コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

阿曽沼広秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
阿曽沼広秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 慶長2年11月29日1598年1月6日
別名 通称:少輔十郎
官位 中務少輔
主君 大内義隆毛利元就輝元
氏族 藤姓足利氏阿曽沼氏
父母 父:阿曽沼弘秀、母:不詳
兄弟 隆郷広秀天野元定
田総元里
元秀、女(毛利元政継室)、就郷、女(桂元信室)
テンプレートを表示

阿曽沼 広秀(あそぬま ひろひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将安芸国安芸郡世能荒山荘(現在の広島県広島市安芸区中野)を本拠地とする国人である阿曽沼氏の当主で鳥籠山城主。大内氏に属していたが、後に毛利氏家臣となった。

生涯

[編集]

阿曽沼氏は安芸国安芸郡世能を本拠地とする国人。阿曽沼氏は戦国期、大内氏に属していたが、大永3年(1523年)頃に大内氏を離反して尼子氏に味方するも、大永7年(1527年)に大内氏重臣の陶興房に攻められて降伏し、再び大内氏に属した。

天文20年(1551年)の大寧寺の変大内義隆が討たれると、翌天文21年(1552年)に毛利元就が兄・阿曽沼隆郷の鳥籠山城を攻撃したため、阿曽沼氏は毛利氏に帰属した。この時、隆郷が隠居して広秀が後を継ぎ、同年の備後国志川瀧山城宮光音攻撃に参加した。

その後も厳島の戦い防長経略などで活躍し、永禄12年(1569年)の立花城の戦いでは宝満城で大友軍の退路を遮断する高橋鑑種の援軍となった。また、永禄13年(1570年4月17日牛尾城攻めや天正3年(1575年1月1日備中国吉城攻めでは、いずれも自ら敵の首1つを討ち取るなどの活躍を見せている[1][2]

しかし一方で、元亀元年(永禄13年、1570年)の出雲遠征では参陣を遅らせて元就からの催促を請けていたり、毛利氏から課せられた公事に対して不満を表明したりするなど、天文21年(1552年)に毛利氏に属してからも自立性を維持していた。

また、室町幕府とも関係を持ち、永禄3年2月20日1560年3月16日)には13代将軍・足利義輝の仲介で朝廷から中務少輔の官途を拝領していた。このこともあって、天正16年(1588年)には翌年の足利義輝の25年忌の仏事料を納め、真木島昭光飯尾昭連織田信秀から礼状を送られた。

慶長2年11月29日1598年1月6日)、死去。

脚注

[編集]
  1. ^ 『毛利家文書』第374号、永禄13年4月17日付 出雲国牛尾要害合戦頸注文。
  2. ^ 『毛利家文書』第375号、天正3年1月1日付 備中国手要害合戦頸注文。

出典

[編集]
  • 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社、1996年
  • 萩藩閥閲録』巻35「阿曽沼二郎三郎」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション