「郭聖通」の版間の差分
編集の要約なし |
m cewbot: ウィキ文法修正 1: Template contains useless word template |
||
53行目: | 53行目: | ||
*<span style="font-size:90%;">『[[後漢書]]』本紀10上皇后紀上</span> |
*<span style="font-size:90%;">『[[後漢書]]』本紀10上皇后紀上</span> |
||
{{ |
{{後漢の皇后}} |
||
{{DEFAULTSORT:かく せいつう}} |
{{DEFAULTSORT:かく せいつう}} |
2019年10月29日 (火) 00:20時点における版
郭皇后 | |
---|---|
後漢の皇后 | |
在位 | 26年 - 41年 |
全名 | 郭聖通 |
別称 | 光武郭皇后 |
死去 |
52年(建武28年) |
配偶者 | 光武帝(劉秀) |
子女 |
劉彊 劉輔 劉康 劉延 劉焉 |
父親 | 郭昌 |
母親 | 郭主 |
弟 | 郭況 |
叔父 | 劉楊(劉揚) |
従兄弟 | 郭竟、郭匡 |
郭 聖通(かく せいつう、生年不詳 - 52年)は、後漢の初代皇帝光武帝(劉秀)の皇后。諡は武、光武郭皇后。冀州真定国藁城県の人。
事跡
光武帝の皇后となる
真定国の名族の生まれである。父の郭昌は、巨大な田宅財産を異母弟に譲り、国人から義とされた。郭昌は真定恭王劉普の娘を娶り(以後、劉普の娘は郭主と号す)、娘の聖通と子の況が生まれた。郭昌は早くに死去している。姉弟は郭主によって養育された。
更始2年(24年)春、劉秀は河北の王郎討伐の途中に真定に立ち寄り、この時、郭聖通を娶った。これは、劉秀が郭聖通の叔父・劉楊(劉揚)との関係を強化しようと目論んだことも動機である。光武帝として即位すると、郭聖通は貴人として立てられた。
建武元年(25年)、郭聖通は皇子劉彊を生んだ。また、当時16歳であった弟の郭況も黄門侍郎として登用されている。翌建武2年(26年)、郭聖通は皇后に、劉彊が皇太子に、それぞれ立てられた。なお同年には、真定王劉楊が謀反を企んだとして、光武帝の命を受けた前将軍耿純により誅殺されている。
廃后とその後
建武14年(38年)に郭況が城門校尉に昇進した頃から、郭聖通は光武帝からの寵愛が衰えたため、しばしば恨みを抱くようになる。そのため建武17年(41年)、郭聖通は皇后から廃され、陰麗華に取って代わられた。この時、光武帝が三公に詔を下して言うには、「郭皇后は恨みを抱き、教令に違背しており、また、その他の子(異腹の子)を教え諭し、従わせることができなかった(「不能撫循它子、訓長異室」)。それは、宮中にあたかも鷹や隼(「鷹鸇」)が在るかのようであった」とのことである。
このとき、劉彊も自ら望んで皇太子を廃された。そして、郭聖通の2番目の子である劉輔が中山王に封じられたことにより(このとき、常山郡が中山国と改められている)、郭聖通は中山王太后となっている。ただし郭氏全体としては、郭聖通の廃后によっても失脚することはなかった。むしろ郭況が大国の陽安侯に封じられたことを筆頭に、かえってその地位を高める結果となった。建武20年(44年)、劉輔が沛王に転じたことに伴い、郭聖通は沛王太后となった。
建武28年(52年)、郭聖通は死去した。北邙山に葬られている。光武帝は郭聖通を憐れむとして、郭況の子である郭璜に淯陽公主を娶わせ、郎官として登用した。
参考文献
- 『後漢書』本紀10上皇后紀上