「菅浦の湖岸集落」の版間の差分
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{{日本の地区・地域 |
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[[ファイル:重要文化的景観 菅浦5.JPG|thumb|300px|菅浦の集落遠景と湖岸の「ウマ」<ref name=nagahama2012>{{Cite web |date=2012-08 |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20130918-173156.pdf |format=PDF |title=菅浦の今・昔 - なりわい散策マップ |publisher=[[長浜市]]教育委員会 文化財保護センター |accessdate=2018-08-03}}</ref>(橋板)]] |
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|地区名 = 菅浦 |
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'''菅浦の湖岸集落'''(すがうらのこがんしゅうらく)は、[[琵琶湖]]の北端に突き出し[[岬]]状をなす葛籠尾崎(つづらおざき)の西側の[[入り江]]に位置し、[[滋賀県]][[長浜市]][[西浅井町]]菅浦の菅浦(すがのうら<ref name=Shirasu>{{cite book |和書 |author=[[白洲正子]] |title=かくれ里 |edition=愛蔵版(新装版) |publisher=[[新潮社]] |year=2010 |origyear=1971 |isbn=978-4-10-310719-4 |pages=191-204}}</ref>)地区を指す。[[2014年]]([[平成]]26年)10月6日、「菅浦の湖岸集落景観」として[[文化財保護法]]に基づき国の[[重要文化的景観]]として選定された<ref name=nagahama2014>{{Cite web |date=2014-10-07 |url=http://www.city.nagahama.lg.jp/0000001608.html |title=重要文化的景観「菅浦の湖岸集落景観」選定について |publisher=[[長浜市]] |accessdate=2018-07-22}}</ref>。また、[[2016年]](平成28年)には、前年の[[2015年]](平成27年)に[[日本遺産]]として認定された「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素として、菅浦の湖岸集落景観が追加選定を受けた<ref name=visitors>{{Cite web |date=2016-04-25 |url=https://www.biwako-visitors.jp/news/detail/5712 |title=日本遺産「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」に構成文化財が追加認定されました |website=滋賀県観光情報 |publisher=びわこビジターズビューロー |accessdate=2018-07-22}}</ref>。 |
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|仮名 = すがうら |
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|区分 = |
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|都道府県 = 滋賀県 |
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|自治体 = [[長浜市]] |
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|旧自治体 = [[伊香郡]][[西浅井町]] |
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|面積 = 6.185 |
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|世帯数 = 72 |
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|人口 = 177 |
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|人口統計URL = https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=25&city=25203&id=312 |
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|人口統計種類 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]] |
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|人口の時点 = [[2015年]]10月1日 |
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|隣接 = 長浜市西浅井町大浦・小山・山田<br />長浜市[[高月町]]片山<br />長浜市早崎町([[竹生島]]) |
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|外部リンク = |
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|位置画像 = |
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|特記事項 = |
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[[ファイル:重要文化的景観 菅浦5.JPG|thumb|290px|菅浦の集落遠景と湖岸の「ウマ」(橋板)]] |
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{{Location map |
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|Japan Shiga |
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|label= 菅浦 |
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|position= left |
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|lat= 35.458472 |
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|long= 136.142222 |
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|width= 180 |
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|float=right |
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|caption= 菅浦の位置(滋賀県) |
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'''菅浦の湖岸集落'''(すがうらのこがんしゅうらく)は、[[琵琶湖]]の北端より南に突き出て[[岬]]状となる葛籠尾崎(つづらおざき)の西側の[[入り江]]に位置し、[[滋賀県]][[長浜市]][[西浅井町]]菅浦の菅浦(すがうら〈すがのうら<ref name=Shirasu>{{cite book |和書 |author=[[白洲正子]] |title=かくれ里 |edition=愛蔵版(新装版) |publisher=[[新潮社]] |year=2010 |origyear=1971 |isbn=978-4-10-310719-4 |pages=191-204}}</ref>〉<ref name=Kuramochi_1>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、1頁</ref>)<ref name=kotobank>{{cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E8%8F%85%E6%B5%A6-844916 |title=菅浦 |website=[[コトバンク]] |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2019-07-11}}</ref>を中心とする地域を指す。 |
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[[2014年]]([[平成]]26年)10月6日、「菅浦の湖岸集落景観」として[[文化財保護法]]に基づき国の[[重要文化的景観]]として選定された<ref name=nagahama2014>{{Cite web |date=2014-10-07 |url=http://www.city.nagahama.lg.jp/0000001608.html |title=重要文化的景観「菅浦の湖岸集落景観」選定について |publisher=[[長浜市]] |accessdate=2018-07-22}}</ref>。また、[[2016年]](平成28年)には、前年の[[2015年]](平成27年)に[[日本遺産]]として認定された「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素として、菅浦の湖岸集落景観が追加選定された<ref>{{Cite web |date=2016-04-25 |url=https://www.biwako-visitors.jp/news/detail/5712 |title=日本遺産「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」に構成文化財が追加認定されました |website=滋賀県観光情報 |publisher=びわこビジターズビューロー |accessdate=2018-07-22}}</ref>。 |
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== 地誌 == |
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[[ファイル:重要文化的景観 菅浦1.JPG|thumb|西の四足門]] |
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== 概要 == |
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菅浦は、天皇に供える食物を献上する[[贄|贄人]](にえびと)が定着したのが始まりとされる<ref name=tonbo>{{cite book |和書 |author1=白洲正子 |author2=光野桃 |author3=青柳恵介 |author4=山崎省三 |title=白洲正子と楽しむ旅 |series=[[とんぼの本]] |publisher=新潮社 |year=2003 |isbn=978-4-10-602105-3 |pages=95-99}}</ref>。葛籠尾崎の付け根部分に位置する菅浦は、険しい[[山]]に囲まれているため<ref name=Fujii>{{cite book |和書 |editor=藤井讓治 |title=近江・若狭と湖の道 |series=街道の日本史31 |publisher=[[吉川弘文館]] |year=2003 |isbn=4-642-06231-9 |pages=82-83}}</ref>、[[水運]]主体の隔絶された[[集落]]であった<ref name=tonbo />。これにより早くから[[惣村]](そうそん)が形成され、[[自検断]]を行使した。集落の東西には境界となる「四足門」(四方門)が残されており、かつては集落の四方にあって部外者の出入りを厳しく監視していた<ref name=sanpo25>{{cite book |和書 |editor=滋賀県歴史散歩編集委員会 |title=滋賀県の歴史散歩 下 - 彦根・湖東・湖北・湖西 |series=歴史散歩25 |publisher=[[山川出版社]] |year=2008 |isbn=978-4-634-24825-0 |pages=191-192}}</ref><ref name=tanko>{{cite book |和書 |title=京都・滋賀 かくれ里を行く |series=淡交ムック |publisher=[[淡交社]] |year=2005 |isbn=4-473-02094-0 |pages=121-122}}</ref>。これら集落の掟と動向ならびに構造は、[[須賀神社 (長浜市)|須賀神社]]より発見された「菅浦文書」<ref name=Imatani>{{cite book |和書 |author=今谷昭 |title=近江から日本史を読み直す |series=[[講談社現代新書]] |publisher=[[講談社]] |year=2007 |isbn=978-4-06-149892-1 |pages=135-140}}</ref>(すがうらもんじょ、[[国宝]]<ref name=nagahama2018>{{Cite web |date=2018-03-20 |url=http://www.city.nagahama.lg.jp/0000004172.html |title=重要文化財「菅浦文書」の「国宝」指定について |publisher=長浜市 |accessdate=2018-07-22}}</ref><ref name=kyoto-np>{{Cite news |url=https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20181031000159 |title=古文書「菅浦文書」国宝に正式指定 滋賀・長浜 |newspaper=[[京都新聞]] |publisher=京都新聞社 |date=2018-10-31 |accessdate=2019-07-11}}</ref>、須賀神社蔵・[[滋賀大学]]経済学部付属史料館寄託)に詳細に記されており<ref name=nagahama2014 />、近隣の大浦(大浦荘〈おおうらのしょう〉<ref name=Yamao_304>{{cite book |和書 |author=山尾幸久 |authorlink=山尾幸久 |title=古代の近江 - 史的探求 |publisher=[[サンライズ出版]] |year=2016 |isbn=978-4-88325-592-4 |page=304}}</ref>)との激しい争いもよく知られる<ref name=Imatani />。 |
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[[天平宝字]]8年([[764年]])、[[藤原仲麻呂の乱|藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱]]の際に逃れた[[淳仁天皇]]の隠棲伝説も伝わり、須賀神社の祭神として祀られている<ref name=tonbo /><ref name=sanpo25 />。須賀神社は[[明治]]時代まで保良神社と称され、この地が淳仁天皇の[[保良宮]](ほらのみや)であったとされる<ref name=Shirasu />。また、[[天正]]元年([[1573年]])、[[小谷城]]落城の際に[[浅井長政]]の子の万菊丸が菅浦の安相寺に逃れたという伝承もある<ref name=nagahama2011>{{Cite web |date=2011-10-19 |url=http://www.city.nagahama.lg.jp/0000000199.html |title=国指定史跡「小谷山城 - 戦国大名浅井氏の居城 -」 |publisher=長浜市 |accessdate=2018-07-22}}</ref>。 |
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集落では、[[漁労]]・[[稲作]]・[[畑作]]・[[林業]]が長らく続けられ、明治時代以降は[[タバコ]]栽培や[[養蚕]]も行われるようになった。また、[[1960年]]([[昭和]]35年)頃からの[[ヤンマー]]家庭工場の作業場も一部現存する<ref name=nariwai>{{Cite web |date=2012-08 |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20130918-173156.pdf |format=PDF |title=菅浦の今・昔 - なりわい散策マップ |publisher=[[長浜市]]教育委員会 文化財保護センター |accessdate=2018-08-03}}</ref>。[[1966年]](昭和41年)、自衛隊により<ref name=tonbo />、菅浦と[[西浅井町大浦|大浦]]を結ぶ道路([[滋賀県道513号葛籠尾崎大浦線|県道513号葛籠尾崎大浦線]])が開通し、[[1971年]](昭和46年)には菅浦の山間部に[[奥琵琶湖パークウェイ]]([[滋賀県道512号葛籠尾崎塩津線|県道512号葛籠尾崎塩津線]])が開通した。奥琵琶湖パークウェイの開通に伴い自動車でアクセスが可能となると、中世の伝統をとどめる地域として脚光を浴びるようになる{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1979|p=407}}。その後、[[1979年]](昭和54年)には菅浦漁港(菅浦舟だまり)が整備され、それまで舟溜まりがあった西の舟入(西の川)と東の舟入(東の川)は埋め立てられた。湖岸堤もこの頃に整備された<ref name=nariwai />。2015年(平成27年)現在、菅浦地域には、72世帯、177人が暮らしている<ref name=toukei2015>{{cite web |url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=25&city=25203&id=312 |title=西浅井町菅浦 |website=人口統計ラボ |publisher=toukei-labo.com |accessdate=2019-07-11}}</ref>。 |
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== 歴史 == |
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=== 古代 === |
