家臣として活動した一族が有名である。
安芸国司氏
国司氏の始まりは、足利尊氏の重臣として活動した高氏である。室町幕府の初期に高師泰・高師直兄弟が尊氏の側近として活躍し、権勢を振るった。しかし、後に観応の擾乱によって高師直・師泰らが処分されると、高一族は没落し、高師泰の子、高師武は所領であった安芸国高田郡国司荘に下向、在名を取って国司氏を称した。これが国司氏の始まりである。
高氏の祖は高階氏で、高階惟長は源平合戦(治承・寿永の乱)では源氏に味方して、後に陸奥国信夫郡地頭職となり、大江広元の娘を妻とした。鎌倉時代に入ると高階氏は足利氏に仕え、高師泰・高師直兄弟の曽祖父である重氏の頃に名字を高氏と改めた。
高氏の安芸国下向と南北朝の騒乱、室町時代
南北朝期の当主毛利時親は、ひ孫の毛利師親(後の毛利元春)を高師泰の側に仕えさせ、勢力の拡大を図った。師親の「師」字は高師泰から偏諱を受けたものであり[4]、観応の擾乱の後に高師武が国司荘に下向すると、師武はその縁もあり、毛利氏に従属して譜代家臣となった。
その後は一貫して毛利氏の重臣として活動し、戦国時代初期の当主国司有純は毛利豊元の娘を妻とし、毛利松寿丸(後の元就)の後見人となった。明応8年(1499年)、国司有相は安芸武田氏の配下であった温科国親が反乱を起こした際にはその鎮圧にあたり、足利義稙を奉じた大内義興の上洛軍にも毛利興元に従って上洛した。船岡山合戦でも他の諸将とともに活躍した。
毛利氏の当主であった毛利幸松丸が大永3年(1523年)の鏡山城の戦いの直後に急逝したため、毛利元就に家督を継承させるべく、毛利氏宿老十五人が連署して元就へ志道広良、福原広俊らとともに家督相続を要請した。天文11年(1542年)に国司有相は死去し、家督は嫡男の元相が相続した。
戦国の世を生き抜く
家督を継いだ国司元相は、毛利元就の嫡男、毛利隆元の守役を務めた。この頃から毛利氏周辺での尼子氏と大内氏の勢力争いが激しくなり、大内方に味方をしていた毛利氏に対して、天文9年(1540年)、尼子詮久(後の尼子晴久)が吉田郡山城を攻撃するに至った。この吉田郡山城の戦いで元相は奮戦し、多くの戦功を挙げた。
天文11年(1542年)から始まる、大内義隆の月山富田城攻めでは、他の安芸国人領主らとともに毛利氏も出雲国に出陣した。翌年、安芸・出雲国人衆の一部が大内方を離反し、大内方は撤退を余儀なくされた。その撤退戦において元相は負傷し、多くの同僚を失いながらも安芸吉田に帰還した。
天文19年(1550年)に、赤川元保、粟屋元親、桂元忠、児玉就忠らとともに五奉行の一人となった。また、永禄3年(1560年)には、正親町天皇の即位料を納めるために使者として上洛、室町将軍足利義輝から「槍の鈴」の免許を許された。
毛利氏重臣として東奔西走した国司元相は、永禄10年(1567年)頃に家督を嫡男の国司元武に奉行職と家督を譲って隠居した。しかし、引き続き毛利氏の長老としてその勢力伸張を支えた。家督を継いだ国司元武は、父と同様に毛利輝元の守役を務めた。豊臣秀吉の天下統一後、文禄・慶長の役でも、朝鮮に渡り、戦功を挙げる等、毛利氏の重臣として活躍した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が敗北した後、毛利氏は周防長門の両国に減封された。この頃の国司氏の当主は元武の弟、国司元蔵になっており、引き続き毛利氏の重臣として、戦後の江戸幕府との折衝等に尽力した。
幕末の国司氏
以後、国司氏は長州藩寄組として活動し、幕末には国司信濃の通称で著名な国司親相が出た。親相は尊王派として活動したが、元治元年(1864年)の禁門の変で敗北し、長州征討の責任を取る形で益田親施、福原元僴らと自害した。
国司氏は志道元襄の次男、国司純行が家督を継いで明治維新に至った。
系図
高師重 ┣━━━━━━━━┳━━┳━━┓ 師泰 師直 師茂 師久 ┣━━┳━━┓ ┣━━┳━━┓ 久俊 師世 師武 師友 師詮 師冬 ┃ ┗┓ 師秀 国司元詮 ┃ ┃ 師胤 広詮 ┃ ┣━━┓ 師興 光宣 元景 ┃ ┃ 師原 有純(元純) ┣━━┳━━┳━━┓ 有相 元重 元勝 元真 ┃ 元相 ┣━━┳━━┓ 元武 元蔵 元貞 ┃ ¦ 元蔵 広通(堅田就政の子とされる) ┃ 就正 ┃ 就長 ┃ 広直 ┃ 広昌 ┃ 広孝 ┃ 正久 ┃ 就直 ┃ 就相 ┣━━┓ 就孝 武珍 ┣━━┳━━┓ 元善 浦元襄 熊谷直行 ┃ 迪徳 ┃ 親相(信濃) ┃ 純行 ┃ 直行(*男爵) ┃ 由行(*男爵) (斜体は養子) *系図は『「毛利一族」のすべて』<別冊歴史読本>(新人物往来社、1997年)177頁に掲載のものを参考とした。
- その他
(*名前が伝わっているものの、系図上での位置が不明な人物(就正から迪徳の間に位置すると思われるが詳しい家系が不詳)。< >内は偏諱を与えた主君(長州藩主)。)
脚注
注釈
出典
参考文献
- 河合正治『安芸毛利一族』新人物往来社、1984年11月。ISBN 440401239X。
- 國司由行「國司家に伝わる元就公からの感状」『「毛利一族」のすべて』新人物往来社〈別冊歴史読本 92 一族シリーズ〉、1997年3月、34-36頁。ISBN 4404024665。
- 東京帝国大学文学部史料編纂所編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本古文書』 家わけ八ノ一 毛利家文書之1、東京帝国大学、1920年11月30日。全国書誌番号:73018527 。
- 山本大; 小和田哲男 編『戦国大名家臣団事典』 [要文献特定詳細情報]、新人物往来社、1981年8月。 NCID BN00838639。
- 安芸高田市史[要文献特定詳細情報]