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身寄りのない寡婦の常子は、名高い[[歌人]]で大学の[[国文学]]教授の藤宮先生にかしずいて、もう10年も身の回りの世話をし同居しているが、2人の間には[[性行為|色事]]は全くない。藤宮先生の研究は有名で崇拝者も多いが、先生の風采は上らず、目は[[眇]]で異常な[[潔癖症]]であった。それでも常子は[[巫女]]のように藤宮先生を尊敬し、月1回の恒例の歌会で、自分の歌を先生に批評していただけるのを楽しみに生きている。 |
身寄りのない寡婦の常子は、名高い[[歌人]]で大学の[[国文学]]教授の藤宮先生にかしずいて、もう10年も身の回りの世話をし同居しているが、2人の間には[[性行為|色事]]は全くない。藤宮先生の研究は有名で崇拝者も多いが、先生の風采は上らず、目は[[眇]]で異常な[[潔癖症]]であった。それでも常子は[[巫女]]のように藤宮先生を尊敬し、月1回の恒例の歌会で、自分の歌を先生に批評していただけるのを楽しみに生きている。 |
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ある日、常子は先生から、[[熊野]]への夏の旅のお供を仰せつかった。先生は熊野の出身だったが故郷の村には立寄ることはなかった。先生の旅をいつも見送る立場だった常子は晴れがましさでいっぱいだったが、なぜ自分を旅へ同行させるのか不思議だった。先生からは衣類についても指示はなかったがが、ただ旅に持ってゆく本については指定があり、[[永福門院]]の家集を指定された。[[那智滝]]を見た後、藤宮先生は[[熊野那智大社]]の内庭で、「香」「代」「子」の文字のある3つの[[櫛]]を紫の[[袱紗]]から取り出し、「香」の櫛を土に埋めた。常子は生れてはじめて[[嫉妬]]を感じたが、それを手伝った。それまで楽しかった旅中での陽気な新しい常子は消え、元の地味な常子に戻った。先生から拝借した[[西園寺 |
ある日、常子は先生から、[[熊野]]への夏の旅のお供を仰せつかった。先生は熊野の出身だったが故郷の村には立寄ることはなかった。先生の旅をいつも見送る立場だった常子は晴れがましさでいっぱいだったが、なぜ自分を旅へ同行させるのか不思議だった。先生からは衣類についても指示はなかったがが、ただ旅に持ってゆく本については指定があり、[[永福門院]]の家集を指定された。[[那智滝]]を見た後、藤宮先生は[[熊野那智大社]]の内庭で、「香」「代」「子」の文字のある3つの[[櫛]]を紫の[[袱紗]]から取り出し、「香」の櫛を土に埋めた。常子は生れてはじめて[[嫉妬]]を感じたが、それを手伝った。それまで楽しかった旅中での陽気な新しい常子は消え、元の地味な常子に戻った。先生から拝借した[[西園寺鏱子|永福門院]]集を読み、常子は自分には歌を作る才も資格もないのを感じ、先生の前で涙を流した。 |
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翌日も藤宮先生は、[[熊野速玉大社]]で「代」の櫛を埋め、[[熊野本宮大社]]で「子」の櫛を土に埋めた。「香代子」という人はきっとすでにこの世を去った美しい女人だろうと常子は想像し、もう嫉妬もなく寛容な気持だった。藤宮先生は櫛の由来を常子に打ち明けた。先生は郷里に香代子という恋人があったが、親に仲を割かれたまま香代子は病で死んだというものだった。香代子は三熊野詣に行くことを望んでいて、少年の先生は「僕が60歳になったら、きっと連れたる」と言っていたのだという。 |
翌日も藤宮先生は、[[熊野速玉大社]]で「代」の櫛を埋め、[[熊野本宮大社]]で「子」の櫛を土に埋めた。「香代子」という人はきっとすでにこの世を去った美しい女人だろうと常子は想像し、もう嫉妬もなく寛容な気持だった。藤宮先生は櫛の由来を常子に打ち明けた。先生は郷里に香代子という恋人があったが、親に仲を割かれたまま香代子は病で死んだというものだった。香代子は三熊野詣に行くことを望んでいて、少年の先生は「僕が60歳になったら、きっと連れたる」と言っていたのだという。 |
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2020年7月3日 (金) 06:18時点における版
