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「長波 (駆逐艦)」の版間の差分

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|兵装 = '''新造時'''<br />50口径12.7cm連装砲 3基6門<br />25mm機銃 II×2<br />61cm4連装[[魚雷発射管]] 2基8門<br />(九三式魚雷16本)<br />爆雷×18乃至36
|兵装 = '''新造時'''<br />50口径12.7cm連装砲 3基6門<br />25mm機銃 II×2<br />61cm4連装[[魚雷発射管]] 2基8門<br />(九三式魚雷16本)<br />爆雷×18乃至36
}}
}}
'''長波'''(ながなみ)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]。[[夕雲型駆逐艦|夕雲型]]の4番艦である。
'''長波'''(ながなみ)は<ref name="S16達391">[[#S16.7-12達/12月(2)]]画像5-6、昭和16年12月17日附達第391号</ref>、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。[[夕雲型駆逐艦]]の4番艦である<ref>[[#昭和17年12月31日艦艇類別等級表]]p.4『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|夕雲型|夕雲、巻雲、風雲、長波、巻波、高波、大波、清波、玉波、濱波』</ref>

== 概要 ==
一等駆逐艦'''長波'''(ながなみ)は<ref name="S16達391" />、日本海軍が[[1941年]](昭和16年)4月から[[1942年]](昭和17年)6月にかけて[[藤永田造船所]]で建造した駆逐艦{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=93-94|ps=長波(ながなみ)}}。竣工後、[[横須賀鎮守府]]部隊に所属し、哨戒や訓練をおこなう{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。8月31日、日本海軍は長波と[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=223a|ps=巻波(まきなみ)}}により'''第31駆逐隊'''を新編する<ref name="S17内令1622">[[#内令昭和17年8月(4)]]、p.11〔内令第千六百二十二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第三十一驅逐隊|長波、巻波|〕</ref>。
トラック泊地進出後、第31駆逐隊は第二水雷戦隊各隊・各艦と共に[[ガダルカナル島の戦い]]に従事する{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=223a|ps=巻波(まきなみ)}}。戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]と[[榛名 (戦艦)|榛名]]の[[ヘンダーソン基地艦砲射撃]]にも同行した{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=149|ps=ガダルカナル島基地砲撃一覧表}}。[[南太平洋海戦]]では前進部隊に所属、またガ島強行輸送任務([[鼠輸送]])に従事した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。11月中旬の[[第三次ソロモン海戦]]では、輸送船団を護衛した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=354-355|ps=外南洋部隊}}。11月30日の[[ルンガ沖夜戦]]では、第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将の旗艦(外南洋部隊増援部隊旗艦)として活躍したが{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=ルンガ沖夜戦}}、姉妹艦[[高波 (駆逐艦)|高波]]を喪失した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=223b|ps=高波(たかなみ)}}。

長波は艦の疲弊によりトラック泊地に後退して整備をおこない{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=512a-513}}、[[ケ号作戦|ガダルカナル島撤退作戦]]のあと内地へ帰投した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。[[1943年]](昭和18年)3月中旬から[[舞鶴海軍工廠]]で修理をおこなった<ref name="S1803舞鎮(2)19">[[#S1803舞鎮日誌(2)]]p.19(昭和18年3月17日記事)「長波入港」</ref>。5月12日、長波は北方部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=533a|ps=連合艦隊電令作第558号(略)第五戦隊、第二駆逐隊(五月雨)、長波ヲ内地着後北方部隊ニ編入ス(第五戦隊ハ入渠及電探工事等ヲ取止ム)}}。7月、[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=229|ps=島風(しまかぜ)}}や五月雨等とともに[[キスカ島撤退作戦]]に従事した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=93-94|ps=長波(ながなみ)}}。
北方作戦後は南方に転じ{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=439b}}、10月下旬には[[第一航空戦隊]]の物件を搭載して[[ラバウル]]に進出する{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|pp=424a-425|ps=第一航空戦隊の飛行機隊のラバウル進出}}。そのまま[[ブーゲンビル島の戦い|ブーゲンビル島攻防戦]]に投入されて[[ブーゲンビル島沖海戦]]に参加した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=391-394|ps=ボーゲンビル島沖海戦・その一}}。
[[11月11日]]、長波は[[ラバウル]]で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて大破{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=414-415|ps=邀撃空戦と艦艇の被害}}([[ラバウル空襲]]){{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。駆逐艦[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]](トラック泊地まで){{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=431a|ps=「長波」の曳航護衛}}と軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]](内地まで){{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=490a-491|ps=長良、五十鈴、内地へ}}に曳航されて日本に戻り<ref name="長良行動">[[#丸写真8軽巡I|写真日本の軍艦8巻、軽巡I]]、174-175「軽巡洋艦『長良・五十鈴・名取』行動年表 ◆長良◆」</ref>、[[1944年]](昭和19年)1月末から[[呉海軍工廠]]で修理をおこなった{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。

第31駆逐隊所属艦は昭和18年7月から11月にかけて姉妹艦[[清波 (駆逐艦)|清波]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=224a|ps=清波(きよなみ)}}、[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=223a|ps=巻波(まきなみ)}}、[[大波 (駆逐艦)|大波]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=223c-224|ps=大波(おおなみ)}}が沈没し、長波1隻となる。[[1944年]]2月10日、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=226a|ps=沖波(おきなみ)}}、[[岸波 (駆逐艦)|岸波]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=226b-227|ps=岸波(きしなみ)}}、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=227-228|ps=朝霜(あさしも)}}を編入して定数4隻を揃えた<ref name="S19内令314">[[#内令昭和19年2月(2)]]、p.18〔内令第三百十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年二月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、巻波、大波」ヲ「長波、岸波、沖波、朝霜」ニ改ム〕</ref>。
同年5月末、長波の修理完了{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。
7月中旬、第31駆逐隊(長波、岸波、沖波、朝霜)は戦艦や重巡洋艦を護衛してリンガ泊地に進出した{{Sfn|戦史叢書37巻|1970|p=385|ps=挿図第9、甲部隊リンガ進出行動概要図}}。
[[捷一号作戦]]にともなう[[レイテ沖海戦]]では、第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に所属する{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=221a-222|ps=長波(ながなみ)}}。10月23日、パラワン水道で栗田艦隊がアメリカ潜水艦2隻に奇襲された際{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=306-307|ps=最初の椿事}}{{#tag:Ref|潜水艦[[ダーター (SS-227)|ダーター]]の雷撃により第二艦隊旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]が沈没して姉妹艦[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]が大破。潜水艦[[デイス (潜水艦)|デース]]の雷撃で重巡[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]が沈没。|group="注"}}、長波と朝霜は損傷した重巡洋艦[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]を護衛して後退した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=93-94|ps=長波(ながなみ)}}{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=227-228|ps=朝霜(あさしも)}}。その後、長波は空襲で損傷した重巡[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]の護衛にまわった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。

レイテ沖海戦後、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官[[志摩清英]]第五艦隊司令長官)に編入され、[[多号作戦]]に従事する{{Sfn|戦史叢書54巻|1972|pp=450-453|ps=フィリピン沖海戦直後の水上部隊}}。11月11日、第三次多号作戦において[[レイテ島]][[オルモック湾]]で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、輸送部隊は朝霜を残して全滅する{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=538a-541|ps=二水戦司令官戦史、第二船団全滅}}。長波も撃沈された{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=93-94|ps=長波(ながなみ)}}。


== 艦歴 ==
== 艦歴 ==
=== 第31駆逐隊編制まで ===
1939年度(マル4計画)仮称第119号艦として[[藤永田造船所]]で建造、[[1942年]](昭和17年)6月30日に竣工して一等駆逐艦に類別され、[[横須賀鎮守府]]籍となる。
1939年度(マル4計画)仮称第119号艦として、[[藤永田造船所]]で建造{{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=289a|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/長波 Naganami}}。
[[1941年]](昭和16年)12月17日、長波(ながなみ)と命名される<ref name="S16達391" />。夕雲型駆逐艦に類別された<ref>[[#内令昭和16年12月(3)]]、pp.8-9〔内令第千六百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十六年十二月十七日 海軍大臣 嶋田繁太郎  驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「風雲」ノ下ニ「、長波」ヲ加フ(以下略) 〕</ref>。[[1942年]](昭和17年)6月30日、竣工。[[舞鶴鎮守府]]籍となる<ref name="S17内令1058">[[#内令昭和17年6月(4)]]、pp.1-2「内令第千五十八號 驅逐艦 長波 呂號第三十七潜水艦 第二十一號掃海艇 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル/舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波 右警備驅逐艦ト定メラル 昭和十七年六月三十日 海軍大臣 嶋田繁太郎」</ref>。


竣工、横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入されて[[横須賀市|横須賀]]に回航された後<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319500, pp.48,49</ref>、[[相模湾]]方面での哨戒に従事<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319700, pp.22</ref>。また、7月20日に横須賀を出撃して[[キスカ島]]へ資材輸送任務に就き<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319700, pp.27</ref>、帰途に輸送船を護衛して8月4日に横須賀に帰投した<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319800, pp.11、C08030320800, pp.26</ref>。
竣工と同時に長波は警備駆逐艦に定められた<ref name="S17内令1058" />。横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入されて[[横須賀市|横須賀]]に回航された後<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319500, pp.48,49</ref>、[[相模湾]]方面での哨戒に従事した<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319700, pp.22</ref>。
7月5日、[[キスカ島]]に停泊していた第二水雷戦隊・第18駆逐隊は米潜水艦[[グロウラー (潜水艦)|グロウラー]]の奇襲攻撃をうける{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=326-327|ps=米潜水艦の作戦}}。被雷した駆逐艦[[霰 (朝潮型駆逐艦)|霰]]は沈没{{Sfn|陽炎型|2014|p=301|ps=霰(あられ)}}、[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]{{Sfn|陽炎型|2014|p=303|ps=不知火(しらぬい)}}と[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]{{Sfn|陽炎型|2014|p=302|ps=霞(かすみ)}}は船体切断に追い込まれた{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=272-273|ps=米潜水艦の作戦}}([[7月5日の海戦 (1942年)|7月5日の海戦]])。7月17日、大海指第114号により長波は[[キスカ島]]に不知火と霞救援用の物資と人員を運ぶことになった{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=287-288}}。7月20日、長波は横須賀を出発して27日キスカ島に到着する{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=287-288}}<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319700, pp.27</ref>。翌日、輸送船白山丸を護衛して帰路につき、8月4日横須賀に帰投した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=287-288}}<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319800, pp.11、C08030320800, pp.26</ref>。


===ガダルカナル島を巡る戦い===
===ガダルカナル島を巡る戦い===
8月31日、日本海軍は長波と[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94a|ps=巻波(まきなみ)}}(舞鶴海軍工廠建造艦、8月18日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=289b|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/巻波 Makinami}}により'''第31駆逐隊'''を編制した<ref name="S17内令1622" />。初代駆逐隊司令に[[清水利夫]]大佐(当時、第21駆逐隊司令。[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#46期|海軍兵学校46期]]){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=182}}<ref name="大正kp1892">[{{NDLDC|2954006/4}} 大正7年11月22日 官報第1892号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ3香川補少尉候補生〈445下段〉、コマ4清水(旧姓吉富)補少尉候補生〈446上段〉</ref>を任命する<!-- 後任の第21駆逐隊司令は第1掃海隊司令[[天野重隆]]大佐 --><ref name="jirei931">{{アジア歴史資料センター|C13072086700|昭和17年8月31日(発令8月31日付)海軍辞令公報(部内限)第931号 p.21}}</ref>。
8月31日、[[第二水雷戦隊]]([[田中頼三]]少将([[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]41期))に第三十一駆逐隊が編制されて[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]とともに編入され<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030320800, pp.20</ref>、[[瀬戸内海]]で訓練を行って待機した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030095600, pp.5</ref>。9月6日、第三戦隊([[戦艦]][[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]。[[栗田健男]][[中将]]・海兵38期)を護衛して[[呉市|呉]]を出撃<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030097200, pp.4,5</ref>。[[チューク諸島|トラック諸島]]に進出後は前進部隊に編入され、[[ガダルカナル島の戦い]]に関わる海上作戦に加わることとなる。
第31駆逐隊は[[第二水雷戦隊]](司令官[[田中頼三]]少将・[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]41期)に所属した<ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030320800, pp.20</ref>。
第三戦隊司令官[[栗田健男]][[中将]](海兵38期)が指揮する第三戦隊(金剛型戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]])と第31駆逐隊(巻波、長波)で前進部隊待機部隊を編成<ref>[[#S1701三戦隊日誌(5)]]、pp.4-5「(ハ)當隊ノ情況(一)前月来前進部隊主隊ニ編入セラレアリシ処八月十日附前進部隊待機部隊(指揮官3S司令官、兵力3S〈三十一日31dgヲ編入〉)ニ編入セラレ内海西部ニ在リテ訓練竝ニ整備ニ從事スルコトトナレリ」</ref>、内海西部で訓練を実施した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=84}}<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030095600, pp.5</ref>。
9月6日<ref>[[#S17.07呉防戦日誌(3)]]、p.8「(ハ)九月六日 待機部隊(3S 31dg)出撃」</ref>{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=84}}、待機部隊(第三戦隊〈[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]〉、31駆〈巻波、長波〉)は[[呉市|呉]]を出撃した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030097200, pp.4,5</ref><ref>[[#S1701三戦隊日誌(5)]]p.18『(3)九月六日呉発伊予灘ニ於テ當隊及第三十一駆逐隊ノ第一類教練作業ヲ実施順調ニ經過シ夕刻豊後水道ヲ出撃「トラック」ニ向ヘリ』</ref>。
[[チューク諸島|トラック諸島]]に進出後、連合艦隊旗艦[[大和 (戦艦)|大和]]で打ち合わせをおこなう<ref>[[#S1701三戦隊日誌(5)]]、p.19「(4)九月十日「トラック」着直ニ補給ヲ実施シ又聯合艦隊司令部ニ於テ打合ヲ行ヒ戦況ヲ聴取シ令達其ノ他ヲ受領セリ」</ref>。前進部隊本隊に編入後{{#tag:Ref|9月8日時点での支援部隊軍隊区分より、前進部隊本隊編成<ref>『戦史叢書83巻』85-86頁の軍隊区分表より。</ref> 第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第八戦隊(利根、筑摩)、第二水雷戦隊(神通、第15駆逐隊〈黒潮、親潮、早潮〉、第31駆逐隊〈長波、巻波〉、第四水雷戦隊(由良、第2駆逐隊〈春雨、五月雨〉、第9駆逐隊〈朝雲、夏雲、峯雲〉)|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=84}}、[[9月11日]]にトラック泊地を出撃、前進部隊(指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官{{#tag:Ref|第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]海軍中将は海兵35期。1942年9月時点での兵力部署においては、支援部隊指揮官と前進部隊指揮官を兼務する<ref>『戦史叢書83巻』85-86頁の軍隊区分表より。</ref>。第二艦隊旗艦は、ほぼ一貫して重巡洋艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」であった。|group="注"}})に合流した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=117}}<ref>[[#S1701三戦隊日誌(5)]]、p.19「(5)當隊ハ八日附前進部隊本隊ニ編入セラレ十日「トラック」ヲ出港セシ本隊ニ追及及合同ヲ命ゼラレシヲ以テ第三十一駆逐隊ト共ニ 十一日「トラック」発十三日夕刻本隊ニ合同セリ」</ref>。第31駆逐隊は[[ガダルカナル島の戦い]]に関わる海上作戦に加わることとなる。9月中旬の日本陸軍ガ島総攻撃は失敗、日本海軍各艦隊はトラック泊地にもどった{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|pp=189-190|ps=第二師団の「ガ」島飛行場総攻撃の失敗}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=143}}。


10月1日、第31駆逐隊に姉妹艦[[高波 (駆逐艦)|高波]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94b|ps=高波(たかなみ)}}(浦賀船渠建造艦、8月31日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=289c|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/高波 Takanami}}が編入され、3隻(長波、巻波、高波)編制となった<ref>[[#内令昭和17年10月(1)]]、pp.1-2〔内令第千八百二十四号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「睦月」ヲ削ル|第三十一驅逐隊ノ項中「巻波」ノ下ニ「、高波」ヲ加フ〕</ref>。清水司令は司令駆逐艦を「高波」に指定した<ref name="S17海軍公報(部内限)4270">{{アジア歴史資料センター|C12070423900|昭和17年12月18日(金)海軍公報(部内限)第4270号 p.49}}「○司令驅逐艦指定 第三十一驅逐隊司令ハ十月一日司令驅逐艦ヲ高波ニ指定セリ」</ref>。
10月11日、第二水雷戦隊は[[ガダルカナル島]][[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]を[[艦砲射撃]]する第三戦隊を護衛してトラックを出撃。10月13日から14日にかけての深夜に行われた[[ヘンダーソン基地艦砲射撃|砲撃]]においては、襲来してきた[[魚雷艇]]の一群を追い払った<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.16,29,30</ref>。砲撃後、第三戦隊とともにガダルカナル島を後にした第二水雷戦隊は、同じくヘンダーソン飛行場砲撃に向かう[[重巡洋艦]][[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]の護衛に[[旗艦]]の[[軽巡洋艦]][[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]と第三十一駆逐隊を加勢させる事として兵力を分割した<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.36</ref>。妙高と摩耶は10月14日夜にガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して枕を並べて全滅した高速輸送船を見つつ、10月15日夜に艦砲射撃を敢行<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.37</ref>。砲撃は約1時間で終わり<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.37,38</ref>、第三十一駆逐隊も砲撃を行った。戦場を離脱後、10月17日夜に[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]([[近藤信竹]]中将・海兵35期)および[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]([[南雲忠一]]中将・海兵36期)主力と合流し<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.73</ref>、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた。10月26日の[[南太平洋海戦]]を経て、10月30日にトラックに帰投した<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.71</ref>。


