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'''サロン・ド・パリ'''({{Lang-fr|Salon de Paris}})は、フランスの[[王立絵画彫刻アカデミー]]が18世紀に[[パリ]]で開催するようになった公式美術展覧会。その後、フランスの政体が変わりながらも[[1880年]]までアカデミーまたは政府によって開催され、'''官展'''ともいう。[[1881年]]以降は、{{仮リンク|フランス芸術家協会|en|Société des Artistes Français}}が開催する民間のサロンに引き継がれた。 |
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[[ファイル:Edouard Dantan Un Coin du Salon en 1880.jpg|thumb|right|280px|{{仮リンク|エドワール・ジョゼフ・ダンタン|de|Édouard Joseph Dantan}}が描いた1880年のサロンの風景]] |
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'''サロン'''({{Lang|fr|Salon}})または'''サロン・ド・パリ'''({{Lang|fr|Salon de Paris}})は、[[1725年]]に始まった、[[フランス]]、[[パリ]]の[[芸術アカデミー]]の公式[[展覧会]]の開催当時の総称。[[1748年]]から[[1890年]]まで年1回ないしは2回開かれる世界的な芸術のイベントだった。当初は「'''官展'''」だったが、[[1881年]]以降は{{仮リンク|フランス芸術家協会|en|Société des Artistes Français}}によって運営される公募展としてその名をル・サロンに変えている。現在は、サロンまたはサロン・ド・パリの名は、単に「パリにおける展示会」のことを意味し、特定のサロン展を意味する言葉ではないので、固有名詞としてこの語は存在しない。 |
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== 概要 == |
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サロンの起源は、[[王立絵画彫刻アカデミー]]が、正会員と準会員の作品を展示する展覧会を開いたことにあり、[[1737年]]([[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の時代)以降、ほぼ定期的に、[[ルーヴル宮殿]]のサロン・カレ(方形の間)で開いて一般市民が無料で観覧できるようにしたことから、「サロン」と呼ばれるようになった。当初はほぼ毎年、[[1751年]]からは隔年の開催である。当時は[[ロココ]]美術全盛の時代であり、[[フランソワ・ブーシェ]]らが活躍していた。[[1745年]]、ロココ美術の余りに官能的な描写の氾濫に対する危惧もあって、アカデミーの改革が行われ、不適切な作品は投票で排除するというサロンの審査制度が明確化された。18世紀後半になると、徐々に[[新古典主義]]的な作品が奨励されるようになり、[[1785年]]のサロンに[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]が『[[ホラティウス兄弟の誓い]]』を出品したことで、新古典主義は完成の域に達した。 |
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[[1673年]]、{{仮リンク|王立絵画・彫刻アカデミー|en|Académie de peinture et de sculpture}}が、[[ルーヴル宮殿]]の一室である方形の間(サロン・カレ)で最初の半公共的な美術展を開催した。この美術展の目的は、[[ジュール・マザラン]]枢機卿が1648年に設立した美術学校[[エコール・デ・ボザール]]を卒業したばかりの芸術家たちの作品を展示することだった。[[1725年]]に、ルーヴル宮殿で開かれた時から、美術展は「サロン」もしくは「サロン・ド・パリ」として知られるようになった。[[1737年]]、サロンは公共の展覧会になり、最初は年1回、その後、奇数年には年2回開催されるようになった。開催日は[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の[[聖名祝日]]([[8月25日]])から数週間だった。定期的かつ公共的に開かれるようになって、[[1748年]]から審査員制度が導入され、出展の可否を決めた。この時からサロンはフランス文化に強い影響力を及ぼすに至った。サロンでの展示は芸術家にとってフランス国内での成功を成し遂げたことを意味し、それは少なくとも200年間は続いた。 |
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[[1789年]]にフランス革命が起きると、サロンに出品できるのはアカデミーの正会員と準会員に限られないことになり、公募制がとられた。当初は無審査の自由サロンであったが、出品数の激増によって運営が困難になったことから、[[1798年]]から審査制度が行われた。審査制度が行われたことによって、画家たちはアカデミーの主流である新古典主義に沿った作品を提出しようとし、19世紀を通じて、新古典主義はサロンの規範となった。新古典主義の正統を受け継いだのが、[[1824年]]のサロンで『ルイ13世の誓い』が成功した[[ドミニク・アングル]]であった。これに対し、[[テオドール・ジェリコー]]が[[1819年]]のサロンに『[[メデューズ号の筏]]』を出品し、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]が[[1824年]]のサロンに『[[キオス島の虐殺]]』を出品するなど、新古典主義に対立する[[ロマン主義]]の潮流も生まれた。 |
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== 1748年 - 1890年 == |
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[[ファイル:This Year Venuses Again (Daumier).jpg|thumb|left|[[オノレ・ドーミエ]]によるサロンの風刺画『今年もヴィーナス……いつもヴィーナス』(『[[ル・シャリヴァリ]]』No.2、1864年)]] |
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サロンでは絵画を天井から床まで、隙間もないくらいほど、縦に並べて展示した。この展示の仕方はピエトロ・アントニオ・マルティーニの絵<ref>[http://www.artnet.com/Artists/LotDetailPage.aspx?lot_id=896B6E12629A7AFB Pietro Antonio Martini "The exhibition of the Royal Academy"] at artnet</ref>をはじめ、多くの画家たちのテーマになった。サロンのカタログは美術史家たちにとって重要な史料である。[[ガゼット]](新聞、雑誌)に載った展覧会の批評は、[[美術評論家]]の仕事の先駆けとなった。 |
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[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]による[[7月王政]]で、[[1833年]]から、しばらく隔年開催となっていたサロンは毎年開催となり、展示作品を3000点超まで増やすといった改革が行われ、芸術の大衆化が進んだ。新古典主義とロマン主義の中庸派に立つ[[オラース・ヴェルネ]]や[[ポール・ドラローシュ]]も活躍した。 |
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[[フランス革命]]は、外国の芸術家たちに門戸を開放した。[[19世紀]]、公共的なサロンの概念は、「大きな商業的ホールで催され、チケットを持った大衆が招かれる、年1回の政府後援による新作絵画・彫刻の審査による展覧会」に拡張された。初日夜の{{仮リンク|ヴェルニサージュ|en|Vernissage}}(初日、一般公開に先立つ特別招待)は社交界の一大行事で、詰めかけた群衆の図は[[オノレ・ドーミエ]]などの新聞漫画の主題となった。[[シャルル・ボードレール]]などがサロン評を書いた。 |
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2月革命後の短い[[フランス第二共和政|第二共和政]]では、サロンの民主化が行われ、[[1848年]]のサロンは無審査とされたが、玉石混交を招き、[[1849年]]から審査制度が復活した。そうした中、[[ギュスターヴ・クールベ]]や[[ジャン=フランソワ・ミレー]]といった、庶民の生活を描く写実主義(レアリスム)の画家がサロンに登場してきた。 |
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[[1848年革命]]はサロンの制約を解き放った。それまで膨大だった出展拒否の作品が激減し、{{要検証範囲|[[1849年]]からは[[メダル]]も授与された|date=2010年4月|title=1845年にメダルが授与されたという情報源があります}}。 |
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[[ナポレオン3世]]の[[フランス第二帝政|第二帝政]]の時期には、[[ジョルジュ・オスマン]]によるパリ大改造によって、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となり、サロンが社会的行事として定着し、美術批評もさかんになった。画家が作品を売るためには、サロンでの成功が不可欠であった。サロンの審査委員は、画家による選挙と美術行政による任命によって選ばれていたが、結局はアカデミー会員が多くを占めたため、審査は新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに則って行われた。[[1855年]]のサロンは、[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]に吸収されたが、この時から、シャンゼリゼ通りの産業館で開催されるようになった。ただ、既に定着していた「サロン」という名称は残った。[[1863年]]のサロンの審査は特に厳格で、落選者が続出したが、ナポレオン3世の命令で[[落選展]]が開かれた。[[エドゥアール・マネ]]がその落選展で出品した『[[草上の昼食]]』と、[[1865年]]のサロンに出品した『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』は美術界にスキャンダルを巻き起こし、新たな絵画の訪れを告げた。この頃パリに集まった[[クロード・モネ]]や[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]といったバティニョール派と呼ばれる若手画家たちもサロンに応募したが、審査委員にバルビゾン派の画家が入って審査が寛容になった年は、入選を勝ち得たものの、審査が厳格な年は、多くが落選を強いられた。 |
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[[1855年]]のサロンは、[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]の一環として、シャンゼリゼ通りに面して建設された{{仮リンク|産業館|fr|Palais de l'Industrie}}で行われた。その次の1857年以降も、サロンの会場は恒常的に産業館で行われるようになったが、既に定着していた「サロン」という名前は残った<ref>新関 (2000: 141)。</ref>。 |
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[[普仏戦争]]後の[[フランス第三共和政|第三共和政]]の下でも、サロンの審査は保守的であった。これに不満を抱いたバティニョール派の画家たちは、[[1874年]]以降、サロンから独立したグループ展([[印象派]]展)を開くようになった。サロンは、依然として大きな集客力と社会的影響を持ち続けていたが、[[1880年]]を最後に、美術行政とアカデミーとの対立を機に、国家主催のサロンは取りやめられた。 |
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ますます保守的に、[[アカデミック絵画|アカデミック]]になっていった審査員たちは、[[印象派]]の画家たちを受け入れず、そうした作品は拒否されるか、出展を許可されても扱いがひどかった。[[1863年]]、サロンの審査員はおびただしい数の作品を拒絶した。騒動が、とくに拒絶された常連たちから起こった。サロンが民主的なことを示すために、[[ナポレオン3世]]はその年に出展を拒否された全作品を展示する[[落選展]]を開いた。最初の開催は[[1863年]][[5月17日]]で、その日が[[アヴァンギャルド]]誕生の日と言われている。印象派は自分たちで自主展覧会を[[1874年]]、[[1876年]]、[[1877年]]、[[1879年]]、[[1880年]]、[[1881年]]、[[1882年]]、[[1886年]]に開催した。[[エドゥアール・マネ]]は印象派展に一度も出品したことはなく、公式のサロンへの出品を続けた。 |
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その後は、{{仮リンク|フランス芸術家協会|en|Société des Artistes Français}}がサロンを開催したほか、複数の団体がサロンを開催するようになったが、徐々にサロンやアカデミーの権威は低下していった。 |
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== ブルボン朝 == |
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=== 起源 === |
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[[1890年]]12月、フランス芸術家協会のリーダーだった[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]が、ル・サロンは若くてまだ受賞歴のない芸術家たちの展覧会であるべきだという考えを提案した。しかし、{{仮リンク|ジャン=ルイ=エルネスト・メッソニエ|en|Jean-Louis-Ernest Meissonier}}、[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]]、[[オーギュスト・ロダン]]などがこれに反発し、分離派を作った。[[国民美術協会 (フランス)|国民美術協会]](ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)を結成し、独自の展覧会を開催し、それはまもなく([[1899年]]以降)、「国民美術協会サロン展」、略称「シャン・ド・マルス展(Salon du Champs de Mars)」と名付けられた。一方、フランス芸術家協会が開催するサロン(ル・サロン展)はその後も引き続き開催され、現在に至っている。 |
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フランスで[[王立絵画彫刻アカデミー]]が設立されたのは、[[ブルボン朝]]の[[アンヌ・ドートリッシュ]]摂政時代の[[1648年]]であった。これを主導したのは画家[[シャルル・ルブラン]]であり、それまでの同業者組合に代わり、作品の受注・制作と職業養成を行おうとするもので、絵画と彫刻の社会的地位の向上を目指していた。[[1651年]]にアカデミーは同業者組合との合併を余儀なくされたが、[[1655年]]、[[ジュール・マザラン]]の保護の下、再び独立し、国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]から公的な教育と講演の独占の権利など、特権を与えられた<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 343-46)]]。</ref>。アカデミーは、[[1667年]]に[[パレ=ロワイヤル]]中庭で初めて公式の展覧会を開催し、以後、[[1687年]]まで断続的に行われてしばらく中断した。[[1699年]]に{{仮リンク|フランソワ・ジラルドン|en|François Girardon}}の『ルイ14世騎馬像』除幕式典の関連事業として、[[ルーヴル宮殿]]大ギャラリーで展覧会が開催されたことを機に、再開された<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 362)]]。</ref>。 |
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[[1737年]]、アカデミーが、ルーヴル宮殿のサロン・カレ(方形の間。当時はグラン・サロンと呼ばれていた)で、一般市民が無料で観覧できる展覧会を開き、以後、ほぼ毎年、開催するようになった。そのことからサロンと呼ばれるようになった。サロンに出品できるのは、アカデミーの正会員と準会員だけであった。[[1751年]]からは隔年の開催となった<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 530)]]。</ref>。当時、王侯貴族以外にも美術を楽しむ層が拡大しており、公衆が美術を鑑賞できる場としてサロンが求められ、また、美術家の側も、自分の作品を公開することで顧客を掘り起こすことができるというメリットがあった。また、サロンの定期的開催によって、美術の専門家ではない文学者や思想家による美術批評も広がっていき、美術家はそれを無視できなくなっていった<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 614)]]。</ref>。 |
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[[1903年]]には、ル・サロン展および国民美術協会サロン展が官僚的・保守的な組織と感じた当時の芸術家たちに応えて、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]およびオーギュスト・ロダンに率いられた画家・彫刻家たちのグループが[[サロン・ドートンヌ]]を組織した。 |
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=== 1737年 === |
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18世紀のフランスは、[[アントワーヌ・ヴァトー]]の後を継ぐ[[ロココ]]美術全盛の時代であり、[[フランソワ・ブーシェ]]、{{仮リンク|シャルル=ジョゼフ・ナトワール|en|Charles-Joseph Natoire}}、{{仮リンク|シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー|en|Charles-André van Loo}}(カルル・ヴァン・ロー)といった画家が活躍していた<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 607-10)]]。</ref>。その背景には、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の時代、国王権力の絶対性が弱まり、貴族がパリのブルジョワ的な生活に親しんだ結果、感性や恋愛を重視する美術が好まれたことがある<ref>[[#木村|木村 (2012: 66-67)]]。</ref>。 |
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ファイル:Charles André van Loo - The Grand Turk Giving a Concert to his Mistress - WGA13428.jpg|{{仮リンク|シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー|en|Charles-André van Loo}}『恋人にコンサートを聞かせるトルコの太守』1737年。油彩、キャンバス、72.5 × 91 cm。[[ウォレス・コレクション]]<ref>{{Cite web |url=http://wallacelive.wallacecollection.org/eMuseumPlus?service=ExternalInterface&module=collection&objectId=65385&viewType=detailView |title=The Grand Turk giving a Concert to his Mistress |publisher=The Wallace Collection |accessdate=2018-01-04}}</ref>。 |
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=== 1738年 === |
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18世紀、肖像画は、歴史画に次いで格の高いジャンルとされており、[[ジャン=マルク・ナティエ]]、{{仮リンク|ルイ・トッケ|en|Louis Tocqué}}、[[モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール]]、{{仮リンク|ジョセフ・アヴェド|en|Jacques Aved}}といった肖像画家が活躍した<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 142-46)]]。</ref>。 |
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ファイル:Madame d'Antin par Nattier.jpg|[[ジャン=マルク・ナティエ]]『[[:fr:Portrait de Mathilde de Canisy, marquise d'Antin|Mathilde de Canisy, Marquise d'Antinの肖像]]』1738年。油彩、キャンバス、118 × 96 cm。[[ジャックマール=アンドレ美術館]]。 |
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=== 1739年 === |
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=== 1740年 === |
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[[ジャン・シメオン・シャルダン]]は、享楽的なブーシェの作品とは対照的に、厳しい造形の静物画や肖像画を制作した。1737年以降のサロンにも毎回出品し、展覧会の展示係を任されていた<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 150)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jean Siméon Chardin - The Prayer before Meal - WGA04768.jpg|[[ジャン・シメオン・シャルダン]]『食前の祈り』油彩、キャンバス、49 × 41 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/chardin/2/05praye.html |title=The Prayer before Meal |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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=== 1741年 === |
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ジョセフ・アヴェドは、1734年、肖像画家としてアカデミー会員となり、[[1741年]]のサロンに出品した『クロザ婦人』の肖像画など、緻密な表現で知られる<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 146)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jacques Aved - Madame Crozat - WGA01064.jpg|{{仮リンク|ジョセフ・アヴェド|en|Jacques Aved}}『クロザ夫人』油彩、キャンバス、138.5 × 105 cm。[[ファーブル美術館]]。 |
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=== 1742年 === |
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ファイル:Boucher Diane sortant du bain Louvre 2712.jpg|[[フランソワ・ブーシェ]]『水浴のディアナ』1742年。57 × 73 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/oeuvre-notices/diane-sortant-du-bain |title=Diane sortant du bain |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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ファイル:Mercure – Jean-Baptiste Pigalle – Musée du Louvre, MR 1957 – Q19405388.jpg|{{仮リンク|ジャン=バティスト・ピガール|en|Jean-Baptiste Pigalle}}『メルクリウス』1744年。大理石、58 × 35 × 33 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=car_not_frame&idNotice=4402 |title=Mercure |publisher=Louvre |accessdate=2017-12-31}}</ref>(1742年サロンに展示されたのはこのテラコッタ像)。 |
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=== 1743年 === |
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=== 1745年 === |
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18世紀半ば、{{仮リンク|ルノルマン・ド・トゥルヌエム|en|Charles François Paul Le Normant de Tournehem}}によるアカデミーの改革が行われ、[[1745年]]以降、サロンの審査制度が明確化された。アカデミー院長以下15人の歴史画家を中心とする19人の委員が、ルーヴル宮殿のアポロンの間で出品作の審査をし、不適切な作品を投票で排除するというものであった<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 610-12)]]。</ref>。 |
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審査制度が始まった背景には、ロココ美術が頂点を迎える中、度の過ぎた官能的描写が氾濫していることへの危惧があったと考えられる<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 600-01)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jean-Marc Nattier - The Duchesse de Chaulnes Represented as Hebe - WGA16451.jpg|[[ジャン=マルク・ナティエ]]『ヘベに扮したショーヌ公爵夫人』1744年。油彩、キャンバス、144 × 110 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE002110 |title=LA DUCHESSE DE CHAULNES, REPRESENTEE EN HEBE (1718-1787) |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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=== 1746年 === |
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[[1746年]]のサロンを機に、文芸愛好家{{仮リンク|ラ・フォン・ド・サン=チエンヌ|en|Étienne La Font de Saint-Yenne}}が『フランス絵画の現状に関する考察および1746年のサロン出品作の検証』という書物を発表し、大きな議論を巻き起こした。ラ・フォンは、[[フランソワ・ブーシェ]]やシャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(カルル・ヴァン・ロー)といった[[ロココ]]美術の主導者を、古典主義から逸脱するものとして批判し、シャルダンやヴェルネに賛辞を送った。アカデミーに属さない非専門家によるこうした美術批評に対しては、アカデミー関係者から強い反発があった<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 644-45)]]。</ref>。 |
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=== 1747年 === |
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ファイル:BoucherFrancois Europe.jpg|[[フランソワ・ブーシェ]]『エウロペの掠奪』1747年。油彩、キャンバス、160.5 × 193.5 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE000189 |title=L'enlèvement d'Europe |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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ファイル:Carle Van Loo - Marie Leszczinska, reine de France (1703-1768) - Google Art Project.jpg|{{仮リンク|シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー|en|Charles-André van Loo}}『王妃[[マリー・レクザンスカ]]』274 × 193 cm。[[ヴェルサイユ宮殿]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE012939 |title=MARIE LECZINSKA, REINE DE FRANCE (1703-1768) |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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=== 1748年 === |
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=== 1750年 === |
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=== 1751年 === |
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=== 1753年 === |