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菅浦地域には[[縄文時代]]より[[ヒト]]の生活が認められ、葛籠尾崎の先端東側の湖底に位置する「葛籠尾崎湖底遺跡」のほか<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -3・31-37頁</ref>、奥出湾に位置する「諸川湖底 A 遺跡」が知られる。また、菅浦地区の山腹には[[弥生時代]]の集落跡の「菅浦遺跡」がある。奥出湾に面した北斜面には<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -3・31頁</ref>、[[飛鳥時代]]の[[7世紀]]後半とされる「諸川瓦窯跡」(もろかわがようあと)があり、[[1986年]]〈昭和61年〉3月28日<ref>{{Cite web |url=https://www.pref.shiga.lg.jp/site/jourei/reiki_int/reiki_honbun/k001RG00001455.html |title=滋賀県指定史跡、滋賀県指定名勝の指定 |date=1996-03-28 |publisher=滋賀県 |accessdate=2019-07-11}}</ref>、滋賀県指定史跡に指定されている<ref>{{Cite web |url=http://www.shiga-ec.ed.jp/www/contents/1438304524592/html/common/other/55d173d3071.pdf |format=PDF |title=諸川瓦窯跡 |work=滋賀県文化財学習シート 069 |publisher=[[滋賀県総合教育センター]] |accessdate=2019-07-11}}</ref><ref name=bunkazai>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/311/20150427-194010.pdf |format=PDF |title=長浜市所在指定文化財一覧 |date=2015-04-01 |publisher=長浜市 |accessdate=2019-07-11}}</ref>。このほか近郊の山麓に飛鳥([[白鳳]]<ref name=report_I-3>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -3頁</ref>)時代の[[寺院]]跡の「白山遺跡」(はくさんいせき)も知られる<ref name=remains>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/138/20120110-200522.pdf |format=PDF |title=長浜市遺跡地図 |publisher=長浜市 |accessdate=2019-07-11}}</ref>。[[奈良時代]]には[[万葉集]]にも詠まれたように、菅浦は[[水運]]における主要な[[港湾|湊]](停泊地)の1つであった<ref name=report_I-3 />。 |
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菅浦に贄人が定住した時代は不明であるが、およそ[[8世紀]]末-[[11世紀]]中頃であったと考えられる<ref>[[#Amino|網野 「湖の民と惣の自治 - 近江国菅浦」 (1973)、『網野善彦著作集10』]]、309頁</ref>。菅浦は、[[長久]]2年([[1041年]])<ref name=report_I-5>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -5頁</ref>に立券された[[園城寺]][[円満院]]領の大浦荘<ref name=Yamao_304 />の一部とされたが<ref name=museum_99>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、99頁</ref>、菅浦はこれを否定し、[[平安時代]]末期頃までに<ref name=Inagaki_100>[[#Inagaki|稲垣 (1985)]]、100頁</ref>、[[竹生島]][[弁才天]]の[[本山|本寺]]、[[延暦寺|山門]](比叡山)檀那院領として独立した<ref name=Imatani /><ref>[[#Akamatsu|赤松 (1956)]]、400-401頁</ref>。比叡山との関係により住人の一部は[[日吉大社]]<ref name=nagahama_sheet>{{cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20130918-173536.pdf |format=PDF |title=地域学習シート 菅浦を守った人たち |date=2013-03 |publisher=長浜市教育委員会 文化財保護センター |accessdate=2019-07-11}}</ref>の[[神人]](じにん)となった<ref name=museum_99 />。また、[[12世紀]]中頃<ref name=report_I-5 />の平安時代末期以降には、一部が御厨子所(みずしどころ)の[[供御人]]となり、[[蔵人|蔵人所]]の所管となる[[内蔵寮]](くらりょう)の支配のもとについた<ref name=Kuramochi_1 />。供御人となった目的は、[[賀茂神社|鴨社]][[御厨]]の[[堅田]][[神人#下級神職・寄人|供祭人]]の漁労による妨害を排除することにあったともいわれ<ref>[[#Yamane|山根 (2017)]]、69頁</ref>、後の[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])や[[応永]]4年([[1397年]])にも堅田との漁場紛争が見られる<ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、70-73頁</ref>。 |
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=== 中世 === |
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菅浦は、[[中世#日本|中世]]の惣村と称される自立的・自治的村落[[共同体]]として知られる<ref>[[#Katsumata|勝俣 「惣村と惣所」 (1984)、『家・村・領主』]]、4頁</ref>。菅浦で初めて「そう(惣)」という語が認められるのは、[[貞和]]2年([[1346年]])の「菅浦庄惣村置文」(菅浦文書180号)においてであり、この「ところ(所)おきふミ(置文)の事」と記された惣掟には<ref name=Katsumata_7>[[#Katsumata|勝俣 「惣村と惣所」 (1984)、『家・村・領主』]]、7頁</ref>、田畑の個人売買の制限について定められている<ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、188-191・194頁</ref><ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -47頁</ref>。中世以来、菅浦の惣村は西と東の村より構成され<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、143頁</ref>、その居住地を総じて「所」と称した<ref name=Amino_335>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、335頁</ref>。また、[[15世紀|15]]-[[16世紀]]には「乙名」(おとな)20人(東・西、各10人)、「中老」(中乙名)東・西、各2人、それに「若衆」からなる自治組織を整えていた<ref>[[#Katsumata|勝俣 「惣村と惣所」 (1984)、『家・村・領主』]]、14-15頁</ref>。その惣村の自検断の規範を示す例として、[[寛正]]2年([[1461年]])7月13日の「菅浦惣庄置文」(菅浦文書227号)には、人を罰するには私的な関係で判断せず、証拠を重視し、乙名の合議により裁判を行なうことなどが定められている<ref>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、100・121頁</ref><ref name=sugaura>{{citation |和書 |title=奥琵琶湖 歴史の里 菅浦 |publisher=[[西浅井町]]}}</ref>。 |
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中世の菅浦においては、集落の北西に位置する日指(ひさし〈ヒサシデ<ref name=nagahama_sheet /><ref name=Sano_137>[[#Sano|佐野 (2017)]]、137頁</ref>〉)・諸河(もろかわ〈モロコ<ref name=nagahama_sheet /><ref name=Sano_137 />〉)の約16[[ヘクタール]]<ref name=native>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/section/kyouken/junior/category_01/02_chusei/times/sugaura.html |title=菅浦文書 |editor=長浜市キョウイクセンター |webcite=わたしたちの長浜 |publisher=長浜市 |accessdate=2019-07-11}}</ref>(16[[町 (単位)|町]]7[[反]]<ref>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、100頁</ref>)の田地を巡る大浦との200年におよぶ争いがよく知られる<ref name=Imatani /><ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、72頁</ref>。特に[[文安]]の争いが、文安6年([[1449年]])菅浦惣荘置書とも称される合戦記<ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、29頁</ref>「菅浦惣庄合戦注記」(菅浦文書628号)に記されるが、この文安2年([[1445年]])の合戦の150年前である[[永仁]]3年([[1295年]])にはすでに争いが生じていた<ref name=report_I-5 /><ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、42頁</ref>。また、文安の合戦後も大浦との争いは続き、寛正2年(1461年)、大浦荘で菅浦の者が殺されるという盗賊事件が発生すると、15世紀中頃には[[日野家|日野]][[裏松家]]領であったことから<ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、340頁</ref>、日野家のもとで審理され[[湯起請]]が行なわれた。そこで菅浦方が敗訴したことにより、菅浦征伐に向けられた大軍に菅浦は包囲され、菅浦は合戦を覚悟したが、仲介を通じて菅浦の2人が[[下手人#げしにん|下手人]]となり降参したことで<ref>{{cite book |和書 |author=藤木久志 |authorlink=藤木久志 |title=戦国の作法 - 村の紛争解決 |series=平凡社選書 |publisher=[[平凡社]] |year=1987 |isbn=4-582-84103-1 |pages=156-158}}</ref>滅亡を免れた<ref name=report_I-5 /><ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、343-344頁</ref>。 |
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[[近江国]]を[[領有]]した[[京極氏]]の勢力は菅浦にもおよんでいたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]となる[[京極高清]]の時代、北近江の[[浅井亮政]]の反乱により勢力を拡大した[[浅井氏]]に菅浦は支配されていった。[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])の舟の動員のほか、直接年貢や物資を取り立て、菅浦の自治においても干渉し支配を強めた浅井氏により、菅浦の自治の根幹であった自検断は奪われ<ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、348-349頁</ref>、以後、復活することはなかった<ref name=report_I-6>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -6頁</ref>。 |
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=== 近世 === |
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[[織田信長]]により浅井氏が滅んだ後、[[文禄]]5年([[1596年]])には[[石田三成]]の支配のもとで菅浦は[[豊臣政権]]下の1村落として「菅浦村」となり、[[慶長]]7年([[1602年]])の[[検地]]により[[石高]]は473[[石 (単位)|石]]とされるとともに日指・諸河の領有も確定している<ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、350頁</ref>。 |
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[[江戸時代]]になると、[[慶安]]4年([[1651年]])より[[本多氏]]の支配のもと[[膳所藩]]領となった<ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、353頁</ref>。自治の根幹は浅井氏に屈服して以来すでに失われたが、西と東より選ばれる中老、若衆といった組織は残り、乙名の流れをくむ「忠老役」(中老)20人により村内の運営や諸行事が行なわれ<ref>[[#Amino|網野 「湖の民と惣の自治 - 近江国菅浦」 (1973)、『網野善彦著作集10』]]、326頁</ref>、膳所藩が菅浦に立てた[[代官]]と強く対立したこともあった<ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、353-355頁</ref>。 |
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=== 近代 === |
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[[1889年]](明治22年)に町村制が実施されると、菅浦は[[永原村]]の大字になる{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1979|p=406}}。中世菅浦の20人の乙名は、江戸時代の忠老役から、諸制度の改編に組み入れられた明治・[[大正]]時代にも「廿人代(20人代)」「廿人衆(20人衆)」として続き、昭和期以降も「長老衆」(4人)として存続されていった<ref>[[#Katsumata|勝俣 「惣村と惣所」 (1984)、『家・村・領主』]]、15頁</ref><ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、162-163頁</ref>。[[1875年]](明治8年)の戸数および人口は、111戸、450人であり、[[近世#日本|近世]]以来、ほとんど変化は見られない<ref>[[#Amino|網野 「湖の民と惣の自治 - 近江国菅浦」 (1973)、『網野善彦著作集10』]]、351・353頁</ref>。その後、[[1985年]](昭和60年)の戸数は100戸であった<ref name=Ota1987_623>[[#Ota1987|太田 (1987)]]、117 (623)頁</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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|+戸数と人口の推移<ref>[[#Amino|網野 「湖の民と惣の自治 - 近江国菅浦」 (1973)、『網野善彦著作集10』]]、353頁</ref> |
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! 和暦(西暦) |
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! 戸数(戸) |
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! 人口(人) |
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! 男性(人) |
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! 女性(人) |
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| align= | 慶長7年(1602年) |
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| align="center" | 107 |
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| align= | [[寛政]]2年([[1792年]]) |
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| align="center" | 102 |
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| align="center" | 477 |
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| align="center" | 260 |
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| align="center" | 217 |
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| align= | [[天保]]8年([[1837年]]) |
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| align="center" | 100 |
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|- |
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| align= | 明治4年([[1871年]]) |
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| align="center" | 104 |
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| align="center" | 430 |
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| align="center" | 210 |
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| align="center" | 220 |
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|- |
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| align= | 明治8年(1875年) |
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| align="center" | 111 |
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| align="center" | 450 |
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|- |
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| colspan=5| |
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| align= | 昭和60年(1985年)<ref name=Ota1987_623 /> |
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| align="center" | 100 |
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=== 現代 === |