10月11日、第二水雷戦隊(旗艦〈五十鈴〉{{#tag:Ref|従来の二水戦旗艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」は損傷修理のため内地へ帰投した。9月25日、五十鈴が二水戦に編入され<ref name="五十鈴行動">[[#丸写真8軽巡I|写真日本の軍艦8巻、軽巡I]]、175-176「軽巡洋艦『長良・五十鈴・名取』行動年表 ◆五十鈴◆」</ref>、[[田中頼三]]少将の旗艦となった。|group="注"}}、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉{{#tag:Ref|第15駆逐隊所属の駆逐艦[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]は、[[第二航空戦隊]]護衛のため別行動。|group="注"}}、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)は[[ガダルカナル島]][[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]への[[艦砲射撃]]を命じられた金剛と榛名を護衛することになり、挺身攻撃隊(指揮官[[栗田健男]]第三戦隊司令官)としてトラック泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=211-212|ps=進撃}}。
11月3日、第二水雷戦隊は外南洋部隊増援部隊としてトラックを出撃して[[ショートランド諸島|ショートランド]]に向かう。11月6日深夜、第三十一駆逐隊を含む駆逐隊四隊は、ガダルカナル島への[[鼠輸送]]を行うためショートランドを出撃<ref name="a">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.15</ref>。途中で[[B-17 (航空機)|B-17]] の空襲を受け、戦死者3名と重傷者7名を出し、一番砲塔などに被害があった<ref name="a"></ref>。深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.15,16</ref>。間を置かず、第二水雷戦隊は11月12日に、[[第38師団 (日本軍)|第三十八師団]]([[佐野忠義]]中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船とともにショートランドを出撃し、タサファロングに突入する第一分隊を護衛した。しかし、11月14日になって輸送船団はヘンダーソン飛行場から飛来した[[航空母艦|空母]][[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] (''USS Enterprise, CV-6'') の艦載機<ref>南太平洋海戦での損傷の修理中、艦載機をヘンダーソン飛行場に移動させていた(木俣『日本水雷戦史』232、233ページ)</ref>、[[アメリカ陸軍航空軍|陸軍]]機、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]機による8度にわたる反復攻撃を受け、11隻の輸送船は約半数が沈没するか引き返した。田中少将は駆逐艦と残存の4隻の輸送船を[[サボ島]]沖に向かう第二艦隊の後につけさせ、[[第三次ソロモン海戦]](戦艦の夜戦)が生起した隙を突いて輸送船をタサファロングの浜辺に擱座させた<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.23</ref>。第二水雷戦隊は11月15日にショートランドに帰投した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.7</ref>。
10月13日から14日にかけての深夜に行われた[[ヘンダーソン基地艦砲射撃|飛行場砲撃]]においては{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=149|ps=ガダルカナル島基地砲撃一覧表}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=213a-215|ps=射撃の実施}}、襲来してきた[[魚雷艇]]4隻{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=214|ps=米軍資料による。}}を追い払った<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.16,29,30</ref>。ヘンダーソン飛行場は損害を受けたが、日本軍が知らなかった新規飛行場は離着陸可能であり、ガ島揚陸中の輸送船団に空襲を加えた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=220}}。
輸送船団の苦戦を知った連合艦隊は、前進部隊の重巡[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]と[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]に飛行場砲撃を命じ、これを二水戦(五十鈴、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)が護衛することになった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=222a|ps=第五戦隊の飛行場射撃}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=226-229|ps=前進部隊の作戦}}。妙高と摩耶はガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して擱座炎上した3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を見つつ<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.37</ref>、10月15日夜{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=150-152}}、艦砲射撃を敢行した{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=149|ps=ガダルカナル島基地砲撃一覧表}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=222b}}。砲撃は約1時間で終わり<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.37,38</ref>、第31駆逐隊も砲撃を行った(発射弾数253発){{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=222b}}。戦場を離脱後、10月17日夜に[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]([[近藤信竹]]中将・海兵35期)および[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]([[南雲忠一]]中将・海兵36期)主力と合流し<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.73</ref>、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=232-233}}。10月26日の[[南太平洋海戦]]時は、支援部隊・前進部隊(第二艦隊基幹)に所属していた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=273-275|ps=支援部隊の編制}}。10月30日にトラックに帰投した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=306}}<ref>『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.71</ref>。

11月3日、長波を含め支援部隊の一部部隊{{#tag:Ref|第七戦隊(鈴谷)、摩耶、第二水雷戦隊、第10駆逐隊。|group="注"}}は外南洋部隊(指揮官[[三川軍一]]海軍中将、第八艦隊司令長官)に編入され{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=325-327|ps=兵力の再編制}}、トラックを出撃して[[ショートランド諸島|ショートランド]]に向かう。11月5日、ショートランド泊地において外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第三水雷戦隊司令官[[橋本信太郎]]少将から第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将に引き継がれた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=349}}。ガダルカナル島への[[鼠輸送]]に従事していた第三水雷戦隊は、トラック泊地へ戻る{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=349}}。これ以降、ガ島への駆逐艦輸送作戦は田中頼三少将が指揮することになった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=349}}。

11月6日深夜、第15駆逐隊司令[[佐藤寅治郎]]大佐指揮下の甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、高波、長波〉、第10駆逐隊〈夕雲、風雲〉)はショートランド泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=350-351|ps=七日の輸送}}<ref name="a">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.15,16</ref>。途中で米軍爆撃機と小型機20数機の空襲を受け、長波と高波が損傷した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=351}}。長波は戦死者3名と重傷者7名を出し(長波乗組員によれば戦死4名、ほか陸軍部隊に負傷者){{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=196}}、一番砲塔などに被害があった<ref name="a" />。甲増援隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=351}}。

{{seealso|第三次ソロモン海戦}}

この頃の連合艦隊は大規模輸送船団によるガ島輸送を計画しており、外南洋部隊増援部隊は[[第38師団 (日本軍)|第三十八師団]](司令官[[佐野忠義]]中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船を護衛することになった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=354-355|ps=外南洋部隊}}。11月12日1530、増援部隊(指揮官[[田中頼三]]少将、二水戦旗艦「[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]」){{#tag:Ref|早潮(第二水雷戦隊旗艦)、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、長波、天霧、望月。|group="注"}}{{#tag:Ref|五十鈴は外南洋部隊主隊として別働<ref name="五十鈴行動" />、黒潮は待機隊として出動せず、天霧と望月が収容隊として二水戦に同行<ref>『戦史叢書83巻』355頁、カ号作戦における兵力部署より</ref>。|group="注"}}は輸送船団を護衛してショートランドを出撃した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=376}}。だが飛行場砲撃隊と米艦隊の間で夜間水上戦闘となり(第三次ソロモン海戦、第一夜戦)、輸送船団は[[コロンバンガラ島]]東方で反転、ショートランド泊地に引き返した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=379}}。
11月13日1530、輸送船団は再びショートランド泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=379}}。
11月14日になると、輸送船団はヘンダーソン飛行場から飛来した[[航空母艦|空母]][[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] (''USS Enterprise, CV-6'') の艦載機<ref>南太平洋海戦での損傷の修理中、艦載機をヘンダーソン飛行場に移動させていた(木俣『日本水雷戦史』232、233ページ)</ref>、[[エスピリトゥサント島]]から飛来した[[アメリカ陸軍航空軍|陸軍]]の[[B-17 (航空機)|B-17重爆]]{{Sfn|ニミッツ|1962|p=138}}、ガ島から来た[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]機による八次におよぶ反復攻撃を受けた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=379}}。零式艦上戦闘機や水上観測機が護衛にあたったが、米軍機の大群を阻止できなかった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=379}}。11隻の輸送船は6隻が沈没し、佐渡丸と護衛2隻(天霧、望月)が引き返した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=380}}。長波は陸兵570名を救助した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=380}}。田中少将(早潮座乗)は駆逐艦と残存の4隻の輸送船を[[サボ島]]沖に向かう前進部隊(指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官)の後につけさせたが、救助者を乗せた各艦(長波、巻波、江風、涼風)は戦闘に耐えられる状態ではなかった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=381}}。その後、田中少将は第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起した隙を突いて輸送船をタサファロングの浜辺に擱座させた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=397-398|ps=第二次輸送船団の壊滅}}。夜明け後、輸送船は空襲と重砲射撃と艦砲射撃により粉砕され、人員のみガ島に揚陸した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=140}}。駆逐艦だけになった増援部隊(指揮官[[田中頼三]]第二水雷戦隊司令官)は、11月15日2200ショートランドに帰投した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=398}}<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.7</ref>。


===ルンガ沖夜戦===
===ルンガ沖夜戦===
輸送船によるガダルカナル島突入が失敗に終わると{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=398}}、ガダルカナル島に対する輸送作戦は[[ドラム缶]]を用いた鼠輸送に切り替えられた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=407-408|ps=聯合艦隊司令部}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=431-432|ps=ドラム罐輸送計画}}。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]](司令長官[[三川軍一]]中将・海兵38期)に二度意見具申したが<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.38,40</ref>、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=432-433}}<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.40,41</ref>。また輸送量・人員を増やすよう要望した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=432-433}}。田中少将は、配下の駆逐艦全てから予備魚雷を陸揚し{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=432-433}}、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.1,2,42,43,44</ref>。
この出撃時の兵力部署は、警戒隊(二水戦司令官直率、長波〔二水戦司令官〕、高波〔第31駆逐隊司令〕)<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.1,3,4</ref>、第一輸送隊(第15駆逐隊司令、第15駆逐隊〈親潮、黒潮〉、巻波)、第二輸送隊(第24駆逐隊司令、第24駆逐隊〈涼風、江風〉)であった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=432-433}}。田中少将(第二水雷戦隊司令官)は長波を臨時の増援部隊旗艦とした{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=433}}。

{{seealso|ルンガ沖夜戦}}
{{seealso|ルンガ沖夜戦}}
輸送船によるガダルカナル島突入が失敗に終わると、ガダルカナル島に対する輸送作戦は[[ドラム缶]]を用いた鼠輸送に切り替えた。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]([[三川軍一]]中将・海兵38期)に二度意見具申したが<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.38,40</ref>、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.40,41</ref>。二度も意見を却下された田中少将は、配下の駆逐艦全てから予備魚雷を降ろし、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.1,2,42,43,44</ref>。警戒艦は第三十一駆逐隊の諸艦に割り振って、警戒隊と二つの輸送隊の警戒担当とし<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.1,3,4</ref>、田中少将は長波を臨時の旗艦とした。


11月29日夜22時45分、第二水雷戦隊はショートランドを出撃して北方からガダルカナル島を目指した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.44,45,48</ref>。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17 に発見される<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.45,48</ref>。これを受け、南太平洋軍司令官[[ウィリアム・ハルゼー]][[大将]]は「東京急行」を阻止すべく、[[カールトン・H・ライト]]少将の{{仮リンク|第67任務部隊|en|Task Force 67}}を出撃させた<ref>ポッター, 306ページ</ref>。サボ島沖に差し掛かった20時30分頃、警戒隊の[[高波 (駆逐艦)|高波]]は単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備え、長波、波も輸送隊からやや離れて警戒の任務にあたった。21時12分、高波が第67任務部隊を発見する。敵発見の報を受けて、田中少将はドラム缶を投棄させて戦闘態勢入っ。[[ルンガ沖夜]]の始まりである。敵発見を報じた高波は、21時20分から第67任務部隊の集中砲火を浴び、直ちに反撃の[[酸素魚雷]]を発射したものの、袋叩きの末航行不能となった<ref>『水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.52</ref>その隙を突いて他の駆逐も酸素魚雷を発射し、その[[ファラクス|槍衾]]第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲掛かった。先頭の[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]] (''USS Minneapolis, CA-36'') には魚雷が2命中し艦首吹き飛ばし、ミネアポリスの後方を包んでいた[[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]] (''USS New Orleans, CA-32'') も魚雷の線に飛び込み艦首魚雷が命中てミネアポリス同様に鼻先を失った。3番艦[[ペンサコーラ (重巡洋艦)|ペンサコーラ]] (''USS Pensacola, CA-24'') は損傷したミネアポリスニューオーリンズ両艦るべく左に舵を切っが、両艦からの火災によってペンサコーラの艦影が浮かび上がり、日本側による2目の雷撃の格好の目標となってしまった。ペンサコーラには1本が後部マスト直下の左舷側に命中し、機械室が破壊され砲塔3基が使用不能になった上、大火災が発生した。4番艦[[ホノルル (軽巡洋艦)|ホノルル]] (''USS Honolulu, CL-48'') は30ノットの速力相手から離れ無事だった。5番艦[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]] (''USS Northampton, CA-26'') は魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった<ref>木俣日本水雷戦242ページ</ref>。ノーザンプトンは左に大きく倒れ、3時間後に傾斜して燃えながら沈没していった
11月29日夜22時45分、外南洋部隊増援部隊はショートランドを出撃して北方からガダルカナル島を目指した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=433}}<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.44,45,48</ref>。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17 に発見される<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.45,48</ref>。これを受け、南太平洋軍司令官[[ウィリアム・ハルゼー]][[大将]]は「東京急行」を阻止すべく、[[カールトン・H・ライト]]少将の{{仮リンク|第67任務部隊|en|Task Force 67}}を出撃させた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=141}}<ref>ポッター, 306ページ</ref>。サボ島沖に差し掛かった20時30分頃、警戒隊の[[高波 (駆逐艦)|高波]]は単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備えた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=433}}。21時12分、高波が第67任務部隊を発見する{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=433}}増援部隊各艦はドラム缶の投入準備にかかっていたが、敵発見の報告により田中少将はドラム缶を投棄させて21時16分「揚陸止メ、全軍突撃セヨ」を下令し{{Sfn|史叢書83巻|1975|p=433}}。敵発見を報じた高波は、21時20分から第67任務部隊の集中砲火を浴び{{Sfn|ニミッツ|1962|p=142}}、航行不能となって23時37分に沈没し{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=435}}。高波座乗の清水大佐(31駆逐隊司令)は戦死した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=184}}増援部隊各魚雷を発射し{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=434|ps=挿図第32ガ沖夜戦合戦図}}、長波射撃を行つつ魚雷8本を射、非敵側反転した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=435}}長波の損傷海戦で大口径弾の至近弾けた度でった<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌C08030098800, pp.51</ref>。

高波は23時30分頃に自沈の処置を始めたが、同37分、米艦隊の魚雷が艦尾に命中し、爆雷、爆薬庫が爆発し沈没した。長波は海戦で大口径弾の至近弾を受けた軽い損害だった。<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.51</ref>。
一方、増援部隊が発射した魚雷の[[ファランクス|槍衾]]は第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲い掛かった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=437-440|ps=米艦隊の戦闘}}。旗艦[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]] (''USS Minneapolis, CA-36'') は魚雷2本を被雷して艦首を吹き飛ばされ、[[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]] (''USS New Orleans, CA-32'') も魚雷命中により艦首を失った{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}。3番艦[[ペンサコーラ (重巡洋艦)|ペンサコーラ]] (''USS Pensacola, CA-24'') は被雷して炎上した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}。4番艦[[ホノルル (軽巡洋艦)|ホノルル]] (''USS Honolulu, CL-48'') は30ノットの速力で相手から離れ無事だった。5番艦[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]] (''USS Northampton, CA-26'') は魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった<ref>木俣『日本水雷戦史』242ページ</ref>。ノーザンプトンは転覆して沈没した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}。

夜戦で大きな戦果をあげた二水戦だが、田中頼三少将に対する評価は芳しくなかった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=436}}。ただし翌年9月15日、連合艦隊は増援部隊の功績をたたえて感状を授与した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=440b}}。高波の除籍により、31駆は長波と巻波の2隻になった<ref>[[#内令昭和17年12月分(4)]]、p.29〔内令第二千三百七十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十二月二十四日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十五驅逐隊ノ項中「早潮、」ヲ削ル|第三十一驅逐隊ノ項中「、高波」ヲ削ル〕</ref>


=== 昭和17年12月から昭和18年前半の戦い ===
=== 昭和17年12月から昭和18年前半の戦い ===
海戦には勝利したものの、本来の目的であるドラム缶輸送は果たせていなかった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=440b}}。駆逐艦を増強し、12月3日から4日にかけて増援部隊指揮官(田中頼三少将、二水戦司令官)指揮下で第二輸送作戦がおこなわれた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=440a|ps=十二月三日}}。長波をふくめ駆逐艦10隻{{#tag:Ref|第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波、巻波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)、第27駆逐隊(夕暮)|group="注"}}による輸送では、空襲で巻波が小破{{Sfn|ニミッツ|1962|p=143}}、ドラム缶1500個を投入したが陸軍が揚収したのは310個であった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=440b}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=198-199}}。この頃、ショートランド泊地に秋月型駆逐艦[[照月 (駆逐艦)|照月]]{{#tag:Ref|連合艦隊の命令により、12月1日附で照月と浦風は外南洋部隊に編入されていた。|group="注"}}が到着した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=441a|ps=十二月七日}}。田中頼三少将は、二水戦旗艦を長波から照月に変更した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=441b}}{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=203}}。
しかし、海戦には勝利したものの本来の目的であるドラム缶輸送は果たせていなかった。そのため、12月に入ってからも輸送作戦が繰り返される事となった。12月3日から4日にかけての第二次輸送、12月7日から8日にかけての第三次輸送、12月11日から12日にかけての第四次輸送に従事するが<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.4,6</ref>、空襲や魚雷艇の妨害などによって輸送作戦は上手くゆかなかった。12月14日に[[ラバウル]]に後退してからは[[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]への輸送作戦に参加する<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.6</ref>。12月25日から26日にかけては、[[コロンバンガラ島]]への輸送任務に向かう途中でアメリカの潜水艦[[シードラゴン (潜水艦)|シードラゴン]] (''USS Seadragon, SS-194'') の魚雷攻撃を受け、さらに護衛の駆逐艦[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]と衝突して二重の損傷を負った輸送船南海丸([[商船三井|大阪商船]]、8,416トン)に対する救援活動に従事した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.25,26,33</ref>。12月30日、第二水雷戦隊司令官が田中少将から[[小柳冨次]]少将(海兵42期)に代わり、引き続き長波を戦隊旗艦とした<ref name="b">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.7</ref>。

12月7日から8日にかけての第三次輸送作戦は、第15駆逐隊司令の指揮下で長波をふくめ駆逐艦11隻{{#tag:Ref|第15駆逐隊司令[[佐藤寅治郎]]大佐、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)、第17駆逐隊(浦風、谷風)、第27駆逐隊(有明)|group="注"}}が参加した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=441b}}。往路で駆逐艦[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]が空襲を受けて航行不能となり、長波は野分を曳航してショートランド泊地に引き返した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=441b}}。2隻を駆逐艦[[嵐 (駆逐艦)|嵐]](第4駆逐隊司令[[有賀幸作]]大佐)と[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]]が護衛した{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=199-200}}。魚雷艇や米軍機の妨害により{{Sfn|ニミッツ|1962|p=144}}、輸送作戦は失敗に終わった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=441b}}。

12月11日から12日にかけての第四次輸送作戦は増援部隊指揮官(二水戦司令官、旗艦「照月」)の直率下で行われ、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将は「今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、アラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ務メヨ」と激励した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=446a-447|ps=第四次ガ島ドラム罐輸送}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=200-201}}。長波ふくめ駆逐艦11隻{{#tag:Ref|増援部隊旗艦(照月)、第4駆逐隊(嵐)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第17駆逐隊(谷風、浦風)、第27駆逐隊(有明)|group="注"}}で実施する{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=446b}}。ガダルカナル島に到着してドラム缶を揚陸中、増援部隊は米軍魚雷艇に襲撃されて旗艦照月が被雷、航行不能となる{{Sfn|ニミッツ|1962|p=144}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=447}}。田中少将ふくめ第二水雷戦隊司令部は長波に移乗した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=205}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=447}}。二水戦司令部退去後、照月は自沈した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=447}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=203-204}}。投下したドラム缶1200個のうち、揚収できたのは220個であったという{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=447}}。

12月14日に[[ラバウル]]に後退してからは、[[ニュージョージア島]][[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]](日本軍飛行場建設中){{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=452-453|ps=ムンダ基地設営}}への輸送作戦に参加する<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.6</ref>。増援部隊指揮官(二水戦司令官)直率のもと、長波ふくめ駆逐艦6隻{{#tag:Ref|第二水雷戦隊司令官直率、第31駆逐隊(長波、巻波)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第17駆逐隊(谷風)|group="注"}}は12月16日1400ショートランド泊地を出発する(ムンダ第一回輸送、第一次){{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=453a|ps=第一回輸送}}。夜間空襲を受け、陽炎が小破した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=453b}}。翌日0500、ショートランド泊地に帰投した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=453b}}。

12月25日1300、駆逐艦[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]と輸送船南海丸([[商船三井|大阪商船]]、8,416トン)はムンダに向けラバウルを出発した(ムンダ第二回輸送、第四次){{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=454a|ps=第二回輸送}}。1730、セントジョージ岬西南西24浬で米潜水艦[[シードラゴン (潜水艦)|シードラゴン]] (''USS Seadragon, SS-194'') の魚雷攻撃を受け、南海丸が損傷する{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=454b}}。さらに南海丸と卯月が衝突、卯月は航行不能となった{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=454b}}。駆逐艦4隻(長波、有明、谷風、浦風)は急遽ラバウル出撃、救援にむかう{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=454b}}{{#tag:Ref|卯月は有明に曳航されていたが、空襲で有明は中破する<ref>『戦史叢書83巻』4554-455頁</ref>。卯月は浦風に曳航され、ラバウルに帰投した。|group="注"}}。長波は鶴見等とともに南海丸を護衛して避退、同船は26日1500頃ラバウルに帰投した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=455}}<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.25,26,33</ref>。

12月30日、増援部隊指揮官(第二水雷戦隊司令官)は[[田中頼三]]少将から[[小柳冨次]]少将(海兵42期)に代わり、引き続き長波を二水戦旗艦とした<ref name="b">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.7</ref>{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|pp=510-512|ps=一月二日}}。
年明けた[[1943年]](昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送は、長波ふくめ駆逐艦10隻{{#tag:Ref|警戒隊(長波、江風、涼風、巻波、荒潮)、輸送隊(親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)|group="注"}}で行われた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=511}}。[[レンドバ島]]付近で空襲をうけ涼風が損傷、電の護衛下で引き返した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=511}}。最前線で長期間活動していた二水戦各艦は消耗が激しく、4隻(長波、親潮、陽炎、涼風)は前進部隊に復帰した{{#tag:Ref|前進部隊復帰は、親潮・陽炎・涼風が1月6日付、長波と二水戦司令部は1月10日付。|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=512b}}。1月10日、増援部隊旗艦(二水戦旗艦)は長波から黒潮に変更された{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=513}}。翌日、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第二水雷戦隊司令官[[小柳冨次]]少将から第十戦隊司令官[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将に引き継がれた{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=513}}。12日1000、二水戦司令官は「長波」を率いてショートランド泊地を出発した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=513}}。14日、トラックに到着した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.5,10</ref>。長波は3月7日までトラック泊地で整備を行った<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.10、C08030100400, pp.7、C08030100500, pp.7</ref>。

1月19日、第十戦隊旗艦の秋月型駆逐艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]は米潜水艦[[ノーチラス (潜水艦)|ノーチラス]]に雷撃されて大破、第十戦隊司令官(木村少将)も負傷した{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=519}}。小柳少将(第二水雷戦隊司令官)は第十戦隊司令官に任命され{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=519}}、長波から将旗を撤収する<ref name="b" />。神通艦長が臨時に二水戦司令官を代行したあと、後任の二水戦司令官には[[伊崎俊二]]少将(海兵42期)が任命された{{Sfn|戦史叢書83巻|1975|p=519}}。
長波は工作艦[[明石 (工作艦)|明石]]の世話になった{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=206}}。整備中の1月20日、五十鈴は第二水雷戦隊からのぞかれ第十六戦隊へ転籍した<ref name="五十鈴行動" />。
同日附で、夕雲型駆逐艦[[大波 (駆逐艦)|大波]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94c|ps=大波(おおなみ)}}(藤永田造船所建造艦、前年12月29日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290a|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/大波 Onami}}が第31駆逐隊に編入された<ref>[[#内令昭和18年1月(2)]]、p.25〔内令第四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項中「巻波」ノ下ニ「、大波」ヲ加フ〕</ref>。
2月25日には姉妹艦[[清波 (駆逐艦)|清波]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94d|ps=清波(きよなみ)}}(浦賀船渠建造艦、1月25日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290b|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/清波 Kiyonami}}が31駆に加わった<ref>[[#内令昭和18年2月(4)]]、pp.48-49〔内令第三百十二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年二月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第五驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、天霧、夕霧」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第二十二驅逐隊|皐月、水無月、文月、長月| |第三十一驅逐隊ノ項中「大波」ノ下ニ「清波」ヲ加フ〕</ref>。第31駆逐隊は定数4隻(長波、巻波、大波、清波)となった。

3月8日に、前年暮れに救援した南海丸を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後[[舞鶴市|舞鶴]]に回航され、3月17日に入港した<ref name="S1803舞鎮(2)19" />。[[舞鶴海軍工廠]]で修理と整備をおこなう<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100500, pp.12,15</ref>。修理後、4月20日に舞鶴を出発する<ref>[[#S1804舞鎮日誌]]p.66(昭和18年4月20日記事)「木曾入港 長波出港」</ref>。横須賀に回航された<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100600, pp.6</ref>。
4月25日、第十四戦隊の軽巡洋艦[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=469}}と駆逐艦3隻(長波、時雨、有明)は<ref>[[#S1712四水戦日誌(6)]]p.7「有明(略)16日大鷹及冲鷹護衛ニ任ジ「トラック」出撃21日横須賀着25日雲鷹及冲鷹護衛ニ任ジ横須賀発30日「トラック」着任務ヲ終了ス」</ref>、空母[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]と[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]を護衛してトラックに向かう{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=310|ps=第十四戦隊の内南洋部隊への進出}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=494}}。4月30日、艦隊はトラック泊地に到着した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=494}}。
5月8日、軍艦5隻(戦艦〈[[大和 (戦艦)|大和]]〉、空母〈雲鷹、冲鷹〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉)は駆逐艦部隊(長波、潮、夕暮、五月雨)に護衛されてトラックを出港し、それぞれ内地に帰投した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=494}}{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=328a|ps=「大和」等の内地回航}}。5月13日、長波と五月雨は第五戦隊および空母と共に横須賀へ帰投した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=520}}{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=328b}}。


横須賀到着の前日、連合軍は[[アッツ島]]に上陸を開始、[[アッツ島の戦い]]が始まった{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=529|ps=五月十二日の状況}}。
年明けた[[1943年]](昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送に参加の後トラックに下がる事となり、1月14日にトラックに到着した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.5,10</ref>。小柳少将は着任後1ヵ月で[[伊崎俊二]]少将(海兵42期)に司令官の座を譲り、長波から将旗を撤収した<ref name="b"></ref>。1月14日から3月7日にかけてはトラックで整備を行い<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.10、C08030100400, pp.7、C08030100500, pp.7</ref>、3月8日に、前年暮れに救援した南海丸を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後[[舞鶴市|舞鶴]]に回航され、[[舞鶴海軍工廠]]で修理に入った<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100500, pp.12,15</ref>。修理後横須賀に回航されて、[[航空母艦|空母]][[雲鷹 (空母)|雲鷹]]、[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]を護衛してトラックに向かう<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100600, pp.6</ref>。5月8日に雲鷹、冲鷹に戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]を加えてトラックを出港し、5月13日に横須賀に帰投の後、北方部隊に編入された<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100700, pp.6、『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084000, pp.8</ref>。[[占守島]]片岡湾に進出して行動を開始するも、故障発生により再び舞鶴海軍工廠で修理が行われ、修理後は[[幌筵島]]に進出した<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084400, pp.15,35,45</ref>。
第五戦隊および長波と五月雨は北方部隊([[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]基幹)に編入され<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100700, pp.6、『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084000, pp.8</ref>、アリューシャン列島への進出を命じられる{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=533b|ps=連合艦隊電令作第562号(5月12日2348)第五戦隊、第二駆逐隊(五月雨)、長波、急速出動準備ヲ完成、第五戦隊司令官所定ニ依リ幌筵ニ進出スベシ。}}。5月15日、4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)は横須賀を出発、19日幌筵に到着した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=546}}。北方部隊はアッツ島救援のため駆逐艦[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]と[[野風 (駆逐艦)|野風]]をアッツ島に突入擱座させて補給を行う計画を立てていたが{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=545-547|ps=北方部隊の状況}}{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=554-556|ps=北方部隊の作戦・水上部隊}}、実施されなかった{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=558-559}}。5月29日、アッツ島守備隊は玉砕した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=549-550|ps=アッツ島における状況}}。
6月1日、長波は補給の際に舷側に損傷を負い、翌日幌筵を出発する{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=599}}。6月5日、舞鶴に到着した<ref name="S1806舞鎮06長波">[[#S1806舞鎮日誌]]p.6「(二)造修(a)修理工事(b)長波 五日入港船體損傷及機銃増備工事施行二十三日完成出港」</ref>。修理と機銃増備工事をおこなう<ref name="S1806舞鎮06長波" />。23日、舞鶴を出動する<ref>[[#S1806舞鎮日誌]]p.67(1943年6月23日項目)「長波工事完了出動」</ref>。7月1日、[[幌筵島]]に進出した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=599}}<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084400, pp.15,35,45</ref>。


=== キスカ・ブーゲンビル・ラバウル ===
=== キスカ・ブーゲンビル・ラバウル ===
{{seealso|キスカ島撤退作戦}}
{{seealso|キスカ島撤退作戦}}
{{seealso|ブーゲンビル島沖海戦}}
{{seealso|ラバウル空襲}}
7月7日、[[キスカ島撤退作戦]]第一次作戦に警戒部隊として参加する。しかし、第一次作戦は[[キスカ島]]方面の[[霧]]が晴れてきたことで中止となり<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084500, pp.47</ref>、幌筵島に帰投した。再挙を期して、第二次作戦は7月22日から開始された。しかし、7月26日夕方に多重衝突事故があり、前を航行中の[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]の艦尾が左舷艦尾にぶつかり、外板に少し凹みが生じて若干量の浸水もあったが作戦に支障は無かった。撤退作戦後、8月3日に北方部隊の指揮から離れて原隊に戻ることとなった。[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]とともにタンカー日本丸(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛し<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030085200, pp.15</ref>、舞鶴海軍工廠で9月4日まで修理を行った<ref name="c">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101200, pp.7</ref>。


7月7日、第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将の指揮下、[[キスカ島撤退作戦]]第一次作戦に警戒部隊(初霜、若葉、島風、長波、五月雨)として参加する{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=609-610|ps=第二 軍隊区分}}{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=615-616}}。しかし、第一次作戦は[[キスカ島]]方面の[[霧]]が晴れてきたことで7月15日に作戦中止となり{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=618-620|ps=突入断念、帰投}}<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084500, pp.47</ref>、18日幌筵島に帰投した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=620}}。
修理後の9月15日、[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]とともに重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、摩耶を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう<ref name="c"></ref>。護衛任務終了後はトラックで待機し、10月17日からは[[マーシャル諸島]]方面に出撃する第三艦隊([[小沢治三郎]]中将・海兵37期)と第二艦隊(栗田健男中将)の護衛に就いた<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101300, pp.7</ref>。11月に入ってラバウルへの緊急輸送を行った後<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.12</ref>、[[ブーゲンビル島]]トロキナ方面に殴り込みをかける第五戦隊([[大森仙太郎]]少将・海兵41期)を護衛してラバウルを出撃。11月1日から2日にかけての深夜に生起した[[ブーゲンビル島沖海戦]]を経てラバウルに帰投後、11月5日の第1回の[[ラバウル空襲]]に遭遇するが、被害はなかった。11月6日から10日にかけては第十戦隊([[大杉守一]]少将)とともにトロキナへの逆上陸作戦に従事した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.13</ref>。
第二次作戦は7月22日から開始された{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=632-633}}。翌日、3隻(長波、日本丸、国後)は霧のために艦隊から落伍した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=632-633}}。24日、長波と日本丸は艦隊に合流できたが、国後は依然として所在不明だった{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=633-634}}。
7月26日夕方、突入部隊は国後を原因とする多重衝突事故を起こす{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|pp=636-639|ps=「國後」出現による触衝事故}}。艦隊最後尾にいた若葉(第21駆逐隊司令)-初霜-長波は前方の混乱の余波をうけた{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=637}}。まず[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]が、前方航行中の[[若葉 (駆逐艦)|若葉]]の右舷後部に衝突する{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=637}}。後進をかけた初霜は、後続していた長波に衝突した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=637}}。長波は右側に回避行動をとっており、初霜の艦尾が長波左舷後部に衝突した{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=638}}。外板に少し凹みが生じて若干量の浸水もあったが、作戦に支障は無かった{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=638}}。
撤退作戦後、長波以下各艦は8月3日附で北方部隊の指揮から離れ{{#tag:Ref|8月3日附で原隊に復帰した艦・部隊は、摩耶、島風、五月雨、長波、響、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)、第12潜水隊。|group="注"}}、原隊に戻ることとなった{{Sfn|戦史叢書29巻|1969|p=666}}。長波と[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]はタンカー日本丸(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛した<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030085200, pp.15</ref>。
8月7日、長波は舞鶴に到着し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなう<ref>[[#S1808舞鎮日誌]]p.9「(2)重要ナル艦船、兵器ノ造修 (a)濱波、沖波艤装工事ノ促進 第三四五號、第三六一號、第五四八一號(八日起工)各艦ノ建造工事促進/(b)修理艦船 名取、不知火、初春、巻波、太刀風、長波(七日入港)、長良(十六日入港)ノ損傷復舊工事ノ促進指導及大波(十二日入港)、鴻(十七日入港)ノ修理工事促進竝ニ呂號三十六、三十七號潜水艦ノ出師準備作業促進指導ニ努メ何レモ豫定通工事進捗シ太刀風ハ豫定通工事完成三十一日出撃セリ」</ref>。
9月4日まで修理を行った<ref name="c">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101200, pp.7</ref>。翌日、長波は舞鶴を出撃した<ref>[[#S1809舞鎮日誌(2)]]p.4(1943年9月5日記事)「長波、呂三六潜工事完成出撃」</ref>。


