コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「尾崎将司」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
簡潔、リンク、半角、スタイル
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:インターネットアーカイブ - log
458行目: 458行目:
* [http://www.jumboozaki-333.com/ ジャンボ尾崎公式ウェブサイト]
* [http://www.jumboozaki-333.com/ ジャンボ尾崎公式ウェブサイト]
* [http://news.golfdigest.co.jp/tournament/players/profile/tse0000000033.html 『ゴルフダイジェスト オンライン』内プロフィール]
* [http://news.golfdigest.co.jp/tournament/players/profile/tse0000000033.html 『ゴルフダイジェスト オンライン』内プロフィール]
* [http://web.archive.org/web/20040903103022/http://www.89master.com/team/player.php?member_id=151 プロ野球マスターズリーグオフィシャルサイト内プロフィール] - [[インターネットアーカイブ]]2004年9月3日付保存キャッシュ
* [http://web.archive.org/web/20040903103022/http://www.89master.com/team/player.php?member_id=151 プロ野球マスターズリーグオフィシャルサイト内プロフィール] - [[インターネットアーカイブ]]2004年9月3日付保存キャッシュ
{{リダイレクトの所属カテゴリ
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます
|header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます

2017年9月4日 (月) 15:09時点における版

 尾崎 将司 
Masashi “Jumbo” Ozaki
基本情報
名前 尾崎 将司
生年月日 (1947-01-24) 1947年1月24日(77歳)
身長 181 cm (5 ft 11 in)
体重 90 kg (198 lb)
出身地 徳島県の旗徳島県海部郡宍喰町(後の海陽町
経歴
メジャー選手権最高成績
マスターズ 8位タイ: 1973
PGA選手権 47位タイ: 1994
全米オープン 6位タイ: 1989
全英オープン 10位タイ: 1979
成績
優勝回数 JPGA優勝:94回
優勝回数:113回(世界プロツアー最多記録)
賞金王 12回(国内プロツアー最多記録)
ベストスコア 61
世界ランク最高位 5位
賞金ランク最高位 1位
殿堂表彰者
選出年 2011年
選出部門 国際投票
2009年2月25日現在
テンプレートを表示

尾崎 将司(おざき まさし、1947年1月24日 - )は、日本プロゴルファー、元プロ野球選手。本名およびプロ野球時代の登録名尾崎 正司(読みは同じ)で、徳島県海部郡宍喰町出身である。

ジャンボ尾崎」(ジャンボおざき)の別名でも知られ、公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記された[1]世界ランキングの自己最高位は1997年ブリヂストンオープン優勝後の5位である。

日本ゴルフツアー通算94勝、賞金王12回、メジャー大会20勝(日本プロ6勝、日本マッチプレー1勝、フィランソロフィー1勝、日本オープン5勝、日本シリーズ7勝)は歴代最多記録で、通算優勝回数113回は世界プロツアー最多記録であり、2010年世界ゴルフ殿堂入りした。2013年に日本男子レギュラーツアー史上初のエージシュートを、年齢より4打低いスコアで成立させた[2]ISPSヤーマン&ストゥービのアンバサダーである[3]

経歴

野球

尾崎 正司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県海部郡宍喰町(後の海陽町
生年月日 (1947-01-24) 1947年1月24日(77歳)
身長
体重
181 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手外野手
プロ入り 1965年
初出場 1965年6月6日
最終出場 1967年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

徳島県立海南高等学校投手として出場した1964年春のセンバツで決勝戦に進出し、小川邦和がいた広島県立尾道商業高等学校に勝利して初出場で初優勝した。

1965年西鉄ライオンズへ入団して投手として活動したが、同期で入団した池永正明の投球を見て「こんなピッチャーがいたんじゃ、俺なんかピッチャーで飯が食える訳が無い」と外野手として打者へ転向する。二軍で打順4番と活躍したが一軍では活躍できず。1967年12月23日に監督の中西太に退団を申し出る。期待した選手が僅か3年で退団を意向したことを、球団社長は越年で慰留するが「池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった。野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった」と尾崎は翻意せずに退団する[4]