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ファイル:Jean d'Alembert.jpeg|[[モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール]]『[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]の肖像』1753年。パステル、55 × 45.8 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://arts-graphiques.louvre.fr/detail/oeuvres/0/16191-Portrait-de-dAlembert |title=Portrait de d'Alembert |publisher=Musée du Louvre, Département des Arts graphiques |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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=== 1755年 === |
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[[ジャン=バティスト・グルーズ]]は、ロココから新古典主義的な世界に移行する時代に脚光を浴びた画家であり、[[1755年]]のサロンで『聖書を説明する父親』などの作品で賞賛された<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 158)]]。</ref>。 |
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ファイル:Pompadour6.jpg|[[モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール]]『ポンパドゥール夫人の肖像』1755年。パステル、177 × 130 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/full-length-portrait-marquise-de-pompadour |title=Full-length portrait of the Marquise de Pompadour |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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ファイル:Lecture de la Bible (Greuze, Louvre).jpg|[[ジャン=バティスト・グルーズ]]『聖書を説明する父親』1755年。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/reading-bible-jean-baptiste-greuze |title=Reading the Bible |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2018-01-07}}</ref>。 |
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=== 1757年 === |
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ファイル:François Boucher - Les Forges de Vulcain (1757).JPG|[[フランソワ・ブーシェ]]『ウルカヌスの鍛冶場』1757年。油彩、キャンバス、320 × 320 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE000196 |title=Les forges de Vulcain ou Vulcain présentant à Vénus des armes pour Enée |publisher=Joconde |accessdate=2018-01-07}}</ref>。 |
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=== 1759年 === |
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=== 1761年 === |
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グルーズは、イタリア留学から帰国後の[[1761年]]のサロンで、『村の花嫁』によって名声を確立した<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 158)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jean-Baptiste Greuze L'accordee de VillageFXD.jpg|[[ジャン=バティスト・グルーズ]]『村の花嫁』1761年。油彩、キャンバス、92 × 117 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE001363 |title=L'ACCORDEE DE VILLAGE |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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=== 1763年 === |
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[[1763年]]のサロンでは、[[ジョセフ=マリー・ヴィアン]]が、古代ギリシャ趣味の『アモルを売る女』を出品して注目を浴びた。18世紀前半から始まった[[ヘルクラネウム]]や[[ポンペイ]]の発掘で古代への関心が高まる中、ヴィアンのギリシャ趣味は、新古典主義を先取りするものであった<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 646-48)]]。</ref>。 |
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ファイル:Joseph Vernet - Shepherd in the Alps - WGA24738.jpg|[[クロード・ジョセフ・ヴェルネ]]『[[アルプスの羊飼いの娘]]』1763年。油彩、キャンバス。[[トゥール美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/v/vernet/claude/shepherd.html |title=Shepherd in the Alps |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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ファイル:Joseph-Marie Vien - La Marchande d'Amours - WGA25067.jpg|{{仮リンク|ジョセフ=マリー・ヴィアン|en|Joseph-Marie Vien}}『アモルを売る女』1763年。油彩、キャンバス、117 × 140 cm。フォンテーヌブロー宮殿美術館。 |
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=== 1765年 === |
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[[1765年]]のサロンには、ローマ留学から帰国したフラゴナールが、アカデミー準会員となるため、『コレシュスとカリロエ』を出品した。この作品は、ディドロから賞賛された。しかし、フラゴナールは、1767年のサロンを最後に出品をやめた<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 654-55)]]。</ref>。 |
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ファイル:Fragonard coresus sacrificing himselt to save callirhoe.jpg|[[ジャン・オノレ・フラゴナール]]『コレシュスとカリロエ』1765年。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=car_not_frame&idNotice=10883&langue=en |title=The High Priest Coresus Sacrifices Himself to Save Callirhoe |publisher=Atlas database |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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=== 1767年 === |
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[[ファイル:Salon 1767.jpg|thumb|right|1767年のサロンの様子。]] |
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[[1767年]]のサロンには、ローマから帰国した[[ユベール・ロベール]]が『ローマの港』を出品した。ロベールは、この作品で、一気にアカデミーの準会員・正会員となるという異例の待遇を受け、サロンでも好評を博した。ディドロは、この作品について、色彩と技巧を賞賛する一方、魂を打つ力はないと手厳しい批評をしている<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 658-59)]]。</ref>。 |
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ファイル:Hubert Robert - View of Ripetta - WGA19603.jpg|{{仮リンク|ユベール・ロベール|en|Hubert Robert}}『ローマの港』1866年。油彩、キャンバス、119 × 145 cm。{{仮リンク|パリ国立美術学校|en|École nationale supérieure des Beaux-Arts}}。 |
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ファイル:Van Loo - Denis Diderot (1767).jpg|ヴァン・ロー『[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の肖像』油彩、キャンバス、71 × 65 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE002831 |title=Denis Diderot |publisher=Joconde |accessdate=2018-01-07}}</ref>。 |
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=== 1769年 === |
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[[1769年]]のサロンでは、[[ジャン=バティスト・グルーズ]]が歴史画家としての承認を求めて『セプティミウス・セウェルス帝とカラカラ』を出品したが、歴史画家としてのアカデミー入会は認められず、風俗画家としての入会となった。[[ドゥニ・ディドロ]]からは、サロン評で「グルーズは自分の領分を放棄した。自然の熱心な研究者である彼は、歴史画が必要とする誇張の域に達することができなかった」と批判された<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 650-51)]]。</ref>。これ以後、グルーズは、フランス革命までの時期にはサロンに出品しなくなった。既に名声を得ていたグルーズにとっては、市民層のために制作を続ければ経済的に成り立つため、名誉が得られないのであればサロンに出品する必要はなかった<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 159-60)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jean-Baptiste Greuze - Septimius Severus and Caracalla - WGA10673.jpg|[[ジャン=バティスト・グルーズ]]『セプティミウス・セウェルス帝とカラカラ』1869年。油彩、キャンバス、124 × 160 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/greuze/septimiu.html |title=Septimius Severus and Caracalla |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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=== 1771年 === |
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=== 1773年 === |
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=== 1775年 === |
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[[1774年]]に[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]が即位した。この頃から、啓蒙主義・合理主義の潮流が勢いを増し、美術界においても、[[ロココ]]から、古代ギリシャを模範に普遍的な理想美を追求する[[新古典主義]]への転換が本格的に起こってきた<ref>[[#木村|木村 (2012: 71)]]。</ref>。 |
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=== 1777年 === |
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王室建造物局総監を継いだ{{仮リンク|ダンジヴィレ伯爵|en|Charles-Claude Flahaut de la Billaderie}}と国王首席画家・アカデミー院長{{仮リンク|ジャン=バティスト・マリー・ピエール|en|Jean-Baptiste Marie Pierre}}は、「大様式」と呼ばれる古典主義的な歴史画の再興を図った。[[1775年]]、アカデミーで、歴史画と偉人の大理石彫像の制作を奨励し、完成作は買い取るとともにサロンに展示するという方針が発表された。これを受けて、[[1777年]]から[[1789年]]にかけてのサロンで奨励制作の作品が発表された<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 661)]]。</ref>。 |
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=== 1779年 === |
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[[1779年]]のサロンには、ダヴィッドのライバルである[[フランソワ=アンドレ・ヴァンサン]]が、第2回奨励制作として、[[フロンドの乱]]で母后[[アンヌ・ドートリッシュ]]と[[高等法院 (フランス)|高等法院]]との和解に努めたモレの愛国的行為を描いた作品を提出し、賞賛を浴びた<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 666)]]。</ref>。 |
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ファイル:Le Président Molé saisi par les factieux au temps des guerres de la Fronde.jpg|{{仮リンク|フランソワ=アンドレ・ヴァンサン|en|François-André Vincent}}『高等法院長モレと反徒たち』1779年。油彩、キャンバス、325 × 325 cm。[[ブルボン宮殿]]。 |
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=== 1781年 === |
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[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]は、1780年のローマ留学から帰国し、『施しを受けるベリサリウス』でアカデミー準会員になって、[[1781年]]のサロンにこれを出展した。この作品は、「フランスで真に[[新古典主義]]と呼べる最初の大作」だと賞賛された<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 663-64)]]。</ref>。メナジョの『レオナルドの死』は、第3回奨励制作による作品であり、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]を庇護した[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]を称揚するものである<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 667-68)]]。</ref>。 |
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ファイル:David - Belisarius.jpg|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]『施しを受けるベリサリウス』1781年。油彩、キャンバス、288 × 312 cm。{{仮リンク|リール美術館|en|Palais des Beaux-Arts de Lille}}<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=00000099963 |title=Bélisaire demandant l'aumône |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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ファイル:François-Guillaume Ménageot - The Death of Leonardo da Vinci in the Arms of Francis I - WGA15025.jpg|{{仮リンク|フランソワ=ギヨーム・メナジョ|en|François-Guillaume Ménageot}}『レオナルドの死』1781年。油彩、キャンバス、278 × 357 cm。[[アンボワーズ]]市庁舎<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/m/menageot/death_le.html |title= The Death of Leonardo da Vinci in the Arms of Francis I |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1783年 === |
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ダヴィッドは、1783年のサロンで、奨励制作よりもアカデミー入会作品を優先させ、『アンドロマケの悲嘆』を出展してアカデミー正会員になった<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 664)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jacques-Louis David - Andromache Mourning Hector - WGA6050.jpg|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]『アンドロマケの悲嘆』1783年。油彩、キャンバス、275 × 203 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/david_j/1/113david.html |title=Andromache Mourning Hector |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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ファイル:Clodion Montesquieu.jpg|{{仮リンク|クロード・ミシェル|en|Claude Michel}}(クローディオン)『[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]像』1783年(石膏像は1779年サロン)。大理石、H 164 × 122 × 122 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://cartelfr.louvre.fr/cartelfr/visite?srv=car_not_frame&idNotice=2524 |title=Charles de Secondat, baron de Montesquieu (1689 - 1755) Série des « Grands Hommes de la France » |publisher=Atlas database |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1785年 === |
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[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]が[[1785年]]のサロンに展示した『[[ホラティウス兄弟の誓い]]』は、[[新古典主義]]の理念の結晶といえる作品である<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 663)]]。</ref>。ダヴィッドのライバル、ピエール・ペイロンも、第5回奨励制作として『アルケスティスの死』を展示し、サロンで賞賛を浴びた<ref>[[#歴史6|大野・中村・宮下・望月 (2016: 666)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jacques-Louis David, Le Serment des Horaces.jpg|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]『[[ホラティウス兄弟の誓い]]』1784年。油彩、キャンバス、330 × 425 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/oath-horatii |title=The Oath of the Horatii |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-23}}</ref> |
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ファイル:Jean-François-Pierre Peyron - Alceste mourante - WGA17394.jpg|{{仮リンク|ジャン=フランソワ・ピエール・ペイロン|en|Jean-François Pierre Peyron}}『アルケスティスの死』1785年。油彩、キャンバス、327 × 325 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/p/peyron/alceste.html |title=Alceste mourante |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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ファイル:Adélaïde Labille-Guiard - Self-Portrait with Two Pupils - WGA12365.jpg|[[アデライド・ラビーユ=ギアール]]『2人の生徒といる自画像』1785年。油彩、キャンバス、211 × 151 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/l/labille/selfport.html |title=Self-Portrait with Two Pupils |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1787年 === |
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[[ファイル:Salon du Louvre 1787.jpg|thumb|right|1787年のサロンの様子。]] |
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ファイル:Jacques-Louis David - The Death of Socrates - Google Art Project.jpg|ダヴィッド『[[ソクラテスの死]]』1787年。油彩、キャンバス、129.5 × 196.2 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436105 |title=The Death of Socrates |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-12-23}}</ref>。 |
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=== 1789年 === |
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ファイル:The Lictors Returning To Brutus The Bodies Of His Sons.jpg|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]『ブルートゥスの邸に息子の遺骸を運ぶ警吏たち』1789年。油彩、キャンバス、323 × 422 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/david_j/2/208david.html |title=The Lictors Returning to Brutus the Bodies of his Sons |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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ファイル:François-André Vincent - Zeuxis Choosing his Models for the Image of Helen from among the Girls of Croton - Google Art Project.jpg|{{仮リンク|フランソワ=アンドレ・ヴァンサン|en|François-André Vincent}}『ゼウクシスとクロトンの娘たち』1789年。油彩、キャンバス、323 × 415 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/oeuvre-notices/zeuxis-choisissant-pour-modeles-les-plus-belles-filles-de-crotone |title=Zeuxis choisissant pour modèles les plus belles filles de Crotone |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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== フランス革命期 == |
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=== 1791年 === |
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[[1791年]]、[[フランス革命]]の「自由と平等」のスローガンの下、無審査で誰もが出品できる自由サロンが開催され、[[1798年]]に再び審査制度がとられるまで続いた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 50)]]。</ref>。アンシャン・レジーム期と異なり、サロンに出品することができるのはアカデミーの正会員と準会員に限られるわけではなく、公募制になった<ref>[[#木村|木村 (2012: 82)]]。</ref>。 |
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=== 1793年 === |
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[[1793年]]、[[国民公会]]で、[[王立絵画彫刻アカデミー]]が旧体制の特権階級とみなされ、その廃止が決定された。サロンの審査に不満を抱いていたダヴィッドも、アカデミーの廃止運動を主導した<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 50)]]。</ref>。この年のサロンでは、ダヴィッドの弟子ジロデ=トリオゾンが、5年のイタリア留学時代に制作した『エンデュミオーンの眠り』を出品し、反響を呼んだ<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 78)]]。</ref>。 |
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ファイル:Girodet - Sommeil Endymion.jpg|{{仮リンク|アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン|en|Anne-Louis Girodet de Roussy-Trioson}}『{{仮リンク|エンデュミオーンの眠り|fr|Le Sommeil d'Endymion}}』1791年。198 × 261 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/sleep-endymion |title=The Sleep of Endymion |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-23}}</ref>。 |
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=== 1795年 === |
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[[1795年]]、廃止されたアカデミーに代わって、[[フランス学士院]]が設置され、ダヴィッド、{{仮リンク|フランソワ=アンドレ・ヴァンサン|en|François-André Vincent}}、{{仮リンク|ジャン=バティスト・ルニョー|en|Jean-Baptiste Regnault}}らが終身会員に就いた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 51)]]。</ref>。 |
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ファイル:Adélaide Labille-Guiard 001.jpg|[[アデライド・ラビーユ=ギアール]]『{{仮リンク|フランソワ=アンドレ・ヴァンサン|en|François-André Vincent}}の肖像』1795年。油彩、キャンバス、73 × 59 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE001643 |title=LE PEINTRE FRANCOIS ANDRE VINCENT (1746-1816) |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1796年 === |
