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元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。10月18日に書状をもってあっけなく椙杜隆康は降伏、毛利氏に降った。蓮華山城に隣接していた鞍掛山城の杉隆泰もその報を受けると椙杜隆康同様に降伏した。しかしこの降伏した両名は普段より仲が悪く、椙杜隆康は杉隆泰の降伏が偽りであるという証拠を元就に差し出し(実際に降伏が偽りであったかどうかは不明)、ここに毛利軍と隆泰との関係は決裂した。 |
元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。10月18日に書状をもってあっけなく椙杜隆康は降伏、毛利氏に降った。蓮華山城に隣接していた鞍掛山城の杉隆泰もその報を受けると椙杜隆康同様に降伏した。しかしこの降伏した両名は普段より仲が悪く、椙杜隆康は杉隆泰の降伏が偽りであるという証拠を元就に差し出し(実際に降伏が偽りであったかどうかは不明)、ここに毛利軍と隆泰との関係は決裂した。 |
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10月9日より毛利軍7,000(2万との説もある)が攻撃を開始し、杉軍は兵2,600で迎え撃った。杉軍は、鞍掛城[[本丸]]に1,000、[[二の丸]]に800、鞍掛山東部の谷津ケ原と市頭に400ずつの隊で布陣したとされる。杉軍は善戦するも、14日または27日未明に毛利軍が鞍掛城の搦め手より奇襲をかけて杉親子と城兵1,300(そのうち武士は800人とされる)を討ち取り、落城させた<ref>史跡鞍掛合戦千人塚説明板、史跡鞍掛合戦古戦場跡説明板(岩国市)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130918043212/http://iwakuninishi.com/kuga/index.html 岩国西商工会玖珂支所](2013年9月18日時点の[[インターネット |
10月9日より毛利軍7,000(2万との説もある)が攻撃を開始し、杉軍は兵2,600で迎え撃った。杉軍は、鞍掛城[[本丸]]に1,000、[[二の丸]]に800、鞍掛山東部の谷津ケ原と市頭に400ずつの隊で布陣したとされる。杉軍は善戦するも、14日または27日未明に毛利軍が鞍掛城の搦め手より奇襲をかけて杉親子と城兵1,300(そのうち武士は800人とされる)を討ち取り、落城させた<ref>史跡鞍掛合戦千人塚説明板、史跡鞍掛合戦古戦場跡説明板(岩国市)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130918043212/http://iwakuninishi.com/kuga/index.html 岩国西商工会玖珂支所](2013年9月18日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 歴史漫画鞍掛合戦記</ref>。現在でもこの鞍掛城では、この戦いの際に焼けた米が出土する。 |
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=== 玖珂郡と大島郡の平定 === |
=== 玖珂郡と大島郡の平定 === |
2017年9月4日 (月) 18:43時点における版
防長経略 | |
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毛利軍の防長侵攻に備えて急造された高嶺城跡[注 1] | |
戦争:毛利氏による大内氏討伐 | |
年月日:天文24年(1555年)10月12日 - 弘治3年(1557年)4月3日 | |
