「広島タクシー運転手連続殺人事件」の版間の差分
m 全角括弧→半角括弧 |
m編集の要約なし |
||
(51人の利用者による、間の147版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{暴力的}} |
|||
{{出典の明記|date=2012年8月4日 (土) 05:39 (UTC)}} |
|||
{{性的}} |
|||
{{Infobox 事件・事故 |
{{Infobox 事件・事故 |
||
| 名称 = 広島タクシー運転手連続殺人事件 |
| 名称 = 広島タクシー運転手連続殺人事件 |
||
| 画像 = |
| 画像 = |
||
| 脚注 = |
| 脚注 = |
||
| 場所 = |
| 場所 = {{JPN}}・[[広島県]]<ref name="読売新聞1996-09-21"/> |
||
* [[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]:[[流川 (広島市)|流川]]<ref name="AERA"/>・[[新天地 (広島市)|新天地]]・[[薬研堀 (広島市)|薬研堀]]一帯(被害者を物色){{Sfn|新潮45|2002|p=288}} |
|||
* 広島市内およびその周辺市町各地(殺害・死体遺棄現場) |
|||
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |
||
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 = |
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 = |
||
| 日付 = [[1996年]]([[平成]]8年) |
| 日付 = [[1996年]]([[平成]]8年)<ref name="読売新聞1996-09-21"/><ref name="冒頭陳述"/> |
||
* [[4月18日]]22時50分(A事件){{Sfn|新潮45|2002|p=291}} |
|||
| 時間 = |
|||
* [[8月13日]]0時50分ごろ(B事件)<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
| 開始時刻 = 4月18日 |
|||
* [[9月7日]]23時50分ごろ(C事件)<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
| 終了時刻 = 9月13日 |
|||
* [[9月14日]]2時10分ごろ(D事件)<ref name="中国新聞1996-10-13"/> |
|||
| 時間帯 = |
|||
| 時間 = 深夜 |
|||
| 概要 = 借金返済に追われていた男が、初めは強盗目的で、後に快楽目的も加わり、5か月間で4人の女性を殺害した。 |
|||
| |
| 開始時刻 = |
||
| |
| 終了時刻 = |
||
| 時間帯 = [[日本標準時]]〈JST・[[UTC+9]]〉 |
|||
| 標的 = |
|||
| 概要 = 借金返済に困窮していたタクシー運転手の男が約5か月間で4人の女性を殺害して遺体を山中に遺棄した<ref name="冒頭陳述"/>。第1の事件の動機は強盗目的だったが、やがて殺人そのものに快楽を見出すようになっていった<ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
| 武器 = ネクタイ<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
| 攻撃側人数 = 1人 |
|||
| 手段 = 首を絞める<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
| 標的 = [[売春]]・[[援助交際]]目的で知り合った女性(事件当時16歳 - 45歳){{Sfn|丸山|2010|pp=53-57}} |
|||
| 死亡 = 4人 |
| 死亡 = 4人 |
||
| 損害 = 現金約24万円(4人から奪った金額の合計){{Refnest|group="注"|name="金額"|奪った金額のうち約半分はいったん自分が被害者に渡した売春代金だった{{Sfn|別冊宝島|2006|p=166}}。}}<ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/> |
|||
| 負傷 = |
|||
| 犯人 = [[タクシー]]運転手の男H( |
| 犯人 = [[タクシー]]運転手の男H(逮捕当時34歳)<ref name="読売新聞1996-09-21"/><ref name="朝日新聞1996-09-21"/> |
||
| 動機 = [[強盗]]・[[快楽殺人]] |
| 動機 = 金銭目的([[強盗]])・[[快楽殺人]] |
||
| 対処 = [[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[起訴]] |
|||
| 謝罪 = あり |
| 謝罪 = あり |
||
| 影響 = 加害者Hの勤務先だったタクシー会社が嫌がらせを受けたことで業務に支障をきたしたり<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>、広島市内で夜間のタクシー利用率が落ち込むなど[[風評被害]]が発生した<ref name="中国新聞1996-10-12"/>。 |
|||
| 賠償 = [[死刑]]([[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]]) |
|||
| 刑事訴訟 = [[日本における死刑|死刑]](第一審判決<ref name="中国新聞2000-02-09"/>・控訴せず確定<ref name="中国新聞2000-02-24"/> / [[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]]<ref name="中国新聞2006-12-25"/>) |
|||
| 管轄 = [[広島県警察]][[刑事部|捜査一課]]および後述の各警察署・[[広島地方検察庁]] |
|||
* [[安佐南警察署|広島北警察署]](A事件の初動捜査)<ref name="中国新聞1996-05-07"/> |
|||
* [[廿日市警察署]](4事件の捜査本部)<ref name="読売新聞1996-09-21"/><ref name="朝日新聞1996-09-21"/> |
|||
}} |
}} |
||
'''広島タクシー運転手連続殺人事件'''(ひろしまタクシーうんてんしゅれんぞくさつじんじけん) |
'''広島タクシー運転手連続殺人事件'''(ひろしま タクシーうんてんしゅ れんぞくさつじんじけん)は、[[1996年]]([[平成]]8年)[[4月18日]] - [[9月14日]]に[[広島県]]内([[広島市]]およびその近郊)で女性4人が相次いで殺害された[[シリアルキラー|連続殺人]]事件<ref name="中国新聞1999-10-06"/>。 |
||
== 概要 == |
|||
その凶悪さから[[広島市]]の[[繁華街]]をパニックに陥れ<ref name="nagase2004"/>、後に[[丸山佑介]]の著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』では「タクシードライバーによる殺人行脚」「誰もが利用する交通機関であるタクシーの運転手が突然襲い掛かる恐ろしい事件」と形容された<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
{{Location map+|Japan Hiroshima|width=300px|caption=加害者Hが標的とする女性を物色した流川地区と各殺人事件(殺害・遺体遺棄)現場。遺体遺棄現場はいずれも直径約35[[キロメートル]] (km) 以内に点在していた<ref name="中国新聞1996-10-07 社会"/>。|places=<!--以下の現場座標はいずれもおおよその位置--> |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=23|lat_sec=25.1|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=27|lon_sec=49.4|lon_dir=E|position=bottom|background=#FFF|label=流川}} |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=15|lat_sec=37.0|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=33|lon_sec=42.5|lon_dir=E|position=right|background=#FFF|label=A殺害}} |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=26|lat_sec=02.4|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=24|lon_sec=50.7|lon_dir=E|position=right|background=#FFF|label=A遺棄}} |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=29|lat_sec=48.7|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=30|lon_sec=31.4|lon_dir=E|position=left|background=#FFF|label=B殺害}} |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=32|lat_sec=33.3|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=30|lon_sec=26.9|lon_dir=E|position=right|background=#FFF|label=B遺棄}} |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=33|lat_sec=47.7|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=22|lon_sec=37.3|lon_dir=E|position=left|background=#FFF|label=C殺害}} |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=37|lat_sec=41.9|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=18|lon_sec=55.8|lon_dir=E|position=left|background=#FFF|label=C遺棄}} |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=25|lat_sec=45.2|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=20|lon_sec=22.7|lon_dir=E|position=left|background=#FFF|label=D殺害}} |
|||
{{Location map~|Japan Hiroshima|lat_deg=34|lat_min=24|lat_sec=09.4|lat_dir=N|lon_deg=132|lon_min=17|lon_sec=34.6|lon_dir=E|position=bottom|background=#FFF|label=D遺棄}}}} |
|||
<!--A遺棄現場…『中国新聞』夕刊記事に掲載された地図より<ref name="中国新聞1996-05-07"/>--> |
|||
<!--D遺棄現場…『中国新聞』に掲載された地図より<ref name="中国新聞1996-09-15"/>--> |
|||
加害者の男H(逮捕当時34歳・[[日本のタクシー|タクシー]]運転手)は深夜に[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]の[[遊廓]]跡にある[[歓楽街]]([[流川 (広島市)|流川]]<ref name="AERA"/>・[[新天地 (広島市)|新天地]]・[[薬研堀 (広島市)|薬研堀]]{{Sfn|新潮45|2002|p=288}})一帯で被害者女性4人を次々と誘い<ref name="AERA"/>、タクシー車内にて[[ネクタイ]]で被害者を絞殺して遺体を山中に遺棄した<ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
Hは事件前から多額の借金を抱えて返済に窮しており、借金返済のために最初の殺人(A事件)を起こした([[強盗致死傷罪|強盗殺人]])。犯行が露呈しなかったことから「行方不明になっても誰も不審に思わないような女性を殺害しても、自分が疑われることはない」と確信し、[[売春]]・援助交際目的で夜の街を出歩いていた女性をターゲットとした{{Sfn|丸山|2010|pp=53-57}}。遊興費を得る目的を含めてさらなる殺人を重ね、次第に殺害行為そのものに快楽を見出すようになっていった([[快楽殺人]])<ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
== 事件の概要 == |
|||
[[宮崎県]]出身のHは高校時代まではスポーツ万能の優等生として地元では名が知られており、県有数の進学校を卒業したが、大学受験で志望[[大学]]の推薦入試、第二志望の大学にも不合格と立て続けに失敗し、滑り止めのつもりで受けた[[福岡県]]内の大学にしか合格できなかった<ref name="maruyama2010"/>。進学した大学も4年生の時に留年して中退し、親には「[[司法試験]]に失敗したから退学した」と嘘をついて宮崎の実家に逃げ戻り、嘱託[[公務員]]として働き始めた<ref name="maruyama2010"/>。しかし大学時代に酒や女に溺れて荒れた生活は容易には治らず、[[ひったくり]]などを重ねて[[逮捕]]され、[[強盗罪]]で有罪[[判決 (日本法)|判決]]が[[確定判決|確定]]し[[刑務所]]に服役した<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
本事件はその凶悪さから広島の[[繁華街]]をパニックに陥れ{{Sfn|永瀬|2004|pp=217-218}}、地元紙『[[中国新聞]]』([[中国新聞社]])が「[[中国地方]]でも稀に見る凶悪事件」と表現したほか<ref name="緊急リポート1"/>、作家・[[丸山ゴンザレス|丸山佑介]]は著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』([[彩図社]]・2010年)にて「タクシードライバーによる殺人行脚」「『誰もが利用する交通機関』であるタクシーの運転手が突然襲い掛かる恐ろしい事件」と形容した{{Sfn|丸山|2010|p=52}}。 |
|||
Hは出所後、親族を頼って広島県に移住し、タクシー運転手として働き始めたが、相変わらず酒や女にのめり込む荒れた生活をつづけ、借金を重ねていった<ref name="maruyama2010"/>。しかし1992年、当時29歳の時に父親の紹介した30歳の女性と結婚したことが転機となり、生活は徐々に改善していった<ref name="maruyama2010"/>。このまま人並みの生活を手に入れられると思われたが、結婚から2年後の1994年、妻が長女を出産した直後に[[精神疾患]]を発症し、幸せな結婚生活は崩壊した<ref name="maruyama2010"/>。Hは絶望し、妻を[[精神科病院]]に入院させると長女を実家に預け、再び以前の荒れた生活に戻っていき、1996年4月当時は[[消費者金融]](サラ金)などから抱えた多額の[[借金]]の返済が迫り追い詰められていた<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
== 元死刑囚H == |
|||
; 最初の事件 |
|||
{{Infobox Serial Killer |
|||
: 1996年[[4月18日]]、Hは勤務中に[[売春]]目的で[[援助交際]]のメッカとして知られていた広島市[[中区 (広島市)|中区]]の[[新天地 (広島市)|新天地公園]]を訪れたところ、1人でいた広島県[[呉市]]在住の当時16歳の高校生の少女(1人目の[[被害者]])を見つけ、遊ばないかと声を掛けた<ref name="maruyama2010">{{Cite book |和書 |author=[[丸山佑介]] |title=判決から見る猟奇殺人ファイル |publisher=[[彩図社]] |date=2010-01-20 |pages=52-61 |isbn=978-4883927180 }}「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」</ref>。少女が料金2万円で応じ、ラブホテルに入ってHが金を払ったが、少女が「大阪出身で、父親の借金のために売春をしている。今日はその返済日だから10万円を用意して、これから呉に行く」と身の上話をした<ref name="maruyama2010"/>。それを聞いてやる気がなくなったHは「[[性行為|セックス]]するの悪いね」と苦笑いをし、少女に「送っていく」と声を掛け、少女をタクシーの助手席に乗せた<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| subject_name = H・H<br>加害者・元死刑囚 |
|||
: 気前よく少女に2万円を払ったHだったが、呉市方面に少女を連れて行く途中で「少女の話通りなら、彼女の財布には12万円ほどあるはずだ。それだけあれば今月の支払いは賄える。いっそ殺して奪ってしまおうか」と考えつき、突然タクシーを人気のない空き地に駐車し「エンジンの調子が悪いようだ。後部座席に行って配線を調べるのを手伝ってほしい」と少女に指示した<ref name="maruyama2010"/>。少女が後部座席に回ったところHは運転席を降り、その背後に立ち、手にしたネクタイで少女の首を絞めて殺害した<ref name="maruyama2010"/>。「とっさの判断でやったにしてはうまくいった」とHは思い、少女の所持品を漁ったが、出てきた現金は12万円ではなく5万円程度だった<ref name="maruyama2010"/>。「話が違うじゃないか」と思いつつHはタクシーを走らせて広島市内に戻り、少女の遺体を水路に投げ捨てて遺棄した<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| image_name = |
|||
: 前述のように少女はHに大阪在住と言っていたため、Hは殺してもバレないと思っていたが、殺害から18日後の5月6日に少女の遺体が発見されたことをニュースで知り、「同じ県内に住んでいたとなると自分も疑われるかもしれない」と、それ以降逮捕されることばかり考えていた<ref name="maruyama2010"/>。{{要出典|範囲=しかしHは少女とそれまで面識がなかったため足がつかず、また警察は[[暴走族]]が関係する事件として[[捜査]]を行ったため、Hは「売春婦ならば自分に嫌疑がかけられない」と考えるようになる。|date=2017年5月}} |
|||
| image_size = |
|||
;第2の事件 |
|||
| image_caption = |
|||
: 逮捕を恐れ、警察の陰に怯えて暮らしていたHだったが、最初の事件が発覚してから3か月後の8月になっても全く捕まる気配はなく、「俺は絶対に捕まらない」と自信を持ち、次の標的を求めて再び新天地に向かった<ref name="maruyama2010"/>。新天地公園には男から声を掛けられるのを待つ売春婦が何人もいたため、Hにとっては好都合な場所だった<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| date_of_birth = {{生年月日と年齢|1962|4|17|no}}<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/> |
|||
: [[8月13日]]夜、Hは飲食店従業員の当時23歳女性(2人目の[[被害者]])に援助交際を持ちかけて自分のタクシーに誘い、金を渡しホテルでセックスした後、「家まで送る」と言ってタクシーに乗せ、人気のない場所で首を絞めて殺害した<ref name="maruyama2010"/>。女性から現金5万2000円を奪い、遺体を道路脇の斜面に投げ捨てた<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| place_of_birth = {{JPN}}・[[宮崎県]][[宮崎市]]<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/> |
|||
; 第3の事件 |
|||
| date_of_death = {{死亡年月日と没年齢|1962|4|17|2006|12|25}}<ref name="中国新聞2006-12-25"/> |
|||
: [[9月7日]]、Hは顔見知りの当時45歳[[ホステス]]女性(3人目の被害者)をタクシーに誘い出し、金を渡して車内で性行為をしたいと持ち掛けた<ref name="maruyama2010"/>。女性が承諾して性交をしていた最中、Hは女性の首を背後から絞めて殺害し、現金8万2000円を奪って遺体を遺棄した<ref name="maruyama2010"/>。{{要出典|範囲=Hは以前このホステスの売春の客となった際、ホステスに金を盗まれていたため、その腹いせだった。|date=2017年5月}} |
|||
| place_of_death = {{JPN}}・広島県広島市中区[[紙屋町・八丁堀|上八丁堀]]([[広島拘置所]])<ref name="中国新聞2006-12-25"/> |
|||
; 第4の事件 |
|||
| cause of death = [[絞首刑]] |
|||
: [[9月13日]]夜、Hは以前から面識のあった知人の当時32歳女性(4人目の被害者)に、第3の事件同様に声を掛けて誘い出した<ref name="maruyama2010"/>。4万円を渡して援助交際を持ちかけたが、女性はその態度を不審に思ってタクシーから逃げ出そうとしたため、Hは刃物を取り出して女性を脅し、無理矢理車内に連れ込んだ<ref name="maruyama2010"/>。Hは女性の顔面を激しく殴打して首を絞めて殺害し、これ前と同様に所持金を奪ってから遺体を山中に埋めて遺棄し、逃走した<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| number of victims = 4人 |
|||
; 逮捕・起訴 |
|||
| beginning year = [[1996年]](平成8年)[[4月18日]]<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
: Hは金を奪うことよりも、次第に[[快楽殺人|人を殺す快楽に惹かれる]]ようになっていき、一連の4件の殺人は事件を重ねるごとに間隔が短くなっていった<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| end year = 1996年[[9月14日]]<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
: しかし、4人目の被害者の遺体が発見されて事態は急展開した<ref name="maruyama2010"/>。遺体の身元が確認されるや否や、女性がHのタクシーに乗り込む姿を目撃したという証言が寄せられ、[[広島県警察]]は[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体遺棄]]容疑でHの逮捕状を請求した<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| conviction = [[強盗致死傷罪|強盗殺人罪]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄罪]] |
|||
: 追い詰められたHは[[自殺]]を考えたが、結局死にきれずに広島から逃亡した<ref name="maruyama2010"/>。[[9月20日]]早朝、Hは[[山口県]][[防府市]]内の[[国道2号]]で、当時「秋の全国交通安全運動」のために夜間・早朝の取り締まり強化のため行われていた交通検問を突破しようとしたことから[[山口県警察]][[防府警察署]]に任意同行され、同日未明に広島市中区幟町の路上で盗まれた乗用車を運転していたことから窃盗容疑で[[逮捕]]された<ref name="taiho"/>。その後の取り調べで、Hは32歳女性を殺害したことを自供し<ref name="taiho">『朝日新聞』1996年9月22日広島県版朝刊「『金銭上のトラブル』 湯来町の女性殺人事件容疑者を逮捕 /広島」<br>『朝日新聞』1996年9月21日夕刊第一社会面15面「女性絞殺容疑で運転手を逮捕 広島県警【大阪】」</ref>、翌[[9月21日]]、広島県警捜査本部に殺人・死体遺棄容疑で逮捕された<ref name="maruyama2010"/><ref name="taiho"/>。 |
|||
| sentence = [[日本における死刑|死刑]]([[広島地方裁判所]]) |
|||
: その後の取り調べで、Hは第2の事件についても「8月中旬の夜、広島市中心部の繁華街で顔見知りの中年女性を運転するタクシーに乗せ、金銭上のトラブルから広島県[[山県郡]][[加計町]](現・[[安芸太田町]])加計で女性の首を絞めて殺害し、遺体を遺棄した」と自供し、その自供に基づいて広島県警が同地の滝山川沿いのコンクリート製の溝を捜索したところ、10月1日正午過ぎに女性の白骨死体を発見した<ref>『朝日新聞』1996年10月2日夕刊第一社会面13面「加計町で別の女性遺体発見 容疑者自供通り 広島の女性殺人」</ref>。 |
|||
| apprehended = 1996年9月21日(別件の窃盗容疑・および殺人容疑) |
|||
: Hは観念して他3人の殺害も自白し、2人目・3人目の被害女性の遺体も発見された<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| country = {{JPN}} |
|||
: {{要出典|範囲=いずれの事件も被害者を殺害後にその所持金を盗んでいるため[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]での逮捕・起訴となったが4人の被害者から盗んだ計24万円の金銭のうち、その半分は男が売春のために被害者に渡したものであり、また[[公判]]での「殺人に快感を覚えていた」との旨の男の証言から[[快楽殺人]]とも[[報道]]され、|date=2017年5月}}[[丸山佑介]]の著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』でも「シリアルキラー」と表現された<ref name="maruyama2010"/>。前述のようにHは高校時代は優等生だったが、大学受験時に推薦入試で受けた大学に合格できず、また性格的に挫折しやすく楽な方に流されやすい面があり、別の大学に進学して以降は滑り落ちるような人生で、警察での取調べ中も「どうせ、おれなんか」と投げやりで自暴自棄な態度だった<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
| states = |
|||
}} |
|||
{{Infobox 犯罪者 |
|||
|名前= |
|||
|画像= |
|||
|画像サイズ= |
|||
|画像説明= |
|||
|出生名= |
|||
|生年月日= |
|||
|出生地= |
|||
|没年月日= |
|||
|死没地= |
|||
|alma_mater= |
|||
|国籍={{JPN}} |
|||
|別名= |
|||
|罪名= |
|||
|動機= |
|||
|有罪判決=[[広島地方裁判所|広島地裁]]・[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]](2000年2月9日)<ref name="中国新聞2000-02-09"/><ref name="中国新聞2000-02-10 朝刊1面"/> |
|||
* 2000年2月24日(死刑判決確定)<ref name="中国新聞2000-02-24"/> |
|||
|刑罰=死刑([[絞首刑]]・[[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]]) |
|||
|現況= |
|||
|職業=タクシー運転手(逮捕直前に解雇)<ref name="中国新聞1996-09-22"/> |
|||
|配偶者=1歳年上の妻{{Sfn|新潮45|2002|p=294}}(事件後に離婚)<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/> |
|||
|両親= |
|||
|子=長女(1993年4月誕生){{Sfn|新潮45|2002|p=294}} |
|||
|署名= |
|||
}} |
|||
本事件の加害者である男'''H・H'''(姓名のイニシャル、以下の文中では姓イニシャル「H」で表記)は[[1962年]]([[昭和]]37年)[[4月17日]]に[[宮崎県]][[宮崎市]]で生まれ<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、事件当時は34歳・広島市[[安佐南区]][[沼田町 (広島市)|沼田町]]吉山在住のタクシー運転手だった<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>。本事件の刑事裁判で死刑が確定し、[[2006年]](平成18年)12月25日に[[法務省]]([[法務大臣]]:[[長勢甚遠]])の死刑執行命令により収監先・[[広島拘置所]]にて[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行された]](44歳没)<ref name="中国新聞2006-12-25"/>。 |
|||
== |
=== 生い立ち === |
||
Hは多くの山林を持つ地元有数の資産家で3人兄弟の末っ子<ref name="緊急リポート1"/>(三男)として生まれ{{Sfn|新潮45|2002|p=291}}、小中学校時代は[[ソフトボール]][[部活動|部]]・[[野球]]部で活躍し<ref name="緊急リポート1">『中国新聞』1996年10月8日朝刊第17版第一社会面23頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<上> 容疑者の素顔 日常はまじめな姿 在学時から借金、親がかり」(中国新聞社)</ref>、中学時代には野球部の[[主将]]を務めた<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。また特に日本史が得意で、[[1978年]](昭和53年)4月に入学した県立高校(県内トップの進学校)では「クラスの上位15番以内に入る成績」を維持しており<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、高校時代まで地元では「スポーツ万能の優等生」として名を知られていた{{Sfn|新潮45|2002|pp=291-292}}。一方で両親は子供に甘く<ref name="緊急リポート1"/>、Hは末っ子だったため「小遣いを欲しがるだけもらえるような家庭環境」で育った{{Refnest|group="注"|Hの親類は事件後に『中国新聞』記者の取材に対し「両親がHを甘やかしていたから我慢できないような子供になったのではないか?」と証言した<ref name="緊急リポート1"/>。}}<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。 |
|||
1997年2月10日に[[広島地方裁判所]]でHの初[[公判]]が開かれ、冒頭の罪状認否でHは起訴された4件の強盗殺人・死体遺棄容疑をすべて「間違いありません」と認めた<ref name="maruyama2010"/>。Hが事実認定を争わなかったため、弁護人には[[刑法 (日本)|刑法]]第39条に基づく[[責任能力|心神喪失・心神耗弱]]による無罪・減軽を狙う他に手段はなかった<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
[[1981年]](昭和56年)3月に高校を卒業したHは「教師か公務員になりたい」と大学受験に臨んだが<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、志望していた[[筑波大学]]の推薦入試に加えて第二志望の[[福岡教育大学]]にも不合格と立て続けに失敗し、滑り止めのつもりで受けた私立大学の[[福岡大学]][[法学部]]にしか合格できなかった{{Sfn|新潮45|2002|p=292}}。Hは1981年4月に福岡大学へ入学したが<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、大学受験に失敗して以降は「私立大学ではたとえ教師になっても尊敬されない」と大きな挫折感を味わい{{Refnest|group="注"|地元は国立大学志向が強く教師の学歴が重視されていたため、Hは高校時代に無名の私立大学出身だった教師を軽蔑していた時期があった{{Sfn|新潮45|2002|p=291}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|p=292}}、このころからは高校時代までの友人たちと音信不通になり同窓会にも出席しなくなった<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。また福岡大学でも「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と同級生を見下しつつ、授業にはほとんど出席せず飲酒・ギャンブルにのめり込んだが、4年生になるとかつて見下していた同級生たちが国家公務員・都道府県職員として就職した一方で自身は留年が確実となり{{Sfn|新潮45|2002|p=292}}、「このままでは市役所職員にもなれない」と強い挫折感を抱えていた{{Sfn|新潮45|2002|p=293}}。 |
|||
弁護側はHの[[精神鑑定]]を要求し、広島地裁はこれを認めて審理が一時中断した<ref name="maruyama2010"/>。その後1999年2月23日、1年3か月ぶりに再開された公判でHの精神鑑定の結果が報告されたが、鑑定結果は弁護側の狙いはと裏腹に「責任能力が認められる」というものだった<ref name="maruyama2010"/>。鑑定を担当した[[精神科医]]は「人格に著しい隔たりがあるが、責任能力に影響を及ぼしうるような病的なものとはみなされない」という結論だった<ref name="maruyama2010"/>。また、精神鑑定ではHが殺人に至った動機についての解明が試みられ、「Hは男性としての自身に欠けたとする挫折感を抱き、暴力犯罪の空想などで強い男性像を示したいという性癖があった。犯行はこの空想を実際に移したものである」とされた<ref name="maruyama2010"/>。Hの挫折感は青春時代に経験した大学受験の失敗などの挫折に端を欲しており、そこで自分自身に失望した半面、絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており、自分の力を証明する方法として思いついたのが女性を殺害することだった<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
福岡大学入学から4年2か月後となる[[1985年]](昭和60年)6月末、Hは授業料滞納を理由に4年生に留年したまま<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>大学を中途退学した{{Sfn|新潮45|2002|p=293}}。 |
|||
連続殺人鬼として広島地裁の法廷に立ったHは、法廷で涙を流しながら「私は許されるなら、今すぐ死んでお詫びしたいと思いますが、それだけではとても罪の償いには足りません。死刑が執行されるまで、死の恐怖と向かい合い、惨めな姿を晒してのたうち回り、被害者の味わった死の恐怖、その苦痛の何分の一かを味わうことができたら、初めてひとつの償いになると思います」「願わくば、一日も早く被害者の下へ言って謝りたいと思います。自分はいったい、何のためにこの世に生まれてきたのか、どのような生き方をしてきたのか、それを考えると辛く、悲しい気持ちでいっぱいです」と懺悔した<ref name="nagase2004">『19歳 一家四人惨殺犯の告白』永瀬隼介・著(角川文庫)2004年8月25日出版、ISBN 978-4043759019 p.217-218</ref>。1999年、Hはこの事件の刑事裁判を取材し、その懺悔を目の当たりにして聞いていた、作家の[[永瀬隼介]](当時は「祝康成」名義)は、[[広島拘置所]]に収監されていたHから「(逮捕されてから)これまでの3年間、何回となく、否、何百回と想い悩み、そして苦しんで、眠れぬ夜も幾多あったかわかりません。しかし、事、ここに至っては、もう何も申し上げることはありません」と綴られた手紙を受け取っていた<ref name="nagase2004"/>。永瀬は後に[[市川一家4人殺人事件]]で[[少年死刑囚|犯行当時少年の死刑囚]]を追った[[ノンフィクション]][[小説]]『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で、「市川一家4人殺人事件の[[死刑囚]]は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている<ref name="nagase2004"/>。 |
|||
=== 強盗事件で服役 === |
|||
1999年10月、広島地方検察庁は[[論告]][[求刑]]公判で「被害者4人の[[強盗致死傷罪|強盗殺人事件]]であり、[[死刑]]以外の求刑は考えられない」としてHに死刑を求刑した<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
大学中退後、Hは学費を援助していた兄により宮崎市の実家に連れ戻され{{Refnest|group="注"|当時は周囲に対し「[[司法試験]]に失敗した」と話していた。}}<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、[[宮崎市役所]]の臨時職員として就職したが、飲酒・女遊びに溺れるなどの荒れた生活は改善せず、オートバイの[[酒気帯び運転]]で逮捕された{{Sfn|新潮45|2002|p=293}}。その後も遊ぶ金欲しさにひったくりを繰り返し{{Sfn|新潮45|2002|p=293}}、[[1986年]](昭和61年)1月25日{{Refnest|group="注"|Hは当時24歳{{Sfn|新潮45|2002|p=293}}。}}には宮崎市内で<ref>『朝日新聞』1986年1月26日朝刊宮崎県版地方面21頁「宮崎市 包丁見せ『金を出せ』 二万円と通帳奪う」([[朝日新聞西部本社]]・宮崎総局)</ref>会社員宅へ侵入し、その妻に包丁を突き付け現金2万円・預金通帳を奪う[[強盗罪|強盗]]事件を起こし、同事件で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[起訴]]されて強盗罪で懲役2年の実刑[[判決 (日本法)|判決]]を受けた{{Sfn|新潮45|2002|p=293}}。この事件により[[刑務所]]に服役したHは結婚を望んでいた女性と別れたほか<ref name="読売新聞 冒頭陳述">『読売新聞』1997年2月11日大阪朝刊広島県版(広島讀賣)地方面「冒頭陳述概要 『殺人重ね、快感を感じるまでに…』」(読売新聞大阪本社・広島総局)</ref>、出所後に故郷・宮崎を離れ{{Sfn|新潮45|2002|p=294}}、それ以降実家に帰ることはなかった<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。 |
|||
出所後の[[1989年]](平成元年)4月には広島県広島市内へ移住して{{Sfn|新潮45|2002|p=293}}叔父宅に身を寄せ<ref name="冒頭陳述"/>、同月には広島市内のタクシー会社に運転手として就職した{{Refnest|group="注"|叔父が広島市内のタクシー会社に勤めていた縁で就職し<ref name="週刊新潮1996-10-25"/>、就職後に一人暮らしを始めた<ref name="冒頭陳述"/>。}}<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。当時、Hは「一からやり直そう」と決心して働いており、1日の売上は平均約45,000円で<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>{{Refnest|group="注"|Hの売上成績は「社内でもトップクラスの営業成績」と報道された一方<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、タクシー会社の幹部は「中の上」<ref name="週刊新潮1996-10-25">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|volume=第41巻|issue=第40号(通号:第2076号)|author=|title=インシデント TEMPO 広島「連続女性殺人」の舞台となった歓楽街事情|page=26|date=1996-10-24|publisher=新潮社}}</ref>、上司は「中の下」<ref name="AERA"/>「A事件のころから急に営業成績が良くなった」と証言している<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊朝日]]|volume=第101巻|issue=第50号(通号:第4165号)|author=奥村晶|author2=山口一臣|title=広島女性4連続殺人 タクシー運転手 歓楽街、真夜中のハンティング|pages=147-149|date=1996-10-25|publisher=朝日新聞社}}</ref>。}}、勤務時間も他の運転手たちより1日2時間ほど長かった<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。しかし、大企業のエリート社員を客として乗せて働き続ける毎日のうちに「俺はタクシーの運転手なんかやっている人間ではない。筑波大学に合格できていれば今ごろは国家公務員として地位・名誉を約束された生活を送っていけたはずだ」とコンプレックスを募らせ続けていたほか{{Sfn|新潮45|2002|p=293}}、当時の月収(手取りで約30万円)の大半を飲酒・女遊びに浪費し{{Sfn|新潮45|2002|p=294}}、不足分を[[消費者金融]](サラ金)から[[借金]]していた<ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
弁護側は最終弁論で、精神鑑定結果に異議を唱え「Hは最初の犯行の際、妻の病気や消費者金融の借金の返済などで自暴自棄の心理状態にあった」として情状酌量を求め、死刑回避を訴え結審した<ref name="maruyama2010"/>。しかしそれはHの望むところではなく、Hは「すべて自己中心的な犯行で、一切弁解の余地はありません。一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい」と、自ら死刑になることを望んでいた<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
=== 結婚生活とその破綻 === |
|||
[[2000年]][[2月9日]]、広島地裁([[戸倉三郎]]裁判長)で検察側の求刑通り死刑[[判決 (日本法)|判決]]が言い渡された<ref>『朝日新聞』2000年2月10日広島県版朝刊23面「『娘に報告できる』 4女性殺害のH被告に地裁が死刑判決/広島」</ref><ref name="maruyama2010"/>。裁判官は判決を言い渡した後、Hに「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」と声を掛けた<ref name="maruyama2010"/>。 |
|||
[[1992年]](平成4年)初めごろには借金が総額約500万円になっていたが<ref name="冒頭陳述"/>、当時29歳だったHは同年春に叔父の紹介で当時30歳(Hより1歳年上)の女性と結婚した{{Sfn|新潮45|2002|p=294}}。Hは借金返済で心機一転を図り、1992年7月には<ref name="冒頭陳述"/>安佐南区の新興住宅地で建売住宅を購入し、その住宅ローンを実際の金額より400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して合計500万円を作ることで借金を完済した{{Sfn|新潮45|2002|p=294}}。 |