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ファイル:Louvre-peinture-francaise-p1020324.jpg|{{仮リンク|ユベール・ロベール|en|Hubert Robert}}『廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図』1796年。油彩、キャンバス、115 × 145 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/oeuvre-notices/vue-imaginaire-de-la-grande-galerie-du-louvre-en-ruines |title=Vue imaginaire de la Grande Galerie du Louvre en ruines |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2018-01-07}}</ref>。 |
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=== 1798年 === |
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無審査の自由サロンは、出品数の激増によって運営が困難になり、[[1798年]]、審査制度が採用された<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 50)]]。</ref>。このことで、画家たちは、審査に通るため、アカデミーの主流である新古典主義に沿った作品を制作しようという傾向が強まった<ref>[[#木村|木村 (2012: 82)]]。</ref>。この年のサロンでは、ダヴィッドの弟子[[フランソワ・ジェラール]]が出品した『アモーレとプシュケ』が議論を巻き起こした<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 77)]]。</ref>。 |
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ファイル:Gerard FrancoisPascalSimon-Cupid Psyche end.jpg|{{仮リンク|フランソワ・ジェラール|en|François Gérard}}『アモーレとプシュケ』油彩、キャンバス、186 × 132 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/cupid-and-psyche-0 |title=Cupid and Psyche |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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=== 1799年 === |
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[[1799年]]のサロンには、ダヴィッドの弟子ゲランが、古代ローマのマルクス・セクストゥスが帰郷して妻の死に直面する場面を描いた『マルクス・セクストゥスの帰還』を出品した。執政政府の時代に、亡命先から帰国してきたフランスの貴族たちは、この作品に自分たちを重ね合わせた。ゲランは、この作品の評判によって、師ダヴィッドをしのぐ名声を得た<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 80)]]。</ref>。 |
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ファイル:The Return of Marcus Sextus 1799 Pierre-Narcisse Guérin.jpg|{{仮リンク|ピエール=ナルシス・ゲラン|en|Pierre-Narcisse Guérin}}『{{仮リンク|マルクス・セクストゥスの帰還|fr|Le Retour de Marcus Sextus}}』217 × 243 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://cartelfr.louvre.fr/cartelfr/visite?srv=car_not_frame&idNotice=22751 |title=Le Retour de Marcus Sextus |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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=== 1800年 === |
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ファイル:Marie-Guillemine Benoist - portrait d'une negresse.jpg|{{仮リンク|マリー=ギエルミーヌ・ブノワ}}『黒人女性の肖像』65 × 81 cm。[[ルーヴル美術館]]。 |
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=== 1801年 === |
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=== 1802年 === |
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ジロデが、戦死したナポレオンの将軍たちの霊が天国で詩人オシアンに迎えられるという場面を描いた『自由を求める戦いにおいて祖国のために死んだフランスの英雄たちの称揚』を出品した<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 78)]]。</ref>。 |
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ファイル:Anne-Louis Girodet-Trioson 001.jpg|ジロデ『自由を求める戦いにおいて祖国のために死んだフランスの英雄たちの称揚』192 × 182 cm。[[マルメゾン城|マルメゾン国立美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=00000095087 |title=Apothéose des héros français morts pour la patrie pendant la guerre de la liberté ; hommage offert à Napoléon Bonaparte |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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== 第一帝政 == |
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[[ナポレオン・ボナパルト]]は、[[1804年]]、皇帝の座に就き、[[フランス第一帝政]]を始めた。この時代は、美術が新しい皇帝と帝国のための政治的プロパガンダに利用されたことが特徴である<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 67)]]。</ref>。 |
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=== 1804年 === |
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ファイル:Antoine-Jean Gros - Bonaparte visitant les pestiférés de Jaffa.jpg|[[アントワーヌ=ジャン・グロ|ジャン・グロ]]『{{仮リンク|ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト|en|Bonaparte Visiting the Plague Victims of Jaffa}}』1804年。523 × 715 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/napoleon-bonaparte-visiting-plague-stricken-jaffa |title=Bonaparte Visiting the Victims of the Plague at Jaffa |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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=== 1806年 === |
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ファイル:Antoine-Jean Gros - Bataille d'Aboukir, 25 juillet 1799 - Google Art Project.jpg|グロ『[[アブキールの戦い (1799年)|アブキールの戦い]]』1806年。油彩、キャンバス、578 × 968 cm。[[ヴェルサイユ宮殿]]<ref>{{Cite web |url=https://www.google.com/culturalinstitute/beta/asset/5QFn7EGYfn1ncA |title=Battle of Aboukir, 25 July 1799 |publisher=Google Arts & Culture |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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=== 1808年 === |
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ナポレオン戴冠式の直後、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]が皇帝の首席画家に就任し、1805年末に着手した『[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠]]』を1808年のサロンで発表した。画面の中で空間が完結せずに視線が列席者たちに次々誘導される構図は、伝統的な歴史画からは外れるものであったが、ナポレオンは、その迫真性を喜んだ<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 70-71)]]。</ref>。 |
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プリュードンは、『プシュケーの誘拐』で、ロココの優美さを受け継ぎながら、後の[[ロマン派]]につながる感情表現を示している<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 185)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|ダヴィッド『[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠]]』1806-07年。油彩、キャンバス、621 × 979 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/consecration-emperor-napoleon-and-coronation-empress-josephine-december-2-1804 |title=The Coronation of the Emperor Napoleon I and the Crowning of the Empress Joséphine in Notre-Dame Cathedral on December 2, 1804 |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-23}}</ref>。 |
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ファイル:The Intervention of the Sabine Women.jpg|ダヴィッド『[[サビニの女たち]]』1799年。385 × 522 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE000827 |title=Les Sabines |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:Antoine-Jean Gros - Napoleon on the Battlefield of Eylau - Google Art Project.jpg|グロ『アイラウの戦場におけるナポレオン』1808年。521 × 784 cm。ルーヴル美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/napoleon-battlefield-eylau |title=Napoleon on the Battlefield at Eylau |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:Atala au tombeau,1808,Girodet de Roussy -Trioson, Louvre..JPG|アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン『アタラの埋葬』207 × 267 cm。ルーヴル美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/entombment-atala |title=The Entombment of Atala |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-23}}</ref>。 |
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ファイル:Pierre-Paul Prud'hon 003.jpg|[[ピエール=ポール・プリュードン]]『プシュケーの誘拐』油彩、キャンバス、195 × 157 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE002245 |title=L'ENLEVEMENT DE PSYCHE |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-31}}</ref>。 |
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=== 1810年 === |
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=== 1812年 === |
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== 復古王政 == |
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=== 1814年 === |
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[[1814年]]、ナポレオンが皇帝を退位し、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が即位して[[フランス復古王政]]が始まった。ダヴィッドは亡命を余儀なくされたが、彼の弟子たちが古典主義の美学を堅持していた。ルイ18世は、1816年に学士院を改組して美術アカデミーの名称を復活させた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 110-13)]]。</ref>。 |
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=== 1817年 === |
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=== 1819年 === |
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[[テオドール・ジェリコー]]が、[[1816年]]に発生したフランス海軍のメデュース号の難破事件を題材とした『[[メデューズ号の筏]]』を出品し、大きな議論を呼び起こした。同時代の社会的事件を大きな画面で描く姿勢は、[[ロマン主義]]の産声といえる<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 114-16)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jean Auguste Dominique Ingres, La Grande Odalisque, 1814.jpg|[[ドミニク・アングル|アングル]]『[[グランド・オダリスク]]』1814年。91 × 162 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/une-odalisque |title=La Grande Odalisque |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:JEAN LOUIS THÉODORE GÉRICAULT - La Balsa de la Medusa (Museo del Louvre, 1818-19).jpg|[[テオドール・ジェリコー]]『[[メデューズ号の筏]]』491 × 716 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/raft-medusa |title=The Raft of the Medusa |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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=== 1822年 === |
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[[1822年]]、[[オラース・ヴェルネ]]は、納得し難い政治的理由で落選した作品をまとめて、自分のアトリエで展示した。これは19世紀最初の個展の先駆けといえる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 293)]]。</ref>。 |
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=== 1824年 === |
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[[ファイル:Francois-Joseph Heim 001.jpg|thumb|right|1824年のサロンの様子。]] |
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[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]が『[[キオス島の虐殺]]』を出品した。[[ギリシャ独立戦争]]中の[[1822年]]に[[ヒオス島|キオス島]]で[[オスマン・トルコ]]により実行された虐殺事件を描いた作品で、[[1824年]]のサロンでは『キオス島の虐殺からの一場面――死、あるいは奴隷となる運命を待つ家族――数々の解説や今日の新聞を見よ』という時事的な見出しが付けられ、ギリシャへの救援を訴えるメッセージに多くの観衆が共感した。他方で、グロからは「絵画の虐殺」と批判され、ドラクロワは失望した。この年のサロンには、[[オラース・ヴェルネ]]の『モンミライユの戦い』も出品された。[[スタンダール]]は、サロン評で、ダヴィッドの一派は終わった、現代の新しい絵画は魂を表現し、人の感情に訴えるべきだと書いた。こうした1824年のサロンは、「ロマン主義のサロン」と言われる<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 117-19)]]。</ref>。 |
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一方、[[ドミニク・アングル]]は、[[1806年]]以来イタリアに滞在していたが、4年をかけて『ルイ13世の誓い』を完成させ、サロンに出品した。この作品で高い評価を受けたことから、アングルは[[1825年]]、パリにアトリエを開いた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 120)]]。</ref>。以後、アングルは、プッサンとダヴィッドの後継者として、新古典主義の指導的立場に立った<ref>[[#木村|木村 (2012: 75)]]。</ref>。 |
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[[ジョン・コンスタブル]]、{{仮リンク|リチャード・パークス・ボニントン|en|Richard Parkes Bonington}}、{{仮リンク|コプリー・フィールディング|en|Copley Fielding}}ら多くのイギリス人画家の作品が出品され、この3人はサロンで金賞を授与された。このことから、1824年のサロンは「イギリス人のサロン」とも呼ばれた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 92-93)]]。</ref>。 |
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ファイル:Eugène Delacroix - Le Massacre de Scio.jpg|[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]『[[キオス島の虐殺]]』1824年。油彩。419 × 354 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE000929 |title=Scènes des massacres de Scio |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:Ingres - O Voto de Luis XIII.jpg|[[ドミニク・アングル]]『ルイ13世の誓い』421 × 262 cm。{{仮リンク|モントーバン大聖堂|en|Montauban Cathedral}}。 |
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ファイル:John Constable The Hay Wain.jpg|[[ジョン・コンスタブル|コンスタブル]]『干草車』1821年。油彩、キャンバス、130.2 × 185.4 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/john-constable-the-hay-wain |title=The Hay Wain |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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=== 1827年 === |
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新古典主義のリーダーとして期待を集める[[ドミニク・アングル]]が、大作『ホメロス礼賛』を出品した。古代ギリシャの詩人[[ホメーロス]]を頂点に、17世紀古典主義の代表的画家[[ニコラ・プッサン]]を配するなど、古代からルネサンス、古典主義と受け継がれてきた正統な芸術を継承することを示した作品である<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 120-21)]]。</ref>。 |
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一方、風景画家[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]がイタリア留学中に『ナルニの橋』と『ローマ近郊の田園』をサロンに送り、初入選を果たした<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 138)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jean Auguste Dominique Ingres, Apotheosis of Homer, 1827.jpg|[[ドミニク・アングル]]『{{仮リンク|ホメロス礼賛|en|The Apotheosis of Homer (Ingres)}}』1827年。386 × 512 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/homer-deified-also-known-apotheosis-homer |title=Homer Deified, also known as The Apotheosis of Homer |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:Delacroix - La Mort de Sardanapale (1827).jpg|[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]『[[サルダナパールの死]]』392 × 496 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/death-sardanapalus |title=The Death of Sardanapalus |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:Jean-Baptiste-Camille Corot 006.jpg|[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]『{{仮リンク|ナルニの橋|en|The Bridge at Narni}}』1826年。油彩、紙・キャンバス、34 × 48 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://cartelfr.louvre.fr/cartelfr/visite?srv=car_not_frame&idNotice=8425 |title=Le pont de Narni, aux environs de Rome (Italie) |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-25}}</ref>。 |
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ファイル:Léopold Robert - The Pilgrimage to the Madonna of the Arch - WGA19608.jpg|{{仮リンク|ルイ・レオポルド・ロベール|en|Louis Léopold Robert}}『マドンナ・デラルコへの巡礼』1827年。油彩、キャンバス、142 × 212 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/r/robert_l/pilgrima.html |title=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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== 7月王政 == |
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[[1830年]]7月、[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]が議会の解散等を命ずる勅令を発したことをきっかけに、[[フランス7月革命]]が勃発し、ブルボン王朝は再び倒れた。共和派、ボナパルト派、王党派の妥協の産物として、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王位に就き[[7月王政]]となった。ルイ・フィリップは、美術の面では、自由主義者であることを示そうとして、公的注文やサロンでの政府買上げにおいて、幅広い流派を採用した。また、彼は、[[1833年]]、芸術家らの要望を受け、アカデミーの反対にかかわらず、サロンを毎年開催とし、さらに、展示作品数も3000点超まで増やした。そのことも芸術の大衆化を進める要因となった。歴史画の大作より、新興ブルジョワジーの家庭に飾るのに適した風景画、風俗画、肖像画が好まれるようになってきた。多くの美術批評家が生まれ、文芸誌にサロン評を掲載するようになった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 127-29)]]。</ref>。 |
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=== 1831年 === |
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ルイ・フィリップは、[[1831年]]のサロンに出品されたドラクロワの『[[民衆を導く自由の女神]]』を政府買上げにし、共和派の期待に応えた[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 129)]]。</ref>。 |
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1820年代から1830年代に登場した、異国趣味の画家(オリエンタリスト)の1人、[[アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン]]は、小アジア旅行の経験を基に、1831年のサロンに『スミルナの夜警』を出品して好評を得た<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 214)]]。</ref>。バルビゾン派の[[テオドール・ルソー]]は、この年、『オーヴェルニュ風景』で初入選している<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 227)]]。</ref>。 |
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ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]『[[民衆を導く自由の女神]]』1830年。260 × 325 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/july-28-liberty-leading-people |title=July 28: Liberty Leading the People |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:DelarocheKingEdward.jpg|[[ポール・ドラローシュ]]『幼きイングランド王エドワード5世とその弟ヨーク公リチャード』181 × 215 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/children-edward |title=The Children of Edward |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:La pattuglia turca.jpg|[[アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン]]『スミルナの夜警』1831年。油彩、キャンバス、115 × 179 cm。[[ウォレス・コレクション]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/decamps/t_patrol.html |title=The Turkish Patrol |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2018-01-07}}</ref>。 |