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永原村と[[塩津村 (滋賀県)|塩津村]]の合併に伴い、[[1955年]](昭和30年)からは西浅井村(1971年〈昭和46年〉からは[[西浅井町]])の所属になる{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1979|pp=406-407}}。2010年(平成22年)、[[伊香郡]]西浅井町が、[[高月町]]・[[木之本町]]・[[余呉町]]などとともに長浜市に編入されると、長浜市は高齢化や過疎化が進む菅浦における景観保存事業の検討を始め、[[2011年]](平成23年)度より[[文化的景観]]の調査が開始された<ref>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20131025-155117.pdf |format=PDF |title=菅浦の重要文化的景観選定を目指して |publisher=長浜市 |accessdate=2019-07-11}}</ref>。その後、文化的景観保存計画の策定などがなされ<ref name=landscape>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20130918-173012.pdf |format=PDF |title=菅浦の集落景観 - 重要文化的景観の選定を目指して! |publisher=長浜市教育委員会 |accessdate=2019-07-11}}</ref>、2014年(平成26年)には長浜市西浅井町菅浦の全域および琵琶湖の一部を含む1568[[ヘクタール]] (1568.4 ha<ref>{{Cite web |url=http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/283856/1 |title=菅浦の湖岸集落景観 |work=国指定文化財等データベース |website=文化遺産オンライン |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2019-07-11}}</ref>〈陸域613.0 ha・水域955.4 ha〉<ref>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、103頁</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/285/20141212-170836.pdf |format=PDF |title=重要文化的景観「菅浦の湖岸集落景観」概要版 |publisher=[[長浜市]] |accessdate=2019-07-11}}</ref>)の区域が重要文化的景観に選定された<ref>{{Cite news |title=奥琵琶湖「菅浦の湖岸集落景観」国重要文化的景観に 滋賀 |work=[[産経新聞ニュース|産経ニュース]] |date=2014-07-22 |url=https://www.sankei.com/region/news/140722/rgn1407220002-n1.html |accessdate=2019-07-11}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.nabunken.go.jp/org/bunka/landscape/pdf/sugaura.pdf |format=PDF |title=菅浦の湖岸集落景観 |editor=奈良文化財研究所文化遺産部景観研究室 |date=2015-09-01 |work=重要文化的景観選定地区情報シート (No.1) |publisher=[[奈良文化財研究所]] |accessdate=2019-07-11}}</ref>。 |
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[[2010年]](平成22年)10月の[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]によれば、菅浦(行政町名としての「菅浦」地域)には、81世帯、217人が暮らしたが<ref>{{cite web |url=https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=25&city=25203&id=92 |title=西浅井町菅浦(平成22年版) |website=人口統計ラボ |publisher=toukei-labo.com |accessdate=2019-07-11}}</ref>、2015年(平成27年)10月1日の調査時点においては、72世帯、177人になっている<ref name=toukei2015 />。 |
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{| class="wikitable" |
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|+世帯数と人口(男女別) |
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! 西暦(和暦) |
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! 世帯数(世帯) |
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! 人口(人) |
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! 男性(人) |
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! 女性(人) |
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| align= | 2010年(平成22年) |
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| align="center" | 81 |
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| align="center" | 217 |
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| align="center" | 107 |
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| align= | 2015年(平成27年) |
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| align="center" | 72 |
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| align="center" | 177 |
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| align="center" | 83 |
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| align="center" | 94 |
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|} |
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== 伝承 == |
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[[ファイル:Shiga suga-jinja.JPG|thumb|[[須賀神社 (長浜市)|須賀神社]]]] |
[[ファイル:Shiga suga-jinja.JPG|thumb|[[須賀神社 (長浜市)|須賀神社]]]] |
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[[758年]](天平宝字2年)に即位した淳仁天皇は<ref>『[[続日本紀]]』巻第21 廃帝 淳仁天皇 天平宝字2年8月-12月</ref>、764年(天平宝字8年)の[[藤原仲麻呂]](恵美押勝)の乱により[[廃帝|廃位]]され、大炊親王(おおいのみこ)として[[淡路国]]に流されたが<ref>『[[続日本紀]]』巻第25 廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年正月-12月</ref>、淳仁天皇の隠棲した地は菅浦であると伝えられ、淡路は「淡海」(近江国)であるとされる。天皇が菅浦に造営した保良宮の跡といわれる須賀神社(旧・保良神社〈菅浦大明神〉)には淳仁天皇が祭神として祀られ、[[神体]]は天皇が[[カヤ]]の木を採り彫刻した神像といわれる<ref name=tonbo /><ref>{{Cite web |url=http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1299 |title=須賀神社(スガ) |work=神社紹介 |publisher=滋賀県[[神社庁]] |accessdate=2019-07-11}}</ref>。背後には淳仁天皇の舟形御陵と称される石積がある。天皇の没後50年ごとに法要が営まれており、[[2013年]](平成25年)10月には1250式年祭が行われた<ref>{{Cite web |url=http://naga-labo.org/daily/sugajinnjya/ |title=須賀神社の「須賀神社例祭」 |author=植田淳平 |date=2018-12-15 |webcite=長浜くらしノート |publisher=長浜生活文化研究所 |accessdate=2019-07-11}}</ref>。また、南東の葛籠尾崎の山上には「鉄穴遺跡」(てつあないせき)があり<ref name=remains />、この周囲約60メートルの神様山とも呼ばれる墳丘上部に認められる2基は、淳仁天皇の生母の[[当麻山背]]<ref name=Shirasu />ならびに后妃(従者<ref name=Shirasu />とも)の陵墓であると伝えられる<ref>「鉄穴 じんつぼ」(現地案内板)</ref>。 |
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菅浦は、天皇に供える食物を献上する[[贄#概要|贄人]](にえひと)が定着したのが始まりとされる<ref name=tonbo>{{cite book |和書 |author1=白洲正子 |author2=光野桃 |author3=青柳恵介 |author4=山崎省三 |title=白洲正子と楽しむ旅 |series=[[とんぼの本]] |publisher=新潮社 |year=2003 |isbn=978-4-10-602105-3 |pages=95-99}}</ref>。葛籠尾崎の付け根部分に位置する菅浦は、険しい[[山]]に囲まれているため<ref name=Fujii>{{cite book |和書 |editor=藤井讓治 |title=近江・若狭と潮の道 |series=街道の日本史31 |publisher=[[吉川弘文館]] |year=2003 |isbn=4-642-06231-9 |pages=82-83}}</ref>、[[水運]]主体の隔絶された[[集落]]であった<ref name=tonbo />。これにより早くから[[惣村]](そうそん)が形成され、[[自検断]]を行使して、[[近江国]]を[[領有]]した[[京極氏]]や[[浅井氏]]の[[統治]]を嫌い、対立したこともあった。集落の東西には境界となる「四足門」(四方門)が残されており、かつては集落の四方にあって部外者の出入りを厳しく監視していた<ref name=sanpo25>{{cite book |和書 |editor=滋賀県歴史散歩編集委員会 |title=滋賀県の歴史散歩 下 - 彦根・湖東・湖北・湖西 |series=歴史散歩25 |publisher=[[山川出版社]] |year=2008 |isbn=978-4-634-24825-0 |pages=191-192}}</ref><ref name=tanko>{{cite book |和書 |title=京都・滋賀 かくれ里を行く |series=淡交ムック |publisher=[[淡交社]] |year=2005 |isbn=4-473-02094-0 |pages=121-122}}</ref>。これら集落の掟と動向ならびに構造は、[[1917年]]([[大正]]6年)に[[須賀神社 (長浜市)|須賀神社]]より発見された「菅浦文書(すがうらもんじょ)」<ref name=Imatani>{{cite book |和書 |author=今谷昭 |title=近江から日本史を読み直す |series=[[講談社現代新書]] |publisher=[[講談社]] |year=2007 |isbn=978-4-06-149892-1 |pages=136-140}}</ref>([[国宝]]<ref name=nagahama2018>{{Cite web |date=2018-03-20 |url=http://www.city.nagahama.lg.jp/0000004172.html |title=重要文化財「菅浦文書」の「国宝」指定について |publisher=長浜市 |accessdate=2018-07-22}}</ref>、須賀神社蔵・[[滋賀大学]]経済学部付属史料館寄託)に詳細に記されており<ref name=nagahama2014 />、近隣の大浦(大浦庄)との激しい争いもよく知られる<ref name=Imatani />。また、菅浦は[[両墓制]]であり、門外の埋め墓へ遺体は埋葬され、門内の寺院境内に詣り墓が設けられている<ref name=Fujii />。 |
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戦国時代、浅井長政の居城であった小谷城の落城の際、万菊丸と呼ばれた長政の幼子が、家臣と乳母に伴われて菅浦に逃れたという伝承もある<ref name=nagahama2011 />。万菊丸は家臣ら3人に守られて小谷城を脱出すると、礼信寺(現・長浜市小谷上山田町)で一夜を明かした後、菅浦の安相寺に移り、夜、船で下坂浜(現・長浜市平方町)の葦原に潜んだが、再び菅浦に戻り安相寺に隠れたといわれる。その後、万菊丸は[[福田寺 (米原市)|福田寺]](ふくでんじ)の養子に入り、第12世正芸として法灯を継いだと伝わり、菅浦にも同様の伝承が残されている<ref name=report_I-6 />。 |
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集落では、[[稲作]]・[[畑作]]・[[林業]]・[[漁労]]が長らく続けられ、[[明治]]以降は[[タバコ]]栽培や[[養蚕]]も行われるようになった。タバコの生産は[[1960年]](昭和35年)頃まで続けられた。また、1960年(昭和35年)頃からの「[[ヤンマー]]菅浦農村家庭工場」の作業場も一部現存する<ref name=nagahama2012 />。[[1966年]](昭和41年)、自衛隊により<ref name=tonbo />、菅浦と[[西浅井町大浦|大浦]]を結ぶ道路([[滋賀県道513号葛籠尾崎大浦線|県道513号葛籠尾崎大浦線]])が開通し、[[1971年]](昭和46年)には菅浦の山間部に奥琵琶湖パークウェイ([[滋賀県道512号葛籠尾崎塩津線|県道512号葛籠尾崎塩津線]])が開通した。その後、[[1979年]](昭和54年)には菅浦漁港(菅浦舟だまり)が整備され、それまで舟溜まりがあった西の川(西の舟入)と東の川(東の舟入)は埋め立てられた。湖岸堤もこの頃に整備された<ref name=nagahama2012 />。菅浦全体では、81世帯、217人が暮らしている<ref>[http://toukei-labo.com/2010/?tdfk=25&city=25203&id=92 人口統計ラボ]</ref>。 |
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== 生業 == |
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[[764年]]([[天平宝字]]8年)、[[藤原仲麻呂の乱]]の際に逃れた[[淳仁天皇]]の隠棲伝説も伝わり、須賀神社(旧・保良神社)の祭神として祀られている<ref name=tonbo /><ref name=sanpo25 />。須賀神社は明治時代まで保良神社と称され、この地が淳仁天皇の[[保良宮]](ほらのみや)であったとされる<ref name=Shirasu />。また、[[1573年]]([[天正]]元年)、[[小谷城]]落城の際に[[浅井長政]]の子の万菊丸が菅浦の現・安相寺に逃れたという伝承もある<ref name=nagahama2011>{{Cite web |date=2011-10-19 |url=http://www.city.nagahama.lg.jp/0000000199.html |title=国指定史跡「小谷山城 - 戦国大名浅井氏の居城 -」 |publisher=長浜市 |accessdate=2018-07-22}}</ref>。 |
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=== 水運 === |
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[[古代#日本史|古代]]より主要な湊の1つであった菅浦の舟運は、交易において重要であり、[[文政]]7年([[1842年]])の菅浦には、20-30石積の丸船20艘、田地養船11艘を数えた<ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、350-351頁</ref>。その後、明治時代初期まで、菅浦は湖北における塩津・大浦などとともに、[[若狭国|若狭]]と[[京都]]・[[大阪]]を結ぶ水運の主要港としての役目を果たしていた<ref>[[#Yoshimura|吉村 (2018)]]、12頁</ref>。 |
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=== 漁業 === |
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供御人が住んだ湖岸の菅浦集落の主な生業は漁業であり<ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、70-76頁</ref>、かつての漁は[[筌]]などの[[漁具]]によるものであったと考えられる<ref name=Sano_90>[[#Sano|佐野 (2017)]]、90頁</ref>。堅田による小糸網([[刺し網]]の一種<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、78-79頁</ref>)の漁が各地に伝えられたのは近世後期であった<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、79頁</ref>。漁業が経済的に成り立つようになったのは大正時代以降といわれ<ref>[[#Yoshimura|吉村 (2018)]]、18頁</ref>、菅浦の延縄漁は、堅田より大正時代末期に伝えられた<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、94頁</ref>。 |
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<gallery perrow=5 widths="160px" heights="160px"> |
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ファイル:重要文化的景観 菅浦4.JPG|集落の石垣 |