|||
また結婚が転機となって生活が徐々に改善していき{{Sfn|丸山|2010|p=56}}、[[1993年]](平成5年)4月には長女が誕生して1児の父親になった{{Sfn|新潮45|2002|p=294}}。Hはこのころ「家も持ったし子供もできた。これで世間も認めてくれる」と希望を持ち始めていたが、長女誕生から2日後には[[産褥]]期の妻が突然意味不明な言葉をつぶやき続けたり時折奇声を上げたりなど[[精神疾患]]を発症した{{Sfn|新潮45|2002|p=295}}。そのため、Hは妻を入院させ娘を妻の実家に預けたが{{Refnest|group="注"|妻は一時病状が改善したために退院したが{{Sfn|新潮45|2002|p=295}}、翌[[1995年]](平成7年)10月以降は<ref name="読売新聞1997-05-22"/>再び長期入院して回復の兆しが見られなくなった{{Sfn|新潮45|2002|p=295}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|p=295}}、その後は再び遊興に明け暮れて借金を重ねるようになり<ref name="冒頭陳述"/>、[[1994年]](平成6年)末には200万円の借金を抱えたため、実家の兄に借金を肩代わりさせたが、義父母に引き取られた娘と疎遠になったことなどから生活は荒れていく一方で{{Sfn|新潮45|2002|p=295}}、その後も再び借金を繰り返していた<ref name="読売新聞 冒頭陳述"/>。 |
|||
Hは[[控訴]]期限の2月23日までに[[広島高等裁判所]]に控訴しなかったため、そのまま死刑判決が[[確定判決|確定]]した<ref>『朝日新聞』2000年2月24日夕刊12面「死刑判決が確定 広島の4女性殺害【大阪】」</ref><ref name="maruyama2010"/><ref name="nagase2004"/>。 |
|||
Hは最初の殺人(A事件)を起こした1996年4月当時<ref name="冒頭陳述"/>、約350万円の借金を抱え月々15万円を返済していた{{Sfn|新潮45|2002|p=290}}一方、借金を親類・妻に知られないようにするため「いざとなれば[[自殺]]して[[生命保険]]の[[保険金]]で返済すればいい」と自暴自棄な考えも抱いたが<ref name="読売新聞 冒頭陳述"/>、結局は自殺すらできず「己の不運は全て周囲のせい」にしていた{{Sfn|新潮45|2002|p=295}}。また被害者を物色していた[[流川 (広島市)|流川]]地区では「タクシーの男」として知られ<ref name="AERA"/>、事件の3, 4年ほど前から頻繁に顔を見せ「客にならなくても毎晩のように訪れてくる」ことで有名になっていたが、1996年になってからは遊ぶ金が尽きたため冷やかしだけで帰るようになっていた<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊">『[[毎日新聞]]』1996年11月5日大阪朝刊社会面21頁「[心想]広島・女性連続殺人事件 H被告、転落の軌跡」([[毎日新聞大阪本社]] 記者:辻加奈子、谷川貴史)</ref>。後に取り調べを受けた際に「どうせ俺なんか」と自暴自棄な発言をしたが、『[[毎日新聞]]』([[毎日新聞社]])はその言葉の真意を「Hは大学入試など人生での挫折経験を自分で乗り越えることができず『何をやってもダメ』という自己否定的な観念を心の奥底に引きずって生きてきたのだろう」と考察した<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。 |
|||
== 死刑執行 == |
|||
[[2006年]][[12月25日]]、[[広島拘置所]]においてHの死刑が執行された<ref>『朝日新聞』2006年12月25日夕刊1面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり」</ref>。享年44(歳)。 |
|||
==== 人物像 ==== |
|||
職場の上司・同僚ら関係者はHの人物像を「あまり付き合いは良くないが真面目な人間だった」と証言したほか<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、Hは他のタクシー会社の草野球チームに<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>助っ人として参加していたり<ref name="緊急リポート1"/>、近所の町内会に積極的に参加するなど、周辺には温厚な印象を与えていた{{Refnest|group="注"|Hの人物像について事件当時住んでいた団地の住民は「子煩悩な父親」<ref name="緊急リポート1"/>、関係者からは「妻子とともに買い物に行ったり公園で遊んだりするなど、家族仲は良好なように見えた」とそれぞれ証言していた<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。}}<ref name="中国新聞1996-10-07 社会"/>。 |
|||
一方で同僚たちは「酒に酔うと服を脱ぐなど人格が変わった」「理由もなく突然怒り出すことがあった」と証言したほか<ref name="緊急リポート1"/>、流川では「タクシーを泥酔状態で[[飲酒運転]]していたり、シートにビールの缶が転がっていることもあった」という証言もされた<ref name="AERA">{{Cite journal|和書|journal=[[AERA]]|volume=第9巻|issue=第43号(通号:第453号)|author=編集部記者:[[烏賀陽弘道]]|title=孤独な素顔に隠された狂気 広島連続殺人事件|page=62|date=1996-10-21|publisher=[[朝日新聞社]]出版本部}}</ref>。またA事件以降、Hは逮捕されるまでタクシーで乗務を続けながら次々と新たな犯行に手を染めていたが、同僚は『中国新聞』記者の取材に対し「(Hは当時)タイヤのホイールを頻繁に交換していた。今思えば狭い道を走っていたのかもしれない」と証言した<ref name="緊急リポート3"/>。 |
|||
== 事件の経緯 == |
|||
{| class="wikitable floatright" style="font-size:80%; margin-left:4em;" |
|||
|+ 事件の経過 |
|||
! 年 !! 月日 !! 事柄 |
|||
|- |
|||
| 1996年 || style="text-align:center;" | {{0}}4月18日 || '''A事件発生。''' |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | {{0}}5月{{0}}6日 || 広島市[[安佐南区]]内で被害者Aの遺体発見('''A事件発覚''')。<br>[[安佐南警察署|広島県広島北警察署(現:広島県安佐南警察署)]]が殺人・死体遺棄事件として捜査開始。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | {{0}}5月14日 || 被害者Aの遺体・身元断定。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | {{0}}8月13日 || '''B事件発生。''' |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | {{0}}9月{{0}}7日 || '''C事件発生。''' |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | {{0}}9月14日 || '''D事件発生。'''<br>[[湯来町]](現:広島市[[佐伯区]])内で被害者Dの遺体発見('''D事件発覚''')。<br>[[廿日市警察署|広島県廿日市警察署]]が殺人・死体遺棄事件として捜査開始。 |
|||
|- |
|||
| style="background-color:#dfd;" colspan="3" | |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | {{0}}9月18日 || 廿日市署捜査本部がD事件の殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hの逮捕状請求。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | {{0}}9月21日 || [[防府警察署|山口県防府警察署]]、逃亡中の被疑者Hを窃盗(自動車盗)容疑により逮捕。<br>廿日市署捜査本部、殺人・死体遺棄容疑(D事件)で'''被疑者Hを逮捕'''。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 10月{{0}}1日 || Hの自供により[[山県郡]][[加計町]](現:[[安芸太田町]])内で被害者Cの遺体発見('''C事件発覚''')。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 10月{{0}}4日 || 被害者Cの遺体・身元断定。同日までにHが被害者A・Bの殺害を自供。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 10月{{0}}5日 || Hの自供により広島市[[安佐北区]]内で被害者Bの遺体発見('''B事件発覚''')。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 10月{{0}}8日 || 被害者Bの遺体・身元断定。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 10月12日 || [[広島地方検察庁]]が強盗殺人・死体遺棄容疑(D事件)で被疑者Hを[[広島地方裁判所]]に起訴。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 10月15日 || 捜査本部が強盗殺人・死体遺棄容疑(C事件)でHを再逮捕。<br>11月5日に広島地検が追起訴。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 11月{{0}}6日 || 捜査本部が強盗殺人・死体遺棄容疑(B事件)でHを再逮捕。<br>11月27日に広島地検が追起訴。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 12月{{0}}4日 || 捜査本部が強盗殺人・死体遺棄容疑(A事件)でHを再逮捕。<br>12月24日に広島地検が追起訴。 |
|||
|- |
|||
| style="background-color:#dfd;" colspan="3" | |
|||
|- |
|||
| 1997年 || style="text-align:center;" | {{0}}2月10日 || 広島地裁刑事第2部(谷岡武教裁判長)で被告人Hの初公判。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 11月{{0}}5日 || 広島地裁、第10回公判で被告人Hの[[精神鑑定]]開始を決定。<br>精神鑑定により公判は一時中断。 |
|||
|- |
|||
| 1999年 || style="text-align:center;" | {{0}}2月24日 || 第11回公判開廷(公判再開)。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 10月{{0}}6日 || 論告求刑公判。広島地検が被告人Hに死刑求刑。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | 11月10日 || 弁護人の最終弁論が行われ結審。 |
|||
|- |
|||
| 2000年 || style="text-align:center;" | {{0}}2月{{0}}9日 || 広島地裁刑事第2部([[戸倉三郎]]裁判長)、'''被告人Hに死刑判決'''。 |
|||
|- |
|||
| || style="text-align:center;" | {{0}}2月24日 || 同日付で'''被告人Hの死刑が確定'''([[広島高等裁判所]]へ控訴せず)。 |
|||
|- |
|||
| style="background-color:#dfd;" colspan="3" | |
|||
|- |
|||
| 2006年 || style="text-align:center;" | 12月25日 || [[広島拘置所]]で死刑囚Hの[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑執行]](44歳没)。 |
|||
|- |
|||
|} |
|||
一連の事件を起こしたころ、Hは昼間に広島市中心部の[[八丁堀 (広島市)|八丁堀]]で、夜は中国地方最大の繁華街である[[流川 (広島市)|流川]]・[[薬研堀 (広島市)|薬研堀]]界隈(いずれも[[中区 (広島市)|中区]])でそれぞれタクシーを停車して客待ちをしていたが、特に[[新天地 (広島市)|新天地広場]]では昼間 - 深夜まで客待ちしながら長時間停車しており、手当たり次第に女性を誘う姿が目撃されていた<ref name="緊急リポート2">『中国新聞』1996年10月8日朝刊第17版第一社会面23頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<中> 被害者との接点 『手当たり次第』誘う 盛り場で長時間、車止め」(中国新聞社)</ref>。また1996年春、Hの同僚は女性客からHを名指しされ「先日、車内で1万円札を見せられて誘われた。注意しておいてほしい」と苦情を受けていた<ref name="緊急リポート2"/>。 |
|||
最後の被害者Dを除く被害者3人(A・B・C)は次々と姿を消していた一方で周囲から異常に気付かれず、うち2人(A・B)の家族・身内からは捜索願も出されていなかった<ref name="緊急リポート3"/>。このことから加害者HはA・B両被害者を殺害後に「行方不明になっても誰も不思議に思わないような女性を殺害しても、遺体をうまく隠すなどすれば自分が警察に疑われることはない」と確信してさらに犯行を積み重ねていった<ref name="冒頭陳述"/>。また『中国新聞』は本事件を「加害者Hは各犯行動機を『金銭上のトラブル』『金を取ろうと思った』と自供しているが、被害者4人から奪った現金はそれぞれ数万円(合計で十数万円)だ。5か月間も加害者・被害者双方の周囲に異常ランプが灯らなかった事実が、本事件の特異さを表している」と報道した{{Refnest|group="注"|Hと親しかった知人は同紙記者の取材に対し「Hは被害者が大金を持っていないことを知っていたはず。最初から金だけが(犯行の)目的だったとは思えない」と述べている<ref name="冒頭陳述"/>。また[[週刊誌]]『[[AERA]]』編集部記者・[[烏賀陽弘道]]([[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]])は同誌1996年10月21日号にて「本事件は正確には金目当てというより、諍いのうちに被害者を殺害してついでに金を奪ったようだ」と報道した<ref name="AERA"/>。}}<ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
=== A事件(第1の事件) === |
|||
事件発生:1996年4月18日22時50分ごろ(殺害時刻){{Sfn|新潮45|2002|p=291}} |
|||
* [[被害者]]:少女A(事件当時16歳の女子高生・広島県[[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[黒瀬町]]切田在住 / [[広島県立広高等学校]][[定時制]]課程1年生)<ref name="中国新聞1996-05-15"/> - 1995年(平成7年)に地元の中学校を卒業してから町内の美容院などで働き<ref name="中国新聞1996-05-15"/>、1996年4月9日に広高校定時制の入学式へ出席したが{{Refnest|group="注"|高校の新入生歓迎会があった1996年4月16日まで<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>学校に姿を見せていたが<ref name="朝日新聞1996-05-15"/>、同日に登校後はそのまま帰宅しなかった<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>。欠席が続いたため担任教諭が被害者A宅に何度か問い合わせの電話をしたが、家族は「どこに行っているのかわからない」と話しており、被害者Aの家族からは警察への捜索願は出ていなかった<ref name="朝日新聞1996-05-15"/>。また1996年3月から<ref name="中国新聞1996-05-15"/>昼間に呉市内のファミリーレストランでアルバイトの研修を受けていたが<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>、4月14日以降は欠勤していた<ref name="中国新聞1996-05-15"/>。}}、4月17日(事件前日)に広島県[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[音戸町]](現:呉市)内から自宅に電話して以降は消息が途絶えた<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>。 |
|||
** Aの上下6番目の大臼歯4本には治療痕があり、歯も下側5番目の小臼歯2本が「先天性欠如歯」{{Refnest|group="注"|乳歯のままで永久歯が出ない体質を指し、「数十人に1人の体質」とされる<ref name="朝日新聞1996-05-14"/>。}}だったため<ref name="朝日新聞1996-05-14">『朝日新聞』1996年5月14日大阪朝刊広島県版地方面「下側二本は乳歯のまま、身元は依然不明 広島市の女性変死体/広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>、それが身元確認の決め手となった<ref name="中国新聞1996-05-15"/>。 |
|||
* 殺害現場:広島県呉市上二河町・[[広島県道31号呉平谷線]]沿い空き地<ref name="冒頭陳述"/><ref name="朝日新聞1996-12-04"/> |
|||
* 死体遺棄現場:広島県広島市[[安佐南区]][[沼田町 (広島市)|沼田町]]大塚{{Refnest|group="注"|周辺は[[広島高速交通広島新交通1号線]](アストラムライン)[[広域公園前駅]]から東へ約1.2 kmおよび広島市立大学本館の南東約500 mの田園地帯で、西区[[己斐]]方面へ通じる林道沿い<ref name="中国新聞1996-05-07"/>。朝夕に幹線道路の迂回路として使用されていた以外に人・車の通行はほとんどない道だった<ref name="読売新聞1996-05-07"/>。}}・林道脇側溝(幅1.5 [[メートル|m]]×深さ1 m / 水深10 cm)<ref name="読売新聞1996-05-07"/> |
|||
Hは勤務中の1996年4月18日20時に流川・薬研堀一帯をタクシーで流し{{Refnest|group="注"|HはAを誘うまでに45,000円の運賃収入を売り上げていたため、同日の仕事を打ち切っていた{{Sfn|別冊宝島|2006|p=172}}。}}、[[売春]]・[[援助交際]]のメッカとして知られていた新天地公園を通りかかった際、公園で少女Aを見つけ「遊ばないか?」と声を掛けた{{Sfn|新潮45|2002|pp=288-289}}。被害者Aが料金2万円で応じたため、HはAをタクシーに誘い乗車させると[[コンビニエンスストア]]で[[缶ビール]]を購入し{{Sfn|丸山|2010|pp=53-54}}、21時ごろに[[広島駅]]付近の[[ラブホテル]]に入った{{Sfn|別冊宝島|2006|p=172}}。そのまま2人で缶ビールを飲み{{Sfn|丸山|2010|pp=53-54}}、HはAに2万円を渡したが、Aは身の上話として「行方不明になった父親の借金を返済するため大阪から広島まで働きに来た。あと10万円返せば完済できる。今日はその返済日だから10万円を用意して、[[広島駅]]から呉駅([[呉市]])に行く」と話した{{Sfn|別冊宝島|2006|p=172}}。Hはこの話を聞いて内心「やられた」と思いつつも「なんか([[性行為|セックス]])するのは悪いね」と言ってAに呉市まで送っていくことを約束し{{Sfn|新潮45|2002|p=290}}、Aをタクシーの助手席に乗せ{{Sfn|丸山|2010|p=54}}、呉市(広島市中心街から約20 km先)方面へタクシーを走らせた{{Sfn|新潮45|2002|p=290}}。 |
|||
しかしその途中でHは「Aの言う通り所持金が10万円なら、自分の渡した2万円を足して計12万円あるはずだ。それだけあれば今月の借金の返済は賄える。身寄りのないよそ者なら殺して金を奪っても発覚しないだろうから好都合だ」と考えたが{{Sfn|新潮45|2002|p=290}}、「窃盗を行い発覚すれば被害届を出されて逮捕される。しかし『身寄りが大阪にしかない』という話が本当ならば、殺して山に遺体を隠せば発見されないだろう。もし遺体が発見されても自分とは接点はないから、自分が疑われることはない」と考え{{Sfn|別冊宝島|2006|p=173}}、最終的に「いっそ(Aを)殺して(金を)奪ってしまおう」と決意した<ref name="冒頭陳述"/>。呉市街地の街灯りが見えるようになったところ、Hは人気のない道に乗り入れて殺害現場の空き地でタクシーを停車し{{Sfn|新潮45|2002|p=290}}、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Aを油断させる目的で、燃料切り替えスイッチの操作だけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを悪用してエンストを装った<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。その上で後部座席にいた被害者Aに対し修理を口実に<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから足元のシートをめくってくれ」と声を掛けた{{Sfn|新潮45|2002|p=291}}。 |
|||
22時50分、被害者Aが身をかがめて{{Sfn|新潮45|2002|p=291}}後部座席に回ったところ{{Sfn|丸山|2010|p=54}}、Hはネクタイを緩めて運転席を降り、背後から被害者Aに忍び寄るとネクタイをAの首に巻き付けて絞めつけ、被害者Aを窒息死させて絞殺した{{Sfn|新潮45|2002|p=291}}。Hは被害者Aを殺害した直後「咄嗟の判断でやったにしてはうまくいった」と思いながら{{Sfn|丸山|2010|p=54}}被害者Aの所持品を物色したが<ref name="冒頭陳述"/>、Aが所持していた現金は5万円{{Refnest|group="注"|Hが渡した2万円を含めた額{{Sfn|別冊宝島|2006|p=174}}。}}しかなかったため「嵌められた」と立腹した{{Sfn|新潮45|2002|p=291}}。Hはその現金約5万円を奪った上で<ref name="冒頭陳述"/>、23時ごろにはタクシーにAの遺体を乗せたまま殺害現場を立ち去った{{Sfn|別冊宝島|2006|p=174}}。そして約25 km離れた広島市安佐南区内(遺体遺棄現場)まで戻り{{Refnest|group="注"|その途中で河川・山中にAの所持品(バッグ・化粧ポーチ・たばこケースなど)を投棄している{{Sfn|別冊宝島|2006|p=174}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|p=291}}、翌日未明には身元判明を防ぐためにAの遺体から衣服を剥がして全裸にした上で、遺体を用水路土管内に遺棄した{{Sfn|別冊宝島|2006|p=174}}。 |
|||
HはAの遺体を遺棄後にタクシー会社まで戻って虚偽の運転日報を作ったが{{Refnest|group="注"|HはD事件の際にも走行距離や実車・空車の別を記録してあった料金メーターを操作して広島市内で短距離客を乗車させたようにアリバイ工作したほか、運転日報も「広島市内で数十回近距離走行した」と虚偽の記載をしていた<ref>『読売新聞』1996年10月10日大阪朝刊第一社会面35頁「広島の連続女性殺人 容疑者が“アリバイ”偽装 タクシーメーター操作」(読売新聞大阪本社)</ref>。}}<ref name="冒頭陳述"/>、奪った金を遣って広島市中区内の繁華街で飲酒した後に自分の軽自動車を[[飲酒運転]]し、翌日(1996年4月19日)早朝には広島市中区流川の路上で駐車してあった[[原動機付自転車]](原付)に衝突する物損事故を起こし、同日9時ごろに通報を受けて駆け付けた[[広島東警察署|広島県広島東警察署]]管内交番の警察官がそのまま車内で寝ていたHを発見した<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。Hは事情聴取できないほどに泥酔していたが、目撃者がいなかったことから飲酒運転が立証できなかったため立件されず、結局は交番がHの勤務先(広島市[[東区 (広島市)|東区]]内のタクシー会社)に連絡し、上司にHを連れて帰らせた{{Refnest|group="注"|この上司は後に『中国新聞』記者の取材に対し「この一件は厳しく注意した。仮に営業中にこのような事故を起こしていたら解雇していた」と述べた<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。}}<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。 |
|||
1996年4月20日、Hは遺体遺棄現場に2回行き遺体がうまく隠されていることを確認した<ref name="冒頭陳述"/>。前述のように被害者AはHに「大阪在住」と話していたため、Hは「殺しても(身元は)発覚しないだろう」と考えていたが{{Sfn|丸山|2010|p=53}}、殺害から18日後の1996年5月6日に少女の遺体が発見され{{Sfn|新潮45|2002|p=295}}、後述のように広島県広島北警察署(現:[[安佐南警察署]])は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した<ref name="読売新聞1996-05-07"/>。遺体発見・身元判明をニュースで知ったHは「大阪の女じゃなかったのか」と驚き、同時に「自分の身辺に捜査の手が迫るかもしれない」と考えた{{Sfn|新潮45|2002|p=296}}。それ以降は「(Aが自分と)同じ県内に住んでいたなら自分も疑われて逮捕されるかもしれない」と恐怖していたが{{Sfn|丸山|2010|p=53}}、やがて時間が経過するにつれてA事件の報道は少なくなっていた一方{{Refnest|group="注"|当時は暴走族による犯行説が流れていた<ref name="読売新聞 冒頭陳述"/>{{Sfn|別冊宝島|2006|p=175}}。}}<ref name="冒頭陳述"/>、Hの周囲に警察の動きはなかったため、1996年7月ごろには<ref name="冒頭陳述"/>「警察の捜査能力にも限界がある。セックスを商売にしている行きずりの女なら自分と接点はないし、行方不明になっても捜索願は出ないだろうから自分が逮捕される不安はない」と安堵して自信を深めるようになっていた{{Sfn|新潮45|2002|p=296}}。 |
|||
=== B事件(第2の事件) === |
|||
事件発生:1996年8月13日0時50分ごろ<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
* 被害者:女性B(事件当時23歳・広島市[[安佐南区]][[八木 (広島市)|八木]]八丁目在住)<ref name="中国新聞1996-10-09"/> - [[1985年]](昭和60年)3月に安佐南区内の別の地区から事件当時の住居へ両親・妹弟計5人とともに転居し<ref name="朝日新聞1996-10-09"/>、事件当時は[[スナックバー (飲食店)|スナックバー]]で勤務していた{{Sfn|新潮45|2002|p=296}}。近隣住民によれば「挨拶をきちんとするさっぱりした性格」で夜間に出掛けることが多く<ref name="朝日新聞1996-10-05"/>、1996年8月12日(事件当日)以降は行方が分からなくなっていたが<ref name="中国新聞1996-10-10">『中国新聞』1996年10月10日朝刊第17版第一社会面29頁「女性連続殺人 H容疑者、殺害後に 『4人から十数万円奪う』」(中国新聞社)</ref>、家族から捜索願は出されていなかった<ref name="中国新聞1996-10-08 夕刊"/>。 |
|||
* 殺害現場:広島県広島市安佐南区八木・「太田川橋」([[一級水系|一級河川]]・[[太田川]]に架かる)橋付近<ref name="朝日新聞1996-10-09"/><ref name="読売新聞1996-10-07"/>・路側帯<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
* 死体遺棄現場:広島県広島市[[安佐北区]][[白木町]]小越・関川(太田川水系三篠川支流)沿い斜面([[広島県道46号東広島白木線]]の脇)<ref name="朝日新聞1996-10-07 広島朝刊">『朝日新聞』1996年10月7日大阪朝刊広島県版地方面「捜査員増強 容疑者、別の殺害をさらに自供 広島連続女性殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref> |
|||
** [[東広島市]]との市境から北方約700 m地点で、周辺の民家はわずか3軒しかなく、周囲は雑木が茂った急勾配だった<ref name="中国新聞1996-10-17"/>。 |
|||
A事件から約3カ月が経過した1996年8月になってもHの周囲には捜査の手が及ばなかったため、やがてHは「自分は絶対に警察になど捕まらない、悪運の強い特別な人間だ」という自信や「『他人の死をも支配できる』という一種の満足感・快感」を覚えるようになった<ref name="冒頭陳述"/>。しかしその一方で被害者Aから奪った金(5万円)は借金返済には充てず、その後も返済の努力をしなかったために督促状が自宅に届き、妻に借金の存在を知られてしまった{{Sfn|別冊宝島|2006|p=175}}。やがて消費者金融の取り立てが深夜に及ぶほど厳しいものになったことから離婚騒動に発展し<ref name="読売新聞 冒頭陳述"/>、家族が消費者金融に対し貸付の停止を申し入れた{{Refnest|group="注"|冒頭陳述では「広島県貸金業協会に一切借金できない旨の申し立てをして親類が返済した」とされている<ref name="読売新聞 冒頭陳述"/>。またHの同僚は『週刊新潮』記者の取材に対し「借金を妻に知られたことで夫婦喧嘩になり、妻はいつでも離婚届を提出できるようHに捺印させていた」と証言している<ref name="週刊新潮1996-10-25"/>。}}<ref name="冒頭陳述"/><ref name="朝日新聞1996-10-08 朝刊"/>。これによりHは金融業界の「ブラックリスト」に載り借り入れができなくなったため<ref name="朝日新聞1996-10-08 朝刊">『朝日新聞』1996年10月8日朝刊第一社会面31頁「『金目当てに殺害』 広島の連続殺人で容疑者供述 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>、不満が募って自暴自棄になっていた<ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
1996年8月12日夜、Hは「自分と接点のない売春婦を殺害して所持金を奪おう」と計画した上で{{Sfn|別冊宝島|2006|p=176}}、再び新天地の繁華街をタクシーで流しながら次の標的として「男から声を掛けられるのを待つ売春婦」を物色した{{Sfn|丸山|2010|p=56}}。「ホテルを出てから殺せばセックスもタダでできる」と考えていたHは新天地公園で見つけた被害者女性Bに声を掛け乗車させ{{Refnest|group="注"|Hはそれ以前にも一度被害者Bを新天地公園で乗務中に見かけていたが、その際は金がなかったために売春代金を聞いただけで別れていた{{Sfn|別冊宝島|2006|pp=175-176}}。}}、車中で現金3万円を渡して安心させた上でラブホテルに入ったが、Bは「自分の父親は[[暴力団]]組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した{{Refnest|group="注"|永瀬は新潮45(2002)でその言葉の真意を「Hを『素行不良のタクシー運転手』とみなして牽制しようとしたため」と推測している{{Sfn|新潮45|2002|p=296}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|pp=296-297}}。Hは「それは怖いね」と返しながら被害者Bと[[性行為]]をし、翌日(1996年8月13日)になって2人でラブホテルを出るとコンビニに立ち寄り缶ビール・[[軍手]]を購入した上で山道に入った{{Sfn|新潮45|2002|p=297}}。 |
|||
1996年8月13日0時50分ごろ<ref name="冒頭陳述"/>、Hは「太田川橋」付近で<ref name="朝日新聞1996-10-09"/><ref name="読売新聞1996-10-07"/>突然タクシーを停車し{{Sfn|新潮45|2002|p=297}}、A事件の時と同じく燃料切り替えスイッチの操作でエンジンを停止させてエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Bを油断させた<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。その上でBに「(この車は)よく故障するんだよ」と言って床のシートをめくるよう頼み{{Sfn|新潮45|2002|p=297}}、軍手を嵌め被害者Bの背後からネクタイでBの首を絞めた{{Sfn|新潮45|2002|p=297}}。Bは咄嗟に自分の首とネクタイの間に右手を差し込んで抵抗し{{Sfn|別冊宝島|2006|p=176}}、「さっきの『父親がヤクザだ』という話は嘘だ。金は返すから許して」と命乞いしたが、Hはそれを聞き入れずにBの首を絞め続けて被害者Bを絞殺した{{Refnest|group="注"|新潮45(2002)で永瀬は「この時は軍手を嵌めていたためか、A事件の時よりさらに強い力で被害者Bの首を絞めていた」と述べている{{Sfn|新潮45|2002|p=297}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|p=297}}。Hは1時ごろにタクシーを発進させて遺体遺棄現場への移動を開始し{{Refnest|group="注"|当初は東広島市内の人気のない場所に遺棄しようとしていたが、途中で車のヘッドライトが見えたことから遺棄場所を変更した{{Sfn|別冊宝島|2006|p=176}}。}}{{Sfn|別冊宝島|2006|p=176}}、被害者Bの遺体を物色して所持金52,000円を奪った上で{{Sfn|新潮45|2002|p=297}}、2時20分ごろに{{Sfn|別冊宝島|2006|p=176}}安佐北区白木町小越の関川沿い斜面でBの遺体を遺棄した<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。 |
|||
=== C事件(第3の事件) === |
|||
事件発生:1996年9月7日23時50分ごろ(殺害時刻)<ref name="冒頭陳述"/> |
|||
* 被害者:女性C(事件当時45歳・[[長崎県]][[諫早市]]出身・広島市中区宝町在住)<ref name="朝日新聞1996-10-05"/> - 事件の10年前から宝町のマンションに住んでいたが、1996年9月上旬ごろから帰宅していなかった<ref name="朝日新聞1996-10-05"/>。Hとは事件以前から顔見知りだったが{{Sfn|新潮45|2002|p=297}}、1993年ごろにHの所持金を盗んだことがあり、Hからは悪感情を抱かれていた{{Refnest|group="注"|その後、事件当日までHはCの客にはならなかった{{Sfn|別冊宝島|2006|p=177}}。}}{{Sfn|別冊宝島|2006|p=177}}。 |
|||
* 殺害現場:広島県[[山県郡]][[加計町]]穴(現:広島県山県郡[[安芸太田町]]穴)・[[国道191号]]の脇道<ref name="朝日新聞1996-10-16"/> |
|||
* 死体遺棄現場:広島県山県郡加計町加計(現:広島県山県郡安芸太田町加計)・町道脇を流れる滝山川(太田川支流)左岸法面斜面<ref name="読売新聞1996-10-02"/><ref name="朝日新聞1996-10-02"/> / コンクリート製の溝の中<ref name="朝日新聞1996-10-02"/> |
|||
** [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[広島駅]]から北北西へ約30 km・被害者Dの遺体発見現場から北約20 km<ref name="朝日新聞1996-10-02"/>、および[[温井ダム]]から下流約1 kmの山中に位置していた<ref name="中国新聞1996-10-02">『中国新聞』1996年10月2日夕刊第6版第一社会面3頁「湯来町の殺人 H容疑者 別の女性殺害を自供 加計町 白骨死体を発見」(中国新聞社)</ref>。夜間はほとんど人通りがない町道の脇だった<ref name="朝日新聞1996-10-03"/>。 |
|||
面識のない女性2人を相次いで殺害したHはB事件から日数が経過しても被害者Bの遺体が発見されなかったため「自分が警察に疑われることはない」と確信し<ref name="冒頭陳述"/>、1996年8月下旬ごろ以降は遊興費を入手するために女性を物色するようになったが<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/><ref name="冒頭陳述"/>、このころから「[[快楽殺人|人を殺すこと自体が極めて強い刺激となり、快感を感じるほど]]」になっていた<ref name="冒頭陳述"/>。1996年8月30日3時、Hは中区内で客待ちしていたところ、偶然通りかかった女性Cを見かけたが、この時は帰社時間が迫っていたため後日Cを殺害することにした{{Sfn|別冊宝島|2006|p=177}}。 |
|||
C事件当日(1996年9月7日)、Hは22時30分を過ぎても運賃収入が30,000円止まりで目標とした運賃収入50,000円に届かなかったため、不足分の運賃収入を補い、遊興費も稼ぐ目的で売春婦を殺害して金を奪うことを決意した{{Sfn|別冊宝島|2006|pp=177-178}}。23時ごろ、Hは広島市[[南区 (広島市)|南区]]内{{Refnest|group="注"|事件直後の『中国新聞』『朝日新聞』報道では「南区松川町」<ref name="中国新聞1996-10-04"/><ref name="朝日新聞1996-10-16"/>、冒頭陳述では「広島市南区的場」となっている<ref name="冒頭陳述"/>。}}の路上でいつも客待ちしていた女性Cをタクシーに誘い入れ{{Refnest|group="注"|Hはこの時点で既に被害者Cを殺害・遺棄する目的でCを尾行していたが<ref name="冒頭陳述"/>、被害者CはすぐにHのタクシーに乗車した{{Sfn|新潮45|2002|p=298}}。永瀬は新潮45(2002)でその理由について「CはHと顔見知りだったからすぐにタクシーに乗ったのだろう」と推測している{{Sfn|新潮45|2002|p=298}}。}}{{Sfn|別冊宝島|2006|p=178}}、Cに「どこか遠くで遊ぼうか」と提案して3万円を渡し「[[カーセックス|タクシーの中でしてもいいかな?]]」と提案して承諾を得ると、途中でコンビニに立ち寄ってCに缶ビールを買わせた{{Sfn|新潮45|2002|p=298}}。しかしHは以前から遺棄現場として考えていた加計町方面へ向かった一方、なかなかCと性行為をする気にはならなかった{{Sfn|別冊宝島|2006|p=178}}。 |
|||
1996年9月7日23時50分ごろ<ref name="冒頭陳述"/>、Hは真っ暗な山道にタクシーを停車して被害者Cに「俺は後ろからするのが好きだ。四つん這いになってくれ」と[[後背位]]で性行為をするよう求めた{{Sfn|新潮45|2002|p=298}}。Hからの申し出を承諾した被害者Cは後部座席で背を向け、下着を脱いで腰を突き出したが、Hはネクタイ・ズボンのベルトを緩めて唸り声を上げながらCにのしかかった{{Sfn|新潮45|2002|p=298}}。Cは危険を察知して振り返り、Hに「何をするの!」と叫んだが、Hはベルトを引き抜いて被害者Cの首に回して絞め上げ、激しい抵抗にも躊躇せずCを絞殺した{{Refnest|group="注"|Cはネクタイを首に巻かれそうになった際にネクタイをむしり取り、車外へ逃げ出そうとしたが、Hは力づくでCを抑えつけ{{Sfn|別冊宝島|2006|p=178}}、Cが白目を剥いて失神するまでベルトで首を絞めつけ、最後にネクタイで首を絞めつけた{{Sfn|新潮45|2002|pp=298-299}}。最後にネクタイでとどめを刺した理由について別冊宝島(2006)は「ネクタイで絞殺する感触が忘れられなかったからだろう」と述べている{{Sfn|別冊宝島|2006|p=179}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|pp=298-299}}。その後、HはCの財布から{{Sfn|別冊宝島|2006|p=179}}現金約82,000円を奪い<ref name="冒頭陳述"/>、9月8日0時10分ごろに遺体をタクシーに乗せたまま発進し、約1時間にわたり遺棄場所を探しながらタクシーで走行した{{Sfn|別冊宝島|2006|p=179}}。最終的にHは殺害現場から約10 km離れた滝山川左岸の法面斜面に<ref name="読売新聞1996-10-02"/><ref name="朝日新聞1996-10-02"/>被害者Cの遺体を遺棄し<ref name="朝日新聞1996-10-16"/>、遺体発見を遅らせようと近くの農家から盗んだ青いビニールシートで遺体を隠した<ref name="中国新聞1996-10-17">『中国新聞』1996年10月17日朝刊第17版第一社会面31頁「Cさん殺害 H被告 遺体シートで覆う 発見を遅らせる目的か」(中国新聞社)</ref>。 |
|||
=== D事件(第4の事件) === |
|||
事件発生:1996年9月14日2時10分ごろ(殺害時刻)<ref name="中国新聞1996-10-13"/> |
|||
* 被害者:主婦D(事件当時32歳・広島市中区鶴見町在住)<ref name="中国新聞1996-09-16"/> - 加害者Hとは事件前に何度か遊んだことがある間柄で、Hからは「アイちゃん」の愛称で呼ばれていた<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。事件6年前(1990年)に前夫と離婚したが、その前に生まれた娘2人とマンションで暮らしており、事件当時はナイジェリア人の男性と再婚していた<ref name="読売新聞1996-09-16"/>。 |
|||
* 殺害現場:広島県広島市[[佐伯区]][[五日市町 (広島県)|五日市町]]大字上河内・[[広島県道41号五日市筒賀線]]路上(殺害現場)<ref name="朝日新聞1996-10-13"/>。 |
|||
* 死体遺棄現場:広島県[[佐伯郡]][[湯来町]]葛原(現:広島市[[佐伯区]]湯来町大字葛原)・[[国道433号]]旧道東側法面(遺体遺棄現場)<ref name="中国新聞1996-09-15"/> |
|||
** 広島駅から北西約25 kmの山間部で<ref name="読売新聞1996-09-14"/>国道433号・[[広島県道41号五日市筒賀線]]([[魚切ダム]]付近を経由)の交差点から南方約3.5 km地点の田畑・民家が点在する田園地帯<ref name="中国新聞1996-09-15"/>。現場付近は旧道に並行して新道が走っており{{Refnest|group="注"|現場付近の旧道は付近の住民が散歩で通る程度で<ref name="朝日新聞1996-09-15 広島">『朝日新聞』1996年9月15日大阪朝刊広島県版地方面「山あいに走る衝撃 きょう100人で捜索 湯来町の女性殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>、車や人の通りは少ない道だった<ref name="読売新聞1996-09-14"/>。}}<ref name="中国新聞1996-09-15"/>、旧道から1 mほど斜面を下った草むらで遺体が発見された<ref name="読売新聞1996-09-14"/>。 |
|||