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=== 1833年 === |
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[[1833年]]以降、サロンは毎年開催となっている。画壇では、[[オラース・ヴェルネ]]が、ルイ・フィリップの庇護を受けて地位を築いた。『パリ市庁舎に向かうためにパレ・ロワイヤルを後にするオルレアン公、1830年7月31日』のように、同時代の事件や中世の歴史を題材としながら、様式的にはロマン主義の画家と異なり冷たい仕上げを行ったヴェルネは、新古典主義とロマン主義の中庸派(妥協派)という立場に立つことで、政府や大衆からの支持を得ることができた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 131-32)]]。</ref>。 |
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ファイル:Vernet - 31 juillet 1830 - Louis-Philippe quitte le Palais-Royal.jpg|[[オラース・ヴェルネ]]『パリ市庁舎に向かうためにパレ・ロワイヤルを後にするオルレアン公、1830年7月31日』1833年。228 × 258 cm。[[ヴェルサイユ宮殿]]美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=RETROUVER&FIELD_1=DOMN&VALUE_1=&FIELD_2=Ctyob&VALUE_2=&FIELD_3=AUTR&VALUE_3=&FIELD_4=Clieu&VALUE_4=&FIELD_5=REPR&VALUE_5=&FIELD_6=Cdate&VALUE_6=&FIELD_7=Cdecv&VALUE_7=&FIELD_8=LOCA&VALUE_8=&FIELD_9=N%b0%20inventaire&VALUE_9=MV%205185&FIELD_10=Titre&VALUE_10=&NUMBER=1&GRP=0&REQ=%28%28MV%205185%29%20%3aINV%20%29&USRNAME=nobody&USRPWD=4%24%2534P&SPEC=9&SYN=1&IMLY=&MAX1=1&MAX2=1&MAX3=100&DOM=All |title=Le duc d'Orléans quitte le Palais-Royal, pour se rendre à l'hôtel de ville, 31 juillet 1830 |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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ファイル:Petit pecheur napolitain - F. Rude.jpg|{{仮リンク|フランソワ・リュード|en|François Rude}}『亀と遊ぶナポリの若い漁師』1833年。大理石。H 82 × W 88 × D 48 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/young-neapolitan-fisherboy-playing-tortoise |title=Young Neapolitan Fisherboy Playing with a Tortoise |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-24}}</ref>。 |
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=== 1834年 === |
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[[1834年]]のサロンでは、ドラクロワが[[モロッコ]]旅行の成果として『アルジェの女たち』を出品し、政府買上げとなった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 141)]]。</ref>。 |
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また、中庸派の[[ポール・ドラローシュ]]が出品した『ジェイン・グレイの処刑』が評判となった。ドラローシュは、1832年にアカデミー会員、国立美術学校教授となっており、アカデミーが新古典主義一辺倒ではなくなってきたことを示している<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 133-34)]]。</ref>。他方、アングルは、1834年のサロンで『サンフォリアンの殉教』が不評だったのを最後に、サロンへの出品をやめ、パリを去った<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 134)]]。</ref>。 |
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ファイル:WomenofAlgiers.JPG|[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]『[[アルジェの女たち]]』180 × 229 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/women-algiers-their-apartment |title=Women of Algiers in their Apartment |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-25}}</ref>。 |
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ファイル:PAUL DELAROCHE - Ejecución de Lady Jane Grey (National Gallery de Londres, 1834).jpg|[[ポール・ドラローシュ]]『ジェイン・グレイの処刑』1833年。油彩、キャンバス、246 × 297 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/paul-delaroche-the-execution-of-lady-jane-grey |title=The Execution of Lady Jane Grey |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-12-25}}</ref>。 |
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ファイル:Ingres Martyre Saint-Symphorien.jpg|[[ドミニク・アングル]]『{{仮リンク|聖サンフォリアンの殉教|en|The Martyrdom of Saint Symphorian}}』油彩、キャンバス、407 × 339 cm。{{仮リンク|オータン大聖堂|en|Autun Cathedral}}。 |
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=== 1835年 === |
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=== 1836年 === |
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[[バルビゾン派]]の[[テオドール・ルソー]]は、[[1836年]]のサロンに大作『ジュラ山脈の山下り』を出品したが、落選し、その後も落選を続けて「偉大なる落選画家」と呼ばれるようになる<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 140)]]。</ref>。 |
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この年、[[オラース・ヴェルネ]]と[[ポール・ドラローシュ]]が、首尾一貫しない審査に抗議して審査委員を辞任した。これは、テオドール・ルソーの落選と関係があるようである<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 293)]]。</ref>。 |
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=== 1837年 === |
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=== 1838年 === |
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=== 1839年 === |
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ファイル:1838 Théodore Chasseriau - Venus Anadyomene.jpg|[[テオドール・シャセリオー]]『水から上がるヴィーナス』1838年。油彩、キャンバス、65 × 55 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://cartelfr.louvre.fr/cartelfr/visite?srv=car_not_frame&idNotice=15347 |title=Vénus anadyomène, dite aussi Vénus marine |publisher=Atlas database |accessdate=2018-01-07}}</ref>。 |
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=== 1840年 === |
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[[1840年]]のサロンでは、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]が、親友の父親を描いた『ルフラン氏の肖像』を提出して初入選した<ref>[[#井出|井出 (2014: 77)]]。</ref>。 |
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=== 1841年 === |
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=== 1842年 === |
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ファイル:Chassériau Esther 1841.jpg|[[テオドール・シャセリオー]]『{{仮リンク|エステルの化粧|en|The Toilette of Esther}}』1841年。油彩、キャンバス、45 × 35 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/esther-preparing-herself-meet-king-ahasuerus |title=Esther Preparing Herself to Meet King Ahasuerus |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2018-01-07}}</ref>。 |
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=== 1843年 === |
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ファイル:Gleyre Charles Marc Gabriel Le Soir Ou Les Illusions Perdues.jpg|[[シャルル・グレール]]『夕べ(失われた幻想)』油彩、キャンバス、157 × 238 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=car_not_frame&idNotice=14965&langue=en |title=Lost Illusions, also known as Evening |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-25}}</ref>。 |
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=== 1844年 === |
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ファイル:Gustave Courbet - Self-Portrait with Black Dog - WGA05480.jpg|[[ギュスターヴ・クールベ]]『黒い犬を連れた自画像』1842-44年。油彩、キャンバス、46.3 × 55.5 cm。[[プティ・パレ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.petitpalais.paris.fr/en/oeuvre/courbet-black-dog |title=Courbet with a black dog |publisher=Petit Palais - City of Paris Fine Art Museum |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1845年 === |
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ファイル:Gustave Courbet - Young Man in a Landscape (The Guitarrero) - WGA5482.jpg|[[ギュスターヴ・クールベ]]『ギタレロ』1844年。油彩、キャンバス、55 × 41 cm。私蔵<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/courbet/2/courb206.html |title=Young Man in a Landscape (The Guitarrero) |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1846年 === |
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=== 1847年 === |
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[[1847年]]のサロンでは、[[ジャン=レオン・ジェローム]]が『闘鶏(闘鶏をする若いギリシャ人たち)』でデビューした。彼は、古代世界を舞台に現代的な風俗を描く新ギリシャ派の代表者である<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 150)]]。</ref>。 |
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ミレーは、ギリシャ神話を主題にした歴史画に挑戦し、『樹から降ろされるエディプス』を入選させた<ref>[[#井出|井出 (2014: 88)]]。</ref>。 |
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ファイル:THOMAS COUTURE - Los Romanos de la Decadencia (Museo de Orsay, 1847. Óleo sobre lienzo, 472 x 772 cm).jpg|[[トマ・クチュール]]『退廃期のローマ人たち』油彩、キャンバス、472 × 772 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=009493&cHash=48b34bf4af |title=Romains de la décadence |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-25}</ref>。 |
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ファイル:JEAN-LÉON GÉRÔME - Jóvenes griegos presenciando una pelea de gallos (Museo de Orsay, París, 1846. Óleo sobre lienzo, 143 x 204 cm).jpg|[[ジャン=レオン・ジェローム]]『{{仮リンク|闘鶏 (ジェローム)|en|The Cock Fight|label=闘鶏}}』1846年。油彩、キャンバス、143 × 204 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000328&cHash=0cd147f51c |title=Jeunes Grecs faisant battre des coqs |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-25}}</ref>。 |
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ファイル:Oedipus-taken-down-from-the-tree-1847.jpg|[[ジャン=フランソワ・ミレー]]『樹から降ろされるエディプス』1847年。油彩、キャンバス、135.9 × 77.5 cm。[[カナダ国立美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.gallery.ca/collection/artwork/oedipus-taken-down-from-the-tree-0 |title=Oedipus Taken Down from the Tree |publisher=National Gallery of Canada |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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== 第二共和政 == |
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[[1848年]]2月、パリで、ルイ・フィリップ国王の立憲君主制に対し、共和主義を掲げた民衆の武装蜂起が起こり、ルイ・フィリップは亡命した([[1848年のフランス革命]]、2月革命)。さらに、保守化した共和派に対し労働者が[[六月蜂起]]を起こして鎮圧されるなど、政治的混乱が続いた。12月、[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン]]が[[フランス第二共和政]]の大統領に当選した。第二共和政下では、内務大臣{{仮リンク|ルドリュ=ロラン|en|Alexandre Auguste Ledru-Rollin}}、国立美術館総局長{{仮リンク|フィリップ=オーギュスト・ジャンロン|en|Philippe-Auguste Jeanron}}、美術長官[[シャルル・ブラン]]の3人を中心に、民主化が進められた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 285-87)]]。</ref>。 |
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=== 1848年 === |
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[[1848年]]のサロンは、民主化の結果として、無審査で、全応募作品5180点を入選させるという画期的な措置がとられた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 288)]]。</ref>。 |
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国立美術館総局長ジャンロンがこの年のサロンで重視したのが、庶民の貧困や労働を描くレアリスム(写実主義)の画家たちであり、ミレーも『箕をふるう人』で認められ、政府注文を受けることができ、その報酬でバルビゾン移住がかなった。これがミレーの農民画の出発点となった。他方で、ミレーが同時に出品した歴史画『バビロン捕囚』は評判が悪かった<ref>[[#井出|井出 (2014: 25-26, 89, 92)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jean-François Millet, The Winnower (London).jpg|[[ジャン=フランソワ・ミレー]]『箕をふるう人』1847-48頃。油彩、キャンバス、100.5 × 71 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/jean-francois-millet-the-winnower |title=The Winnower |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1849年 === |
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[[1849年]]のサロンは、前年のサロンが無審査としたことで玉石混交を招いたという反省から、審査委員会を設けることにした。しかし、美術アカデミー会員による審査ではなく、これまでのサロン出品者の選挙によって決定された。その結果、入選作品数は2586点まで絞られた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 288)]]。</ref>。[[ギュスターヴ・クールベ]]は、『オルナンの食休み』が2等賞で政府買上げとなり、自信を深めた<ref>[[#井出|井出 (2014: 26)]]。</ref>。 |
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ファイル:Gustave Courbet 031.jpg|[[ギュスターヴ・クールベ]]『オルナンの食休み』1848-49年。油彩、キャンバス、 195 × 275 cm。{{仮リンク|リール美術館|en|Palais des Beaux-Arts de Lille}}。 |
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=== 1850年-51年 === |
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[[1850年]]と[[1851年]]は、2年にまたがってサロンが開催された。入選作品数は約4000点に上った。サロンの会場は、初めて、ルーヴル美術館から[[パレ・ロワイヤル]]に移された<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 288)]]。</ref>。1850年のサロンの開催時期が遅れ、1851年1月に持ち越されたのは、1849年にとられた投票審査制度が混乱を招いたためであった<ref>[[#木村|木村 (2012: 88)]]。</ref>。 |
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1等賞を獲得したのは、アレクサンドル・アンティーニャの『火災』であった。このように、民衆の現実を劇的に描く作品が、一般市民に親しまれ、評価を受けた。そのほか、{{仮リンク|オクターヴ・タサエール|en|Octave Tassaert}}の『不幸な家族(自殺)』、{{仮リンク|イジドール・ピルス|en|Isidore Pils}}の『愛徳修道女の死』、{{仮リンク|ジュール・ブルトン|en|Jules Breton}}の『飢餓』などが注目を浴びた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 290-91)]]。</ref>。 |
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しかし、この時のサロンで最も革新的だったのは、[[ギュスターヴ・クールベ]]の『オルナンの埋葬』であり、レアリスム([[写実主義]])絵画の代表作といえる。本来は歴史画で用いられる特大サイズのキャンバスに、平凡な地方ブルジョワの埋葬場面を描き出したのに対し、世間からは、卑俗で醜いという非難が寄せられた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 293-94)]]。</ref>。さらに、|[[ジャン=フランソワ・ミレー]]が出品した『種まく人』も大きな議論を巻き起こした。保守派・ブルジョワからは、労働者の悲惨な生活を訴える社会主義的な主張を含むものと受け取られ、拒絶反応があった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 296-97)]]。</ref>。クールベやミレーの登場によって、1851年のサロンは後に「レアリスムの最初のサロン」と呼ばれる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 25)]]。</ref>。 |
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ファイル:L'Incendie.jpg|{{仮リンク|アレクサンドル・アンティーニャ|en|Alexandre Antigna}}『火災』油彩、キャンバス。オルレアン美術館。 |
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ファイル:Pils Soeur de charité musée des Augustins.jpg|{{仮リンク|イジドール・ピルス|en|Isidore Pils}}『愛徳修道女の死』1850年。油彩、キャンバス、243 × 308 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=2 |title=La mort d'une soeur de charité |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-26}}</ref>。 |
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ファイル:Meissonier Barricade.jpg|{{仮リンク|ジャン=ルイ=エルネスト・メソニエ|en|Ernest Meissonier}}『内戦の記憶』29 × 22 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/barricade-rue-de-la-mortellerie-june-1848 |title=The Barricade, rue de la Mortellerie, June 1848 |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-12-26}}</ref>。 |
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ファイル:Gustave Courbet - A Burial at Ornans - Google Art Project.jpg|[[ギュスターヴ・クールベ]]『{{仮リンク|オルナンの埋葬|en|A Burial At Ornans}}』1849-50年。油彩、キャンバス、315 × 668 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000924&cHash=c102f95d65 |title=Un enterrement à Ornans |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-27}}</ref>。 |
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ファイル:Gustave Courbet 002.jpg|クールベ『市から帰るフラジェイの農民たち』1850年。油彩、キャンバス、208.5 × 275.5 cm。[[ブザンソン美術館]]。 |
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ファイル:Gustave Courbet 018.jpg|クールベ『石割り』1849-50年。油彩、キャンバス、165 × 257 cm。焼失。 |
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ファイル:Jean-François Millet - The Sower - Google Art Project.jpg|[[ジャン=フランソワ・ミレー]]『種まく人』1850年。油彩、キャンバス、101.6 × 82.6 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/the-sower-31601 |title=The Sower |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-12-27}}</ref><ref group="注釈">ボストン美術館所蔵作とほぼ同一構図・同一寸法の『種まく人』が[[山梨県立美術館]]に収蔵されており、どちらがサロン出品作かは議論が分かれている([[#井出|井出 (2014: 44-46)]])。</ref>。 |
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ファイル:Camille Corot - A Morning. The Dance of the Nymphs - Google Art Project.jpg|[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]『ニンフの踊り』1850年頃。油彩、キャンバス、97.7 × 130.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000243&cHash=c18188b082 |title=Une matinée, la danse des nymphes |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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== 第二帝政 == |
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第二共和政のフランスで有産階級と無産階級の対立が激しくなる中、ルイ・ナポレオンが[[1851年]]12月にクーデターを起こし、[[1852年]]12月に皇帝に即位して[[ナポレオン3世]]となった([[フランス第二帝政]])。ナポレオン3世は、[[ジョルジュ・オスマン]]を[[セーヌ県]]知事に任命し、パリ市街の大改造を行わせた。これによって中産階級の市民生活は大幅に近代化され、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となった。サロンも社会的行事として定着した。この時期、絵画界を支配したのは[[新古典主義]]を受け継ぐ[[アカデミズム絵画]]であった。画家の出世コースは、まず[[エコール・デ・ボザール]]で教育を受け、[[ローマ賞]]で大賞をとれば[[ローマ]]のフランス・アカデミーに国費留学ができ、さらにサロンで入選すれば画家として認められ、評価が高まれば政府買上げの対象となり、最終的には[[芸術アカデミー]]会員(絵画部門は14名)に選ばれるというものであった。ローマ賞コンクールやサロンの審査委員を務めたのも、保守的な芸術アカデミー会員であった。もっとも、第二帝政政府の帝室美術館総局長(のち美術総監){{仮リンク|エミリアン・ド・ニューウェルケルク|en|Émilien de Nieuwerkerke}}が取り仕切る美術行政の側は、芸術アカデミーの余りの保守性を好まず、芸術アカデミーの弱体化を図る政策を打ち出していった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 300-05)]]。</ref>。 |
