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問田隆盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
問田隆盛
時代 戦国時代
生誕 永正16年11月12日1519年12月3日
死没 弘治3年(1557年)3月
改名 問田隆盛→問田英胤[注釈 1]
別名 通称:十郎
官位 大蔵少輔備中守
主君 大内義隆義長
氏族 多々良姓大内氏問田氏
父母 父:問田興之、母:陶弘護の娘
兄弟 隆盛陶隆房(晴賢)、女(杉十郎室)
安弘弘胤
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問田 隆盛(といだ たかもり)は、戦国時代武将大内氏の家臣で、石見国守護代を務める。通称は十郎。子に問田安弘問田弘胤。実弟に陶隆房(晴賢)。

生涯

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永正16年(1519年11月12日丑の刻に誕生[注釈 2]。父には諸説あるが、大内政弘大内義興の側近として仕えた問田弘胤の子である問田興之と考えられている。

大内義隆に仕えて石見国守護代を務めたが、石見国は吉見氏益田氏など国人の支配が強かったため、守護代としての力はさほどではなかったとされる。

天文3年(1534年5月13日豊後国薄野浦における大友氏との戦いにおいて矢傷を受ける。

天文20年(1551年)に陶隆房(後の晴賢)大寧寺の変を起こした際には、隆房に協力して大内義隆を自害に追い込み、後を継いだ大内義長に仕えた。 天文21年(1552年)に英胤名義で文書を発給している[3]

天文24年(1555年)10月の厳島の戦いにも晴賢に従い参戦したが敗戦し晴賢が自害すると、奇跡的に脱出を遂げたとされている。しかし、弘治3年(1557年)、毛利元就防長経略において杉重輔の攻撃により、晴賢の子である甥・陶長房と共に周防国富田において自害に追い込まれた。享年39。

脚注

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  1. ^ 大内晴英(義長)の代になってから、問田隆盛も名乗った問田氏惣領の世襲官途である「大蔵少輔」を名乗る「問田英胤」という人物の書状が残っており、問田隆盛が大内晴英から「英」の偏諱を受けて改名した可能性が指摘されている[1]
  2. ^ 吉田兼右の『兼右卿記』天文11年(1542年10月5日条。なお、同条において、陶晴賢が問田隆盛の同母弟であることも判明している[2]

出典

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  1. ^ YMGC_Pref_Archの2022年8月19日18時9分のツイート2024年4月3日閲覧。
  2. ^ 和田秀作 2020.
  3. ^ 大日本古文書 家わけ九 吉川家文書別集67頁、1932年発行

参考文献

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