HはC事件後に「今までに3人も殺した以上は<!--[[最高裁判所判例]]として示された死刑適用基準「[[永山基準]]」の観点から見ても-->もし警察に逮捕されたら間違いなく死刑になる」と恐怖していた一方、被害者Aの遺体が発見されて以降は事件について続報がなく、B・C両被害者の殺害に関してはこの時点で発覚すらしていなかったため「俺は超人ではないか?絶対に捕まることはないだろう」と自信を持った{{Sfn|新潮45|2002|p=299}}。また「自分には嫌疑が掛けられず、小遣い稼ぎもできる」という理由だけでなく、殺害行為に一種の快感を感じるようになっていたため、4人目に殺害する女性を探しながらタクシー乗務を続けていた{{Refnest|group="注"|時には乗務中にも湧き上がってくる殺人衝動に恐怖して「いつもと違う自分だったら衝動も収まるだろう」と乗務用の白手袋を脱いで乗務したこともあったが、結局は殺人衝動や「女性を絞殺する際の快感」に駆られ新たな犯行に手を染めた{{Sfn|新潮45|2002|p=299}}。}}<ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
C事件から1週間が経過した1996年9月13日22時ごろ、Hは「3人殺そうが4人殺そうが大して変わらない」などと考えつつ<ref name="冒頭陳述"/>、広島市中区内でタクシーに(被害者Dとは別の)女性客を乗車させた{{Refnest|group="注"|この女性客がタクシー内でHに「これから今日3人目の相手をする」と話したため、Hは「3人分の売春代金をもってホテルから出てきたところを襲おう」と考えて殺害を決意した{{Sfn|別冊宝島|2006|p=180}}。Hは女性が入ったホテル近くにタクシーを駐車して約2時間にわたり出てくるところを待ち伏せたが{{Sfn|別冊宝島|2006|p=180}}、その女性を見失ったため断念した<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。}}<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。一方で被害者女性Dは同じく22時ごろに中区銀山町の路上で目撃された後、14日0時前後に近所の知人女性へ封筒に入れた現金数万円を「物騒だから預かってほしい。朝には受け取りに来る」と預けていた<ref name="中国新聞1996-09-18">『中国新聞』1996年9月18日朝刊第17版第一社会面23頁「湯来の主婦殺人 事件前、現金預ける」(中国新聞社)</ref>。Hは前述の女性客を約2時間待った末に見逃してしまったために売上金が少なく、目標の運賃収入に届かなかったため「今日中に売春婦を殺して金を奪いたい」と決意し{{Sfn|別冊宝島|2006|p=180}}、偶然見かけた被害者女性Dを新たな標的に決めた<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。Hは一度Dに声を掛けてタクシーに乗車させ、停車した車内で10分ほど話をしたが、缶ビールを購入するためにいったん車外に出てから車に戻るとDが姿を消していた{{Sfn|新潮45|2002|p=300}}。Hは「逃げられた」と舌打ちしたが、日付が変わった1996年9月14日0時すぎにホテルの前で再び被害者Dと邂逅し、4万円を提示してDから性行為をする了承を得ると{{Refnest|group="注"|通常の「相場」は1,5000円 - 20,000円未満だったため、被害者DはHから「相場の倍以上」となる40,000円を提示され快諾した{{Sfn|新潮45|2002|p=300}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|p=300}}、「今夜はちょっと遠くに行ってやろう」とタクシーを発進させ、殺害現場へ向かう途中でコンビニに立ち寄って被害者Dに缶ビール・つまみを購入させた{{Sfn|新潮45|2002|pp=300-301}}。そしてHはDを交通量がほとんどない佐伯区のダム付近で殺害することを決意し、その近くのラブホテル{{Refnest|group="注"|殺害現場から約3 km{{Sfn|別冊宝島|2006|p=167}}。}}で性行為をした{{Sfn|別冊宝島|2006|p=181}}。 |
|||
Hは1時50分ごろにDとともに2人でホテルを出ると{{Sfn|別冊宝島|2006|p=181}}、タクシーの後部座席にDを乗車させて[[廿日市市]]方面へ向かい、1996年9月14日2時すぎに人気のない田舎道(殺害現場)でタクシーを停車した{{Sfn|新潮45|2002|pp=301-302}}。その上でA・B両事件の時と同じく燃料切り替えスイッチでエンジンを停止させてエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Dを油断させ{{Refnest|group="注"|Hはそれまでに3人を殺害した際の経験から「プロのタクシードライバーである自分の指示に対し、女性たちが全く疑いを抱くことなく指示に従うこと」を知っていた<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。}}、Dに「足元のシートをめくってほしい」と申し出た{{Sfn|新潮45|2002|p=302}}。そしてDが屈みこんでいる間にネクタイをほどいたところ、Dが顔を上げて「なんか怖い」と言ったため、HはDに笑みを浮かべながらネクタイを座席に掛けた{{Sfn|新潮45|2002|p=302}}。しかしDが「一人で帰る」と言い出してタクシーのドアを開けて車外へ飛び出したため{{Refnest|group="注"|広島地検はDのこの行動について「いつもと違う雰囲気を察知してタクシーから逃げようとした」と推測している<ref name="中国新聞1996-10-13"/>。}}、Hは「警察に駆け込まれたら終わりだ」と思ってタクシーを急発進させ、被害者Dを追いかけながら「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けたが、Dは走って逃げながらショルダーバッグから1万円札4枚(現金40,000円){{Refnest|group="注"|いったんHがDに払った売春代金{{Sfn|別冊宝島|2006|p=182}}。}}を取り出し「もうお金はいらないから」と叫びながらHに投げつけた{{Sfn|新潮45|2002|pp=302-303}}。これに逆上したHはタクシーを加速させて被害者Dの前に回り込むと、車外に出てDの行く手を塞ぎ、立ちすくんでいたDの襟首を掴み{{Sfn|新潮45|2002|p=303}}、売春婦を脅すためにあらかじめ準備していた果物ナイフ(刃渡り約11 [[センチメートル|cm]]){{Sfn|別冊宝島|2006|p=182}}を被害者Dに突き付けた{{Refnest|group="注"|新潮45(2002)では「喉元に突き付けた」と{{Sfn|新潮45|2002|p=303}}、別冊宝島(2006)では「腹に突き付けた」となっている{{Sfn|別冊宝島|2006|p=182}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|p=303}}。そしてDを後部座席に連れ込み、右拳でDの顔面を計10発近く殴りつけて失神させると{{Refnest|group="注"|この際、Dを後部座席に押し込んでタクシーを移動させ、約3分後に殺害現場でタクシーを降車した{{Sfn|別冊宝島|2006|p=182}}。}}、Dの首をネクタイで絞めて殺害した{{Refnest|group="注"|この時、Hは約15分間にわたりDの首を絞め続けていた{{Sfn|別冊宝島|2006|p=182}}。}}{{Sfn|新潮45|2002|p=303}}。 |
|||
Hは被害者Dが所持していた現金約56,000円{{Refnest|group="注"|自身が一度渡した40,000円+Dのもともとの所持金16,000円{{Sfn|別冊宝島|2006|pp=182-183}}。}}<ref name="朝日新聞1996-10-13"/>・携帯電話を奪ったほか<ref name="中国新聞1996-10-10"/>、「タクシーの座席がDの血液・(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を天井側部の手すりに結び付け、遺体を首吊りの格好で天井に固定した状態でタクシーを移動させた{{Sfn|新潮45|2002|p=303}}、そして2時40分ごろ{{Sfn|別冊宝島|2006|p=183}}、Hは広島県[[佐伯郡]][[湯来町]]葛原(現:広島市[[佐伯区]]湯来町大字葛原)の[[国道433号]]旧道沿い草むらに<ref name="読売新聞1996-09-14"/>Dの遺体を投げ捨てるようにして遺棄した{{Sfn|新潮45|2002|p=303}}。Hは犯行後の14日4時ごろにタクシーで広島市東区内の会社へ戻り、タクシー後部座席の客用シーツを新品と交換した上で古いシーツを持ち帰り、自分の自家用車で帰宅した<ref name="中国新聞1996-10-07 社会"/>。その後、翌日(1996年9月15日)も普段通り4時ごろに出勤して広島市内を中心に乗務していた{{Refnest|group="注"|同日は日曜日だったため早めに乗務を切り上げたが、平日並みの約35,000円を売り上げていた<ref name="緊急リポート3"/>。}}<ref name="緊急リポート3"/>。 |
|||
== 初動捜査 == |
|||
=== A事件発覚 === |
|||
A事件発生後・発覚前の1996年4月20日に被害者Aの母親がAの持っていたポケットベルへ発信したところ、居場所は明確ではなかったが応答があったほか、翌21日午後には[[海田警察署]]員が安芸郡[[海田町]]南部の路上{{Refnest|group="注"|広島市[[安芸区]]との市町境付近で[[国道31号]]と合流して広島市街地方面へ向かう国道2号バイパス付近<ref name="中国新聞1996-05-17"/>。Aの自宅から約14 km・広高校からは約17 km地点で<ref name="中国新聞1996-05-17"/>、海田町はAの通学経路から外れていた一方、広島市中心部 - A宅への経路上に該当していた<ref name="中国新聞1996-10-08"/>。}}で被害者Aの定期券([[呉市交通局|呉市営バス]])を発見した<ref name="中国新聞1996-05-17">『中国新聞』1996年5月17日朝刊第17版第一社会面31頁「女子高生死体遺棄 海田で定期券発見 20日にポケベル応答」(中国新聞社)</ref>。 |
|||
1996年5月6日16時30分ごろ、広島市安佐南区沼田町大塚の林道沿い水路で<ref name="中国新聞1996-05-07">『中国新聞』1996年5月7日夕刊第6版第一社会面3頁「広島市内 水路に若い女性死体」(中国新聞社)</ref>山菜採りをしていた近隣住民が全裸で倒れている女性の腐乱死体を発見して110番通報した<ref name="読売新聞1996-05-07">『読売新聞』1996年5月7日大阪夕刊第一社会面15頁「林道わきの側溝に女性他殺体? 不審な車の目撃者を捜査/広島県警」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞1996-05-07">『[[朝日新聞]]』1996年5月7日大阪夕刊第一社会面15頁「広島の川に女性の死体 【大阪】」([[朝日新聞大阪本社]])</ref>。[[広島県警察]]捜査一課・広島北警察署(現:[[安佐南警察署]])は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始し、遺体発見現場の状況などから「車を使用した犯行」とみて不審な人物・車両の目撃者などを捜査した<ref name="読売新聞1996-05-07"/>。遺体の死亡時期は腐乱状況などから死後約1週間<ref name="中国新聞1996-05-07"/> - 6か月以内と推測され、遺体発見翌日(5月7日)の[[司法解剖]]でネックレス・左耳に着けたピンクのピアス{{Refnest|group="注"|ネックレス・ピアスは大手宝石店で売買されていたものだが、購入先は特定できなかった<ref name="朝日新聞1996-05-14"/>。}}・歯の治療痕などが確認されたが、外傷確認・死因特定はできず、現場周辺を捜索しても身元特定の手がかり(着衣など)は発見できなかった<ref name="中国新聞1996-05-08">『中国新聞』1996年5月8日朝刊第17版第一社会面27頁「広島 女性の腐乱死体」(中国新聞社)</ref>。 |
|||
初動捜査で女性の身元を特定する手掛かりが発見できなかったため、1996年5月8日に広島県警(捜査一課・広島北署)は「捜査が長期化する可能性が高い」として捜査本部を設置し<ref name="中国新聞1996-05-09">『中国新聞』1996年5月9日朝刊第17版第一社会面27頁「広島の女性死体 血液型はO型 盲腸の手術も」(中国新聞社)</ref>、164人態勢で捜査に当たった<ref name="朝日新聞1996-05-09">『朝日新聞』1996年5月9日大阪朝刊広島県版地方面「164人態勢で捜査 広島・安佐南区の女性死体遺棄で県警 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。捜査本部は同日に解剖・鑑定の結果「女性の[[血液型]]はO型」「盲腸には手術痕がある」と断定したほか、歯4本の治療痕に着目して[[広島県歯科医師会]]に対し「遺体の特徴に該当する患者がいるかどうか情報を提供してほしい」と要請したほか{{Refnest|group="注"|捜査本部からの要請を受け、広島県歯科医師会は県内約1,280の[[診療所]]に対し女性の歯の状況を記した所見を送った<ref name="朝日新聞1996-05-09"/>。捜査本部は歯科医院のカルテなどを調査した上で<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>、歯の治療痕を確認して被害者Aの身元確認に至った<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊"/>。}}<ref name="朝日新聞1996-05-09"/>、下側5番目の小臼歯2本について「先天性欠如歯」に該当する女性患者がいないかどうかを重点的に調べた<ref name="朝日新聞1996-05-14"/>。 |
|||
1996年5月13日になって「Aの母親」と名乗る女性の声で広島北署捜査本部に「娘がいなくなっている」と電話があったため、捜査本部が遺体の特徴などを調べたところ、血液型(O型)・身に着けていた装飾品(ネックレス・ピアスなど)が少女Aの特徴と酷似していた<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊">『読売新聞』1996年5月14日大阪朝刊第二社会面26頁「広島の女性遺体 不明の16歳少女か 血液型や身長が一致」(読売新聞大阪本社)</ref>。また捜査本部が少女A宅に残された指紋<ref name="中国新聞1996-05-15">『中国新聞』1996年5月15日朝刊第17版第一社会面25頁「広島の女性死体 黒瀬町の高校1年生 歯の治療痕など決め手」(中国新聞社)</ref>・髪を遺体と照合したり<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊"/>、虫垂炎の手術痕・胸の[[X線撮影|X線写真]]などを照合するなどしたところ<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>、翌日(1996年5月14日)に「遺体の身元は被害者A」と断定された<ref name="中国新聞1996-05-15"/><ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊">『読売新聞』1996年5月14日大阪夕刊第二社会面14頁「広島の女性遺体 高1少女と断定」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞1996-05-15">『朝日新聞』1996年5月15日大阪朝刊広島県版地方面「事件・事故両面で捜査 広島市安佐南区の女性遺体、身元判明 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。 |
|||
被害者Aの遺体は自宅・学校・アルバイト先から離れた場所で衣服を身に着けていない状態で発見されたため、捜査本部は「車などで運ばれて現場に遺棄された可能性がある」と推測し、被害者Aの交友関係を中心に聞き込み捜査を行ったが<ref name="中国新聞1996-05-15"/>、遺体発見当日までの足取りについて有力情報は得られなかった<ref name="中国新聞1996-05-31"/>。そのため広島北署捜査本部は被害者Aの写真が入ったチラシ6,000枚を製作し<ref name="朝日新聞1996-06-01">『朝日新聞』1996年6月1日大阪朝刊広島県版地方面「女性の写真入りチラシ、交番などに掲示 広島市の死体遺棄事件 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>、1996年5月31日からそのチラシを広島市内を中心に(Aが事件前に行った可能性がある)[[呉警察署]]・[[広警察署]]・[[海田警察署]]・[[東広島警察署|西条警察署]]の各管内などに貼り出して情報提供を求めたが<ref name="中国新聞1996-05-31">『中国新聞』1996年5月31日夕刊第6版第一社会面3頁「女子高生死体事件 捜査本部 ポスター掲示・配布 情報提供呼びかけ」(中国新聞社)</ref>、その後は有力な情報提供がないまま[[未解決事件]]となっており、後にHが自供した時点では迷宮入り寸前だった<ref name="AERA"/>。 |
|||
=== D事件発覚 === |
|||
被害者Dが殺害されてから5時間後となる{{Sfn|新潮45|2002|p=303}}1996年9月14日7時ごろ、広島県[[佐伯郡]][[湯来町]]葛原(現:広島市[[佐伯区]]湯来町大字葛原)の[[国道433号]]旧道東側法面で近隣住民が犬の散歩をしていたところ、仰向けに倒れ死亡している若い女性の遺体を発見した<ref name="中国新聞1996-09-14">『中国新聞』1996年9月14日朝刊第6版第一社会面3頁「湯来町 道路わきに女性死体」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞1996-09-15">『中国新聞』1996年9月15日朝刊第17版第一社会面27頁「広島県湯来町 女性死体、絞殺と断定 別の場所で殺害・遺棄か」(中国新聞社)</ref>。遺体に目立った外傷はなかったが<ref name="読売新聞1996-09-14">『読売新聞』1996年9月14日大阪夕刊第一社会面11頁「若い女性の絞殺体 旧国道わきの草むらで見つかる /広島・湯来町」(読売新聞大阪本社・広島総局)</ref><ref name="朝日新聞1996-09-15">『朝日新聞』1996年9月15日大阪朝刊第一社会面29頁「旧国道わきに女性の絞殺体 広島・湯来町の山中 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>、顔面に鬱血・首に絞められた痕が確認されたため<ref name="中国新聞1996-09-15"/>、広島県警捜査一課は殺人・死体遺棄事件と断定して[[廿日市警察署]]に捜査本部を設置して捜査を開始した<ref name="読売新聞1996-09-14"/><ref name="朝日新聞1996-09-15"/>。 |
|||
捜査本部が同日中に[[広島大学]][[医学部]]で遺体を[[司法解剖]]して詳しい死因・身元などを調べた結果<ref name="読売新聞1996-09-14"/>、死因は「首の圧迫による窒息死」{{Refnest|group="注"|遺体の首には手で絞めたような痕跡・首の骨が折れた形跡とも確認できなかったため「幅のある帯状の物で首を絞められた可能性が高い」と推測された<ref name="中国新聞1996-10-12 2"/>。}}<ref name="中国新聞1996-09-15"/>、死亡推定時刻も「14日4時ごろ」とそれぞれ断定された<ref name="中国新聞1996-09-18"/>。また着衣の乱れが少なく死亡推定時刻 - 遺体発見時刻の間隔が短かったため<ref name="中国新聞1996-09-15"/>、捜査本部は「女性は他の場所(広島市かその周辺)で殺害されて車で現場へ運ばれた可能性が高い」<ref name="中国新聞1996-09-16"/>「14日未明 - 早朝に遺棄された可能性がある」と推測したほか<ref name="中国新聞1996-09-15"/>、犯人像を「地元の地理に詳しい人物で、被害者Dを遺体発見現場付近で殺害した可能性がある」と推測し<ref name="中国新聞1996-09-19"/>、現場周辺での聞き込みなどに全力を挙げた<ref name="中国新聞1996-09-15"/>。 |
|||
その後、同日20時ごろになって女性Dの長女から広島県警へ「母親と連絡が取れない」と110番通報があったため<ref name="読売新聞1996-09-16">『読売新聞』1996年9月16日大阪朝刊第一社会面27頁「湯来町の絞殺体は不明の32歳主婦/広島県警」(読売新聞大阪本社)</ref>、広島県警がD宅マンションで採取した指紋と遺体の指紋を照合したほか、親類を立ち会わせて「遺体の身元は被害者女性D」と断定・確認した<ref name="中国新聞1996-09-16">『中国新聞』1996年9月16日朝刊第17版第一社会面23頁「湯来の殺人 被害者、広島市の主婦 繁華街で複数目撃」(中国新聞社)</ref>。身元確認を受けて捜査本部が「被害者Dの13日夜 - 14日未明にかけての足取り・交友関係」について捜査を開始したところ<ref name="朝日新聞1996-09-16"/>、「13日22時ごろに中区銀山町(D宅から北約1 km)のホテル近くの路上でDらしき女性を見た」「14日0時ごろに中区弥生町の路上で目撃した」という目撃証言が寄せられた<ref name="中国新聞1996-09-16"/>。また捜査本部は1996年9月15日9時30分から遺体発見現場周辺にて約100人態勢で遺留品などを捜索したが<ref name="朝日新聞1996-09-16">『朝日新聞』1996年9月16日大阪朝刊広島県版地方面「足取り・交友関係調べ 県警、百人で現場捜索 湯来の女性殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>、被害者Dが普段持ち歩いていたセカンドバッグは遺体周辺では発見されなかった<ref name="読売新聞1996-09-16"/>。その後、Hが取り調べに対し「被害者Dのバッグは湯来町峠の国道433号沿い山林(遺棄現場から約2 km南方)に捨てた」と自供したため、9月24日に廿日市署員ら36人が同地周辺で遺留品を捜索したが<ref name="中国新聞1996-09-25">『中国新聞』1996年9月25日朝刊第17版「第一社会面29頁「広島の主婦殺人 H容疑者を送検」(中国新聞社)</ref>、Dの遺留品は10月10日までに発見されなかった<ref name="中国新聞1996-10-11"/>。 |
|||
== 逮捕・起訴 == |
|||
=== 逃亡・D事件で逮捕 === |
|||
Hは犯行を重ねるにつれて次第に金を奪うことよりも殺人への快楽に惹かれるようになり<ref name="冒頭陳述"/>、一連の連続殺人は事件を重ねるごとに間隔が短くなっていたが{{Sfn|丸山|2010|p=57}}、4人目の被害者(女性D)の遺体発見が事件解決のきっかけになった<ref name="冒頭陳述"/>{{Sfn|丸山|2010|p=57}}。Dの遺体が確認された直後に「14日1時ごろ、被害者Dが遺体発見現場付近(かつHの自宅付近)でHと一緒にいた」という目撃証言が捜査本部に提供されたほか{{Refnest|group="注"|県警による現場周辺での聞き込み捜査の結果、現場から3 km離れたラブホテルの利用車両に通常は立ち寄らないはずのタクシーが停車していたことが判明した{{Sfn|別冊宝島|2006|pp=167-168}}。}}<ref name="中国新聞1996-09-19">『中国新聞』1996年9月19日朝刊第17版第一社会面27頁「広島の主婦殺人 運転手に逮捕状 事件後、行方分からず」(中国新聞社)</ref>、ホテルへの聞き込み捜査の結果により<ref name="読売新聞1996-09-21"/>「被害者Dは14日未明に(事件2, 3年前から親しくしていた知人である)Hとともに佐伯区内のホテルに投宿していたこと」<ref name="読売新聞1996-10-02"/>「2人はその後、Hのタクシーでホテルを出ていたこと」が判明した<ref name="読売新聞1996-09-21">『[[読売新聞]]』1996年9月21日大阪夕刊第一社会面11頁「主婦絞殺・死体遺棄事件 元タクシー運転手を逮捕/広島県警」([[読売新聞大阪本社]])</ref>。広島県廿日市警察署捜査本部は以下の点からD殺害を被疑者Hの犯行と断定し{{Sfn|新潮45|2002|p=304}}、1996年9月18日に[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]容疑で被疑者Hの逮捕状を請求した<ref name="朝日新聞1996-09-19">『朝日新聞』1996年9月19日大阪朝刊第一社会面29頁「タクシー運転手に逮捕状 広島・女性殺人容疑【大阪*】」([[朝日新聞大阪本社]])</ref><ref name="毎日新聞1996-09-19">『毎日新聞』1996年9月19日大阪朝刊社会面31頁「主婦殺人容疑で運転手に逮捕状を請求 広島県警」(毎日新聞大阪本社)</ref>。 |
|||
* 「被害者Dの死亡推定時刻(4時ごろ) - 遺体発見時刻(7時ごろ)が近接しており、遺体発見現場はH宅から直線距離約5 kmにある。また遺体は服装の乱れが少なかったため『被害者Dは土地勘のある人物により、発見現場付近の車内で殺害された』と推測できる点」<ref name="中国新聞1996-09-19"/> |
|||
* 「被害者Dが行方不明になる直前に知人のHに会っていた点」<ref name="朝日新聞1996-09-21">『朝日新聞』1996年9月21日大阪夕刊第一社会面15頁「女性絞殺容疑で運転手を逮捕 広島県警【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref> |
|||
* 「被疑者Hは遺体発見現場周辺の状況に詳しいとみられる一方、事件後に行方が分からなくなっている点」<ref name="中国新聞1996-09-19"/> |
|||
一方でHはD事件発覚翌日(1996年9月15日)にも広島市内などで乗務していたが<ref name="中国新聞1996-10-07 社会"/>、捜査が間近に迫ったことを察知し<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、1996年9月16日には[[九州]]方面への逃走を開始した{{Refnest|group="注"|丸山(2010)は「Hは追い詰められたことから自殺を考えたが結局は死にきれなかった」と述べている{{Sfn|丸山|2010|p=57}}。}}<ref name="冒頭陳述"/>。Hはその後帰宅せず勤務先のタクシー会社にも連絡を入れなくなり<ref name="中国新聞1996-09-21">『中国新聞』1996年9月21日朝刊第17版第一社会面31頁「広島の主婦殺人1週間 運転手の行方つかめず」(中国新聞社)</ref>、逃亡翌日(1996年9月17日)にはタクシー会社から解雇された<ref name="中国新聞1996-09-22"/>。 |
|||
一方で捜査本部はD事件発覚から1週間となる1996年9月20日までに「(県外を含め)被疑者Hが立ち回る可能性のある場所」の特定を急ぐとともに、被害者DがHと接触するまでの行動や「D・Hには互いに面識があったか否か」などの点について詰めの捜査を行っていた<ref name="中国新聞1996-09-21"/>。Hは出身地の九州各地を転々とした後<ref name="中国新聞1996-09-22"/>、20日にいったん広島市内の自宅へ帰ろうとしたが、そこで警察官が張り込みをしていたために断念して再び九州への逃亡を目論み<ref name="冒頭陳述"/>、同日夜に広島市中区[[幟町]]の路上で盗んだ乗用車により逃亡しようとした<ref name="中国新聞1996-09-22"/>。しかし1996年9月21日早朝4時30分ごろ{{Refnest|group="注"|『中国新聞』1996年9月21日夕刊では「盗難車で逃走中の21日5時25分ごろに窃盗容疑で逮捕された」<ref name="中国新聞1996-09-21 夕刊"/>、1996年9月22日朝刊では「21日4時30分ごろに検問を突破した」と報じられている<ref name="中国新聞1996-09-22"/>。}}に[[山口県]][[防府市]]富海の[[国道2号]]で乗用車を運転していたところ<ref name="中国新聞1996-09-22">『中国新聞』1996年9月22日朝刊第17版第一社会面27頁「広島の主婦殺人 容疑者、防府で逮捕 金銭トラブルと自供」(中国新聞社)</ref>、[[山口県警察]]が実施していた交通検問{{Refnest|group="注"|山口県警は当時「[[全国交通安全運動|秋の全国交通安全運動]]」の一環などで夜間・早朝の取り締まり強化を目的に交通検問を実施していた<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>。}}を無視して強行突破しようとしたため<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>、検問に当たっていた[[防府警察署]]員から約10 km追跡され<ref name="中国新聞1996-09-22"/>、行き止まりまで追い詰められた末に防府署まで任意同行させられた<ref name="朝日新聞1996-09-22">『朝日新聞』1996年9月22日大阪朝刊広島県版地方面「『金銭上のトラブル』 湯来町の女性殺人事件容疑者を逮捕 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。その後、車が同日未明に盗まれた盗難車であることが判明したため<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>、被疑者Hは5時25分ごろに窃盗容疑で防府署に[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された<ref name="中国新聞1996-09-21 夕刊"/>。この逮捕後、被疑者Hは妻と離婚した<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/><ref name="AERA"/>。 |
|||
1996年9月21日、被疑者Hが捜査本部によるD事件の取り調べに対し「被害者Dとは2, 3年前から知り合いだった。金銭上トラブルから遺体遺棄現場付近で首を絞めて殺した」と供述したため<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>、捜査本部は同日11時過ぎに被疑者Hを被害者D殺害事件における殺人・死体遺棄容疑で逮捕し、身柄を廿日市署へ移送した<ref name="中国新聞1996-09-21 夕刊">『中国新聞』1996年9月21日夕刊一面1頁「広島の主婦殺人 容疑者、防府で逮捕 事件から8日」(中国新聞社)</ref>。廿日市署は同月23日に被疑者Hを殺人・死体遺棄容疑で[[広島地方検察庁]]へ送検した<ref name="中国新聞1996-09-24">『中国新聞』1996年9月24日夕刊第6版第一社会面3頁「広島の主婦殺人 H容疑者を送検」(中国新聞社)</ref>また前述のようにHはD事件後(9月15日)にタクシー後部座席の乗客用シーツを外して自宅に持ち帰っていたほか、Dの遺体の顔には血液の付着した傷があったため、捜査本部は「Hは後部座席でDを絞殺したが、その際にシーツに血痕が付着したため、それを隠そうとした」と推測した<ref name="中国新聞1996-10-12 2">『中国新聞』1996年10月12日朝刊第17版第一社会面31頁「主婦殺害でH容疑者 後部座席で首絞める? 血痕シーツを隠す」(中国新聞社)</ref>。 |
|||
一方でHはD事件の取り調べを受けていたところ、捜査員に対し自ら「D事件とは関係ない地名・日時」を口に出したため、捜査員がその言葉について追及すると次第に話の辻褄が合わなくなり、さらにその点を追及されたHは新たに別の被害者女性3人の殺害を自供した<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊">『朝日新聞』1996年10月7日大阪夕刊第一社会面15頁「自供の端緒に別の地名、口滑らす 広島連続女性殺人の容疑者」([[朝日新聞社]])</ref>。この点について捜査本部は「Hは短期間に犯行を重ねたため、場所・時間の記憶が混乱して証言に矛盾をきたした」と推測したほか<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊"/>、Hは後に検察官から取り調べを受けた際に(この時点でまだ遺体が発見されていなかった)B・C両被害者の遺体遺棄現場などを自供した理由について「刑事から『他に隠していることはないか?』と訊かれたので『警察は既に遺体の在処を把握している。自分の情状のために自分から言うのを待っているのだろう』と思ったが、(被害者が)4人になることを話すのはあまりにもセンセーショナルなので、自分なりに自供する時期について迷った」と供述していた<ref name="朝日新聞1997-04-24"/>。被告人Hの供述が結果的に早期の事件解決のきっかけとなったが、本事件を取材した作家・祝康成(現:[[永瀬隼介]])は「この動機は被告人Hの何ともお粗末な勘違いだ。被告人Hの『卑しい自己本位の性根』が透けて見える言葉だ」と非難している{{Sfn|新潮45|2002|p=304}}。 |
|||
=== C事件発覚 === |
|||
その後、被疑者Hは捜査本部の取り調べに対し「1996年8月中旬の夜、仕事中に広島市中区流川の路上で被害者Dとは別の女性をタクシーに乗せた。その後、約30 km離れた[[山県郡]][[加計町]](現:[[安芸太田町]])加計までその女性を連れて行き、首を絞めて殺害し山中に遺体を遺棄した」と自供したため<ref name="読売新聞1996-10-02">『読売新聞』1996年10月2日大阪夕刊第一社会面15頁「広島の主婦絞殺事件 H容疑者が別の女性殺害自供 白骨体を発見」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞1996-10-02">『朝日新聞』1996年10月2日大阪夕刊第一社会面13頁「加計町で別の女性遺体発見 容疑者自供通り 広島の女性殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>、1996年10月1日に捜査本部が加計町加計の山中にて滝山川(太田川支流)法面を捜索したところ白骨死体(死後・推定3週間 - 半年)が発見された<ref name="中国新聞1996-10-03">『中国新聞』1996年10月3日朝刊第17版第一社会面27頁「主婦殺害 H容疑者、別の殺人供述 山中から女性白骨体 『金銭でトラブル』 車内で首絞め遺棄」(中国新聞社)</ref>。<!--司法解剖により「遺体の右上・右下の歯にはそれぞれ1本ずつ治療痕が確認されたこと」「歯垢が溜まっていたこと」から「被害者女性は生前に喫煙習慣があった」と推測された<ref name="朝日新聞1996-10-03"/>。--> |
|||
Hは動機などについて以下のように自供し「被害者女性とは2,3年前から面識があった」とも供述したが<ref name="中国新聞1996-10-04"/>、「女性の住所・氏名は知らない」とも供述したため<ref name="読売新聞1996-10-02"/><ref name="朝日新聞1996-10-03"/>、捜査本部は「Hは『広島市繁華街で顔見知りの女性をタクシーに乗せて人気のない郊外で首を絞める』という手口で2人を殺害した」との見方を強めた<ref name="朝日新聞1996-10-03">『朝日新聞』1996年10月3日大阪朝刊広島県版地方面「被害女性の似顔絵公開 殺人手口共通、容疑者再逮捕の方針 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。 |
|||
* 「被害者女性は生前、九州訛りがあった。女性を街で見かけて顔を知っていた」<ref name="読売新聞1996-10-02"/> |
|||
* 「被害者女性とは金銭トラブルがあり、金を取ろうとして殺害した」<ref name="中国新聞1996-10-03"/> |
|||
またHは自分に不利な供述にも拘らず「もう1人殺して捨てています。ご案内します」と現場の地図を丁寧に描いたほか、被害者の似顔絵作成も自ら手伝っていた<ref name="AERA"/>。捜査本部はその供述を基に作成した女性の似顔絵や着衣などを公開し<ref name="朝日新聞1996-10-03"/>、行方不明者名簿などから遺体の身元特定を進め<ref name="読売新聞1996-10-02"/>、1996年10月3日に遺体の身元を(女性Cと)ほぼ特定した<ref name="中国新聞1996-10-04">『中国新聞』1996年10月4日朝刊第17版第一社会面31頁「加計町の殺人被害者 広島市の40歳代女性?歯の治療痕で確認急ぐ」(中国新聞社)</ref><ref name="読売新聞1996-10-04">『読売新聞』1996年10月4日大阪朝刊第一社会面35頁「広島の連続女性殺害事件 白骨遺体の身元を特定」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞1996-10-04">『朝日新聞』1996年10月4日大阪朝刊広島県版地方面「被害者40代女性か 加計の白骨遺体 身元の裏付け急ぐ /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。そして裏付け捜査{{Refnest|group="注"|頭部レントゲン写真(女性Cが事件6,7年前に広島市内の病院で撮影)や歯の治療痕を照合したほか、Cと同居していた男性に遺留品のブレスレットを見せて確認した<ref name="中国新聞1996-10-05"/>。}}に加え、Hに被害者Cの顔写真を見せて「間違いない」との供述を得たため<ref name="中国新聞1996-10-05">『中国新聞』1996年10月5日朝刊第17版第一社会面31頁「加計の殺人被害者 広島市の45歳女性 H容疑者を再逮捕へ」(中国新聞社)</ref>、翌4日には遺体の身元を女性Cと断定・発表した<ref name="朝日新聞1996-10-05">『朝日新聞』1996年10月5日大阪朝刊広島県版地方面「殺された女性2人、容疑者と顔見知り 連続殺人事件 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。しかしCと同居していた男性による「Cは9月上旬からいなくなっていた」という証言が被疑者Hの「8月中旬ごろに殺害した」という供述と矛盾したため、捜査本部はさらに被害者Cの足取り・殺害時期・動機などを追及した<ref name="中国新聞1996-10-05"/>。またその後の捜索でCが持っていたとみられるバッグなどが加計町内で発見されたが、財布・現金は入っていなかった<ref name="中国新聞1996-10-10"/>。 |
|||
捜査本部は被疑者Hが被害者Dへの殺人・死体遺棄容疑で起訴されてから改めてCへの殺人・死体遺棄容疑で再逮捕する方針を決め<ref name="中国新聞1996-10-05"/>、10月15日に再逮捕した<ref name="中国新聞1996-10-16">『中国新聞』1996年10月16日朝刊第17版第一社会面31頁「女性連続殺人 H被告 Cさん殺害遺棄で再逮捕」(中国新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1996-10-16">『朝日新聞』1996年10月16日大阪朝刊第一社会面31頁「容疑者を強殺で再逮捕 広島の連続女性殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。 |
|||
==== 別の殺人疑惑 ==== |
|||
なお被害者Cの遺体発見現場(加計町の山中)から北西約30 kmに位置し同現場と[[国道191号]]で結ばれた[[島根県]][[美濃郡]][[美都町]]宇津川(現:[[益田市]]美都町宇津川)の山中では<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪"/>、1996年8月27日に国道191号沿いのガードレール下で<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>身元不明女性の腐乱した他殺体が発見されていた<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪"/>。C事件発覚当時、この事件は[[島根県警察]]が[[益田警察署]]に捜査本部を設置して殺人・死体遺棄事件として捜査していたが<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、Hによる一連の事件と同じく国道191号沿いの斜面に遺棄されるなど共通点が見られたため<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪"/>、広島県警廿日市署捜査本部が「Hによる連続殺人事件と何らかの関連性がないか?」と関心を寄せていたほか<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、島根県警側も「同事件の被害者が広島県内の女性である可能性もある」と推測して捜査員を広島県警へ派遣し、相互に情報交換を行いつつ捜査を進めていた<ref name="中国新聞1996-10-07"/>。 |
|||
しかし被疑者Hはこの事件について「その事件は知っているが、自分はやっていない」と供述して関与を否定したほか<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、Hの犯行として立件された4事件ではいずれも被害者の遺体が「水路もしくは道路と河川の間の法面」に放置されていた一方、島根の事件では河川のない崖に遺棄されていた<ref name="中国新聞1996-10-11"/>。そのため廿日市署捜査本部は「Hが関与した可能性は低い」と判断し<ref name="中国新聞1996-10-11">『中国新聞』1996年10月11日朝刊第17版第一社会面31頁「女性連続殺人 H容疑者 週明けにも再逮捕 捜査本部 動機・凶器特定急ぐ」(中国新聞社)</ref>、結局はその後の捜査で「同事件はHによる連続殺人とは無関係」と判明した{{Refnest|group="注"|被害者の身元は遺体の歯形・右手人差し指の指紋などから<ref>『朝日新聞』1996年10月24日大阪朝刊広島県版地方面「島根の遺棄死体、広島の女性と判明 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>安佐南区在住の18歳女性と判明したほか、10月23日には被害者と同居していた会社員の男(当時21歳)が島根・広島両県警と益田・広島北両署の合同捜査本部により殺人・死体遺棄容疑で逮捕された<ref>『読売新聞』1996年10月24日大阪朝刊第一社会面31頁「島根で8月発見の女性遺体は広島の18歳 殺人容疑で同居男性を逮捕」(朝日新聞大阪本社)</ref>。この男は1996年11月13日に[[松江地方検察庁|松江地検]]から殺人・死体遺棄罪で起訴され<ref>『朝日新聞』1996年11月14日大阪朝刊広島県版地方面「広島の会社員起訴 島根の国道下で女性殺人・死体遺棄罪 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>、被告人として1997年5月6日に[[松江地方裁判所|松江地裁]]([[長門栄吉]]裁判長)から懲役9年(求刑:懲役12年)の判決を受け<ref>『朝日新聞』1997年5月7日大阪朝刊島根県版地方面「刑事責任重大と懲役9年の判決 殺人・死体遺棄の被告 /島根」(朝日新聞大阪本社・松江総局)</ref>、控訴期限(1997年5月20日)までに[[広島高等裁判所松江支部|広島高裁松江支部]]へ控訴しなかったためそのまま刑が確定している<ref>『朝日新聞』1997年5月21日大阪朝刊島根県版地方面「控訴せず、刑が確定 美都町殺人事件 松江地裁 /島根」(朝日新聞大阪本社・松江総局)</ref>。}}。 |
|||
=== A・B事件自供 === |
|||
==== B事件発覚 ==== |
|||