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昭和期に見られた漁法は、[[定置網]]漁・すくい漁・[[底引網]]漁・[[釣り]]漁・筌漁など多彩であった<ref name=Ota2018>{{cite book |和書 |author=太田浩司 |title=湖の城・舟・湊 - 琵琶湖が創った近江の歴史 |year=2018 |publisher=サンライズ出版 |isbn=978-4-88325-642-6 |page=121}}</ref>。菅浦地区の湖岸は沈降性の地形をなし、湖岸より10メートル以内で水深30メートルに達しており<ref name=Sano_90 />、その沖合では、[[定置網]]漁である小糸網漁や、[[釣り糸]]を流す[[延縄]]漁が行なわれた<ref name=Ota2018 />。また、沿岸ではエリ漁やオイサデ漁も盛んであった。菅浦における漁業の最盛期はおよそ昭和40年代から50年代初頭であったといわれ、[[1978年]](昭和53年)には漁業従事者39人(専業15人・兼業24人)であったが、漁獲の減少などに伴い、現在は10人ほどとなり、30艘であった沖曳き網用漁船も、今日ではごくわずか(2艘)となっている<ref name=report_I-160>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -160頁</ref><ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、166-167頁</ref>。 |
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ファイル:重要文化的景観 菅浦3.JPG|集落の東端 |
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File:Sugaura to ōura shimo no shō sakai ezu.jpg|菅浦与大浦下庄堺絵図(菅浦文書とともに国宝に指定) |
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; エリ漁 |
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</gallery> |
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: エリ(魞)を用いた定置漁業は、構造や規模は異なるものの、琵琶湖では1000年以上の歴史があるといわれる<ref>[[#Yamane|山根 (2017)]]、91-103頁</ref>。ただし、菅浦におけるエリ漁は昭和期になるまで見られず、戦後、菅浦の地域にも[[竹]]・[[すのこ]]による竹簀エリが立てられていった<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -158-159頁</ref>。現在では[[網]]エリを張り、「ツボ」(陥穽部<ref>[[#Yamane|山根 (2017)]]、94頁</ref>)の周囲に渡した板の上で操業し<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -162頁</ref>、[[アユ]]・[[イサザ]]・小エビ([[スジエビ]]<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -162-163頁</ref>)などを漁獲している<ref name=nagahama2013>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20130917-152805.pdf |format=PDF |title=菅浦 - 変わりゆく景観 |date=2013-03 |publisher=長浜市教育委員会 文化財保護センター |accessdate=2019-07-11}}</ref>。 |
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; オイサデ漁 |
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: オイサデ漁(追いさで漁)は、湖北の菅浦から[[高島市]]にかけて特徴的に行なわれる<ref name=Ota2018 />。始められた時代は不明であるが<ref name=Ota2018 />、アユが[[カラス]]を恐れる習性を利用した漁法といわれ<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -164頁</ref>、竹の竿にカラスなどの[[羽毛|羽根]]をつけた「追い棒」でアユ(コアユ)を追い、「さで網」ですくい取る<ref name=Ota2018 /><ref>{{Cite web |url=http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/218489 |title=高島市海津・西浜・知内の水辺景観 |website=文化遺産オンライン |publisher=文化庁 |accessdate=2019-07-11}}</ref>。このオイサデ漁も最盛期には菅浦で12組を数えたが、現在ではごく一部(1組)のみである<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、167頁</ref>。 |
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=== 農業 === |
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耕地の少ない菅浦の稲作は、ほとんどが集落より舟で通う日指・諸河の田地でなされ、収穫された稲は日当たりのよい菅浦集落の「ハマ」に運ばれてハサ場(稲場)に干された<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、137頁</ref>。湖岸には稲干し用に立てられた高さ4メートルの「ハサ杭」(多くは[[クリ]]材)がハサ場(稲場)に並び、日指・諸河で収穫された稲が舟で運ばれると、ハサ杭に渡した「ハサ竹」([[マダケ]])に干された。稲干しの後は組んでいたハサ竹を保管し、代わりに細い竹をハサ杭に渡して周年[[物干し]]として利用された<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、135-137頁</ref>。 |
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また、戦国時代には油料原料の[[アブラギリ]]栽培が山地を切り開いて行なわれていた。栽培を開始した年代は不詳であるが<ref name=Sano_154-155>[[#Sano|佐野 (2017)]]、154-155頁</ref>、[[延徳]]元年([[1489年]])には栽培されている。ただし16世紀初頭ではまだわずかであり、本格的には天文末年-[[永禄]]初年頃に栽培されたいわれる。[[元亀]]2年([[1571年]])には浅井氏にその「油実」60石が買い取られ、代価として米40石を受けている<ref name=Sano_154-155 />。慶安4年(1651年)に納めた年貢のうち油実は約58パーセントを占めていた<ref>[[#Ota1987|太田 (1987)]]、137 (643)頁</ref><ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、118頁</ref>。明治時代初期の地籍図には、アブラギリ畑であった「等外畑」の区画が山腹の上方となる谷筋の上流に多数認められる<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、155頁</ref>。1871年(明治4年)には[[ウシ]]14頭が飼養されており、山地の急斜面の耕作に使われていた<ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、356頁</ref>。 |
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しかし、江戸時代後半より次第に油実の需要が低下したことで、やがてタバコの栽培や養蚕・[[クワ]]の葉の生産などに移行し<ref name=report_I-6 />、明治時代中期([[1894年]]〈明治27年〉)にはクワ畑の増加が見られ<ref name=nagahama2013 />、明治時代後期から昭和初期まで拡大した<ref>[[#Yoshimura|吉村 (2018)]]、17頁</ref>。タバコの栽培は[[1963年]](昭和38年)頃まで続けられていた<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -171頁</ref>。また、菅浦は北部にありながら南に開けて温暖なことから特産品として[[ミカン]]のほか[[ビワ]]も栽培され、[[1300年代]]にはすでに年貢としてミカンやビワが納められている。ミカンの産地は滋賀県北部では珍しい{{Sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1979|p=407}}。しかし、奥琵琶湖パークウェイの着工により栽培面積は大幅に減少したといわれる<ref>{{Cite report |和書 |editor=滋賀の食事文化研究会 |date=2007-03 |title=近江の特産物発掘調査報告書 ||url=https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/1010030.pdf |format=PDF |publisher=[[滋賀県]]農政水産部農業経営課 |accessdate=2019-07-11 |pages=5・100-101}}</ref>。 |
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=== 林業 === |
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稲干し用のハサ杭に用いられた腐食に強い[[クリ]]材のほか<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、136頁</ref>、集落の裏山や日指・諸河の山から切り出された丸太や竹は、昭和初期まで丸子船に積まれて他村に出荷され、竹については植樹もなされていた。竹木の湖上運輸は、それに関連する事件(永仁5年〈[[1297年]]〉12月〈菅浦文書735号〉<ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、77頁</ref>、建武元年〈[[1334年]]〉11月〈菅浦文書286号〉<ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、78-79頁</ref>など)を記す史料により中世までさかのぼると考えられる<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、138頁</ref>。このほか[[薪]]が生産・出荷され<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -4・6-10頁</ref>、[[1980年代]]頃まで[[クヌギ]]や[[コナラ]]が利用されたほか、木材として[[アカマツ]]や[[スギ]]が利用された<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -11頁</ref>。 |
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=== 工業 === |
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化石燃料の普及による林業の衰退に伴い、1960年(昭和35年)頃、菅浦の住人らの誘致により[[ヤンマー|ヤンマーディーゼル]](当時)の下請け家庭工場である「ヤンマー菅浦農村家庭工業」の作業場が、個人の庭先20か所に設けられた<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、II -8頁</ref>。作業所の規模は、梁行(間口)約3.0メートル(10[[尺#日本の尺|尺]])、[[切妻造#桁行・梁間|桁行]](奥行)約4.6メートル(15尺)が基準とされた。ヤンマー家庭工場は、生業との兼業ではなく個人事業として操業され<ref name=report_I-124-125>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -124-125頁</ref>、エンジン部品の製造などが行なわれ<ref name=nariwai />、現在も一部(約10か所)が稼働する<ref name=report_I-124-125 />。 |
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== 地理 == |
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[[JR]][[湖西線]][[永原駅]]の南5キロメートル(大浦地区の南約4km<ref name=report_I-1>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -1頁</ref>)に位置する菅浦地区は<ref>{{Cite book |和書 |editor=三省堂編集所 |title=コンサイス日本地名事典 |edition=第5版 |year=2007 |publisher=[[三省堂]] |isbn=978-4-385-16051-1 |page=661}}</ref>、琵琶湖の北部に浮かぶ[[竹生島]]に向い合う葛籠尾崎の<ref name=Akamatsu_397>[[#Akamatsu|赤松 (1956)]]、397頁</ref>、背後を標高約400メートルの険しい山に囲まれた狭小な[[扇状地]]([[堆積物#崖錐堆積物|崖錘性堆積]]<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -2頁</ref>)に位置する<ref name=Inagaki_100 />。一方が琵琶湖に面しているため、湖岸に道路が開通するまで、山を越えるほか交通手段のほとんどは舟行であったことから陸の孤島とも呼ばれ<ref name=kotobank /><ref>{{Cite web |url=http://naga-labo.org/daily/sugaurakeikan/ |title=菅浦入門 |author=矢島絢子 |date=2019-02-05 |webcite=長浜くらしノート |publisher=長浜生活文化研究所 |accessdate=2019-07-11}}</ref>、菅浦と大浦を結ぶ道路が開通するまでは主に[[渡し船]]によって行き来していた<ref>[[#Amino|網野 「湖の民と惣の自治 - 近江国菅浦」 (1973)、『網野善彦著作集10』]]、299頁</ref>。 |
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[[ファイル:重要文化的景観 菅浦3.JPG|thumb|集落の東南端]] |
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かつて菅浦地区の西と東の入り江には、それぞれ舟溜まり(舟入場)があり<ref name=report_I-60>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -60頁</ref>、昼間[[桟橋]]に係留させた舟を、夜には東西の舟溜まり(西の舟入〈西の川〉・東の舟入〈東の川〉)に係留させていたが<ref name=nariwai />、1979年(昭和54年)、滋賀県の「新沿岸漁業構造改善事業」により、菅浦漁港(菅浦舟だまり)が整備されたことで、それまであった東西の舟溜まりは埋め立てられた<ref>[[#Yoshimura|吉村 (2018)]]、14頁</ref>。 |
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昭和中期(昭和30年代)まで、住人の多くは琵琶湖の水を直接、飲料水としていた<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、145-146頁</ref>。また、集落の西側の取水には、西の舟入(西の川)に流入する小出川旧河道の湧水や水路が利用され、東側では、前田川という水路から東の舟入(東の川)に流入する阿弥陀寺川の湧水や、山麓部ではその谷水が利用された。そのほか東の舟入よりもさらに南では、主な取水すべてに湖水を利用していた<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、147-148頁</ref>。なお、集落の中央部に下り、扇状地を形成した小出川の旧河道の流路は、[[1952年]](昭和27年)、須賀神社の参道沿いを流れる新河道に付け替えられている<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、150-152頁</ref><ref name=Yoshimura_15>[[#Yoshimura|吉村 (2018)]]、15頁</ref>。 |
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=== 四足門 === |
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[[ファイル:重要文化的景観 菅浦1.JPG|thumb|西の四足門]] |
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集落の東西両端に残る「四足門」は、集落の境界を示す惣門である<ref name=Imatani />。門の構造形式は[[四脚門]]ではなく薬医門である<ref>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、101頁</ref>。石組み上に本柱2本と控柱2本を立て、控貫と足元貫でつなぎ、本柱上に冠木を渡して、肘木で[[桁 (建築)|桁]]を支えており、[[茅葺]]の[[切妻屋根]]で覆われ、[[破風]]の飾りは菅浦独特のものである<ref name=sugaura />。現在に残る四足門には扉がなく、惣村の内外の領域を象徴的に示すものであるが<ref name=sugaura />、本柱を屋根の中心からずらして立てた構造により、万一の防御の際には容易に倒すことができるような仕組みといわれる<ref name=tanko />。東の四足門は、[[棟札]]により江戸時代後期の文政11年([[1828年]])に再建されていたことが知られる<ref name=sugaura />。 |
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「四方門」とも呼ばれ、かつては四方にあり集落の守護を司る[[四神]]を象徴して建立されたといわれる<ref name=tanko />。残りの2か所の門跡は定かではないが、1か所は須賀神社の参道の途中(二ノ鳥居付近<ref name=report_I-89>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -89頁</ref>、郷土資料館前付近<ref name=1987_644・646>[[#Ota1987|太田 (1987)]]、138 (644)・140 (646)頁</ref>)に、もう1か所の門は須賀神社から集落(祇樹院方面<ref name=1987_644・646 />)に降りる道筋(集落北端の山道<ref name=report_I-89 />)にあったとされる<ref>[[#Katsumata|勝俣 「惣村と惣所」 (1984)、『家・村・領主』]]、6頁</ref>。 |