場所:周防、長門全域 | |
結果:大内義長自害。 毛利家が周防・長門を完全平定 | |
交戦勢力 | |
毛利氏 | 大内氏 |
指導者・指揮官 | |
毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 |
大内義長 内藤隆世 杉隆泰 山崎興盛 |
戦力 | |
不明[注 2] | 不明[注 3] |
防長経略(ぼうちょうけいりゃく)は、天文24年10月12日(1555年10月27日)から弘治3年4月3日(1557年5月1日)まで行われた、安芸の戦国大名毛利元就の大内氏領周防・長門侵攻作戦のことである。
背景
天文24年10月の厳島の戦いにより、毛利元就は大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破し、その勢いをもって周防・長門両国の攻略を計画した。まず10月12日に厳島から安芸・周防国境の小方(現在の広島県大竹市)に陣を移し、作戦を練った。
大内軍は、本拠地山口に大内義長と内藤隆世の兵3,000、そして山口までの防衛拠点として椙杜隆康の蓮華山城(現在の山口県岩国市周東町。以下、山口県は省略)、杉宗珊・杉隆泰親子の鞍掛山城(岩国市玖珂町)、江良賢宣・山崎興盛の須々万沼城(周南市)、そして陶晴賢の居城で嫡男の陶長房が守る富田若山城(周南市)、右田隆量の右田ヶ岳城(防府市)などそれぞれの城に城兵が籠り、毛利軍を撃退する準備を整えていた。また、石見三本松城の吉見正頼を警戒する野上房忠の軍勢が長門渡川城(山口市阿東)に配置されていた。
周防国東部への侵攻
調略と鞍掛城攻撃
元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。10月18日に書状をもってあっけなく椙杜隆康は降伏、毛利氏に降った。蓮華山城に隣接していた鞍掛山城の杉隆泰もその報を受けると椙杜隆康同様に降伏した。しかしこの降伏した両名は普段より仲が悪く、椙杜隆康は杉隆泰の降伏が偽りであるという証拠を元就に差し出し(実際に降伏が偽りであったかどうかは不明)、ここに毛利軍と隆泰との関係は決裂した。
10月9日より毛利軍7,000(2万との説もある)が攻撃を開始し、杉軍は兵2,600で迎え撃った。杉軍は、鞍掛城本丸に1,000、二の丸に800、鞍掛山東部の谷津ケ原と市頭に400ずつの隊で布陣したとされる。杉軍は善戦するも、14日または27日未明に毛利軍が鞍掛城の搦め手より奇襲をかけて杉親子と城兵1,300(そのうち武士は800人とされる)を討ち取り、落城させた[1][2]。現在でもこの鞍掛城では、この戦いの際に焼けた米が出土する。
玖珂郡と大島郡の平定
翌11月(改元したため弘治元年)には、毛利方の村上水軍が大島郡の宇賀島(周防大島町の浮島)を攻め、大内方の宇賀島水軍を討伐する。島が一時的に無人島になるほど、徹底的に掃討されたと言われる[3]。弘治2年(1556年)の年明けまでに玖珂郡の地侍らの多くは毛利氏に服属したが、山代地方の郷村(周防山代一揆)は成君寺(岩国市本郷町)の山城に籠もって毛利軍に抵抗した[4]。毛利軍は、山代地方の平定に当たっていた坂元祐(坂新五右衛門) が入っていた高森城(岩国市美和町)から成君寺城を攻め、2月12日頃に落城させたと言われる。また、同月18日には三瀬川(岩国市周東町)で大内義長軍を撃退した。
なお、この頃に元就は、大内方の手から離れた石見銀山を確保しようと動いていた尼子氏に対抗して、吉川元春が率いる軍勢を石見国へ向かわせている。また、大友氏が防長経略に介入するのを防ぐため、小寺元武を大友領府内に派遣している。この外交交渉で、九州の大内領を大友氏が平定することを容認し、その引き替えに防長経略へ干渉しないよう依頼している(時期は諸説あり)。さらには、同年秋に肥前国の龍造寺隆信とも結んで、万が一、大友氏が敵に回った場合への備えをしている[5]。