C・D両事件で追及された被疑者Hは1996年10月4日 - 5日にかけ<ref name="中国新聞1996-10-07 社会"/>、新たに3・4件目の殺人(=第1・第2の殺人 / A・B事件)を自供することとなった<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪">『読売新聞』1996年10月7日大阪朝刊第一社会面31頁「広島の女性連続殺人事件のH容疑者 模範タクシー運転手、凶行の中で仕事」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="読売新聞1996-10-07">『[[読売新聞]]』1996年10月7日東京朝刊第一社会面39頁「女性4人殺害容疑 逮捕の元タクシー運転手 女子高生、主婦らも/広島」([[読売新聞東京本社]])</ref><ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊">『朝日新聞』1996年10月7日大阪朝刊第一社会面35頁「3女性と女子高生も 容疑の元タクシー運転手供述 広島連続殺害事件」(朝日新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊">『朝日新聞』1996年10月7日大阪朝刊第一社会面31頁「『被害者にすまない』 容疑者供述 広島の連続女性殺人【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。これにより、一連の連続殺人事件は過去にあまり例のなかった「女性を狙った[[シリアルキラー|連続殺人]]事件」の様相が濃厚となった{{Refnest|group="注"|本事件以前には[[勝田清孝事件]](1972年9月 - 1977年8月)、[[富山・長野連続女性誘拐殺人事件]](1980年2月 - 3月・[[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]111号事件)、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]](1988年8月 - 1989年6月・警察庁広域重要指定117号事件。「[[宮崎勤]]事件」とも)、[[スナックママ連続殺人事件]](1991年12月、警察庁広域重要指定119号事件)などがあった<ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>。1人目(被害者D)の遺体発見当時は100人体制だった捜査本部はこの時点で新たに50人を追加動員して150人体制となっていた<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。}}<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。 |
|||
捜査本部がHの供述に基づいて10月5日夜に広島市安佐北区[[白木町]]小越の山中を捜索したところ、県道脇を流れる関川沿いの斜面から<ref name="朝日新聞1996-10-07 広島朝刊"/>Hの自供通り新たに若い女性(後に女性Bと判明)の白骨遺体が発見された<ref name="中国新聞1996-10-07">『中国新聞』1996年10月7日朝刊第17版1面1頁「H容疑者 2女性殺害新たに自供 連続殺人計4人に 山中から1遺体 もう1人は女子高生か」(中国新聞社)</ref>。女性Bの知人から情報提供があったことに加え、歯の治療痕・着衣もいずれもBのものと判明したため<ref name="朝日新聞1996-10-08 夕刊"/>、捜査本部は10月8日に「白骨遺体の身元は女性B」と断定・発表した<ref name="朝日新聞1996-10-08 夕刊">『朝日新聞』1996年10月8日大阪夕刊第一社会面23頁「白骨死体は23歳の女性 広島の連続殺人事件」(朝日新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1996-10-09">『朝日新聞』1996年10月9日大阪朝刊広島県版地方面「自宅近くの殺害に驚き 新たに被害者の身元判明 連続殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。この時点でA・C・Dの3被害者は既に身元が判明していたため、これをもって被害者4人全員の身元が判明した<ref name="中国新聞1996-10-08 夕刊">『中国新聞』1996年10月8日夕刊第6版第一社会面3頁「女性連続殺人 白木町の遺体 被害者は広島の23歳 歯の治療痕一致」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞1996-10-09">『中国新聞』1996年10月9日朝刊第17版第一社会面27頁「女性連続殺人 白木の被害者 広島市の23歳と判明 歯の治療痕決め手」(中国新聞社)</ref>。被疑者Hは同事件(B事件)の経緯・動機について以下のように供述した<ref name="中国新聞1996-10-07"/>。 |
|||
* 「今年7月中旬か8月中旬に広島市中区の繁華街(新天地)で営業走行中に声を掛けてタクシーに乗せ、安佐南区内の太田川橋付近に停車したタクシー車内で首を絞めて殺し遺棄した。金が欲しかったからやった」<ref name="中国新聞1996-10-07"/> |
|||
* 「女性は自分とは面識はなく、タクシー車内で『安佐南区八木か安佐北区可部地区に住んでいる』と聞いていた」<ref name="中国新聞1996-10-07 夕刊2">『中国新聞』1996年10月7日夕刊第6版第一社会面3頁「白木町の遺体 似顔絵を公開」(中国新聞社)</ref> |
|||
それまでに判明していたC・D両事件が「顔見知りの30 - 40歳代女性」を狙った犯行だった一方、A・B両事件ではHと面識のない若い女性が殺害されたため<ref name="中国新聞1996-10-07 社会">『中国新聞』1996年10月7日朝刊第17版第一社会面23頁「H容疑者 わずか5ヵ月次々凶行 無差別に女性へ声? 発覚後も乗務続ける」(中国新聞社)</ref>、本事件は「幅広い女性を標的とした連続殺人事件」であることが判明した{{Refnest|group="注"|またこの時点ではA事件を除きすべて具体的な殺害現場も判明していたが<ref name="中国新聞1996-10-07"/>、3事件とも「Hが乗務中に中区内の繁華街で声を掛けてタクシーに乗せ、車内で殺害していた」「被害者の多くが夜間の繁華街で頻繁に目撃されていた」「加害者Hは繁華街路上によく停車していた」という共通点から「加害者Hは無差別に女性へ声を掛けるなどして犯行を繰り返していた」ことが濃厚となった<ref name="中国新聞1996-10-07 社会"/>。}}<ref name="中国新聞1996-10-07"/>。捜査本部は11月6日にB事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕し<ref name="朝日新聞1996-11-07">『朝日新聞』1996年11月7日大阪朝刊第一社会面31頁「容疑者を再逮捕 広島連続女性殺人事件 【大阪*】」(朝日新聞大阪本社)</ref>、11月8日に[[広島地方検察庁]]へ送検した<ref>『中国新聞』1996年11月9日朝刊第17版第一社会面31頁「Bさん殺害 H被告を送検」(中国新聞社)</ref>。 |
|||
==== A事件自供 ==== |
|||
またHは「1996年4月18日ごろ、若い女性(=被害者少女A)を殺害して[[己斐峠]]周辺に遺体を遺棄した」と供述したが{{Refnest|group="注"|Hはこの被害者女性(=A)について「名前は知らなかったが(遺体発見が報道された)A事件も自分がやったと思う」と供述した<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊"/>。}}、遺体で発見されていた被害者Aは4月18日以降に消息が分からなくなっており<ref name="中国新聞1996-10-07"/>、その時期がHの自供した殺人の時期と一致することに加え<ref name="中国新聞1996-10-08">『中国新聞』1996年10月8日朝刊第17版第一社会面23頁「H容疑者供述 初対面の2人殺害 繁華街で車に乗せる」(中国新聞社)</ref>、遺体発見現場も己斐峠に近かった{{Refnest|group="注"|遺体発見現場から己斐峠までは約2 kmしか離れておらず、地形的にも被疑者Hの供述と一致した<ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>。}}<ref name="中国新聞1996-10-07"/>。 |
|||
また(道路脇に遺体を遺棄するなど)犯行手口がそれまでに判明した3事件と共通していたほか<ref name="読売新聞1996-10-07"/>、B・C・Dの3被害者は広島市中心部の繁華街でタクシーに乗車させられていた点が判明していたため、捜査本部が被疑者Hを「被害者Aもタクシーに乗車させて殺害・遺棄したのではないか?」と追及したところ、Hは「4月18日夜に中区新天地の公園付近で被害者Aをタクシーに乗車させた」と供述した<ref name="中国新聞1996-10-07 夕刊"/>。そのため捜査本部はHの供述を総合して「Hはタクシーに乗せた直後に被害者Aを殺害した可能性もある」と推測し、タクシーの検証などにより走行経路・殺害方法などを調べた<ref name="中国新聞1996-10-07 夕刊">『中国新聞』1996年10月7日夕刊第6版第一社会面3頁「連続殺人のH容疑者 Aさんも繁華街で車に? 殺害方法などを追及」(中国新聞社)</ref>。一方で他3人の被害者の遺体とは異なり、Aだけが一部の装飾品を除き衣服を身に着けていなかったため、捜査本部は「被害者Aは最も早い時期に殺害されたため、初めての犯行に動揺したHが身元をわかりにくくする目的で着衣を脱がせた」と推測した{{Refnest|group="注"|被害者Cは上半身の衣服だけを身に着けた状態でビニールシートにより覆い隠され、被害者Dは(衣服を身に着けたまま)ガードレールのある道路から法面へ蹴り落とされていたため、捜査本部は「加害者Hは当初、身元判明を遅らせるために被害者の衣服を取ったり、場所を選んだりして遺棄を重ねていたが、次第に大胆に遺棄するようになっていった」と推測した<ref name="中国新聞1996-10-17"/>。}}<ref name="中国新聞1996-10-07 夕刊"/>。 |
|||
これに加え、被害者Aの通学定期券(呉市営バス)がAの通学経路から外れた海田町内(広島市中心部 - A宅への経路上)で発見されていたため、捜査本部は「加害者Hが被害者Aをタクシーに乗車させて通ったか、所持品を捨てるなどした可能性がある」と注目し、裏付け捜査の鍵としてHを追及したほか<ref name="中国新聞1996-10-08"/>、Hの供述に基づき被害者Aの遺体が発見された水路から南に数 km離れた山林内でAの遺留品(バッグ・化粧品など)を発見した<ref name="朝日新聞1996-11-26">『朝日新聞』1996年11月26日大阪朝刊第一社会面27頁「遺体、Aさんと断定 容疑者再逮捕へ 広島の連続女性殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。 |
|||
捜査本部は12月4日にA事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕し<ref name="中国新聞1996-12-05">『中国新聞』1996年12月5日朝刊第17版第一社会面31頁「Aさん殺害容疑 H被告を再逮捕」(中国新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1996-12-04">『朝日新聞』1996年12月4日夕刊第一社会面11頁「容疑者を再逮捕 連続女性殺人事件、4人目で 広島県警」(朝日新聞社)</ref>、1996年12月14日にはHの供述に基づき遺体遺棄現場を検証した<ref name="朝日新聞1996-12-15">『朝日新聞』1996年12月15日大阪朝刊広島県版地方面「容疑者連れ検証 Aの遺体遺棄現場 連続女性殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。 |
|||
=== 詰めの捜査・起訴 === |
|||
遺体遺棄現場がいずれも直径35 km以内に点在していたため、捜査本部は「Hはプロのタクシー運転手として土地勘を利用し、人目に付きにくい場所を選んで遺体を遺棄した」と推測したほか<ref name="中国新聞1996-10-07 社会"/>、加害者Hから取り調べの結果「C・D事件は金銭関係のトラブルが動機で、B事件についても金が動機だった」との供述を得た<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。特に被害者DについてHは「殺害後に財布から現金を奪った」などと自供したため<ref name="中国新聞1996-10-07 夕刊"/>、捜査本部は強盗容疑でも立件すべく捜査を進め<ref name="中国新聞1996-10-07"/>、その裏付けのためDが持っていたバッグの発見を急いだ<ref name="中国新聞1996-10-07 夕刊"/>。 |
|||
その一方で加害者Hは「被害者4人とも首を絞めて殺害した」と供述したが、遺棄直後に発見された被害者Dを除き遺体は白骨化・腐敗しており死因が特定できなかったため、捜査本部は供述を裏付けるため凶器の特定捜査・所持品捜索を続けた<ref name="中国新聞1996-10-11"/>。また被害者から奪った金額は合計しても24万円程度だった<ref group="注" name="金額"/>ことに加え<ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>、「若い女性(A・B)が多額の現金を持っていることは考えにくい」ため、捜査本部は「新天地の公園付近にいた被害者2人をいたずら目的で誘った後、トラブルが起きた可能性がある」と推測して動機を精査した<ref name="中国新聞1996-10-11"/>。その後、広島地検は以下のように被告人Hを強盗殺人・死体遺棄罪で[[広島地方裁判所]]へ[[起訴]]した。 |
|||
# D事件 - 10月12日<ref name="中国新聞1996-10-13">『中国新聞』1996年10月13日朝刊第17版第一社会面27頁「Dさん殺害 H容疑者を起訴 金目当て、ナイフで脅す」(中国新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1996-10-13">『朝日新聞』1996年10月13日大阪朝刊第一社会面31頁「Dさん事件で容疑者起訴 広島の女性殺害4件目自供【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref> |
|||
# C事件 - 11月5日<ref name="中国新聞1996-11-06">『中国新聞』1996年11月6日朝刊第17版第一社会面23頁「Cさん殺害 H被告を追起訴」(中国新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1996-11-06">『朝日新聞』1996年11月6日大阪朝刊第一社会面25頁「容疑者を強盗殺人で追起訴 広島・連続女性殺人 【大阪*】」(朝日新聞大阪本社)</ref> |
|||
# B事件 - 11月27日<ref>『中国新聞』1996年11月28日朝刊第17版第一社会面27頁「Bさん殺害 H被告を追起訴」(中国新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1996-11-28">『朝日新聞』1996年11月28日大阪朝刊第一社会面31頁「容疑者を追起訴 広島の連続女性殺人で地検 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref> |
|||
# A事件 - 12月24日<ref name="中国新聞1996-12-25">『中国新聞』1996年12月25日朝刊第17版第一社会面23頁「H被告 4件目も起訴」(中国新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1996-12-25">『朝日新聞』1996年12月25日大阪朝刊第一社会面27頁「容疑者、最後の起訴 広島の連続女性殺人事件 【大阪*】」(朝日新聞大阪本社)</ref> |
|||
== 刑事裁判(広島地裁) == |
|||
=== 初公判・証拠調べ === |
|||
[[1997年]](平成9年)2月10日に[[広島地方裁判所]]刑事第2部([[谷岡武教]][[裁判長]])で[[被告人]]Hの初[[公判]]が開かれた<ref name="中国新聞1997-02-10 no.1">『中国新聞』1997年2月10日夕刊一面1頁「広島の女性連続殺害初公判 H被告起訴事実認める 冒頭陳述 悪運強いと錯覚」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞1997-02-10 no.2">『中国新聞』1997年2月10日夕刊第一社会面3頁「初公判 H被告淡々と『そうです』 傍聴券へ長い列」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞1997-02-11 no.1">『中国新聞』1997年2月11日朝刊一面1頁「広島の女性4人殺人 もう1人殺害計画 検察、冒陳で指摘 H被告、起訴事実認める」(中国新聞社)</ref><ref name="冒頭陳述">『中国新聞』1997年2月11日朝刊三面3頁「H被告初公判の冒陳要旨」「問題にならぬ責任能力 [[中京大学|中京大]][[大学教授|教授]]・[[空井健三]]」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞1997-02-11 no.2">『中国新聞』1997年2月11日朝刊第一社会面25頁「H被告初公判 検察冒陳 4人中3人同じ手口 わざとエンスト『足元見て』 修理装い後ろから絞殺」「遺族『厳しい処罰を』 “快楽殺人”に募る怒り」(中国新聞社)</ref><ref name="読売新聞1997-02-10">『読売新聞』1997年2月10日東京夕刊第二社会面22頁「4女性殺害初公判 H被告が起訴事実を全面的に認める/広島地裁」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="朝日新聞1997-02-10">『朝日新聞』1997年2月10日夕刊第一社会面15頁「4女性殺害の事実認める 初公判で被告 広島の連続殺人事件」(朝日新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1997-02-11 広島">『朝日新聞』1997年2月11日大阪朝刊広島県版地方面「証拠の採用を留保 精神鑑定申請、視野に 被告初公判 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref><ref name="毎日新聞1997-02-10">『毎日新聞』1997年2月10日大阪夕刊社会面12頁「広島・連続女性殺害事件初公判:H被告が起訴事実認める/広島地裁」(毎日新聞大阪本社 記者:辻加奈子)</ref><ref name="産経新聞1997-02-10">『[[産経新聞]]』1997年2月10日東京夕刊社会面「広島の4人殺人のH被告初公判 検察側『殺人に快感』起訴事実すべて認める」([[産経新聞東京本社]])</ref>。 |
|||
検察側(広島地検)は冒頭陳述で事件の経緯などを詳述した上で<ref name="中国新聞1997-02-10 no.1"/><ref name="中国新聞1997-02-11 no.1"/><ref name="冒頭陳述"/>、以下のように各犯罪事実を主張した。 |
|||
* 被告人Hは「妻に消費者金融からの借金を知られたくない」と思う一方で「夜の繁華街で遊びたい」という相反する欲望から約350万円もの借金を抱え<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>、遊ぶ金欲しさに繁華街で知り合った女性を狙った<ref name="毎日新聞1997-02-10"/>。 |
|||
その上で、被告人Hが約5カ月間に4人の女性を次々と大胆に殺害した連続殺人の心理については以下のように主張した<ref name="中国新聞1997-02-10 no.1"/>。 |
|||
* 警察の捜査能力にも限界があり、被告人Hは「自分は絶対に逮捕されない悪運の強い特別な人間だ」と思い込むようになった<ref name="中国新聞1997-02-10 no.1"/><ref name="中国新聞1997-02-11 no.1"/>。 |
|||
* 街で声を掛けた女性を殺しても「自分と(被害者との間に)接点がなければ検挙されない」という点から、(B事件以降は)「他人の死をも支配できる」という一種の満足感・快感を覚えた<ref name="中国新聞1997-02-10 no.1"/><ref name="中国新聞1997-02-11 no.1"/><ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
* (A・B・D各事件の手口について)燃料切り替えスイッチを操作するだけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを利用し、修理を口実に後部座席に移動した上で後部座席にいた被害者に「足元の配線を見てほしい」と言い、エンジンの仕組みを知らない被害者を油断させ、無防備な前かがみの姿勢になったところを背後から首を絞めるなど、巧妙な手口を使って犯行に及んだ<ref name="中国新聞1997-02-11 no.2"/>。 |
|||
また検察側は、被害者Dの2人の娘が「今でも涙が出てくる。母を返してほしい」と話していたことや<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>、Dを殺害する直前には別の女性1人の殺害も計画し、広島市中心部でその女性を待ち伏せたことも明らかにした<ref name="中国新聞1997-02-11 no.1"/><ref name="冒頭陳述"/>。 |
|||
被告人Hは罪状認否で谷岡裁判長から起訴事実に関する間違い・反論について聞かれると「間違いはありません」と答え<ref name="中国新聞1997-02-10 no.1"/>、4件の強盗殺人・起訴事実について全面的に認めた<ref name="中国新聞1997-02-10 no.1"/><ref name="中国新聞1997-02-10 no.2"/><ref name="中国新聞1997-02-11 no.1"/>{{Sfn|丸山|2010|p=58}}。そのため弁護人は[[刑法 (日本)|刑法]]第39条に基づき[[責任能力|心神喪失・心神耗弱]]による無罪・死刑回避を狙う以外の手段がなくなり{{Sfn|丸山|2010|p=58}}、同日の公判で「被告人Hは事件当時、完全な責任能力を有していたか疑問だ」と主張して被告人調書を証拠採用することを留保した上で<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>、[[精神鑑定]]申請も視野に入れて責任能力の所在を争う姿勢を示した<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>。 |
|||
1997年4月23日に第4回公判が開かれ<ref name="中国新聞1997-04-24">『中国新聞』1997年4月24日朝刊第二社会面26頁「H被告公判 別の2人殺害計画 検察が供述明かす」(中国新聞社)</ref><ref name="読売新聞1997-04-24">『読売新聞』1997年4月24日大阪朝刊広島県版(広島讀賣)地方面「強盗殺人事件公判 別の3女性狙って失敗した H被告『刑に服することが償い』」(読売新聞大阪本社・広島総局)</ref><ref name="朝日新聞1997-04-24">『朝日新聞』1997年4月24日大阪朝刊広島県版地方面「別の2人の殺害計画も 4女性殺害した被告の検察調書 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>、同日の公判で検察側は「被告人Hは『殺害した被害者4人・待ち伏せした女性1人とは別の女性2人の殺害も考えていた』と供述している」とする検察調書を明らかにした<ref name="読売新聞1997-04-24"/><ref name="朝日新聞1997-04-24"/>。 |
|||
* その検察調書によると被告人Hは逮捕直前の1996年8月 - 9月ごろにかけて被害者4人・およびD事件直前に待ち伏せされた女性1人とは別に<ref name="中国新聞1997-04-24"/>、広島市内の繁華街にいた顔見知りの女性2人を強盗殺人の対象として考えていたが<ref name="朝日新聞1997-04-24"/>、途中で見失うなどしたために断念した旨を供述した<ref name="読売新聞1997-04-24"/>。 |
|||
* またこの検察調書では被告人HがD事件で逮捕された際、まだ遺体が発見されていなかったB・C両被害者について遺体を遺棄した場所などを自供した理由や<ref name="朝日新聞1997-04-24"/>、被告人Hが「被害者遺族は一刻も早く死刑になることを望んでいると思うが、自分も当然だと思う。潔く裁判を受け、刑に服することが唯一の償いだと思う」と供述していたことも新たに判明した<ref name="読売新聞1997-04-24"/>。 |
|||
* 同日から被告人質問も始まり、弁護人が被告人Hに対し生い立ちなどについて質問した<ref name="中国新聞1997-04-24"/>。 |
|||
1997年5月21日に第5回公判が開かれ、被告人質問が行われた<ref name="読売新聞1997-05-22">『読売新聞』1997年5月22日大阪朝刊広島県版(広島讀賣)地方面「連続殺人事件公判 H被告が犯行経緯を証言」(読売新聞大阪本社・広島総局)</ref>。弁護人側が被告人Hに対し犯行に至るまでの経緯などを質問したところ、被告人Hは「検察側主張においては妻の病気・借金によるストレスなどが動機とされているが、そうではなく『自分が前向きな人間ではなかったから』だ。1995年10月に妻が入院し、その後も病気がちだったために自分は酒に溺れ、サラ金に手を出した。その結果積み重なった借金がさらにストレスの源となり、更に酒浸りになる悪循環に陥った」と証言した<ref name="読売新聞1997-05-22"/>。その上で、最初のA事件当時について「当時は借金が350万円に膨れ上がり『自分の行動が周囲を不幸にしている。人生の生き地獄だ』と思い、自殺も考えた。殺人を犯した当時は正常な判断ができず『自分ではない』ような感じがした」と述べた<ref name="読売新聞1997-05-22"/>。その後、1997年6月18日には第6回公判が開かれた<ref name="読売新聞1997-05-22"/>。 |
|||
=== 精神鑑定実施 === |
|||
弁護人側は「検察側は『金銭目当ての犯行』を主張しているが、被害者4人とも奪った額は数万円程度で、普通はこの程度の額のために強盗殺人を犯すとは考えられない」と主張し、1997年10月30日付で<ref name="産経新聞1997-11-05"/>「動機がはっきりとしないため責任能力の有無を問いたい」として広島地裁に対し被告人Hの[[精神鑑定]]を行うよう請求した<ref name="毎日新聞1997-11-05 大阪夕刊"/><ref name="毎日新聞1997-11-05 東京夕刊"/><ref name="産経新聞1997-11-05"/>。 |
|||
これを受けて1997年11月5日の第10回公判で<ref name="読売新聞1997-11-06"/><ref name="朝日新聞1997-11-06"/>広島地裁(谷岡武教裁判長)は弁護人側による精神鑑定請求を認める決定をした<ref name="中国新聞1997-11-06">『中国新聞』1997年11月6日朝刊第一社会面27頁「H被告を精神鑑定へ 連続女性殺害」(中国新聞社)</ref><ref name="読売新聞1997-11-06">『読売新聞』1997年11月6日大阪朝刊広島県版(広島讀賣)地方面「4人殺害H被告 精神鑑定を採用 裁判長『動機があやふや』」(読売新聞大阪本社・広島総局)</ref><ref name="朝日新聞1997-11-06">『朝日新聞』1997年11月6日大阪朝刊広島県版地方面「被告を精神鑑定へ、広島地裁決める 女性連続殺人事件 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref><ref name="毎日新聞1997-11-05 大阪夕刊">『毎日新聞』1997年11月5日大阪夕刊社会面11頁「4女性殺害事件で被告の精神鑑定へ 広島地裁が承認」(毎日新聞大阪本社)</ref><ref name="毎日新聞1997-11-05 東京夕刊">『[[毎日新聞]]』1997年11月5日東京夕刊社会面8頁「4女性殺害事件の被告、精神鑑定へ 広島地裁が承認」([[毎日新聞東京本社]])</ref><ref name="産経新聞1997-11-05">『産経新聞』1997年11月5日東京夕刊社会面「4連続女性殺害 H被告を精神鑑定へ 広島地裁が決定」(産経新聞東京本社)</ref>。広島地裁はこの理由について「犯行の動機に曖昧な点があり、事件当初の精神状態を調べる必要性がある」<ref name="中国新聞1997-11-06"/><ref name="読売新聞1997-11-06"/>「各犯行状況を鑑みてその動機をはっきりさせるためにも精神鑑定が必要だ」と説明した<ref name="中国新聞1997-11-06"/><ref name="産経新聞1997-11-05"/>。弁護人側による申請に対し、検察側は犯行動機について「遊興費など借金返済に窮した末の自暴自棄な犯行であることは明白だ」と異議を唱えたものの、精神鑑定の決定そのものには異議を唱えなかった<ref name="読売新聞1997-11-06"/>。 |
|||
この決定により審理は一時中断し{{Sfn|丸山|2010|pp=58-59}}、広島地裁が[[精神科医]]・[[山上皓]](当時・[[東京医科歯科大学]][[大学教授|教授]])に依頼して精神鑑定を実施した<ref name="朝日新聞1999-02-25"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>。精神鑑定では「被告人Hの事件当時の精神状態」に加え「被告人Hが殺人に至った動機」についても解明が試みられ{{Sfn|丸山|2010|p=59}}、精神鑑定を担当した山上は以下のように結論を出した<ref name="朝日新聞1999-02-25"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>。 |
|||
* 被告人Hは「男性としての自信に欠けた」とする挫折感を抱き「暴力犯罪の空想などで強い男性像を示したい」という性癖があり、犯行はこの空想を実行に移したものである<ref name="読売新聞1999-02-24"/>。 |
|||
* 被告人Hの挫折感は「青春時代に経験した大学受験の失敗などの挫折」に端を発しており、そこで自分自身に失望した反面で絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており「自分の力を証明する方法」として女性を殺害することを思いついた{{Sfn|丸山|2010|p=59}}。 |
|||
* 被告人Hは一時期「神経症的な葛藤が高まったり、気分の高揚した状態で刹那的な行動を繰り返す」など「通常とは異なる精神状態」だった可能性がある<ref name="中国新聞1999-02-25"/>。その人格には著しい偏りがあるが「責任能力に影響を及ぼしうるような病的なもの」とはみなされない<ref name="中国新聞1999-02-25"/><ref name="朝日新聞1999-02-25"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>。 |
|||
[[1999年]](平成11年)2月24日に広島地裁(谷岡武教裁判長)で第11回公判が開かれ<ref name="中国新聞1999-02-25"/><ref name="読売新聞1999-02-24"/><ref name="朝日新聞1999-02-25">『朝日新聞』1999年2月25日大阪朝刊広島県版地方面「被告の責任能力、精神鑑定書で決める 強盗殺人事件公判 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>、約1年3か月ぶりに公判が再開された<ref name="中国新聞1999-02-25">『中国新聞』1999年2月25日朝刊第一社会面27頁「連続女性殺害 『責任能力あった』 広島地裁 H被告の精神鑑定」(中国新聞社)</ref><ref name="読売新聞1999-02-24">『読売新聞』1999年2月24日大阪夕刊第二社会面14頁「女性4人殺害事件公判 H被告の責任能力認める 精神鑑定書提出/広島地裁」(朝日新聞大阪本社)</ref><ref name="毎日新聞1999-02-24">『毎日新聞』1999年2月24日大阪夕刊社会面11頁「女性連続強殺の被告 『責任能力に影響ない』 精神鑑定を採用 広島地裁」(毎日新聞大阪本社 記者:中野彩子)</ref>。また同日の公判で精神鑑定の結果が報告・提出され<ref name="中国新聞1999-02-25"/><ref name="読売新聞1999-02-24"/><ref name="朝日新聞1999-02-25"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>、検察側・弁護人側とも鑑定書の証拠採用に同意したが<ref name="中国新聞1999-02-25"/>、弁護人側は同日に「鑑定書には疑問点や確認したい点がある」として<ref name="朝日新聞1999-02-25"/>山上の証人申請をした<ref name="中国新聞1999-02-25"/><ref name="朝日新聞1999-02-25"/>。 |
|||
=== 死刑求刑 === |
|||
1999年10月6日に広島地裁([[戸倉三郎]]裁判長)で[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、広島地検は被告人Hに[[日本における死刑|死刑]]を求刑した<ref name="中国新聞1999-10-06">『中国新聞』1999年10月6日夕刊一面1頁「4女性連続殺人 H被告に死刑求刑 広島地検『残虐かつ凶悪な犯行』」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞1999-10-07">『中国新聞』1999年10月7日朝刊第二社会面26頁「広島の4女性殺人 H被告に死刑求刑 地検『命で償うしかない』」(中国新聞社)「解説:被害者数・動機を考慮 広島県内では5年ぶり」(中国新聞社 記者:永井利明)</ref><ref name="読売新聞1999-10-06">『読売新聞』1999年10月6日大阪夕刊第一社会面15頁「女性4人殺害の元運転手に死刑求刑 検察側『凶悪犯行、影響大きい』 /広島地裁」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞1999-10-06">『朝日新聞』1999年10月6日大阪夕刊第二社会面14頁「死刑を求刑 4女性殺害事件で広島地裁 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref><ref name="毎日新聞1999-10-06">『毎日新聞』1999年10月6日大阪夕刊社会面10頁「H被告に死刑を求刑 5カ月間に4女性を殺害 広島地裁」(毎日新聞大阪本社 記者:高橋一隆)</ref><ref name="産経新聞1999-10-06">『[[産経新聞]]』1999年10月6日大阪夕刊社会面「女性連続殺人 H被告に死刑求刑 広島地裁『残虐、凶悪な犯行』」([[産経新聞大阪本社]])</ref>。広島地検・地裁管内における刑事裁判で死刑求刑事例は[[福山市独居老婦人殺害事件]](1992年3月発生・1994年6月に求刑)以来約5年半ぶりで、[[中国地方]]全体でも1998年12月([[岡山県]][[赤磐郡]][[山陽町 (岡山県)|山陽町]]の団地で発生した4人殺傷事件)以来だった<ref name="中国新聞1999-10-07"/>。 |
|||
論告で検察側は以下のように主張して被告人Hの犯行を非難したほか、広島地検次席検事・片山博仁は『[[中国新聞]]』([[中国新聞社]])記者の取材に対し「[[法定刑]]が死刑か無期懲役しかない強盗殺人罪が適用される本事件において、全ての事情を考慮しても死刑以外に選択の余地はない」と明言した<ref name="中国新聞1999-10-07"/>。 |
|||
* 被告人HはA事件以降も金銭強奪などを目的に犯行を重ねるうち、自分に捜査の手が及ばなかったことから「俺は警察に捕まらない悪運の強い特別な人間だ」と無根拠な自信を深め、「他人の死をも支配する一種の満足感・快感」を抱くようになった<ref name="中国新聞1999-10-07"/>。その上で遊興費などを得ようとさらに女性を物色して次々に3人を殺害・遺棄した<ref name="産経新聞1999-10-06"/>。 |
|||
* 落ち度のない被害者4人を次々に殺害した自己中心的かつ犯罪史上稀に見る残虐な事件で、被告人に矯正の見込みはない<ref name="毎日新聞1999-10-06"/>。 |
|||
* わずか5か月間に4人もの被害者女性を殺害した凶悪な犯行で社会的影響・被害者遺族の精神的打撃は大きく、犯行動機の悪質さ・殺害方法の残虐性などを考慮すると自らの生命をもって償うしかない<ref name="中国新聞1999-10-07"/>。 |
|||
被告人Hは公判閉廷後に収監先・[[広島拘置所]]内で行われた職権面接において「死刑求刑は当然だ」などと述べた<ref name="広島地裁2009"/>。 |
|||
=== 最終弁論・結審 === |
|||
1999年11月10日の公判で弁護人による最終弁論が行われて結審した<ref name="中国新聞1999-11-11">『中国新聞』1999年11月11日朝刊第一社会面27頁「女性連続殺人公判結審 H被告が最終陳述『早く被害者の元へ』 判決は来年2月」(中国新聞社)</ref><ref name="読売新聞1999-11-10">『読売新聞』1999年11月10日大阪夕刊第二社会面14頁「広島の女性4人殺害事件 弁護側、最終弁論で情状求める」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞1999-11-11">『朝日新聞』1999年11月11日大阪朝刊広島県版地方面27頁「死刑希望の意思 4女性殺害公判、被告が陳述 広島地裁 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。弁護人側は以下のように主張して情状酌量による死刑回避を訴えたが<ref name="中国新聞1999-11-11"/><ref name="読売新聞1999-11-10"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/>、その主張は自ら死刑を望んでいた被告人Hの希望に反するものだった{{Sfn|丸山|2010|p=60}}。 |
|||
* 被告人Hは最初の犯行の際、妻の病気・消費者金融からの借金の返済などで精神的に極度に追い詰められ自暴自棄の心理状態にあった<ref name="中国新聞1999-11-11"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/>。完全責任能力を認めた精神鑑定結果・検察側主張には疑問がある<ref name="中国新聞1999-11-11"/>。 |
|||
* 被告人Hは幼少期の家庭環境にも恵まれておらず被告人1人の責任とは言えない<ref name="中国新聞1999-11-11"/>。被告人Hは捜査・公判とも誠実に協力しており、求刑通りの死刑判決は重すぎて[[量刑]]不当であり、情状酌量により死刑適用を回避するのが相当である<ref name="中国新聞1999-11-11"/><ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="朝日新聞2000-02-09"/>。 |
|||
最終弁論後に{{Sfn|新潮45|2002|p=306}}最終意見陳述が行われ<ref name="読売新聞1999-11-10"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/>、被告人Hは涙を流しながら以下のように懺悔の言葉を述べ{{Sfn|永瀬|2004|pp=217-218}}、自ら死刑を希望する意思を示した{{Sfn|丸山|2010|p=60}}<ref name="中国新聞1999-11-11"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/><ref name="読売新聞2000-02-09 朝刊"/><ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="朝日新聞2000-02-09"/>。 |
|||
* 「自己中心的な考え・困難に立ち向かう勇気のなさ・命の尊さへの無理解から引き起こした犯行で一切弁解の余地はない。(求刑通り死刑判決を受けることで)一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい」<ref name="中国新聞1999-11-11"/> |
|||
* 「(死刑判決の)確定で、執行まで死の恐怖と向かい合うことで「被害者の恐怖・苦痛の何分の一か」を味わいたい。『自分はいったい何のためにこの世に生まれてきたのか、どのような生き方をしてきたのか』を考えると辛く悲しい気持ちでいっぱいだ」{{Sfn|新潮45|2002|pp=306-307}} |
|||
==== 祝康成(現:永瀬隼介)の評価 ==== |
|||
本事件の刑事裁判を取材していた作家・祝康成(現:[[永瀬隼介]])は同日の公判で開かれた最終弁論・最終意見陳述を傍聴しており、その後広島拘置所に収監されていた被告人Hから手紙を受け取った{{Sfn|新潮45|2002|pp=306-307}}。一貫して弁護人以外との面会を拒否していた被告人Hが永瀬に手紙を送ったのはこの時だけだったが、Hはその手紙に「(逮捕されてから)これまでの3年間は何百回と想い悩み苦しみ、眠れない夜もたくさんあったが、今はもう何も申し上げることはない。これまでは担当の弁護士以外の誰とも面会・文通などの交流はしておらず、今後もお願いするつもりはない」と綴っていた{{Sfn|新潮45|2002|pp=307-308}}。 |
|||
永瀬は後に[[市川一家4人殺害事件]]の[[少年死刑囚|犯行当時少年の死刑囚]]を取材した[[ノンフィクション]]『[[19歳の結末 一家4人惨殺事件|19歳 一家四人惨殺犯の告白]]』の中で「市川一家4人殺害事件の[[死刑囚]]は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている{{Sfn|永瀬|2004|pp=217-218}}。 |
|||
=== 死刑判決 === |
|||
[[2000年]](平成12年)2月9日に判決公判が開かれ<ref name="読売新聞2000-02-09 朝刊">『読売新聞』2000年2月9日大阪朝刊広西北版25頁「4女性殺害のH被告 きょう地裁で判決=広島」(読売新聞大阪本社)</ref>、広島地裁([[戸倉三郎]]裁判長)は検察側(広島地検)の求刑通り被告人Hに死刑[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name="中国新聞2000-02-09">『[[中国新聞]]』2000年2月9日夕刊一面1頁「女性4人連続殺人 H被告に死刑判決 広島地裁 『生命軽視の犯行』」([[中国新聞社]])</ref><ref name="中国新聞2000-02-10 朝刊1面">『中国新聞』2000年2月10日朝刊一面1頁「女性4人連続殺害 H被告に死刑判決 広島地裁 『まれに見る凶悪さ』」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞2000-02-10 朝刊第一社会面">『中国新聞』2000年2月10日朝刊第一社会面31頁「H被告 死刑判決 『やっと娘に報告できる』 傍聴席の遺族ら涙 無念の思いやまず」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞2000-02-10 朝刊第二社会面">『中国新聞』2000年2月10日朝刊第二社会面30頁「H被告 死刑判決 解説:『極刑』重い4人の命 改しゅんの情は認定 永山事件の基準を意識」(中国新聞社 記者:長田浩昌)</ref><ref name="読売新聞2000-02-09 東京夕刊">『読売新聞』2000年2月9日東京夕刊第二社会面14頁「女性4人殺害、元タクシー運転手に死刑判決 『冷酷非情、責任重い』 /広島地裁」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="読売新聞2000-02-09 大阪夕刊">『読売新聞』2000年2月9日大阪夕刊第一社会面19頁「4女性殺害の元タクシー運転手に死刑 『冷酷非情、責任重い』 /広島地裁判決」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="読売新聞2000-02-10">『読売新聞』2000年2月10日大阪朝刊広西北版19頁「女性4人強殺に判決 遺族ら『死刑は当然』 H被告、神妙に=広島」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪">『朝日新聞』2000年2月9日大阪夕刊第一社会面15頁「4女性殺害に死刑 被告も極刑望む 広島地裁判決 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞2000-02-09">『朝日新聞』2000年2月9日大阪夕刊第二社会面18頁「4女性殺害に死刑 被告自ら極刑希望 広島地裁判決 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞2000-02-10">『朝日新聞』2000年2月10日大阪朝刊広島県版地方面23頁「『娘に報告できる』 4女性殺害のH被告に地裁が死刑判決/広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref><ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪">『毎日新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面11頁「女性4人連続殺害事件 H被告に死刑 広島地裁判決」(毎日新聞大阪本社)</ref><ref name="毎日新聞2000-02-09">『毎日新聞』2000年2月9日東京夕刊社会面8頁「広島市の4女性連続殺人、被告に死刑判決 広島地裁」(毎日新聞東京本社)</ref><ref>『産経新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面「女性4人連続殺害 元運転手に死刑判決 広島地裁 『巧妙、冷酷な犯行』」(産経新聞大阪本社)</ref><ref>『産経新聞』2000年2月9日東京夕刊社会面「4女性殺害 元運転手に死刑判決 広島地裁『残虐極まりない』」(産経新聞東京本社)</ref>。 |