三熊野詣 Acts of Worship | |
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作者 | 三島由紀夫 |
国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 短編小説 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
初出情報 | |
初出 | 『新潮』1965年1月号 |
刊本情報 | |
刊行 |
新潮社 1965年7月30日 装幀:観世宗家所蔵意匠 |
ウィキポータル 文学 ポータル 書物 |
『三熊野詣』(みくまのもうで)は、三島由紀夫の短編小説。全6章から成る。 歌人で国文学博士の老教授と、先生を崇拝する弟子の寡婦が熊野詣に旅する物語。亡き初恋の人の名前を象る三つの櫛を熊野三山の内庭に埋める先生に同道しながら、様々な想いが錯綜する静かな女の心理と、彼女を証人にして自らの物語を創造しようとする孤独な人間の姿が、黄泉の国と浄土感が一体化された荘厳な熊野の風景を背景に描かれている。民俗学者の折口信夫をモデルにした作品である[1][2][3]。
1965年(昭和40年)、雑誌『新潮』1月号に掲載され、同年7月30日に新潮社より単行本刊行された[4][5][3]。同書には他に3編の短編が収録されている。文庫版は新潮文庫の『殉教』で刊行されている[3]。翻訳版は ジョン・ベスター訳(英題:Acts of Worship)をはじめ、イタリア(伊題:Atti di adorazione)、ポルトガル(葡題:Actos de adoração)で行われている[6]。
あらすじ
身寄りのない寡婦の常子は、名高い歌人で大学の国文学教授の藤宮先生にかしずいて、もう10年も身の回りの世話をし同居しているが、2人の間には色事は全くない。藤宮先生の研究は有名で崇拝者も多いが、先生の風采は上らず、目は眇で異常な潔癖症であった。それでも常子は巫女のように藤宮先生を尊敬し、月1回の恒例の歌会で、自分の歌を先生に批評していただけるのを楽しみに生きている。
ある日、常子は先生から、熊野への夏の旅のお供を仰せつかった。先生は熊野の出身だったが故郷の村には立寄ることはなかった。先生の旅をいつも見送る立場だった常子は晴れがましさでいっぱいだったが、なぜ自分を旅へ同行させるのか不思議だった。先生からは衣類についても指示はなかったがが、ただ旅に持ってゆく本については指定があり、永福門院の家集を指定された。那智滝を見た後、藤宮先生は熊野那智大社の内庭で、「香」「代」「子」の文字のある3つの櫛を紫の袱紗から取り出し、「香」の櫛を土に埋めた。常子は生れてはじめて嫉妬を感じたが、それを手伝った。それまで楽しかった旅中での陽気な新しい常子は消え、元の地味な常子に戻った。先生から拝借した永福門院集を読み、常子は自分には歌を作る才も資格もないのを感じ、先生の前で涙を流した。
翌日も藤宮先生は、熊野速玉大社で「代」の櫛を埋め、熊野本宮大社で「子」の櫛を土に埋めた。「香代子」という人はきっとすでにこの世を去った美しい女人だろうと常子は想像し、もう嫉妬もなく寛容な気持だった。藤宮先生は櫛の由来を常子に打ち明けた。先生は郷里に香代子という恋人があったが、親に仲を割かれたまま香代子は病で死んだというものだった。香代子は三熊野詣に行くことを望んでいて、少年の先生は「僕が60歳になったら、きっと連れたる」と言っていたのだという。
あまりに美しすぎる話に、常子は女の直感でそれが、先生が自分の伝説を作ろうとしているのだと解った。常子は今自分が先生の伝説の証人にされていることを悟った。その美しい物語は全く先生に似合わなかったのだ。しかし常子はその物語を信じるふりをすることを固く決心した。同時に、常子には云わん方ない安堵が生れ、昨日の絶望が残る隈なく癒された。熊野の神霊によって解き放たれたように常子は晴れやかな気持になった。
登場人物
- 藤宮先生