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四足門と同様の惣門として、[[暦応]]4年([[1341年]])の史料「今西二藤屋敷売券」(菅浦文書354号<ref name=report_I-60 />)に大浦を意識して西側に構築されたと考えられる「大門」の存在が認められる<ref name=Amino_335 />。現在の四足門のような構造であったかは不明であるが、文安6年(1449年)の「菅浦惣庄合戦注記」(菅浦文書628号<ref name=report_I-60 />)には、文安2年(1445年)の大浦勢との戦いにおいて、集落を仕切る大門の木戸が炎上したことが記されている<ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、104-105頁</ref>。また、菅浦は基本的に[[両墓制]]であり、門の内・外で明確に区切られ、遺体は西の門外の「サンマイ」<ref>[[#Ota1987|太田 (1987)]]、138 (644)頁</ref><ref>[[#Inagaki|稲垣 (1985)]]、102頁</ref>という[[両墓制#埋め墓|埋め墓]]に埋葬され<ref name=Katsumata_7 />、門内の寺院(阿弥陀寺・祇樹院)境内に「ハカワラ」と呼ばれる[[両墓制#詣り墓|詣り墓]](石碑群)が設けられている<ref name=Fujii /><ref name=report_I-60 /><ref>[[#Ota1987|太田 (1987)]]、141 (647)頁</ref>。 |
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=== 湖岸と石積 === |
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[[ファイル:重要文化的景観 菅浦4.JPG|thumb|集落の石垣]] |
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奥琵琶湖とも呼ばれる琵琶湖北部は、周囲の山が風を遮ることで湖面は通常穏やかであるが、季節変化による特有の強風で荒波が立つこともあり、特に台風の進路が湖北におよぶと、南面が湖岸に開いた菅浦地区は強風と大波により多くの被害を受けたといわれる<ref name=report_I-1 />。特に菅浦地区周辺は湖岸が急に深く湖に落ち込んでいることにより<ref name=Sano_90 />、ひときわ高波が増幅される<ref name=kogan>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20130917-152619.pdf |format=PDF |title=菅浦 - 湖岸の民がつくり出した景観 |date=2013-03 |publisher=長浜市教育委員会 |accessdate=2019-07-11}}</ref>。[[1961年]](昭和36年)9月の[[第2室戸台風]]による被害の後に護岸が整備され<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -124頁</ref>、1966年(昭和41年)には湖岸東部の護岸工事がなされた<ref name=report_I-90>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -90頁</ref>。 |
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菅浦地区集落は、湖に面した「浜出」と呼ばれる家並みと山側に位置する「北出」の家々におおよそ区分されるが、湖沿いの「浜出」には<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、135頁</ref>、護岸および波よけに積まれた多くの石垣があり<ref name=landscape />、敷地側と湖岸の石積に挟まれた「ハマミチ」と呼ばれた浜通りの面影が残る<ref>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20130917-145839.pdf |format=PDF |title=菅浦 - 菅浦の思い出 今・昔 散策マップ |date=2013-01 |publisher=長浜市教育委員会 文化財保護センター |accessdate=2019-07-11}}</ref><ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -11頁</ref>。 |
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昭和50年代前半まで<ref name=kogan />、「ハマ」(浜)は、稲を干すハサ場(稲場)として利用されるとともに、漁具の手入れや屋根を葺く[[ヨシ]]を切りそろえる場所であり<ref name=nariwai />、薪や[[柴]]を置く「ニュウバ」でもあった<ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、139頁</ref>。湖面には舟を係留する桟橋のほか、橋板の「ウマ」が設置され、洗い場や水くみ場として共同利用されていた<ref name=nariwai /><ref>[[#Sano|佐野 (2017)]]、145-146頁</ref>。 |
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=== 須賀神社 === |
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{{main|須賀神社 (長浜市)}} |
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菅浦の総氏神は赤崎神社(赤崎大明神)とされ、また、西の村に小林神社(小林大明神)、東の村には保良神社(菅浦大明神)が祀られていたが<ref name=report_I-66>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -66頁</ref>、[[1906年]](明治39年)の[[神社合祀|神社合祀令]]により<ref name=Yoshimura_15 />、[[1909年]](明治42年)、3社は須賀神社として合祀された<ref name=sugaura /><ref name=report_I-66 />。 |
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; 須賀の祭(須賀神社例祭) |
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: 4月第1土・日曜日。神輿堂から出された[[神輿]]による巡行(ムラマワリ)は2日目に行なわれ、4か所の御旅所を経由して菅浦地区内を一周する<ref name=report_I-89 /><ref name=festa>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/278/20130917-152521.pdf |format=PDF |title=菅浦 - 祈りの風景 |date=2013-03 |publisher=長浜市教育委員会 文化財保護センター |accessdate=2019-07-11}}</ref>。市指定無形民俗文化財(2015年〈平成27年〉2月19日指定)<ref name=bunkazai />。 |
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; 大晦日祭(トシノミ) |
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: 菅浦の「トシノミ」は、数本束にした稲穂の根元に浜の小石をくくり付けたものである。年を越すため大晦日の「年越祭」に須賀神社に参拝して受け取り、持ち帰ると1年間神棚に供えた後、吊して野鳥に分け与えるとされる<ref name=festa /><ref>[[#Yoshimura|吉村 (2018)]]、24頁</ref>。 |
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=== 金比羅社 === |
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菅浦地区の東部の山側に位置する<ref name=report_I-160 />。[[切妻造]]、[[平入]]で、前側の屋根を長くした桟瓦葺きであり、内陣の棟札などにより文政3年([[1820年]])に建立されたものと考えられる<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -110-112頁</ref>。漁業の最盛期であった時代には、漁業者や丸子船の船運業者により金比羅講が構成され、講会として10月10日に祭礼が行なわれるとともに、毎年2人が[[琴平町|琴平]]([[金刀比羅宮]])に代参していた<ref name=report_I-160 />。 |
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=== 寺院 === |
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かつて菅浦地区には15世紀末-16世紀前半より10以上(12か寺<ref>[[#Yoshimura|吉村 (2018)]]、25頁</ref>)におよぶ寺院・[[草庵]]・[[僧房]]が存在したが<ref name=report_I-60 />、明治時代以降、[[廃仏毀釈]]の影響からか急速に減少し<ref>[[#Amino|網野 「菅浦の成立と変遷」 (1979)、『網野善彦著作集10』]]、357頁</ref>、今日では、阿弥陀寺・安相寺・真蔵院・祇樹院の4寺院となっている<ref name=report_I-60 />。 |
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; 阿弥陀寺 |
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: [[時宗]][[遊行派]]<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、II -40頁</ref>(伝・もと[[天台宗]]<ref name=nagahama20130225>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/0000000119.html |title=長浜市指定文化財「木造聖観音坐像(阿弥陀寺)」 |date=2013-07-31 |work=『広報ながはま』平成25年2月15日号 |publisher=長浜市 |accessdate=2019-07-11}}</ref>)。創建は[[文和]]2年([[1353年]])と伝えられる<ref name=report_I-77>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -77頁</ref>。阿弥陀寺は東村の中心的寺院であり、西村には淳仁天皇の菩提寺とされる長福寺(二尊堂<ref name=nagahama20130225 />)があったが、中世末にかけて惣寺の地位を確立した阿弥陀寺が、近世においても「菅浦中之惣寺」として行事の中心的役割を果たした<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -61頁</ref>。[[享和]]3年([[1803年]])に大火があったが、[[弘化]]年間([[1844年|1844]]-[[1847年]])に再建され、明治8年(1875年)に長福寺と善徳寺を併合した<ref name=report_I-77 />。かつての長福寺跡は、菅浦地区公民館([[1977年]]〈昭和52年〉建設<ref name=Yoshimura_26>[[#Yoshimura|吉村 (2018)]]、26頁</ref>)の敷地となる<ref name=report_I-90 />。また、「阿弥陀寺古文書」として菅浦文書の58冊と絵図1幅が保管されていたが、明治時代に合祀された須賀神社に関わる淳仁天皇関係[[古文書|文書]]として持ち出されたとされる<ref name=Yoshimura_26 />。 |
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:* 木造阿弥陀如来立像(重要文化財)- 本尊(秘仏)<ref name=nagahama20130225 />。[[行快 (仏師)|行快]]作 附 像内納入品(17点)。鎌倉時代前期。像内納入品([[文暦]]2年〈[[1235年]]〉の願文・結縁交名など<ref name=sugaura />)<ref name=report_I-77 />。[[1987年]](昭和62年)6月6日指定<ref name=bunkazai />。 |
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:* 阿弥陀如来坐像(市指定文化財) - 長福寺より伝来<ref name=nagahama20130225 /><ref name=hotoke2>{{cite book |和書 |editor=長浜市・[[東京藝術大学大学美術館]] |title=びわ湖・長浜のホトケたちII |year=2016 |publisher=サンライズ出版 |isbn=978-4-88325-596-2 |page=125・137頁}}</ref>。平安時代後期(12世紀)<ref name=report_I-77 />。[[2004年]](平成16年)4月30日指定<ref name=bunkazai />。 |
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:* 聖観音坐像(市指定文化財) - 長福寺より伝来<ref name=nagahama20130225 /><ref name=hotoke2 />。平安時代後期(12世紀)<ref name=report_I-77 />。2004年(平成16年)4月30日指定<ref name=bunkazai />。 |
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:* 六字名号曼茶羅(市指定文化財) - 鎌倉時代後期-[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]。2004年(平成16年)4月30日指定<ref name=bunkazai />。 |
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; 安相寺 |
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: [[浄土真宗]]。創建は[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])といわれる<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -81頁</ref>。小谷城落城の際に浅井長政の子をかくまったという伝説があり、[[米原市]]の福田寺(長沢御坊)と深い関係を持つ<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、II -42頁</ref>。寛政12年([[1800年]])頃の火災により被災し、現在の本堂は約40年後の天保12年([[1842年]])に新築され、[[入母屋造]]、本瓦葺きである。一時期、託児所としても利用されていた<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -113-115頁</ref>。 |
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; 真蔵院 |
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: [[真言宗豊山派]]<ref name=report_I-80>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -80頁</ref>。大正年間([[1912年|1912]]-[[1926年]])に寺院の下で4軒を焼失する火事があったが、真蔵院は被災を免れたといわれる。切妻造、桟瓦葺きで、平面形式は基本的に6室の民家と同様である<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -107-109頁</ref> 。 |
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:* 仏涅槃図(市指定文化財) - 南北朝-室町時代前期([[14世紀]])<ref name=report_I-80 />。2004年(平成16年)4月30日指定<ref name=bunkazai />。 |
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; 祇樹院 |
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: [[曹洞宗]]。創建は[[明徳]]4年([[1393年]])と伝えられる<ref name=report_I-79>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -79頁</ref>。石組みの「イド」(井戸)があり<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、II -43頁</ref>、大正8年([[1919年]])に再建された本堂は、切妻造、桟瓦葺きである<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -116-117頁</ref>。 |
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:* 阿弥陀如来立像(市指定文化財) - 鎌倉時代後期<ref name=bunkazai />([[13世紀]]<ref name=report_I-79 />)。[[2005年]](平成17年)3月1日指定<ref name=bunkazai />。 |
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== 菅浦郷土資料館 == |
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{{博物館 |
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|名称 = 菅浦郷土資料館 |
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|画像 = |
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|imagesize = |
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|alt = |
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|画像説明 = |
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|正式名称 = |
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|愛称 = |
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|前身 = |
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|専門分野 = 菅浦の歴史民俗 |
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|収蔵作品数 = 42点 |
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|来館者数 = |