修理後の9月15日、長波と[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]は重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]と[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=439a|ps=第六、第四十三各防空隊等のトラック等への進出}}。9月20日にトラック泊地着後、各艦に分乗していた防空隊は摩耶と長波に移乗した{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=439b}}。摩耶と長波はラバウルに移動して[[ブカ島]]配備予定の防空隊を揚陸し、トラック泊地にもどった{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=439b}}。任務終了後はトラックで待機し、10月17日からは[[マーシャル諸島]]方面に出撃する第三艦隊(司令長官[[小沢治三郎]]中将・海兵37期)と第二艦隊(司令長官[[栗田健男]]中将)の護衛に就いた<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101300, pp.7</ref>。
この頃、11月5日の空襲に満足したハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]][[大将]]に新手の空母任務部隊の派遣を要請<ref name="bb">『戦史叢書96』413ページ</ref>。ニミッツ大将は[[ギルバート諸島]]方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務部隊([[アルフレッド・E・モントゴメリー]]少将)を派遣することに決した<ref name="bb"></ref>。11月11日早朝、第2回のラバウル空襲が行われた。[[第38任務部隊]]([[フレデリック・シャーマン]]少将)はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた<ref name="bb"></ref>。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務部隊を発見<ref name="cc">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.1</ref>。これに伴い、ラバウル在泊の駆逐艦は折からの[[スコール]]にまぎれて港外に脱出しつつあった<ref name="cc"></ref>。7時15分、[[急降下爆撃機]]十数機の攻撃を受けて後甲板に被弾し、操舵不能になったうえ爆圧で[[スクリュー]]が脱落して航行不能となった<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.48</ref>。ラバウルにて仮修理を受け、本格的な修理のため曳航されて後送される事が決まり、12月3日に軽巡洋艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]、駆逐艦[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]の護衛下、駆逐艦[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]に曳航されてラバウルを出港<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)431">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]431頁『「長波」の曳航護衛』</ref><ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101800, pp.15</ref>。5日までは駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]も護衛に協力、計三回連合軍機と遭遇したが被害を受けることはなかった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)431" />。8日、トラックに入港<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)431" />。[[1944年]](昭和19年)1月15日、軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]に曳航されてトラックを出港し、1月25日に呉に帰投して本格的修理に入った<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102000, pp.14</ref>。


{{seealso|ブーゲンビル島沖海戦|ラバウル空襲}}
=== フィリピンの戦い ===


10月28日、連合艦隊は[[ろ号作戦]]を発動する{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=372-373|ps=「ろ」号作戦発令―十月二十八日}}。この作戦において、[[第一航空戦隊]]の飛行機隊を南東方面の陸上基地に配備することにした{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=424b}}。第十戦隊[[大杉守一]]少将を指揮官とする輸送部隊(第一部隊〈阿賀野、初風、若月、長波〉、第二部隊〈大波、風雲〉、第三部隊〈天津風〉、修理後投入〈巻波〉)は、それぞれ一航戦の基地員と物件をラバウルやカビエンに輸送した{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=425b}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=384}}。
ラバウル到着後の第一部隊は、そのまま[[ブーゲンビル島]]トロキナ方面への殴り込みおよび逆上陸部隊を掩護する連合襲撃部隊(指揮官[[大森仙太郎]]第五戦隊司令官)に組み込まれた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=388-390|ps=タロキナへの逆上陸輸送計画の生起}}。連合襲撃部隊は、第一襲撃部隊(妙高、羽黒)、第二襲撃部隊(川内、時雨、白露、五月雨)、第三襲撃部隊(阿賀野、長波、初風、若月)として出撃した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=390-391|ps=第二回出撃 ― 輸送隊の反転帰投}}。
11月1日から2日にかけての深夜に生起した[[ブーゲンビル島沖海戦]]で日本軍は敗北し、川内と初風を喪失した{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=178-184}}。

ラバウルに帰投後、長波は[[ラバウル空襲]]に遭遇する{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|pp=425a-426|ps=遊撃部隊のラバウル進出直後の被害}}。11月5日の空襲で栗田長官の重巡洋艦部隊は大損害を受けたが{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=185-186}}、長波ふくめ二水戦各艦に深刻な被害はなかった{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=426}}。大破した摩耶{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=190-192}}、第十戦隊と第二水雷戦隊の大部分を残し、重巡洋艦部隊はトラック泊地へ退却した{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=426}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=400-401|ps=重巡部隊のトラック帰投}}。
11月6日から10日にかけては第十戦隊とともにトロキナへの逆上陸作戦に従事した<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.13</ref>{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=401-404|ps=タロキナ北方逆上陸の成功}}。長波の兵力部署は、支援部隊麾下の第二支援部隊(指揮官[[高間完]]第二水雷戦隊司令官、旗艦〈能代〉、早波{{#tag:Ref|駆逐艦[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]も出撃予定だったが、修理が間に合わずラバウルに残留した。|group="注"}}、長波{{#tag:Ref|長波ふくめ第31駆逐隊は挺身輸送隊・警戒隊に属していた。だが支援部隊の[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]の修理が間に合わず、長波は第二支援部隊に回された。|group="注"}})であった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=402}}。

この頃、11月5日の空襲に満足したハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]][[大将]]に新手の空母任務部隊の派遣を要請{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=413}}。ニミッツ大将は[[ギルバート諸島]]方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務部隊([[アルフレッド・E・モントゴメリー]]少将)を派遣することに決した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=413}}。11月11日早朝、[[第38任務部隊]]([[フレデリック・シャーマン]]少将)はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=413}}{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=185-186}}。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務部隊を発見する{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=413}}<ref name="cc">『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.1</ref>。これに伴い、ラバウル在泊の第二水雷戦隊と第十戦隊は折からの[[スコール]]にまぎれて港外に脱出しつつあった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=416}}。7時15分、[[急降下爆撃機]]十数機の攻撃を受けて後甲板に被弾し、操舵不能になったうえ爆圧で[[スクリュー]]が脱落して航行不能となった<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.48</ref>。数分後には、姉妹艦[[涼波 (駆逐艦)|涼波]](第32駆逐隊)が魚雷と爆弾命中により轟沈した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94e|ps=涼波(すずなみ)}}。

第二水雷戦隊と第十戦隊の大部分はトラック泊地に撤収したが、第31駆逐隊(大波、長波、巻波)はラバウルに残った{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=415}}。長波は仮修理を受け、本格的な修理のため曳航されて後送される事になった。12月3日、軽巡洋艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]と駆逐艦[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]の護衛下、駆逐艦[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]に曳航されてラバウルを出港する{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=431b}}<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101800, pp.15</ref>。5日までは駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]も護衛に協力、計三回連合軍機と遭遇したが被害を受けることはなかった{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=431b}}。8日、長波曳航部隊はトラックに入港した{{Sfn|戦史叢書62巻|1973|p=431b}}。
[[1944年]](昭和19年)1月15日、今度は軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]に曳航されてトラックを出港した<ref name="長良行動" />{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=490b}}。護衛には駆逐艦[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]と[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]がついた<ref>[[#S1812三水戦日誌(5)]]p.12、「自一月十五日至一月二十四日30dg(卯月)夕凪自「トラック」至内地(内海)間 長波回航隊(警戒隊)」</ref>。米軍潜水艦が跳梁する中での曳航のため生還は難しいとみられ、長良乗組員は病院船[[氷川丸]]に預けていた長良戦死者の[[遺骨]]を引き取り{{#tag:Ref|長良は前年12月5日に[[クェゼリン環礁]]で空襲を受け魚雷が誘爆<ref name="長良行動" /><ref>木俣滋郎『日本軽巡戦史』489頁</ref>、乗組員の1/3を失っていた。|group="注"}}、艦内に安置して航海に臨んだ{{Sfn|海軍人間語録|1985|pp=63-64|ps=西村友晴中佐の「英霊を抱いて死のう」}}。長波回航隊は4隻とも内地へ帰投できた{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=491}}。1月24日、内海西部着<ref>[[#S1812三水戦日誌(6)]]、p.21「長波一月二十四日一四三二(宛略)發長波回航部隊指揮官 回航部隊一〇三〇豊後水道通過警戒隊(卯月夕凪)一四三〇平群島着」</ref>{{#tag:Ref|その後、長良は舞鶴へ移動し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなった<ref name="長良行動" />|group="注"}}。長波は[[呉海軍工廠]]で本格的修理に入った<ref>『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102000, pp.14</ref>。

=== 昭和19年の行動 ===
第31駆逐隊の所属艦は、前年7月に[[清波 (駆逐艦)|清波]]が夜間空襲により撃沈され{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=224a|ps=清波(きよなみ)}}、前年11月下旬の[[セント・ジョージ岬沖海戦]]で[[大波 (駆逐艦)|大波]]と[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]が沈没{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔セント・ジョージ岬沖海戦〕}}、可動艦は長波1隻になっていた<ref>[[#内令昭和18年10月(4)]]、p.8〔内令第二千百五十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「嵐、萩風、」ヲ、第十一驅逐隊ノ項中「初雪、」ヲ、第二十四驅逐隊ノ項中「江風、」ヲ、第二十七驅逐隊ノ項中「有明、夕暮」ヲ、第三十驅逐隊ノ項中「三日月、」ヲ、第三十一駆逐隊ノ項中「、清波」ヲ削ル〕</ref><ref name="S19内令314" />。
[[1944年]](昭和19年)2月10日、第31駆逐隊に[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94g|ps=沖波(おきなみ)}}(舞鶴海軍工廠建造艦、前年12月10日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290c|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/沖波 Okinami}}、[[岸波 (駆逐艦)|岸波]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94h|ps=岸波(きしなみ)}}(浦賀船渠建造艦、前年12月3日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290d|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/岸波 Kishinami}}、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94i|ps=朝霜(あさしも)}}(藤永田造船所建造艦、前年11月27日竣工){{Sfn|福井、日本駆逐艦物語|1993|p=290e|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/朝霜 Asahimo}}が編入され、定数4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)を回復した<ref name="S19内令314" />。
同日附で、森艦長は第二艦隊司令部附へ転任した<ref name="jirei1319">昭和19年2月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1319号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072095700 で閲覧可能。</ref>が、後任艦長の発令はすぐには行われずそのまま修理を行い、6月1日になり新艦長の飛田清少佐(海兵56期)が横須賀鎮守府附<ref>昭和19年4月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1401号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072097000 で閲覧可能。</ref>から就任した<ref name="jirei1492">昭和19年6月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1492号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072099300 で閲覧可能。</ref>。
<!---しかし、飛田少佐の前任艦である[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]艦長発令が4月1日であった為、実際に長波へ着任したは6月1日であった<ref>橋本, 246ページ</ref>。--->
修理を終えた後の7月8日正午、第31駆逐隊(朝霜、岸波、沖波、長波)は遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官)の甲部隊に所属し{{#tag:Ref|栗田長官直率(旗艦「愛宕」)。第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海)、第一戦隊(大和、武蔵)、第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)、第二水雷戦隊(旗艦〈能代〉、第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉、第31駆逐隊、第32駆逐隊〈浜波〉、附属〈島風〉)|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書37巻|1970|pp=382-383|ps=遊撃部隊主隊}}、呉を出撃した{{Sfn|戦史叢書37巻|1970|pp=383-384|ps=呉から中城湾までの行動}}。途中、[[沖縄県|沖縄]]の[[第32軍 (日本軍)|第三十二軍]](司令官[[渡辺正夫]]中将)に対する輸送任務を行い、任務終了後は[[リンガ泊地]]に直接向かって7月16日に到着した{{Sfn|戦史叢書37巻|1970|pp=384-386|ps=中城湾以後の甲部隊の行動}}。以後、リンガ泊地で訓練に励んだ。

=== レイテ沖海戦 ===
{{seealso|レイテ沖海戦}}

10月18日、[[捷号作戦|捷一号作戦]]発動に伴って第一遊撃部隊(通称'''栗田艦隊'''または'''栗田部隊'''と呼称)はリンガ泊地から出動した(海戦の経過詳細と部隊編成については、当該記事を参照){{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=65}}。[[ブルネイ湾]]で補給の後、第一遊撃部隊の第一部隊と第二部隊は10月22日に出撃した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=137}}。だが、翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]がアメリカ潜水艦[[ダーター (SS-227)|ダーター]] (''USS Darter, SS-227'') の雷撃で沈没した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=141-142|ps=旗艦愛宕の被雷沈没}}。僚艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]は、潜水艦[[デイス (潜水艦)|デイス]] (''USS Dace, SS-247''){{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=247-254}}の雷撃で沈没した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=145-146}}。僚艦[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]は、ダーターの雷撃により大破した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=144|ps=「高雄」の被雷}}。
第31駆逐隊の長波と[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]は高雄の警戒と護衛を命じられ、栗田艦隊本隊とは別行動になった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=146-147}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=151a-152|ps=「高雄」、ブルネイに回航}}。救援要請により、海防艦[[千振 (海防艦)|千振]]、水雷艇[[鵯 (水雷艇)|鵯]]、特設駆潜艇御津丸が、それぞれ高雄との合流を急いだ{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=151b}}。ダーターとデイスは高雄にとどめを刺そうと攻撃機会をうかがっていたが、長波と朝霜と水上機が警戒しているため、昼間襲撃を諦めた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=153-155|ps=付記、米潜水艦の戦闘状況}}。

翌10月24日未明、ダーターはパラワン水道のボンベイ礁(日本側は福瀬と呼称)に座礁し、放棄された{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=154}}。デースは僚艦の乗組員を収容したあと、現場を去った{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=154}}。同日0420、鵯と御津丸が高雄隊に合流する{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。0850、味方哨戒機が通信筒を投下、ボンベイ礁に座礁した潜水艦(ダーター)の攻撃を依頼した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。長波と鵯はダーターを攻撃するため座礁現場におもむく{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。約3分間、リーフ上のダーターを砲撃した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。13ミリ機銃と写真、可能な限りの鹵獲品を得て、分捕った13ミリ機銃は後檣右舷側に装備された<ref>田村「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」」170ページ</ref>。
つづいて長波は、[[シブヤン海]]で第38任務部隊([[マーク・ミッチャー]]中将)の艦載機の空襲を受けて大破し、[[コロン島]]経由でブルネイ湾に下がる妙高の護衛を命じられた{{#tag:Ref|損傷した妙高は第五戦隊旗艦を羽黒に譲り、10月25日0740<ref>『戦史叢書56巻』168頁</ref>、コロンに入泊した。|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=167-168|ps=「妙高」、被爆落伍す}}。鵯は高雄隊の護衛に戻り、長波はコロン泊地にむかった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=152}}。

10月26日1050、栗田長官は3隻(妙高、長波、清霜)に対しコロン出港とブルネイ回航を命じた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=470}}。この命令受領時、清霜と浜風は戦艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]生存者を乗せてマニラにいたので{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=199-200|ps=救助作業}}、命令どおり行動できるのは妙高と長波だけだった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=470}}。27日1150、妙高と長波はコロンを出発、パラワン水道を通過し、29日1030ブルネイに到着した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=470}}。同地には栗田艦隊残存艦が到着していた{{#tag:Ref|10月29日1030時点のブルネイ在泊艦<ref>『戦史叢書56巻』481頁より</ref>。戦艦4隻(大和、長門、金剛、榛名)、重巡3隻(羽黒、利根、妙高)、軽巡1隻(矢矧)、駆逐艦9隻(浦風、磯風、雪風、浜波、岸波、朝霜、長波、秋霜、島風)。別動中(熊野、沖波、浜風、清霜)|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=480-481|ps=主隊のブルネイ入泊}}。

=== 多号作戦と沈没 ===
{{seealso|多号作戦}}
{{seealso|多号作戦}}
2月10日、森艦長は第二艦隊司令部附へ転任した<ref name="jirei1319">昭和19年2月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1319号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072095700 で閲覧可能。</ref>が、後任艦長の発令はすぐには行われずそのまま修理を行い、6月1日になり新艦長の飛田清少佐(海兵56期)が横須賀鎮守府附<ref>昭和19年4月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1401号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072097000 で閲覧可能。</ref>から就任した<ref name="jirei1492">昭和19年6月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1492号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072099300 で閲覧可能。</ref>。<!---しかし、飛田少佐の前任艦である[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]艦長発令が4月1日であった為、実際に長波へ着任したは6月1日であった<ref>橋本, 246ページ</ref>。--->6月下旬に修理を終えた後の7月9日、大和、武蔵、第四戦隊など第二艦隊の中枢を護衛して[[臼杵湾]]を出撃。途中、[[沖縄県|沖縄]]の[[第32軍 (日本軍)|第三十二軍]]([[渡辺正夫]]中将)に対する輸送任務を行い、任務終了後は[[リンガ泊地]]に直接向かって7月16日に到着。訓練に励んだ。


