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関白職を獲得するまでの教通の忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものだった。頼通が太政大臣に昇進したことの祝賀に際して、左大臣教通は頼通にひざまづいて礼をしたという。これを聞きつけた異母兄・[[藤原能信|能信]]が「大臣ともあろう者がひざまづいて礼をするなど聞いたこともない」と批判した。これに対し教通は「自分は道長から「頼通を父と思え」と言われたのだ。父に対する礼儀としてひざまづいて礼をするのは当たり前のことだ。能信は道長からそんなことを言われたことはないだろう」と、死ぬまで権大納言どまりで関白など望むべくもなかった能信を逆に皮肉ったという。
関白職を獲得するまでの教通の忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものだった。頼通が太政大臣に昇進したことの祝賀に際して、左大臣教通は頼通にひざまづいて礼をしたという。これを聞きつけた異母兄・[[藤原能信|能信]]が「大臣ともあろう者がひざまづいて礼をするなど聞いたこともない」と批判した。これに対し教通は「自分は道長から「頼通を父と思え」と言われたのだ。父に対する礼儀としてひざまづいて礼をするのは当たり前のことだ。能信は道長からそんなことを言われたことはないだろう」と、死ぬまで権大納言どまりで関白など望むべくもなかった能信を逆に皮肉ったという。


[[康平]]7年([[1064年]])に頼通から[[藤氏長者]]を譲られる。[[治暦]]3年([[1067年]])12月には頼通が関白を辞任。頼通は実子の右大臣・[[藤原師実|師実]]に関白職を譲ろうとしたらしいが、姉の上東門院([[藤原彰子]])が道長の遺言を理由にこれを許さず<ref>『古事談』</ref>、しばらく関白職が空席となる。翌[[治暦]]4年([[1068年]])4月には後冷泉天皇が重態となり、[[藤原氏]]と関係が疎遠な[[後三条天皇]]の即位が確実となる状況下で、やむなく頼通は教通への関白職譲渡に同意し、4月16日に教通が関白に任ぜられる。この関白任命は後冷泉天皇在位中であるが、任命から3日後には後冷泉天皇が死去して後三条天皇が[[践祚]]しているため、教通の関白任命は新帝(後三条天皇)即位に対応した人事である。なお、教通は三条天皇の娘・[[禔子内親王]]を後室とし、さらに息子・[[藤原信家|信家]]の室に三条天皇の孫でその養女となった[[けん子内親王|儇子内親王]](実父は[[敦明親王|小一条院]])を迎えていることなどにより、もともと三条天皇系の[[禎子内親王|陽明門院]]・後三条天皇母子と教通の関係は、頼通との関係ほど疎遠ではなかったとの説もある<ref>遠藤基郎『中世王権と王朝儀礼』(東京大学出版会、2008年) ISBN 978-4-13-026218-7 P53-55・312-313・316-318・324)</ref>。また、後冷泉天皇の意向により、教通の関白就任の翌日17日に[[藤原歓子|歓子]]が皇后に冊立されている。
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[[承保]]2年([[1075年]])に80歳で死去。
[[承保]]2年([[1075年]])に80歳で死去。

2020年6月26日 (金) 23:18時点における版

 
藤原教通
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長徳2年6月7日996年6月25日
死没 承保2年9月25日1075年11月6日
別名 大二条殿
官位 従一位関白太政大臣正一位
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原道長、母:源倫子
兄弟 彰子頼通頼宗妍子顕信能信教通寛子威子尊子長家嬉子長信
正室:藤原公任の娘
継室:禔子内親王三条天皇の皇女)
継々室:嫥子女王具平親王の三女)
生子、真子、静円、信家通基歓子信長、静覚、藤原経家
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藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿藤原北家摂政太政大臣藤原道長の五男。官位従一位関白太政大臣正一位

経歴

藤原道長の五男であったが、同母兄・頼通と同じく嫡子として扱われ、寛弘3年(1006年元服して正五位下直叙され、侍従に任ぜられる。兵衛佐近衛少将/中将を経て、寛弘7年(1010年従三位に叙せられ、ここでも頼通と同様に弱冠15歳で公卿に列している。

寛弘8年(1011年正三位長和2年(1013年)には庶兄・頼宗を越えて参議を経ずに従二位権中納言に叙任される。長和4年(1015年正二位寛仁3年(1019年)正官の中納言であった藤原行成藤原隆家を越えて権大納言に叙任されるなど、若年にして急速な昇進を果たす。寛仁5年(1021年)左大臣・藤原顕光が没して大臣の座が2つ空き、筆頭大納言の藤原実資が右大臣に昇任したと同時に、教通は寛弘の四納言として知られ長く朝廷で活躍していた大納言・藤原斉信と権大納言・藤原公任を越えて26歳で内大臣に昇任する。かつて、父の道長から内大臣就任の示唆を受けた際、まず実資が昇進してから自らも同時に大臣に任ぜられ、実資の輔導を得て大臣の勤めを果たしたい旨を、教通は述べたという[1]