|||
死刑判決を言い渡す際は判決[[主文]]を後回しにして[[判決理由]]から先に読み上げる場合が多いが、戸倉裁判長は異例の冒頭主文宣告を行った<ref group="注">裁判所が死刑判決を言い渡す際に主文を後回しにせず冒頭で言い渡した例は他に大久保清事件([[大久保清]])・[[藤沢市母娘ら5人殺害事件]]、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]([[宮崎勤]])、[[附属池田小事件]]・[[熊谷連続殺人事件]]などがある。</ref><ref name="読売新聞2000-02-09 大阪夕刊"/><ref name="読売新聞2000-02-10"/><ref name="朝日新聞2000-02-10"/>。広島地裁は主文言い渡し後に朗読した判決理由にて以下のように厳しく各情状を指摘した上で<ref name="朝日新聞2000-02-10"/>、[[量刑]]については「被告人Hは反省の情を示しているが刑事責任は極めて重い。死刑が人の命を奪う究極の刑罰であることを十二分に考慮しても、もはや極刑で臨むしかない」と結論付けた<ref name="朝日新聞2000-02-10"/><ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>。 |
|||
* 「教師を目指していた被告人が『大学受験の失敗・結婚後の妻の病気へのストレス』から『行き場のない挫折感』を募らせていった境遇には同情の余地があるが、わずかな金を奪うため人の生命を奪ったのはあまりにも短絡的で最大限の非難に値する」<ref name="朝日新聞2000-02-10"/> |
|||
* 「犯行は冷酷非情で被害者の無念さは想像を絶する」<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="朝日新聞2000-02-09"/> |
|||
* 「短期間に4人の命を奪った稀に見る凶悪事案だ。計画性は明白で酌量の余地はない」<ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/> |
|||
判決を言い渡した後、戸倉は被告人Hへ「被害者・遺族に対する謝罪の気持ちは心の底から出たものと信じている」<ref name="読売新聞2000-02-10"/>「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」<ref name="朝日新聞2000-02-10"/><ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>と説諭した。 |
|||
[[甲斐克則]]・[[広島大学]][[法学部]][[大学教授|教授]](刑法)は『読売新聞』2000年2月10日大阪朝刊広西北版記事中にて「『最高裁が死刑適用に慎重になっている流れ』に逆行するものだ。確かに犯行は悪質で被害者側の感情は察するに余りあるが、この判決は[[自首]]の成立・犯行後の改悛の情を認めており、『[[永山基準]]』などそれまでの判例が示した死刑適用基準をすべて満たしているかどうか疑問だ」と述べ、判決に疑問を呈した<ref name="読売新聞2000-02-10"/>。一方で藤田浩・[[広島経済大学]][[経済学部]]教授(比較憲法)は同記事中にて「死刑は不可逆的な刑罰ではあるが、今回の事件では被告人の自供もあり[[冤罪]]の可能性は低い。犯行の悪質さ・被害者感情などを考えると死刑はやむを得ないのではないか」と評価した<ref name="読売新聞2000-02-10"/>。被告人Hは同日、収監先・広島拘置所に戻った直後に行われた職権面接において「判決を聞いたら足が震えた」「本日、こうして無事に判決の言い渡しを受けることができたのも、ひとえに(広島拘置所)職員の皆様のおかげであり、深く感謝しております」「控訴はせずに(死刑確定)判決を受け入れることになりますが、職員さんには絶対に迷惑をおかけするようなことはいたしません。死刑執行までの長い間お世話になりますが、今後ともよろしくお願いいたします」などと述べた<ref name="広島地裁2009"/>。 |
|||
=== 控訴せず死刑確定 === |
|||
情状酌量による死刑回避を求めていた弁護人は判決後に『[[朝日新聞]]』([[朝日新聞社]])記者の取材に対し「予想されたとはいえ厳しい判決だ。控訴するかどうかは被告人Hと早急に接見して決めたい」とコメントした<ref name="朝日新聞2000-02-10"/>。被告人Hは公判後に収監先・広島拘置所で弁護人・二国則昭弁護士らと面会したが<ref name="産経新聞2000-02-10">『産経新聞』2000年2月10日大阪朝刊社会面「H被告、控訴せず 死刑判決確定へ」(産経新聞大阪本社)</ref>、その際に[[広島高等裁判所]]への[[控訴]]をしない意思を伝えたため、弁護人らは控訴を断念する方針を決めた<ref name="産経新聞2000-02-10"/>。 |
|||
被告人Hは控訴期限の2000年2月24日0時までに広島高裁に控訴する手続きを取らなかったためそのまま死刑判決が[[確定判決|確定]]した<ref name="中国新聞2000-02-24">『中国新聞』2000年2月24日夕刊第一社会面3頁「広島の女性4人連続殺害 H被告の死刑確定」(中国新聞社)</ref><ref name="中国新聞2000-02-25">『中国新聞』2000年2月25日朝刊第一社会面27頁「連続殺人H被告 死刑が確定」(中国新聞社)</ref><ref>『読売新聞』2000年2月24日夕刊第一社会面13頁「4女性殺害したH被告の死刑確定 控訴せず/広島地裁」(読売新聞社)</ref><ref>『朝日新聞』2000年2月24日大阪夕刊第二社会面12頁「死刑判決が確定 広島の4女性殺害 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref><ref>『毎日新聞』2000年2月25日大阪朝刊社会面29頁「広島・女性4人を殺害事件 死刑判決が確定 広島地裁」(毎日新聞大阪本社 記者:高橋一隆)</ref><ref>『産経新聞』2000年2月24日大阪夕刊社会面「元運転手の死刑確定 広島の強盗殺人」(産経新聞大阪本社)</ref>。この時点で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]広報課が調査した結果によれば、1989年から1999年までの11年間で第一審・地裁段階にて言い渡された死刑判決は全国で約50件だったが、そのうち被告人が控訴せずに死刑が確定した事例は確認できる限りで3件しかなかった<ref name="中国新聞2000-02-24"/><ref name="中国新聞2000-02-25"/>。 |
|||
== 死刑執行まで == |
|||
死刑判決が正式に確定した直後の2000年2月25日、死刑囚Hは収監先・広島拘置所にて同日から「未決者処遇」より「死刑確定者処遇」に移行することなどを拘置所職員から告げられると、直立不動の姿勢から一礼して「今後とも、よろしくお願いします」などと述べた<ref name="広島地裁2009"/>。その直後の2000年3月3日に「心情などの把握」などを目的に行われた拘置所長との所長面接において、死刑囚Hは以下のように述べた<ref name="広島地裁2009"/>。その態度は終始冷静で、後に[[足立修一 (弁護士)|足立修一]]弁護士が起こした[[#国家賠償請求訴訟]]判決では「礼儀をわきまえて明るく振る舞っていたが、涙を流す場面もあった」と[[事実認定]]された<ref name="広島地裁2009"/>。 |
|||
* 「自殺などで(拘置所職員の皆さんに)迷惑をかけるようなことは絶対にしません。本音を言うと、本番(死刑執行の時)で今のような冷静な気持ちでいられるか心配です。『ぐでんぐでんになるのではないか』とも思いますがよろしくお願いします」<ref name="広島地裁2009"/> |
|||
* 「(残された)娘のためにも下手なことはできません。きっぱりと逝くのが娘のためとも思っています。去年(1999年)の中頃までは“むすめ”の“む”の字を言われただけでも涙が出ていたが、今ではそんなことはありません。(娘は)『少し大人になったのかも』と思います。娘のことを考えると、気が狂いそうになったこともありましたが…。(娘は)小学校1年生になりますが、将来、父親を意識し出した時、誰かが『父はきっぱりと立派に旅立った』と言ってもらえるのではないかと思ってます」<ref name="広島地裁2009"/> |
|||
* 「民間人との新たな人間関係は持ちたくありません。自分は頑固なところがあります」<ref name="広島地裁2009"/> |
|||
* 「判決の時、[[睾丸|キンタマ]]が縮み上がりました」<ref name="広島地裁2009"/> |
|||
前述の所長面接から1週間後の2000年3月10日、死刑囚Hの元国選弁護人だった弁護士2人が広島拘置所に赴き、死刑囚Hとの接見を申し入れた<ref name="広島地裁2009"/>。これに対し広島拘置所長は「死刑判決が確定したため、弁護士2人と死刑囚Hは既に何の関係もなくなっているが、死刑囚Hが長期にわたり世話になった弁護士であれば心情安定につながり処遇上有益であろう」と判断し、死刑囚Hに接見の意思確認を行った上で同日9時22分から8分間、拘置所職員の立ち合いの下で特別面会として接見をさせた<ref name="広島地裁2009"/>。この接見の際、死刑囚Hは弁護士2人に対し「これでお会いすることはご遠慮願います。お世話になりました」と述べており、その後は2006年12月14日に国賠訴訟の原告・[[足立修一 (弁護士)|足立修一]]([[広島弁護士会]]所属の弁護士)が接見を拒否されるまでの間、死刑囚Hは弁護士との接見・信書の授受をしたことはなかった<ref name="広島地裁2009"/>。なお[[2002年]](平成14年)2月9日には別の弁護士が死刑囚Hに来信を行ったが、これは拘置所長により「親族以外のものからの来信」として不許可とされたため、その信書は死刑囚Hには届かなかった<ref name="広島地裁2009"/>。 |
|||
死刑囚Hは[[2005年]](平成17年)8月18日に広島拘置所長宛てに「今後、書信およびパンフレットなどは、親族からのもの以外は全て受け取りを拒否する」との願箋を提出したほか、死刑執行2か月前の[[2006年]](平成18年)10月16日には担当者に「心の悩み」として「居室が変更になってから何もやる気がしない。請願作業にも身が入らないし教誨も休みたい」などと申し述べた<ref name="広島地裁2009"/>。死刑執行11日前の2006年12月14日、後述のように足立が「死刑囚Hに[[再審]]請求・[[恩赦]]出願を行う意思があるかどうかを確認するため」として収監先・広島拘置所に接見を申し入れたが拒否され([[#国家賠償請求訴訟]]の節を参照)、その5日後の12月19日(死刑執行6日前)に広島拘置所処遇部上席統括矯正処遇官(第二担当)の刑務官(「第二統括」)が「死刑囚Hの心情を把握する目的」で面接を実施した際、死刑囚Hは以下のように述べた。 |
|||
* (10月16日に「何もやる気がしない」などと悩みを吐露したことについて)「現在はずいぶんよくなりましたが、自分でいったんは『頑張ります』と公言した以上、弱音は言いません」<ref name="広島地裁2009"/> |
|||
* (「2005年8月に『親族以外からの親書受け取りを拒否する』旨の願箋を提出した後、気持ちに変わりはないか?」との質問に対し)「その後も自分の気持ちに変化はありません。たとえ弁護士が面会に訪れても一切会いませんし、弁護士から手紙が来ても受け取りを辞退します。弁護士からの再審請求および恩赦に関することについての問い合わせも拒否します」<ref name="広島地裁2009"/> |
|||
一方で足立は面会を拒否されたことを受け、死刑囚Hとの面会を実現するための足掛かりにしようと{{Refnest|group="注"|面会を拒否された理由として「本人から足立宛への手紙がないこと」が指摘されていたため、足立は「国賠訴訟する前にHと面会するため可能なことはやろう」と考えて手紙を送った{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|p=197}}。}}12月18日に死刑囚H宛へ恩赦請求の委任状・再審請求のための弁護人選任届の要旨および回答書・返信用封筒を同封した手紙を速達で送付した{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|pp=196-197}}。この手紙は翌19日9時過ぎに広島拘置所へ着いたが、21日午前に足立が広島拘置所庶務課で「死刑囚Hは私の手紙を読んだか?」と確認したところ、庶務課長は「死刑囚Hは親族を含め手紙の受領を拒否している」と回答した{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|p=197}}。 |
|||
足立との接見拒否から11日後の2006年[[12月25日]]に[[法務大臣]][[長勢甚遠]]の発した[[死刑執行命令]]により収監先・[[広島拘置所]]で死刑囚H(44歳没)の[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑が執行された]]<ref name="中国新聞2006-12-25">『中国新聞』2006年12月26日朝刊第二社会面28頁「H死刑囚ら4人刑執行 05年9月以来 安倍内閣で初」(中国新聞社)「解説:制度全体の情報開示を」([[共同通信社]]記者:西條高生)</ref><ref name="読売新聞2006-12-25">『読売新聞』2006年12月25日東京夕刊一面1頁「4人の死刑執行 昨年9月以来、3拘置所で」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="朝日新聞2006-12-25">『朝日新聞』2006年12月25日夕刊一面1頁「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり」(朝日新聞社)</ref><ref name="産経新聞2006-12-25">『産経新聞』2006年12月25日大阪夕刊社会面「死刑囚4人、刑執行 1年3カ月ぶり」(産経新聞大阪本社)</ref><ref name="産経新聞2006-12-26">『産経新聞』2006年12月26日東京朝刊社会面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり 長勢法相では初めて」(産経新聞東京本社)</ref>。同日には[[東京拘置所]]でも死刑囚2人・[[大阪拘置所]]でも1人と、死刑囚Hを含めて死刑囚計4人の死刑が執行された<ref name="中国新聞2006-12-25"/><ref name="読売新聞2006-12-25"/><ref name="朝日新聞2006-12-25"/><ref name="産経新聞2006-12-25"/><ref name="産経新聞2006-12-26"/>。死刑囚4人に対する同時執行は1997年8月1日に法務大臣(当時)・[[松浦功]]の死刑執行命令により[[永山則夫]]([[永山則夫連続射殺事件]])・[[夕張保険金殺人事件]]の死刑囚2名ら計4人の死刑が執行されて以来、9年4か月ぶりだった{{Refnest|group="注"|[[共同通信社]]記者・西條高生は「今回の死刑執行で1日の死刑執行人数が4人と多くなった背景には、前法務大臣・[[杉浦正健]]が1年近く死刑執行命令書にサインしなかったことが関係しているだろう」と指摘した<ref name="中国新聞2006-12-25"/>。}}<ref name="中国新聞2006-12-25"/><ref name="読売新聞2006-12-25"/>。 |
|||
== 国家賠償請求訴訟 == |
|||
[[広島弁護士会]]所属の弁護士・[[足立修一 (弁護士)|足立修一]]{{Refnest|group="注"|当時は「死刑囚Hを含む弁護人選任依頼者から再審請求の弁護人に選任されたり、その依頼を受けていたわけではなく、死刑囚Hとの接見依頼も受けていなかった」状態だった<ref name="広島地裁2009"/>。}}は2006年12月1日に[[死刑存廃問題|死刑廃止運動]]を行う[[市民団体]]に所属していた知人{{Refnest|group="注"|「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(略称:フォーラム90)メンバー・高田章子{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|p=195}}。}}から「年末に死刑囚Hの死刑が執行されそうだから、死刑囚Hの元国選弁護人の氏名を教えてほしい」と依頼されたため<ref name="広島地裁2009">[[#広島地裁(2009)|広島地裁(2009)]]</ref>、第一審当時の弁護人を紹介した上で{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|p=195}}「自分も『元国選弁護人のうち弁護士1人に連絡を取り、死刑囚Hと面会して恩赦・[[再審]]を申請できないか』と考えている」と伝え<ref name="広島地裁2009"/>、元国選弁護人・二國則昭に対し「死刑囚Hと面会してほしい」と依頼した{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|p=195}}。これを受け、二國は2006年12月14日(死刑執行11日前)に同じく元弁護人の臼田耕造弁護士とともに死刑囚Hの収監先・広島拘置所へ赴き、「安否伺い」を理由にHとの接見を申し入れたが許可されなかった{{Refnest|group="注"|足立は「いくら既決囚の面会・手紙のやり取りが原則として親族のみに限定されるよう運用されているとはいえ、通常は元弁護人ならば面会できるはずだ」と述べている{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|p=195}}。}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|p=195}}。 |
|||
その話を聞かされた足立は「死刑囚Hへの死刑執行が近い時期に迫っている」と感じたため「再審請求を行う必要性が強い。死刑囚Hと接見して再審請求・恩赦出願の権利行使を促すべきだろう」と考え、同日15時10分ごろに広島拘置所で「再審請求の弁護人となろうとする者」として死刑囚Hとの接見を申し入れた<ref name="広島地裁2009"/>。15時20分ごろ、広島拘置所第二統括の刑務官は「足立が死刑囚Hとの接見を申し入れている」ことを聞き、15時40分ごろになって接見係の副看守長からその要件を確認した上で首席から「原告の接見申し入れ内容は『再審請求の件』である」ことを報告したが、首席は第二統括に対し15時55分ごろ「死刑囚Hは再審請求をしているわけではないため、足立は面会の相手方として該当しない。面会を断るように」と指示したため、第二統括は足立に対し「死刑囚Hは再審請求を提起していないため、面会はできません」と伝えた<ref name="広島地裁2009"/>。足立はこれに対し「責任者を呼んでほしい」などと求めた上で、職員応接室で対応した職員に「死刑囚H本人に自分が面会を希望していることを伝えてほしい。再審請求の意思があるかを確認するためにここに来たのだから面会をさせてほしい」「面会させないにしても『再審請求を起こす意思があるかどうか』について自筆で回答をもらって書面による意思確認をしてほしい」などと依頼したが、そのような対応は取られず<ref name="広島地裁2009"/>、職員から「これ以上話はできない」などと要求を退けられたため、16時30分ごろに「面会拒否は国家賠償に相当するものだ」と告げて退席した{{Sfn|年報・死刑廃止|2007|p=196}}。 |
|||
足立は2007年8月2日付で慰謝料など約180万円の支払いを求めて広島地裁に[[国家賠償請求権|国家賠償請求訴訟]]を起こしたが{{Refnest|group="注"|足立は提訴後に記者会見で「死刑確定者の接見・再審の機会は阻害されている。闇から闇へと死刑が執行されている現実に光を当てたい」とコメントした<ref name="朝日新聞2007-08-03"/>。}}<ref name="読売新聞2007-08-03">『読売新聞』2007年8月2日大阪夕刊第二社会面14頁「『死刑囚接見拒否は違法』 広島弁護士会が地裁に提訴」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞2007-08-03">『朝日新聞』2007年8月3日大阪朝刊広島県第一地方面22頁「慰謝料求め国を提訴 弁護士、死刑囚への接見拒否され /広島県」(朝日新聞大阪本社・広島総局 記者:秋山千佳)</ref><ref name="毎日新聞2007-08-03">『毎日新聞』2007年8月3日大阪朝刊広島県版地方面23頁「接見拒否:違法、国に賠償求める 広島の弁護士提訴 /広島」(毎日新聞大阪本社・広島支局 記者:大沢瑞季)</ref>、[[広島地方裁判所]]民事第3部([[金村敏彦]]裁判長)<ref name="広島地裁2009"/>は2009年12月24日に[[原告]]・足立の請求を棄却する判決を言い渡した{{Refnest|group="注"|広島地裁は判決理由で「死刑確定者は刑事訴訟法で規定された『身体拘束を受けている被告人または被疑者』には該当しない」と指摘した上で、「元死刑囚Hは再審請求をしていない上、足立は再審請求の弁護人に選任されておらず、元死刑囚Hから依頼を受けていたわけでもない。足立には元死刑囚Hに対する接見交通権はなく、請求には理由がない」と結論付けた<ref name="広島地裁2009"/><ref name="産経新聞2009-12-25"/>。}}<ref name="読売新聞2009-12-25">『読売新聞』2009年12月25日大阪朝刊広島県版地方面27頁「弁護士と元死刑囚の接見拒否 『違法』訴え棄却 地裁=広島」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="産経新聞2009-12-25">『産経新聞』2009年12月25日東京朝刊社会面「元死刑囚の接見拒否 弁護士へ賠償認めず」(産経新聞東京本社)</ref>。足立は判決を不服として[[広島高等裁判所]]へ即日[[控訴]]したが<ref name="読売新聞2009-12-25"/><ref name="産経新聞2009-12-25"/>、広島高裁(小林正明裁判長)は2010年12月21日に第一審判決を支持して原告・足立の控訴を棄却する判決を言い渡した{{Refnest|group="注"|広島高裁は判決理由で「元死刑囚Hは死刑判決を自ら受け入れていたことが認められる。原告は元死刑囚Hから再審請求の依頼を受けていないので接見交通権は保証されていない。一方的に死刑確定者(死刑囚)との接見を希望する弁護士には接見交通権を保障すべきではなく、拘置所側の裁量権に逸脱は見られない」と認定した<ref name="読売新聞2010-12-22"/>。}}<ref name="読売新聞2010-12-22">『読売新聞』2010年12月22日大阪朝刊広島県版地方面31頁「接見拒否賠償訴訟 弁護士側の控訴棄却=広島」(読売新聞大阪本社)</ref>。原告・足立は控訴審判決を不服として2010年12月24日付で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ[[上告]]したが<ref>『読売新聞』2010年12月25日大阪朝刊広島県版地方面28頁「接見拒否で原告側上告=広島」(読売新聞大阪本社)</ref>、最高裁第一[[小法廷]]([[桜井龍子]]裁判長)は2011年10月13日付で原告・足立の上告を棄却する決定を出したため、足立の敗訴が確定した<ref name="読売新聞2011-10-18">『読売新聞』2011年10月18日大阪朝刊広島県版地方面29頁「足立弁護士の敗訴が確定 元死刑囚接見拒否=広島」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="朝日新聞2011-10-13">『朝日新聞』2011年10月13日大阪朝刊広島県版第一地方面33頁「死刑囚との接見めぐり、弁護士の敗訴確定 /広島県」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。 |
|||
== 事件の影響 == |
|||
かつてHが被害者らを物色した新天地公園に立っていた若い売春婦たちは事件後、携帯電話で馴染みの常連客と連絡を取り合うようになったため、事件から4年が経過した2000年時点では滅多に公園に立たなくなった{{Sfn|新潮45|2002|p=306}}。 |
|||
捜査本部が設置された廿日市署(署長:吉村一彦、署員115人)では1996年9月14日に管内の湯来町内でDの遺体が発見されたことを受けて150人態勢の捜査本部が設置され{{Refnest|group="注"|当時管内での殺人事件の発生は1993年8月以来だった上、署が保有していた[[1897年]]([[明治]]30年)以来の資料では「(管内で)連続殺人事件が発生した」とされる記録はなかったため、[[1874年]](明治7年)の設立以来前代未聞の大事件となった<ref name="朝日新聞1996-10-11">『朝日新聞』1996年10月11日大阪朝刊広島県版地方面「連続殺人・国体・選挙で大忙し 署員たち『目が回る』/広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。}}、同署からも刑事課を中心に多くの捜査員が本部入りしたほか、1996年10月12日に開幕を控えた[[第51回国民体育大会|秋の国民体育大会(国体)]]会場の警備{{Refnest|group="注"|柔道・剣道・山岳の各競技会場が廿日市署管内にあったが、特に柔道競技(会場:廿日市市スポーツセンター)には[[明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]が見学に訪れたため、24時間体制の会場警備・40人態勢の通行経路付近警備などを行った<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。}}や[[第41回衆議院議員総選挙]](1996年10月20日投開票)における[[広島県第2区]]の選挙違反監視{{Refnest|group="注"|同署刑事課17人中3人が専従で行っていた<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。}}など大仕事が重なった<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。 |
|||
=== 広島県タクシー協会の対応・風評被害 === |
|||
広島県タクシー協会(会長:濱田修)によれば<ref name="朝日新聞1996-10-12"/>、事件発覚後には広島市内で繁華街を中心に夜間のタクシー利用が落ち込み、特に女性客のタクシー離れが顕著となったほか<ref name="中国新聞1996-10-12">『中国新聞』1996年10月12日朝刊第17版第一社会面31頁「女性連続殺人 タクシー全車に謝罪文 協会広島支部 再発防止策を協議」(中国新聞社)</ref>、加害者Hが勤務していたタクシー会社(広島市東区){{Refnest|group="注"|車両数約30台<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。}}は[[中国運輸局]]から「日報・記録計([[タコグラフ|タコメーター]])などによる日常の運行管理体制・運転手教育」などについて監査を受けたほか<ref name="中国新聞1996-10-10 2">『中国新聞』1996年10月10日朝刊第17版第一社会面29頁「女性連続殺人 H容疑者が勤務のタクシー会社監査へ 中国運輸局」(中国新聞社)</ref>、会社が特定されて無言電話・嫌がらせを受けたため{{Refnest|group="注"|警察発表・新聞報道などでは詳細な住所は発表されなかったが、[[電話帳]]の情報・会社の建物写真などからすぐに特定され、運転手が遺体遺棄現場へ案内させられる嫌がらせもあった<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。}}、社員が退職したり休みを取ったりした<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島">『朝日新聞』1996年12月25日大阪朝刊広島県版地方面「マツダ・フォード提携 連続女性殺人事件(96取材現場から)/広島」「連続女性殺人事件の余波 同僚運転手ら迷惑、会社には嫌がらせ電話」(朝日新聞大阪本社・広島総局 記者:樫山晃生)</ref>。 |
|||
広島県国体局長・和田凡生は「1人が起こした事件のせいで広島全体のイメージが悪影響を受けてはたまらない」としてタクシー業界に対し改めて「親切で気持ちいい応対」の徹底を呼び掛けたほか<ref name="緊急リポート3">『中国新聞』1996年10月10日朝刊第17版第一社会面29頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<下> 背景と波紋 金目当てに疑問も 業界、イメージ低下懸念」(中国新聞社)</ref>、1996年10月11日に広島市内60社のタクシー会社の経営者ら約100人を招集して緊急会議を開いた<ref name="朝日新聞1996-10-12">『朝日新聞』1996年10月12日大阪朝刊広島県版地方面「車内におわび文書 タクシー協会、連続殺人で緊急会議開く /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)</ref>。この会議は広島県タクシー協会広島支部(支部長:新谷英幸)が「ひろしま国体秋季大会開幕を控え、業界を挙げて信頼回復に乗り出そう」として呼び掛けたもので、加害者Hが勤務していたタクシー会社の幹部が出席して陳謝したほか<ref name="中国新聞1996-10-12"/>、濱田が「今回の事件で市民に大変迷惑をかけた。タクシー業界の信頼を回復するために業界が一団となって努力していこう」<ref name="朝日新聞1996-10-12"/>「国体開催で県外客が増える。サービス向上に心掛け汚名返上してほしい」と話した<ref name="中国新聞1996-10-12"/>。その後「協会に加盟する広島市内の全タクシー(約2,300台)に乗客向けの謝罪文・サービス向上や運転手教育徹底など再発防止策を盛り込んだチラシを車内掲示する」ことが決められ<ref name="中国新聞1996-10-12"/>、協会は他地域でも会議を開き信頼回復を呼び掛けた<ref name="朝日新聞1996-10-12"/>。 |
|||
加害者Hの元上司は『[[朝日新聞]]』広島総局([[朝日新聞大阪本社|大阪本社]]の傘下)記者・樫山晃生の取材に対し「彼(H)の起こした事件に責任は感じているが、他の社員やその家族のことを考えて会社を潰さないようにするだけでも必死だった。1996年12月時点では(事件発覚直後と比べて)事件に関する電話は少なくなり、売上は落ちたが社内の結束は強くなった」と証言した<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。この取材結果を振り返り樫山は「新聞・テレビの報道では会社は匿名で報道されたが、結果的には会社がダメージを受けることとなってしまった。報道では真実を伝えなければならないが、[[報道被害|何気なく書いたことでも思わぬ影響を与えること]]がある。『たとえ数行の記事でもおろそかにできない』と身が引き締まる思いがした」と振り返った<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
{{Notelist2|2}} |
|||
=== 出典 === |
|||
;※出典見出し中のうち加害者(元死刑囚H)の実名は姓イニシャル「H」に、被害者の実名はそれぞれ本文中で使われている仮名(A・B・C・D)に置き換えている。 |
|||
{{Reflist|30em}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
'''国家賠償請求訴訟の判決文''' |
|||
* {{Cite 判例検索システム|裁判所=[[広島地方裁判所]]民事第3部|裁判形式=判決|事件番号=平成19年(ワ)第1254号|事件名=損害賠償請求事件|裁判年月日=2009年(平成21年)12月24日|判例集=『[[TKC]]ローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:25471141|判示事項=|裁判要旨=弁護士である原告が、拘置所長が拘置所に収容されていた死刑確定者との接見を認めなかったことは違法であり、これにより精神的苦痛を被ったなどとして、国家賠償を請求した事案で、本件死刑囚は再審請求すら行っておらず、また、本件死刑囚にその意思があったとも認められない点に照らすと、少なくとも、本件接見当時、本件死刑囚との接見について刑事訴訟法39条1項が適用ないし準用される余地はないなどとして、原告の請求を棄却した事例。|url=|ref=広島地裁(2009)}} |
|||
** [[原告]]・[[被告]] |
|||
*** 原告:[[足立修一 (弁護士)|足立修一]](広島弁護士会所属の弁護士) |
|||
**** 原告訴訟代理人弁護士40人:武井康年・大迫唯志・久保豊年・芥川宏・中田大・前川哲明・端野真・赤松範夫・生田博通・石口俊一・井上明彦・[[今枝仁]]・内田雅敏・胡田敢・遠藤憲一・奥苑泰弘・戸田慶吾・篠原健・外山佳昌・長尾俊明・中村順英・原田武彦・本田兆司・山下江・山田延廣・浅井正・五十嵐二葉・上田國廣・及川智志・金尾哲也・小坂井久・斎藤利幸・斉藤道俊・阪口剛・田口光伸・田中礼司・長谷川亮・福島康夫・若松芳也・大杉光子 |
|||
*** 被告:[[日本国]] |
|||
** 判決内容:原告側請求棄却(原告側控訴) |
|||
** [[裁判官]]:[[金村敏彦]]([[裁判長]])・福田修久・三貫納有子 |
|||
** 口頭弁論終結の日:2009年10月15日 |
|||
'''書籍''' |
|||
* {{Cite book|和書|author=丸山佑介|authorlink=丸山佑介|title=判決から見る猟奇殺人ファイル|publisher=[[彩図社]]|date=2010-01-20|pages=52-61|edition=第1刷|chapter=6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件|isbn=978-4883927180|ref={{SfnRef|丸山|2010}}}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=『新潮45』編集部|authorlink=新潮45|title=殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気、非情の13事件|publisher=[[新潮社]]|date=2014-02-20|edition=24冊|origdate=2002-03-01|pages=287-308|isbn=978-4101239132|ref={{SfnRef|新潮45|2002}}}} - 祝康成(現:[[永瀬隼介]])が『新潮45』2001年1月号に寄稿した本事件の記事「『売春婦』ばかりを狙った飽くなき性欲の次の獲物―広島『タクシー運転手』連続4人殺人事件」を再録している。 |
|||
* {{Cite book|和書|author=永瀬隼介(本名・祝康成からペンネーム変更)|authorlink=永瀬隼介|title=19歳 一家四人惨殺犯の告白|publisher=[[角川文庫]]|date=2004-08-25|pages=217-218|isbn=978-4043759019|ref={{SfnRef|永瀬|2004}}}} - [[市川一家4人殺害事件]]の[[少年死刑囚]](事件当時19歳・2017年に死刑執行)について取り扱ったノンフィクション。該当ページ文中にて著者が本事件の死刑囚Hについて言及している。 |
|||
* {{Cite book|和書|author=嘉納三明|editor=別冊宝島編集部|editor-link=別冊宝島|title=身の毛もよだつ殺人者たち|publisher=[[宝島社]](発行人:[[蓮見清一]])|date=2006-11-25|edition=第1刷発行|pages=166-183|chapter=H 売春婦四人を殺害したタクシー運転手 冥土までワンメーター、一人につき五万円|isbn=978-4796655323|url=|ref={{SfnRef|別冊宝島|2006}}}} - 『別冊宝島』368号「身の毛もよだつ殺人読本」(1998年3月3日発行)を改訂した文庫本。 |
|||
* {{Cite book|和書|author=年報・死刑廃止編集委員会|editors=編集委員:岩井信・江頭純二・菊池さよ子・[[菊田幸一]]・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・[[安田好弘]] / 深田卓(インパクト出版会)|title=あなたも死刑判決を書かされる 21世紀の徴兵制・裁判員制度 年報・死刑廃止2007|publisher=[[インパクト出版会]]|date=2007-10-13|edition=第1刷発行|pages=|isbn=978-4755401800|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/166|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2007}}}} |
|||
== 関連項目 == |
|||
* [[シリアルキラー]](連続殺人) |
|||
* [[快楽殺人]] |
|||
* [[日本における死刑囚の一覧 (2000年代)]] |
|||
** [[日本における被死刑執行者の一覧]] |
|||
'''女性を標的とした主な連続殺人事件''' |
|||
* [[小平事件]](小平義雄):[[1945年]]([[昭和]]20年) - [[1946年]](昭和21年) |
|||
* [[首都圏女性連続殺人事件]]:[[1968年]](昭和43年) - [[1974年]](昭和49年) |
|||
* [[大久保清]]:[[1971年]](昭和46年) |
|||
* [[佐賀女性7人連続殺人事件]]([[未解決事件]]):[[1975年]](昭和50年) - [[1989年]]([[平成]]元年) |
|||
* [[北関東連続幼女誘拐殺人事件]](未解決事件):[[1979年]](昭和54年) - [[1996年]](平成8年) |
|||
* [[富山・長野連続女性誘拐殺人事件]]([[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]111号事件):[[1980年]](昭和55年) |
|||
* [[大阪連続バラバラ殺人事件]](警察庁広域重要指定122号事件):[[1985年]](昭和60年) - [[1994年]](平成6年) |
|||
* [[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]](加害者:[[宮崎勤]] / 警察庁広域重要指定117号事件):[[1988年]](昭和63年) - 1989年(平成元年) |
|||
* [[福岡3女性連続強盗殺人事件]]:[[2004年]](平成16年) - [[2005年]](平成17年) |
|||
* [[座間9人殺害事件]]:[[2017年]](平成29年) |
|||
== 外部リンク == |
|||
* {{Cite news|title=【平成最凶の事件簿5】堕ちていく男と女、タクシー運転手「H」がネクタイを外すとき|newspaper=[[週刊新潮|デイリー新潮]]|date=2019-04-19|author=デイリー新潮編集部|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2019/04190610/?all=1|accessdate=2019-05-04|publisher=[[新潮社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190504140301/https://www.dailyshincho.jp/article/2019/04190610/?all=1|archivedate=2019年5月4日}} |
|||
{{死刑囚}} |
|||
{{Good article}} |
|||
{{デフォルトソート:ひろしまたくしいうんてんしゆれんそくさつしんしけん}} |
|||
{{Crime-stub}} |
|||
{{DEFAULTSORT:ひろしまたくしいうんてんしゆれんそくさつしんしけん}} |
|||
[[Category:連続殺人事件]] |
|||
[[Category:平成時代の殺人事件]] |
[[Category:平成時代の殺人事件]] |
||
[[Category:日本の連続殺人事件]] |
|||
[[Category:日本の強盗事件]] |
[[Category:日本の強盗事件]] |
||
[[Category:1996年の日本の事件]] |
[[Category:1996年の日本の事件]] |
||
[[Category:国家賠償請求訴訟]] |
|||
[[Category:広島市中区の歴史|たくしいうんてんしゆれんそくさつしんしけん]] |
[[Category:広島市中区の歴史|たくしいうんてんしゆれんそくさつしんしけん]] |
||
[[Category:1996年4月]] |
[[Category:1996年4月]] |
||
[[Category:1996年8月]] |
[[Category:1996年8月]] |
||
[[Category:1996年9月]] |
[[Category:1996年9月]] |
||
[[Category:戦後の広島]] |
|||
[[Category:日本の死刑確定事件]] |
2024年11月20日 (水) 14:35時点における最新版
この項目には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
この項目には性的な表現や記述が含まれます。 |
広島タクシー運転手連続殺人事件 | |
---|---|
場所 | |
標的 | 売春・援助交際目的で知り合った女性(事件当時16歳 - 45歳)[4] |
日付 | |
概要 | 借金返済に困窮していたタクシー運転手の男が約5か月間で4人の女性を殺害して遺体を山中に遺棄した[5]。第1の事件の動機は強盗目的だったが、やがて殺人そのものに快楽を見出すようになっていった[5]。 |
攻撃手段 | 首を絞める[5] |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 | ネクタイ[5] |
死亡者 | 4人 |
損害 | 現金約24万円(4人から奪った金額の合計)[注 1][9] |
犯人 | タクシー運転手の男H(逮捕当時34歳)[1][10] |
動機 | 金銭目的(強盗)・快楽殺人 |
対処 | 逮捕・起訴 |
謝罪 | あり |
刑事訴訟 | 死刑(第一審判決[11]・控訴せず確定[12] / 執行済み[13]) |
影響 | 加害者Hの勤務先だったタクシー会社が嫌がらせを受けたことで業務に支障をきたしたり[14]、広島市内で夜間のタクシー利用率が落ち込むなど風評被害が発生した[15]。 |
管轄 |
広島タクシー運転手連続殺人事件(ひろしま タクシーうんてんしゅ れんぞくさつじんじけん)は、1996年(平成8年)4月18日 - 9月14日に広島県内(広島市およびその近郊)で女性4人が相次いで殺害された連続殺人事件[17]。
概要
[編集]加害者の男H(逮捕当時34歳・タクシー運転手)は深夜に広島市中区の遊廓跡にある歓楽街(流川[2]・新天地・薬研堀[3])一帯で被害者女性4人を次々と誘い[2]、タクシー車内にてネクタイで被害者を絞殺して遺体を山中に遺棄した[5]。
Hは事件前から多額の借金を抱えて返済に窮しており、借金返済のために最初の殺人(A事件)を起こした(強盗殺人)。犯行が露呈しなかったことから「行方不明になっても誰も不審に思わないような女性を殺害しても、自分が疑われることはない」と確信し、売春・援助交際目的で夜の街を出歩いていた女性をターゲットとした[4]。遊興費を得る目的を含めてさらなる殺人を重ね、次第に殺害行為そのものに快楽を見出すようになっていった(快楽殺人)[5]。
