国司就正
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正19年(1589年) |
死没 | 寛文8年11月7日[1](1668年12月10日) |
別名 | 助太郎[1]、備後 |
墓所 | 天龍寺(山口県宇部市奥万倉142) |
官位 | 右京亮[1]、備後守[1] |
主君 | 毛利輝元→秀就→綱元 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 高階姓高氏庶流国司氏 |
父母 | 父:国司元蔵[1]、母:赤川元秀娘[1] |
兄弟 | 女(粟屋元武室)[1]、就正[1]、女(桂元忠室)[1]、左門[1]、女(神村元忠室)[1] |
妻 | 児玉景唯娘[1] |
子 |
就長[1]、就貞[1]、就勝[1]、就旨[1]、長蔵[1]、 弁之助[1]、女(志道就徳室)[1]、女[1] |
国司 就正(くにし なりまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の長州藩士。父は国司元蔵。
生涯
[編集]天正19年(1589年)、毛利氏家臣である国司元蔵の子として生まれる。慶長13年(1608年)に父が死去し、その後を継いだ。
寛永2年(1625年)、周防国佐波郡伊賀地から領地替えされて長門国厚狭郡万倉の領主となった。同時に行われた知行改によって、家緑は2,089石から1,900石に減らされた。万倉の領主となった就正は、まず伊佐地[注 1]に居館を構築し、宗吽寺(現・天龍寺)を建てて菩提寺とした。
慶安4年(1651年)に毛利秀就が死去すると、引続き毛利綱広に仕え、当役の児玉元恒、当職の児玉元征らとともに藩政を補佐した。しかし、翌年には堅田就政に当職を譲り、寛文8年(1668年)に死去した[1]。享年80[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 現在の山口県宇部市奥万倉伊佐地。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 萩藩閥閲録 山口県文書館編
関連項目
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