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=== 1852年 === |
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第二帝政の初期、サロンの審査委員は、半数が画家による選挙で選ばれ、残りの半数が美術行政によって選ばれた。画家による選出委員のほとんどがアカデミー会員であり、美術行政も新古典主義を規範としていたため、審査もそうした規範に則ったものとなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 88)]]。</ref>。 |
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ファイル:The Young Ladies of the Village.jpg|[[ギュスターヴ・クールベ]]『村のお嬢様たち』1851-52年。油彩、キャンバス、194.9 × 261 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/438820 |title=Young Ladies of the Village |publisher=Metropolitan Musem of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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ファイル:Charles-François Daubigny - Harvest - Google Art Project.jpg|[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]『収穫』1851年。油彩、キャンバス、135 × 196 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=886 |title=Moisson |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1853年 === |
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[[1853年]]から、作品の質を高めるという目的で、サロンは隔年の開催になった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 305)]]。</ref>。帝室美術館総局長ニューウェルケルクの考え方を反映して、新古典主義的な作品のみが入選した<ref>[[#木村|木村 (2012: 88)]]。</ref>。 |
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ミレーは、[[旧約聖書]]の[[ルツ記]]から題材をとった『刈入れ人たちの昼食(ルツとボアズ)』が2等賞を受け、1859年までの間、無鑑査の資格を得ることができた<ref>[[#井出|井出 (2014: )]]。</ref>。 |
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ファイル:No image available 500 x 500.svg|[[ジャン=フランソワ・ミレー]]『刈入れ人たちの昼食(ルツとボアズ)』油彩、キャンバス、67.3 × 119.7 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/harvesters-resting-ruth-and-boaz-31288 |title=Harvesters Resting (Ruth and Boaz) |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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=== 1855年 === |
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[[ファイル:Palais de l'Industrie - Édouard Baldus.jpg|thumb|right|180px|1855年以降サロンの会場となった産業館。]] |
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[[1855年]]のサロンは、[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]の美術展覧会に吸収された<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 336)]]。</ref>。会場は、博覧会のためにシャンゼリゼ通りに面して建設された{{仮リンク|産業館|en|Palais de l'Industrie}}であり、以降のサロンも、恒常的に産業館で開催されるようになった。ただ、既に定着していた「サロン」という名称は残った<ref>[[#新関|新関 (2000: 141)]]。</ref>。クールベは、博覧会のために大作『{{仮リンク|画家のアトリエ|en|The Painter's Studio}}』を制作したが、拒否され、博覧会会場の近くに小屋を建てて個展を開くという革新的な取組をした<ref>[[#木村|木村 (2012: 86)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jules Adolphe Aimé Louis Breton, The Gleaners, 1854. National Gallery of Ireland.jpg|{{仮リンク|ジュール・ブルトン|en|Jules Breton}}『落穂拾い』1854年。油彩、キャンバス、93 × 138 cm。[[アイルランド国立美術館]]。 |
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=== 1857年 === |
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[[1857年]]からは、サロンの審査委員はアカデミーの会員で独占されるようになった。サロンの審査は、ますます保守性を増していった<ref>[[#木村|木村 (2012: 88-89)]]。</ref>。 |
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[[ジャン=フランソワ・ミレー]]が最下層の農民を描いた『[[落穂拾い (絵画)|落穂拾い]]』を出品したが、保守的な批評家からは、社会不安をあおるものとして批判された<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 314)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jean-François Millet - Gleaners - Google Art Project.jpg|[[ジャン=フランソワ・ミレー]]『[[落穂拾い (絵画)|落穂拾い]]』1857年。油彩、キャンバス、83.5 × 110 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000342&cHash=208fcd6ac2 |title=Des glaneuses |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-29}}</ref>。 |
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=== 1859年 === |
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[[1859年]]のサロンは、3894点(うち絵画は3045点)の応募があったが、落選者が多く、ニューウェルケルクに対する抗議運動が起きた。アングルとドラクロワはもはやサロンを重視していなかったが、ボードリー、ジェローム、ブーグローといったアカデミズムの画家がサロンの中心的存在であった。また、ルソー、コロー、トロワイヨン、ドービニーなどのバルビゾン派は大衆から高い人気を得ていた。クールベは、作品が期限に間に合わず、提出しなかった。[[カミーユ・ピサロ]]がこの年サロンに初入選したほか、将来の印象派の画家の多くはこの頃パリに集まってきていた<ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 19-23)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jules Breton - Calling in the Gleaners - Google Art Project.jpg|[[ジュール・ブルトン]]『落穂拾いの招集』1859年。油彩、キャンバス、90.5 × 176 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=888 |title=Le rappel des glaneuses |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-29}}</ref>。 |
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ファイル:Troyon Partida al mercado.jpg|[[コンスタン・トロワイヨン]]『市場へ向かう道』1859年。油彩、キャンバス、260 × 211 cm。[[エルミタージュ美術館]]。 |
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ファイル:Eugène Delacroix - The Abduction of Rebecca - WGA6226.jpg|[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]『レベッカの掠奪』1858年。油彩、キャンバス、105 × 81.5 cm。[[ルーヴル美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/delacroi/5/511delac.html |title=The Abduction of Rebecca |publisher=Web Gallery of Art |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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ファイル:Camille Pissarro Paysage à Montmorency.jpg|[[カミーユ・ピサロ]]『モンモランシーの風景』1859年頃。油彩、木、21.5 × 27.2 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/fr/collections/catalogue-des-oeuvres/notice.html?nnumid=021825 |title=Paysage à Montmorency |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-02-20}}</ref>。 |
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=== 1861年 === |
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[[1861年]]のサロンには、[[エドゥアール・マネ]]が『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』で初入選し、『スペインの歌手』は優秀賞を受賞した。この頃、マネ、{{仮リンク|アルフォンス・ルグロ|en|Alphonse Legros}}、[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、{{仮リンク|カロリュス=デュラン|en|Carolus-Duran}}、{{仮リンク|フェリックス・ブラックモン|en|Félix Bracquemond}}、[[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー]]といったポスト・レアリスムといえる画家たちのグループが形成されてきて、造形表現の革命を起こしていくことになる<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 322-23)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Le chanteur espagnol.jpg|[[エドゥアール・マネ]]『{{仮リンク|スペインの歌手|en|The Spanish Singer}}』1860年。油彩、キャンバス、147.3 × 114.3 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436944 |title=The Spanish Singer |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-05}}</ref>。 |
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ファイル:No image available 500 x 500.svg|[[ジャン=ルイ=エルネスト・メソニエ]]『絵画愛好家たち』1860年。木、油彩、マホガニー、35.5 × 28.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000263&cHash=9df177ff38 |title=Les amateurs de peinture |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-29}}</ref>。 |
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=== 1863年 === |
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[[1863年]]のサロンの審査はとりわけ厳格で、絵画の入選作はわずか1915点であった。この年のサロンで絶賛されたのは、カバネルの『ヴィーナスの誕生』であり、第二帝政期における享楽性、女性ヌードの氾濫を象徴している。ジェロームの『囚人』に見られるような[[オリエンタリズム]]もこの時期の流行である<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 310-12)]]。</ref>。 |
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同年11月には、それまで芸術アカデミーが管轄していた[[エコール・デ・ボザール]]の校長を帝室美術大臣が任命することとなるなど、美術教育の権限を芸術アカデミーから美術行政に移す改革が断行された。ローマ賞コンクールも美術総監ニューウェルケルクを長とする評議会が管理することになった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 305)]]。</ref>。サロンは、帝室美術省による美術行政の管轄下に入り、ニューウェルケルクは部下のフィリップ・ド・シェヌヴィエールをサロンの運営に当たらせた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 27)]]。</ref>。カバネル、ジェローム、ピルスといったアカデミズムの画家は、次々アカデミー会員となるとともに、この年に[[エコール・デ・ボザール]]のアトリエ主任教授にも任命された。彼らは、画家たちによる選挙によってサロンの審査委員に選ばれることが多く、サロンの保守性を維持する役割を果たした<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 28-29)]]。</ref>。 |
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ファイル:1863 Alexandre Cabanel - The Birth of Venus.jpg|[[アレクサンドル・カバネル]]『ヴィーナスの誕生』1863年。油彩、キャンバス、177 × 272.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000098&cHash=ea1d63f48e |title=Naissance de Vénus |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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ファイル:Baudry paul the wave and the pearl.jpg|[[ポール・ボードリー]]『真珠と波』1862年。油彩、キャンバス、83.5 × 178 cm。[[プラド美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.museodelprado.es/coleccion/obra-de-arte/la-perla-y-la-ola/51f1fd9f-19bb-4d4d-9d40-94a49bdba38d |title=La perla y la ola (fábula persa) |publisher=Museo Nacional del Prado |accessdate=2017-12-29}}</ref>。 |
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ファイル:Duval La Naissance de Venus.jpg|{{仮リンク|アモリー=デュヴァル|en|Eugène Emmanuel Amaury Duval}}『ヴィーナスの誕生』1862年。油彩、キャンバス、197 × 109 cm。[[リール美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE019292 |title=LA NAISSANCE DE VENUS |publisher=Joconde |accessdate=2017-12-29}}</ref>。 |
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ファイル:Jean-Léon Gérôme - Le Prisonnier.jpg|[[ジャン=レオン・ジェローム]]『囚人』1861年。油彩、パネル、45 × 78 cm。[[ナント美術館]]。 |
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ファイル:Millet, Jean-François - Man with a Hoe - Google Art Project.jpg|[[ジャン=フランソワ・ミレー]]『鍬に寄りかかる男』1860-62年。油彩、キャンバス、81.9 × 100.3 cm。{{仮リンク|ゲティ・センター|en|Getty Center}}<ref>{{Cite web |url=http://www.getty.edu/art/collection/objects/760/jean-francois-millet-man-with-a-hoe-french-1860-to-1862/ |title=Man with a Hoe |publisher=J. Paul Getty Trust |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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==== 落選展 ==== |
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1863年のサロンの審査が余りに厳しかったことから、審査委員会に対して芸術家たちの非難の声が高まった。これを受けて、ナポレオン3世は、サロンとは別に、落選作のみを展示する[[落選展]]の開催を決定した。この年の落選展には、少なくとも687点が展示されたが、中でも[[エドゥアール・マネ]]の『[[草上の昼食]]』が大スキャンダルを巻き起こした<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 306)]]。</ref>。ホイッスラーの『白のシンフォニー』も激しい批判を浴びた<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 325)]]。</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet - Le Déjeuner sur l'herbe.jpg|『[[草上の昼食]]』(当初の題は『水浴』)1863年。油彩、キャンバス、207 × 265 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000904&cHash=0ac4f8868a |title=Le déjeuner sur l'herbe |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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ファイル:Symphony in White no 1 - The White Girl - Portrait of Joanna Hiffernan (by James Abbot McNeill Whistler).jpg|[[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー]]『白のシンフォニー第1番 - 白の少女』1862年。油彩、キャンバス、213 × 107.9 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.12198.html |title=Symphony in White, No. 1: The White Girl |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-12-29}}</ref>。 |
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=== 1864年 === |
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サロンは、[[1864年]]から、再び毎年の開催となった。この年のサロンは、それ以前のサロン受賞者と[[レジオンドヌール勲章]]受章者が審査委員の4分の3を選挙し、美術行政が残りの4分の1を任命する方式に改められ、アカデミーの権限は後退を強いられた。それでも、審査委員の選出にアカデミー会員の影響が大きかったため、審査はそれほど緩和されず、再度の落選展の開催を求める声も上がった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 306-07)]]、[[#木村|木村 (2012: 89-90)]]。</ref>。また、この年のサロンから、審査部門が、絵画・素描、彫刻、建築、版画の4部門に分けられた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 294)]]。</ref>。 |
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ミレーの『羊飼いの少女』が1等賞をとり、政府買上げの申出がされるなど、ミレーに対する評価が高まった<ref>[[#井出|井出 (2014: 118-19)]]。</ref>。この年、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]が『踊るエスメラルダ』で入選を果たしている<ref>[[#木村|木村 (2012: 151)]]。</ref>。[[ベルト・モリゾ]]も、コローの影響を受けた『オーヴェルの古い道』で初入選した<ref>[[#木村|木村 (2012: 220)]]。</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet - Le Christ mort et les anges.jpg|[[エドゥアール・マネ]]『死せるキリストと天使たち』1864年。油彩、キャンバス、179.4 × 149.9 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436950 |title=The Dead Christ with Angels |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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ファイル:Fantin-Latour Homage to Delacroix.jpg|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]『ドラクロワ礼賛』1864年。油彩、キャンバス、160 × 250 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000208&cHash=93069de727 |title=Hommage à Delacroix |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-29}}</ref>。 |
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ファイル:Jean-François Millet Pastora.jpg|[[ジャン=フランソワ・ミレー]]『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000341&cHash=67699c6428 |title=Bergère avec son troupeau |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-30}}</ref>。 |
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ファイル:Berthe Morisot, 1863 - The Old Track to Auvers.jpg|[[ベルト・モリゾ]]『オーヴェルの古い道』1863年。油彩、キャンバス、31 × 45 cm。私蔵<ref>{{Cite web |url=https://www.wikiart.org/en/berthe-morisot/the-old-track-to-auvers-1863 |title=The Old Track to Auvers |publisher=Wikiart.org |accessdate=2018-01-03}}</ref>。 |
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=== 1865年 === |
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[[1865年]]のサロンでは、絵画・素描部門の審査委員12人のうち、選挙による委員が9人、美術行政による任命委員が3人であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 294)]]。</ref>。 |
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マネが『オランピア』を出品し、1863年の『草上の昼食』を上回るスキャンダルを起こした。娼婦に顧客から花束が贈られている場面をあからさまに描き出したことが不道徳と非難された上、平面性の強い造形手法も批判された<ref>[[#木村|木村 (2012: 104-05)]]。</ref>。 |
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この年、[[クロード・モネ]]は『オンフルールのセーヌ河口』ほか1点の海景画で初入選した<ref>[[#木村|木村 (2012: 122)]]。</ref>。同じ年、[[エドガー・ドガ]]も『中世の戦争の場面』で初入選した<ref>[[#木村|木村 (2012: 186)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Olympia - Google Art Project 3.jpg|[[エドゥアール・マネ]]『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』1863年。130.5 × 191 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000712&cHash=3ebae2ac84 |title=Olympia |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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ファイル:'Mouth of the Seine' by Claude Monet, Norton Simon Museum.JPG|モネ『オンフルールのセーヌ河口』1865年。油彩、キャンバス、89.5 × 150.5 cm。[[ノートン・サイモン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.nortonsimon.org/collections/browse_artist.php?name=Monet%2C+Claude&resultnum=1 |title=Mouth of the Seine at Honfleur, 1865 |publisher=Norton Simon Museum |accessdate=2016-11-19}}</ref>。 |
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ファイル:Pierre-Auguste Renoir - William Sisley.jpg|ルノワール『ウィリアム・シスレーの肖像』1864年。油彩、キャンバス、81.5 × 65.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=000PE004060 |title=William Sisley, dit à tort docteur Leudet |publisher=Joconde |accessdate=2018-01-03}}</ref>。 |
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ファイル:Degas Suffering City of New Orleans.jpg|[[エドガー・ドガ]]『中世の戦争の場面』1865年。油彩、紙・キャンバス、83.5 × 148.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=&nnumid=10028 |title=Scène de guerre au Moyen Age |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2018-01-03}}</ref>。 |
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=== 1866年 === |
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[[1866年]]のサロンでは、絵画・素描部門の審査委員は24人となり、選挙による委員が18人、美術行政による任命委員が6人であった。選挙による委員の上位3人はジェローム、カバネル、ピルスであったが、コローとドービニーも選挙で選ばれた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 294)]]。</ref>。コローとドービニーが入ったこともあり、前衛的な画家に寛容な審査となった。[[クロード・モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[フレデリック・バジール]]といったバティニョール派の画家たちは入選した。他方、マネ、[[ポール・セザンヌ]]は落選した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 31)]]。</ref>。セザンヌは、この年、美術総監ニューウェルケルクに対し、落選展の開催を求める手紙を送っている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 31)]]。</ref>。 |