周防国西部への侵攻
須々万沼城攻略
占領した玖珂郡の慰撫と戦力再編の後、岩国の永興寺(ようこうじ)に本陣を移していた毛利軍は、都濃郡にある須々万沼城の攻略を目指した。4月20日に小早川隆景率いる軍勢5,000が攻めるが、沼城に籠もる城主・山崎興盛と大内氏援軍・江良賢宣に撃退される。籠城側は、三方を沼沢に囲まれた城の近くを流れる小辻川を堰き止め、水かさを上げて防備を一層強化していた。籠城兵の数は3,000[6]とも、玖珂郡からの敗残兵らも加わった10,000[7]とも伝えられている。9月22日には毛利隆元が軍勢を率いて再度攻撃するが、やはり落とすことはできなかった。
弘治3年(1557年)2月には元就自身が10,000余の軍勢を率いて沼城攻略を再開。元就は沼城の背後(北側)に位置する緑山から連なる峰(道徳山)に本陣を構え、隆元は東側の権現山に、隆景は南側の日隈山に布陣。さらに、緑山の西側にある熊ノ尾には山口からの増援に備える軍勢を配置した。2月19日より始まった毛利軍の攻撃に対して城兵は頑強に抵抗したものの、3月2日早朝の総攻撃で毛利軍は投げ入れた編竹と筵で沼地を埋め立て城に迫り、籠城していた男女1,500人余(3,000人余とする説もある)が惨殺された[8]。この時、毛利軍は初めて火縄銃を戦闘に使用している。このような毛利軍の猛攻により、まず江良賢宣が降伏し、その後に興盛も沼城を出て開城した。元就は興盛が毛利家に仕えることを望んだが、興盛はそれを固辞して自害している。
- 須々万地区には沼城の戦いの関連して「沼を渉る女」と言う民話が伝わる。沼城に籠城する山崎興盛の子・山崎隆次は新婚であったが籠城の前に妻との離別を余儀なくされていた。しかし、離別させられた妻は夫を恋焦がれ、ついにある晩に「恋う人は沼の彼方よ 濡れぬれて わたるわれをば とがめ給うな」と歌って沼の浅瀬を渡ったと言う[8]。また、この女が沼を渡る様子を見た毛利軍が、浅瀬の場所を知って城に攻め入ることができたとされる[7]。
大内氏の内部崩壊
元就による周防侵攻が進んでいた頃、大内氏の家臣団の内部崩壊も進んでいた。 陶氏の本拠である富田若山城は、晴賢の嫡男である陶長房が、弟・貞明らと共に籠もっており、厳島から脱出した石見国守護代の問田隆盛も滞留していた。しかし、大寧寺の変後に晴賢に討たれた豊前国守護代杉重矩の遺児・杉重輔が襲撃する。重輔の挙兵は毛利と通じていた[9]とも言われ、この戦いも毛利軍による攻略とする場合もある。長房らは、防ぎきれずに城を捨てて龍文寺に逃亡して3月2日に自害した(杉軍による襲撃と長房の死は、厳島の戦い直後の1555年10月とする説ある)。
- 一説によると若山城を捨て要害である龍文寺に立て篭もった長房を破るために、氏神の周方大明神の祭事である念仏踊りに紛れて寺に侵入して内から攻め滅ぼしたと伝えられる。これが、龍文寺に伝わる山口県指定無形民俗文化財の長穂念仏踊[10]の由来とされ、この伝承によれば、要害である龍文寺に立て籠もった陶軍は、門前の沼辺に櫓・塀を築き、橋を落すなどして防備を固め、籠城は数か月に及んだと言われる。
父親の敵である陶氏を討ち滅ぼした重輔であったが、これに怒った内藤隆世が重輔の討伐に動く。義長はこれを仲裁して止めようとするも失敗し、両者の軍勢は山口後河原で戦いとなる。この戦いで山口の街は焼かれ、敗れた重輔が防府にて討たれたのは3月4日であった。