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|事業主体 = [[長浜市]] |
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|管理運営 = 菅浦自治会 |
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|年運営費 = |
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|建物設計 = |
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|延床面積 = |
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|開館 = [[1984年]]([[昭和]]59年)12月 |
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|所在地郵便番号 = 529-0726 |
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|所在地 = 長浜市西浅井町菅浦497番地1 |
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|公式サイト = [http://kitabiwako.jp/spot/spot_733 菅浦郷土史料館] |
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}} |
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須賀神社参道の東側にある郷土資料館。[[1984年]](昭和59年)12月に<ref name=shigayukan>{{Cite news |title=菅浦郷土史料館、リニュアルオープン |newspaper=滋賀夕刊 |date=2019-03-30 |url=http://www.shigayukan.com/news/2019/03/post_894.php |publisher=[[滋賀夕刊新聞社]] |accessdate=2019-07-11}}</ref>菅浦における竹製品の振興等保存伝承施設として建設された<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、II -29頁</ref>。現在は、菅浦文書の写真および絵図の[[レプリカ]]、[[2012年]](平成24年)4月24日に市指定文化財に指定された「[[鰐口]]」3口と「[[銅鏡]]」のほか<ref name=bunkazai />、中世(室町時代末期)の「[[能面]]」3面<ref name=sugaura />、社寺に関する史料、葛篭尾崎遺跡より出土した土器類<ref name=museum_91>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、91頁</ref>、地元の古民具の展示品などがある<ref name=shigayukan />。 |
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; 市指定文化財 |
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:* 鰐口 - [[正応]]3年([[1290年]])9月22日の陽鋳銘。鎌倉時代。須賀神社<ref name=museum_91 />。 |
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:* 鰐口 - 正応5年([[1292年]])[[壬辰]]2月11日の陰刻銘。鎌倉時代。須賀神社<ref name=museum_91 />。 |
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:* 鰐口 - 応永[[庚寅]]10月吉日の陰刻銘。応永17年([[1410年]])。室町時代。須賀神社<ref name=museum_91 />。 |
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:* 銅鏡 - [[嘉禎]]3年([[1237年]])[[丁酉]]6月15日の墨書銘。鎌倉時代。須賀神社<ref name=museum_91 />。 |
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4-11月の日曜日10:00-16:00のみ開館。入館(協力金)は高校生以上300円、小中学生100円<ref name=shigayukan />。 |
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== 菅浦文書 == |
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須賀神社に秘蔵されていた「開けずの箱」(「他郷の者には見せない箱」の意<ref name=museum_98>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、98頁</ref>)と呼ばれる[[櫃#唐櫃|唐櫃]]が<ref name=Imatani />、[[1916年]](大正5年)-[[1917年]](大正6年)より<ref name=museum_98 />([[1940年]]〈昭和15年〉第2次調査<ref>[[#Akamatsu|赤松 (1956)]]、398頁</ref>)、当時の[[京都大学|京都帝国大学]]の[[中村直勝]]らにより調査され<ref name=Akamatsu_397 />、収められていた[[中世#日本|中世]]([[鎌倉時代|鎌倉]]-[[室町時代]]<ref name=native />)から江戸時代(明治初年まで<ref name=sugaura />)の文書など、1200点余り(文書65冊〈1281通〉、絵図1幅<ref name=nagahama2018 />)が発見された<ref name=Imatani />。古くは平安時代中期(長久2年〈1041年〉)のものもあった<ref name=Akamatsu_397 />。これらは[[1954年]](昭和29年)より[[彦根市]]の滋賀大学経済学部付属史料館に寄託されている<ref name=sugaura /><ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASL5Z312GL5ZPTFC001.html |title=「国宝文書の村」を歩く 中世のたたずまい今も |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2018-05-31 |accessdate=2019-07-11}}</ref>。[[1976年]](昭和51年)6月5日、国の[[重要文化財]]に指定され<ref name=bunkazai /><ref name=sugaura />、[[2018年]](平成30年)10月31日には国宝に指定された<ref name=kyoto-np />。 |
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=== 菅浦絵図 === |
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[[ファイル:Sugaura to ōura shimo no shō sakai ezu.jpg|thumb|「菅浦与大浦下庄堺絵図」]] |
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[[乾元 (日本)|乾元]]元年([[1302年]])と記される「菅浦与大浦下庄堺絵図」(すがうら と おおうらしものしょう さかいえず、菅浦文書722号)は<ref>{{cite web |url=https://www.econ.shiga-u.ac.jp/shiryo/10/1/3/1/3.html |title=滋賀の村の原点を知ろう - 特別展「惣村の自立と生活」 |author=蔵持重裕 |authorlink=蔵持重裕 |date=1995-10 |work=滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM第3号 |publisher=[[滋賀大学]]経済学部 |accessdate=2019-07-11}}</ref>、縦91.5[[センチメートル]]、横62.3センチメートルで、日指・諸河の田地による大浦との所有権争いにより作成され、菅浦が主張する大浦下庄との村落の境が[[朱色]]の線で示されている<ref name=nagahama2018 />。中世の大浦「上庄」は西浅井町の庄・中・山門、「下庄」は大浦・黒山・小山・山田・八田部あたりであった<ref name=Yamao_304 />。絵図上部には西側に峯堂が描かれた[[海津大崎]]から東側の羅尾嵜(葛籠尾崎)にかけての陸地部分が描かれ、中央下部には竹生島の景観が明確に描かれており、絵図中央に広がる水域は菅浦の漁業および航行領域にあたると考えられる<ref>[[#Kuramochi|蔵持 (2002)]]、76頁</ref><ref>[[#Okuno|奥野 (2010)]]、366-368・377-378・388頁</ref>。 |
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中世の菅浦を描いた鎌倉時代後期から南北朝時代の[[荘園 (日本)|荘園]]絵図とされ<ref name=nagahama2018 />、裏書に乾元元年(1302年)8月17日の墨書があり、「菅浦訴状具書案」(菅浦文書637号)の起業弘注進状に記された日付と符合する<ref>[[#Okuno|奥野 (2010)]]、369頁</ref><ref>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、111-112頁</ref>。しかし、乾元元年は11月21日より始まることからこの年月日は認められず、後に作成されたものと考えられる<ref name=museum_110>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、110頁</ref>。その制作時期については諸説あり、[[嘉元]]3年([[1305年]])12月-[[延慶 (日本)|延慶]]2年([[1309年]])7月<ref name=museum_110 />、建武元年(1334年)、建武3年([[1336年]])から<ref>[[#Okuno|奥野 (2010)]]、369-370頁</ref>暦応年間([[1338年|1338]]-[[1342年]])<ref>[[#museum|長浜市長浜城歴史博物館 (2014)]]、7・110頁</ref>ないし[[康永]]年間(1342-[[1344年]])・貞和年間([[1345年|1345]]-[[1349年]])の[[1340年代]]のうちに作成されたといわれるほか<ref>[[#Okuno|奥野 (2010)]]、368-369頁</ref>、現存する絵図は、文安3年([[1446年]])の争論の際に提出された「檀那院雑掌良兼菅浦証文目録」(菅浦文書280号)にある「堺絵図」として<ref>[[#report|長浜市文化財保護センター (2014)]]、I -49頁</ref>、文安になり作成されたともいわれる<ref>[[#Okuno|奥野 (2010)]]、386-389頁</ref>。 |
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== 菅浦を題材とした作品 == |
== 菅浦を題材とした作品 == |
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{{Quotation|高島の 阿渡(あど)の水門(みなと)を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ|[[小弁]]|『 |
{{Quotation|高島の 阿渡(あど)の水門(みなと)を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ|[[小弁]]|『万葉集』巻9}} |
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{{Quotation|沖つなみ 高しまめぐり こぎすぎて 遥かになりぬ 塩津菅浦|[[藤原長方|長方]]|『[[夫木和歌抄]]』巻25}} |
{{Quotation|沖つなみ 高しまめぐり こぎすぎて 遥かになりぬ 塩津菅浦|[[藤原長方|長方]]|『[[夫木和歌抄]]』巻25}} |
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* 『かくれ里』[[白洲正子]] [[新潮社]] 1971年<ref>{{Cite web |date=2014-05-03 |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO007149/20140502-OYTAT50053.html |title=「かくれ里」 菅浦 |website=YIMIURI ONLINE |publisher=[[読売新聞]] |accessdate=2018/08/03}}</ref> (「湖北 菅浦」の項<ref>{{Cite web |url=http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/area/spot01_02.html#Container |title=白洲正子の愛した近江 - 菅浦 |website=滋賀・びわ湖観光情報 |publisher=びわこビジターズビューロー |accessdate=2018-08-03}}</ref>) |
* 『かくれ里』[[白洲正子]] [[新潮社]] 1971年<ref>{{Cite web |date=2014-05-03 |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO007149/20140502-OYTAT50053.html |title=「かくれ里」 菅浦 |website=YIMIURI ONLINE |publisher=[[読売新聞]] |accessdate=2018/08/03}}</ref> (「湖北 菅浦」の項<ref>{{Cite web |url=http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/area/spot01_02.html#Container |title=白洲正子の愛した近江 - 菅浦 |website=滋賀・びわ湖観光情報 |publisher=びわこビジターズビューロー |accessdate=2018-08-03}}</ref>) |
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* 『月ノ浦惣庄公事置書』[[岩井三四二]]<ref name=Imatani /> [[文藝春秋]] 2003年 |
* 『月ノ浦惣庄公事置書』[[岩井三四二]]<ref name=Imatani /> [[文藝春秋]] 2003年(菅浦を「月ノ浦」として描く<ref>{{Cite journal |和書 |author=西本梛枝 |year=2015 |title=近江の文学風景 - 月ノ浦惣庄公事置書 岩井三四二 |journal=潮 |number=194 |pages=6-9|publisher=[[滋賀銀行]]}}</ref>) |
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このほか菅浦は、『群青の湖』[[芝木好子]] [[講談社]](1990年)にも描かれるといわれる<ref>{{Cite journal |和書 |editor=長浜み〜な編集室 |date=1998-12 |title=『群青の湖』を訪ねて |journal=み~な びわ湖から |volume=55 |pages=21-22 |publisher=長浜み~な協会 |url=http://n-miina.lolipop.jp/back-no/wp-content/uploads/55.pdf |format=PDF |accessdate=2019-07-11}}</ref>。 |
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== 交通 == |
== 交通 == |
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* JR湖西線永原駅より[[湖国バス]]菅浦線で終点「菅浦」まで約25分<ref>{{Cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000002/2296/2017-7.28.pdf |format=PDF |title=西浅井地域バス路線「深坂線・菅浦線」 運行時刻表(湖国バス) - H29.7.28改正 |accessdate=2018-08-03}}</ref>。 |
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* [[北陸自動車道]][[木之本インターチェンジ]]より自動車で菅浦地区まで約30分<ref>{{Cite web |url=http://kitabiwako.jp/spot/spot_733 |title=菅浦郷土資料館 |website=長浜・米原を楽しむ観光情報サイト |accessdate=2018-08-03}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite journal |和書 |author= |
* {{Cite journal |和書 |author=赤松俊秀 |date=1956-11-20 |authorlink=赤松俊秀 |title=供御人と惣 - 近江菅浦の歴史 |publisher=[[京都大学|京都大學]]文學部 |journal=京都大學文學部研究紀要 |issue=4 |pages=397-449 |url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/72889/1/KJ00000077922.pdf |format=PDF |ref=Akamatsu}} |
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* {{Cite book|和書|title=角川日本地名大辞典 25滋賀県|date=1979-05-04|year=1979|publisher=角川書店|ref=harv|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会}} |
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* {{Cite journal |和書 |author=[[東京大学]] 稲垣研究室 |title=中世都市・集落における居住形態に関する研究(梗概) |year=1985 |publisher=新住宅普及会住宅建築研究所 |journal=住宅建築研究所報 |pages=99-110 |url=http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/1985/8401-0.pdf |format=PDF |ref=Inagaki}} |
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* {{Cite journal |和書 |author=太田浩司 |date=1987-07-01 |title=中世菅浦における村落領域構成 - 景観復元を通して |publisher=[[史学研究会]] |journal=史林 |volume=70 |issue=4 |pages=620-655 |url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238933/1/shirin_070_4_620.pdf |format=PDF |ref=Ota1987}} |