ブルネイ到着前の10月27日1715、[[豊田副武]]連合艦隊司令長官は[[レイテ島の戦い|レイテ島地上戦]]にともなう海上輸送作戦(「多号作戦」)を実施するため、[[南西方面艦隊|南西方面部隊]]{{#tag:Ref|この命令時の南西方面部隊指揮官は、南西方面艦隊司令長官[[三川軍一]]中将であった<ref>『戦史叢書56巻』503頁</ref>。11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川中将から[[大川内傳七]]中将に交替した<ref>『戦史叢書56巻』504頁</ref>。|group="注"}}の水上兵力増強を下令した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=501a|ps=聯合艦隊作戦要領}}。GF電令作第381号により、第31駆逐隊(岸波、長波、沖波、朝霜)、第41駆逐隊(霜月、冬月)、第61駆逐隊(若月、涼月)は第二遊撃部隊(指揮官[[志摩清英]]中将、第五艦隊司令長官)に編入された{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=501b}}。29日には、GF電令作第387号により第二水雷戦隊全艦が第二遊撃部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=501b}}。
10月18日、[[捷号作戦|捷一号作戦]]発動に伴って第二艦隊はリンガ泊地から出動し、[[ブルネイ湾]]で補給の後、10月22日に出撃した。だが、翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]がアメリカ潜水艦[[ダーター (SS-227)|ダーター]] (''USS Darter, SS-227'') の、僚艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]が[[デイス (潜水艦)|デイス]] (''USS Dace, SS-247'') のそれぞれ雷撃に遭い沈没し、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]がダーターの雷撃で大破して戦線離脱した。[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]とともに損傷した高雄の警戒と護衛にあたっていたが、翌10月24日にボンベイ礁に座礁したダーターの攻撃のため分離し、[[水雷艇]][[鵯 (水雷艇)|鵯]]とともにリーフ上のダーターを砲撃。13ミリ機銃と写真、可能な限りの鹵獲品を得て、分捕った13ミリ機銃は後檣右舷側に装備された<ref>田村「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」」170ページ</ref>。次いで[[シブヤン海]]で第38任務部隊([[マーク・ミッチャー]]中将)の艦載機の空襲を受けて大破し、[[コロン島]]経由でブルネイ湾に下がる妙高の護衛に就いた<ref>『軍艦高雄戦闘詳報』pp.11</ref>。損傷艦の護衛を努めた結果、[[レイテ沖海戦]]本体の戦闘には加わらなかった。海戦後、[[マニラ]]に進出し[[レイテ島]]行きの[[多号作戦]]に投入される事となった。
10月30日、長波をふくめ第二水雷戦隊の大部分はブルネイを出発、マニラへ移動した{{#tag:Ref|二水戦[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]は重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]を護衛した関係で既にマニラにおり、第二次多号作戦に従事した。第二水雷戦隊司令官[[早川幹夫]]少将は二水戦の大部分から遅れて[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]に乗りブルネイを出発、11月4日にマニラで駆逐艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]に将旗を掲げた。|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=521a|ps=二水戦のマニラ進出}}。


11月8日朝、多号作戦第四次輸送部隊を護衛マニラを出撃。翌11月9日夕方に[[オルモック湾]]に到着するも、[[大発動艇|大発]]が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった<ref>木俣『日本水雷戦史』552ページ</ref>。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなく[[B-25 (航空機)|B-25]] と[[P-38 (航空機)|P-38]] の攻撃を受けて[[陸軍特殊船]]高津丸(山下汽船、5,657トン)輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)が沈没し、戦隊旗艦[[ (朝潮型駆逐艦)|]]および朝霜ともに救助作業にあ輸送部隊を指揮する第一水雷隊司令官[[木村昌福]]少将(海兵41期)[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)護衛つけてマニラへ先発させた<ref>木俣『日本水雷戦史』554ページ</ref>この後、朝霜、[[若月 (駆逐艦)|若月]]とともに木村少将から第三次輸送部隊と合流するよう命令を受ける。霞に香椎丸の生存者を移した朝霜とともに第四次輸送部隊から離脱し21時に[[マスバテ島]]東方のブラックロック水道で三次輸送部隊合流し<ref>『多号作戦戦闘詳報第二号』pp.16</ref>
11月8日朝、長波は多号作戦第四次輸送部隊(指揮官[[木村昌福]]第一水雷戦隊司令官・海兵41期、旗艦「霞」)に所属マニラを出撃した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=529-530|ps=マニラ出港}}{{Sfn|岸見、多号作戦|2010|pp=32-37|ps=最大規模の第二次輸送作戦}}。翌11月9日夕方に[[レイテ島]][[オルモック湾]]に到着するも、[[大発動艇|大発]]が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった<ref>木俣『日本水雷戦史』552ページ</ref>{{Sfn|岸見、多号作戦|2010|pp=37-43|ps=「大発準備なく無念」第四次輸送作戦}}。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなく[[B-25 (航空機)|B-25]] と[[P-38 (航空機)|P-38]] の攻撃を受けて[[陸軍特殊船]]高津丸(山下汽船、5,657トン)輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、[[第十一号海防艦]]が沈没し、海防艦[[占守 (海防艦)|占守]]と[[第十三号海防艦]]が損傷し{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=532}}{{Sfn|岸見多号作|2010|pp=41-42}}。木村少将は輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)護衛部隊(海防艦〈[[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、占守〉、駆逐艦〈若月、潮、秋霜〉)をつけてマニラへ先発させた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=532}}駆逐艦3隻([[ (朝潮型駆逐艦)|]]木村少将旗艦〕、長波、朝霜とともに救助作業にあたった{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=532}}。救助作業後、駆逐艦3隻と13号海防艦および後から来た[[第一号型輸送艦]]3隻([[第六号輸送艦|6号]]、[[第九号輸送艦|9号]]、[[十号輸送艦|10号]])はマニラへの帰路つい{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=534}}{{Sfn|岸見、多号作戦|2010|pp=42-43}}
1418、先行隊も空襲をうけて[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]が中破した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=534}}。


この頃、多号作戦第三次輸送部隊(指揮官[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官・海兵44期。旗艦「島風」)は低速輸送船団を護衛してオルモック湾に向かっていた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=534-536|ps=第三次輸送部隊の行動、船団全滅す・マニラ出港}}{{Sfn|岸見、多号作戦|2010|pp=43-47|ps=壮絶、第三次輸送部隊}}。
第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊([[ジョン・S・マケイン・シニア]]中将)の艦載機347機<ref name="aaa">木俣『日本水雷戦史』559ページ</ref>による空襲を受けた。[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]が真っ先に被弾し、朝霜は浜波のわずかな生存者を救助した<ref name="aaa"></ref>。続いて若月、部隊指揮官の第二水雷戦隊司令官[[早川幹夫]]少将(海兵44期)座乗の戦隊旗艦島風も被弾し、輸送船は全滅していた。やがて、激しい対空戦闘の末に弾薬が尽きた長波は右舷[[艦橋]]下に被弾し、艦右側にも至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、長波は艦首を上げて沈没していった。第三次輸送部隊は朝霜ただ一隻を残して全滅し、早川少将も戦死した。飛田艦長は生き残った乗員数十名を引き連れて、いまだ浮いていた浜波に乗り移った<ref>橋本, 265ページ</ref>。飛田艦長は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので浜波を陸上砲台にしようと決心した<ref>橋本, 266ページ</ref>。しかし、潮流に流されて擱座に失敗し、浜波に残っていた糧食で夕食をとった後就寝<ref name="cb">橋本, 267ページ</ref>。翌12日、飛田艦長以下の長波の乗員は浜波を離れ、陸上から迎えに来た[[大発動艇|大発]]に移って[[レイテ島]]に上陸した<ref name="cb"></ref>。浜波の船体がその後どうなったのかは定かではないが、飛田艦長は生還して、戦後[[海上自衛隊]]に入隊した<ref name="kyoto">橋本, 237ページ</ref>。
南西方面部隊指揮官(大川内長官)は8日2059NSB電令作第738号により、駆逐艦4隻(朝霜、長波、秋霜、若月)の第三次輸送部隊編入を、駆逐艦2隻(初春、竹)の第四次輸送部隊編入を命じていた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=536b}}。大川内長官の命令により、損傷した秋霜以外の3隻(長波、朝霜、若月)は第四次輸送部隊から分離、第三次輸送部隊に合流する{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=536a-537|ps=「長波」等の合同}}(代わりに初春と竹が第四次輸送部隊に合流){{Sfn|岸見、多号作戦|2010|pp=44-45}}。11月10日夕刻、長波と朝霜は霞に被害艦生存者を移し、第三次輸送部隊を追いかける{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=537b}}。第四次輸送部隊から離脱後、3隻は21時に[[マスバテ島]]東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊に合流した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|p=537b}}<ref>『多号作戦戦闘詳報第二号』pp.16</ref>。


第三次輸送部隊は護衛部隊(島風、浜波、若月、長波、朝霜、掃海艇30号)と輸送船4隻{{#tag:Ref|10日0330、せれべす丸が座礁して駆潜艇46号が残り<ref>『戦史叢書56巻』536頁</ref>、第三次輸送部隊から落伍した。|group="注"}}となり、魚雷艇を撃退して進撃した{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|p=212}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=537a-538|ps=米魚雷艇と交戦す}}。11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊([[ジョン・S・マケイン・シニア]]中将)の艦載機347機<ref name="aaa">木俣『日本水雷戦史』559ページ</ref>による空襲を受けた{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=540-541|ps=米軍の作戦概況}}。
各艦は煙幕を展開し{{Sfn|志賀、駆逐艦物語|2016|pp=234-235}}、また陸軍戦闘機[[四式戦闘機|疾風]]約30機が出動したが、輸送船団を守り切れなかった{{Sfn|岸見、多号作戦|2010|pp=46-47}}{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=213-215}}。つづいて米軍機は護衛部隊に襲い掛かる{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=539-540}}。第32駆逐隊司令(大島一太郎大佐)の回想によれば、護衛部隊は浜波・若月・島風・長波・掃海艇30号・朝霜の単縦陣であったという{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=539-540}}。
<!-- [[浜波 (駆逐艦)|浜波]]が真っ先に被弾し、朝霜は浜波のわずかな生存者を救助した<ref name="aaa"></ref>。 <ref>[[#10月18日以降増援兵力]]p.2「地区:マニラ|所轄:濱波|進出期日(編制期日)一九四四.一一.一一|員数一五三」</ref> -->
激しい対空戦闘の末に弾薬が尽きた長波は右舷[[艦橋]]下に被弾し、艦右側にも至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、長波は艦首を上げて沈没していった。第三次輸送部隊は朝霜ただ一隻を残して全滅し、早川少将も戦死した{{Sfn|岸見、多号作戦|2010|pp=46-47}}{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=538b}}。なお朝霜は航行不能になった浜波に接舷し、浜波乗組員を救助してオルモック湾を脱出した{{Sfn|戦史叢書56巻|1972|pp=539-540}}{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=216-219|ps=乗艦との永遠の別れ}}。朝霜は浜波乗組員で満杯となっており、また米軍機の空襲も続いていたため、他の浮いている艦を救助できなかった{{Sfn|志賀、駆逐艦物語|2016|pp=235-238}}。
飛田(長波艦長)は生き残った乗員数十名を引き連れて、いまだ浮いていた浜波に乗り移った<ref>橋本, 265ページ</ref>。飛田艦長は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので浜波を陸上砲台にしようと決心した<ref>橋本, 266ページ</ref>。しかし、潮流に流されて擱座に失敗し、浜波に残っていた糧食で夕食をとった後就寝<ref name="cb">橋本, 267ページ</ref>。翌12日、飛田艦長以下の長波の乗員は浜波を離れ、陸上から迎えに来た[[大発動艇|大発]]に移って[[レイテ島]]に上陸した<ref name="cb"></ref>。浜波の船体がその後どうなったのかは定かではないが、飛田艦長は生還して、戦後[[海上自衛隊]]に入隊した<ref name="kyoto">橋本, 237ページ</ref>。長波乗組員43名が[[海軍陸戦隊]]に編入され<ref>[[#10月18日以降増援兵力]]p.2「方面:北比|地區:マニラ|所轄:長波|進出期日(編制期日):一九四四.一一.一一|員数四三」</ref>、[[マニラの戦い (1945年)|マニラ市街戦]]や[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピン地上戦]]に投入された。

11月15日、朝霜は第2駆逐隊へ転出、沈没していた夕雲型駆逐艦[[浜波 (駆逐艦)|浜波]](11月11日、第三次多号作戦){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94f|ps=浜波(はまなみ)}}が第31駆逐隊に編入された<ref name="S19内令1271号">[[#秘海軍公報昭和19年11月(3)]]、pp.4-5〔内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル〕</ref>{{Sfn|戦史叢書54巻|1972|pp=452-453}}。
第31駆逐隊の所属駆逐艦4隻(長波、岸波、沖波、浜波)のうち、3隻(長波、沖波、浜波)は沈没もしくは大破着底状態のため、書類上の存在に過ぎなかった<ref name="S19内令1271号" />{{Sfn|戦史叢書54巻|1972|pp=452-453}}。唯一健在だった岸波も12月4日に撃沈され{{Sfn|山本ほか、夕雲型|2015|pp=226b-227|ps=岸波(きしなみ)}}、第31駆逐隊は稼働艦皆無となった{{Sfn|戦史叢書54巻|1972|p=454-455|ps=水上兵力の漸減}}。

[[1945年]](昭和20年)1月10日、長波は艦艇類別等級表から削除<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]、p.2〔内令第一六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年一月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「八十島」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「神鷹、」、同敷設艦ノ部中「、厳島」ヲ削ル 驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、萩風」ヲ、同「卯月型 卯月、夕月」ヲ、初雪型ノ項中「曙、」ヲ、同初春型ノ項中「初春、」ヲ、同満潮型ノ項中「満潮、朝雲、山雲、」ヲ、同不知火型ノ項中「、浦風」「、野分」ヲ、同夕雲型ノ項中「長波、濱波、沖波、岸波」「、早霜、秋霜」ヲ、同秋月型ノ項中「、若月、霜月」ヲ、同「島風」ヲ削ル(以下略)〕</ref>。
同時に帝国駆逐艦籍から除籍<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]、pp.8-10〔内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 厳島/呉鎮守府在籍 軍艦 八十島/舞鶴鎮守府在籍 軍艦 神鷹/右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、驅逐艦 満潮、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月/呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風、驅逐艦 島風/佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風、驅逐艦 卯月、驅逐艦 夕月、驅逐艦 初春/舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波、驅逐艦 濱波、驅逐艦 沖波、驅逐艦 岸波/右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣〕</ref>。
第31駆逐隊(長波、沖波、浜波、岸波)も解隊された<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]、p.7〔昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル〕</ref>。
[[1981年]](昭和56年)、長波の元乗員10名によって、[[京都霊山護国神社]]に長波の慰霊碑が建立された<ref name="kyoto"></ref>。
[[1981年]](昭和56年)、長波の元乗員10名によって、[[京都霊山護国神社]]に長波の慰霊碑が建立された<ref name="kyoto"></ref>。


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# 森卓次 少佐:1943年11月25日<ref name="jirei1267" /> - 1944年2月10日<ref name="jirei1319" />、以後1944年6月1日まで駆逐艦長の発令無し。
# 森卓次 少佐:1943年11月25日<ref name="jirei1267" /> - 1944年2月10日<ref name="jirei1319" />、以後1944年6月1日まで駆逐艦長の発令無し。
# 飛田清 少佐/中佐:1944年6月1日<ref name="jirei1492" /> - 1944年12月5日<ref>昭和19年12月15日付 秘海軍辞令公報 甲 第1669号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072102300 で閲覧可能。</ref>
# 飛田清 少佐/中佐:1944年6月1日<ref name="jirei1492" /> - 1944年12月5日<ref>昭和19年12月15日付 秘海軍辞令公報 甲 第1669号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072102300 で閲覧可能。</ref>