本事件はその凶悪さから広島の繁華街をパニックに陥れ[19]、地元紙『中国新聞』(中国新聞社)が「中国地方でも稀に見る凶悪事件」と表現したほか[20]、作家・丸山佑介は著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』(彩図社・2010年)にて「タクシードライバーによる殺人行脚」「『誰もが利用する交通機関』であるタクシーの運転手が突然襲い掛かる恐ろしい事件」と形容した[21]。
元死刑囚H
[編集]H・H 加害者・元死刑囚 | |
---|---|
個人情報 | |
生誕 |
1962年4月17日[22] 日本・宮崎県宮崎市[22] |
死没 |
2006年12月25日(44歳没)[13] 日本・広島県広島市中区上八丁堀(広島拘置所)[13] |
死因 | 絞首刑 |
殺人 | |
犠牲者数 | 4人 |
犯行期間 | 1996年(平成8年)4月18日[5]–1996年9月14日[5] |
国 | 日本 |
逮捕日 | 1996年9月21日(別件の窃盗容疑・および殺人容疑) |
司法上処分 | |
刑罰 | 死刑(広島地方裁判所) |
有罪判決 | 強盗殺人罪・死体遺棄罪 |
判決 | 死刑(広島地方裁判所) |
国籍 | 日本 |
---|---|
職業 | タクシー運転手(逮捕直前に解雇)[23] |
刑罰 | 死刑(絞首刑・執行済み) |
配偶者 | 1歳年上の妻[24](事件後に離婚)[25] |
子供 | 長女(1993年4月誕生)[24] |
有罪判決 |
|
本事件の加害者である男H・H(姓名のイニシャル、以下の文中では姓イニシャル「H」で表記)は1962年(昭和37年)4月17日に宮崎県宮崎市で生まれ[22]、事件当時は34歳・広島市安佐南区沼田町吉山在住のタクシー運転手だった[27]。本事件の刑事裁判で死刑が確定し、2006年(平成18年)12月25日に法務省(法務大臣:長勢甚遠)の死刑執行命令により収監先・広島拘置所にて死刑を執行された(44歳没)[13]。
生い立ち
[編集]Hは多くの山林を持つ地元有数の資産家で3人兄弟の末っ子[20](三男)として生まれ[6]、小中学校時代はソフトボール部・野球部で活躍し[20]、中学時代には野球部の主将を務めた[22]。また特に日本史が得意で、1978年(昭和53年)4月に入学した県立高校(県内トップの進学校)では「クラスの上位15番以内に入る成績」を維持しており[22]、高校時代まで地元では「スポーツ万能の優等生」として名を知られていた[28]。一方で両親は子供に甘く[20]、Hは末っ子だったため「小遣いを欲しがるだけもらえるような家庭環境」で育った[注 2][22]。
1981年(昭和56年)3月に高校を卒業したHは「教師か公務員になりたい」と大学受験に臨んだが[22]、志望していた筑波大学の推薦入試に加えて第二志望の福岡教育大学にも不合格と立て続けに失敗し、滑り止めのつもりで受けた私立大学の福岡大学法学部にしか合格できなかった[29]。Hは1981年4月に福岡大学へ入学したが[22]、大学受験に失敗して以降は「私立大学ではたとえ教師になっても尊敬されない」と大きな挫折感を味わい[注 3][29]、このころからは高校時代までの友人たちと音信不通になり同窓会にも出席しなくなった[22]。また福岡大学でも「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と同級生を見下しつつ、授業にはほとんど出席せず飲酒・ギャンブルにのめり込んだが、4年生になるとかつて見下していた同級生たちが国家公務員・都道府県職員として就職した一方で自身は留年が確実となり[29]、「このままでは市役所職員にもなれない」と強い挫折感を抱えていた[30]。
福岡大学入学から4年2か月後となる1985年(昭和60年)6月末、Hは授業料滞納を理由に4年生に留年したまま[22]大学を中途退学した[30]。
強盗事件で服役
[編集]大学中退後、Hは学費を援助していた兄により宮崎市の実家に連れ戻され[注 4][22]、宮崎市役所の臨時職員として就職したが、飲酒・女遊びに溺れるなどの荒れた生活は改善せず、オートバイの酒気帯び運転で逮捕された[30]。その後も遊ぶ金欲しさにひったくりを繰り返し[30]、1986年(昭和61年)1月25日[注 5]には宮崎市内で[31]会社員宅へ侵入し、その妻に包丁を突き付け現金2万円・預金通帳を奪う強盗事件を起こし、同事件で逮捕・起訴されて強盗罪で懲役2年の実刑判決を受けた[30]。この事件により刑務所に服役したHは結婚を望んでいた女性と別れたほか[32]、出所後に故郷・宮崎を離れ[24]、それ以降実家に帰ることはなかった[22]。
出所後の1989年(平成元年)4月には広島県広島市内へ移住して[30]叔父宅に身を寄せ[5]、同月には広島市内のタクシー会社に運転手として就職した[注 6][22]。当時、Hは「一からやり直そう」と決心して働いており、1日の売上は平均約45,000円で[22][注 7]、勤務時間も他の運転手たちより1日2時間ほど長かった[25]。しかし、大企業のエリート社員を客として乗せて働き続ける毎日のうちに「俺はタクシーの運転手なんかやっている人間ではない。筑波大学に合格できていれば今ごろは国家公務員として地位・名誉を約束された生活を送っていけたはずだ」とコンプレックスを募らせ続けていたほか[30]、当時の月収(手取りで約30万円)の大半を飲酒・女遊びに浪費し[24]、不足分を消費者金融(サラ金)から借金していた[5]。
結婚生活とその破綻
[編集]1992年(平成4年)初めごろには借金が総額約500万円になっていたが[5]、当時29歳だったHは同年春に叔父の紹介で当時30歳(Hより1歳年上)の女性と結婚した[24]。Hは借金返済で心機一転を図り、1992年7月には[5]安佐南区の新興住宅地で建売住宅を購入し、その住宅ローンを実際の金額より400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して合計500万円を作ることで借金を完済した[24]。
また結婚が転機となって生活が徐々に改善していき[35]、1993年(平成5年)4月には長女が誕生して1児の父親になった[24]。Hはこのころ「家も持ったし子供もできた。これで世間も認めてくれる」と希望を持ち始めていたが、長女誕生から2日後には産褥期の妻が突然意味不明な言葉をつぶやき続けたり時折奇声を上げたりなど精神疾患を発症した[36]。そのため、Hは妻を入院させ娘を妻の実家に預けたが[注 8][36]、その後は再び遊興に明け暮れて借金を重ねるようになり[5]、1994年(平成6年)末には200万円の借金を抱えたため、実家の兄に借金を肩代わりさせたが、義父母に引き取られた娘と疎遠になったことなどから生活は荒れていく一方で[36]、その後も再び借金を繰り返していた[32]。
Hは最初の殺人(A事件)を起こした1996年4月当時[5]、約350万円の借金を抱え月々15万円を返済していた[38]一方、借金を親類・妻に知られないようにするため「いざとなれば自殺して生命保険の保険金で返済すればいい」と自暴自棄な考えも抱いたが[32]、結局は自殺すらできず「己の不運は全て周囲のせい」にしていた[36]。また被害者を物色していた流川地区では「タクシーの男」として知られ[2]、事件の3, 4年ほど前から頻繁に顔を見せ「客にならなくても毎晩のように訪れてくる」ことで有名になっていたが、1996年になってからは遊ぶ金が尽きたため冷やかしだけで帰るようになっていた[22]。後に取り調べを受けた際に「どうせ俺なんか」と自暴自棄な発言をしたが、『毎日新聞』(毎日新聞社)はその言葉の真意を「Hは大学入試など人生での挫折経験を自分で乗り越えることができず『何をやってもダメ』という自己否定的な観念を心の奥底に引きずって生きてきたのだろう」と考察した[22]。
人物像
[編集]職場の上司・同僚ら関係者はHの人物像を「あまり付き合いは良くないが真面目な人間だった」と証言したほか[22]、Hは他のタクシー会社の草野球チームに[22]助っ人として参加していたり[20]、近所の町内会に積極的に参加するなど、周辺には温厚な印象を与えていた[注 9][18]。
一方で同僚たちは「酒に酔うと服を脱ぐなど人格が変わった」「理由もなく突然怒り出すことがあった」と証言したほか[20]、流川では「タクシーを泥酔状態で飲酒運転していたり、シートにビールの缶が転がっていることもあった」という証言もされた[2]。またA事件以降、Hは逮捕されるまでタクシーで乗務を続けながら次々と新たな犯行に手を染めていたが、同僚は『中国新聞』記者の取材に対し「(Hは当時)タイヤのホイールを頻繁に交換していた。今思えば狭い道を走っていたのかもしれない」と証言した[39]。
事件の経緯
[編集]年 | 月日 | 事柄 |
---|---|---|
1996年 | 4月18日 | A事件発生。 |
5月 6日 | 広島市安佐南区内で被害者Aの遺体発見(A事件発覚)。 広島県広島北警察署(現:広島県安佐南警察署)が殺人・死体遺棄事件として捜査開始。 | |
5月14日 | 被害者Aの遺体・身元断定。 | |
8月13日 | B事件発生。 | |
9月 7日 | C事件発生。 | |
9月14日 | D事件発生。 湯来町(現:広島市佐伯区)内で被害者Dの遺体発見(D事件発覚)。 広島県廿日市警察署が殺人・死体遺棄事件として捜査開始。 | |
9月18日 | 廿日市署捜査本部がD事件の殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hの逮捕状請求。 | |
9月21日 | 山口県防府警察署、逃亡中の被疑者Hを窃盗(自動車盗)容疑により逮捕。 廿日市署捜査本部、殺人・死体遺棄容疑(D事件)で被疑者Hを逮捕。 | |
10月 | 1日Hの自供により山県郡加計町(現:安芸太田町)内で被害者Cの遺体発見(C事件発覚)。 | |
10月 | 4日被害者Cの遺体・身元断定。同日までにHが被害者A・Bの殺害を自供。 | |
10月 | 5日Hの自供により広島市安佐北区内で被害者Bの遺体発見(B事件発覚)。 | |
10月 | 8日被害者Bの遺体・身元断定。 | |
10月12日 | 広島地方検察庁が強盗殺人・死体遺棄容疑(D事件)で被疑者Hを広島地方裁判所に起訴。 | |
10月15日 | 捜査本部が強盗殺人・死体遺棄容疑(C事件)でHを再逮捕。 11月5日に広島地検が追起訴。 | |
11月 | 6日捜査本部が強盗殺人・死体遺棄容疑(B事件)でHを再逮捕。 11月27日に広島地検が追起訴。 | |
12月 | 4日捜査本部が強盗殺人・死体遺棄容疑(A事件)でHを再逮捕。 12月24日に広島地検が追起訴。 | |
1997年 | 2月10日 | 広島地裁刑事第2部(谷岡武教裁判長)で被告人Hの初公判。 |
11月 | 5日広島地裁、第10回公判で被告人Hの精神鑑定開始を決定。 精神鑑定により公判は一時中断。 | |
1999年 | 2月24日 | 第11回公判開廷(公判再開)。 |
10月 | 6日論告求刑公判。広島地検が被告人Hに死刑求刑。 | |
11月10日 | 弁護人の最終弁論が行われ結審。 | |
2000年 | 2月 9日 | 広島地裁刑事第2部(戸倉三郎裁判長)、被告人Hに死刑判決。 |
2月24日 | 同日付で被告人Hの死刑が確定(広島高等裁判所へ控訴せず)。 | |
2006年 | 12月25日 | 広島拘置所で死刑囚Hの死刑執行(44歳没)。 |
一連の事件を起こしたころ、Hは昼間に広島市中心部の八丁堀で、夜は中国地方最大の繁華街である流川・薬研堀界隈(いずれも中区)でそれぞれタクシーを停車して客待ちをしていたが、特に新天地広場では昼間 - 深夜まで客待ちしながら長時間停車しており、手当たり次第に女性を誘う姿が目撃されていた[40]。また1996年春、Hの同僚は女性客からHを名指しされ「先日、車内で1万円札を見せられて誘われた。注意しておいてほしい」と苦情を受けていた[40]。
最後の被害者Dを除く被害者3人(A・B・C)は次々と姿を消していた一方で周囲から異常に気付かれず、うち2人(A・B)の家族・身内からは捜索願も出されていなかった[39]。このことから加害者HはA・B両被害者を殺害後に「行方不明になっても誰も不思議に思わないような女性を殺害しても、遺体をうまく隠すなどすれば自分が警察に疑われることはない」と確信してさらに犯行を積み重ねていった[5]。また『中国新聞』は本事件を「加害者Hは各犯行動機を『金銭上のトラブル』『金を取ろうと思った』と自供しているが、被害者4人から奪った現金はそれぞれ数万円(合計で十数万円)だ。5か月間も加害者・被害者双方の周囲に異常ランプが灯らなかった事実が、本事件の特異さを表している」と報道した[注 10][5]。
A事件(第1の事件)
[編集]事件発生:1996年4月18日22時50分ごろ(殺害時刻)[6]
- 被害者:少女A(事件当時16歳の女子高生・広島県賀茂郡黒瀬町切田在住 / 広島県立広高等学校定時制課程1年生)[41] - 1995年(平成7年)に地元の中学校を卒業してから町内の美容院などで働き[41]、1996年4月9日に広高校定時制の入学式へ出席したが[注 11]、4月17日(事件前日)に広島県安芸郡音戸町(現:呉市)内から自宅に電話して以降は消息が途絶えた[42]。
- 殺害現場:広島県呉市上二河町・広島県道31号呉平谷線沿い空き地[5][45]
- 死体遺棄現場:広島県広島市安佐南区沼田町大塚[注 13]・林道脇側溝(幅1.5 m×深さ1 m / 水深10 cm)[46]
Hは勤務中の1996年4月18日20時に流川・薬研堀一帯をタクシーで流し[注 14]、売春・援助交際のメッカとして知られていた新天地公園を通りかかった際、公園で少女Aを見つけ「遊ばないか?」と声を掛けた[48]。被害者Aが料金2万円で応じたため、HはAをタクシーに誘い乗車させるとコンビニエンスストアで缶ビールを購入し[49]、21時ごろに広島駅付近のラブホテルに入った[47]。そのまま2人で缶ビールを飲み[49]、HはAに2万円を渡したが、Aは身の上話として「行方不明になった父親の借金を返済するため大阪から広島まで働きに来た。あと10万円返せば完済できる。今日はその返済日だから10万円を用意して、広島駅から呉駅(呉市)に行く」と話した[47]。Hはこの話を聞いて内心「やられた」と思いつつも「なんか(セックス)するのは悪いね」と言ってAに呉市まで送っていくことを約束し[38]、Aをタクシーの助手席に乗せ[50]、呉市(広島市中心街から約20 km先)方面へタクシーを走らせた[38]。
しかしその途中でHは「Aの言う通り所持金が10万円なら、自分の渡した2万円を足して計12万円あるはずだ。それだけあれば今月の借金の返済は賄える。身寄りのないよそ者なら殺して金を奪っても発覚しないだろうから好都合だ」と考えたが[38]、「窃盗を行い発覚すれば被害届を出されて逮捕される。しかし『身寄りが大阪にしかない』という話が本当ならば、殺して山に遺体を隠せば発見されないだろう。もし遺体が発見されても自分とは接点はないから、自分が疑われることはない」と考え[51]、最終的に「いっそ(Aを)殺して(金を)奪ってしまおう」と決意した[5]。呉市街地の街灯りが見えるようになったところ、Hは人気のない道に乗り入れて殺害現場の空き地でタクシーを停車し[38]、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Aを油断させる目的で、燃料切り替えスイッチの操作だけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを悪用してエンストを装った[52]。その上で後部座席にいた被害者Aに対し修理を口実に[52]「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから足元のシートをめくってくれ」と声を掛けた[6]。
22時50分、被害者Aが身をかがめて[6]後部座席に回ったところ[50]、Hはネクタイを緩めて運転席を降り、背後から被害者Aに忍び寄るとネクタイをAの首に巻き付けて絞めつけ、被害者Aを窒息死させて絞殺した[6]。Hは被害者Aを殺害した直後「咄嗟の判断でやったにしてはうまくいった」と思いながら[50]被害者Aの所持品を物色したが[5]、Aが所持していた現金は5万円[注 15]しかなかったため「嵌められた」と立腹した[6]。Hはその現金約5万円を奪った上で[5]、23時ごろにはタクシーにAの遺体を乗せたまま殺害現場を立ち去った[53]。そして約25 km離れた広島市安佐南区内(遺体遺棄現場)まで戻り[注 16][6]、翌日未明には身元判明を防ぐためにAの遺体から衣服を剥がして全裸にした上で、遺体を用水路土管内に遺棄した[53]。
HはAの遺体を遺棄後にタクシー会社まで戻って虚偽の運転日報を作ったが[注 17][5]、奪った金を遣って広島市中区内の繁華街で飲酒した後に自分の軽自動車を飲酒運転し、翌日(1996年4月19日)早朝には広島市中区流川の路上で駐車してあった原動機付自転車(原付)に衝突する物損事故を起こし、同日9時ごろに通報を受けて駆け付けた広島県広島東警察署管内交番の警察官がそのまま車内で寝ていたHを発見した[52]。Hは事情聴取できないほどに泥酔していたが、目撃者がいなかったことから飲酒運転が立証できなかったため立件されず、結局は交番がHの勤務先(広島市東区内のタクシー会社)に連絡し、上司にHを連れて帰らせた[注 18][52]。
1996年4月20日、Hは遺体遺棄現場に2回行き遺体がうまく隠されていることを確認した[5]。前述のように被害者AはHに「大阪在住」と話していたため、Hは「殺しても(身元は)発覚しないだろう」と考えていたが[55]、殺害から18日後の1996年5月6日に少女の遺体が発見され[36]、後述のように広島県広島北警察署(現:安佐南警察署)は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した[46]。遺体発見・身元判明をニュースで知ったHは「大阪の女じゃなかったのか」と驚き、同時に「自分の身辺に捜査の手が迫るかもしれない」と考えた[56]。それ以降は「(Aが自分と)同じ県内に住んでいたなら自分も疑われて逮捕されるかもしれない」と恐怖していたが[55]、やがて時間が経過するにつれてA事件の報道は少なくなっていた一方[注 19][5]、Hの周囲に警察の動きはなかったため、1996年7月ごろには[5]「警察の捜査能力にも限界がある。セックスを商売にしている行きずりの女なら自分と接点はないし、行方不明になっても捜索願は出ないだろうから自分が逮捕される不安はない」と安堵して自信を深めるようになっていた[56]。
B事件(第2の事件)
[編集]事件発生:1996年8月13日0時50分ごろ[5]
- 被害者:女性B(事件当時23歳・広島市安佐南区八木八丁目在住)[58] - 1985年(昭和60年)3月に安佐南区内の別の地区から事件当時の住居へ両親・妹弟計5人とともに転居し[59]、事件当時はスナックバーで勤務していた[56]。近隣住民によれば「挨拶をきちんとするさっぱりした性格」で夜間に出掛けることが多く[60]、1996年8月12日(事件当日)以降は行方が分からなくなっていたが[61]、家族から捜索願は出されていなかった[62]。
- 殺害現場:広島県広島市安佐南区八木・「太田川橋」(一級河川・太田川に架かる)橋付近[59][63]・路側帯[5]
- 死体遺棄現場:広島県広島市安佐北区白木町小越・関川(太田川水系三篠川支流)沿い斜面(広島県道46号東広島白木線の脇)[64]
A事件から約3カ月が経過した1996年8月になってもHの周囲には捜査の手が及ばなかったため、やがてHは「自分は絶対に警察になど捕まらない、悪運の強い特別な人間だ」という自信や「『他人の死をも支配できる』という一種の満足感・快感」を覚えるようになった[5]。しかしその一方で被害者Aから奪った金(5万円)は借金返済には充てず、その後も返済の努力をしなかったために督促状が自宅に届き、妻に借金の存在を知られてしまった[57]。やがて消費者金融の取り立てが深夜に及ぶほど厳しいものになったことから離婚騒動に発展し[32]、家族が消費者金融に対し貸付の停止を申し入れた[注 20][5][66]。これによりHは金融業界の「ブラックリスト」に載り借り入れができなくなったため[66]、不満が募って自暴自棄になっていた[5]。
1996年8月12日夜、Hは「自分と接点のない売春婦を殺害して所持金を奪おう」と計画した上で[67]、再び新天地の繁華街をタクシーで流しながら次の標的として「男から声を掛けられるのを待つ売春婦」を物色した[35]。「ホテルを出てから殺せばセックスもタダでできる」と考えていたHは新天地公園で見つけた被害者女性Bに声を掛け乗車させ[注 21]、車中で現金3万円を渡して安心させた上でラブホテルに入ったが、Bは「自分の父親は暴力団組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した[注 22][69]。Hは「それは怖いね」と返しながら被害者Bと性行為をし、翌日(1996年8月13日)になって2人でラブホテルを出るとコンビニに立ち寄り缶ビール・軍手を購入した上で山道に入った[70]。
1996年8月13日0時50分ごろ[5]、Hは「太田川橋」付近で[59][63]突然タクシーを停車し[70]、A事件の時と同じく燃料切り替えスイッチの操作でエンジンを停止させてエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Bを油断させた[52]。その上でBに「(この車は)よく故障するんだよ」と言って床のシートをめくるよう頼み[70]、軍手を嵌め被害者Bの背後からネクタイでBの首を絞めた[70]。Bは咄嗟に自分の首とネクタイの間に右手を差し込んで抵抗し[67]、「さっきの『父親がヤクザだ』という話は嘘だ。金は返すから許して」と命乞いしたが、Hはそれを聞き入れずにBの首を絞め続けて被害者Bを絞殺した[注 23][70]。Hは1時ごろにタクシーを発進させて遺体遺棄現場への移動を開始し[注 24][67]、被害者Bの遺体を物色して所持金52,000円を奪った上で[70]、2時20分ごろに[67]安佐北区白木町小越の関川沿い斜面でBの遺体を遺棄した[25]。
C事件(第3の事件)
[編集]事件発生:1996年9月7日23時50分ごろ(殺害時刻)[5]
- 被害者:女性C(事件当時45歳・長崎県諫早市出身・広島市中区宝町在住)[60] - 事件の10年前から宝町のマンションに住んでいたが、1996年9月上旬ごろから帰宅していなかった[60]。Hとは事件以前から顔見知りだったが[70]、1993年ごろにHの所持金を盗んだことがあり、Hからは悪感情を抱かれていた[注 25][71]。
- 殺害現場:広島県山県郡加計町穴(現:広島県山県郡安芸太田町穴)・国道191号の脇道[72]
- 死体遺棄現場:広島県山県郡加計町加計(現:広島県山県郡安芸太田町加計)・町道脇を流れる滝山川(太田川支流)左岸法面斜面[73][74] / コンクリート製の溝の中[74]
面識のない女性2人を相次いで殺害したHはB事件から日数が経過しても被害者Bの遺体が発見されなかったため「自分が警察に疑われることはない」と確信し[5]、1996年8月下旬ごろ以降は遊興費を入手するために女性を物色するようになったが[52][5]、このころから「人を殺すこと自体が極めて強い刺激となり、快感を感じるほど」になっていた[5]。1996年8月30日3時、Hは中区内で客待ちしていたところ、偶然通りかかった女性Cを見かけたが、この時は帰社時間が迫っていたため後日Cを殺害することにした[71]。
C事件当日(1996年9月7日)、Hは22時30分を過ぎても運賃収入が30,000円止まりで目標とした運賃収入50,000円に届かなかったため、不足分の運賃収入を補い、遊興費も稼ぐ目的で売春婦を殺害して金を奪うことを決意した[77]。23時ごろ、Hは広島市南区内[注 26]の路上でいつも客待ちしていた女性Cをタクシーに誘い入れ[注 27][80]、Cに「どこか遠くで遊ぼうか」と提案して3万円を渡し「タクシーの中でしてもいいかな?」と提案して承諾を得ると、途中でコンビニに立ち寄ってCに缶ビールを買わせた[79]。しかしHは以前から遺棄現場として考えていた加計町方面へ向かった一方、なかなかCと性行為をする気にはならなかった[80]。
1996年9月7日23時50分ごろ[5]、Hは真っ暗な山道にタクシーを停車して被害者Cに「俺は後ろからするのが好きだ。四つん這いになってくれ」と後背位で性行為をするよう求めた[79]。Hからの申し出を承諾した被害者Cは後部座席で背を向け、下着を脱いで腰を突き出したが、Hはネクタイ・ズボンのベルトを緩めて唸り声を上げながらCにのしかかった[79]。Cは危険を察知して振り返り、Hに「何をするの!」と叫んだが、Hはベルトを引き抜いて被害者Cの首に回して絞め上げ、激しい抵抗にも躊躇せずCを絞殺した[注 28][81]。その後、HはCの財布から[82]現金約82,000円を奪い[5]、9月8日0時10分ごろに遺体をタクシーに乗せたまま発進し、約1時間にわたり遺棄場所を探しながらタクシーで走行した[82]。最終的にHは殺害現場から約10 km離れた滝山川左岸の法面斜面に[73][74]被害者Cの遺体を遺棄し[72]、遺体発見を遅らせようと近くの農家から盗んだ青いビニールシートで遺体を隠した[65]。
D事件(第4の事件)
[編集]事件発生:1996年9月14日2時10分ごろ(殺害時刻)[7]
- 被害者:主婦D(事件当時32歳・広島市中区鶴見町在住)[83] - 加害者Hとは事件前に何度か遊んだことがある間柄で、Hからは「アイちゃん」の愛称で呼ばれていた[52]。事件6年前(1990年)に前夫と離婚したが、その前に生まれた娘2人とマンションで暮らしており、事件当時はナイジェリア人の男性と再婚していた[84]。
- 殺害現場:広島県広島市佐伯区五日市町大字上河内・広島県道41号五日市筒賀線路上(殺害現場)[85]。
- 死体遺棄現場:広島県佐伯郡湯来町葛原(現:広島市佐伯区湯来町大字葛原)・国道433号旧道東側法面(遺体遺棄現場)[86]
HはC事件後に「今までに3人も殺した以上はもし警察に逮捕されたら間違いなく死刑になる」と恐怖していた一方、被害者Aの遺体が発見されて以降は事件について続報がなく、B・C両被害者の殺害に関してはこの時点で発覚すらしていなかったため「俺は超人ではないか?絶対に捕まることはないだろう」と自信を持った[89]。また「自分には嫌疑が掛けられず、小遣い稼ぎもできる」という理由だけでなく、殺害行為に一種の快感を感じるようになっていたため、4人目に殺害する女性を探しながらタクシー乗務を続けていた[注 30][5]。
C事件から1週間が経過した1996年9月13日22時ごろ、Hは「3人殺そうが4人殺そうが大して変わらない」などと考えつつ[5]、広島市中区内でタクシーに(被害者Dとは別の)女性客を乗車させた[注 31][52]。一方で被害者女性Dは同じく22時ごろに中区銀山町の路上で目撃された後、14日0時前後に近所の知人女性へ封筒に入れた現金数万円を「物騒だから預かってほしい。朝には受け取りに来る」と預けていた[91]。Hは前述の女性客を約2時間待った末に見逃してしまったために売上金が少なく、目標の運賃収入に届かなかったため「今日中に売春婦を殺して金を奪いたい」と決意し[90]、偶然見かけた被害者女性Dを新たな標的に決めた[52]。Hは一度Dに声を掛けてタクシーに乗車させ、停車した車内で10分ほど話をしたが、缶ビールを購入するためにいったん車外に出てから車に戻るとDが姿を消していた[92]。Hは「逃げられた」と舌打ちしたが、日付が変わった1996年9月14日0時すぎにホテルの前で再び被害者Dと邂逅し、4万円を提示してDから性行為をする了承を得ると[注 32][92]、「今夜はちょっと遠くに行ってやろう」とタクシーを発進させ、殺害現場へ向かう途中でコンビニに立ち寄って被害者Dに缶ビール・つまみを購入させた[93]。そしてHはDを交通量がほとんどない佐伯区のダム付近で殺害することを決意し、その近くのラブホテル[注 33]で性行為をした[95]。
Hは1時50分ごろにDとともに2人でホテルを出ると[95]、タクシーの後部座席にDを乗車させて廿日市市方面へ向かい、1996年9月14日2時すぎに人気のない田舎道(殺害現場)でタクシーを停車した[96]。その上でA・B両事件の時と同じく燃料切り替えスイッチでエンジンを停止させてエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Dを油断させ[注 34]、Dに「足元のシートをめくってほしい」と申し出た[97]。そしてDが屈みこんでいる間にネクタイをほどいたところ、Dが顔を上げて「なんか怖い」と言ったため、HはDに笑みを浮かべながらネクタイを座席に掛けた[97]。しかしDが「一人で帰る」と言い出してタクシーのドアを開けて車外へ飛び出したため[注 35]、Hは「警察に駆け込まれたら終わりだ」と思ってタクシーを急発進させ、被害者Dを追いかけながら「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けたが、Dは走って逃げながらショルダーバッグから1万円札4枚(現金40,000円)[注 36]を取り出し「もうお金はいらないから」と叫びながらHに投げつけた[99]。これに逆上したHはタクシーを加速させて被害者Dの前に回り込むと、車外に出てDの行く手を塞ぎ、立ちすくんでいたDの襟首を掴み[100]、売春婦を脅すためにあらかじめ準備していた果物ナイフ(刃渡り約11 cm)[98]を被害者Dに突き付けた[注 37][100]。そしてDを後部座席に連れ込み、右拳でDの顔面を計10発近く殴りつけて失神させると[注 38]、Dの首をネクタイで絞めて殺害した[注 39][100]。
Hは被害者Dが所持していた現金約56,000円[注 40][85]・携帯電話を奪ったほか[61]、「タクシーの座席がDの血液・(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を天井側部の手すりに結び付け、遺体を首吊りの格好で天井に固定した状態でタクシーを移動させた[100]、そして2時40分ごろ[102]、Hは広島県佐伯郡湯来町葛原(現:広島市佐伯区湯来町大字葛原)の国道433号旧道沿い草むらに[87]Dの遺体を投げ捨てるようにして遺棄した[100]。Hは犯行後の14日4時ごろにタクシーで広島市東区内の会社へ戻り、タクシー後部座席の客用シーツを新品と交換した上で古いシーツを持ち帰り、自分の自家用車で帰宅した[18]。その後、翌日(1996年9月15日)も普段通り4時ごろに出勤して広島市内を中心に乗務していた[注 41][39]。
初動捜査
[編集]A事件発覚
[編集]A事件発生後・発覚前の1996年4月20日に被害者Aの母親がAの持っていたポケットベルへ発信したところ、居場所は明確ではなかったが応答があったほか、翌21日午後には海田警察署員が安芸郡海田町南部の路上[注 42]で被害者Aの定期券(呉市営バス)を発見した[103]。
1996年5月6日16時30分ごろ、広島市安佐南区沼田町大塚の林道沿い水路で[16]山菜採りをしていた近隣住民が全裸で倒れている女性の腐乱死体を発見して110番通報した[46][105]。広島県警察捜査一課・広島北警察署(現:安佐南警察署)は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始し、遺体発見現場の状況などから「車を使用した犯行」とみて不審な人物・車両の目撃者などを捜査した[46]。遺体の死亡時期は腐乱状況などから死後約1週間[16] - 6か月以内と推測され、遺体発見翌日(5月7日)の司法解剖でネックレス・左耳に着けたピンクのピアス[注 43]・歯の治療痕などが確認されたが、外傷確認・死因特定はできず、現場周辺を捜索しても身元特定の手がかり(着衣など)は発見できなかった[106]。
初動捜査で女性の身元を特定する手掛かりが発見できなかったため、1996年5月8日に広島県警(捜査一課・広島北署)は「捜査が長期化する可能性が高い」として捜査本部を設置し[107]、164人態勢で捜査に当たった[108]。捜査本部は同日に解剖・鑑定の結果「女性の血液型はO型」「盲腸には手術痕がある」と断定したほか、歯4本の治療痕に着目して広島県歯科医師会に対し「遺体の特徴に該当する患者がいるかどうか情報を提供してほしい」と要請したほか[注 44][108]、下側5番目の小臼歯2本について「先天性欠如歯」に該当する女性患者がいないかどうかを重点的に調べた[44]。
1996年5月13日になって「Aの母親」と名乗る女性の声で広島北署捜査本部に「娘がいなくなっている」と電話があったため、捜査本部が遺体の特徴などを調べたところ、血液型(O型)・身に着けていた装飾品(ネックレス・ピアスなど)が少女Aの特徴と酷似していた[109]。また捜査本部が少女A宅に残された指紋[41]・髪を遺体と照合したり[109]、虫垂炎の手術痕・胸のX線写真などを照合するなどしたところ[42]、翌日(1996年5月14日)に「遺体の身元は被害者A」と断定された[41][42][43]。
被害者Aの遺体は自宅・学校・アルバイト先から離れた場所で衣服を身に着けていない状態で発見されたため、捜査本部は「車などで運ばれて現場に遺棄された可能性がある」と推測し、被害者Aの交友関係を中心に聞き込み捜査を行ったが[41]、遺体発見当日までの足取りについて有力情報は得られなかった[110]。そのため広島北署捜査本部は被害者Aの写真が入ったチラシ6,000枚を製作し[111]、1996年5月31日からそのチラシを広島市内を中心に(Aが事件前に行った可能性がある)呉警察署・広警察署・海田警察署・西条警察署の各管内などに貼り出して情報提供を求めたが[110]、その後は有力な情報提供がないまま未解決事件となっており、後にHが自供した時点では迷宮入り寸前だった[2]。
D事件発覚
[編集]被害者Dが殺害されてから5時間後となる[100]1996年9月14日7時ごろ、広島県佐伯郡湯来町葛原(現:広島市佐伯区湯来町大字葛原)の国道433号旧道東側法面で近隣住民が犬の散歩をしていたところ、仰向けに倒れ死亡している若い女性の遺体を発見した[112][86]。遺体に目立った外傷はなかったが[87][113]、顔面に鬱血・首に絞められた痕が確認されたため[86]、広島県警捜査一課は殺人・死体遺棄事件と断定して廿日市警察署に捜査本部を設置して捜査を開始した[87][113]。
捜査本部が同日中に広島大学医学部で遺体を司法解剖して詳しい死因・身元などを調べた結果[87]、死因は「首の圧迫による窒息死」[注 45][86]、死亡推定時刻も「14日4時ごろ」とそれぞれ断定された[91]。また着衣の乱れが少なく死亡推定時刻 - 遺体発見時刻の間隔が短かったため[86]、捜査本部は「女性は他の場所(広島市かその周辺)で殺害されて車で現場へ運ばれた可能性が高い」[83]「14日未明 - 早朝に遺棄された可能性がある」と推測したほか[86]、犯人像を「地元の地理に詳しい人物で、被害者Dを遺体発見現場付近で殺害した可能性がある」と推測し[115]、現場周辺での聞き込みなどに全力を挙げた[86]。
その後、同日20時ごろになって女性Dの長女から広島県警へ「母親と連絡が取れない」と110番通報があったため[84]、広島県警がD宅マンションで採取した指紋と遺体の指紋を照合したほか、親類を立ち会わせて「遺体の身元は被害者女性D」と断定・確認した[83]。身元確認を受けて捜査本部が「被害者Dの13日夜 - 14日未明にかけての足取り・交友関係」について捜査を開始したところ[116]、「13日22時ごろに中区銀山町(D宅から北約1 km)のホテル近くの路上でDらしき女性を見た」「14日0時ごろに中区弥生町の路上で目撃した」という目撃証言が寄せられた[83]。また捜査本部は1996年9月15日9時30分から遺体発見現場周辺にて約100人態勢で遺留品などを捜索したが[116]、被害者Dが普段持ち歩いていたセカンドバッグは遺体周辺では発見されなかった[84]。その後、Hが取り調べに対し「被害者Dのバッグは湯来町峠の国道433号沿い山林(遺棄現場から約2 km南方)に捨てた」と自供したため、9月24日に廿日市署員ら36人が同地周辺で遺留品を捜索したが[117]、Dの遺留品は10月10日までに発見されなかった[118]。
逮捕・起訴
[編集]逃亡・D事件で逮捕
[編集]Hは犯行を重ねるにつれて次第に金を奪うことよりも殺人への快楽に惹かれるようになり[5]、一連の連続殺人は事件を重ねるごとに間隔が短くなっていたが[119]、4人目の被害者(女性D)の遺体発見が事件解決のきっかけになった[5][119]。Dの遺体が確認された直後に「14日1時ごろ、被害者Dが遺体発見現場付近(かつHの自宅付近)でHと一緒にいた」という目撃証言が捜査本部に提供されたほか[注 46][115]、ホテルへの聞き込み捜査の結果により[1]「被害者Dは14日未明に(事件2, 3年前から親しくしていた知人である)Hとともに佐伯区内のホテルに投宿していたこと」[73]「2人はその後、Hのタクシーでホテルを出ていたこと」が判明した[1]。広島県廿日市警察署捜査本部は以下の点からD殺害を被疑者Hの犯行と断定し[121]、1996年9月18日に殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hの逮捕状を請求した[122][123]。
- 「被害者Dの死亡推定時刻(4時ごろ) - 遺体発見時刻(7時ごろ)が近接しており、遺体発見現場はH宅から直線距離約5 kmにある。また遺体は服装の乱れが少なかったため『被害者Dは土地勘のある人物により、発見現場付近の車内で殺害された』と推測できる点」[115]
- 「被害者Dが行方不明になる直前に知人のHに会っていた点」[10]
- 「被疑者Hは遺体発見現場周辺の状況に詳しいとみられる一方、事件後に行方が分からなくなっている点」[115]
一方でHはD事件発覚翌日(1996年9月15日)にも広島市内などで乗務していたが[18]、捜査が間近に迫ったことを察知し[22]、1996年9月16日には九州方面への逃走を開始した[注 47][5]。Hはその後帰宅せず勤務先のタクシー会社にも連絡を入れなくなり[124]、逃亡翌日(1996年9月17日)にはタクシー会社から解雇された[23]。
一方で捜査本部はD事件発覚から1週間となる1996年9月20日までに「(県外を含め)被疑者Hが立ち回る可能性のある場所」の特定を急ぐとともに、被害者DがHと接触するまでの行動や「D・Hには互いに面識があったか否か」などの点について詰めの捜査を行っていた[124]。Hは出身地の九州各地を転々とした後[23]、20日にいったん広島市内の自宅へ帰ろうとしたが、そこで警察官が張り込みをしていたために断念して再び九州への逃亡を目論み[5]、同日夜に広島市中区幟町の路上で盗んだ乗用車により逃亡しようとした[23]。しかし1996年9月21日早朝4時30分ごろ[注 48]に山口県防府市富海の国道2号で乗用車を運転していたところ[23]、山口県警察が実施していた交通検問[注 49]を無視して強行突破しようとしたため[126]、検問に当たっていた防府警察署員から約10 km追跡され[23]、行き止まりまで追い詰められた末に防府署まで任意同行させられた[126]。その後、車が同日未明に盗まれた盗難車であることが判明したため[126]、被疑者Hは5時25分ごろに窃盗容疑で防府署に逮捕された[125]。この逮捕後、被疑者Hは妻と離婚した[25][2]。
1996年9月21日、被疑者Hが捜査本部によるD事件の取り調べに対し「被害者Dとは2, 3年前から知り合いだった。金銭上トラブルから遺体遺棄現場付近で首を絞めて殺した」と供述したため[126]、捜査本部は同日11時過ぎに被疑者Hを被害者D殺害事件における殺人・死体遺棄容疑で逮捕し、身柄を廿日市署へ移送した[125]。廿日市署は同月23日に被疑者Hを殺人・死体遺棄容疑で広島地方検察庁へ送検した[127]また前述のようにHはD事件後(9月15日)にタクシー後部座席の乗客用シーツを外して自宅に持ち帰っていたほか、Dの遺体の顔には血液の付着した傷があったため、捜査本部は「Hは後部座席でDを絞殺したが、その際にシーツに血痕が付着したため、それを隠そうとした」と推測した[114]。
一方でHはD事件の取り調べを受けていたところ、捜査員に対し自ら「D事件とは関係ない地名・日時」を口に出したため、捜査員がその言葉について追及すると次第に話の辻褄が合わなくなり、さらにその点を追及されたHは新たに別の被害者女性3人の殺害を自供した[128]。この点について捜査本部は「Hは短期間に犯行を重ねたため、場所・時間の記憶が混乱して証言に矛盾をきたした」と推測したほか[128]、Hは後に検察官から取り調べを受けた際に(この時点でまだ遺体が発見されていなかった)B・C両被害者の遺体遺棄現場などを自供した理由について「刑事から『他に隠していることはないか?』と訊かれたので『警察は既に遺体の在処を把握している。自分の情状のために自分から言うのを待っているのだろう』と思ったが、(被害者が)4人になることを話すのはあまりにもセンセーショナルなので、自分なりに自供する時期について迷った」と供述していた[129]。被告人Hの供述が結果的に早期の事件解決のきっかけとなったが、本事件を取材した作家・祝康成(現:永瀬隼介)は「この動機は被告人Hの何ともお粗末な勘違いだ。被告人Hの『卑しい自己本位の性根』が透けて見える言葉だ」と非難している[121]。
C事件発覚
[編集]その後、被疑者Hは捜査本部の取り調べに対し「1996年8月中旬の夜、仕事中に広島市中区流川の路上で被害者Dとは別の女性をタクシーに乗せた。その後、約30 km離れた山県郡加計町(現:安芸太田町)加計までその女性を連れて行き、首を絞めて殺害し山中に遺体を遺棄した」と自供したため[73][74]、1996年10月1日に捜査本部が加計町加計の山中にて滝山川(太田川支流)法面を捜索したところ白骨死体(死後・推定3週間 - 半年)が発見された[130]。
Hは動機などについて以下のように自供し「被害者女性とは2,3年前から面識があった」とも供述したが[78]、「女性の住所・氏名は知らない」とも供述したため[73][76]、捜査本部は「Hは『広島市繁華街で顔見知りの女性をタクシーに乗せて人気のない郊外で首を絞める』という手口で2人を殺害した」との見方を強めた[76]。
またHは自分に不利な供述にも拘らず「もう1人殺して捨てています。ご案内します」と現場の地図を丁寧に描いたほか、被害者の似顔絵作成も自ら手伝っていた[2]。捜査本部はその供述を基に作成した女性の似顔絵や着衣などを公開し[76]、行方不明者名簿などから遺体の身元特定を進め[73]、1996年10月3日に遺体の身元を(女性Cと)ほぼ特定した[78][131][132]。そして裏付け捜査[注 50]に加え、Hに被害者Cの顔写真を見せて「間違いない」との供述を得たため[133]、翌4日には遺体の身元を女性Cと断定・発表した[60]。しかしCと同居していた男性による「Cは9月上旬からいなくなっていた」という証言が被疑者Hの「8月中旬ごろに殺害した」という供述と矛盾したため、捜査本部はさらに被害者Cの足取り・殺害時期・動機などを追及した[133]。またその後の捜索でCが持っていたとみられるバッグなどが加計町内で発見されたが、財布・現金は入っていなかった[61]。
捜査本部は被疑者Hが被害者Dへの殺人・死体遺棄容疑で起訴されてから改めてCへの殺人・死体遺棄容疑で再逮捕する方針を決め[133]、10月15日に再逮捕した[134][72]。
別の殺人疑惑
[編集]なお被害者Cの遺体発見現場(加計町の山中)から北西約30 kmに位置し同現場と国道191号で結ばれた島根県美濃郡美都町宇津川(現:益田市美都町宇津川)の山中では[135]、1996年8月27日に国道191号沿いのガードレール下で[25]身元不明女性の腐乱した他殺体が発見されていた[135]。C事件発覚当時、この事件は島根県警察が益田警察署に捜査本部を設置して殺人・死体遺棄事件として捜査していたが[25]、Hによる一連の事件と同じく国道191号沿いの斜面に遺棄されるなど共通点が見られたため[135]、広島県警廿日市署捜査本部が「Hによる連続殺人事件と何らかの関連性がないか?」と関心を寄せていたほか[25]、島根県警側も「同事件の被害者が広島県内の女性である可能性もある」と推測して捜査員を広島県警へ派遣し、相互に情報交換を行いつつ捜査を進めていた[136]。
しかし被疑者Hはこの事件について「その事件は知っているが、自分はやっていない」と供述して関与を否定したほか[25]、Hの犯行として立件された4事件ではいずれも被害者の遺体が「水路もしくは道路と河川の間の法面」に放置されていた一方、島根の事件では河川のない崖に遺棄されていた[118]。そのため廿日市署捜査本部は「Hが関与した可能性は低い」と判断し[118]、結局はその後の捜査で「同事件はHによる連続殺人とは無関係」と判明した[注 51]。
A・B事件自供
[編集]B事件発覚
[編集]C・D両事件で追及された被疑者Hは1996年10月4日 - 5日にかけ[18]、新たに3・4件目の殺人(=第1・第2の殺人 / A・B事件)を自供することとなった[135][63][142][25]。これにより、一連の連続殺人事件は過去にあまり例のなかった「女性を狙った連続殺人事件」の様相が濃厚となった[注 52][25]。
捜査本部がHの供述に基づいて10月5日夜に広島市安佐北区白木町小越の山中を捜索したところ、県道脇を流れる関川沿いの斜面から[64]Hの自供通り新たに若い女性(後に女性Bと判明)の白骨遺体が発見された[136]。女性Bの知人から情報提供があったことに加え、歯の治療痕・着衣もいずれもBのものと判明したため[143]、捜査本部は10月8日に「白骨遺体の身元は女性B」と断定・発表した[143][59]。この時点でA・C・Dの3被害者は既に身元が判明していたため、これをもって被害者4人全員の身元が判明した[62][58]。被疑者Hは同事件(B事件)の経緯・動機について以下のように供述した[136]。
- 「今年7月中旬か8月中旬に広島市中区の繁華街(新天地)で営業走行中に声を掛けてタクシーに乗せ、安佐南区内の太田川橋付近に停車したタクシー車内で首を絞めて殺し遺棄した。金が欲しかったからやった」[136]
- 「女性は自分とは面識はなく、タクシー車内で『安佐南区八木か安佐北区可部地区に住んでいる』と聞いていた」[144]
それまでに判明していたC・D両事件が「顔見知りの30 - 40歳代女性」を狙った犯行だった一方、A・B両事件ではHと面識のない若い女性が殺害されたため[18]、本事件は「幅広い女性を標的とした連続殺人事件」であることが判明した[注 53][136]。捜査本部は11月6日にB事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕し[145]、11月8日に広島地方検察庁へ送検した[146]。
A事件自供