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モネは、マネの作品に着想を得た『草上の昼食』を出品しようとしたが、断念し、その代わりに『緑衣の女』ほか1点を出品して入選した。スペイン趣味が強かった当時の審査委員や批評家からは好評を得た<ref>[[#木村|木村 (2012: 123)]]。</ref>。 |
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ファイル:Claude Monet - Camille.JPG|[[クロード・モネ|モネ]]『{{仮リンク|緑衣の女|fr|La Femme en robe verte}}』1866年。油彩、キャンバス、231 × 151 cm。[[ブレーメン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.kunsthalle-bremen.de/sammlung/sammlungshighlights/claude-monet/ |title=Claude Monet: Camille, 1866 |publisher=Kunsthalle Bremen |accessdate=2016-11-06}}</ref>。 |
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ファイル:Frédéric Bazille - Nature morte avec du poisson.jpg|[[フレデリック・バジール]]『魚の静物』1866年。油彩、キャンバス、63.5 × 81.9 cm。[[デトロイト美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.dia.org/art/collection/object/still-life-fish-34090 |title=Still Life with Fish |publisher=Detroit Institute of Arts |accessdate=2018-01-03}}</ref>。 |
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ファイル:Gustave Courbet - Woman with a Parrot - Google Art Project.jpg|[[ギュスターヴ・クールベ]]『女とオウム』1866年。油彩、キャンバス、129.5 × 195.6 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436002 |title=Woman with a Parrot |publisher=Metropolitan Museum of Art |accessdate=2018-01-03}}</ref>。 |
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=== 1867年 === |
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[[1867年]]のサロンは、[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]と並行して開催された<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 341)]]。</ref>。そのため、サロンは補助的な役割にとどまった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 294)]]。</ref>。絵画部門の審査委員は15人に減るとともに、画家の選挙による審査委員が3分の2(10人)、美術行政による任命が3分の1(5人)という制度に改められた。その結果は、画家選出委員の上位3名はカバネル、ジェローム、ピルスが占め、美術行政任命委員の構成も前回とほとんど変わらなかった。そのこともあって、前衛的な画家には厳しいサロンとなった。落選展開催の要望もあったが、美術総監ニューウェルケルクはそれを拒否した<ref>[[#木村|木村 (2012: 90)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009: )]]。</ref>。[[エドガー・ドガ]]と[[ベルト・モリゾ]]は入選したが、モネ、ルノワール、シスレー、バジールは落選した。そのため、彼らの間では、独自の展覧会を開催しようという案が出たが、資金不足のため立ち消えとなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 123)]]。</ref>。 |
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ミレーは、『烏のいる冬景色』と『鵞鳥番の少女』で1等賞を与えられ、絶頂期を迎えた<ref>[[#井出|井出 (2014: 128-29)]]。</ref>。他方、クールベとマネはサロンに応募せず、それぞれ万国博覧会会場近くで個展を開いた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 35)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edgar Degas - The Bellelli Family - Google Art Project.jpg|[[エドガー・ドガ]]『ベルレッリ家の肖像』1867年。油彩、キャンバス、201 × 249.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/fr/collections/catalogue-des-oeuvres/notice.html?no_cache=1&nnumid=9998 |title=Portrait de famille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2018-01-06}}</ref>。 |
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=== 1868年 === |
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[[1868年]]のサロンからは、過去のサロン(無審査であった1848年を除く)で入選経験のある画家であれば誰でも審査委員の投票に加わることができるようになった。これを反映して、コローやドービニーが審査委員に入り、前衛的な画家たちにとって寛容な審査となった<ref>[[#木村|木村 (2012: 90)]]。</ref>。ルノワールも『日傘のリーズ』で好意的な評価を得ることができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 153)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 049.jpg|マネ『[[エミール・ゾラの肖像]]』1868年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000713&cHash=6aa6b1d647 |title=Emile Zola |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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ファイル:Renoir Lise With Umbrella.jpg|ルノワール『日傘のリーズ』1867年。油彩、キャンバス、184 × 115 cm。[[フォルクヴァンク美術館]]([[エッセン]])。 |
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ファイル:Jalais Hill, Pontoise.jpg|[[カミーユ・ピサロ]]『ジャレの丘』1867年。油彩、キャンバス、87 × 114.9 cm。[[メトロポリタン美術館]]([[ニューヨーク]])<ref>{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/art/collection/search/437299 |title=Jalais Hill, Pontoise |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-02-20}}</ref>。 |
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ファイル:Frédéric Bazille 001.jpg|[[フレデリック・バジール]]『家族の集い』1867-68年。油彩、キャンバス、152 × 230 cm。オルセー美術館<ref name="Réunion">{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/reunion-de-famille-19.html |title=Réunion de famille also called Portraits de famille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-01}}</ref>。 |
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ファイル:Edgar Degas - Portrait of Mlle Fiocre in the Ballet "La Source" (Portrait de Mlle...E(ugénie) F(iocre)- à propos d... - Google Art Project.jpg|[[エドガー・ドガ]]『バレエ《泉》のフィオクル嬢』油彩、キャンバス、130.8 × 145.1 cm。[[ブルックリン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.brooklynmuseum.org/opencollection/objects/4393 |title=Portrait of Mlle Fiocre in the Ballet "La Source" |publisher=Brooklyn Museum |accessdate=2018-01-03}}</ref>。 |
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=== 1869年 === |
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[[1869年]]の審査委員の選出方法は前年と同じであったが、ジェローム、ボードリー、ピルス、[[レオン・ボナ|ボナ]]といったアカデミーの画家が審査委員の上位を占めた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 295)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - The Balcony - Google Art Project.jpg|マネ『{{仮リンク|バルコニー (絵画)|en|The Balcony (painting)|label=バルコニー}}』1868-69年。油彩、キャンバス、170 × 125 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000707 |title=Le balcon |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-09}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 025.jpg|マネ『{{仮リンク|アトリエでの昼食|en|Luncheon in the Studio}}』1868年。油彩、キャンバス、118 × 153.9 cm。[[ノイエ・ピナコテーク]]。 |
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ファイル:Auguste Renoir - En été - La bohémienne - Google Art Project.jpg|ルノワール『{{仮リンク|夏・習作|en|In Summer (Renoir)}}』1868年。油彩、キャンバス、85 × 59 cm。[[旧国立美術館 (ベルリン)]]<ref>{{Cite web |url=https://www.google.com/culturalinstitute/beta/asset/8AHrE7jXKoFBQw |title=Summer |publisher=Google Arts & Culture |accessdate=2017-04-09}}</ref>。 |
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ファイル:Bazille-La vue de village.JPG|バジール『村の眺め』1868年。油彩、キャンバス、137.5 × 85 cm。[[ファーブル美術館]]([[モンペリエ]])。 |
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=== 1870年 === |
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[[1870年]]のサロンからは、美術行政による審査委員の任命がなくなり、過去のサロン(無審査であった1848年を除く)で入選経験のある全ての画家の中から全ての審査委員を選挙する仕組みとなり、民主化が進んだ<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 307)]]、[[#木村|木村 (2012: 91)]]。</ref>。ドービニー、コロー、ミレーが審査委員に入り、バティニョール派の画家たちを擁護したが、モネは『ラ・グルヌイエール』などが落選してしまった。ドービニーは、モネの落選に抗議して、審査委員を辞任した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 34)]]、[[#木村|木村 (2012: 127)]]。</ref>。ファンタン=ラトゥールの『バティニョールのアトリエ』は、当時マネを中心とする前衛的画家の集まりが成立していたことを物語る作品である<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 23)]]。</ref>。 |
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ファイル:Inf. 06 Alexandre Cabanel, Morte di Francesca da Rimini e di Paolo Malatesta, 1870.jpg|[[アレクサンドル・カバネル]]『パオロとフランチェスカ』1870年。油彩、キャンバス、184 × 255 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=2 |title=Mort de Francesca de Rimini et de Paolo Malatesta |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-29}}</ref>。 |
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ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Odalisque.jpg|ルノワール『アルジェの女(オダリスク)』1870年。油彩、キャンバス、69.2 × 122.6 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nga.gov/content/ngaweb/Collection/art-object-page.46682.html |title=Odalisque |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-04-25}}</ref>。 |
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ファイル:Jean Frédéric Bazille - Scène d'été.jpg|バジール『{{仮リンク|夏の情景|fr|Scène d'été}}』1869年。油彩、キャンバス、160 × 160.7 cm。[[フォッグ美術館]]([[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]、[[ハーバード大学]])<ref name="Summer Scene">{{Cite web |url=http://www.harvardartmuseums.org/art/230640 |title=Summer Scene |publisher=Harvard Art Museums |accessdate=2017-04-01}}</ref>。 |
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ファイル:Henri Fantin-Latour - A Studio at Les Batignolles - Google Art Project.jpg|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]『バティニョールのアトリエ』1870年。油彩、キャンバス、204 × 273.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=210 |title=Un atelier aux Batignolles |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2018-01-03}}</ref>。 |
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ファイル:Madame Camus E10653.jpg|[[エドガー・ドガ]]『カミュ夫人の肖像』1869-70年。油彩、キャンバス、72.7 × 92.1 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.46596.html |title=Madame Camus |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2018-01-06}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 041.jpg|[[エドゥアール・マネ]]『エヴァ・ゴンザレスの肖像』1870年。油彩、キャンバス、191.1 × 133.4 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref name="Eva">{{Cite web |url=https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/edouard-manet-eva-gonzales |title=Eva Gonzalès |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-11-15}}</ref>。 |
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ファイル:Eva Gonzales - Enfant de troupe.JPG|[[エヴァ・ゴンザレス]]『陸軍幼年学校生徒』1870年。ガストン・ラパン美術館。 |
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== 第三共和政 == |
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[[1870年]]7月、ナポレオン3世と[[プロイセン王国]]との間で[[普仏戦争]]が勃発し、9月にフランス軍が[[セダンの戦い]]で敗北したことで第二帝政が崩壊した。その後、[[1871年]]1月にパリがプロイセン軍に占領されたが、3月に徹底抗戦を求めるパリ市民が[[パリ・コミューン]]を宣言し、内戦の末5月に鎮圧された。こうした混乱の末、[[フランス第三共和政]]が誕生した。第三共和政の下でも、サロンは画家たちの重要な発表の場として権威を保っていたが、徐々に商品展示場という様相が強くなり、作品の質の劣化が懸念されるようになった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 390-95)]]。</ref>。サロンの審査は、その年の審査委員にコローやドービニーが入れば寛容になり、そうでない年は厳しくなるなど一定せず、若手の前衛画家たちは翻弄された<ref>[[#木村|木村 (2012: 90)]]。</ref>。そうした中から、モネ、ルノワール、ピサロ、バジールといったバティニョール派の画家たちが、[[1874年]]以降、サロンから独立したグループ展を開催するようになり、[[印象派]]と呼ばれるようになる。 |
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=== 1872年 === |
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[[1872年]]に再開されたサロンは、美術長官[[シャルル・ブラン]]の下、アカデミーの権限が再び強められ、保守性を増した<ref>[[#木村|木村 (2012: 91-92)]]。</ref>。シャルル・ブランと公教育省大臣{{仮リンク|ジュール・シモン|en|Jules Simon}}は、合理的・普遍的な美というフランス革命以来の共和主義者の理念を受け継ぐとともに、中央集権化した国家機関による芸術の統制を図るため、芸術アカデミーの権威を高める方針をとった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 49)]]。</ref>。 |
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マネは『キアサージ号とアラバマ号の海戦』が入選し、ルノワールは落選した。モネ、ピサロ、シスレー、ドガは応募していない<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 50)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 056.jpg|マネ『{{仮リンク|キアサージ号とアラバマ号の海戦|en|The Battle of the Kearsarge and the Alabama}}』1864年。油彩、キャンバス、137.8 × 128.9 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/101707.html |title=The Battle of the U.S.S. "Kearsarge" and the C.S.S. "Alabama" |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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=== 1873年 === |
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[[1873年]]のサロンは、審査が更に厳格になり、落選者が続出した<ref>[[#木村|木村 (2012: 92-93)]]。</ref>。この年には、10年ぶりとなる落選展も開かれた<ref>[[#木村|木村 (2012: 156)]]。</ref>。マネは『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選し、『ル・ボン・ボック』はサロンで好評を得た。ベルト・モリゾ、メアリー・カサットも入選したが、ルノワールは落選し、『ブーローニュの森の朝の乗馬』を落選展に出展した。モネ、ピサロ、シスレー、ドガは、サロンに応募せず、独自のグループ展開催に向けて動き出した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 50-51)]]。</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet - Le repos.jpg|[[エドゥアール・マネ]]『{{仮リンク|休息(ベルト・モリゾの肖像)|fr|Le Repos (Manet)}}』1871年頃。油彩、キャンバス、150.2 × 114 cm。[[ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン]]付設美術館<ref>{{Cite web |url=https://risdmuseum.org/art_design/objects/839 |title=Repose |publisher= Rhode Island School of Design |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet, French - Le Bon Bock - Google Art Project.jpg|マネ『ル・ボン・ボック』1873年。油彩、キャンバス、94.6 × 83.3 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/59213.html |title=Le Bon Bock |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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=== 1874年 === |
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[[1873年]]12月、王党派から大統領に就いた[[パトリス・ド・マクマオン]]が美術長官シャルル・ブランを解任し、後任に{{仮リンク|フィリップ・ド・シェヌヴィエール=ポワンテル|en|Charles-Philippe de Chennevières-Pointel}}侯爵を指名した。シェヌヴィエールは、サロン改革に着手し、偉大な物語画の復興を目指して、ほとんどアカデミー会員から成る美術委員会を設立したり、サロン賞を設けたりした<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 50, 303-04)]]。</ref>。 |
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[[1874年]]のサロンは5月1日から約1か月半開かれたが、この年の4月15日から5月15日までの間、モネ、ルノワール、ピサロ、バジール、ベルト・モリゾなどの前衛的な画家たちが、グループ展を開催した(第1回印象派展)。サロンから独立したグループ展という画期的な取組であったが、世間からは嘲笑と酷評を浴びた。他方、マネは、グループ展への参加を拒絶し、サロンでの成功を追求した<ref>[[#木村|木村 (2012: 131-33)]]。</ref>。 |
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当時、サロンの作品数は3657点(絵画1852点、素描1776点)、入場者は、平日が4000人、日曜・祭日はその10倍で、40日間の合計は50万人を超えていたと推定されている。一方、第1回印象派展の入場者は30日間で約3500人であり、サロンの影響力の大きさが表れている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 102)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Le Chemin de fer - Google Art Project.jpg|マネ『{{仮リンク|鉄道 (絵画)|en|The Railway|label=鉄道}}』1873年。油彩、キャンバス、93.3 × 111.5 cm 。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.43624.html |title=The Railway |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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=== 1875年 === |
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ファイル:Edouard Manet 003.jpg|マネ『{{仮リンク|アルジャントゥイユ (マネ)|fr|Argenteuil (Manet)|label=アルジャントゥイユ}}』1874年。油彩、キャンバス、149 ×115 cm。{{仮リンク|トゥルネ美術館|en|Musée des Beaux-Arts Tournai}}([[ベルギー]])。 |
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=== 1876年 === |
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[[1876年]]は、第2回印象派展が開かれた年であり、印象派のメンバーはサロンに出展していない。[[ポール・ゴーギャン]]が風景画でサロンに初入選した<ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 76)]]。</ref>。 |
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=== 1877年 === |
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ファイル:Edouard Manet Faure as Hamlet.JPG|マネ『ハムレットを演じるフォール』1877年。油彩、キャンバス、196 × 131 cm。[[フォルクヴァンク美術館]]。 |
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=== 1878年 === |
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第3回までの印象派展に参加していたルノワールは、[[1878年]]から、サロンへの応募を再開するようになった。印象派展は、作品を売るという点では成功しておらず、経済的に厳しいことが理由であった。この年のサロンには、ルノワールの『一杯のショコラ』が入選している。しかし、ドガは、印象派展参加者はサロンに応募すべきでないという主張を持っており、印象派グループの中での意見の対立を招くことになった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 146-49)]]。</ref>。 |
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ファイル:Jules Bastien-Lepage - Hay making - Google Art Project.jpg|{{仮リンク|ジュール・バスティアン=ルパージュ|en|Jules Bastien-Lepage}}『干し草』1877年。油彩、キャンバス、180 × 195 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=9174 |title=Les Foins |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-23}}</ref>。 |
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=== 1879年 === |