- 60歳。独身。歌人。清明大学の国文科主任教授。文学博士。古今伝授の研究で有名。弟子や崇拝者の学生が沢山いる。風采は上らず、子供のときの怪我からなった眇の負い目で暗い陰湿な人柄。奇異な高いソプラノの声。ひどい撫で肩。髪は真黒に染めている。アメリカン・フットボールを、「汚れ蹴鞠」と呼んで諷刺的に歌に詠じる。学生への礼儀作法にやかましい。その業績に敬意を払わない他学部の学生には「化け先」と陰で嘲られる。好物は牛肉、イサキ、柿など。消毒用アルコールを染ませた脱脂綿を常に携帯するほどの潔癖症。家にテレビは置いてない。
- 常子
- 45歳。身寄りのない寡婦。藤宮先生の歌のお弟子。美しい女でも色気のある女でもなく、地味な性格で控え目。夫は結婚2年目で急死。もう10年も藤宮先生にかしずいて、本郷の先生の家に同居し食事や身辺の世話をしているが、男女関係はない。
- 野添助教授
- 30歳すぎ。藤宮先生の一番の高弟子。
- 藤宮先生の弟子や学生たち
- 時代ばなれした地味な服装。先生の真似をして扇子を持っている。
- 宿の番頭
- 藤宮先生と常子の借り切った小さな遊覧船に同乗。
- 熊野那智大社の宮司
- 藤宮先生とは懇意。
作品評価・研究
短編集『三熊野詣』について三島由紀夫は次のように自作解説している。
この集は、私の今までの全作品のうちで、もつとも退廃的なものであらう。私は自分の疲労を、無力感と、酸え腐れた心情のデカダンスと、そのすべてをこの四篇(三熊野詣、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛)にこめた。四篇とも、いづれも過去と現在が先鋭に対立せしめられてをり、過去は輝き、現在は死灰に化してゐる。(中略)
しかし自分の哲学を裏切つて、妙な作品群が生れてしまふのも、作家といふ仕事のふしぎである。自作ながら、私はこれらの作品に、いひしれぬ不吉なものを感じる。ずいぶん自分のことを棚に上げた言ひ方であるが、私にかういふ作品群を書かせたのは、時代精神のどんな微妙な部分であるのか? ミーディアムはしばしば自分に憑いた神の顔を知らないのである。 — 三島由紀夫「あとがき」(『三熊野詣』)[7]
上記のようなこの時期の三島の心理状態について松本徹は、三島自ら「ライフワーク」と呼んでいた大作『豊饒の海』に取り掛かる直前の「屈折した気持」と、『鏡子の家』以降、強まっていた「根深い倦怠感」のなかにあったと解説している[8]。また、この頃の三島が少年期を自分の黄金期と捉え、「二十歳で死ねばよかつた」と語っていることを挙げながら、その思いを三島が「酸え腐れた心情」とともに、小説に仕組んでいるとし[9]、この三島の思いはライフワーク『豊饒の海』全4巻の基本的構想の一角を成すことになり、主人公がいずれも満20歳を前に命を終える設定となると解説している[9]。
佐藤秀明は、三島が民俗学者の折口信夫をモデルにした『三熊野詣』を書いた同時期に、精神分析医を描いた『音楽』を書いていたことに触れ、そこには奥野健男が指摘したように、精神分析学への嫌悪と拒否が伴う屈折があったと解説し[2]、1969年(昭和44年)に三島が発表した『日本文学小史』の第1回で論じていた文化史論の中の一節を取り上げている[2]。
私がここで民俗学的方法や精神分析学的方法を非難しようとしてゐることを人は直ちに察するであらう。私はかつて民俗学を愛したが、徐々に遠ざかつた。そこにいひしれぬ不気味な不健全なものを嗅ぎ取つたからである。
しかしもともと不気味で不健全なものとは、芸術の原質であり又素材である。それは実は作品によつて癒されてゐるのだ。それをわざわざ、民俗学や精神分析学は、病気のところまでわれわれを連れ戻し、ぶり返らせて見せてくれるのである。近代の世の中には、かういふ種明しを喜ぶ観客が多い。(中略)そこまで行けば、人は「すべてがわかつた」気になるのである。 — 三島由紀夫『日本文学小史――「古事記」と「万葉集」』[10]
佐藤は、三島がこのように、民俗学や精神分析学の知の普遍主義によって個別の文化が排除されてしまい、「文化意志」を否定することになるのを憂慮していた文脈を引用しつつ、「『音楽』と『三熊野詣』を書くことで、三島は精神分析学と民俗学に接近しながら、そこから離れようとしている」と述べ[2]、それらの作品を書いたことにより、文化意志を否定する文化論である精神分析学と民俗学に決着をつけ決別した三島は、映画『憂国』製作に向っていったと、その動向への心理を解説している[2]。
おもな刊行本・音声資料
- 『三熊野詣』(新潮社、1965年7月30日) NCID BN09304837