[編集]またHは「1996年4月18日ごろ、若い女性(=被害者少女A)を殺害して己斐峠周辺に遺体を遺棄した」と供述したが[注 54]、遺体で発見されていた被害者Aは4月18日以降に消息が分からなくなっており[136]、その時期がHの自供した殺人の時期と一致することに加え[104]、遺体発見現場も己斐峠に近かった[注 55][136]。
また(道路脇に遺体を遺棄するなど)犯行手口がそれまでに判明した3事件と共通していたほか[63]、B・C・Dの3被害者は広島市中心部の繁華街でタクシーに乗車させられていた点が判明していたため、捜査本部が被疑者Hを「被害者Aもタクシーに乗車させて殺害・遺棄したのではないか?」と追及したところ、Hは「4月18日夜に中区新天地の公園付近で被害者Aをタクシーに乗車させた」と供述した[147]。そのため捜査本部はHの供述を総合して「Hはタクシーに乗せた直後に被害者Aを殺害した可能性もある」と推測し、タクシーの検証などにより走行経路・殺害方法などを調べた[147]。一方で他3人の被害者の遺体とは異なり、Aだけが一部の装飾品を除き衣服を身に着けていなかったため、捜査本部は「被害者Aは最も早い時期に殺害されたため、初めての犯行に動揺したHが身元をわかりにくくする目的で着衣を脱がせた」と推測した[注 56][147]。
これに加え、被害者Aの通学定期券(呉市営バス)がAの通学経路から外れた海田町内(広島市中心部 - A宅への経路上)で発見されていたため、捜査本部は「加害者Hが被害者Aをタクシーに乗車させて通ったか、所持品を捨てるなどした可能性がある」と注目し、裏付け捜査の鍵としてHを追及したほか[104]、Hの供述に基づき被害者Aの遺体が発見された水路から南に数 km離れた山林内でAの遺留品(バッグ・化粧品など)を発見した[148]。
捜査本部は12月4日にA事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕し[149][45]、1996年12月14日にはHの供述に基づき遺体遺棄現場を検証した[150]。
詰めの捜査・起訴
[編集]遺体遺棄現場がいずれも直径35 km以内に点在していたため、捜査本部は「Hはプロのタクシー運転手として土地勘を利用し、人目に付きにくい場所を選んで遺体を遺棄した」と推測したほか[18]、加害者Hから取り調べの結果「C・D事件は金銭関係のトラブルが動機で、B事件についても金が動機だった」との供述を得た[25]。特に被害者DについてHは「殺害後に財布から現金を奪った」などと自供したため[147]、捜査本部は強盗容疑でも立件すべく捜査を進め[136]、その裏付けのためDが持っていたバッグの発見を急いだ[147]。
その一方で加害者Hは「被害者4人とも首を絞めて殺害した」と供述したが、遺棄直後に発見された被害者Dを除き遺体は白骨化・腐敗しており死因が特定できなかったため、捜査本部は供述を裏付けるため凶器の特定捜査・所持品捜索を続けた[118]。また被害者から奪った金額は合計しても24万円程度だった[注 1]ことに加え[9]、「若い女性(A・B)が多額の現金を持っていることは考えにくい」ため、捜査本部は「新天地の公園付近にいた被害者2人をいたずら目的で誘った後、トラブルが起きた可能性がある」と推測して動機を精査した[118]。その後、広島地検は以下のように被告人Hを強盗殺人・死体遺棄罪で広島地方裁判所へ起訴した。
刑事裁判(広島地裁)
[編集]初公判・証拠調べ
[編集]1997年(平成9年)2月10日に広島地方裁判所刑事第2部(谷岡武教裁判長)で被告人Hの初公判が開かれた[157][158][159][5][52][160][161][27][162][163]。
検察側(広島地検)は冒頭陳述で事件の経緯などを詳述した上で[157][159][5]、以下のように各犯罪事実を主張した。
- 被告人Hは「妻に消費者金融からの借金を知られたくない」と思う一方で「夜の繁華街で遊びたい」という相反する欲望から約350万円もの借金を抱え[27]、遊ぶ金欲しさに繁華街で知り合った女性を狙った[162]。
その上で、被告人Hが約5カ月間に4人の女性を次々と大胆に殺害した連続殺人の心理については以下のように主張した[157]。
- 警察の捜査能力にも限界があり、被告人Hは「自分は絶対に逮捕されない悪運の強い特別な人間だ」と思い込むようになった[157][159]。
- 街で声を掛けた女性を殺しても「自分と(被害者との間に)接点がなければ検挙されない」という点から、(B事件以降は)「他人の死をも支配できる」という一種の満足感・快感を覚えた[157][159][5]。
- (A・B・D各事件の手口について)燃料切り替えスイッチを操作するだけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを利用し、修理を口実に後部座席に移動した上で後部座席にいた被害者に「足元の配線を見てほしい」と言い、エンジンの仕組みを知らない被害者を油断させ、無防備な前かがみの姿勢になったところを背後から首を絞めるなど、巧妙な手口を使って犯行に及んだ[52]。
また検察側は、被害者Dの2人の娘が「今でも涙が出てくる。母を返してほしい」と話していたことや[27]、Dを殺害する直前には別の女性1人の殺害も計画し、広島市中心部でその女性を待ち伏せたことも明らかにした[159][5]。
被告人Hは罪状認否で谷岡裁判長から起訴事実に関する間違い・反論について聞かれると「間違いはありません」と答え[157]、4件の強盗殺人・起訴事実について全面的に認めた[157][158][159][164]。そのため弁護人は刑法第39条に基づき心神喪失・心神耗弱による無罪・死刑回避を狙う以外の手段がなくなり[164]、同日の公判で「被告人Hは事件当時、完全な責任能力を有していたか疑問だ」と主張して被告人調書を証拠採用することを留保した上で[27]、精神鑑定申請も視野に入れて責任能力の所在を争う姿勢を示した[27]。
1997年4月23日に第4回公判が開かれ[165][166][129]、同日の公判で検察側は「被告人Hは『殺害した被害者4人・待ち伏せした女性1人とは別の女性2人の殺害も考えていた』と供述している」とする検察調書を明らかにした[166][129]。
- その検察調書によると被告人Hは逮捕直前の1996年8月 - 9月ごろにかけて被害者4人・およびD事件直前に待ち伏せされた女性1人とは別に[165]、広島市内の繁華街にいた顔見知りの女性2人を強盗殺人の対象として考えていたが[129]、途中で見失うなどしたために断念した旨を供述した[166]。
- またこの検察調書では被告人HがD事件で逮捕された際、まだ遺体が発見されていなかったB・C両被害者について遺体を遺棄した場所などを自供した理由や[129]、被告人Hが「被害者遺族は一刻も早く死刑になることを望んでいると思うが、自分も当然だと思う。潔く裁判を受け、刑に服することが唯一の償いだと思う」と供述していたことも新たに判明した[166]。
- 同日から被告人質問も始まり、弁護人が被告人Hに対し生い立ちなどについて質問した[165]。
1997年5月21日に第5回公判が開かれ、被告人質問が行われた[37]。弁護人側が被告人Hに対し犯行に至るまでの経緯などを質問したところ、被告人Hは「検察側主張においては妻の病気・借金によるストレスなどが動機とされているが、そうではなく『自分が前向きな人間ではなかったから』だ。1995年10月に妻が入院し、その後も病気がちだったために自分は酒に溺れ、サラ金に手を出した。その結果積み重なった借金がさらにストレスの源となり、更に酒浸りになる悪循環に陥った」と証言した[37]。その上で、最初のA事件当時について「当時は借金が350万円に膨れ上がり『自分の行動が周囲を不幸にしている。人生の生き地獄だ』と思い、自殺も考えた。殺人を犯した当時は正常な判断ができず『自分ではない』ような感じがした」と述べた[37]。その後、1997年6月18日には第6回公判が開かれた[37]。
精神鑑定実施
[編集]弁護人側は「検察側は『金銭目当ての犯行』を主張しているが、被害者4人とも奪った額は数万円程度で、普通はこの程度の額のために強盗殺人を犯すとは考えられない」と主張し、1997年10月30日付で[167]「動機がはっきりとしないため責任能力の有無を問いたい」として広島地裁に対し被告人Hの精神鑑定を行うよう請求した[168][169][167]。
これを受けて1997年11月5日の第10回公判で[170][171]広島地裁(谷岡武教裁判長)は弁護人側による精神鑑定請求を認める決定をした[172][170][171][168][169][167]。広島地裁はこの理由について「犯行の動機に曖昧な点があり、事件当初の精神状態を調べる必要性がある」[172][170]「各犯行状況を鑑みてその動機をはっきりさせるためにも精神鑑定が必要だ」と説明した[172][167]。弁護人側による申請に対し、検察側は犯行動機について「遊興費など借金返済に窮した末の自暴自棄な犯行であることは明白だ」と異議を唱えたものの、精神鑑定の決定そのものには異議を唱えなかった[170]。
この決定により審理は一時中断し[173]、広島地裁が精神科医・山上皓(当時・東京医科歯科大学教授)に依頼して精神鑑定を実施した[174][175]。精神鑑定では「被告人Hの事件当時の精神状態」に加え「被告人Hが殺人に至った動機」についても解明が試みられ[176]、精神鑑定を担当した山上は以下のように結論を出した[174][175]。
- 被告人Hは「男性としての自信に欠けた」とする挫折感を抱き「暴力犯罪の空想などで強い男性像を示したい」という性癖があり、犯行はこの空想を実行に移したものである[177]。
- 被告人Hの挫折感は「青春時代に経験した大学受験の失敗などの挫折」に端を発しており、そこで自分自身に失望した反面で絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており「自分の力を証明する方法」として女性を殺害することを思いついた[176]。
- 被告人Hは一時期「神経症的な葛藤が高まったり、気分の高揚した状態で刹那的な行動を繰り返す」など「通常とは異なる精神状態」だった可能性がある[178]。その人格には著しい偏りがあるが「責任能力に影響を及ぼしうるような病的なもの」とはみなされない[178][174][175]。
1999年(平成11年)2月24日に広島地裁(谷岡武教裁判長)で第11回公判が開かれ[178][177][174]、約1年3か月ぶりに公判が再開された[178][177][175]。また同日の公判で精神鑑定の結果が報告・提出され[178][177][174][175]、検察側・弁護人側とも鑑定書の証拠採用に同意したが[178]、弁護人側は同日に「鑑定書には疑問点や確認したい点がある」として[174]山上の証人申請をした[178][174]。
死刑求刑
[編集]1999年10月6日に広島地裁(戸倉三郎裁判長)で論告求刑公判が開かれ、広島地検は被告人Hに死刑を求刑した[17][179][180][181][182][183]。広島地検・地裁管内における刑事裁判で死刑求刑事例は福山市独居老婦人殺害事件(1992年3月発生・1994年6月に求刑)以来約5年半ぶりで、中国地方全体でも1998年12月(岡山県赤磐郡山陽町の団地で発生した4人殺傷事件)以来だった[179]。
論告で検察側は以下のように主張して被告人Hの犯行を非難したほか、広島地検次席検事・片山博仁は『中国新聞』(中国新聞社)記者の取材に対し「法定刑が死刑か無期懲役しかない強盗殺人罪が適用される本事件において、全ての事情を考慮しても死刑以外に選択の余地はない」と明言した[179]。
- 被告人HはA事件以降も金銭強奪などを目的に犯行を重ねるうち、自分に捜査の手が及ばなかったことから「俺は警察に捕まらない悪運の強い特別な人間だ」と無根拠な自信を深め、「他人の死をも支配する一種の満足感・快感」を抱くようになった[179]。その上で遊興費などを得ようとさらに女性を物色して次々に3人を殺害・遺棄した[183]。
- 落ち度のない被害者4人を次々に殺害した自己中心的かつ犯罪史上稀に見る残虐な事件で、被告人に矯正の見込みはない[182]。
- わずか5か月間に4人もの被害者女性を殺害した凶悪な犯行で社会的影響・被害者遺族の精神的打撃は大きく、犯行動機の悪質さ・殺害方法の残虐性などを考慮すると自らの生命をもって償うしかない[179]。
被告人Hは公判閉廷後に収監先・広島拘置所内で行われた職権面接において「死刑求刑は当然だ」などと述べた[184]。
最終弁論・結審
[編集]1999年11月10日の公判で弁護人による最終弁論が行われて結審した[185][186][187]。弁護人側は以下のように主張して情状酌量による死刑回避を訴えたが[185][186][187]、その主張は自ら死刑を望んでいた被告人Hの希望に反するものだった[188]。
- 被告人Hは最初の犯行の際、妻の病気・消費者金融からの借金の返済などで精神的に極度に追い詰められ自暴自棄の心理状態にあった[185][187]。完全責任能力を認めた精神鑑定結果・検察側主張には疑問がある[185]。
- 被告人Hは幼少期の家庭環境にも恵まれておらず被告人1人の責任とは言えない[185]。被告人Hは捜査・公判とも誠実に協力しており、求刑通りの死刑判決は重すぎて量刑不当であり、情状酌量により死刑適用を回避するのが相当である[185][189][190]。
最終弁論後に[191]最終意見陳述が行われ[186][187]、被告人Hは涙を流しながら以下のように懺悔の言葉を述べ[19]、自ら死刑を希望する意思を示した[188][185][187][192][189][190]。
- 「自己中心的な考え・困難に立ち向かう勇気のなさ・命の尊さへの無理解から引き起こした犯行で一切弁解の余地はない。(求刑通り死刑判決を受けることで)一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい」[185]
- 「(死刑判決の)確定で、執行まで死の恐怖と向かい合うことで「被害者の恐怖・苦痛の何分の一か」を味わいたい。『自分はいったい何のためにこの世に生まれてきたのか、どのような生き方をしてきたのか』を考えると辛く悲しい気持ちでいっぱいだ」[193]
祝康成(現:永瀬隼介)の評価
[編集]本事件の刑事裁判を取材していた作家・祝康成(現:永瀬隼介)は同日の公判で開かれた最終弁論・最終意見陳述を傍聴しており、その後広島拘置所に収監されていた被告人Hから手紙を受け取った[193]。一貫して弁護人以外との面会を拒否していた被告人Hが永瀬に手紙を送ったのはこの時だけだったが、Hはその手紙に「(逮捕されてから)これまでの3年間は何百回と想い悩み苦しみ、眠れない夜もたくさんあったが、今はもう何も申し上げることはない。これまでは担当の弁護士以外の誰とも面会・文通などの交流はしておらず、今後もお願いするつもりはない」と綴っていた[194]。
永瀬は後に市川一家4人殺害事件の犯行当時少年の死刑囚を取材したノンフィクション『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で「市川一家4人殺害事件の死刑囚は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている[19]。
死刑判決
[編集]2000年(平成12年)2月9日に判決公判が開かれ[192]、広島地裁(戸倉三郎裁判長)は検察側(広島地検)の求刑通り被告人Hに死刑判決を言い渡した[11][26][195][196][197][198][199][189][190][200][9][201][202][203]。
死刑判決を言い渡す際は判決主文を後回しにして判決理由から先に読み上げる場合が多いが、戸倉裁判長は異例の冒頭主文宣告を行った[注 57][198][199][200]。広島地裁は主文言い渡し後に朗読した判決理由にて以下のように厳しく各情状を指摘した上で[200]、量刑については「被告人Hは反省の情を示しているが刑事責任は極めて重い。死刑が人の命を奪う究極の刑罰であることを十二分に考慮しても、もはや極刑で臨むしかない」と結論付けた[200][9]。
- 「教師を目指していた被告人が『大学受験の失敗・結婚後の妻の病気へのストレス』から『行き場のない挫折感』を募らせていった境遇には同情の余地があるが、わずかな金を奪うため人の生命を奪ったのはあまりにも短絡的で最大限の非難に値する」[200]
- 「犯行は冷酷非情で被害者の無念さは想像を絶する」[189][190]
- 「短期間に4人の命を奪った稀に見る凶悪事案だ。計画性は明白で酌量の余地はない」[9]
判決を言い渡した後、戸倉は被告人Hへ「被害者・遺族に対する謝罪の気持ちは心の底から出たものと信じている」[199]「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」[200][9]と説諭した。
甲斐克則・広島大学法学部教授(刑法)は『読売新聞』2000年2月10日大阪朝刊広西北版記事中にて「『最高裁が死刑適用に慎重になっている流れ』に逆行するものだ。確かに犯行は悪質で被害者側の感情は察するに余りあるが、この判決は自首の成立・犯行後の改悛の情を認めており、『永山基準』などそれまでの判例が示した死刑適用基準をすべて満たしているかどうか疑問だ」と述べ、判決に疑問を呈した[199]。一方で藤田浩・広島経済大学経済学部教授(比較憲法)は同記事中にて「死刑は不可逆的な刑罰ではあるが、今回の事件では被告人の自供もあり冤罪の可能性は低い。犯行の悪質さ・被害者感情などを考えると死刑はやむを得ないのではないか」と評価した[199]。被告人Hは同日、収監先・広島拘置所に戻った直後に行われた職権面接において「判決を聞いたら足が震えた」「本日、こうして無事に判決の言い渡しを受けることができたのも、ひとえに(広島拘置所)職員の皆様のおかげであり、深く感謝しております」「控訴はせずに(死刑確定)判決を受け入れることになりますが、職員さんには絶対に迷惑をおかけするようなことはいたしません。死刑執行までの長い間お世話になりますが、今後ともよろしくお願いいたします」などと述べた[184]。
控訴せず死刑確定
[編集]情状酌量による死刑回避を求めていた弁護人は判決後に『朝日新聞』(朝日新聞社)記者の取材に対し「予想されたとはいえ厳しい判決だ。控訴するかどうかは被告人Hと早急に接見して決めたい」とコメントした[200]。被告人Hは公判後に収監先・広島拘置所で弁護人・二国則昭弁護士らと面会したが[204]、その際に広島高等裁判所への控訴をしない意思を伝えたため、弁護人らは控訴を断念する方針を決めた[204]。
被告人Hは控訴期限の2000年2月24日0時までに広島高裁に控訴する手続きを取らなかったためそのまま死刑判決が確定した[12][205][206][207][208][209]。この時点で最高裁判所広報課が調査した結果によれば、1989年から1999年までの11年間で第一審・地裁段階にて言い渡された死刑判決は全国で約50件だったが、そのうち被告人が控訴せずに死刑が確定した事例は確認できる限りで3件しかなかった[12][205]。
死刑執行まで
[編集]死刑判決が正式に確定した直後の2000年2月25日、死刑囚Hは収監先・広島拘置所にて同日から「未決者処遇」より「死刑確定者処遇」に移行することなどを拘置所職員から告げられると、直立不動の姿勢から一礼して「今後とも、よろしくお願いします」などと述べた[184]。その直後の2000年3月3日に「心情などの把握」などを目的に行われた拘置所長との所長面接において、死刑囚Hは以下のように述べた[184]。その態度は終始冷静で、後に足立修一弁護士が起こした#国家賠償請求訴訟判決では「礼儀をわきまえて明るく振る舞っていたが、涙を流す場面もあった」と事実認定された[184]。
- 「自殺などで(拘置所職員の皆さんに)迷惑をかけるようなことは絶対にしません。本音を言うと、本番(死刑執行の時)で今のような冷静な気持ちでいられるか心配です。『ぐでんぐでんになるのではないか』とも思いますがよろしくお願いします」[184]
- 「(残された)娘のためにも下手なことはできません。きっぱりと逝くのが娘のためとも思っています。去年(1999年)の中頃までは“むすめ”の“む”の字を言われただけでも涙が出ていたが、今ではそんなことはありません。(娘は)『少し大人になったのかも』と思います。娘のことを考えると、気が狂いそうになったこともありましたが…。(娘は)小学校1年生になりますが、将来、父親を意識し出した時、誰かが『父はきっぱりと立派に旅立った』と言ってもらえるのではないかと思ってます」[184]
- 「民間人との新たな人間関係は持ちたくありません。自分は頑固なところがあります」[184]
- 「判決の時、キンタマが縮み上がりました」[184]
前述の所長面接から1週間後の2000年3月10日、死刑囚Hの元国選弁護人だった弁護士2人が広島拘置所に赴き、死刑囚Hとの接見を申し入れた[184]。これに対し広島拘置所長は「死刑判決が確定したため、弁護士2人と死刑囚Hは既に何の関係もなくなっているが、死刑囚Hが長期にわたり世話になった弁護士であれば心情安定につながり処遇上有益であろう」と判断し、死刑囚Hに接見の意思確認を行った上で同日9時22分から8分間、拘置所職員の立ち合いの下で特別面会として接見をさせた[184]。この接見の際、死刑囚Hは弁護士2人に対し「これでお会いすることはご遠慮願います。お世話になりました」と述べており、その後は2006年12月14日に国賠訴訟の原告・足立修一(広島弁護士会所属の弁護士)が接見を拒否されるまでの間、死刑囚Hは弁護士との接見・信書の授受をしたことはなかった[184]。なお2002年(平成14年)2月9日には別の弁護士が死刑囚Hに来信を行ったが、これは拘置所長により「親族以外のものからの来信」として不許可とされたため、その信書は死刑囚Hには届かなかった[184]。
死刑囚Hは2005年(平成17年)8月18日に広島拘置所長宛てに「今後、書信およびパンフレットなどは、親族からのもの以外は全て受け取りを拒否する」との願箋を提出したほか、死刑執行2か月前の2006年(平成18年)10月16日には担当者に「心の悩み」として「居室が変更になってから何もやる気がしない。請願作業にも身が入らないし教誨も休みたい」などと申し述べた[184]。死刑執行11日前の2006年12月14日、後述のように足立が「死刑囚Hに再審請求・恩赦出願を行う意思があるかどうかを確認するため」として収監先・広島拘置所に接見を申し入れたが拒否され(#国家賠償請求訴訟の節を参照)、その5日後の12月19日(死刑執行6日前)に広島拘置所処遇部上席統括矯正処遇官(第二担当)の刑務官(「第二統括」)が「死刑囚Hの心情を把握する目的」で面接を実施した際、死刑囚Hは以下のように述べた。
- (10月16日に「何もやる気がしない」などと悩みを吐露したことについて)「現在はずいぶんよくなりましたが、自分でいったんは『頑張ります』と公言した以上、弱音は言いません」[184]
- (「2005年8月に『親族以外からの親書受け取りを拒否する』旨の願箋を提出した後、気持ちに変わりはないか?」との質問に対し)「その後も自分の気持ちに変化はありません。たとえ弁護士が面会に訪れても一切会いませんし、弁護士から手紙が来ても受け取りを辞退します。弁護士からの再審請求および恩赦に関することについての問い合わせも拒否します」[184]
一方で足立は面会を拒否されたことを受け、死刑囚Hとの面会を実現するための足掛かりにしようと[注 58]12月18日に死刑囚H宛へ恩赦請求の委任状・再審請求のための弁護人選任届の要旨および回答書・返信用封筒を同封した手紙を速達で送付した[211]。この手紙は翌19日9時過ぎに広島拘置所へ着いたが、21日午前に足立が広島拘置所庶務課で「死刑囚Hは私の手紙を読んだか?」と確認したところ、庶務課長は「死刑囚Hは親族を含め手紙の受領を拒否している」と回答した[210]。
足立との接見拒否から11日後の2006年12月25日に法務大臣長勢甚遠の発した死刑執行命令により収監先・広島拘置所で死刑囚H(44歳没)の死刑が執行された[13][212][213][214][215]。同日には東京拘置所でも死刑囚2人・大阪拘置所でも1人と、死刑囚Hを含めて死刑囚計4人の死刑が執行された[13][212][213][214][215]。死刑囚4人に対する同時執行は1997年8月1日に法務大臣(当時)・松浦功の死刑執行命令により永山則夫(永山則夫連続射殺事件)・夕張保険金殺人事件の死刑囚2名ら計4人の死刑が執行されて以来、9年4か月ぶりだった[注 59][13][212]。
国家賠償請求訴訟
[編集]広島弁護士会所属の弁護士・足立修一[注 60]は2006年12月1日に死刑廃止運動を行う市民団体に所属していた知人[注 61]から「年末に死刑囚Hの死刑が執行されそうだから、死刑囚Hの元国選弁護人の氏名を教えてほしい」と依頼されたため[184]、第一審当時の弁護人を紹介した上で[216]「自分も『元国選弁護人のうち弁護士1人に連絡を取り、死刑囚Hと面会して恩赦・再審を申請できないか』と考えている」と伝え[184]、元国選弁護人・二國則昭に対し「死刑囚Hと面会してほしい」と依頼した[216]。これを受け、二國は2006年12月14日(死刑執行11日前)に同じく元弁護人の臼田耕造弁護士とともに死刑囚Hの収監先・広島拘置所へ赴き、「安否伺い」を理由にHとの接見を申し入れたが許可されなかった[注 62][216]。
その話を聞かされた足立は「死刑囚Hへの死刑執行が近い時期に迫っている」と感じたため「再審請求を行う必要性が強い。死刑囚Hと接見して再審請求・恩赦出願の権利行使を促すべきだろう」と考え、同日15時10分ごろに広島拘置所で「再審請求の弁護人となろうとする者」として死刑囚Hとの接見を申し入れた[184]。15時20分ごろ、広島拘置所第二統括の刑務官は「足立が死刑囚Hとの接見を申し入れている」ことを聞き、15時40分ごろになって接見係の副看守長からその要件を確認した上で首席から「原告の接見申し入れ内容は『再審請求の件』である」ことを報告したが、首席は第二統括に対し15時55分ごろ「死刑囚Hは再審請求をしているわけではないため、足立は面会の相手方として該当しない。面会を断るように」と指示したため、第二統括は足立に対し「死刑囚Hは再審請求を提起していないため、面会はできません」と伝えた[184]。足立はこれに対し「責任者を呼んでほしい」などと求めた上で、職員応接室で対応した職員に「死刑囚H本人に自分が面会を希望していることを伝えてほしい。再審請求の意思があるかを確認するためにここに来たのだから面会をさせてほしい」「面会させないにしても『再審請求を起こす意思があるかどうか』について自筆で回答をもらって書面による意思確認をしてほしい」などと依頼したが、そのような対応は取られず[184]、職員から「これ以上話はできない」などと要求を退けられたため、16時30分ごろに「面会拒否は国家賠償に相当するものだ」と告げて退席した[217]。
足立は2007年8月2日付で慰謝料など約180万円の支払いを求めて広島地裁に国家賠償請求訴訟を起こしたが[注 63][219][218][220]、広島地方裁判所民事第3部(金村敏彦裁判長)[184]は2009年12月24日に原告・足立の請求を棄却する判決を言い渡した[注 64][222][221]。足立は判決を不服として広島高等裁判所へ即日控訴したが[222][221]、広島高裁(小林正明裁判長)は2010年12月21日に第一審判決を支持して原告・足立の控訴を棄却する判決を言い渡した[注 65][223]。原告・足立は控訴審判決を不服として2010年12月24日付で最高裁判所へ上告したが[224]、最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は2011年10月13日付で原告・足立の上告を棄却する決定を出したため、足立の敗訴が確定した[225][226]。
事件の影響
[編集]かつてHが被害者らを物色した新天地公園に立っていた若い売春婦たちは事件後、携帯電話で馴染みの常連客と連絡を取り合うようになったため、事件から4年が経過した2000年時点では滅多に公園に立たなくなった[191]。
捜査本部が設置された廿日市署(署長:吉村一彦、署員115人)では1996年9月14日に管内の湯来町内でDの遺体が発見されたことを受けて150人態勢の捜査本部が設置され[注 66]、同署からも刑事課を中心に多くの捜査員が本部入りしたほか、1996年10月12日に開幕を控えた秋の国民体育大会(国体)会場の警備[注 67]や第41回衆議院議員総選挙(1996年10月20日投開票)における広島県第2区の選挙違反監視[注 68]など大仕事が重なった[227]。
広島県タクシー協会の対応・風評被害
[編集]広島県タクシー協会(会長:濱田修)によれば[228]、事件発覚後には広島市内で繁華街を中心に夜間のタクシー利用が落ち込み、特に女性客のタクシー離れが顕著となったほか[15]、加害者Hが勤務していたタクシー会社(広島市東区)[注 69]は中国運輸局から「日報・記録計(タコメーター)などによる日常の運行管理体制・運転手教育」などについて監査を受けたほか[229]、会社が特定されて無言電話・嫌がらせを受けたため[注 70]、社員が退職したり休みを取ったりした[14]。
広島県国体局長・和田凡生は「1人が起こした事件のせいで広島全体のイメージが悪影響を受けてはたまらない」としてタクシー業界に対し改めて「親切で気持ちいい応対」の徹底を呼び掛けたほか[39]、1996年10月11日に広島市内60社のタクシー会社の経営者ら約100人を招集して緊急会議を開いた[228]。この会議は広島県タクシー協会広島支部(支部長:新谷英幸)が「ひろしま国体秋季大会開幕を控え、業界を挙げて信頼回復に乗り出そう」として呼び掛けたもので、加害者Hが勤務していたタクシー会社の幹部が出席して陳謝したほか[15]、濱田が「今回の事件で市民に大変迷惑をかけた。タクシー業界の信頼を回復するために業界が一団となって努力していこう」[228]「国体開催で県外客が増える。サービス向上に心掛け汚名返上してほしい」と話した[15]。その後「協会に加盟する広島市内の全タクシー(約2,300台)に乗客向けの謝罪文・サービス向上や運転手教育徹底など再発防止策を盛り込んだチラシを車内掲示する」ことが決められ[15]、協会は他地域でも会議を開き信頼回復を呼び掛けた[228]。
加害者Hの元上司は『朝日新聞』広島総局(大阪本社の傘下)記者・樫山晃生の取材に対し「彼(H)の起こした事件に責任は感じているが、他の社員やその家族のことを考えて会社を潰さないようにするだけでも必死だった。1996年12月時点では(事件発覚直後と比べて)事件に関する電話は少なくなり、売上は落ちたが社内の結束は強くなった」と証言した[14]。この取材結果を振り返り樫山は「新聞・テレビの報道では会社は匿名で報道されたが、結果的には会社がダメージを受けることとなってしまった。報道では真実を伝えなければならないが、何気なく書いたことでも思わぬ影響を与えることがある。『たとえ数行の記事でもおろそかにできない』と身が引き締まる思いがした」と振り返った[14]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 奪った金額のうち約半分はいったん自分が被害者に渡した売春代金だった[8]。
- ^ Hの親類は事件後に『中国新聞』記者の取材に対し「両親がHを甘やかしていたから我慢できないような子供になったのではないか?」と証言した[20]。
- ^ 地元は国立大学志向が強く教師の学歴が重視されていたため、Hは高校時代に無名の私立大学出身だった教師を軽蔑していた時期があった[6]。
- ^ 当時は周囲に対し「司法試験に失敗した」と話していた。
- ^ Hは当時24歳[30]。
- ^ 叔父が広島市内のタクシー会社に勤めていた縁で就職し[33]、就職後に一人暮らしを始めた[5]。
- ^ Hの売上成績は「社内でもトップクラスの営業成績」と報道された一方[25]、タクシー会社の幹部は「中の上」[33]、上司は「中の下」[2]「A事件のころから急に営業成績が良くなった」と証言している[34]。
- ^ 妻は一時病状が改善したために退院したが[36]、翌1995年(平成7年)10月以降は[37]再び長期入院して回復の兆しが見られなくなった[36]。
- ^ Hの人物像について事件当時住んでいた団地の住民は「子煩悩な父親」[20]、関係者からは「妻子とともに買い物に行ったり公園で遊んだりするなど、家族仲は良好なように見えた」とそれぞれ証言していた[25]。
- ^ Hと親しかった知人は同紙記者の取材に対し「Hは被害者が大金を持っていないことを知っていたはず。最初から金だけが(犯行の)目的だったとは思えない」と述べている[5]。また週刊誌『AERA』編集部記者・烏賀陽弘道(朝日新聞社出版本部)は同誌1996年10月21日号にて「本事件は正確には金目当てというより、諍いのうちに被害者を殺害してついでに金を奪ったようだ」と報道した[2]。
- ^ 高校の新入生歓迎会があった1996年4月16日まで[42]学校に姿を見せていたが[43]、同日に登校後はそのまま帰宅しなかった[42]。欠席が続いたため担任教諭が被害者A宅に何度か問い合わせの電話をしたが、家族は「どこに行っているのかわからない」と話しており、被害者Aの家族からは警察への捜索願は出ていなかった[43]。また1996年3月から[41]昼間に呉市内のファミリーレストランでアルバイトの研修を受けていたが[42]、4月14日以降は欠勤していた[41]。
- ^ 乳歯のままで永久歯が出ない体質を指し、「数十人に1人の体質」とされる[44]。
- ^ 周辺は広島高速交通広島新交通1号線(アストラムライン)広域公園前駅から東へ約1.2 kmおよび広島市立大学本館の南東約500 mの田園地帯で、西区己斐方面へ通じる林道沿い[16]。朝夕に幹線道路の迂回路として使用されていた以外に人・車の通行はほとんどない道だった[46]。
- ^ HはAを誘うまでに45,000円の運賃収入を売り上げていたため、同日の仕事を打ち切っていた[47]。
- ^ Hが渡した2万円を含めた額[53]。
- ^ その途中で河川・山中にAの所持品(バッグ・化粧ポーチ・たばこケースなど)を投棄している[53]。
- ^ HはD事件の際にも走行距離や実車・空車の別を記録してあった料金メーターを操作して広島市内で短距離客を乗車させたようにアリバイ工作したほか、運転日報も「広島市内で数十回近距離走行した」と虚偽の記載をしていた[54]。
- ^ この上司は後に『中国新聞』記者の取材に対し「この一件は厳しく注意した。仮に営業中にこのような事故を起こしていたら解雇していた」と述べた[52]。
- ^ 当時は暴走族による犯行説が流れていた[32][57]。
- ^ 冒頭陳述では「広島県貸金業協会に一切借金できない旨の申し立てをして親類が返済した」とされている[32]。またHの同僚は『週刊新潮』記者の取材に対し「借金を妻に知られたことで夫婦喧嘩になり、妻はいつでも離婚届を提出できるようHに捺印させていた」と証言している[33]。
- ^ Hはそれ以前にも一度被害者Bを新天地公園で乗務中に見かけていたが、その際は金がなかったために売春代金を聞いただけで別れていた[68]。
- ^ 永瀬は新潮45(2002)でその言葉の真意を「Hを『素行不良のタクシー運転手』とみなして牽制しようとしたため」と推測している[56]。
- ^ 新潮45(2002)で永瀬は「この時は軍手を嵌めていたためか、A事件の時よりさらに強い力で被害者Bの首を絞めていた」と述べている[70]。
- ^ 当初は東広島市内の人気のない場所に遺棄しようとしていたが、途中で車のヘッドライトが見えたことから遺棄場所を変更した[67]。
- ^ その後、事件当日までHはCの客にはならなかった[71]。
- ^ 事件直後の『中国新聞』『朝日新聞』報道では「南区松川町」[78][72]、冒頭陳述では「広島市南区的場」となっている[5]。
- ^ Hはこの時点で既に被害者Cを殺害・遺棄する目的でCを尾行していたが[5]、被害者CはすぐにHのタクシーに乗車した[79]。永瀬は新潮45(2002)でその理由について「CはHと顔見知りだったからすぐにタクシーに乗ったのだろう」と推測している[79]。
- ^ Cはネクタイを首に巻かれそうになった際にネクタイをむしり取り、車外へ逃げ出そうとしたが、Hは力づくでCを抑えつけ[80]、Cが白目を剥いて失神するまでベルトで首を絞めつけ、最後にネクタイで首を絞めつけた[81]。最後にネクタイでとどめを刺した理由について別冊宝島(2006)は「ネクタイで絞殺する感触が忘れられなかったからだろう」と述べている[82]。
- ^ 現場付近の旧道は付近の住民が散歩で通る程度で[88]、車や人の通りは少ない道だった[87]。
- ^ 時には乗務中にも湧き上がってくる殺人衝動に恐怖して「いつもと違う自分だったら衝動も収まるだろう」と乗務用の白手袋を脱いで乗務したこともあったが、結局は殺人衝動や「女性を絞殺する際の快感」に駆られ新たな犯行に手を染めた[89]。
- ^ この女性客がタクシー内でHに「これから今日3人目の相手をする」と話したため、Hは「3人分の売春代金をもってホテルから出てきたところを襲おう」と考えて殺害を決意した[90]。Hは女性が入ったホテル近くにタクシーを駐車して約2時間にわたり出てくるところを待ち伏せたが[90]、その女性を見失ったため断念した[52]。
- ^ 通常の「相場」は1,5000円 - 20,000円未満だったため、被害者DはHから「相場の倍以上」となる40,000円を提示され快諾した[92]。
- ^ 殺害現場から約3 km[94]。
- ^ Hはそれまでに3人を殺害した際の経験から「プロのタクシードライバーである自分の指示に対し、女性たちが全く疑いを抱くことなく指示に従うこと」を知っていた[52]。
- ^ 広島地検はDのこの行動について「いつもと違う雰囲気を察知してタクシーから逃げようとした」と推測している[7]。
- ^ いったんHがDに払った売春代金[98]。
- ^ 新潮45(2002)では「喉元に突き付けた」と[100]、別冊宝島(2006)では「腹に突き付けた」となっている[98]。
- ^ この際、Dを後部座席に押し込んでタクシーを移動させ、約3分後に殺害現場でタクシーを降車した[98]。
- ^ この時、Hは約15分間にわたりDの首を絞め続けていた[98]。
- ^ 自身が一度渡した40,000円+Dのもともとの所持金16,000円[101]。
- ^ 同日は日曜日だったため早めに乗務を切り上げたが、平日並みの約35,000円を売り上げていた[39]。
- ^ 広島市安芸区との市町境付近で国道31号と合流して広島市街地方面へ向かう国道2号バイパス付近[103]。Aの自宅から約14 km・広高校からは約17 km地点で[103]、海田町はAの通学経路から外れていた一方、広島市中心部 - A宅への経路上に該当していた[104]。
- ^ ネックレス・ピアスは大手宝石店で売買されていたものだが、購入先は特定できなかった[44]。
- ^ 捜査本部からの要請を受け、広島県歯科医師会は県内約1,280の診療所に対し女性の歯の状況を記した所見を送った[108]。捜査本部は歯科医院のカルテなどを調査した上で[42]、歯の治療痕を確認して被害者Aの身元確認に至った[109]。
- ^ 遺体の首には手で絞めたような痕跡・首の骨が折れた形跡とも確認できなかったため「幅のある帯状の物で首を絞められた可能性が高い」と推測された[114]。
- ^ 県警による現場周辺での聞き込み捜査の結果、現場から3 km離れたラブホテルの利用車両に通常は立ち寄らないはずのタクシーが停車していたことが判明した[120]。
- ^ 丸山(2010)は「Hは追い詰められたことから自殺を考えたが結局は死にきれなかった」と述べている[119]。
- ^ 『中国新聞』1996年9月21日夕刊では「盗難車で逃走中の21日5時25分ごろに窃盗容疑で逮捕された」[125]、1996年9月22日朝刊では「21日4時30分ごろに検問を突破した」と報じられている[23]。
- ^ 山口県警は当時「秋の全国交通安全運動」の一環などで夜間・早朝の取り締まり強化を目的に交通検問を実施していた[126]。
- ^ 頭部レントゲン写真(女性Cが事件6,7年前に広島市内の病院で撮影)や歯の治療痕を照合したほか、Cと同居していた男性に遺留品のブレスレットを見せて確認した[133]。
- ^ 被害者の身元は遺体の歯形・右手人差し指の指紋などから[137]安佐南区在住の18歳女性と判明したほか、10月23日には被害者と同居していた会社員の男(当時21歳)が島根・広島両県警と益田・広島北両署の合同捜査本部により殺人・死体遺棄容疑で逮捕された[138]。この男は1996年11月13日に松江地検から殺人・死体遺棄罪で起訴され[139]、被告人として1997年5月6日に松江地裁(長門栄吉裁判長)から懲役9年(求刑:懲役12年)の判決を受け[140]、控訴期限(1997年5月20日)までに広島高裁松江支部へ控訴しなかったためそのまま刑が確定している[141]。
- ^ 本事件以前には勝田清孝事件(1972年9月 - 1977年8月)、富山・長野連続女性誘拐殺人事件(1980年2月 - 3月・警察庁広域重要指定111号事件)、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988年8月 - 1989年6月・警察庁広域重要指定117号事件。「宮崎勤事件」とも)、スナックママ連続殺人事件(1991年12月、警察庁広域重要指定119号事件)などがあった[142]。1人目(被害者D)の遺体発見当時は100人体制だった捜査本部はこの時点で新たに50人を追加動員して150人体制となっていた[25]。
- ^ またこの時点ではA事件を除きすべて具体的な殺害現場も判明していたが[136]、3事件とも「Hが乗務中に中区内の繁華街で声を掛けてタクシーに乗せ、車内で殺害していた」「被害者の多くが夜間の繁華街で頻繁に目撃されていた」「加害者Hは繁華街路上によく停車していた」という共通点から「加害者Hは無差別に女性へ声を掛けるなどして犯行を繰り返していた」ことが濃厚となった[18]。
- ^ Hはこの被害者女性(=A)について「名前は知らなかったが(遺体発見が報道された)A事件も自分がやったと思う」と供述した[128]。
- ^ 遺体発見現場から己斐峠までは約2 kmしか離れておらず、地形的にも被疑者Hの供述と一致した[142]。
- ^ 被害者Cは上半身の衣服だけを身に着けた状態でビニールシートにより覆い隠され、被害者Dは(衣服を身に着けたまま)ガードレールのある道路から法面へ蹴り落とされていたため、捜査本部は「加害者Hは当初、身元判明を遅らせるために被害者の衣服を取ったり、場所を選んだりして遺棄を重ねていたが、次第に大胆に遺棄するようになっていった」と推測した[65]。
- ^ 裁判所が死刑判決を言い渡す際に主文を後回しにせず冒頭で言い渡した例は他に大久保清事件(大久保清)・藤沢市母娘ら5人殺害事件、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤)、附属池田小事件・熊谷連続殺人事件などがある。
- ^ 面会を拒否された理由として「本人から足立宛への手紙がないこと」が指摘されていたため、足立は「国賠訴訟する前にHと面会するため可能なことはやろう」と考えて手紙を送った[210]。
- ^ 共同通信社記者・西條高生は「今回の死刑執行で1日の死刑執行人数が4人と多くなった背景には、前法務大臣・杉浦正健が1年近く死刑執行命令書にサインしなかったことが関係しているだろう」と指摘した[13]。
- ^ 当時は「死刑囚Hを含む弁護人選任依頼者から再審請求の弁護人に選任されたり、その依頼を受けていたわけではなく、死刑囚Hとの接見依頼も受けていなかった」状態だった[184]。
- ^ 「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(略称:フォーラム90)メンバー・高田章子[216]。
- ^ 足立は「いくら既決囚の面会・手紙のやり取りが原則として親族のみに限定されるよう運用されているとはいえ、通常は元弁護人ならば面会できるはずだ」と述べている[216]。
- ^ 足立は提訴後に記者会見で「死刑確定者の接見・再審の機会は阻害されている。闇から闇へと死刑が執行されている現実に光を当てたい」とコメントした[218]。
- ^ 広島地裁は判決理由で「死刑確定者は刑事訴訟法で規定された『身体拘束を受けている被告人または被疑者』には該当しない」と指摘した上で、「元死刑囚Hは再審請求をしていない上、足立は再審請求の弁護人に選任されておらず、元死刑囚Hから依頼を受けていたわけでもない。足立には元死刑囚Hに対する接見交通権はなく、請求には理由がない」と結論付けた[184][221]。
- ^ 広島高裁は判決理由で「元死刑囚Hは死刑判決を自ら受け入れていたことが認められる。原告は元死刑囚Hから再審請求の依頼を受けていないので接見交通権は保証されていない。一方的に死刑確定者(死刑囚)との接見を希望する弁護士には接見交通権を保障すべきではなく、拘置所側の裁量権に逸脱は見られない」と認定した[223]。
- ^ 当時管内での殺人事件の発生は1993年8月以来だった上、署が保有していた1897年(明治30年)以来の資料では「(管内で)連続殺人事件が発生した」とされる記録はなかったため、1874年(明治7年)の設立以来前代未聞の大事件となった[227]。
- ^ 柔道・剣道・山岳の各競技会場が廿日市署管内にあったが、特に柔道競技(会場:廿日市市スポーツセンター)には天皇・皇后が見学に訪れたため、24時間体制の会場警備・40人態勢の通行経路付近警備などを行った[227]。
- ^ 同署刑事課17人中3人が専従で行っていた[227]。
- ^ 車両数約30台[14]。
- ^ 警察発表・新聞報道などでは詳細な住所は発表されなかったが、電話帳の情報・会社の建物写真などからすぐに特定され、運転手が遺体遺棄現場へ案内させられる嫌がらせもあった[14]。
出典
[編集]- ※出典見出し中のうち加害者(元死刑囚H)の実名は姓イニシャル「H」に、被害者の実名はそれぞれ本文中で使われている仮名(A・B・C・D)に置き換えている。
- ^ a b c d e f 『読売新聞』1996年9月21日大阪夕刊第一社会面11頁「主婦絞殺・死体遺棄事件 元タクシー運転手を逮捕/広島県警」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c d e f g h i j 編集部記者:烏賀陽弘道「孤独な素顔に隠された狂気 広島連続殺人事件」『AERA』第9巻第43号(通号:第453号)、朝日新聞社出版本部、1996年10月21日、62頁。
- ^ a b 新潮45 2002, p. 288.