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- ウィキペディア「出典を明記する」より、著者五十音順 -->
*<!-- イケダ 2002 -->{{Cite book|和書|author=[[池田清 (政治学者)|池田清]]|coauthors=|date=2002-01|origyear=1986|chapter=|title=重巡摩耶 {{small|元乗組員が綴る栄光の軌跡}}|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901110-X|ref={{SfnRef|重巡摩耶|2002}}}}
*<!--オイデ1997 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|chapter=第十九章 ― 陸軍を大敗させた海軍の戦果発表|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref={{SfnRef|戦場の将器|1997}}}}
*<!--オイデ2011-->{{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=2011|month=11|title=戦艦「大和」最後の艦長 {{small|海上修羅の指揮官}}新装版|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=9784-7698-2143-4|ref={{SfnRef|大和最後の艦長|2011}}}}
*<!-- カイグン1995 -->海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
*<!-- キシミ2010 -->{{Cite book|和書|author=[[岸見勇美]]|year=2010|month=12|title=地獄のレイテ輸送作戦 {{small|敵制空権下の多号作戦の全貌}}|publisher=[[光人社]]|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2666-8|ref={{SfnRef|岸見、多号作戦|2010}}}}
*<!-- キマタ1977-->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1977|month=7|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本空母戦史|1977}}}}
* 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
*<!-- キマタ1986 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1986|month=3|title=日本水雷戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本水雷戦史|1986}}}}
*<!-- キマタ1989 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|month=3|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本軽巡戦史|1989}}}}
*<!-- キマタ2016 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|coauthors=|year=2016|month=5|origyear=1989|chapter=|title=潜水艦攻撃 {{smaller|日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦}}|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2949-2|ref={{SfnRef|潜水艦攻撃|2016}}}}
*<!-- コジマ2009 -->{{Cite book|和書|author=小島清|authorlink=|year=2009|month=09|origyear=1979|title=栗田艦隊退却す {{smaller|戦艦「大和」暗号士の見たレイテ海戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2617-0|ref={{SfnRef|栗田艦隊退却す|2009}} }}
*<!--シガ2016-04 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=4|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref={{SfnRef|志賀、駆逐艦物語|2016}}}}
**(231-239頁){{small|当時「朝霜」航海長・海軍大尉}}芦田収『夕雲型「朝霜」多号作戦オルモック輸送 {{small|敵機の集中攻撃をかいくぐり三次四次レイテ輸送から生還した航海長の体験}}』
*<!-- シゲモト2014 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|year=2014|month=10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref={{SfnRef|重本ほか、陽炎型|2014}}}}
**(255-342頁){{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』
*<!-- スドウ 2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=2010|month=01|origyear=1956|chapter=|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}} }}
*<!-- タムラ2005 -->田村俊夫「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」」『<span style="font-size:90%;">[[歴史群像]]太平洋戦史シリーズ51</span> 帝国海軍 真実の艦艇史2』[[学習研究社]]、2005年、ISBN 4-05-604083-4
*<!-- タムラ2010 -->田村俊夫「「長波」とした写真の訂正」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ70</span> 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年、ISBN 978-4-05-606020-1
*<!-- ナガイ19881 -->永井喜之、木俣滋郎「アメリカ重巡「ノーザンプトン」」『撃沈戦記』[[朝日ソノラマ]]、1988年、ISBN 4-257-17208-8
*<!-- ナガサワ2003 -->{{Cite book|和書|author=永沢道雄|authorlink=|year=2003|month=06|origyear=1995|title=戦艦「大和」暗号士の終戦 {{smaller|一海軍予備学生のフィリピン戦記}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2384-3|ref={{SfnRef|永沢、大和暗号士|2003}} }}
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author1=C・W・ニミッツ|author2=E・B・ポッター|authorlink=|year=1962|month=12|origyear=|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}} }}
*<!-- ハシモト1992 -->橋本衛「駆逐艦「長波」残弾なし!完結編」『丸 第45巻・第1号』潮書房、1992年
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*<!--フクイ1993-->{{Cite book|和書|author=[[福井静夫]]|editor=阿部安雄・戸高一成/編集委員|year=1993|month=1|title={{small|福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記}} 日本駆逐艦物語|volume=第5巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0611-6|ref={{SfnRef|福井、日本駆逐艦物語|1993}}}}
*<!-- フクダ1981 -->{{Cite book|和書|author=福田幸弘|coauthors=|year=1981|month=07|origyear=1983|title=連合艦隊 ― {{small|サイパン・レイテ海戦記}}|publisher=時事通信社|series=|isbn=|ref={{SfnRef|サイパン・レイテ海戦記|2004}} }}
*<!-- ホウエイチョウ29 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 北東方面海軍作戦|volume=第29巻|year=1969|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書29巻|1969}}}}
*<!--ホウエイチョウ37 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍捷号作戦<1> {{small|臺灣沖航空戦まで}}|volume=第37巻|year=1970|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書37巻|1970}}}}
*<!--ボウエイチョウ54 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南西方面海軍作戦 {{small|第二段作戦以降}}|volume=第54巻|year=1972|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書54巻|1972}}}}
*<!--ホウエイチョウ56 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍捷号作戦<2> {{small|フィリピン沖海戦}}|volume=第56巻|year=1972|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書56巻|1972}}}}
*<!--ホウエイチョウ62 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2) {{small|昭和十七年六月以降}}|volume=第62巻|year=1973|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書62巻|1973}}}}
*<!--ホウエイチョウ83 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> {{small|ガ島撤収まで}}|volume=第83巻|year=1975|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書83巻|1975}}}}
*<!--ホウエイチョウ85 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 本土方面海軍作戦|volume=第85巻|year=1975|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書85巻
|1975}}}}
*<!--ホウエイチョウ96 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> {{small|ガ島撤収後}}|volume=第96巻|year=1976|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書96巻|1976}}}}
*<!-- ポッター1995 -->E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
*<!--マル1990-8巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1990|month=3|title=写真 日本の軍艦 {{small|軽巡I}} 天龍型・球磨型・夕張・長良型|volume=第8巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0458-X|ref=丸写真8軽巡I}}
* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
*<!--ヤバナ2007-8-->{{Cite book|和書|author=矢花冨佐勝|year=2007|month=8|title=駆逐艦勤務 {{small|日本海軍兵士の艦上での日常}}|publisher=新風社|isbn=978-4-289-01255-8|ref={{SfnRef|駆逐艦勤務|2007}}}}
*<!--ヤマモトヘイヤ2015 -->{{Cite book|和書|author=山本平弥ほか|coauthors=|year=2015||month=03|title=秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> {{small|戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1584-6|ref={{SfnRef|山本ほか、夕雲型|2015}}}}
**(178-192頁){{small|当時「巻波」機関長・海軍大尉}}前田憲夫『南太平洋に奇跡を起こした「巻波」奮迅録 {{small|最新鋭夕雲型駆逐艦の機関長が体験したガ島輸送とルンガ沖夜戦}}』
**(193-206頁){{small|当時「長波」機銃長・海軍二等兵曹}}初田太四郎『強運艦「長波」快心の中央突破四十八時間 {{small|三十一駆逐隊の巻波高波と共に戦った不屈の五ヶ月と秋月型照月の最後}}』
**(207-219頁){{small|当時「浜波」乗組・海軍中尉}}中沢五郎『オルモック急行「浜波」砲塔に息絶えて {{small|長波、朝霜、若月らと行を共にした第三次多号作戦の悲惨}}』
**(220-229頁){{small|戦史研究家}}伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
**(230-238頁){{small|当時「島風」機関長・海軍少佐}}上村嵐『追随をゆるさぬ最高速艦「島風」の最後 {{small|乗員四五〇名のうち生存者たった三名という制空権なき輸送作戦の結末}}』
*<!-- ヨシダ1985 -->{{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=|year=1985|month=6|chapter=|title=海軍人間語録 {{small|現代に生きる海軍式言行録}}|publisher=光人社|ISBN=4-7698-0271-4|ref={{SfnRef|海軍人間語録|1985}}}}
*<!-- ヨシダ1985 -->{{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=|year=1985|month=6|chapter=第1部 第二水雷戦隊|title=波濤を越えて|publisher=朝日ソノラマ|series=航空戦史シリーズ|volume=57|ISBN=4-257-17057-3|ref={{SfnRef|波濤を越えて|1985}}}}
*<!-- ヨシダ2008 -->{{Cite book|和書|author=吉田俊雄|coauthors=|year=2008|month=6|origyear=1966|title=悲劇の軍艦 {{small|海軍魂を発揮した八隻の戦い}}|chapter=ガ島輸送に任した最速艦―駆逐艦「長波」|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2361-2|ref={{SfnRef|悲劇の軍艦|2008}}}}
*<!-- レキシグンゾウ1998-8 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1998|month=8|chapter=|pages=|title=水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 {{small|究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第19巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=|ref={{SfnRef|歴群19、水雷戦隊II|1998}} }}
**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
**(143-158頁){{small|戦闘ドキュメント}} 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕
**(160-165頁)上原光晴「{{small|特別企画1 駆逐艦「島風」の記録}} 韋駄天「島風」18か月間の戦い」

* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070111300|title=昭和16年7月~12月 達/12月(2)|ref=S16.7-12達/12月(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070159700|title=昭和16年10月~12月 内令/昭和16年12月(3)|ref=内令昭和16年12月(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070163400|title=昭和17年4月~6月 内令2巻/昭和17年6月(4)|ref=内令昭和17年6月(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070164700|title=昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月(4)|ref=内令昭和17年8月(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070165700|title=昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1)|ref=内令昭和17年10月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070167000|title=昭和17年10月~12月 内令4巻止/昭和17年12月(4)|ref=内令昭和17年12月分(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070175100|title=昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年1月(2)|ref=内令昭和18年1月(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070175600|title=昭和18年1月~4月 内令1巻/昭和18年2月(4)|ref=内令昭和18年2月(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070181400|title=昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)|ref=内令昭和18年10月(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070194500|title=自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年2月(2)|ref=内令昭和19年2月(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070497900|title=昭和19年9月~12月 秘海軍公報号外/11月(3)|ref=秘海軍公報昭和19年11月(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070503600|title=自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)|ref=秘公報昭和20年1月(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13072013300|title=昭和17年12月31日現在10版内令提要追録第12号原稿/巻3/第13類艦船(1)|ref=昭和17年12月31日艦艇類別等級表}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030366600|title=昭和17年7月1日~昭和17年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌(3)|ref=S17.07呉防戦日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030041400|title=昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(5)|ref=S1701三戦隊日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030106900|title=昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1812三水戦日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030107000|title=昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)|ref=S1812三水戦日誌(6)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116500|title=昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)|ref=S1712四水戦日誌(6)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030355700|title=昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)|ref=S1803舞鎮日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030355800|title=昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)|ref=S1803舞鎮日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030355900|title=昭和18年4月1日~昭和18年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌|ref=S1804舞鎮日誌}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030356400|title=昭和18年6月1日~昭和18年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌|ref=S1806舞鎮日誌}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030356900|title=昭和18年8月1日~昭和18年8月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌|ref=S1808舞鎮日誌}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030357000|title=昭和18年9月1日~昭和18年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)|ref=S1809舞鎮日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030357100|title=昭和18年9月1日~昭和18年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)|ref=S1809舞鎮日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14061098700|title=第1表/2.1944年10月18日以降増援兵力|ref=10月18日以降増援兵力}}
* 横須賀鎮守府司令部『自昭和十七年七月一日至昭和十七年七月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:C08030319500, C08030319700, C08030319800
* 横須賀鎮守府司令部『自昭和十七年七月一日至昭和十七年七月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:C08030319500, C08030319700, C08030319800
* 横須賀鎮守府司令部『自昭和十七年八月一日至昭和十七年八月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030320800
* 横須賀鎮守府司令部『自昭和十七年八月一日至昭和十七年八月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030320800
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* 多号作戦第四輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦)』(昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600
* 多号作戦第四輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦)』(昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600


== 脚注 ==
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1973|month=2|title=戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) {{small|昭和十七年六月以降}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)}}
{{脚注ヘルプ}}
* [[防衛研究所]]戦史室編『[[戦史叢書]]96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]、1976年
=== 注釈 ===
* 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
{{Reflist|group=注}}
* 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
=== 出典 ===
* 永井喜之、木俣滋郎「アメリカ重巡「ノーザンプトン」」『撃沈戦記』[[朝日ソノラマ]]、1988年、ISBN 4-257-17208-8
<div style="font-size:88%">{{reflist|2}}</div>
* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
* 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
* 橋本衛「駆逐艦「長波」残弾なし!完結編」『丸 第45巻・第1号』潮書房、1992年
* 田村俊夫「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」」『<span style="font-size:90%;">[[歴史群像]]太平洋戦史シリーズ51</span> 帝国海軍 真実の艦艇史2』[[学習研究社]]、2005年、ISBN 4-05-604083-4
* 田村俊夫「「長波」とした写真の訂正」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ70</span> 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年、ISBN 978-4-05-606020-1


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2019年1月13日 (日) 16:21時点における版

長波
基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 夕雲型駆逐艦
艦歴
計画 1939年度(マル4計画
起工 1941年4月5日
進水 1942年3月5日
竣工 1942年6月30日
最期 1944年11月11日戦没
除籍 1945年1月10日
要目
基準排水量 2,077t
公試排水量 2,520t
全長 119.3m
最大幅 10.8m
吃水 3.76m
ボイラー ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 35.0kt
燃料 重油:600トン
航続距離 18ktで5,000浬
乗員 225名
兵装 新造時
50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 II×2
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36
テンプレートを表示

長波(ながなみ)は[1]日本海軍駆逐艦[2]夕雲型駆逐艦の4番艦である[3]

概要

一等駆逐艦長波(ながなみ)は[1]、日本海軍が1941年(昭和16年)4月から1942年(昭和17年)6月にかけて藤永田造船所で建造した駆逐艦[4]。竣工後、横須賀鎮守府部隊に所属し、哨戒や訓練をおこなう[2]。8月31日、日本海軍は長波と巻波[5]により第31駆逐隊を新編する[6]。 トラック泊地進出後、第31駆逐隊は第二水雷戦隊各隊・各艦と共にガダルカナル島の戦いに従事する[5]。戦艦金剛榛名ヘンダーソン基地艦砲射撃にも同行した[7]南太平洋海戦では前進部隊に所属、またガ島強行輸送任務(鼠輸送)に従事した[2]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では、輸送船団を護衛した[8]。11月30日のルンガ沖夜戦では、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将の旗艦(外南洋部隊増援部隊旗艦)として活躍したが[9]、姉妹艦高波を喪失した[10]

長波は艦の疲弊によりトラック泊地に後退して整備をおこない[11]ガダルカナル島撤退作戦のあと内地へ帰投した[2]1943年(昭和18年)3月中旬から舞鶴海軍工廠で修理をおこなった[12]。5月12日、長波は北方部隊に編入された[13]。7月、島風[14]や五月雨等とともにキスカ島撤退作戦に従事した[4]。 北方作戦後は南方に転じ[15]、10月下旬には第一航空戦隊の物件を搭載してラバウルに進出する[16]。そのままブーゲンビル島攻防戦に投入されてブーゲンビル島沖海戦に参加した[17]11月11日、長波はラバウルで米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて大破[18]ラバウル空襲[2]。駆逐艦水無月(トラック泊地まで)[19]と軽巡洋艦長良(内地まで)[20]に曳航されて日本に戻り[21]1944年(昭和19年)1月末から呉海軍工廠で修理をおこなった[2]

第31駆逐隊所属艦は昭和18年7月から11月にかけて姉妹艦清波[22]巻波[5]大波[23]が沈没し、長波1隻となる。1944年2月10日、沖波[24]岸波[25]朝霜[26]を編入して定数4隻を揃えた[27]。 同年5月末、長波の修理完了[2]。 7月中旬、第31駆逐隊(長波、岸波、沖波、朝霜)は戦艦や重巡洋艦を護衛してリンガ泊地に進出した[28]捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦では、第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に所属する[2]。10月23日、パラワン水道で栗田艦隊がアメリカ潜水艦2隻に奇襲された際[29][注 1]、長波と朝霜は損傷した重巡洋艦高雄を護衛して後退した[4][26]。その後、長波は空襲で損傷した重巡妙高の護衛にまわった[30]

レイテ沖海戦後、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入され、多号作戦に従事する[31]。11月11日、第三次多号作戦においてレイテ島オルモック湾で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、輸送部隊は朝霜を残して全滅する[32]。長波も撃沈された[4]

艦歴

第31駆逐隊編制まで

1939年度(マル4計画)仮称第119号艦として、藤永田造船所で建造[33]1941年(昭和16年)12月17日、長波(ながなみ)と命名される[1]。夕雲型駆逐艦に類別された[34]1942年(昭和17年)6月30日、竣工。舞鶴鎮守府籍となる[35]

竣工と同時に、長波は警備駆逐艦に定められた[35]。横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入されて横須賀に回航された後[36]相模湾方面での哨戒に従事した[37]。 7月5日、キスカ島に停泊していた第二水雷戦隊・第18駆逐隊は米潜水艦グロウラーの奇襲攻撃をうける[38]。被雷した駆逐艦は沈没[39]不知火[40][41]は船体切断に追い込まれた[42]7月5日の海戦)。7月17日、大海指第114号により長波はキスカ島に不知火と霞救援用の物資と人員を運ぶことになった[43]。7月20日、長波は横須賀を出発して27日キスカ島に到着する[43][44]。翌日、輸送船白山丸を護衛して帰路につき、8月4日横須賀に帰投した[43][45]

ガダルカナル島を巡る戦い

8月31日、日本海軍は長波と巻波[46](舞鶴海軍工廠建造艦、8月18日竣工)[47]により第31駆逐隊を編制した[6]。初代駆逐隊司令に清水利夫大佐(当時、第21駆逐隊司令。海軍兵学校46期[48][49]を任命する[50]。 第31駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将・海軍兵学校41期)に所属した[51]。 第三戦隊司令官栗田健男中将(海兵38期)が指揮する第三戦隊(金剛型戦艦金剛榛名)と第31駆逐隊(巻波、長波)で前進部隊待機部隊を編成[52]、内海西部で訓練を実施した[53][54]。 9月6日[55][53]、待機部隊(第三戦隊〈金剛榛名〉、31駆〈巻波、長波〉)はを出撃した[56][57]トラック諸島に進出後、連合艦隊旗艦大和で打ち合わせをおこなう[58]。前進部隊本隊に編入後[注 2][53]9月11日にトラック泊地を出撃、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官[注 3])に合流した[61][62]。第31駆逐隊はガダルカナル島の戦いに関わる海上作戦に加わることとなる。9月中旬の日本陸軍ガ島総攻撃は失敗、日本海軍各艦隊はトラック泊地にもどった[63][64]

10月1日、第31駆逐隊に姉妹艦高波[65](浦賀船渠建造艦、8月31日竣工)[66]が編入され、3隻(長波、巻波、高波)編制となった[67]。清水司令は司令駆逐艦を「高波」に指定した[68]