|||
* {{Cite journal |和書 |editor=[[勝俣鎮夫]]・[[藤木久志]] |date=1994-08 |title=家・村・領主 - 中世から近世へ |journal=朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読みなおす13 |issue=11 |publisher=[[朝日新聞社]] |ref=Katsumata}} |
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* {{cite book |和書 |author=蔵持重裕 |authorlink=蔵持重裕 |title=中世 村の歴史語り - 湖国「共和国」の形成史 |year=2002 |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=4-642-07790-1 |ref=Kuramochi}} |
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* {{Cite book |和書 |author=網野善彦 |authorlink=網野善彦 |title=網野善彦著作集 第10巻 - 海民の社会 |year=2007 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-092650-8 |ref=Amino}} |
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* {{Cite report |和書 |editor=長浜市文化財保護センター |date=2014-03 |title=菅浦の湖岸集落景観保存活用計画報告書 ||url=http://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/285/20140605-131720.pdf |format=PDF |publisher=[[滋賀県]]長浜市教育委員会 |accessdate=2019-07-11 |ref=report}} |
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* {{cite book |和書 |author=奥野中彦 |title=荘園史と荘園絵図 |year=2010 |publisher=[[東京堂出版]] |isbn=978-4-490-20707-1 |ref=Okuno}} |
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* {{cite book |和書 |editor=長浜市長浜城歴史博物館 |title=菅浦文書が語る民衆の歴史 - 日本中世の村落社会 |year=2014 |publisher=[[サンライズ出版]] |isbn=978-4-88325-551-1 |ref=museum}} |
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* {{cite book |和書 |author=佐野静代 |title=中近世の生業と里湖の環境史 |year=2017 |publisher=吉川弘文館 |isbn=978-4-642-02936-0 |ref=Sano}} |
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* {{cite book |和書 |author=山根猛 |title=琵琶湖の漁業 いま・むかし |year=2017 |publisher=サンライズ出版 |series=琵琶湖博物館ブックレット④ |isbn=978-4-88325-616-7 |ref=Yamane}} |
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* {{Cite journal |和書 |author=吉村俊昭 |date=2018-3-26 |title=菅浦 - 湖と生きる村を訪ねて |journal=成安造形大学附属近江学研究所紀要 |issue=7 |pages=11-28 |publisher=[[成安造形大学]]附属近江学研究所 |ISSN=2186-6937 |url=http://omigaku.org/info/wp-content/uploads/kiyou7.pdf |format=PDF |ref=Yoshimura}} |
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== 関連項目 == |
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* [[日本遺産]] |
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* [[須賀神社 (長浜市)]] |
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* [[滋賀県道512号葛籠尾崎塩津線]] |
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* [[滋賀県道513号葛籠尾崎大浦線]] |
* [[滋賀県道513号葛籠尾崎大浦線]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{Citation |url=http:// |
* {{Citation |url=http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/283856/1 |title=菅浦の湖岸集落景観 |work=文化遺産オンライン |publisher=[[文化庁]]}} |
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* {{Citation |url=http://www. |
* {{Citation |date=2005-11-26 |url=http://www.shiga-np.co.jp/2005/051126.html |title=静寂の中、忘れゆく原風景 |newspaper=滋賀新聞 |publisher=[[京都新聞]]滋賀本社}} |
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* {{Citation |date=2015-08-21 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC13H6Y_T10C15A8AA1P00/ |title=惣村の誇り湖畔に鎮座 奥琵琶湖の菅浦集落(時の回廊) |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]]}} |
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* {{文化遺産オンライン|134327|菅浦文書}} |
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* {{Citation |date=2015-08-21 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC13H6Y_T10C15A8AA1P00/ |title=惣村の誇り湖畔に鎮座 奥琵琶湖の菅浦集落(時の回廊) |website=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]]}} |
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2019年7月31日 (水) 12:44時点における版
菅浦 すがうら | |
---|---|
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 滋賀県 |
自治体 | 長浜市 |
旧自治体 | 伊香郡西浅井町 |
面積 |
6.185km² |
世帯数 |
72世帯 |
総人口 |
177人 |
人口密度 |
28.62人/km² |
隣接地区 |
長浜市西浅井町大浦・小山・山田 長浜市高月町片山 長浜市早崎町(竹生島) |
菅浦の湖岸集落(すがうらのこがんしゅうらく)は、琵琶湖の北端より南に突き出て岬状となる葛籠尾崎(つづらおざき)の西側の入り江に位置し、滋賀県長浜市西浅井町菅浦の菅浦(すがうら〈すがのうら[1]〉[2])[3]を中心とする地域を指す。
2014年(平成26年)10月6日、「菅浦の湖岸集落景観」として文化財保護法に基づき国の重要文化的景観として選定された[4]。また、2016年(平成28年)には、前年の2015年(平成27年)に日本遺産として認定された「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素として、菅浦の湖岸集落景観が追加選定された[5]。
概要
菅浦は、天皇に供える食物を献上する贄人(にえびと)が定着したのが始まりとされる[6]。葛籠尾崎の付け根部分に位置する菅浦は、険しい山に囲まれているため[7]、水運主体の隔絶された集落であった[6]。これにより早くから惣村(そうそん)が形成され、自検断を行使した。集落の東西には境界となる「四足門」(四方門)が残されており、かつては集落の四方にあって部外者の出入りを厳しく監視していた[8][9]。これら集落の掟と動向ならびに構造は、須賀神社より発見された「菅浦文書」[10](すがうらもんじょ、国宝[11][12]、須賀神社蔵・滋賀大学経済学部付属史料館寄託)に詳細に記されており[4]、近隣の大浦(大浦荘〈おおうらのしょう〉[13])との激しい争いもよく知られる[10]。
天平宝字8年(764年)、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際に逃れた淳仁天皇の隠棲伝説も伝わり、須賀神社の祭神として祀られている[6][8]。須賀神社は明治時代まで保良神社と称され、この地が淳仁天皇の保良宮(ほらのみや)であったとされる[1]。また、天正元年(1573年)、小谷城落城の際に浅井長政の子の万菊丸が菅浦の安相寺に逃れたという伝承もある[14]。
集落では、漁労・稲作・畑作・林業が長らく続けられ、明治時代以降はタバコ栽培や養蚕も行われるようになった。また、1960年(昭和35年)頃からのヤンマー家庭工場の作業場も一部現存する[15]。1966年(昭和41年)、自衛隊により[6]、菅浦と大浦を結ぶ道路(県道513号葛籠尾崎大浦線)が開通し、1971年(昭和46年)には菅浦の山間部に奥琵琶湖パークウェイ(県道512号葛籠尾崎塩津線)が開通した。奥琵琶湖パークウェイの開通に伴い自動車でアクセスが可能となると、中世の伝統をとどめる地域として脚光を浴びるようになる[16]。その後、1979年(昭和54年)には菅浦漁港(菅浦舟だまり)が整備され、それまで舟溜まりがあった西の舟入(西の川)と東の舟入(東の川)は埋め立てられた。湖岸堤もこの頃に整備された[15]。2015年(平成27年)現在、菅浦地域には、72世帯、177人が暮らしている[17]。
歴史
古代
菅浦地域には縄文時代よりヒトの生活が認められ、葛籠尾崎の先端東側の湖底に位置する「葛籠尾崎湖底遺跡」のほか[18]、奥出湾に位置する「諸川湖底 A 遺跡」が知られる。また、菅浦地区の山腹には弥生時代の集落跡の「菅浦遺跡」がある。奥出湾に面した北斜面には[19]、飛鳥時代の7世紀後半とされる「諸川瓦窯跡」(もろかわがようあと)があり、1986年〈昭和61年〉3月28日[20]、滋賀県指定史跡に指定されている[21][22]。このほか近郊の山麓に飛鳥(白鳳[23])時代の寺院跡の「白山遺跡」(はくさんいせき)も知られる[24]。奈良時代には万葉集にも詠まれたように、菅浦は水運における主要な湊(停泊地)の1つであった[23]。
菅浦に贄人が定住した時代は不明であるが、およそ8世紀末-11世紀中頃であったと考えられる[25]。菅浦は、長久2年(1041年)[26]に立券された園城寺円満院領の大浦荘[13]の一部とされたが[27]、菅浦はこれを否定し、平安時代末期頃までに[28]、竹生島弁才天の本寺、山門(比叡山)檀那院領として独立した[10][29]。比叡山との関係により住人の一部は日吉大社[30]の神人(じにん)となった[27]。また、12世紀中頃[26]の平安時代末期以降には、一部が御厨子所(みずしどころ)の供御人となり、蔵人所の所管となる内蔵寮(くらりょう)の支配のもとについた[2]。供御人となった目的は、鴨社御厨の堅田供祭人の漁労による妨害を排除することにあったともいわれ[31]、後の建武2年(1335年)や応永4年(1397年)にも堅田との漁場紛争が見られる[32]。
中世
菅浦は、中世の惣村と称される自立的・自治的村落共同体として知られる[33]。菅浦で初めて「そう(惣)」という語が認められるのは、貞和2年(1346年)の「菅浦庄惣村置文」(菅浦文書180号)においてであり、この「ところ(所)おきふミ(置文)の事」と記された惣掟には[34]、田畑の個人売買の制限について定められている[35][36]。中世以来、菅浦の惣村は西と東の村より構成され[37]、その居住地を総じて「所」と称した[38]。また、15-16世紀には「乙名」(おとな)20人(東・西、各10人)、「中老」(中乙名)東・西、各2人、それに「若衆」からなる自治組織を整えていた[39]。その惣村の自検断の規範を示す例として、寛正2年(1461年)7月13日の「菅浦惣庄置文」(菅浦文書227号)には、人を罰するには私的な関係で判断せず、証拠を重視し、乙名の合議により裁判を行なうことなどが定められている[40][41]。
中世の菅浦においては、集落の北西に位置する日指(ひさし〈ヒサシデ[30][42]〉)・諸河(もろかわ〈モロコ[30][42]〉)の約16ヘクタール[43](16町7反[44])の田地を巡る大浦との200年におよぶ争いがよく知られる[10][45]。特に文安の争いが、文安6年(1449年)菅浦惣荘置書とも称される合戦記[46]「菅浦惣庄合戦注記」(菅浦文書628号)に記されるが、この文安2年(1445年)の合戦の150年前である永仁3年(1295年)にはすでに争いが生じていた[26][47]。また、文安の合戦後も大浦との争いは続き、寛正2年(1461年)、大浦荘で菅浦の者が殺されるという盗賊事件が発生すると、15世紀中頃には日野裏松家領であったことから[48]、日野家のもとで審理され湯起請が行なわれた。そこで菅浦方が敗訴したことにより、菅浦征伐に向けられた大軍に菅浦は包囲され、菅浦は合戦を覚悟したが、仲介を通じて菅浦の2人が下手人となり降参したことで[49]滅亡を免れた[26][50]。
近江国を領有した京極氏の勢力は菅浦にもおよんでいたが、戦国時代となる京極高清の時代、北近江の浅井亮政の反乱により勢力を拡大した浅井氏に菅浦は支配されていった。天文10年(1541年)の舟の動員のほか、直接年貢や物資を取り立て、菅浦の自治においても干渉し支配を強めた浅井氏により、菅浦の自治の根幹であった自検断は奪われ[51]、以後、復活することはなかった[52]。
近世
織田信長により浅井氏が滅んだ後、文禄5年(1596年)には石田三成の支配のもとで菅浦は豊臣政権下の1村落として「菅浦村」となり、慶長7年(1602年)の検地により石高は473石とされるとともに日指・諸河の領有も確定している[53]。
江戸時代になると、慶安4年(1651年)より本多氏の支配のもと膳所藩領となった[54]。自治の根幹は浅井氏に屈服して以来すでに失われたが、西と東より選ばれる中老、若衆といった組織は残り、乙名の流れをくむ「忠老役」(中老)20人により村内の運営や諸行事が行なわれ[55]、膳所藩が菅浦に立てた代官と強く対立したこともあった[56]。
近代
1889年(明治22年)に町村制が実施されると、菅浦は永原村の大字になる[57]。中世菅浦の20人の乙名は、江戸時代の忠老役から、諸制度の改編に組み入れられた明治・大正時代にも「廿人代(20人代)」「廿人衆(20人衆)」として続き、昭和期以降も「長老衆」(4人)として存続されていった[58][59]。1875年(明治8年)の戸数および人口は、111戸、450人であり、近世以来、ほとんど変化は見られない[60]。その後、1985年(昭和60年)の戸数は100戸であった[61]。
和暦(西暦) | 戸数(戸) | 人口(人) | 男性(人) | 女性(人) |
---|---|---|---|---|
慶長7年(1602年) | 107 | |||
寛政2年(1792年) | 102 | 477 | 260 | 217 |
天保8年(1837年) | 100 | |||
明治4年(1871年) | 104 | 430 | 210 | 220 |
明治8年(1875年) | 111 | 450 | ||
昭和60年(1985年)[61] | 100 |
現代
永原村と塩津村の合併に伴い、1955年(昭和30年)からは西浅井村(1971年〈昭和46年〉からは西浅井町)の所属になる[63]。2010年(平成22年)、伊香郡西浅井町が、高月町・木之本町・余呉町などとともに長浜市に編入されると、長浜市は高齢化や過疎化が進む菅浦における景観保存事業の検討を始め、2011年(平成23年)度より文化的景観の調査が開始された[64]。その後、文化的景観保存計画の策定などがなされ[65]、2014年(平成26年)には長浜市西浅井町菅浦の全域および琵琶湖の一部を含む1568ヘクタール (1568.4 ha[66]〈陸域613.0 ha・水域955.4 ha〉[67][68])の区域が重要文化的景観に選定された[69][70]。
2010年(平成22年)10月の国勢調査によれば、菅浦(行政町名としての「菅浦」地域)には、81世帯、217人が暮らしたが[71]、2015年(平成27年)10月1日の調査時点においては、72世帯、177人になっている[17]。
西暦(和暦) | 世帯数(世帯) | 人口(人) | 男性(人) | 女性(人) |
---|---|---|---|---|
2010年(平成22年) | 81 | 217 | 107 | 110 |
2015年(平成27年) | 72 | 177 | 83 | 94 |
伝承
758年(天平宝字2年)に即位した淳仁天皇は[72]、764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱により廃位され、大炊親王(おおいのみこ)として淡路国に流されたが[73]、淳仁天皇の隠棲した地は菅浦であると伝えられ、淡路は「淡海」(近江国)であるとされる。天皇が菅浦に造営した保良宮の跡といわれる須賀神社(旧・保良神社〈菅浦大明神〉)には淳仁天皇が祭神として祀られ、神体は天皇がカヤの木を採り彫刻した神像といわれる[6][74]。背後には淳仁天皇の舟形御陵と称される石積がある。天皇の没後50年ごとに法要が営まれており、2013年(平成25年)10月には1250式年祭が行われた[75]。また、南東の葛籠尾崎の山上には「鉄穴遺跡」(てつあないせき)があり[24]、この周囲約60メートルの神様山とも呼ばれる墳丘上部に認められる2基は、淳仁天皇の生母の当麻山背[1]ならびに后妃(従者[1]とも)の陵墓であると伝えられる[76]。
戦国時代、浅井長政の居城であった小谷城の落城の際、万菊丸と呼ばれた長政の幼子が、家臣と乳母に伴われて菅浦に逃れたという伝承もある[14]。万菊丸は家臣ら3人に守られて小谷城を脱出すると、礼信寺(現・長浜市小谷上山田町)で一夜を明かした後、菅浦の安相寺に移り、夜、船で下坂浜(現・長浜市平方町)の葦原に潜んだが、再び菅浦に戻り安相寺に隠れたといわれる。その後、万菊丸は福田寺(ふくでんじ)の養子に入り、第12世正芸として法灯を継いだと伝わり、菅浦にも同様の伝承が残されている[52]。
生業
水運
古代より主要な湊の1つであった菅浦の舟運は、交易において重要であり、文政7年(1842年)の菅浦には、20-30石積の丸船20艘、田地養船11艘を数えた[77]。その後、明治時代初期まで、菅浦は湖北における塩津・大浦などとともに、若狭と京都・大阪を結ぶ水運の主要港としての役目を果たしていた[78]。
漁業