- ^ a b 丸山 2010, pp. 53–57.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba 『中国新聞』1997年2月11日朝刊三面3頁「H被告初公判の冒陳要旨」「問題にならぬ責任能力 中京大教授・空井健三」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f g h i 新潮45 2002, p. 291.
- ^ a b c d 『中国新聞』1996年10月13日朝刊第17版第一社会面27頁「Dさん殺害 H容疑者を起訴 金目当て、ナイフで脅す」(中国新聞社)
- ^ 別冊宝島 2006, p. 166.
- ^ a b c d e f 『毎日新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面11頁「女性4人連続殺害事件 H被告に死刑 広島地裁判決」(毎日新聞大阪本社)
- ^ a b c 『朝日新聞』1996年9月21日大阪夕刊第一社会面15頁「女性絞殺容疑で運転手を逮捕 広島県警【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b c 『中国新聞』2000年2月9日夕刊一面1頁「女性4人連続殺人 H被告に死刑判決 広島地裁 『生命軽視の犯行』」(中国新聞社)
- ^ a b c d 『中国新聞』2000年2月24日夕刊第一社会面3頁「広島の女性4人連続殺害 H被告の死刑確定」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f g h 『中国新聞』2006年12月26日朝刊第二社会面28頁「H死刑囚ら4人刑執行 05年9月以来 安倍内閣で初」(中国新聞社)「解説:制度全体の情報開示を」(共同通信社記者:西條高生)
- ^ a b c d e f 『朝日新聞』1996年12月25日大阪朝刊広島県版地方面「マツダ・フォード提携 連続女性殺人事件(96取材現場から)/広島」「連続女性殺人事件の余波 同僚運転手ら迷惑、会社には嫌がらせ電話」(朝日新聞大阪本社・広島総局 記者:樫山晃生)
- ^ a b c d e 『中国新聞』1996年10月12日朝刊第17版第一社会面31頁「女性連続殺人 タクシー全車に謝罪文 協会広島支部 再発防止策を協議」(中国新聞社)
- ^ a b c d 『中国新聞』1996年5月7日夕刊第6版第一社会面3頁「広島市内 水路に若い女性死体」(中国新聞社)
- ^ a b 『中国新聞』1999年10月6日夕刊一面1頁「4女性連続殺人 H被告に死刑求刑 広島地検『残虐かつ凶悪な犯行』」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f g h 『中国新聞』1996年10月7日朝刊第17版第一社会面23頁「H容疑者 わずか5ヵ月次々凶行 無差別に女性へ声? 発覚後も乗務続ける」(中国新聞社)
- ^ a b c 永瀬 2004, pp. 217–218.
- ^ a b c d e f g h 『中国新聞』1996年10月8日朝刊第17版第一社会面23頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<上> 容疑者の素顔 日常はまじめな姿 在学時から借金、親がかり」(中国新聞社)
- ^ 丸山 2010, p. 52.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『毎日新聞』1996年11月5日大阪朝刊社会面21頁「[心想]広島・女性連続殺人事件 H被告、転落の軌跡」(毎日新聞大阪本社 記者:辻加奈子、谷川貴史)
- ^ a b c d e f g 『中国新聞』1996年9月22日朝刊第17版第一社会面27頁「広島の主婦殺人 容疑者、防府で逮捕 金銭トラブルと自供」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f g 新潮45 2002, p. 294.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『朝日新聞』1996年10月7日大阪朝刊第一社会面31頁「『被害者にすまない』 容疑者供述 広島の連続女性殺人【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b 『中国新聞』2000年2月10日朝刊一面1頁「女性4人連続殺害 H被告に死刑判決 広島地裁 『まれに見る凶悪さ』」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f 『朝日新聞』1997年2月11日大阪朝刊広島県版地方面「証拠の採用を留保 精神鑑定申請、視野に 被告初公判 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 新潮45 2002, pp. 291–292.
- ^ a b c 新潮45 2002, p. 292.
- ^ a b c d e f g h 新潮45 2002, p. 293.
- ^ 『朝日新聞』1986年1月26日朝刊宮崎県版地方面21頁「宮崎市 包丁見せ『金を出せ』 二万円と通帳奪う」(朝日新聞西部本社・宮崎総局)
- ^ a b c d e f 『読売新聞』1997年2月11日大阪朝刊広島県版(広島讀賣)地方面「冒頭陳述概要 『殺人重ね、快感を感じるまでに…』」(読売新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c 「インシデント TEMPO 広島「連続女性殺人」の舞台となった歓楽街事情」『週刊新潮』第41巻第40号(通号:第2076号)、新潮社、1996年10月24日、26頁。
- ^ 奥村晶、山口一臣「広島女性4連続殺人 タクシー運転手 歓楽街、真夜中のハンティング」『週刊朝日』第101巻第50号(通号:第4165号)、朝日新聞社、1996年10月25日、147-149頁。
- ^ a b 丸山 2010, p. 56.
- ^ a b c d e f g 新潮45 2002, p. 295.
- ^ a b c d e 『読売新聞』1997年5月22日大阪朝刊広島県版(広島讀賣)地方面「連続殺人事件公判 H被告が犯行経緯を証言」(読売新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c d e 新潮45 2002, p. 290.
- ^ a b c d e 『中国新聞』1996年10月10日朝刊第17版第一社会面29頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<下> 背景と波紋 金目当てに疑問も 業界、イメージ低下懸念」(中国新聞社)
- ^ a b 『中国新聞』1996年10月8日朝刊第17版第一社会面23頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<中> 被害者との接点 『手当たり次第』誘う 盛り場で長時間、車止め」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f g h 『中国新聞』1996年5月15日朝刊第17版第一社会面25頁「広島の女性死体 黒瀬町の高校1年生 歯の治療痕など決め手」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』1996年5月14日大阪夕刊第二社会面14頁「広島の女性遺体 高1少女と断定」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c 『朝日新聞』1996年5月15日大阪朝刊広島県版地方面「事件・事故両面で捜査 広島市安佐南区の女性遺体、身元判明 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c d 『朝日新聞』1996年5月14日大阪朝刊広島県版地方面「下側二本は乳歯のまま、身元は依然不明 広島市の女性変死体/広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b 『朝日新聞』1996年12月4日夕刊第一社会面11頁「容疑者を再逮捕 連続女性殺人事件、4人目で 広島県警」(朝日新聞社)
- ^ a b c d e 『読売新聞』1996年5月7日大阪夕刊第一社会面15頁「林道わきの側溝に女性他殺体? 不審な車の目撃者を捜査/広島県警」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c 別冊宝島 2006, p. 172.
- ^ 新潮45 2002, pp. 288–289.
- ^ a b 丸山 2010, pp. 53–54.
- ^ a b c 丸山 2010, p. 54.
- ^ 別冊宝島 2006, p. 173.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『中国新聞』1997年2月11日朝刊第一社会面25頁「H被告初公判 検察冒陳 4人中3人同じ手口 わざとエンスト『足元見て』 修理装い後ろから絞殺」「遺族『厳しい処罰を』 “快楽殺人”に募る怒り」(中国新聞社)
- ^ a b c d 別冊宝島 2006, p. 174.
- ^ 『読売新聞』1996年10月10日大阪朝刊第一社会面35頁「広島の連続女性殺人 容疑者が“アリバイ”偽装 タクシーメーター操作」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b 丸山 2010, p. 53.
- ^ a b c d 新潮45 2002, p. 296.
- ^ a b 別冊宝島 2006, p. 175.
- ^ a b 『中国新聞』1996年10月9日朝刊第17版第一社会面27頁「女性連続殺人 白木の被害者 広島市の23歳と判明 歯の治療痕決め手」(中国新聞社)
- ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月9日大阪朝刊広島県版地方面「自宅近くの殺害に驚き 新たに被害者の身元判明 連続殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月5日大阪朝刊広島県版地方面「殺された女性2人、容疑者と顔見知り 連続殺人事件 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c 『中国新聞』1996年10月10日朝刊第17版第一社会面29頁「女性連続殺人 H容疑者、殺害後に 『4人から十数万円奪う』」(中国新聞社)
- ^ a b 『中国新聞』1996年10月8日夕刊第6版第一社会面3頁「女性連続殺人 白木町の遺体 被害者は広島の23歳 歯の治療痕一致」(中国新聞社)
- ^ a b c d 『読売新聞』1996年10月7日東京朝刊第一社会面39頁「女性4人殺害容疑 逮捕の元タクシー運転手 女子高生、主婦らも/広島」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 『朝日新聞』1996年10月7日大阪朝刊広島県版地方面「捜査員増強 容疑者、別の殺害をさらに自供 広島連続女性殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c 『中国新聞』1996年10月17日朝刊第17版第一社会面31頁「Cさん殺害 H被告 遺体シートで覆う 発見を遅らせる目的か」(中国新聞社)
- ^ a b 『朝日新聞』1996年10月8日朝刊第一社会面31頁「『金目当てに殺害』 広島の連続殺人で容疑者供述 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b c d e 別冊宝島 2006, p. 176.
- ^ 別冊宝島 2006, pp. 175–176.
- ^ 新潮45 2002, pp. 296–297.
- ^ a b c d e f g h 新潮45 2002, p. 297.
- ^ a b c 別冊宝島 2006, p. 177.
- ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月16日大阪朝刊第一社会面31頁「容疑者を強殺で再逮捕 広島の連続女性殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』1996年10月2日大阪夕刊第一社会面15頁「広島の主婦絞殺事件 H容疑者が別の女性殺害自供 白骨体を発見」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年10月2日大阪夕刊第一社会面13頁「加計町で別の女性遺体発見 容疑者自供通り 広島の女性殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『中国新聞』1996年10月2日夕刊第6版第一社会面3頁「湯来町の殺人 H容疑者 別の女性殺害を自供 加計町 白骨死体を発見」(中国新聞社)
- ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月3日大阪朝刊広島県版地方面「被害女性の似顔絵公開 殺人手口共通、容疑者再逮捕の方針 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 別冊宝島 2006, pp. 177–178.
- ^ a b c 『中国新聞』1996年10月4日朝刊第17版第一社会面31頁「加計町の殺人被害者 広島市の40歳代女性?歯の治療痕で確認急ぐ」(中国新聞社)
- ^ a b c d e 新潮45 2002, p. 298.
- ^ a b c 別冊宝島 2006, p. 178.
- ^ a b 新潮45 2002, pp. 298–299.
- ^ a b c 別冊宝島 2006, p. 179.
- ^ a b c d 『中国新聞』1996年9月16日朝刊第17版第一社会面23頁「湯来の殺人 被害者、広島市の主婦 繁華街で複数目撃」(中国新聞社)
- ^ a b c 『読売新聞』1996年9月16日大阪朝刊第一社会面27頁「湯来町の絞殺体は不明の32歳主婦/広島県警」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c 『朝日新聞』1996年10月13日大阪朝刊第一社会面31頁「Dさん事件で容疑者起訴 広島の女性殺害4件目自供【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b c d e f g h i 『中国新聞』1996年9月15日朝刊第17版第一社会面27頁「広島県湯来町 女性死体、絞殺と断定 別の場所で殺害・遺棄か」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』1996年9月14日大阪夕刊第一社会面11頁「若い女性の絞殺体 旧国道わきの草むらで見つかる /広島・湯来町」(読売新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『朝日新聞』1996年9月15日大阪朝刊広島県版地方面「山あいに走る衝撃 きょう100人で捜索 湯来町の女性殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b 新潮45 2002, p. 299.
- ^ a b c 別冊宝島 2006, p. 180.
- ^ a b 『中国新聞』1996年9月18日朝刊第17版第一社会面23頁「湯来の主婦殺人 事件前、現金預ける」(中国新聞社)
- ^ a b c 新潮45 2002, p. 300.
- ^ 新潮45 2002, pp. 300–301.
- ^ 別冊宝島 2006, p. 167.
- ^ a b 別冊宝島 2006, p. 181.
- ^ 新潮45 2002, pp. 301–302.
- ^ a b 新潮45 2002, p. 302.
- ^ a b c d e 別冊宝島 2006, p. 182.
- ^ 新潮45 2002, pp. 302–303.
- ^ a b c d e f g 新潮45 2002, p. 303.
- ^ 別冊宝島 2006, pp. 182–183.
- ^ 別冊宝島 2006, p. 183.
- ^ a b c 『中国新聞』1996年5月17日朝刊第17版第一社会面31頁「女子高生死体遺棄 海田で定期券発見 20日にポケベル応答」(中国新聞社)
- ^ a b c 『中国新聞』1996年10月8日朝刊第17版第一社会面23頁「H容疑者供述 初対面の2人殺害 繁華街で車に乗せる」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年5月7日大阪夕刊第一社会面15頁「広島の川に女性の死体 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『中国新聞』1996年5月8日朝刊第17版第一社会面27頁「広島 女性の腐乱死体」(中国新聞社)
- ^ 『中国新聞』1996年5月9日朝刊第17版第一社会面27頁「広島の女性死体 血液型はO型 盲腸の手術も」(中国新聞社)
- ^ a b c 『朝日新聞』1996年5月9日大阪朝刊広島県版地方面「164人態勢で捜査 広島・安佐南区の女性死体遺棄で県警 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c 『読売新聞』1996年5月14日大阪朝刊第二社会面26頁「広島の女性遺体 不明の16歳少女か 血液型や身長が一致」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b 『中国新聞』1996年5月31日夕刊第6版第一社会面3頁「女子高生死体事件 捜査本部 ポスター掲示・配布 情報提供呼びかけ」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年6月1日大阪朝刊広島県版地方面「女性の写真入りチラシ、交番などに掲示 広島市の死体遺棄事件 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『中国新聞』1996年9月14日朝刊第6版第一社会面3頁「湯来町 道路わきに女性死体」(中国新聞社)
- ^ a b 『朝日新聞』1996年9月15日大阪朝刊第一社会面29頁「旧国道わきに女性の絞殺体 広島・湯来町の山中 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b 『中国新聞』1996年10月12日朝刊第17版第一社会面31頁「主婦殺害でH容疑者 後部座席で首絞める? 血痕シーツを隠す」(中国新聞社)
- ^ a b c d 『中国新聞』1996年9月19日朝刊第17版第一社会面27頁「広島の主婦殺人 運転手に逮捕状 事件後、行方分からず」(中国新聞社)
- ^ a b 『朝日新聞』1996年9月16日大阪朝刊広島県版地方面「足取り・交友関係調べ 県警、百人で現場捜索 湯来の女性殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『中国新聞』1996年9月25日朝刊第17版「第一社会面29頁「広島の主婦殺人 H容疑者を送検」(中国新聞社)
- ^ a b c d e 『中国新聞』1996年10月11日朝刊第17版第一社会面31頁「女性連続殺人 H容疑者 週明けにも再逮捕 捜査本部 動機・凶器特定急ぐ」(中国新聞社)
- ^ a b c 丸山 2010, p. 57.
- ^ 別冊宝島 2006, pp. 167–168.
- ^ a b 新潮45 2002, p. 304.
- ^ 『朝日新聞』1996年9月19日大阪朝刊第一社会面29頁「タクシー運転手に逮捕状 広島・女性殺人容疑【大阪*】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『毎日新聞』1996年9月19日大阪朝刊社会面31頁「主婦殺人容疑で運転手に逮捕状を請求 広島県警」(毎日新聞大阪本社)
- ^ a b 『中国新聞』1996年9月21日朝刊第17版第一社会面31頁「広島の主婦殺人1週間 運転手の行方つかめず」(中国新聞社)
- ^ a b c 『中国新聞』1996年9月21日夕刊一面1頁「広島の主婦殺人 容疑者、防府で逮捕 事件から8日」(中国新聞社)
- ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年9月22日大阪朝刊広島県版地方面「『金銭上のトラブル』 湯来町の女性殺人事件容疑者を逮捕 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『中国新聞』1996年9月24日夕刊第6版第一社会面3頁「広島の主婦殺人 H容疑者を送検」(中国新聞社)
- ^ a b c 『朝日新聞』1996年10月7日大阪夕刊第一社会面15頁「自供の端緒に別の地名、口滑らす 広島連続女性殺人の容疑者」(朝日新聞社)
- ^ a b c d e 『朝日新聞』1997年4月24日大阪朝刊広島県版地方面「別の2人の殺害計画も 4女性殺害した被告の検察調書 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b 『中国新聞』1996年10月3日朝刊第17版第一社会面27頁「主婦殺害 H容疑者、別の殺人供述 山中から女性白骨体 『金銭でトラブル』 車内で首絞め遺棄」(中国新聞社)
- ^ 『読売新聞』1996年10月4日大阪朝刊第一社会面35頁「広島の連続女性殺害事件 白骨遺体の身元を特定」(読売新聞大阪本社)
- ^ 『朝日新聞』1996年10月4日大阪朝刊広島県版地方面「被害者40代女性か 加計の白骨遺体 身元の裏付け急ぐ /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c d 『中国新聞』1996年10月5日朝刊第17版第一社会面31頁「加計の殺人被害者 広島市の45歳女性 H容疑者を再逮捕へ」(中国新聞社)
- ^ 『中国新聞』1996年10月16日朝刊第17版第一社会面31頁「女性連続殺人 H被告 Cさん殺害遺棄で再逮捕」(中国新聞社)
- ^ a b c d 『読売新聞』1996年10月7日大阪朝刊第一社会面31頁「広島の女性連続殺人事件のH容疑者 模範タクシー運転手、凶行の中で仕事」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c d e f g h i 『中国新聞』1996年10月7日朝刊第17版1面1頁「H容疑者 2女性殺害新たに自供 連続殺人計4人に 山中から1遺体 もう1人は女子高生か」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年10月24日大阪朝刊広島県版地方面「島根の遺棄死体、広島の女性と判明 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『読売新聞』1996年10月24日大阪朝刊第一社会面31頁「島根で8月発見の女性遺体は広島の18歳 殺人容疑で同居男性を逮捕」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『朝日新聞』1996年11月14日大阪朝刊広島県版地方面「広島の会社員起訴 島根の国道下で女性殺人・死体遺棄罪 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『朝日新聞』1997年5月7日大阪朝刊島根県版地方面「刑事責任重大と懲役9年の判決 殺人・死体遺棄の被告 /島根」(朝日新聞大阪本社・松江総局)
- ^ 『朝日新聞』1997年5月21日大阪朝刊島根県版地方面「控訴せず、刑が確定 美都町殺人事件 松江地裁 /島根」(朝日新聞大阪本社・松江総局)
- ^ a b c 『朝日新聞』1996年10月7日大阪朝刊第一社会面35頁「3女性と女子高生も 容疑の元タクシー運転手供述 広島連続殺害事件」(朝日新聞社)
- ^ a b 『朝日新聞』1996年10月8日大阪夕刊第一社会面23頁「白骨死体は23歳の女性 広島の連続殺人事件」(朝日新聞社)
- ^ 『中国新聞』1996年10月7日夕刊第6版第一社会面3頁「白木町の遺体 似顔絵を公開」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年11月7日大阪朝刊第一社会面31頁「容疑者を再逮捕 広島連続女性殺人事件 【大阪*】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『中国新聞』1996年11月9日朝刊第17版第一社会面31頁「Bさん殺害 H被告を送検」(中国新聞社)
- ^ a b c d e 『中国新聞』1996年10月7日夕刊第6版第一社会面3頁「連続殺人のH容疑者 Aさんも繁華街で車に? 殺害方法などを追及」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年11月26日大阪朝刊第一社会面27頁「遺体、Aさんと断定 容疑者再逮捕へ 広島の連続女性殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『中国新聞』1996年12月5日朝刊第17版第一社会面31頁「Aさん殺害容疑 H被告を再逮捕」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年12月15日大阪朝刊広島県版地方面「容疑者連れ検証 Aの遺体遺棄現場 連続女性殺人 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『中国新聞』1996年11月6日朝刊第17版第一社会面23頁「Cさん殺害 H被告を追起訴」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年11月6日大阪朝刊第一社会面25頁「容疑者を強盗殺人で追起訴 広島・連続女性殺人 【大阪*】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『中国新聞』1996年11月28日朝刊第17版第一社会面27頁「Bさん殺害 H被告を追起訴」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年11月28日大阪朝刊第一社会面31頁「容疑者を追起訴 広島の連続女性殺人で地検 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『中国新聞』1996年12月25日朝刊第17版第一社会面23頁「H被告 4件目も起訴」(中国新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1996年12月25日大阪朝刊第一社会面27頁「容疑者、最後の起訴 広島の連続女性殺人事件 【大阪*】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b c d e f g 『中国新聞』1997年2月10日夕刊一面1頁「広島の女性連続殺害初公判 H被告起訴事実認める 冒頭陳述 悪運強いと錯覚」(中国新聞社)
- ^ a b 『中国新聞』1997年2月10日夕刊第一社会面3頁「初公判 H被告淡々と『そうです』 傍聴券へ長い列」(中国新聞社)
- ^ a b c d e f 『中国新聞』1997年2月11日朝刊一面1頁「広島の女性4人殺人 もう1人殺害計画 検察、冒陳で指摘 H被告、起訴事実認める」(中国新聞社)
- ^ 『読売新聞』1997年2月10日東京夕刊第二社会面22頁「4女性殺害初公判 H被告が起訴事実を全面的に認める/広島地裁」(読売新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1997年2月10日夕刊第一社会面15頁「4女性殺害の事実認める 初公判で被告 広島の連続殺人事件」(朝日新聞社)
- ^ a b 『毎日新聞』1997年2月10日大阪夕刊社会面12頁「広島・連続女性殺害事件初公判:H被告が起訴事実認める/広島地裁」(毎日新聞大阪本社 記者:辻加奈子)
- ^ 『産経新聞』1997年2月10日東京夕刊社会面「広島の4人殺人のH被告初公判 検察側『殺人に快感』起訴事実すべて認める」(産経新聞東京本社)
- ^ a b 丸山 2010, p. 58.
- ^ a b c 『中国新聞』1997年4月24日朝刊第二社会面26頁「H被告公判 別の2人殺害計画 検察が供述明かす」(中国新聞社)
- ^ a b c d 『読売新聞』1997年4月24日大阪朝刊広島県版(広島讀賣)地方面「強盗殺人事件公判 別の3女性狙って失敗した H被告『刑に服することが償い』」(読売新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c d 『産経新聞』1997年11月5日東京夕刊社会面「4連続女性殺害 H被告を精神鑑定へ 広島地裁が決定」(産経新聞東京本社)
- ^ a b 『毎日新聞』1997年11月5日大阪夕刊社会面11頁「4女性殺害事件で被告の精神鑑定へ 広島地裁が承認」(毎日新聞大阪本社)
- ^ a b 『毎日新聞』1997年11月5日東京夕刊社会面8頁「4女性殺害事件の被告、精神鑑定へ 広島地裁が承認」(毎日新聞東京本社)
- ^ a b c d 『読売新聞』1997年11月6日大阪朝刊広島県版(広島讀賣)地方面「4人殺害H被告 精神鑑定を採用 裁判長『動機があやふや』」(読売新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b 『朝日新聞』1997年11月6日大阪朝刊広島県版地方面「被告を精神鑑定へ、広島地裁決める 女性連続殺人事件 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c 『中国新聞』1997年11月6日朝刊第一社会面27頁「H被告を精神鑑定へ 連続女性殺害」(中国新聞社)
- ^ 丸山 2010, pp. 58–59.
- ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1999年2月25日大阪朝刊広島県版地方面「被告の責任能力、精神鑑定書で決める 強盗殺人事件公判 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c d e 『毎日新聞』1999年2月24日大阪夕刊社会面11頁「女性連続強殺の被告 『責任能力に影響ない』 精神鑑定を採用 広島地裁」(毎日新聞大阪本社 記者:中野彩子)
- ^ a b 丸山 2010, p. 59.
- ^ a b c d 『読売新聞』1999年2月24日大阪夕刊第二社会面14頁「女性4人殺害事件公判 H被告の責任能力認める 精神鑑定書提出/広島地裁」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b c d e f g 『中国新聞』1999年2月25日朝刊第一社会面27頁「連続女性殺害 『責任能力あった』 広島地裁 H被告の精神鑑定」(中国新聞社)
- ^ a b c d e 『中国新聞』1999年10月7日朝刊第二社会面26頁「広島の4女性殺人 H被告に死刑求刑 地検『命で償うしかない』」(中国新聞社)「解説:被害者数・動機を考慮 広島県内では5年ぶり」(中国新聞社 記者:永井利明)
- ^ 『読売新聞』1999年10月6日大阪夕刊第一社会面15頁「女性4人殺害の元運転手に死刑求刑 検察側『凶悪犯行、影響大きい』 /広島地裁」(読売新聞大阪本社)
- ^ 『朝日新聞』1999年10月6日大阪夕刊第二社会面14頁「死刑を求刑 4女性殺害事件で広島地裁 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b 『毎日新聞』1999年10月6日大阪夕刊社会面10頁「H被告に死刑を求刑 5カ月間に4女性を殺害 広島地裁」(毎日新聞大阪本社 記者:高橋一隆)
- ^ a b 『産経新聞』1999年10月6日大阪夕刊社会面「女性連続殺人 H被告に死刑求刑 広島地裁『残虐、凶悪な犯行』」(産経新聞大阪本社)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 広島地裁(2009)
- ^ a b c d e f g h 『中国新聞』1999年11月11日朝刊第一社会面27頁「女性連続殺人公判結審 H被告が最終陳述『早く被害者の元へ』 判決は来年2月」(中国新聞社)
- ^ a b c 『読売新聞』1999年11月10日大阪夕刊第二社会面14頁「広島の女性4人殺害事件 弁護側、最終弁論で情状求める」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c d e 『朝日新聞』1999年11月11日大阪朝刊広島県版地方面27頁「死刑希望の意思 4女性殺害公判、被告が陳述 広島地裁 /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b 丸山 2010, p. 60.
- ^ a b c d 『朝日新聞』2000年2月9日大阪夕刊第一社会面15頁「4女性殺害に死刑 被告も極刑望む 広島地裁判決 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b c d 『朝日新聞』2000年2月9日大阪夕刊第二社会面18頁「4女性殺害に死刑 被告自ら極刑希望 広島地裁判決 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ a b 新潮45 2002, p. 306.
- ^ a b 『読売新聞』2000年2月9日大阪朝刊広西北版25頁「4女性殺害のH被告 きょう地裁で判決=広島」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b 新潮45 2002, pp. 306–307.
- ^ 新潮45 2002, pp. 307–308.
- ^ 『中国新聞』2000年2月10日朝刊第一社会面31頁「H被告 死刑判決 『やっと娘に報告できる』 傍聴席の遺族ら涙 無念の思いやまず」(中国新聞社)
- ^ 『中国新聞』2000年2月10日朝刊第二社会面30頁「H被告 死刑判決 解説:『極刑』重い4人の命 改しゅんの情は認定 永山事件の基準を意識」(中国新聞社 記者:長田浩昌)
- ^ 『読売新聞』2000年2月9日東京夕刊第二社会面14頁「女性4人殺害、元タクシー運転手に死刑判決 『冷酷非情、責任重い』 /広島地裁」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 『読売新聞』2000年2月9日大阪夕刊第一社会面19頁「4女性殺害の元タクシー運転手に死刑 『冷酷非情、責任重い』 /広島地裁判決」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c d e 『読売新聞』2000年2月10日大阪朝刊広西北版19頁「女性4人強殺に判決 遺族ら『死刑は当然』 H被告、神妙に=広島」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b c d e f g 『朝日新聞』2000年2月10日大阪朝刊広島県版地方面23頁「『娘に報告できる』 4女性殺害のH被告に地裁が死刑判決/広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『毎日新聞』2000年2月9日東京夕刊社会面8頁「広島市の4女性連続殺人、被告に死刑判決 広島地裁」(毎日新聞東京本社)
- ^ 『産経新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面「女性4人連続殺害 元運転手に死刑判決 広島地裁 『巧妙、冷酷な犯行』」(産経新聞大阪本社)
- ^ 『産経新聞』2000年2月9日東京夕刊社会面「4女性殺害 元運転手に死刑判決 広島地裁『残虐極まりない』」(産経新聞東京本社)
- ^ a b 『産経新聞』2000年2月10日大阪朝刊社会面「H被告、控訴せず 死刑判決確定へ」(産経新聞大阪本社)
- ^ a b 『中国新聞』2000年2月25日朝刊第一社会面27頁「連続殺人H被告 死刑が確定」(中国新聞社)
- ^ 『読売新聞』2000年2月24日夕刊第一社会面13頁「4女性殺害したH被告の死刑確定 控訴せず/広島地裁」(読売新聞社)
- ^ 『朝日新聞』2000年2月24日大阪夕刊第二社会面12頁「死刑判決が確定 広島の4女性殺害 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)
- ^ 『毎日新聞』2000年2月25日大阪朝刊社会面29頁「広島・女性4人を殺害事件 死刑判決が確定 広島地裁」(毎日新聞大阪本社 記者:高橋一隆)
- ^ 『産経新聞』2000年2月24日大阪夕刊社会面「元運転手の死刑確定 広島の強盗殺人」(産経新聞大阪本社)
- ^ a b 年報・死刑廃止 2007, p. 197.
- ^ 年報・死刑廃止 2007, pp. 196–197.
- ^ a b c 『読売新聞』2006年12月25日東京夕刊一面1頁「4人の死刑執行 昨年9月以来、3拘置所で」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 『朝日新聞』2006年12月25日夕刊一面1頁「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり」(朝日新聞社)
- ^ a b 『産経新聞』2006年12月25日大阪夕刊社会面「死刑囚4人、刑執行 1年3カ月ぶり」(産経新聞大阪本社)
- ^ a b 『産経新聞』2006年12月26日東京朝刊社会面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり 長勢法相では初めて」(産経新聞東京本社)
- ^ a b c d e 年報・死刑廃止 2007, p. 195.
- ^ 年報・死刑廃止 2007, p. 196.
- ^ a b 『朝日新聞』2007年8月3日大阪朝刊広島県第一地方面22頁「慰謝料求め国を提訴 弁護士、死刑囚への接見拒否され /広島県」(朝日新聞大阪本社・広島総局 記者:秋山千佳)
- ^ 『読売新聞』2007年8月2日大阪夕刊第二社会面14頁「『死刑囚接見拒否は違法』 広島弁護士会が地裁に提訴」(読売新聞大阪本社)
- ^ 『毎日新聞』2007年8月3日大阪朝刊広島県版地方面23頁「接見拒否:違法、国に賠償求める 広島の弁護士提訴 /広島」(毎日新聞大阪本社・広島支局 記者:大沢瑞季)
- ^ a b c 『産経新聞』2009年12月25日東京朝刊社会面「元死刑囚の接見拒否 弁護士へ賠償認めず」(産経新聞東京本社)
- ^ a b 『読売新聞』2009年12月25日大阪朝刊広島県版地方面27頁「弁護士と元死刑囚の接見拒否 『違法』訴え棄却 地裁=広島」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b 『読売新聞』2010年12月22日大阪朝刊広島県版地方面31頁「接見拒否賠償訴訟 弁護士側の控訴棄却=広島」(読売新聞大阪本社)
- ^ 『読売新聞』2010年12月25日大阪朝刊広島県版地方面28頁「接見拒否で原告側上告=広島」(読売新聞大阪本社)
- ^ 『読売新聞』2011年10月18日大阪朝刊広島県版地方面29頁「足立弁護士の敗訴が確定 元死刑囚接見拒否=広島」(読売新聞大阪本社)
- ^ 『朝日新聞』2011年10月13日大阪朝刊広島県版第一地方面33頁「死刑囚との接見めぐり、弁護士の敗訴確定 /広島県」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月11日大阪朝刊広島県版地方面「連続殺人・国体・選挙で大忙し 署員たち『目が回る』/広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月12日大阪朝刊広島県版地方面「車内におわび文書 タクシー協会、連続殺人で緊急会議開く /広島」(朝日新聞大阪本社・広島総局)
- ^ 『中国新聞』1996年10月10日朝刊第17版第一社会面29頁「女性連続殺人 H容疑者が勤務のタクシー会社監査へ 中国運輸局」(中国新聞社)
参考文献
[編集]国家賠償請求訴訟の判決文
- 広島地方裁判所民事第3部判決 2009年(平成21年)12月24日 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:25471141、平成19年(ワ)第1254号、『損害賠償請求事件』、“弁護士である原告が、拘置所長が拘置所に収容されていた死刑確定者との接見を認めなかったことは違法であり、これにより精神的苦痛を被ったなどとして、国家賠償を請求した事案で、本件死刑囚は再審請求すら行っておらず、また、本件死刑囚にその意思があったとも認められない点に照らすと、少なくとも、本件接見当時、本件死刑囚との接見について刑事訴訟法39条1項が適用ないし準用される余地はないなどとして、原告の請求を棄却した事例。”。
書籍
- 丸山佑介「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」『判決から見る猟奇殺人ファイル』(第1刷)彩図社、2010年1月20日、52-61頁。ISBN 978-4883927180。
- 『新潮45』編集部『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気、非情の13事件』(24冊)新潮社、2014年2月20日(原著2002年3月1日)、287-308頁。ISBN 978-4101239132。 - 祝康成(現:永瀬隼介)が『新潮45』2001年1月号に寄稿した本事件の記事「『売春婦』ばかりを狙った飽くなき性欲の次の獲物―広島『タクシー運転手』連続4人殺人事件」を再録している。
- 永瀬隼介(本名・祝康成からペンネーム変更)『19歳 一家四人惨殺犯の告白』角川文庫、2004年8月25日、217-218頁。ISBN 978-4043759019。 - 市川一家4人殺害事件の少年死刑囚(事件当時19歳・2017年に死刑執行)について取り扱ったノンフィクション。該当ページ文中にて著者が本事件の死刑囚Hについて言及している。
- 嘉納三明 著「H 売春婦四人を殺害したタクシー運転手 冥土までワンメーター、一人につき五万円」、別冊宝島編集部 編『身の毛もよだつ殺人者たち』(第1刷発行)宝島社(発行人:蓮見清一)、2006年11月25日、166-183頁。ISBN 978-4796655323。 - 『別冊宝島』368号「身の毛もよだつ殺人読本」(1998年3月3日発行)を改訂した文庫本。
- 年報・死刑廃止編集委員会 著、編集委員:岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘 / 深田卓(インパクト出版会) 編『あなたも死刑判決を書かされる 21世紀の徴兵制・裁判員制度 年報・死刑廃止2007』(第1刷発行)インパクト出版会、2007年10月13日。ISBN 978-4755401800 。
関連項目
[編集]女性を標的とした主な連続殺人事件
- 小平事件(小平義雄):1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年)
- 首都圏女性連続殺人事件:1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年)
- 大久保清:1971年(昭和46年)
- 佐賀女性7人連続殺人事件(未解決事件):1975年(昭和50年) - 1989年(平成元年)
- 北関東連続幼女誘拐殺人事件(未解決事件):1979年(昭和54年) - 1996年(平成8年)
- 富山・長野連続女性誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定111号事件):1980年(昭和55年)
- 大阪連続バラバラ殺人事件(警察庁広域重要指定122号事件):1985年(昭和60年) - 1994年(平成6年)
- 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(加害者:宮崎勤 / 警察庁広域重要指定117号事件):1988年(昭和63年) - 1989年(平成元年)
- 福岡3女性連続強盗殺人事件:2004年(平成16年) - 2005年(平成17年)
- 座間9人殺害事件:2017年(平成29年)
外部リンク
[編集]- デイリー新潮編集部「【平成最凶の事件簿5】堕ちていく男と女、タクシー運転手「H」がネクタイを外すとき」『デイリー新潮』新潮社、2019年4月19日。オリジナルの2019年5月4日時点におけるアーカイブ。2019年5月4日閲覧。