3月8日に陶氏遺臣が残る富田若山城を攻略した毛利軍は、12日には富田若山城を出発して山陽道の浮野峠より防府に進軍した。防府の天神山には、松崎天満宮(防府天満宮)に鷲頭隆政と朝倉弘房が率いる大内軍2,000が駐屯していたが、毛利の大軍により壊滅する[6]。この時の毛利軍は兵2万に及び、情勢不利により山口へ撤退しようとしていた鷲頭・朝倉勢を佐波川周辺で撃ち破ったとされる[11]。一方、右田ヶ岳城の右田隆量や野田長房らは元就の勧告に応じて降伏した。この降伏は、元就が富田若山城に入城した後[5][12]に送った書状によるとも、鷲頭・朝倉勢の敗北後に毛利軍が迫ってからの降参[6]とも言われる。右田ヶ岳城には南方就正が城番として入り、毛利軍に降った右田隆量は、山口攻めの先鋒として氷上山の砦を落とすなど戦功を上げている。防府を制圧した元就は松崎天満宮の大専坊に本陣を移して山口総攻撃の指揮を執ることとした。
大内義長の最期
大内義長と内藤隆世の軍勢のみとなった大内軍は、厳島の戦いの後に築城が始められたばかりで未完成の高嶺城に籠城し、高嶺城の南の守りとなる支城・姫山城には宍道隆慶が入っていた[9]。しかし、先の4日に行われた杉重輔と内藤隆世による戦いで山口の町は焦土と化しており、そこへ毛利元就に与した吉見正頼も阿武郡渡川の野上房忠勢2000[6]を排除して宮野口へと迫っていた。京都同様に防衛には向いていない山口を放棄した義長・隆世らは長門豊浦郡(下関市)の且山城(勝山城)へ逃亡。その情報は、15日には毛利本陣に報告された。
毛利軍は山口へ侵攻し、姫山城の宍道勢は降伏。毛利本隊は山口の占領に動き、大内義長追討は福原貞俊に5,000の軍勢を預けて一任する[注 4][5]。そして、大内義長の実家である大友氏の援軍を阻止するために、陸路で1,000余騎を下関へ向かわせ、さらに長門の周防灘から関門海峡にかけてと豊前一帯を、乃美宗勝を主力とする毛利水軍や村上水軍を派遣して、海上封鎖を行った。なお、前年(1556年)のものと思われる11月19日付けの元就の書状で、堀立直正が赤間関(下関の古名)の要害を攻略したことを賞しており、義長らの退路は早い段階で断たれていた[13]。また、毛利軍に呼応して山口へ入った吉見正頼の功を称えた元就は、3月22日に宴を催したとされる。
義長が立て籠もった且山城は堅城であり、城を包囲した福原勢の城攻めは難航した[注 5][5][13]。そこで元就は貞俊に策を預け、「陶晴賢に荷担した謀反人である隆世を許すわけにはいかないが、陶の傀儡であった義長には遺恨は無いので助命して大友氏に送り返す」と勧告する矢文を入れた。反対する義長を説得してこれを受け入れた隆世は4月2日に自刃、義長は開城した且山城を出て長福院(功山寺)に入った。しかし、翌3日に貞俊勢は長福院を包囲して義長に自刃を迫った。謀られた義長であったが、最早どうすることもできずに自害した。陶晴賢亡き後を支えた陶氏の忠臣・野上房忠も、陶長房の嫡子鶴寿丸を殺害の後に自害した。
- 辞世の句
- 大内義長「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」
- 野上房忠「生死を断じ去って 寂寞として声なし 法海風潔く 真如月明らかなり」
これにより大内氏と陶氏の正当なる後継者は絶え、防長経略に成功した元就は、4月23日に防府を発って吉田郡山城へ凱旋した。しかし、11月10日に大内氏遺臣の草場氏・小原氏・河越氏らが、義隆の遺児問田亀鶴丸を擁立して山口の障子ヶ岳城(障子岳)に籠城したため、元就と隆元は再度出陣。翌11日には毛利方の内藤隆春が障子ヶ岳城を急襲して、妙見崎山で大内氏残党軍を撃ち破り(妙見崎の戦い)、久芳賢直、波多野勝実、杉重輔の遺児松千代丸らの軍勢も各所で発生した蜂起を鎮圧したため、元就らが富田(周南市)に着陣した11月末頃までに反乱はほぼ一掃されており[13]、元就らは12月26日に吉田へと帰着した。なお、元就が三子教訓状をしたためたのは、富田の勝栄寺に在陣中していた11月25日とされている[14]。
その後の影響
- 毛利氏
- 大内氏の所領であった周防・長門を併呑することによって毛利氏は一気にその勢力を拡大し、尼子氏と並ぶ中国地方有数の大大名となった。そして、石見銀山を巡って尼子氏と、博多の権益を巡って九州の大友氏との本格的な対立が始まる。なお、毛利氏に抗おうとする大内氏残党の掃討が完了するのは、永禄12年(1569年)までかかった。
