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2024年3月1日 (金) 03:16時点における最新版

藤田 傊治郎

藤田 傊治郎(ふじた うんじろう[1]1883年明治16年)3月13日[1] - 没年不詳)は、日本内務官僚台湾総督府官僚

経歴

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岡山県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格[1]岐阜県属、神奈川県属、同鎌倉郡長、同理事官兵庫県理事官、同視学官秋田県警察部長関東庁事務官参事官・警務局警務課長兼警察官練習所長、同内務局学務課長、広島県学務部長、鹿児島県内務部長、栃木県内務部長を歴任した[1]。一時休職の後、1932年(昭和7年)、千葉県書記官・内務部長に任命された[1]

1935年(昭和10年)、台湾総督府交通局理事・逓信部長に転じ、翌年には台南州知事、ついで台北州知事に就任した[2]

1939年(昭和14年)に退官した後は、台北市会議員を務めた[3]

没年不詳。

脚注

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参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第10版(下)』人事興信所、1934年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版(下)』人事興信所、1939年。 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。