供御人が住んだ湖岸の菅浦集落の主な生業は漁業であり[79]、かつての漁は筌などの漁具によるものであったと考えられる[80]。堅田による小糸網(刺し網の一種[81])の漁が各地に伝えられたのは近世後期であった[82]。漁業が経済的に成り立つようになったのは大正時代以降といわれ[83]、菅浦の延縄漁は、堅田より大正時代末期に伝えられた[84]。
昭和期に見られた漁法は、定置網漁・すくい漁・底引網漁・釣り漁・筌漁など多彩であった[85]。菅浦地区の湖岸は沈降性の地形をなし、湖岸より10メートル以内で水深30メートルに達しており[80]、その沖合では、定置網漁である小糸網漁や、釣り糸を流す延縄漁が行なわれた[85]。また、沿岸ではエリ漁やオイサデ漁も盛んであった。菅浦における漁業の最盛期はおよそ昭和40年代から50年代初頭であったといわれ、1978年(昭和53年)には漁業従事者39人(専業15人・兼業24人)であったが、漁獲の減少などに伴い、現在は10人ほどとなり、30艘であった沖曳き網用漁船も、今日ではごくわずか(2艘)となっている[86][87]。
- エリ漁
- エリ(魞)を用いた定置漁業は、構造や規模は異なるものの、琵琶湖では1000年以上の歴史があるといわれる[88]。ただし、菅浦におけるエリ漁は昭和期になるまで見られず、戦後、菅浦の地域にも竹・すのこによる竹簀エリが立てられていった[89]。現在では網エリを張り、「ツボ」(陥穽部[90])の周囲に渡した板の上で操業し[91]、アユ・イサザ・小エビ(スジエビ[92])などを漁獲している[93]。
- オイサデ漁
- オイサデ漁(追いさで漁)は、湖北の菅浦から高島市にかけて特徴的に行なわれる[85]。始められた時代は不明であるが[85]、アユがカラスを恐れる習性を利用した漁法といわれ[94]、竹の竿にカラスなどの羽根をつけた「追い棒」でアユ(コアユ)を追い、「さで網」ですくい取る[85][95]。このオイサデ漁も最盛期には菅浦で12組を数えたが、現在ではごく一部(1組)のみである[96]。
農業
耕地の少ない菅浦の稲作は、ほとんどが集落より舟で通う日指・諸河の田地でなされ、収穫された稲は日当たりのよい菅浦集落の「ハマ」に運ばれてハサ場(稲場)に干された[97]。湖岸には稲干し用に立てられた高さ4メートルの「ハサ杭」(多くはクリ材)がハサ場(稲場)に並び、日指・諸河で収穫された稲が舟で運ばれると、ハサ杭に渡した「ハサ竹」(マダケ)に干された。稲干しの後は組んでいたハサ竹を保管し、代わりに細い竹をハサ杭に渡して周年物干しとして利用された[98]。
また、戦国時代には油料原料のアブラギリ栽培が山地を切り開いて行なわれていた。栽培を開始した年代は不詳であるが[99]、延徳元年(1489年)には栽培されている。ただし16世紀初頭ではまだわずかであり、本格的には天文末年-永禄初年頃に栽培されたいわれる。元亀2年(1571年)には浅井氏にその「油実」60石が買い取られ、代価として米40石を受けている[99]。慶安4年(1651年)に納めた年貢のうち油実は約58パーセントを占めていた[100][101]。明治時代初期の地籍図には、アブラギリ畑であった「等外畑」の区画が山腹の上方となる谷筋の上流に多数認められる[102]。1871年(明治4年)にはウシ14頭が飼養されており、山地の急斜面の耕作に使われていた[103]。
しかし、江戸時代後半より次第に油実の需要が低下したことで、やがてタバコの栽培や養蚕・クワの葉の生産などに移行し[52]、明治時代中期(1894年〈明治27年〉)にはクワ畑の増加が見られ[93]、明治時代後期から昭和初期まで拡大した[104]。タバコの栽培は1963年(昭和38年)頃まで続けられていた[105]。また、菅浦は北部にありながら南に開けて温暖なことから特産品としてミカンのほかビワも栽培され、1300年代にはすでに年貢としてミカンやビワが納められている。ミカンの産地は滋賀県北部では珍しい[16]。しかし、奥琵琶湖パークウェイの着工により栽培面積は大幅に減少したといわれる[106]。
林業
稲干し用のハサ杭に用いられた腐食に強いクリ材のほか[107]、集落の裏山や日指・諸河の山から切り出された丸太や竹は、昭和初期まで丸子船に積まれて他村に出荷され、竹については植樹もなされていた。竹木の湖上運輸は、それに関連する事件(永仁5年〈1297年〉12月〈菅浦文書735号〉[108]、建武元年〈1334年〉11月〈菅浦文書286号〉[109]など)を記す史料により中世までさかのぼると考えられる[110]。このほか薪が生産・出荷され[111]、1980年代頃までクヌギやコナラが利用されたほか、木材としてアカマツやスギが利用された[112]。
工業
化石燃料の普及による林業の衰退に伴い、1960年(昭和35年)頃、菅浦の住人らの誘致によりヤンマーディーゼル(当時)の下請け家庭工場である「ヤンマー菅浦農村家庭工業」の作業場が、個人の庭先20か所に設けられた[113]。作業所の規模は、梁行(間口)約3.0メートル(10尺)、桁行(奥行)約4.6メートル(15尺)が基準とされた。ヤンマー家庭工場は、生業との兼業ではなく個人事業として操業され[114]、エンジン部品の製造などが行なわれ[15]、現在も一部(約10か所)が稼働する[114]。
地理
JR湖西線永原駅の南5キロメートル(大浦地区の南約4km[115])に位置する菅浦地区は[116]、琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島に向い合う葛籠尾崎の[117]、背後を標高約400メートルの険しい山に囲まれた狭小な扇状地(崖錘性堆積[118])に位置する[28]。一方が琵琶湖に面しているため、湖岸に道路が開通するまで、山を越えるほか交通手段のほとんどは舟行であったことから陸の孤島とも呼ばれ[3][119]、菅浦と大浦を結ぶ道路が開通するまでは主に渡し船によって行き来していた[120]。
かつて菅浦地区の西と東の入り江には、それぞれ舟溜まり(舟入場)があり[121]、昼間桟橋に係留させた舟を、夜には東西の舟溜まり(西の舟入〈西の川〉・東の舟入〈東の川〉)に係留させていたが[15]、1979年(昭和54年)、滋賀県の「新沿岸漁業構造改善事業」により、菅浦漁港(菅浦舟だまり)が整備されたことで、それまであった東西の舟溜まりは埋め立てられた[122]。
昭和中期(昭和30年代)まで、住人の多くは琵琶湖の水を直接、飲料水としていた[123]。また、集落の西側の取水には、西の舟入(西の川)に流入する小出川旧河道の湧水や水路が利用され、東側では、前田川という水路から東の舟入(東の川)に流入する阿弥陀寺川の湧水や、山麓部ではその谷水が利用された。そのほか東の舟入よりもさらに南では、主な取水すべてに湖水を利用していた[124]。なお、集落の中央部に下り、扇状地を形成した小出川の旧河道の流路は、1952年(昭和27年)、須賀神社の参道沿いを流れる新河道に付け替えられている[125][126]。
四足門
集落の東西両端に残る「四足門」は、集落の境界を示す惣門である[10]。門の構造形式は四脚門ではなく薬医門である[127]。石組み上に本柱2本と控柱2本を立て、控貫と足元貫でつなぎ、本柱上に冠木を渡して、肘木で桁を支えており、茅葺の切妻屋根で覆われ、破風の飾りは菅浦独特のものである[41]。現在に残る四足門には扉がなく、惣村の内外の領域を象徴的に示すものであるが[41]、本柱を屋根の中心からずらして立てた構造により、万一の防御の際には容易に倒すことができるような仕組みといわれる[9]。東の四足門は、棟札により江戸時代後期の文政11年(1828年)に再建されていたことが知られる[41]。
「四方門」とも呼ばれ、かつては四方にあり集落の守護を司る四神を象徴して建立されたといわれる[9]。残りの2か所の門跡は定かではないが、1か所は須賀神社の参道の途中(二ノ鳥居付近[128]、郷土資料館前付近[129])に、もう1か所の門は須賀神社から集落(祇樹院方面[129])に降りる道筋(集落北端の山道[128])にあったとされる[130]。
四足門と同様の惣門として、暦応4年(1341年)の史料「今西二藤屋敷売券」(菅浦文書354号[121])に大浦を意識して西側に構築されたと考えられる「大門」の存在が認められる[38]。現在の四足門のような構造であったかは不明であるが、文安6年(1449年)の「菅浦惣庄合戦注記」(菅浦文書628号[121])には、文安2年(1445年)の大浦勢との戦いにおいて、集落を仕切る大門の木戸が炎上したことが記されている[131]。また、菅浦は基本的に両墓制であり、門の内・外で明確に区切られ、遺体は西の門外の「サンマイ」[132][133]という埋め墓に埋葬され[34]、門内の寺院(阿弥陀寺・祇樹院)境内に「ハカワラ」と呼ばれる詣り墓(石碑群)が設けられている[7][121][134]。
湖岸と石積
奥琵琶湖とも呼ばれる琵琶湖北部は、周囲の山が風を遮ることで湖面は通常穏やかであるが、季節変化による特有の強風で荒波が立つこともあり、特に台風の進路が湖北におよぶと、南面が湖岸に開いた菅浦地区は強風と大波により多くの被害を受けたといわれる[115]。特に菅浦地区周辺は湖岸が急に深く湖に落ち込んでいることにより[80]、ひときわ高波が増幅される[135]。1961年(昭和36年)9月の第2室戸台風による被害の後に護岸が整備され[136]、1966年(昭和41年)には湖岸東部の護岸工事がなされた[137]。
菅浦地区集落は、湖に面した「浜出」と呼ばれる家並みと山側に位置する「北出」の家々におおよそ区分されるが、湖沿いの「浜出」には[138]、護岸および波よけに積まれた多くの石垣があり[65]、敷地側と湖岸の石積に挟まれた「ハマミチ」と呼ばれた浜通りの面影が残る[139][140]。
昭和50年代前半まで[135]、「ハマ」(浜)は、稲を干すハサ場(稲場)として利用されるとともに、漁具の手入れや屋根を葺くヨシを切りそろえる場所であり[15]、薪や柴を置く「ニュウバ」でもあった[141]。湖面には舟を係留する桟橋のほか、橋板の「ウマ」が設置され、洗い場や水くみ場として共同利用されていた[15][142]。
須賀神社
菅浦の総氏神は赤崎神社(赤崎大明神)とされ、また、西の村に小林神社(小林大明神)、東の村には保良神社(菅浦大明神)が祀られていたが[143]、1906年(明治39年)の神社合祀令により[126]、1909年(明治42年)、3社は須賀神社として合祀された[41][143]。
- 須賀の祭(須賀神社例祭)
- 4月第1土・日曜日。神輿堂から出された神輿による巡行(ムラマワリ)は2日目に行なわれ、4か所の御旅所を経由して菅浦地区内を一周する[128][144]。市指定無形民俗文化財(2015年〈平成27年〉2月19日指定)[22]。
- 大晦日祭(トシノミ)
- 菅浦の「トシノミ」は、数本束にした稲穂の根元に浜の小石をくくり付けたものである。年を越すため大晦日の「年越祭」に須賀神社に参拝して受け取り、持ち帰ると1年間神棚に供えた後、吊して野鳥に分け与えるとされる[144][145]。
金比羅社
菅浦地区の東部の山側に位置する[86]。切妻造、平入で、前側の屋根を長くした桟瓦葺きであり、内陣の棟札などにより文政3年(1820年)に建立されたものと考えられる[146]。漁業の最盛期であった時代には、漁業者や丸子船の船運業者により金比羅講が構成され、講会として10月10日に祭礼が行なわれるとともに、毎年2人が琴平(金刀比羅宮)に代参していた[86]。
寺院
かつて菅浦地区には15世紀末-16世紀前半より10以上(12か寺[147])におよぶ寺院・草庵・僧房が存在したが[121]、明治時代以降、廃仏毀釈の影響からか急速に減少し[148]、今日では、阿弥陀寺・安相寺・真蔵院・祇樹院の4寺院となっている[121]。
- 阿弥陀寺
- 時宗遊行派[149](伝・もと天台宗[150])。創建は文和2年(1353年)と伝えられる[151]。阿弥陀寺は東村の中心的寺院であり、西村には淳仁天皇の菩提寺とされる長福寺(二尊堂[150])があったが、中世末にかけて惣寺の地位を確立した阿弥陀寺が、近世においても「菅浦中之惣寺」として行事の中心的役割を果たした[152]。享和3年(1803年)に大火があったが、弘化年間(1844-1847年)に再建され、明治8年(1875年)に長福寺と善徳寺を併合した[151]。かつての長福寺跡は、菅浦地区公民館(1977年〈昭和52年〉建設[153])の敷地となる[137]。また、「阿弥陀寺古文書」として菅浦文書の58冊と絵図1幅が保管されていたが、明治時代に合祀された須賀神社に関わる淳仁天皇関係文書として持ち出されたとされる[153]。
- 木造阿弥陀如来立像(重要文化財)- 本尊(秘仏)[150]。行快作 附 像内納入品(17点)。鎌倉時代前期。像内納入品(文暦2年〈1235年〉の願文・結縁交名など[41])[151]。1987年(昭和62年)6月6日指定[22]。
- 阿弥陀如来坐像(市指定文化財) - 長福寺より伝来[150][154]。平安時代後期(12世紀)[151]。2004年(平成16年)4月30日指定[22]。
- 聖観音坐像(市指定文化財) - 長福寺より伝来[150][154]。平安時代後期(12世紀)[151]。2004年(平成16年)4月30日指定[22]。
- 六字名号曼茶羅(市指定文化財) - 鎌倉時代後期-南北朝時代。2004年(平成16年)4月30日指定[22]。
- 安相寺
- 浄土真宗。創建は文明11年(1479年)といわれる[155]。小谷城落城の際に浅井長政の子をかくまったという伝説があり、米原市の福田寺(長沢御坊)と深い関係を持つ[156]。寛政12年(1800年)頃の火災により被災し、現在の本堂は約40年後の天保12年(1842年)に新築され、入母屋造、本瓦葺きである。一時期、託児所としても利用されていた[157]。
- 真蔵院
- 真言宗豊山派[158]。大正年間(1912-1926年)に寺院の下で4軒を焼失する火事があったが、真蔵院は被災を免れたといわれる。切妻造、桟瓦葺きで、平面形式は基本的に6室の民家と同様である[159] 。
菅浦郷土資料館
菅浦郷土資料館 | |
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施設情報 | |
専門分野 | 菅浦の歴史民俗 |
収蔵作品数 | 42点 |
事業主体 | 長浜市 |
管理運営 | 菅浦自治会 |
開館 | 1984年(昭和59年)12月 |
所在地 |
〒529-0726 長浜市西浅井町菅浦497番地1 |
外部リンク | 菅浦郷土史料館 |
プロジェクト:GLAM |
須賀神社参道の東側にある郷土資料館。1984年(昭和59年)12月に[163]菅浦における竹製品の振興等保存伝承施設として建設された[164]。現在は、菅浦文書の写真および絵図のレプリカ、2012年(平成24年)4月24日に市指定文化財に指定された「鰐口」3口と「銅鏡」のほか[22]、中世(室町時代末期)の「能面」3面[41]、社寺に関する史料、葛篭尾崎遺跡より出土した土器類[165]、地元の古民具の展示品などがある[163]。
- 市指定文化財
4-11月の日曜日10:00-16:00のみ開館。入館(協力金)は高校生以上300円、小中学生100円[163]。
菅浦文書
須賀神社に秘蔵されていた「開けずの箱」(「他郷の者には見せない箱」の意[166])と呼ばれる唐櫃が[10]、1916年(大正5年)-1917年(大正6年)より[166](1940年〈昭和15年〉第2次調査[167])、当時の京都帝国大学の中村直勝らにより調査され[117]、収められていた中世(鎌倉-室町時代[43])から江戸時代(明治初年まで[41])の文書など、1200点余り(文書65冊〈1281通〉、絵図1幅[11])が発見された[10]。古くは平安時代中期(長久2年〈1041年〉)のものもあった[117]。これらは1954年(昭和29年)より彦根市の滋賀大学経済学部付属史料館に寄託されている[41][168]。1976年(昭和51年)6月5日、国の重要文化財に指定され[22][41]、2018年(平成30年)10月31日には国宝に指定された[12]。
菅浦絵図
乾元元年(1302年)と記される「菅浦与大浦下庄堺絵図」(すがうら と おおうらしものしょう さかいえず、菅浦文書722号)は[169]、縦91.5センチメートル、横62.3センチメートルで、日指・諸河の田地による大浦との所有権争いにより作成され、菅浦が主張する大浦下庄との村落の境が朱色の線で示されている[11]。中世の大浦「上庄」は西浅井町の庄・中・山門、「下庄」は大浦・黒山・小山・山田・八田部あたりであった[13]。絵図上部には西側に峯堂が描かれた海津大崎から東側の羅尾嵜(葛籠尾崎)にかけての陸地部分が描かれ、中央下部には竹生島の景観が明確に描かれており、絵図中央に広がる水域は菅浦の漁業および航行領域にあたると考えられる[170][171]。
中世の菅浦を描いた鎌倉時代後期から南北朝時代の荘園絵図とされ[11]、裏書に乾元元年(1302年)8月17日の墨書があり、「菅浦訴状具書案」(菅浦文書637号)の起業弘注進状に記された日付と符合する[172][173]。しかし、乾元元年は11月21日より始まることからこの年月日は認められず、後に作成されたものと考えられる[174]。その制作時期については諸説あり、嘉元3年(1305年)12月-延慶2年(1309年)7月[174]、建武元年(1334年)、建武3年(1336年)から[175]暦応年間(1338-1342年)[176]ないし康永年間(1342-1344年)・貞和年間(1345-1349年)の1340年代のうちに作成されたといわれるほか[177]、現存する絵図は、文安3年(1446年)の争論の際に提出された「檀那院雑掌良兼菅浦証文目録」(菅浦文書280号)にある「堺絵図」として[178]、文安になり作成されたともいわれる[179]。
菅浦を題材とした作品
高島の 阿渡(あど)の水門(みなと)を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ — 小弁、『万葉集』巻9
このほか菅浦は、『群青の湖』芝木好子 講談社(1990年)にも描かれるといわれる[183]。
交通
- JR湖西線永原駅より湖国バス菅浦線で終点「菅浦」まで約25分[184]。
- 北陸自動車道木之本インターチェンジより自動車で菅浦地区まで約30分[185]。
脚注
- ^ a b c d 白洲正子『かくれ里』(愛蔵版(新装版))新潮社、2010年(原著1971年)、191-204頁。ISBN 978-4-10-310719-4。
- ^ a b 蔵持 (2002)、1頁
- ^ a b “菅浦”. コトバンク. 朝日新聞社. 2019年7月11日閲覧。
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- ^ “日本遺産「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」に構成文化財が追加認定されました”. 滋賀県観光情報. びわこビジターズビューロー (2016年4月25日). 2018年7月22日閲覧。
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- ^ a b 藤井讓治 編『近江・若狭と湖の道』吉川弘文館〈街道の日本史31〉、2003年、82-83頁。ISBN 4-642-06231-9。
- ^ a b 滋賀県歴史散歩編集委員会 編『滋賀県の歴史散歩 下 - 彦根・湖東・湖北・湖西』山川出版社〈歴史散歩25〉、2008年、191-192頁。ISBN 978-4-634-24825-0。
- ^ a b c 『京都・滋賀 かくれ里を行く』淡交社〈淡交ムック〉、2005年、121-122頁。ISBN 4-473-02094-0。
- ^ a b c d e f g h 今谷昭『近江から日本史を読み直す』講談社〈講談社現代新書〉、2007年、135-140頁。ISBN 978-4-06-149892-1。
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- 山根猛『琵琶湖の漁業 いま・むかし』サンライズ出版〈琵琶湖博物館ブックレット④〉、2017年。ISBN 978-4-88325-616-7。
- 吉村俊昭「菅浦 - 湖と生きる村を訪ねて」(PDF)『成安造形大学附属近江学研究所紀要』第7号、成安造形大学附属近江学研究所、2018年3月26日、11-28頁、ISSN 2186-6937。
関連項目
外部リンク
- “菅浦の湖岸集落景観”, 文化遺産オンライン (文化庁)
- “静寂の中、忘れゆく原風景”, 滋賀新聞 (京都新聞滋賀本社), (2005-11-26)
- “惣村の誇り湖畔に鎮座 奥琵琶湖の菅浦集落(時の回廊)”, 日本経済新聞 (日本経済新聞社), (2015-08-21)
座標: 北緯35度27分30.5秒 東経136度8分32.0秒 / 北緯35.458472度 東経136.142222度