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松平家乗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平家乗
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正3年(1575年[1]
死没 慶長19年2月19日1614年3月29日[2]
別名 通称:源次郎[1]
戒名 大聖院殿前泉州 蓮社乗誉道見大居士[1]
墓所 大名墓地岐阜県恵那市
官位 従五位下和泉守[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
上野那波藩美濃岩村藩
氏族 大給松平家
父母 父:松平真乗、母:戸田忠重の娘[注釈 1]
兄弟 家乗真次
松樹石川康通の娘)[2]
乗寿知乗大久保教隆正室、
知久直政室ら
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松平 家乗(まつだいら いえのり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将大名大給松平家6代当主。徳川家康の関東入部時に大名(上野国那波藩)となり、関ヶ原の合戦後に美濃国岩村藩主に転じた。官位従五位下和泉守

生涯

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白糸威胴丸具足(伝・松平家乗所用、東京国立博物館所蔵)。

天正3年(1575年)、大給松平家5代の松平真乗の長男として、三河国大給城で生まれた[1]。天正10年(1582年)、父の真乗が死去したため、8歳で家督を継ぐことになった[1]

天正12年(1584年)の長久手の戦いに際しては、家乗が幼少であったために、家老の松平近正が代理として大給松平家を率いて参加し[1]戦功を挙げた。また同年、尾張蟹江城・前田城攻めの蟹江城合戦滝川一益が立て籠った時には、家臣の河合帯刀が奮戦して大給松平家が功を挙げている。[1]

天正15年(1587年)、13歳で徳川家康の前で元服し、偏諱を受け家乗と称した[1]

天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、上野国那波郡内に1万石の所領を与えられ、那波藩[1]が成立した。なおこの時、家老であった松平近正が家康の直臣に取り立てられている[1]

天正19年(1591年)、家康の奥州への出陣に供奉した。

家乗は那波に父祖の菩提寺として雄山伝英和尚を招いて、久昌山盛巌寺を開創した[注釈 2]

慶長元年(1596年)、従五位下・和泉守に叙任された[1]。当時家康の家臣で諸太夫は10人であったが、その一人に加えられた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、三河国吉田城の守備を務めた[1]。これについて、はじめ吉田城守備を命じられた家乗は、旗本の先駆を務めたいと家康に請うたが、家康は吉田城が尾張国知多郡に通じる「軍監の通路」であり枢要の地であるからという理由を示し、重ねて吉田城守備を命じたという[1]

戦後は家康の命を受け、伊勢国桑名城を攻めて守将を降ろした[1]

慶長6年(1601年)正月、1万石を加増の上で美濃岩村藩の初代藩主となり、恵那郡土岐郡内で2万石を領する大名となった[1]。この時、御礼を言上するために駿府城へ赴き家康に拝謁する際に、永井右近奏者として敷居の外にあったが、家康から「内に入れよ」と仰せられたので、敷居を越えて拝謁した。

岩村藩主となると、上州那波にあった父祖の霊廟で菩提寺の盛巌寺岩村城下に移し、阿木村の30石を寺領として附した。また岩村城の北麓に、浄蓮社を建てて久翁山 龍巌寺(龍岩寺)も上州那波から移し、富田村の50石を寺領として附した。

慶長19年(1614年)2月19日死去、40歳であった[2]。久翁山 龍巌寺(龍岩寺)内の墓地に埋葬された[2]

家乗は、人となり剛正で勤検であった。事をなすには法度あり、華麗を好まず、細行を忽にせず、上に事えては忠を喝し、母に事えて孝。下に御するに仁を以てし、民に臨んで恵を施したので城下はよく治まったという。

菩提寺と墓所

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寛永15年(1638年)、2代藩主の松平乗寿浜松藩へ転封となると、岩村にあった龍巌寺(龍岩寺)は、その伽藍を残したまま浜松へ移った[2]ため、家乗の墓は岩村に残されたままとなった。

寛永15年(1638年)、次に岩村藩主となった丹羽氏信は、龍巌寺(龍岩寺)の伽藍を受け取って、一色丹羽氏の菩提寺の妙仙寺を、尾張岩崎城下から移した。元禄15年(1702年)、丹羽氏音越後高柳藩に移封となると、妙仙寺も岩村を去って越後高柳へ移った。

次に乗政流大給松平家の松平乗紀小諸藩から岩村藩に移り、妙仙寺の伽藍を受け取って、菩提寺の乗政寺を信濃小諸城下から移した。すなわち家乗の墓がある場所は、乗政寺の境内となった。

明治4年(1871年)の廃藩置県の際に乗政寺は廃寺となり、取り壊されたため伽藍は残っていないが、その跡地には数代の岩村藩主とその家族や重臣の墓が残っており、大名墓地(乗政寺墓地)と呼ばれている。

系譜

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大名墓地にある松平家乗の墓(岐阜県恵那市岩村町)

父母

正室

子女

注釈

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  1. ^ 『寛政譜』には「弾正某が娘」とある[1]
  2. ^ 山号及び寺号は、松平家乗の父真乗の法号「梅香院殿盛巌道翁大禅定門」、祖父松平親乗の戒名「空源院殿久浄昌大居士」に因む。

参考文献

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  • 『岩村町史』 十五 岩村藩主時代 1 松平氏(大給本家) p183~p186 岩村町史刊行委員会 1961年
  • 『恵那郡史』 第七篇 第二十八章 諸藩分治 其一 岩村藩 松平氏二代 p211~p213 恵那郡教育会 大正15年

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻九「松平 大給」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.50
  2. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻九「松平 大給」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.51

脚注

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外部リンク

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