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[[1879年]]のサロンでは、ルノワールの『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』が評判になり、経済的な成功を手にするようになっていった<ref>[[#木村|木村 (2012: 165-67)]]。</ref>。シスレーとセザンヌも、ルノワールに触発されてサロンに応募したが、落選した。モネもサロン応募を考えたが、[[カミーユ・ピサロ]]と[[ギュスターヴ・カイユボット]]の説得で思いとどまった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 146)]]。</ref>。 |
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この年のサロンの授賞式で、共和派[[ジュール・グレヴィ]]政権の公教育省大臣[[ジュール・フェリー]]は、アカデミーが美術を形骸化したヒエラルキーと伝統的な手法に従わせようとしていると批判した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 297)]]。</ref>。 |
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ファイル:The Birth of Venus by William-Adolphe Bouguereau (1879).jpg|[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー|ブグロー]]『[[ヴィーナスの誕生 (ブグロー)|ヴィーナスの誕生]]』1879年。油彩、キャンバス、300 × 215 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=016649&cHash=7125b59831 |title=Naissance de Vénus |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-23}}</ref>。 |
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ファイル:Pierre-Auguste Renoir 094.jpg|ルノワール『{{仮リンク|シャルパンティエ夫人とその子どもたち|fr|Madame Charpentier et ses enfants}}』1878年。油彩、キャンバス、153.7 × 190.2 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/art/collection/search/438815 |title=Madame Georges Charpentier (Marguérite-Louise Lemonnier, 1848–1904) and Her Children, Georgette-Berthe (1872–1945) and Paul-Émile-Charles (1875–1895) |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-04-14}}</ref>。 |
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=== 1880年 === |
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[[ファイル:Edouard Dantan Un Coin du Salon en 1880.jpg|thumb|right|1880年のサロンの様子。]] |
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1879年以来、第三共和政の美術行政は、サロン審査委員会の審査の在り方を批判し、サロン会場に電気照明を用いること、審査委員の範囲を広げること、絵画部門をジャンルによって分けることなどの改革を示した。これに対し、審査委員会は反対し、ブーグローとボードリーが相次いで委員を辞任する事態になった。残った審査委員たちは、7289点という大量の作品を入選させる措置に出て、サロンは混乱した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 297)]]。</ref>。 |
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モネは、長年サロンへの出品をしていなかったが、経済的に逼迫する中、前年にルノワールがサロンで成功したこともあって、1880年のサロンに応募した。当時も、経済的成功を目指す上ではサロンは高い権威を持つものであった。モネは、サロン審査の基準に合うよう妥協した上で2点を提出したが、その結果は、『ラヴァクール』1点のみが入選というものであった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 181)]]、[[#木村|木村 (2012: 140)]]。</ref>。この頃には、印象派に対する肯定的評価も徐々に増えており、官展派の画家の中にも、印象派の影響を受けた折衷的な作品が出てきた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 187)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 031.jpg|マネ『ラテュイユ親父の店』1879年。油彩、キャンバス、92 × 112 cm。[[トゥルネ美術館]]。 |
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ファイル:Monet Lavacourt.jpg|[[クロード・モネ]]『ラヴァクール』1880年。油彩、キャンバス、100 × 150 cm。[[ダラス美術館]]。 |
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ファイル:Pierre Auguste Renoir Les pecheuses de moules a Berneval.jpg|[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]『ムール貝を採る海女、ベルヌヴァルにて』1879年。油彩、キャンバス、176.2 × 130.2 cm。[[バーンズ・コレクション]]<ref>{{Cite web |url=https://collection.barnesfoundation.org/objects/6066/Mussel-Fishers-at-Berneval-(Pecheuses-de-moules-a-Berneval-cote-normand)/ |title=Mussel-Fishers at Berneval |publisher=Barnes Foundation |accessdate=2018-01-06}}</ref>。 |
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=== 民営化 === |
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[[1880年]]、美術行政は、サロンの国家主催を取りやめ、民営化することを決定した。サロン改革に関する美術行政とアカデミーとの意見対立を背景とするものであった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 298)]]。</ref>。[[1881年]]からは、{{仮リンク|フランス芸術家協会|en|Société des Artistes Français}}がサロンを開催したほか、[[1884年]]からは独立芸術家協会によるサロン([[アンデパンダン展]])が、[[1890年]]には[[国民美術協会 (フランス)|国民美術協会]]によるサロンが分離独立し、政府も[[1883年]]と[[1886年]]にトリエンナーレ展を開催するなど、美術展覧会が乱立していった<ref>[[#歴史7|尾関・陳岡・三浦 (2017: 390-95)]]。</ref>。 |
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次第に、サロンやアカデミーの権威は低下し、画家がサロン入選によって作品を認められ、顧客を得ることができるというシステム自体が機能しなくなり、代わって画商と批評家が画家と顧客をつなぐ役割を果たしていくことになる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 216)]]。</ref>。 |
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== 現在 == |
== 現在 == |
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現在も「サロン・ド・パリ」から分離した各サロンのなかのいくつかは引き続き開催されている。[[2006年]]以降、パリに拠点を置く4つ([[2006年]]の開始当時は5つ)のサロン展が合同で行う「Salon ART EN CAPITAL」が[[グラン・パレ]]のLe Nefホールにて開催されるようになり、「ル・サロン展」として知られるフランス芸術家協会サロン展などが参加している。一方で、国民美術協会サロン展は[[ルーヴル美術館]]に隣接したカルーゼル・ルーブル展示場にて、[[サロン・ドートンヌ]]展はシャンゼリゼ通り特設会場にて、現在も単独での開催を各々が継続している。 |
現在も「サロン・ド・パリ」から分離した各サロンのなかのいくつかは引き続き開催されている。[[2006年]]以降、パリに拠点を置く4つ([[2006年]]の開始当時は5つ)のサロン展が合同で行う「Salon ART EN CAPITAL」が[[グラン・パレ]]のLe Nefホールにて開催されるようになり、「ル・サロン展」として知られるフランス芸術家協会サロン展などが参加している。一方で、国民美術協会サロン展は[[ルーヴル美術館]]に隣接したカルーゼル・ルーブル展示場にて、[[サロン・ドートンヌ]]展はシャンゼリゼ通り特設会場にて、現在も単独での開催を各々が継続している。 |
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==脚注== |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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* {{Cite book |和書 |author=新関公子 |title=セザンヌとゾラ――その芸術と友情 |publisher=ブリュッケ |year=2000 |id=ISBN 4-7952-1679-7 |ref=新関}} |
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*J. J. Marquet de Vasselot: ''Répertoire des catalogues du musée du Louvre'', 1793–1917 |
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*Thomas Crow: ''Painters and Public Life in 18th Century Paris''. Yale University Press 1987 |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=[[井出洋一郎]] |title=「農民画家」ミレーの真実 |publisher=[[NHK出版]] |series=[[NHK出版新書]] |year=2014 |isbn=978-4-14-088427-0 |ref=井出}} |
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{{Commonscat|Salon de peinture et de sculpture}} |
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* {{Cite book |和書 |author=木村泰司 |title=印象派という革命 |publisher=[[集英社]] |year=2012 |isbn=978-4-08-781496-5 |ref=木村}} |
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* [http://nga.gov.au/research/salons.cfm Timeline of the Paris salons(サロンの歴史)] (英語) |
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* {{Cite book |和書 |author=[[島田紀夫]] |title=印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い |publisher=[[小学館]] |year=2009a |isbn=978-4-09-682021-6 |ref=島田・挑戦}} |
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* [http://www.artistes-francais.com/ ル・サロン公式ホームページ(パリ)] (フランス語) |
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* {{Cite book |和書 |author=[[高階秀爾]] |title=フランス絵画史――ルネサンスから世紀末まで |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] |year=1990 |isbn=4-06-158894-X |ref=高階・フランス}} |
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* [http://www.nationaledesbeauxarts.com/ ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール公式ホームページ(パリ)] (フランス語・英語) |
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* {{Cite book |和書 |author=新関公子 |title=セザンヌとゾラ――その芸術と友情 |publisher=ブリュッケ |year=2000 |isbn=4-7952-1679-7 |ref=新関}} |
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* [http://www.nffigue.com/lesalon.html 日仏フィグー社・美術部門(現在のル・サロン情報)] (日本語) |
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* {{Cite book |和書 |author=シルヴィ・パタン |others=渡辺隆司・村上伸子訳、高階秀爾監修 |title=モネ――印象派の誕生 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=1997 |origyear=1991 |isbn=4-422-21127-7 |ref=パタン}} |
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* {{Cite book |和書 |author=マリナ・フェレッティ |others=武藤剛史訳 |title=印象派[新版] |publisher=[[白水社]] |series=[[文庫クセジュ]] |year=2008 |isbn=978-4-560-50920-3 |ref=フェレッティ}} |
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; 『西洋美術の歴史』 |
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* {{Cite book |和書 |author=大野芳材、中村俊春、[[宮下規久朗]]、望月典子 |title=西洋美術の歴史6:17~18世紀――バロックからロココへ、華麗なる展開 |year=2016 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-403596 |ref=歴史6}} |
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* {{Cite book |和書 |author=尾関幸、陳岡めぐみ、[[三浦篤]] |title=西洋美術の歴史7:19世紀――近代美術の誕生、ロマン派から印象派へ |year=2017 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4-12-403597-1 |ref=歴史7}} |
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== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Salon de peinture et de sculpture}} |
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* [http://nga.gov.au/research/salons.cfm Timeline of the Paris salons(サロンの歴史)]{{En icon}} |
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2018年1月7日 (日) 07:45時点における版
サロン・ド・パリ(フランス語: Salon de Paris)は、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが18世紀にパリで開催するようになった公式美術展覧会。その後、フランスの政体が変わりながらも1880年までアカデミーまたは政府によって開催され、官展ともいう。1881年以降は、フランス芸術家協会が開催する民間のサロンに引き継がれた。
概要
サロンの起源は、王立絵画彫刻アカデミーが、正会員と準会員の作品を展示する展覧会を開いたことにあり、1737年(ルイ15世の時代)以降、ほぼ定期的に、ルーヴル宮殿のサロン・カレ(方形の間)で開いて一般市民が無料で観覧できるようにしたことから、「サロン」と呼ばれるようになった。当初はほぼ毎年、1751年からは隔年の開催である。当時はロココ美術全盛の時代であり、フランソワ・ブーシェらが活躍していた。1745年、ロココ美術の余りに官能的な描写の氾濫に対する危惧もあって、アカデミーの改革が行われ、不適切な作品は投票で排除するというサロンの審査制度が明確化された。18世紀後半になると、徐々に新古典主義的な作品が奨励されるようになり、1785年のサロンにジャック=ルイ・ダヴィッドが『ホラティウス兄弟の誓い』を出品したことで、新古典主義は完成の域に達した。
1789年にフランス革命が起きると、サロンに出品できるのはアカデミーの正会員と準会員に限られないことになり、公募制がとられた。当初は無審査の自由サロンであったが、出品数の激増によって運営が困難になったことから、1798年から審査制度が行われた。審査制度が行われたことによって、画家たちはアカデミーの主流である新古典主義に沿った作品を提出しようとし、19世紀を通じて、新古典主義はサロンの規範となった。新古典主義の正統を受け継いだのが、1824年のサロンで『ルイ13世の誓い』が成功したドミニク・アングルであった。これに対し、テオドール・ジェリコーが1819年のサロンに『メデューズ号の筏』を出品し、ウジェーヌ・ドラクロワが1824年のサロンに『キオス島の虐殺』を出品するなど、新古典主義に対立するロマン主義の潮流も生まれた。
ルイ・フィリップによる7月王政で、1833年から、しばらく隔年開催となっていたサロンは毎年開催となり、展示作品を3000点超まで増やすといった改革が行われ、芸術の大衆化が進んだ。新古典主義とロマン主義の中庸派に立つオラース・ヴェルネやポール・ドラローシュも活躍した。
2月革命後の短い第二共和政では、サロンの民主化が行われ、1848年のサロンは無審査とされたが、玉石混交を招き、1849年から審査制度が復活した。そうした中、ギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーといった、庶民の生活を描く写実主義(レアリスム)の画家がサロンに登場してきた。
ナポレオン3世の第二帝政の時期には、ジョルジュ・オスマンによるパリ大改造によって、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となり、サロンが社会的行事として定着し、美術批評もさかんになった。画家が作品を売るためには、サロンでの成功が不可欠であった。サロンの審査委員は、画家による選挙と美術行政による任命によって選ばれていたが、結局はアカデミー会員が多くを占めたため、審査は新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに則って行われた。1855年のサロンは、パリ万国博覧会に吸収されたが、この時から、シャンゼリゼ通りの産業館で開催されるようになった。ただ、既に定着していた「サロン」という名称は残った。1863年のサロンの審査は特に厳格で、落選者が続出したが、ナポレオン3世の命令で落選展が開かれた。エドゥアール・マネがその落選展で出品した『草上の昼食』と、1865年のサロンに出品した『オランピア』は美術界にスキャンダルを巻き起こし、新たな絵画の訪れを告げた。この頃パリに集まったクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールといったバティニョール派と呼ばれる若手画家たちもサロンに応募したが、審査委員にバルビゾン派の画家が入って審査が寛容になった年は、入選を勝ち得たものの、審査が厳格な年は、多くが落選を強いられた。
普仏戦争後の第三共和政の下でも、サロンの審査は保守的であった。これに不満を抱いたバティニョール派の画家たちは、1874年以降、サロンから独立したグループ展(印象派展)を開くようになった。サロンは、依然として大きな集客力と社会的影響を持ち続けていたが、1880年を最後に、美術行政とアカデミーとの対立を機に、国家主催のサロンは取りやめられた。
その後は、フランス芸術家協会がサロンを開催したほか、複数の団体がサロンを開催するようになったが、徐々にサロンやアカデミーの権威は低下していった。
ブルボン朝
起源
フランスで王立絵画彫刻アカデミーが設立されたのは、ブルボン朝のアンヌ・ドートリッシュ摂政時代の1648年であった。これを主導したのは画家シャルル・ルブランであり、それまでの同業者組合に代わり、作品の受注・制作と職業養成を行おうとするもので、絵画と彫刻の社会的地位の向上を目指していた。1651年にアカデミーは同業者組合との合併を余儀なくされたが、1655年、ジュール・マザランの保護の下、再び独立し、国王ルイ14世から公的な教育と講演の独占の権利など、特権を与えられた[1]。アカデミーは、1667年にパレ=ロワイヤル中庭で初めて公式の展覧会を開催し、以後、1687年まで断続的に行われてしばらく中断した。1699年にフランソワ・ジラルドンの『ルイ14世騎馬像』除幕式典の関連事業として、ルーヴル宮殿大ギャラリーで展覧会が開催されたことを機に、再開された[2]。
1737年、アカデミーが、ルーヴル宮殿のサロン・カレ(方形の間。当時はグラン・サロンと呼ばれていた)で、一般市民が無料で観覧できる展覧会を開き、以後、ほぼ毎年、開催するようになった。そのことからサロンと呼ばれるようになった。サロンに出品できるのは、アカデミーの正会員と準会員だけであった。1751年からは隔年の開催となった[3]。当時、王侯貴族以外にも美術を楽しむ層が拡大しており、公衆が美術を鑑賞できる場としてサロンが求められ、また、美術家の側も、自分の作品を公開することで顧客を掘り起こすことができるというメリットがあった。また、サロンの定期的開催によって、美術の専門家ではない文学者や思想家による美術批評も広がっていき、美術家はそれを無視できなくなっていった[4]。
1737年
18世紀のフランスは、アントワーヌ・ヴァトーの後を継ぐロココ美術全盛の時代であり、フランソワ・ブーシェ、シャルル=ジョゼフ・ナトワール、シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(カルル・ヴァン・ロー)といった画家が活躍していた[5]。その背景には、ルイ15世の時代、国王権力の絶対性が弱まり、貴族がパリのブルジョワ的な生活に親しんだ結果、感性や恋愛を重視する美術が好まれたことがある[6]。
1738年
18世紀、肖像画は、歴史画に次いで格の高いジャンルとされており、ジャン=マルク・ナティエ、ルイ・トッケ、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール、ジョセフ・アヴェドといった肖像画家が活躍した[8]。
1739年
1740年
ジャン・シメオン・シャルダンは、享楽的なブーシェの作品とは対照的に、厳しい造形の静物画や肖像画を制作した。1737年以降のサロンにも毎回出品し、展覧会の展示係を任されていた[9]。
1741年
ジョセフ・アヴェドは、1734年、肖像画家としてアカデミー会員となり、1741年のサロンに出品した『クロザ婦人』の肖像画など、緻密な表現で知られる[11]。
1742年
1743年
1745年
18世紀半ば、ルノルマン・ド・トゥルヌエムによるアカデミーの改革が行われ、1745年以降、サロンの審査制度が明確化された。アカデミー院長以下15人の歴史画家を中心とする19人の委員が、ルーヴル宮殿のアポロンの間で出品作の審査をし、不適切な作品を投票で排除するというものであった[14]。
審査制度が始まった背景には、ロココ美術が頂点を迎える中、度の過ぎた官能的描写が氾濫していることへの危惧があったと考えられる[15]。
1746年
1746年のサロンを機に、文芸愛好家ラ・フォン・ド・サン=チエンヌが『フランス絵画の現状に関する考察および1746年のサロン出品作の検証』という書物を発表し、大きな議論を巻き起こした。ラ・フォンは、フランソワ・ブーシェやシャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(カルル・ヴァン・ロー)といったロココ美術の主導者を、古典主義から逸脱するものとして批判し、シャルダンやヴェルネに賛辞を送った。アカデミーに属さない非専門家によるこうした美術批評に対しては、アカデミー関係者から強い反発があった[17]。
1747年
1748年
1750年
1751年
1753年
1755年
ジャン=バティスト・グルーズは、ロココから新古典主義的な世界に移行する時代に脚光を浴びた画家であり、1755年のサロンで『聖書を説明する父親』などの作品で賞賛された[21]。
1757年
1759年
1761年
グルーズは、イタリア留学から帰国後の1761年のサロンで、『村の花嫁』によって名声を確立した[25]。
1763年
1763年のサロンでは、ジョセフ=マリー・ヴィアンが、古代ギリシャ趣味の『アモルを売る女』を出品して注目を浴びた。18世紀前半から始まったヘルクラネウムやポンペイの発掘で古代への関心が高まる中、ヴィアンのギリシャ趣味は、新古典主義を先取りするものであった[27]。
-
ジョセフ=マリー・ヴィアン『アモルを売る女』1763年。油彩、キャンバス、117 × 140 cm。フォンテーヌブロー宮殿美術館。
1765年
1765年のサロンには、ローマ留学から帰国したフラゴナールが、アカデミー準会員となるため、『コレシュスとカリロエ』を出品した。この作品は、ディドロから賞賛された。しかし、フラゴナールは、1767年のサロンを最後に出品をやめた[29]。
1767年
1767年のサロンには、ローマから帰国したユベール・ロベールが『ローマの港』を出品した。ロベールは、この作品で、一気にアカデミーの準会員・正会員となるという異例の待遇を受け、サロンでも好評を博した。ディドロは、この作品について、色彩と技巧を賞賛する一方、魂を打つ力はないと手厳しい批評をしている[31]。
1769年
1769年のサロンでは、ジャン=バティスト・グルーズが歴史画家としての承認を求めて『セプティミウス・セウェルス帝とカラカラ』を出品したが、歴史画家としてのアカデミー入会は認められず、風俗画家としての入会となった。ドゥニ・ディドロからは、サロン評で「グルーズは自分の領分を放棄した。自然の熱心な研究者である彼は、歴史画が必要とする誇張の域に達することができなかった」と批判された[33]。これ以後、グルーズは、フランス革命までの時期にはサロンに出品しなくなった。既に名声を得ていたグルーズにとっては、市民層のために制作を続ければ経済的に成り立つため、名誉が得られないのであればサロンに出品する必要はなかった[34]。
1771年
1773年
1775年
1774年にルイ16世が即位した。この頃から、啓蒙主義・合理主義の潮流が勢いを増し、美術界においても、ロココから、古代ギリシャを模範に普遍的な理想美を追求する新古典主義への転換が本格的に起こってきた[36]。
1777年
王室建造物局総監を継いだダンジヴィレ伯爵と国王首席画家・アカデミー院長ジャン=バティスト・マリー・ピエールは、「大様式」と呼ばれる古典主義的な歴史画の再興を図った。1775年、アカデミーで、歴史画と偉人の大理石彫像の制作を奨励し、完成作は買い取るとともにサロンに展示するという方針が発表された。これを受けて、1777年から1789年にかけてのサロンで奨励制作の作品が発表された[37]。
1779年
1779年のサロンには、ダヴィッドのライバルであるフランソワ=アンドレ・ヴァンサンが、第2回奨励制作として、フロンドの乱で母后アンヌ・ドートリッシュと高等法院との和解に努めたモレの愛国的行為を描いた作品を提出し、賞賛を浴びた[38]。
-
フランソワ=アンドレ・ヴァンサン『高等法院長モレと反徒たち』1779年。油彩、キャンバス、325 × 325 cm。ブルボン宮殿。
1781年
ジャック=ルイ・ダヴィッドは、1780年のローマ留学から帰国し、『施しを受けるベリサリウス』でアカデミー準会員になって、1781年のサロンにこれを出展した。この作品は、「フランスで真に新古典主義と呼べる最初の大作」だと賞賛された[39]。メナジョの『レオナルドの死』は、第3回奨励制作による作品であり、レオナルド・ダ・ヴィンチを庇護したフランソワ1世を称揚するものである[40]。
1783年
ダヴィッドは、1783年のサロンで、奨励制作よりもアカデミー入会作品を優先させ、『アンドロマケの悲嘆』を出展してアカデミー正会員になった[43]。
1785年
ジャック=ルイ・ダヴィッドが1785年のサロンに展示した『ホラティウス兄弟の誓い』は、新古典主義の理念の結晶といえる作品である[46]。ダヴィッドのライバル、ピエール・ペイロンも、第5回奨励制作として『アルケスティスの死』を展示し、サロンで賞賛を浴びた[47]。
1787年
1789年
フランス革命期
1791年
1791年、フランス革命の「自由と平等」のスローガンの下、無審査で誰もが出品できる自由サロンが開催され、1798年に再び審査制度がとられるまで続いた[54]。アンシャン・レジーム期と異なり、サロンに出品することができるのはアカデミーの正会員と準会員に限られるわけではなく、公募制になった[55]。
1793年
1793年、国民公会で、王立絵画彫刻アカデミーが旧体制の特権階級とみなされ、その廃止が決定された。サロンの審査に不満を抱いていたダヴィッドも、アカデミーの廃止運動を主導した[56]。この年のサロンでは、ダヴィッドの弟子ジロデ=トリオゾンが、5年のイタリア留学時代に制作した『エンデュミオーンの眠り』を出品し、反響を呼んだ[57]。
1795年
1795年、廃止されたアカデミーに代わって、フランス学士院が設置され、ダヴィッド、フランソワ=アンドレ・ヴァンサン、ジャン=バティスト・ルニョーらが終身会員に就いた[59]。
1796年
1798年
無審査の自由サロンは、出品数の激増によって運営が困難になり、1798年、審査制度が採用された[62]。このことで、画家たちは、審査に通るため、アカデミーの主流である新古典主義に沿った作品を制作しようという傾向が強まった[63]。この年のサロンでは、ダヴィッドの弟子フランソワ・ジェラールが出品した『アモーレとプシュケ』が議論を巻き起こした[64]。
1799年
1799年のサロンには、ダヴィッドの弟子ゲランが、古代ローマのマルクス・セクストゥスが帰郷して妻の死に直面する場面を描いた『マルクス・セクストゥスの帰還』を出品した。執政政府の時代に、亡命先から帰国してきたフランスの貴族たちは、この作品に自分たちを重ね合わせた。ゲランは、この作品の評判によって、師ダヴィッドをしのぐ名声を得た[66]。
1800年
-
マリー=ギエルミーヌ・ブノワ『黒人女性の肖像』65 × 81 cm。ルーヴル美術館。
1801年
1802年
