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「松平乗承」の版間の差分

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== 生涯 ==
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叔父で最後の藩主[[松平乗秩]]の養子となる。明治6年([[1873年]])に養父の死を受けて家督を継ぎ、明治10年([[1877年]])、[[大給恒]]、[[佐野常民]]、[[桜井忠興]]らと博愛社([[日本赤十字社]]の前身)の設立に尽力。明治14年([[1881年]])に[[宮内省]]御用掛となり、明治17年([[1884年]])7月3日には[[太政官]]御用掛に就任、修史館勤務となる。同年7月8日、[[子爵]]を叙爵<ref>『官報』第308号、明治17年7月9日。</ref>。同年12月に第二局に移動となるが、明治18年([[1885年]])3月[[麻疹]]にかかり辞職する。明治20年([[1887年]])、日本赤十字社に入り、第四回赤十字国際会議にドイツ留学中の[[森外]]と出席する。明治23年([[1890年]])7月10日、貴族院議員となり[[研究会 (貴族院)|研究会]]に属し、[[大正]]14年([[1925年]])7月まで務めた。大正2年([[1913年]])日本赤十字社副社長に就任し、大正7年([[1918年]])まで務めた。昭和4年([[1929年]])、79歳で没した。
叔父で最後の藩主[[松平乗秩]]の養子となる。明治6年([[1873年]])に養父の死を受けて家督を継ぎ、明治10年([[1877年]])、[[大給恒]]、[[佐野常民]]、[[桜井忠興]]らと博愛社([[日本赤十字社]]の前身)の設立に尽力。明治14年([[1881年]])に[[宮内省]]御用掛となり、明治17年([[1884年]])7月3日には[[太政官]]御用掛に就任、修史館勤務となる。同年7月8日、[[子爵]]を叙爵<ref>『官報』第308号、明治17年7月9日。</ref>。同年12月に第二局に移動となるが、明治18年([[1885年]])3月[[麻疹]]にかかり辞職する。明治20年([[1887年]])、日本赤十字社に入り、第四回赤十字国際会議にドイツ留学中の[[森外]]と出席する。明治23年([[1890年]])7月10日、貴族院議員となり[[研究会 (貴族院)|研究会]]に属し、[[大正]]14年([[1925年]])7月まで務めた。大正2年([[1913年]])日本赤十字社副社長に就任し、大正7年([[1918年]])まで務めた。昭和4年([[1929年]])、79歳で没した。


== 栄典 ==
== 栄典 ==

2020年6月18日 (木) 11:29時点における版

松平乗承

松平 乗承(まつだいら のりつぐ、嘉永4年12月8日1851年12月30日) - 昭和4年(1929年7月13日)は、明治から昭和時代初期の政治家華族子爵貴族院議員三河国西尾藩松平乗全の五男。妻は大河内輝声の娘、みち子。子に松平乗統

生涯

叔父で最後の藩主松平乗秩の養子となる。明治6年(1873年)に養父の死を受けて家督を継ぎ、明治10年(1877年)、大給恒佐野常民桜井忠興らと博愛社(日本赤十字社の前身)の設立に尽力。明治14年(1881年)に宮内省御用掛となり、明治17年(1884年)7月3日には太政官御用掛に就任、修史館勤務となる。同年7月8日、子爵を叙爵[1]。同年12月に第二局に移動となるが、明治18年(1885年)3月麻疹にかかり辞職する。明治20年(1887年)、日本赤十字社に入り、第四回赤十字国際会議にドイツ留学中の森鷗外と出席する。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員となり研究会に属し、大正14年(1925年)7月まで務めた。大正2年(1913年)日本赤十字社副社長に就任し、大正7年(1918年)まで務めた。昭和4年(1929年)、79歳で没した。

栄典

外国勲章佩用允許

参考文献

  • 『日本人名大辞典』(講談社刊)
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。

出典

  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ 『官報』第3778号「叙任及辞令」1896年2月5日。
  3. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  4. ^ 『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。

外部リンク

日本の爵位
先代
叙爵
子爵
西尾松平家初代
1884年 - 1929年
次代
松平乗統