10月11日、第二水雷戦隊(旗艦〈五十鈴〉[注 4]、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉[注 5]、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を命じられた金剛と榛名を護衛することになり、挺身攻撃隊(指揮官栗田健男第三戦隊司令官)としてトラック泊地を出撃した[70]。 10月13日から14日にかけての深夜に行われた飛行場砲撃においては[7][71]、襲来してきた魚雷艇4隻[72]を追い払った[73]。ヘンダーソン飛行場は損害を受けたが、日本軍が知らなかった新規飛行場は離着陸可能であり、ガ島揚陸中の輸送船団に空襲を加えた[74]。 輸送船団の苦戦を知った連合艦隊は、前進部隊の重巡妙高摩耶に飛行場砲撃を命じ、これを二水戦(五十鈴、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)が護衛することになった[75][76]。妙高と摩耶はガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して擱座炎上した3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を見つつ[77]、10月15日夜[78]、艦砲射撃を敢行した[7][79]。砲撃は約1時間で終わり[80]、第31駆逐隊も砲撃を行った(発射弾数253発)[79]。戦場を離脱後、10月17日夜に第二艦隊近藤信竹中将・海兵35期)および第三艦隊南雲忠一中将・海兵36期)主力と合流し[81]、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた[82]。10月26日の南太平洋海戦時は、支援部隊・前進部隊(第二艦隊基幹)に所属していた[83]。10月30日にトラックに帰投した[84][85]

11月3日、長波を含め支援部隊の一部部隊[注 6]は外南洋部隊(指揮官三川軍一海軍中将、第八艦隊司令長官)に編入され[86]、トラックを出撃してショートランドに向かう。11月5日、ショートランド泊地において外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将から第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継がれた[87]。ガダルカナル島への鼠輸送に従事していた第三水雷戦隊は、トラック泊地へ戻る[87]。これ以降、ガ島への駆逐艦輸送作戦は田中頼三少将が指揮することになった[87]

11月6日深夜、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、高波、長波〉、第10駆逐隊〈夕雲、風雲〉)はショートランド泊地を出撃した[88][89]。途中で米軍爆撃機と小型機20数機の空襲を受け、長波と高波が損傷した[90]。長波は戦死者3名と重傷者7名を出し(長波乗組員によれば戦死4名、ほか陸軍部隊に負傷者)[91]、一番砲塔などに被害があった[89]。甲増援隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した[90]

この頃の連合艦隊は大規模輸送船団によるガ島輸送を計画しており、外南洋部隊増援部隊は第三十八師団(司令官佐野忠義中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船を護衛することになった[8]。11月12日1530、増援部隊(指揮官田中頼三少将、二水戦旗艦「早潮」)[注 7][注 8]は輸送船団を護衛してショートランドを出撃した[93]。だが飛行場砲撃隊と米艦隊の間で夜間水上戦闘となり(第三次ソロモン海戦、第一夜戦)、輸送船団はコロンバンガラ島東方で反転、ショートランド泊地に引き返した[94]。 11月13日1530、輸送船団は再びショートランド泊地を出撃した[94]。 11月14日になると、輸送船団はヘンダーソン飛行場から飛来した空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の艦載機[95]エスピリトゥサント島から飛来した陸軍B-17重爆[96]、ガ島から来た海兵隊機による八次におよぶ反復攻撃を受けた[94]。零式艦上戦闘機や水上観測機が護衛にあたったが、米軍機の大群を阻止できなかった[94]。11隻の輸送船は6隻が沈没し、佐渡丸と護衛2隻(天霧、望月)が引き返した[97]。長波は陸兵570名を救助した[97]。田中少将(早潮座乗)は駆逐艦と残存の4隻の輸送船をサボ島沖に向かう前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)の後につけさせたが、救助者を乗せた各艦(長波、巻波、江風、涼風)は戦闘に耐えられる状態ではなかった[98]。その後、田中少将は第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起した隙を突いて輸送船をタサファロングの浜辺に擱座させた[99]。夜明け後、輸送船は空襲と重砲射撃と艦砲射撃により粉砕され、人員のみガ島に揚陸した[100]。駆逐艦だけになった増援部隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)は、11月15日2200ショートランドに帰投した[101][102]

ルンガ沖夜戦

輸送船によるガダルカナル島突入が失敗に終わると[101]、ガダルカナル島に対する輸送作戦はドラム缶を用いた鼠輸送に切り替えられた[103][104]。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと第八艦隊(司令長官三川軍一中将・海兵38期)に二度意見具申したが[105]、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された[106][107]。また輸送量・人員を増やすよう要望した[106]。田中少将は、配下の駆逐艦全てから予備魚雷を陸揚し[106]、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた[108]。 この出撃時の兵力部署は、警戒隊(二水戦司令官直率、長波〔二水戦司令官〕、高波〔第31駆逐隊司令〕)[109]、第一輸送隊(第15駆逐隊司令、第15駆逐隊〈親潮、黒潮〉、巻波)、第二輸送隊(第24駆逐隊司令、第24駆逐隊〈涼風、江風〉)であった[106]。田中少将(第二水雷戦隊司令官)は長波を臨時の増援部隊旗艦とした[110]

11月29日夜22時45分、外南洋部隊増援部隊はショートランドを出撃して、北方からガダルカナル島を目指した[110][111]。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17 に発見される[112]。これを受け、南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は「東京急行」を阻止すべく、カールトン・H・ライト少将の第67任務部隊英語版を出撃させた[113][114]。サボ島沖に差し掛かった20時30分頃、警戒隊の高波は単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備えた[110]。21時12分、高波が第67任務部隊を発見する[110]。増援部隊各艦はドラム缶の投入準備にかかっていたが、敵発見の報告により田中少将はドラム缶を投棄させて21時16分に「揚陸止メ、全軍突撃セヨ」を下令した[110]。敵発見を報じた高波は、21時20分から第67任務部隊の集中砲火を浴び[115]、航行不能となって23時37分に沈没した[116]。高波座乗の清水大佐(第31駆逐隊司令)は戦死した[117]。増援部隊各艦は魚雷を発射し[118]、長波は射撃を行いつつ魚雷8本を発射、非敵側に反転した[116]。長波の損傷は、海戦で大口径弾の至近弾を受けた程度であった[119]

一方、増援部隊が発射した魚雷の槍衾は第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲い掛かった[120][121]。旗艦ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) は魚雷2本を被雷して艦首を吹き飛ばされ、ニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) も魚雷命中により艦首を失った[120]。3番艦ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) は被雷して炎上した[120]。4番艦ホノルル (USS Honolulu, CL-48) は30ノットの速力で相手から離れ無事だった。5番艦ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) は魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった[122]。ノーザンプトンは転覆して沈没した[120]

夜戦で大きな戦果をあげた二水戦だが、田中頼三少将に対する評価は芳しくなかった[123]。ただし翌年9月15日、連合艦隊は増援部隊の功績をたたえて感状を授与した[124]。高波の除籍により、31駆は長波と巻波の2隻になった[125]

昭和17年12月から昭和18年前半の戦い

海戦には勝利したものの、本来の目的であるドラム缶輸送は果たせていなかった[124]。駆逐艦を増強し、12月3日から4日にかけて増援部隊指揮官(田中頼三少将、二水戦司令官)指揮下で第二輸送作戦がおこなわれた[126]。長波をふくめ駆逐艦10隻[注 9]による輸送では、空襲で巻波が小破[120]、ドラム缶1500個を投入したが陸軍が揚収したのは310個であった[124][127]。この頃、ショートランド泊地に秋月型駆逐艦照月[注 10]が到着した[128]。田中頼三少将は、二水戦旗艦を長波から照月に変更した[129][130]

12月7日から8日にかけての第三次輸送作戦は、第15駆逐隊司令の指揮下で長波をふくめ駆逐艦11隻[注 11]が参加した[129]。往路で駆逐艦野分が空襲を受けて航行不能となり、長波は野分を曳航してショートランド泊地に引き返した[129]。2隻を駆逐艦(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)と有明が護衛した[131]。魚雷艇や米軍機の妨害により[132]、輸送作戦は失敗に終わった[129]

12月11日から12日にかけての第四次輸送作戦は増援部隊指揮官(二水戦司令官、旗艦「照月」)の直率下で行われ、連合艦隊司令長官山本五十六大将は「今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、アラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ務メヨ」と激励した[133][134]。長波ふくめ駆逐艦11隻[注 12]で実施する[135]。ガダルカナル島に到着してドラム缶を揚陸中、増援部隊は米軍魚雷艇に襲撃されて旗艦照月が被雷、航行不能となる[132][136]。田中少将ふくめ第二水雷戦隊司令部は長波に移乗した[137][136]。二水戦司令部退去後、照月は自沈した[136][138]。投下したドラム缶1200個のうち、揚収できたのは220個であったという[136]

12月14日にラバウルに後退してからは、ニュージョージア島ムンダ(日本軍飛行場建設中)[139]への輸送作戦に参加する[140]。増援部隊指揮官(二水戦司令官)直率のもと、長波ふくめ駆逐艦6隻[注 13]は12月16日1400ショートランド泊地を出発する(ムンダ第一回輸送、第一次)[141]。夜間空襲を受け、陽炎が小破した[142]。翌日0500、ショートランド泊地に帰投した[142]

12月25日1300、駆逐艦卯月と輸送船南海丸(大阪商船、8,416トン)はムンダに向けラバウルを出発した(ムンダ第二回輸送、第四次)[143]。1730、セントジョージ岬西南西24浬で米潜水艦シードラゴン (USS Seadragon, SS-194) の魚雷攻撃を受け、南海丸が損傷する[144]。さらに南海丸と卯月が衝突、卯月は航行不能となった[144]。駆逐艦4隻(長波、有明、谷風、浦風)は急遽ラバウル出撃、救援にむかう[144][注 14]。長波は鶴見等とともに南海丸を護衛して避退、同船は26日1500頃ラバウルに帰投した[146][147]

12月30日、増援部隊指揮官(第二水雷戦隊司令官)は田中頼三少将から小柳冨次少将(海兵42期)に代わり、引き続き長波を二水戦旗艦とした[148][149]。 年明けた1943年(昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送は、長波ふくめ駆逐艦10隻[注 15]で行われた[150]レンドバ島付近で空襲をうけ涼風が損傷、電の護衛下で引き返した[150]。最前線で長期間活動していた二水戦各艦は消耗が激しく、4隻(長波、親潮、陽炎、涼風)は前進部隊に復帰した[注 16][151]。1月10日、増援部隊旗艦(二水戦旗艦)は長波から黒潮に変更された[152]。翌日、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将から第十戦隊司令官木村進少将に引き継がれた[152]。12日1000、二水戦司令官は「長波」を率いてショートランド泊地を出発した[152]。14日、トラックに到着した[153]。長波は3月7日までトラック泊地で整備を行った[154]

1月19日、第十戦隊旗艦の秋月型駆逐艦秋月は米潜水艦ノーチラスに雷撃されて大破、第十戦隊司令官(木村少将)も負傷した[155]。小柳少将(第二水雷戦隊司令官)は第十戦隊司令官に任命され[155]、長波から将旗を撤収する[148]。神通艦長が臨時に二水戦司令官を代行したあと、後任の二水戦司令官には伊崎俊二少将(海兵42期)が任命された[155]。 長波は工作艦明石の世話になった[156]。整備中の1月20日、五十鈴は第二水雷戦隊からのぞかれ第十六戦隊へ転籍した[69]。 同日附で、夕雲型駆逐艦大波[157](藤永田造船所建造艦、前年12月29日竣工)[158]が第31駆逐隊に編入された[159]。 2月25日には姉妹艦清波[160](浦賀船渠建造艦、1月25日竣工)[161]が31駆に加わった[162]。第31駆逐隊は定数4隻(長波、巻波、大波、清波)となった。

3月8日に、前年暮れに救援した南海丸を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後舞鶴に回航され、3月17日に入港した[12]舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなう[163]。修理後、4月20日に舞鶴を出発する[164]。横須賀に回航された[165]。 4月25日、第十四戦隊の軽巡洋艦那珂[166]と駆逐艦3隻(長波、時雨、有明)は[167]、空母雲鷹冲鷹を護衛してトラックに向かう[168][169]。4月30日、艦隊はトラック泊地に到着した[169]。 5月8日、軍艦5隻(戦艦〈大和〉、空母〈雲鷹、冲鷹〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉)は駆逐艦部隊(長波、潮、夕暮、五月雨)に護衛されてトラックを出港し、それぞれ内地に帰投した[169][170]。5月13日、長波と五月雨は第五戦隊および空母と共に横須賀へ帰投した[171][172]

横須賀到着の前日、連合軍はアッツ島に上陸を開始、アッツ島の戦いが始まった[173]。 第五戦隊および長波と五月雨は北方部隊(第五艦隊基幹)に編入され[174]、アリューシャン列島への進出を命じられる[175]。5月15日、4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)は横須賀を出発、19日幌筵に到着した[176]。北方部隊はアッツ島救援のため駆逐艦神風野風をアッツ島に突入擱座させて補給を行う計画を立てていたが[177][178]、実施されなかった[179]。5月29日、アッツ島守備隊は玉砕した[180]。 6月1日、長波は補給の際に舷側に損傷を負い、翌日幌筵を出発する[181]。6月5日、舞鶴に到着した[182]。修理と機銃増備工事をおこなう[182]。23日、舞鶴を出動する[183]。7月1日、幌筵島に進出した[181][184]

キスカ・ブーゲンビル・ラバウル

7月7日、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下、キスカ島撤退作戦第一次作戦に警戒部隊(初霜、若葉、島風、長波、五月雨)として参加する[185][186]。しかし、第一次作戦はキスカ島方面のが晴れてきたことで7月15日に作戦中止となり[187][188]、18日幌筵島に帰投した[189]。 第二次作戦は7月22日から開始された[190]。翌日、3隻(長波、日本丸、国後)は霧のために艦隊から落伍した[190]。24日、長波と日本丸は艦隊に合流できたが、国後は依然として所在不明だった[191]。 7月26日夕方、突入部隊は国後を原因とする多重衝突事故を起こす[192]。艦隊最後尾にいた若葉(第21駆逐隊司令)-初霜-長波は前方の混乱の余波をうけた[193]。まず初霜が、前方航行中の若葉の右舷後部に衝突する[193]。後進をかけた初霜は、後続していた長波に衝突した[193]。長波は右側に回避行動をとっており、初霜の艦尾が長波左舷後部に衝突した[194]。外板に少し凹みが生じて若干量の浸水もあったが、作戦に支障は無かった[194]。 撤退作戦後、長波以下各艦は8月3日附で北方部隊の指揮から離れ[注 17]、原隊に戻ることとなった[195]。長波とはタンカー日本丸(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛した[196]。 8月7日、長波は舞鶴に到着し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなう[197]。 9月4日まで修理を行った[198]。翌日、長波は舞鶴を出撃した[199]

修理後の9月15日、長波と島風は重巡洋艦鳥海摩耶を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう[200]。9月20日にトラック泊地着後、各艦に分乗していた防空隊は摩耶と長波に移乗した[15]。摩耶と長波はラバウルに移動してブカ島配備予定の防空隊を揚陸し、トラック泊地にもどった[15]。任務終了後はトラックで待機し、10月17日からはマーシャル諸島方面に出撃する第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海兵37期)と第二艦隊(司令長官栗田健男中将)の護衛に就いた[201]

10月28日、連合艦隊はろ号作戦を発動する[202]。この作戦において、第一航空戦隊の飛行機隊を南東方面の陸上基地に配備することにした[203]。第十戦隊大杉守一少将を指揮官とする輸送部隊(第一部隊〈阿賀野、初風、若月、長波〉、第二部隊〈大波、風雲〉、第三部隊〈天津風〉、修理後投入〈巻波〉)は、それぞれ一航戦の基地員と物件をラバウルやカビエンに輸送した[204][205]。 ラバウル到着後の第一部隊は、そのままブーゲンビル島トロキナ方面への殴り込みおよび逆上陸部隊を掩護する連合襲撃部隊(指揮官大森仙太郎第五戦隊司令官)に組み込まれた[206]。連合襲撃部隊は、第一襲撃部隊(妙高、羽黒)、第二襲撃部隊(川内、時雨、白露、五月雨)、第三襲撃部隊(阿賀野、長波、初風、若月)として出撃した[207]。 11月1日から2日にかけての深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦で日本軍は敗北し、川内と初風を喪失した[208]

ラバウルに帰投後、長波はラバウル空襲に遭遇する[209]。11月5日の空襲で栗田長官の重巡洋艦部隊は大損害を受けたが[210]、長波ふくめ二水戦各艦に深刻な被害はなかった[211]。大破した摩耶[212]、第十戦隊と第二水雷戦隊の大部分を残し、重巡洋艦部隊はトラック泊地へ退却した[211][213]。 11月6日から10日にかけては第十戦隊とともにトロキナへの逆上陸作戦に従事した[214][215]。長波の兵力部署は、支援部隊麾下の第二支援部隊(指揮官高間完第二水雷戦隊司令官、旗艦〈能代〉、早波[注 18]、長波[注 19])であった[216]

この頃、11月5日の空襲に満足したハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請[217]。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)を派遣することに決した[217]。11月11日早朝、第38任務部隊フレデリック・シャーマン少将)はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた[217][210]。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務部隊を発見する[217][218]。これに伴い、ラバウル在泊の第二水雷戦隊と第十戦隊は折からのスコールにまぎれて港外に脱出しつつあった[219]。7時15分、急降下爆撃機十数機の攻撃を受けて後甲板に被弾し、操舵不能になったうえ爆圧でスクリューが脱落して航行不能となった[220]。数分後には、姉妹艦涼波(第32駆逐隊)が魚雷と爆弾命中により轟沈した[221]