ジロデが、戦死したナポレオンの将軍たちの霊が天国で詩人オシアンに迎えられるという場面を描いた『自由を求める戦いにおいて祖国のために死んだフランスの英雄たちの称揚』を出品した[68]。
-
ジロデ『自由を求める戦いにおいて祖国のために死んだフランスの英雄たちの称揚』192 × 182 cm。マルメゾン国立美術館[69]。
第一帝政
ナポレオン・ボナパルトは、1804年、皇帝の座に就き、フランス第一帝政を始めた。この時代は、美術が新しい皇帝と帝国のための政治的プロパガンダに利用されたことが特徴である[70]。
1804年
1806年
1808年
ナポレオン戴冠式の直後、ジャック=ルイ・ダヴィッドが皇帝の首席画家に就任し、1805年末に着手した『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』を1808年のサロンで発表した。画面の中で空間が完結せずに視線が列席者たちに次々誘導される構図は、伝統的な歴史画からは外れるものであったが、ナポレオンは、その迫真性を喜んだ[73]。
プリュードンは、『プシュケーの誘拐』で、ロココの優美さを受け継ぎながら、後のロマン派につながる感情表現を示している[74]。
-
グロ『アイラウの戦場におけるナポレオン』1808年。521 × 784 cm。ルーヴル美術館[77]。
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アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン『アタラの埋葬』207 × 267 cm。ルーヴル美術館[78]。
1810年
1812年
復古王政
1814年
1814年、ナポレオンが皇帝を退位し、ルイ18世が即位してフランス復古王政が始まった。ダヴィッドは亡命を余儀なくされたが、彼の弟子たちが古典主義の美学を堅持していた。ルイ18世は、1816年に学士院を改組して美術アカデミーの名称を復活させた[80]。
1817年
1819年
テオドール・ジェリコーが、1816年に発生したフランス海軍のメデュース号の難破事件を題材とした『メデューズ号の筏』を出品し、大きな議論を呼び起こした。同時代の社会的事件を大きな画面で描く姿勢は、ロマン主義の産声といえる[81]。
1822年
1822年、オラース・ヴェルネは、納得し難い政治的理由で落選した作品をまとめて、自分のアトリエで展示した。これは19世紀最初の個展の先駆けといえる[84]。
1824年
ウジェーヌ・ドラクロワが『キオス島の虐殺』を出品した。ギリシャ独立戦争中の1822年にキオス島でオスマン・トルコにより実行された虐殺事件を描いた作品で、1824年のサロンでは『キオス島の虐殺からの一場面――死、あるいは奴隷となる運命を待つ家族――数々の解説や今日の新聞を見よ』という時事的な見出しが付けられ、ギリシャへの救援を訴えるメッセージに多くの観衆が共感した。他方で、グロからは「絵画の虐殺」と批判され、ドラクロワは失望した。この年のサロンには、オラース・ヴェルネの『モンミライユの戦い』も出品された。スタンダールは、サロン評で、ダヴィッドの一派は終わった、現代の新しい絵画は魂を表現し、人の感情に訴えるべきだと書いた。こうした1824年のサロンは、「ロマン主義のサロン」と言われる[85]。
一方、ドミニク・アングルは、1806年以来イタリアに滞在していたが、4年をかけて『ルイ13世の誓い』を完成させ、サロンに出品した。この作品で高い評価を受けたことから、アングルは1825年、パリにアトリエを開いた[86]。以後、アングルは、プッサンとダヴィッドの後継者として、新古典主義の指導的立場に立った[87]。
ジョン・コンスタブル、リチャード・パークス・ボニントン、コプリー・フィールディングら多くのイギリス人画家の作品が出品され、この3人はサロンで金賞を授与された。このことから、1824年のサロンは「イギリス人のサロン」とも呼ばれた[88]。
1827年
新古典主義のリーダーとして期待を集めるドミニク・アングルが、大作『ホメロス礼賛』を出品した。古代ギリシャの詩人ホメーロスを頂点に、17世紀古典主義の代表的画家ニコラ・プッサンを配するなど、古代からルネサンス、古典主義と受け継がれてきた正統な芸術を継承することを示した作品である[91]。
一方、風景画家ジャン=バティスト・カミーユ・コローがイタリア留学中に『ナルニの橋』と『ローマ近郊の田園』をサロンに送り、初入選を果たした[92]。
7月王政
1830年7月、シャルル10世が議会の解散等を命ずる勅令を発したことをきっかけに、フランス7月革命が勃発し、ブルボン王朝は再び倒れた。共和派、ボナパルト派、王党派の妥協の産物として、ルイ・フィリップが王位に就き7月王政となった。ルイ・フィリップは、美術の面では、自由主義者であることを示そうとして、公的注文やサロンでの政府買上げにおいて、幅広い流派を採用した。また、彼は、1833年、芸術家らの要望を受け、アカデミーの反対にかかわらず、サロンを毎年開催とし、さらに、展示作品数も3000点超まで増やした。そのことも芸術の大衆化を進める要因となった。歴史画の大作より、新興ブルジョワジーの家庭に飾るのに適した風景画、風俗画、肖像画が好まれるようになってきた。多くの美術批評家が生まれ、文芸誌にサロン評を掲載するようになった[97]。
1831年
ルイ・フィリップは、1831年のサロンに出品されたドラクロワの『民衆を導く自由の女神』を政府買上げにし、共和派の期待に応えた尾関・陳岡・三浦 (2017: 129)。</ref>。
1820年代から1830年代に登場した、異国趣味の画家(オリエンタリスト)の1人、アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカンは、小アジア旅行の経験を基に、1831年のサロンに『スミルナの夜警』を出品して好評を得た[98]。バルビゾン派のテオドール・ルソーは、この年、『オーヴェルニュ風景』で初入選している[99]。
1833年
1833年以降、サロンは毎年開催となっている。画壇では、オラース・ヴェルネが、ルイ・フィリップの庇護を受けて地位を築いた。『パリ市庁舎に向かうためにパレ・ロワイヤルを後にするオルレアン公、1830年7月31日』のように、同時代の事件や中世の歴史を題材としながら、様式的にはロマン主義の画家と異なり冷たい仕上げを行ったヴェルネは、新古典主義とロマン主義の中庸派(妥協派)という立場に立つことで、政府や大衆からの支持を得ることができた[103]。
1834年
1834年のサロンでは、ドラクロワがモロッコ旅行の成果として『アルジェの女たち』を出品し、政府買上げとなった[106]。
また、中庸派のポール・ドラローシュが出品した『ジェイン・グレイの処刑』が評判となった。ドラローシュは、1832年にアカデミー会員、国立美術学校教授となっており、アカデミーが新古典主義一辺倒ではなくなってきたことを示している[107]。他方、アングルは、1834年のサロンで『サンフォリアンの殉教』が不評だったのを最後に、サロンへの出品をやめ、パリを去った[108]。
1835年
1836年
バルビゾン派のテオドール・ルソーは、1836年のサロンに大作『ジュラ山脈の山下り』を出品したが、落選し、その後も落選を続けて「偉大なる落選画家」と呼ばれるようになる[111]。
この年、オラース・ヴェルネとポール・ドラローシュが、首尾一貫しない審査に抗議して審査委員を辞任した。これは、テオドール・ルソーの落選と関係があるようである[112]。
1837年
1838年
1839年
1840年
1840年のサロンでは、ジャン=フランソワ・ミレーが、親友の父親を描いた『ルフラン氏の肖像』を提出して初入選した[114]。
1841年
1842年
1843年
1844年
1845年
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ギュスターヴ・クールベ『ギタレロ』1844年。油彩、キャンバス、55 × 41 cm。私蔵[118]。
1846年
1847年
1847年のサロンでは、ジャン=レオン・ジェロームが『闘鶏(闘鶏をする若いギリシャ人たち)』でデビューした。彼は、古代世界を舞台に現代的な風俗を描く新ギリシャ派の代表者である[119]。
ミレーは、ギリシャ神話を主題にした歴史画に挑戦し、『樹から降ろされるエディプス』を入選させた[120]。
第二共和政
1848年2月、パリで、ルイ・フィリップ国王の立憲君主制に対し、共和主義を掲げた民衆の武装蜂起が起こり、ルイ・フィリップは亡命した(1848年のフランス革命、2月革命)。さらに、保守化した共和派に対し労働者が六月蜂起を起こして鎮圧されるなど、政治的混乱が続いた。12月、ルイ・ナポレオンがフランス第二共和政の大統領に当選した。第二共和政下では、内務大臣ルドリュ=ロラン、国立美術館総局長フィリップ=オーギュスト・ジャンロン、美術長官シャルル・ブランの3人を中心に、民主化が進められた[124]。
1848年
1848年のサロンは、民主化の結果として、無審査で、全応募作品5180点を入選させるという画期的な措置がとられた[125]。
国立美術館総局長ジャンロンがこの年のサロンで重視したのが、庶民の貧困や労働を描くレアリスム(写実主義)の画家たちであり、ミレーも『箕をふるう人』で認められ、政府注文を受けることができ、その報酬でバルビゾン移住がかなった。これがミレーの農民画の出発点となった。他方で、ミレーが同時に出品した歴史画『バビロン捕囚』は評判が悪かった[126]。
1849年
1849年のサロンは、前年のサロンが無審査としたことで玉石混交を招いたという反省から、審査委員会を設けることにした。しかし、美術アカデミー会員による審査ではなく、これまでのサロン出品者の選挙によって決定された。その結果、入選作品数は2586点まで絞られた[128]。ギュスターヴ・クールベは、『オルナンの食休み』が2等賞で政府買上げとなり、自信を深めた[129]。
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ギュスターヴ・クールベ『オルナンの食休み』1848-49年。油彩、キャンバス、 195 × 275 cm。リール美術館。
1850年-51年
1850年と1851年は、2年にまたがってサロンが開催された。入選作品数は約4000点に上った。サロンの会場は、初めて、ルーヴル美術館からパレ・ロワイヤルに移された[130]。1850年のサロンの開催時期が遅れ、1851年1月に持ち越されたのは、1849年にとられた投票審査制度が混乱を招いたためであった[131]。
1等賞を獲得したのは、アレクサンドル・アンティーニャの『火災』であった。このように、民衆の現実を劇的に描く作品が、一般市民に親しまれ、評価を受けた。そのほか、オクターヴ・タサエールの『不幸な家族(自殺)』、イジドール・ピルスの『愛徳修道女の死』、ジュール・ブルトンの『飢餓』などが注目を浴びた[132]。
しかし、この時のサロンで最も革新的だったのは、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』であり、レアリスム(写実主義)絵画の代表作といえる。本来は歴史画で用いられる特大サイズのキャンバスに、平凡な地方ブルジョワの埋葬場面を描き出したのに対し、世間からは、卑俗で醜いという非難が寄せられた[133]。さらに、|ジャン=フランソワ・ミレーが出品した『種まく人』も大きな議論を巻き起こした。保守派・ブルジョワからは、労働者の悲惨な生活を訴える社会主義的な主張を含むものと受け取られ、拒絶反応があった[134]。クールベやミレーの登場によって、1851年のサロンは後に「レアリスムの最初のサロン」と呼ばれる[135]。
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アレクサンドル・アンティーニャ『火災』油彩、キャンバス。オルレアン美術館。
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クールベ『市から帰るフラジェイの農民たち』1850年。油彩、キャンバス、208.5 × 275.5 cm。ブザンソン美術館。
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クールベ『石割り』1849-50年。油彩、キャンバス、165 × 257 cm。焼失。
第二帝政
第二共和政のフランスで有産階級と無産階級の対立が激しくなる中、ルイ・ナポレオンが1851年12月にクーデターを起こし、1852年12月に皇帝に即位してナポレオン3世となった(フランス第二帝政)。ナポレオン3世は、ジョルジュ・オスマンをセーヌ県知事に任命し、パリ市街の大改造を行わせた。これによって中産階級の市民生活は大幅に近代化され、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となった。サロンも社会的行事として定着した。この時期、絵画界を支配したのは新古典主義を受け継ぐアカデミズム絵画であった。画家の出世コースは、まずエコール・デ・ボザールで教育を受け、ローマ賞で大賞をとればローマのフランス・アカデミーに国費留学ができ、さらにサロンで入選すれば画家として認められ、評価が高まれば政府買上げの対象となり、最終的には芸術アカデミー会員(絵画部門は14名)に選ばれるというものであった。ローマ賞コンクールやサロンの審査委員を務めたのも、保守的な芸術アカデミー会員であった。もっとも、第二帝政政府の帝室美術館総局長(のち美術総監)エミリアン・ド・ニューウェルケルクが取り仕切る美術行政の側は、芸術アカデミーの余りの保守性を好まず、芸術アカデミーの弱体化を図る政策を打ち出していった[141]。
1852年
第二帝政の初期、サロンの審査委員は、半数が画家による選挙で選ばれ、残りの半数が美術行政によって選ばれた。画家による選出委員のほとんどがアカデミー会員であり、美術行政も新古典主義を規範としていたため、審査もそうした規範に則ったものとなった[142]。
1853年
1853年から、作品の質を高めるという目的で、サロンは隔年の開催になった[145]。帝室美術館総局長ニューウェルケルクの考え方を反映して、新古典主義的な作品のみが入選した[146]。
ミレーは、旧約聖書のルツ記から題材をとった『刈入れ人たちの昼食(ルツとボアズ)』が2等賞を受け、1859年までの間、無鑑査の資格を得ることができた[147]。
1855年
1855年のサロンは、パリ万国博覧会の美術展覧会に吸収された[149]。会場は、博覧会のためにシャンゼリゼ通りに面して建設された産業館であり、以降のサロンも、恒常的に産業館で開催されるようになった。ただ、既に定着していた「サロン」という名称は残った[150]。クールベは、博覧会のために大作『画家のアトリエ』を制作したが、拒否され、博覧会会場の近くに小屋を建てて個展を開くという革新的な取組をした[151]。
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ジュール・ブルトン『落穂拾い』1854年。油彩、キャンバス、93 × 138 cm。アイルランド国立美術館。
1857年
1857年からは、サロンの審査委員はアカデミーの会員で独占されるようになった。サロンの審査は、ますます保守性を増していった[152]。
ジャン=フランソワ・ミレーが最下層の農民を描いた『落穂拾い』を出品したが、保守的な批評家からは、社会不安をあおるものとして批判された[153]。
1859年
1859年のサロンは、3894点(うち絵画は3045点)の応募があったが、落選者が多く、ニューウェルケルクに対する抗議運動が起きた。アングルとドラクロワはもはやサロンを重視していなかったが、ボードリー、ジェローム、ブーグローといったアカデミズムの画家がサロンの中心的存在であった。また、ルソー、コロー、トロワイヨン、ドービニーなどのバルビゾン派は大衆から高い人気を得ていた。クールベは、作品が期限に間に合わず、提出しなかった。カミーユ・ピサロがこの年サロンに初入選したほか、将来の印象派の画家の多くはこの頃パリに集まってきていた[155]。
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コンスタン・トロワイヨン『市場へ向かう道』1859年。油彩、キャンバス、260 × 211 cm。エルミタージュ美術館。
1861年
1861年のサロンには、エドゥアール・マネが『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』で初入選し、『スペインの歌手』は優秀賞を受賞した。この頃、マネ、アルフォンス・ルグロ、アンリ・ファンタン=ラトゥール、カロリュス=デュラン、フェリックス・ブラックモン、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーといったポスト・レアリスムといえる画家たちのグループが形成されてきて、造形表現の革命を起こしていくことになる[159]。
1863年
1863年のサロンの審査はとりわけ厳格で、絵画の入選作はわずか1915点であった。この年のサロンで絶賛されたのは、カバネルの『ヴィーナスの誕生』であり、第二帝政期における享楽性、女性ヌードの氾濫を象徴している。ジェロームの『囚人』に見られるようなオリエンタリズムもこの時期の流行である[162]。
同年11月には、それまで芸術アカデミーが管轄していたエコール・デ・ボザールの校長を帝室美術大臣が任命することとなるなど、美術教育の権限を芸術アカデミーから美術行政に移す改革が断行された。ローマ賞コンクールも美術総監ニューウェルケルクを長とする評議会が管理することになった[163]。サロンは、帝室美術省による美術行政の管轄下に入り、ニューウェルケルクは部下のフィリップ・ド・シェヌヴィエールをサロンの運営に当たらせた[164]。カバネル、ジェローム、ピルスといったアカデミズムの画家は、次々アカデミー会員となるとともに、この年にエコール・デ・ボザールのアトリエ主任教授にも任命された。彼らは、画家たちによる選挙によってサロンの審査委員に選ばれることが多く、サロンの保守性を維持する役割を果たした[165]。
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ジャン=レオン・ジェローム『囚人』1861年。油彩、パネル、45 × 78 cm。ナント美術館。
落選展
1863年のサロンの審査が余りに厳しかったことから、審査委員会に対して芸術家たちの非難の声が高まった。これを受けて、ナポレオン3世は、サロンとは別に、落選作のみを展示する落選展の開催を決定した。この年の落選展には、少なくとも687点が展示されたが、中でもエドゥアール・マネの『草上の昼食』が大スキャンダルを巻き起こした[170]。ホイッスラーの『白のシンフォニー』も激しい批判を浴びた[171]。
1864年
サロンは、1864年から、再び毎年の開催となった。この年のサロンは、それ以前のサロン受賞者とレジオンドヌール勲章受章者が審査委員の4分の3を選挙し、美術行政が残りの4分の1を任命する方式に改められ、アカデミーの権限は後退を強いられた。それでも、審査委員の選出にアカデミー会員の影響が大きかったため、審査はそれほど緩和されず、再度の落選展の開催を求める声も上がった[174]。また、この年のサロンから、審査部門が、絵画・素描、彫刻、建築、版画の4部門に分けられた[175]。
ミレーの『羊飼いの少女』が1等賞をとり、政府買上げの申出がされるなど、ミレーに対する評価が高まった[176]。この年、ピエール=オーギュスト・ルノワールが『踊るエスメラルダ』で入選を果たしている[177]。ベルト・モリゾも、コローの影響を受けた『オーヴェルの古い道』で初入選した[178]。
1865年
1865年のサロンでは、絵画・素描部門の審査委員12人のうち、選挙による委員が9人、美術行政による任命委員が3人であった[183]。
マネが『オランピア』を出品し、1863年の『草上の昼食』を上回るスキャンダルを起こした。娼婦に顧客から花束が贈られている場面をあからさまに描き出したことが不道徳と非難された上、平面性の強い造形手法も批判された[184]。
この年、クロード・モネは『オンフルールのセーヌ河口』ほか1点の海景画で初入選した[185]。同じ年、エドガー・ドガも『中世の戦争の場面』で初入選した[186]。
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モネ『オンフルールのセーヌ河口』1865年。油彩、キャンバス、89.5 × 150.5 cm。ノートン・サイモン美術館[188]。
1866年
1866年のサロンでは、絵画・素描部門の審査委員は24人となり、選挙による委員が18人、美術行政による任命委員が6人であった。選挙による委員の上位3人はジェローム、カバネル、ピルスであったが、コローとドービニーも選挙で選ばれた[191]。コローとドービニーが入ったこともあり、前衛的な画家に寛容な審査となった。クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジールといったバティニョール派の画家たちは入選した。他方、マネ、ポール・セザンヌは落選した[192]。セザンヌは、この年、美術総監ニューウェルケルクに対し、落選展の開催を求める手紙を送っている[193]。
モネは、マネの作品に着想を得た『草上の昼食』を出品しようとしたが、断念し、その代わりに『緑衣の女』ほか1点を出品して入選した。スペイン趣味が強かった当時の審査委員や批評家からは好評を得た[194]。
1867年
1867年のサロンは、パリ万国博覧会と並行して開催された[198]。そのため、サロンは補助的な役割にとどまった[199]。絵画部門の審査委員は15人に減るとともに、画家の選挙による審査委員が3分の2(10人)、美術行政による任命が3分の1(5人)という制度に改められた。その結果は、画家選出委員の上位3名はカバネル、ジェローム、ピルスが占め、美術行政任命委員の構成も前回とほとんど変わらなかった。そのこともあって、前衛的な画家には厳しいサロンとなった。落選展開催の要望もあったが、美術総監ニューウェルケルクはそれを拒否した[200]。エドガー・ドガとベルト・モリゾは入選したが、モネ、ルノワール、シスレー、バジールは落選した。そのため、彼らの間では、独自の展覧会を開催しようという案が出たが、資金不足のため立ち消えとなった[201]。
ミレーは、『烏のいる冬景色』と『鵞鳥番の少女』で1等賞を与えられ、絶頂期を迎えた[202]。他方、クールベとマネはサロンに応募せず、それぞれ万国博覧会会場近くで個展を開いた[203]。
1868年
1868年のサロンからは、過去のサロン(無審査であった1848年を除く)で入選経験のある画家であれば誰でも審査委員の投票に加わることができるようになった。これを反映して、コローやドービニーが審査委員に入り、前衛的な画家たちにとって寛容な審査となった[205]。ルノワールも『日傘のリーズ』で好意的な評価を得ることができた[206]。
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マネ『エミール・ゾラの肖像』1868年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。オルセー美術館[207]。
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ルノワール『日傘のリーズ』1867年。油彩、キャンバス、184 × 115 cm。フォルクヴァンク美術館(エッセン)。
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フレデリック・バジール『家族の集い』1867-68年。油彩、キャンバス、152 × 230 cm。オルセー美術館[209]。
1869年
1869年の審査委員の選出方法は前年と同じであったが、ジェローム、ボードリー、ピルス、ボナといったアカデミーの画家が審査委員の上位を占めた[211]。
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マネ『アトリエでの昼食』1868年。油彩、キャンバス、118 × 153.9 cm。ノイエ・ピナコテーク。
1870年
1870年のサロンからは、美術行政による審査委員の任命がなくなり、過去のサロン(無審査であった1848年を除く)で入選経験のある全ての画家の中から全ての審査委員を選挙する仕組みとなり、民主化が進んだ[214]。ドービニー、コロー、ミレーが審査委員に入り、バティニョール派の画家たちを擁護したが、モネは『ラ・グルヌイエール』などが落選してしまった。ドービニーは、モネの落選に抗議して、審査委員を辞任した[215]。ファンタン=ラトゥールの『バティニョールのアトリエ』は、当時マネを中心とする前衛的画家の集まりが成立していたことを物語る作品である[216]。
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エヴァ・ゴンザレス『陸軍幼年学校生徒』1870年。ガストン・ラパン美術館。
第三共和政
1870年7月、ナポレオン3世とプロイセン王国との間で普仏戦争が勃発し、9月にフランス軍がセダンの戦いで敗北したことで第二帝政が崩壊した。その後、1871年1月にパリがプロイセン軍に占領されたが、3月に徹底抗戦を求めるパリ市民がパリ・コミューンを宣言し、内戦の末5月に鎮圧された。こうした混乱の末、フランス第三共和政が誕生した。第三共和政の下でも、サロンは画家たちの重要な発表の場として権威を保っていたが、徐々に商品展示場という様相が強くなり、作品の質の劣化が懸念されるようになった[223]。サロンの審査は、その年の審査委員にコローやドービニーが入れば寛容になり、そうでない年は厳しくなるなど一定せず、若手の前衛画家たちは翻弄された[224]。そうした中から、モネ、ルノワール、ピサロ、バジールといったバティニョール派の画家たちが、1874年以降、サロンから独立したグループ展を開催するようになり、印象派と呼ばれるようになる。
1872年
1872年に再開されたサロンは、美術長官シャルル・ブランの下、アカデミーの権限が再び強められ、保守性を増した[225]。シャルル・ブランと公教育省大臣ジュール・シモンは、合理的・普遍的な美というフランス革命以来の共和主義者の理念を受け継ぐとともに、中央集権化した国家機関による芸術の統制を図るため、芸術アカデミーの権威を高める方針をとった[226]。
マネは『キアサージ号とアラバマ号の海戦』が入選し、ルノワールは落選した。モネ、ピサロ、シスレー、ドガは応募していない[227]。
1873年
1873年のサロンは、審査が更に厳格になり、落選者が続出した[229]。この年には、10年ぶりとなる落選展も開かれた[230]。マネは『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選し、『ル・ボン・ボック』はサロンで好評を得た。ベルト・モリゾ、メアリー・カサットも入選したが、ルノワールは落選し、『ブーローニュの森の朝の乗馬』を落選展に出展した。モネ、ピサロ、シスレー、ドガは、サロンに応募せず、独自のグループ展開催に向けて動き出した[231]。
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マネ『ル・ボン・ボック』1873年。油彩、キャンバス、94.6 × 83.3 cm。フィラデルフィア美術館[233]。
1874年
1873年12月、王党派から大統領に就いたパトリス・ド・マクマオンが美術長官シャルル・ブランを解任し、後任にフィリップ・ド・シェヌヴィエール=ポワンテル侯爵を指名した。シェヌヴィエールは、サロン改革に着手し、偉大な物語画の復興を目指して、ほとんどアカデミー会員から成る美術委員会を設立したり、サロン賞を設けたりした[234]。
1874年のサロンは5月1日から約1か月半開かれたが、この年の4月15日から5月15日までの間、モネ、ルノワール、ピサロ、バジール、ベルト・モリゾなどの前衛的な画家たちが、グループ展を開催した(第1回印象派展)。サロンから独立したグループ展という画期的な取組であったが、世間からは嘲笑と酷評を浴びた。他方、マネは、グループ展への参加を拒絶し、サロンでの成功を追求した[235]。
当時、サロンの作品数は3657点(絵画1852点、素描1776点)、入場者は、平日が4000人、日曜・祭日はその10倍で、40日間の合計は50万人を超えていたと推定されている。一方、第1回印象派展の入場者は30日間で約3500人であり、サロンの影響力の大きさが表れている[236]。
1875年
1876年
1876年は、第2回印象派展が開かれた年であり、印象派のメンバーはサロンに出展していない。ポール・ゴーギャンが風景画でサロンに初入選した[238]。
1877年
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マネ『ハムレットを演じるフォール』1877年。油彩、キャンバス、196 × 131 cm。フォルクヴァンク美術館。
1878年
第3回までの印象派展に参加していたルノワールは、1878年から、サロンへの応募を再開するようになった。印象派展は、作品を売るという点では成功しておらず、経済的に厳しいことが理由であった。この年のサロンには、ルノワールの『一杯のショコラ』が入選している。しかし、ドガは、印象派展参加者はサロンに応募すべきでないという主張を持っており、印象派グループの中での意見の対立を招くことになった[239]。
1879年
1879年のサロンでは、ルノワールの『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』が評判になり、経済的な成功を手にするようになっていった[241]。シスレーとセザンヌも、ルノワールに触発されてサロンに応募したが、落選した。モネもサロン応募を考えたが、カミーユ・ピサロとギュスターヴ・カイユボットの説得で思いとどまった[242]。
この年のサロンの授賞式で、共和派ジュール・グレヴィ政権の公教育省大臣ジュール・フェリーは、アカデミーが美術を形骸化したヒエラルキーと伝統的な手法に従わせようとしていると批判した[243]。
1880年
1879年以来、第三共和政の美術行政は、サロン審査委員会の審査の在り方を批判し、サロン会場に電気照明を用いること、審査委員の範囲を広げること、絵画部門をジャンルによって分けることなどの改革を示した。これに対し、審査委員会は反対し、ブーグローとボードリーが相次いで委員を辞任する事態になった。残った審査委員たちは、7289点という大量の作品を入選させる措置に出て、サロンは混乱した[246]。
モネは、長年サロンへの出品をしていなかったが、経済的に逼迫する中、前年にルノワールがサロンで成功したこともあって、1880年のサロンに応募した。当時も、経済的成功を目指す上ではサロンは高い権威を持つものであった。モネは、サロン審査の基準に合うよう妥協した上で2点を提出したが、その結果は、『ラヴァクール』1点のみが入選というものであった[247]。この頃には、印象派に対する肯定的評価も徐々に増えており、官展派の画家の中にも、印象派の影響を受けた折衷的な作品が出てきた[248]。
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マネ『ラテュイユ親父の店』1879年。油彩、キャンバス、92 × 112 cm。トゥルネ美術館。
民営化
1880年、美術行政は、サロンの国家主催を取りやめ、民営化することを決定した。サロン改革に関する美術行政とアカデミーとの意見対立を背景とするものであった[250]。1881年からは、フランス芸術家協会がサロンを開催したほか、1884年からは独立芸術家協会によるサロン(アンデパンダン展)が、1890年には国民美術協会によるサロンが分離独立し、政府も1883年と1886年にトリエンナーレ展を開催するなど、美術展覧会が乱立していった[251]。
次第に、サロンやアカデミーの権威は低下し、画家がサロン入選によって作品を認められ、顧客を得ることができるというシステム自体が機能しなくなり、代わって画商と批評家が画家と顧客をつなぐ役割を果たしていくことになる[252]。
現在
現在も「サロン・ド・パリ」から分離した各サロンのなかのいくつかは引き続き開催されている。2006年以降、パリに拠点を置く4つ(2006年の開始当時は5つ)のサロン展が合同で行う「Salon ART EN CAPITAL」がグラン・パレのLe Nefホールにて開催されるようになり、「ル・サロン展」として知られるフランス芸術家協会サロン展などが参加している。一方で、国民美術協会サロン展はルーヴル美術館に隣接したカルーゼル・ルーブル展示場にて、サロン・ドートンヌ展はシャンゼリゼ通り特設会場にて、現在も単独での開催を各々が継続している。
脚注
注釈
- ^ ボストン美術館所蔵作とほぼ同一構図・同一寸法の『種まく人』が山梨県立美術館に収蔵されており、どちらがサロン出品作かは議論が分かれている(井出 (2014: 44-46))。
出典
- ^ 大野・中村・宮下・望月 (2016: 343-46)。
- ^ 大野・中村・宮下・望月 (2016: 362)。
- ^ 大野・中村・宮下・望月 (2016: 530)。
- ^ 大野・中村・宮下・望月 (2016: 614)。
- ^ 大野・中村・宮下・望月 (2016: 607-10)。
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- 尾関幸、陳岡めぐみ、三浦篤『西洋美術の歴史7:19世紀――近代美術の誕生、ロマン派から印象派へ』中央公論新社、2017年。ISBN 978-4-12-403597-1。