- 大内氏
- 義長の死により大内氏の正統は断絶したが、大内義隆の従弟の大内輝弘(大内義興の弟である大内高弘の子)が残っていた。北九州で毛利・大友の戦いが続いていた永禄12年には、大友氏の支援を得て山口に乱入するが、毛利軍に敗北し自刃することになる(大内輝弘の乱)。これにより、大内氏は歴史の表舞台から姿を消している。
- 大友氏
- 豊後の大友義鎮は、実弟の大内義長を見殺して周防国への影響力を失うが、大内氏旧領の豊前・筑前を占領。永禄2年(1559年)6月には豊前国・筑前国の守護に任じられている。一旦は毛利氏と和を結んだものの、後に九州博多を目指す毛利氏と北九州で激しく戦い、大内輝弘の山口侵入を画策する。
- 尼子氏
- 益田藤兼を介して大内氏と和解し同盟関係を結んでいた尼子氏は、新宮党粛清後に軍事・尼子宗家権限強化をすることにより備前浦上氏を攻めるべく備前へと侵攻していた。だが、陶晴賢が戦死してから石見銀山の大内氏勢力が後退したこともあって、この隙を突く形で石見銀山を奪回。銀山付近の忍原へと進出してきた吉川元春・宍戸隆家軍を撃破している(忍原崩れ)。毛利氏が石見銀山を奪回するのは、永禄年間の雲芸和議まで待たねばならなくなった。
- 陶氏
- 陶氏嫡流は断絶したが、傍流の宇野元弘や陶隆満は生き残って毛利氏の家臣となっている。
- 内藤氏
- 内藤隆世は自刃したものの、その叔父の内藤隆春が生き残り、新たに内藤氏当主として長門守護代に就任。内藤氏は江戸時代も長州藩士として続いた。
脚注
注釈
- ^ 画像手前に見えるのは江戸時代末期に作られた山口城跡の表門(旧山口藩庁門)であり、高嶺城跡は背後の鴻ノ峰山頂にある。
- ^ 鞍掛城攻めで10,000、防府侵入時には20,000と言われている。
- ^ 鞍掛城の守兵2,600、須々万沼城の守兵3,000(各地の敗残兵を集めて最大10,000人との説あり)、山口周辺に数千人(防府2,000、阿武郡渡川2,000)と言われている。
- ^ 派遣された主立った武将は、志道元保、桂元親、赤川元保、粟屋元親、児玉就忠、阿曽沼広秀、堀立直正など。
- ^ 4月までに二の丸までは陥落していたとされるが、元就は且山城を「無双の山にて候、何とも手せめにならず候」と評している。
出典
- ^ 史跡鞍掛合戦千人塚説明板、史跡鞍掛合戦古戦場跡説明板(岩国市)
- ^ 岩国西商工会玖珂支所(2013年9月18日時点のアーカイブ) - 歴史漫画鞍掛合戦記
- ^ 山口県/中山間地域づくり推進室/離島・浮島 - 山口県
- ^ 山代地方の歴史 - 山代慶長一揆(山代慶長一揆に関わる庄屋の子孫による解説)
- ^ a b c d 毛利元就「猛悪無道」と呼ばれた男(2010年 新紀元社 著:吉田龍司)
- ^ a b c d 温故私記(長州藩士・国重政恒による史書) - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 周南風土記(著 小川宣・2006年・文芸社)
- ^ a b 須々万沼城址説明板(周南市、都野観光協会)
- ^ a b 大内氏概略 - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
- ^ 指定文化財 長穂念仏踊 - 山口県の文化財(山口県教育庁社会教育・文化財課)
- ^ 防府市下右田の佐波川河川敷(山口県道24号線沿い)にある古戦場跡説明板(防府市教育委員会)
- ^ 右田ヶ岳城址説明板(防府市観光協会)[1] - 右田ヶ岳山麓にある天徳寺ウェブサイト
- ^ a b c 戦争の日本史12 西国の戦国合戦(2007年・吉川弘文館・著:山本浩樹)
- ^ 勝栄寺にある説明板(周南市教育委員会)