- 文庫版『獅子・孔雀』(新潮文庫、1971年1月25日)
- 文庫版『殉教』(新潮文庫、1982年4月25日。改版2004年)
- カバー装幀:池田良二。解説:高橋睦郎
- 収録作品:「軽王子と衣通姫」「殉教」「獅子」「毒薬の社会的効用について」「急停車」「スタア」「三熊野詣」「孔雀」「仲間」
- ※ 文庫版『獅子・孔雀』の改題版。
- ※ 改版2004年より、カバー改装:池田良二、新潮社装幀室。
- 英文版『Acts of Worship: Seven Stories』(訳:ジョン・ベスター)(Kodansha International、1989年。HarperCollins Publishers Ltd、1991年6月)
- 朗読CD『三熊野詣』(新潮社、2003年2月25日)
全集収録
- 『三島由紀夫全集17巻』〈第8回配本〉(新潮社、1973年12月25日)
- 『三島由紀夫短篇全集』〈下巻〉(新潮社、1987年11月20日)
- 布装。セット機械函。四六判。2段組。
- 収録作品:「家庭裁判」から「蘭陵王」までの73篇。
- 『決定版 三島由紀夫全集20巻・短編6』(新潮社、2002年7月10日)
脚注
- ^ 高橋睦郎「解説」(殉教・文庫 1982, pp. 329–334)
- ^ a b c d e 「第五章 文と武の人」(佐藤 2006, pp. 144–205)
- ^ a b c 鎌田東二「三熊野詣」(事典 2000, pp. 362+363)
- ^ 井上隆史「作品目録――昭和40年」(42巻 2005, pp. 438–440)
- ^ 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
- ^ 久保田裕子「三島由紀夫翻訳書目」(事典 2000, pp. 695–729)
- ^ 「あとがき」(『三熊野詣』)(新潮社、1965年7月)。33巻 2003, pp. 472–473に所収
- ^ 松本 2005
- ^ a b 「第十一回 雅びとエロスと 『孔雀』『春の雪』『朱雀家の滅亡』」(徹 2010, pp. 145–158)
- ^ 「日本文学小史――『古事記』と『万葉集』」(群像 1969年8月号)。『日本文学小史』(講談社、1972年11月)。休暇 1982, pp. 236–264、35巻 2003, pp. 538–564に所収
参考文献
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集20巻 短編6』新潮社、2002年7月。ISBN 978-4106425608。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8』新潮社、2003年8月。ISBN 978-4106425738。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集35巻 評論10』新潮社、2003年10月。ISBN 978-4106425752。
- 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820。
- 三島由紀夫『殉教』新潮文庫、1982年4月。ISBN 978-4101050317。 改版は2004年7月
- 三島由紀夫『小説家の休暇』新潮文庫、1982年1月。ISBN 978-4101050300。
- 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹 編『三島由紀夫事典』勉誠出版、2000年11月。ISBN 978-4585060185。
- 佐藤秀明『三島由紀夫――人と文学』勉誠出版〈日本の作家100人〉、2006年2月。ISBN 978-4585051848。
- 長谷川泉; 武田勝彦 編『三島由紀夫事典』明治書院、1976年1月。NCID BN01686605。
- 松本徹『三島由紀夫 エロスの劇』作品社、2005年5月。ISBN 978-4861820380。
- 松本徹『三島由紀夫を読み解く』NHK出版〈NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界〉、2010年7月。ISBN 978-4149107462。