内大臣となった教通は後宮対策に乗り出し、長元3年(1030年)に後一条天皇に対して長女・生子の入内打診を奏上し、天皇も受諾の意向を見せる。しかし、同母妹で後一条天皇の中宮であった藤原威子が里下りして身を隠そうとする行為に出たことに加え、母・源倫子による直接の諫めや、兄・頼通の反対意向もあって、入内は断念せざるを得なかった[2]

後朱雀天皇が即位すると、長暦3年(1039年)8月に頼通の養女で後朱雀天皇の中宮であった藤原嫄子が死去し、後宮は皇后禎子内親王三条天皇皇女)ただ一人の状況となる。ここで、教通は既に26歳になっていた生子入内の最後の機会と捉えたらしく、頼通の強い反対と妨害[3]を押し切って年末押し詰まった12月に入内を強行した。入内に際しては、頼通が最後まで反対して輦車を貸与せず、教通は自前で輦車を新しく作って準備せざるを得なかった。さらに頼通への遠慮から入内に随行した殿上人は僅か5名(藤原経通藤原定頼藤原信長藤原経家藤原顕家)という有様であった[4]。後朱雀天皇と生子の仲は睦まじかったが、皇子女を儲けることはできなかった。また、天皇は生子を立后しようとしたが、頼通が摂関の娘でなく皇子を生んでもいないことを理由に反対したため、これも実現できなかった。

次代の後冷泉天皇に対しては、頼通に先んじて永承2年(1047年)に三女・歓子を入内させる。歓子は永承4年(1049年)に待望の皇子を出産するものの皇子は即日没し、永承6年(1051年)ごろからは兄・静円の僧坊がある洛北の小野に籠居してしまい、皇子女に恵まれなかった。

関白職を獲得するまでの教通の忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものだった。頼通が太政大臣に昇進したことの祝賀に際して、左大臣教通は頼通にひざまづいて礼をしたという。これを聞きつけた異母兄・能信が「大臣ともあろう者がひざまづいて礼をするなど聞いたこともない」と批判した。これに対し教通は「自分は道長から「頼通を父と思え」と言われたのだ。父に対する礼儀としてひざまづいて礼をするのは当たり前のことだ。能信は道長からそんなことを言われたことはないだろう」と、死ぬまで権大納言どまりで関白など望むべくもなかった能信を逆に皮肉ったという。

康平7年(1064年)に頼通から藤氏長者を譲られる。治暦3年(1067年)12月には頼通が関白を辞任。頼通は実子の右大臣・師実に関白職を譲ろうとしたらしいが、姉の上東門院(藤原彰子)が道長の遺言を理由にこれを許さず[5]、しばらく関白職が空席となる。翌治暦4年(1068年)4月には後冷泉天皇が重態となり、藤原氏と関係が疎遠な後三条天皇の即位が確実となる状況下で、やむなく頼通は教通への関白職譲渡に同意し、4月16日に教通が関白に任ぜられる。この関白任命は後冷泉天皇在位中であるが、任命から3日後には後冷泉天皇が死去して後三条天皇が践祚しているため、教通の関白任命は新帝(後三条天皇)即位に対応した人事である。なお、教通は三条天皇の娘・禔子内親王を後室とし、さらに息子・信家の室に三条天皇の孫でその養女となった儇子内親王(実父は小一条院)を迎えていることなどにより、もともと三条天皇系の陽明門院・後三条天皇母子と教通の関係は、頼通との関係ほど疎遠ではなかったとの説もある[6]。また、後冷泉天皇の意向により、教通の関白就任の翌日17日に歓子が皇后に冊立されている。

承保2年(1075年)に80歳で死去。

後三条天皇が藤原氏との関係が疎遠であったために教通の時代に藤原摂関家が衰退したとされているが、教通が兄・頼通との約束に反して子・信長への関白譲位を図った事から兄弟の不仲が深刻となり、頼通の影響力を抑制したい後三条天皇と教通の思惑が合致したことによって両者は接近する。『栄花物語』には後三条天皇が自己の主張を貫きつつも教通との関係を重視したことが記されている。そのため、頼通の財政的な基盤を切り崩すために後三条天皇が行った延久荘園整理令の施行を事実上容認したとも言われている。

教通の日記は『二東記』と呼ばれるが、散逸し一部のみが伝わっている。また、尾張兼時に師事していたという。

教通の死後、子・信長は従弟・師実との政争に敗北し、太政大臣として位人臣を極めつつも実権を奪われて失意のうちに没する。その子孫は公卿への昇進もかなわずに教通流は衰微した。

官歴

※日付=旧暦

系譜

登場作品

脚注

  1. ^ 『小右記』寛仁3年6月22日条
  2. ^ 『栄花物語』巻31,殿上の花見
  3. ^ 『栄花物語』巻34,暮れまつほし、『春記』長暦3年11月22日条,28日条
  4. ^ 『春記』長暦3年12月21日条
  5. ^ 『古事談』
  6. ^ 遠藤基郎『中世王権と王朝儀礼』(東京大学出版会、2008年) ISBN 978-4-13-026218-7 P53-55・312-313・316-318・324)
  7. ^ 4月23日寛仁元年に改元

出典