第二水雷戦隊と第十戦隊の大部分はトラック泊地に撤収したが、第31駆逐隊(大波、長波、巻波)はラバウルに残った[222]。長波は仮修理を受け、本格的な修理のため曳航されて後送される事になった。12月3日、軽巡洋艦夕張と駆逐艦文月の護衛下、駆逐艦水無月に曳航されてラバウルを出港する[223][224]。5日までは駆逐艦天霧も護衛に協力、計三回連合軍機と遭遇したが被害を受けることはなかった[223]。8日、長波曳航部隊はトラックに入港した[223]1944年(昭和19年)1月15日、今度は軽巡洋艦長良に曳航されてトラックを出港した[21][225]。護衛には駆逐艦卯月夕凪がついた[226]。米軍潜水艦が跳梁する中での曳航のため生還は難しいとみられ、長良乗組員は病院船氷川丸に預けていた長良戦死者の遺骨を引き取り[注 20]、艦内に安置して航海に臨んだ[228]。長波回航隊は4隻とも内地へ帰投できた[229]。1月24日、内海西部着[230][注 21]。長波は呉海軍工廠で本格的修理に入った[231]

昭和19年の行動

第31駆逐隊の所属艦は、前年7月に清波が夜間空襲により撃沈され[22]、前年11月下旬のセント・ジョージ岬沖海戦大波巻波が沈没[232]、可動艦は長波1隻になっていた[233][27]1944年(昭和19年)2月10日、第31駆逐隊に沖波[234](舞鶴海軍工廠建造艦、前年12月10日竣工)[235]岸波[236](浦賀船渠建造艦、前年12月3日竣工)[237]朝霜[238](藤永田造船所建造艦、前年11月27日竣工)[239]が編入され、定数4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)を回復した[27]。 同日附で、森艦長は第二艦隊司令部附へ転任した[240]が、後任艦長の発令はすぐには行われずそのまま修理を行い、6月1日になり新艦長の飛田清少佐(海兵56期)が横須賀鎮守府附[241]から就任した[242]。 修理を終えた後の7月8日正午、第31駆逐隊(朝霜、岸波、沖波、長波)は遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)の甲部隊に所属し[注 22][243]、呉を出撃した[244]。途中、沖縄第三十二軍(司令官渡辺正夫中将)に対する輸送任務を行い、任務終了後はリンガ泊地に直接向かって7月16日に到着した[245]。以後、リンガ泊地で訓練に励んだ。

レイテ沖海戦

10月18日、捷一号作戦発動に伴って第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊と呼称)はリンガ泊地から出動した(海戦の経過詳細と部隊編成については、当該記事を参照)[246]ブルネイ湾で補給の後、第一遊撃部隊の第一部隊と第二部隊は10月22日に出撃した[247]。だが、翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦愛宕がアメリカ潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) の雷撃で沈没した[248]。僚艦摩耶は、潜水艦デイス (USS Dace, SS-247)[249]の雷撃で沈没した[250]。僚艦高雄は、ダーターの雷撃により大破した[251]。 第31駆逐隊の長波と朝霜は高雄の警戒と護衛を命じられ、栗田艦隊本隊とは別行動になった[252][253]。救援要請により、海防艦千振、水雷艇、特設駆潜艇御津丸が、それぞれ高雄との合流を急いだ[254]。ダーターとデイスは高雄にとどめを刺そうと攻撃機会をうかがっていたが、長波と朝霜と水上機が警戒しているため、昼間襲撃を諦めた[255]

翌10月24日未明、ダーターはパラワン水道のボンベイ礁(日本側は福瀬と呼称)に座礁し、放棄された[256]。デースは僚艦の乗組員を収容したあと、現場を去った[256]。同日0420、鵯と御津丸が高雄隊に合流する[30]。0850、味方哨戒機が通信筒を投下、ボンベイ礁に座礁した潜水艦(ダーター)の攻撃を依頼した[30]。長波と鵯はダーターを攻撃するため座礁現場におもむく[30]。約3分間、リーフ上のダーターを砲撃した[30]。13ミリ機銃と写真、可能な限りの鹵獲品を得て、分捕った13ミリ機銃は後檣右舷側に装備された[257]。 つづいて長波は、シブヤン海で第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受けて大破し、コロン島経由でブルネイ湾に下がる妙高の護衛を命じられた[注 23][259]。鵯は高雄隊の護衛に戻り、長波はコロン泊地にむかった[30]

10月26日1050、栗田長官は3隻(妙高、長波、清霜)に対しコロン出港とブルネイ回航を命じた[260]。この命令受領時、清霜と浜風は戦艦武蔵生存者を乗せてマニラにいたので[261]、命令どおり行動できるのは妙高と長波だけだった[260]。27日1150、妙高と長波はコロンを出発、パラワン水道を通過し、29日1030ブルネイに到着した[260]。同地には栗田艦隊残存艦が到着していた[注 24][263]

多号作戦と沈没

ブルネイ到着前の10月27日1715、豊田副武連合艦隊司令長官はレイテ島地上戦にともなう海上輸送作戦(「多号作戦」)を実施するため、南西方面部隊[注 25]の水上兵力増強を下令した[266]。GF電令作第381号により、第31駆逐隊(岸波、長波、沖波、朝霜)、第41駆逐隊(霜月、冬月)、第61駆逐隊(若月、涼月)は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入された[267]。29日には、GF電令作第387号により第二水雷戦隊全艦が第二遊撃部隊に編入された[267]。 10月30日、長波をふくめ第二水雷戦隊の大部分はブルネイを出発、マニラへ移動した[注 26][268]

11月8日朝、長波は多号作戦第四次輸送部隊(指揮官木村昌福第一水雷戦隊司令官・海兵41期、旗艦「霞」)に所属し、マニラを出撃した[269][270]。翌11月9日夕方にレイテ島オルモック湾に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった[271][272]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25P-38 の攻撃を受けて陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)、輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、第十一号海防艦が沈没し、海防艦占守第十三号海防艦が損傷した[273][274]。木村少将は輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)に護衛部隊(海防艦〈沖縄、占守〉、駆逐艦〈若月、潮、秋霜〉)をつけてマニラへ先発させた[273]。駆逐艦3隻(〔木村少将旗艦〕、長波、朝霜)とともに救助作業にあたった[273]。救助作業後、駆逐艦3隻と第13号海防艦および後から来た第一号型輸送艦3隻(6号9号10号)はマニラへの帰路についた[275][276]。 1418、先行隊も空襲をうけて秋霜が中破した[275]

この頃、多号作戦第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官・海兵44期。旗艦「島風」)は低速輸送船団を護衛してオルモック湾に向かっていた[277][278]。 南西方面部隊指揮官(大川内長官)は8日2059NSB電令作第738号により、駆逐艦4隻(朝霜、長波、秋霜、若月)の第三次輸送部隊編入を、駆逐艦2隻(初春、竹)の第四次輸送部隊編入を命じていた[279]。大川内長官の命令により、損傷した秋霜以外の3隻(長波、朝霜、若月)は第四次輸送部隊から分離、第三次輸送部隊に合流する[280](代わりに初春と竹が第四次輸送部隊に合流)[281]。11月10日夕刻、長波と朝霜は霞に被害艦生存者を移し、第三次輸送部隊を追いかける[282]。第四次輸送部隊から離脱後、3隻は21時にマスバテ島東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊に合流した[282][283]

第三次輸送部隊は護衛部隊(島風、浜波、若月、長波、朝霜、掃海艇30号)と輸送船4隻[注 27]となり、魚雷艇を撃退して進撃した[285][286]。11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機[287]による空襲を受けた[288]。 各艦は煙幕を展開し[289]、また陸軍戦闘機疾風約30機が出動したが、輸送船団を守り切れなかった[290][291]。つづいて米軍機は護衛部隊に襲い掛かる[292]。第32駆逐隊司令(大島一太郎大佐)の回想によれば、護衛部隊は浜波・若月・島風・長波・掃海艇30号・朝霜の単縦陣であったという[292]。 激しい対空戦闘の末に弾薬が尽きた長波は右舷艦橋下に被弾し、艦右側にも至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、長波は艦首を上げて沈没していった。第三次輸送部隊は朝霜ただ一隻を残して全滅し、早川少将も戦死した[290][293]。なお朝霜は航行不能になった浜波に接舷し、浜波乗組員を救助してオルモック湾を脱出した[292][294]。朝霜は浜波乗組員で満杯となっており、また米軍機の空襲も続いていたため、他の浮いている艦を救助できなかった[295]。 飛田(長波艦長)は生き残った乗員数十名を引き連れて、いまだ浮いていた浜波に乗り移った[296]。飛田艦長は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので浜波を陸上砲台にしようと決心した[297]。しかし、潮流に流されて擱座に失敗し、浜波に残っていた糧食で夕食をとった後就寝[298]。翌12日、飛田艦長以下の長波の乗員は浜波を離れ、陸上から迎えに来た大発に移ってレイテ島に上陸した[298]。浜波の船体がその後どうなったのかは定かではないが、飛田艦長は生還して、戦後海上自衛隊に入隊した[299]。長波乗組員43名が海軍陸戦隊に編入され[300]マニラ市街戦フィリピン地上戦に投入された。

11月15日、朝霜は第2駆逐隊へ転出、沈没していた夕雲型駆逐艦浜波(11月11日、第三次多号作戦)[301]が第31駆逐隊に編入された[302][303]。 第31駆逐隊の所属駆逐艦4隻(長波、岸波、沖波、浜波)のうち、3隻(長波、沖波、浜波)は沈没もしくは大破着底状態のため、書類上の存在に過ぎなかった[302][303]。唯一健在だった岸波も12月4日に撃沈され[25]、第31駆逐隊は稼働艦皆無となった[304]

1945年(昭和20年)1月10日、長波は艦艇類別等級表から削除[305]。 同時に帝国駆逐艦籍から除籍[306]。 第31駆逐隊(長波、沖波、浜波、岸波)も解隊された[307]1981年(昭和56年)、長波の元乗員10名によって、京都霊山護国神社に長波の慰霊碑が建立された[299]

歴代艦長

艤装員長
  1. 隈部傳 中佐:1942年5月20日[308] - 1942年6月30日[309]
駆逐艦長
  1. 隈部傳 中佐:1942年6月30日[309] - 1943年11月25日[310]
  2. 森卓次 少佐:1943年11月25日[310] - 1944年2月10日[240]、以後1944年6月1日まで駆逐艦長の発令無し。
  3. 飛田清 少佐/中佐:1944年6月1日[242] - 1944年12月5日[311]

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  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030099600
  • 特設運送船南海丸『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 南海丸戦時日誌』(昭和17年12月1日〜昭和18年3月31日 南海丸戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030670500
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年一月一日至昭和十八年一月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100200
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年二月一日至昭和十八年二月二十八日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100400
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100500
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年四月一日至昭和十八年四月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100600
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100700
  • 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年3月1日〜昭和18年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084000
  • 舞鶴鎮守府『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030356400
  • 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084400
  • 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084500
  • 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年八月一日至昭和十八年八月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年7月22日〜昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030085200
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101200
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十月一日昭和十八年十月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101300
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101400, C08030101500
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101800
  • 第二水雷戦隊司令部『自昭和十九年一月一日 至昭和十九年一月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030102000
  • 軍艦高雄『昭和十九年十月三十日 軍艦高雄戦闘詳報 自昭和十九年十月二十三日至昭和十九年十月二十五日対潜戦闘』(昭和18年12月1日〜昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030570200
  • 多号作戦第四輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦)』(昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600

脚注

注釈

  1. ^ 潜水艦ダーターの雷撃により第二艦隊旗艦愛宕が沈没して姉妹艦高雄が大破。潜水艦デースの雷撃で重巡摩耶が沈没。
  2. ^ 9月8日時点での支援部隊軍隊区分より、前進部隊本隊編成[59] 第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第八戦隊(利根、筑摩)、第二水雷戦隊(神通、第15駆逐隊〈黒潮、親潮、早潮〉、第31駆逐隊〈長波、巻波〉、第四水雷戦隊(由良、第2駆逐隊〈春雨、五月雨〉、第9駆逐隊〈朝雲、夏雲、峯雲〉)
  3. ^ 第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将は海兵35期。1942年9月時点での兵力部署においては、支援部隊指揮官と前進部隊指揮官を兼務する[60]。第二艦隊旗艦は、ほぼ一貫して重巡洋艦「愛宕」であった。
  4. ^ 従来の二水戦旗艦「神通」は損傷修理のため内地へ帰投した。9月25日、五十鈴が二水戦に編入され[69]田中頼三少将の旗艦となった。
  5. ^ 第15駆逐隊所属の駆逐艦陽炎は、第二航空戦隊護衛のため別行動。
  6. ^ 第七戦隊(鈴谷)、摩耶、第二水雷戦隊、第10駆逐隊。
  7. ^ 早潮(第二水雷戦隊旗艦)、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、長波、天霧、望月。
  8. ^ 五十鈴は外南洋部隊主隊として別働[69]、黒潮は待機隊として出動せず、天霧と望月が収容隊として二水戦に同行[92]
  9. ^ 第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波、巻波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)、第27駆逐隊(夕暮)
  10. ^ 連合艦隊の命令により、12月1日附で照月と浦風は外南洋部隊に編入されていた。
  11. ^ 第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)、第17駆逐隊(浦風、谷風)、第27駆逐隊(有明)
  12. ^ 増援部隊旗艦(照月)、第4駆逐隊(嵐)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第31駆逐隊(長波)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第17駆逐隊(谷風、浦風)、第27駆逐隊(有明)
  13. ^ 第二水雷戦隊司令官直率、第31駆逐隊(長波、巻波)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第17駆逐隊(谷風)
  14. ^ 卯月は有明に曳航されていたが、空襲で有明は中破する[145]。卯月は浦風に曳航され、ラバウルに帰投した。
  15. ^ 警戒隊(長波、江風、涼風、巻波、荒潮)、輸送隊(親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)
  16. ^ 前進部隊復帰は、親潮・陽炎・涼風が1月6日付、長波と二水戦司令部は1月10日付。
  17. ^ 8月3日附で原隊に復帰した艦・部隊は、摩耶、島風、五月雨、長波、響、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)、第12潜水隊。
  18. ^ 駆逐艦藤波も出撃予定だったが、修理が間に合わずラバウルに残留した。
  19. ^ 長波ふくめ第31駆逐隊は挺身輸送隊・警戒隊に属していた。だが支援部隊の時雨の修理が間に合わず、長波は第二支援部隊に回された。
  20. ^ 長良は前年12月5日にクェゼリン環礁で空襲を受け魚雷が誘爆[21][227]、乗組員の1/3を失っていた。
  21. ^ その後、長良は舞鶴へ移動し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなった[21]
  22. ^ 栗田長官直率(旗艦「愛宕」)。第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海)、第一戦隊(大和、武蔵)、第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)、第二水雷戦隊(旗艦〈能代〉、第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉、第31駆逐隊、第32駆逐隊〈浜波〉、附属〈島風〉)
  23. ^ 損傷した妙高は第五戦隊旗艦を羽黒に譲り、10月25日0740[258]、コロンに入泊した。
  24. ^ 10月29日1030時点のブルネイ在泊艦[262]。戦艦4隻(大和、長門、金剛、榛名)、重巡3隻(羽黒、利根、妙高)、軽巡1隻(矢矧)、駆逐艦9隻(浦風、磯風、雪風、浜波、岸波、朝霜、長波、秋霜、島風)。別動中(熊野、沖波、浜風、清霜)
  25. ^ この命令時の南西方面部隊指揮官は、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将であった[264]。11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川中将から大川内傳七中将に交替した[265]
  26. ^ 二水戦沖波は重巡熊野を護衛した関係で既にマニラにおり、第二次多号作戦に従事した。第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将は二水戦の大部分から遅れて清霜に乗りブルネイを出発、11月4日にマニラで駆逐艦島風に将旗を掲げた。
  27. ^ 10日0330、せれべす丸が座礁して駆潜艇46号が残り[284]、第三次輸送部隊から落伍した。

出典

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  301. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94f浜波(はまなみ)
  302. ^ a b #秘海軍公報昭和19年11月(3)、pp.4-5〔内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル〕
  303. ^ a b 戦史叢書54巻 1972, pp. 452–453.
  304. ^ 戦史叢書54巻 1972, p. 454-455水上兵力の漸減
  305. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、p.2〔内令第一六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年一月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「八十島」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「神鷹、」、同敷設艦ノ部中「、厳島」ヲ削ル 驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、萩風」ヲ、同「卯月型 卯月、夕月」ヲ、初雪型ノ項中「曙、」ヲ、同初春型ノ項中「初春、」ヲ、同満潮型ノ項中「満潮、朝雲、山雲、」ヲ、同不知火型ノ項中「、浦風」「、野分」ヲ、同夕雲型ノ項中「長波、濱波、沖波、岸波」「、早霜、秋霜」ヲ、同秋月型ノ項中「、若月、霜月」ヲ、同「島風」ヲ削ル(以下略)〕
  306. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、pp.8-10〔内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 厳島/呉鎮守府在籍 軍艦 八十島/舞鶴鎮守府在籍 軍艦 神鷹/右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、驅逐艦 満潮、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月/呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風、驅逐艦 島風/佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風、驅逐艦 卯月、驅逐艦 夕月、驅逐艦 初春/舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波、驅逐艦 濱波、驅逐艦 沖波、驅逐艦 岸波/右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣〕
  307. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、p.7〔昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル〕
  308. ^ 昭和17年5月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第863号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072085500 で閲覧可能。
  309. ^ a b 昭和17年7月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第892号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072086200 で閲覧可能。
  310. ^ a b 昭和18年11月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1267号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072094500 で閲覧可能。
  311. ^ 昭和19年12月15日付 秘海軍辞令公報 甲 第1669号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072102300 で閲覧可能。

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