打撃コーチの花井悠にゴルフへの転向を勧められて[5][6]プロゴルファーへ転向を決意するが、西鉄営業圏の九州内で活動することに退団時の騒動が障り、プロを目指して勤めていたカントリークラブを突然クビになり千葉のカントリークラブへ移籍した[4]1970年4月にプロテスト合格して正式にプロゴルファーへ転向し、本名の「正司」から「将司」へ改名した。

プロゴルファー転向から約31年後の2001年に、OBによるリーグとして発足したプロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズへ入団する。登録名は「尾崎 将司[7]、背番号は22[7]、ポジションは外野手[7]として2003年度(同年オフ - 2004年初旬)まで所属した[8]。出場は初年度のみで、3試合出場(打席数5)、打率.200(5打数1安打、1二塁打)の成績であった[7]

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1965 西鉄 17 3 0 0 0 0 1 -- -- .000 160 39.0 40 6 8 0 0 22 0 0 22 21 4.85 1.23
1966 3 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 16 2.1 6 0 1 0 0 0 0 0 4 1 4.50 3.00
通算:2年 20 3 0 0 0 0 1 -- -- .000 176 41.1 46 6 9 0 0 22 0 0 26 22 4.83 1.33

年度別打撃成績

















































O
P
S
1965 西鉄 17 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1966 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1967 29 46 42 0 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 4 0 0 24 0 .048 .130 .071 .202
通算:3年 50 50 46 0 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 4 0 0 25 0 .043 .120 .065 .185

記録

背番号

  • 22 (1965年 - 1967年)

登録名

  • 尾崎 正司 (1965年 - 1967年)

ゴルフ

プロゴルフ転向後は1971年日本プロゴルフ選手権で初優勝、1973年に出場2度目のマスターズ・トーナメントで東洋人で初めて8位入賞、1974年日本オープンゴルフ選手権で優勝、と同世代の青木功中嶋常幸らとともに「AON」時代と呼ばれるほどに日本のゴルフ界で活躍し、弟のジェット健夫、ジョー直道らとともにジャンボ軍団として若年層を育成している。

青木や中島に比して世界挑戦の意欲に乏しいとも評されたが、マスターズ・トーナメントに日本ツアー賞金ランキング1位で招待されて通算18回出場し、自己最高成績は1973年に1オーバー、289打で8位入賞である。1988年暴力団との交流が新聞記事になり、マスターズ出場を辞退する。1995年マスターズの第3ラウンドで、当時19歳のアマチュア選手タイガー・ウッズと共にプレーした。全米オープン1989年に6位入賞する。

1996年11月17日にダンロップ・フェニックス選手権を3連覇してプロ通算100勝利となる。2005年マンダム・ルシード よみうりオープントーナメントで生涯1000試合出場となるが、腰痛で2日目のラウンドを前に棄権する。

1997年中日クラウンズ最終日に2番ホールで、ティーショットラフに打ち込み、ドライバーを持ったままセカンド地点まで歩いてドライバーでアドレスし、アイアンに持ち替えて打った。一連の動作を見ていたグレグ・ノーマンは「尾崎の行為はライの改善ではないか」と競技委員に指摘するが、日本と米国は芝質が異なるため認められず競技終了後に「ゴルフのルールは誰に対しても平等であり、世界共通でなければならない」と語った。

1999年からメジャー大会や世界ゴルフ選手権などの出場資格に「世界ゴルフランキング50位以内」が加えられ、4大メジャーで唯一招待試合であったマスターズに日本人で初めて世界ランキングで出場する。

手首をマジックテープで固定するグローブを発売したが、ゴルフ用品ルールを統括するR&Aから違反を指摘されて発売が中止された。

50歳を過ぎたAONトリオの青木は海外、中嶋は国内、とシニアツアーへそれぞれ積極的に参戦しているが、尾崎は全米プロシニアゴルフ選手権の特別招待を固辞して「レギュラーツアーにこだわる。シニアツアーに参加しない」と消極的で、一度も参加していない。

2002年全日空オープンで、ツアー制度を1973年に施行して以来最年長の55歳で優勝した。ツアー外では戸田藤一郎が1971年の関西プロを56歳9か月と7日で優勝している。

2005年11月1日にゴルフ場開発などによる負債50数億円の民事再生法適用手続きを東京地方裁判所へ申し立て、債務は16億円に減額決定された。

2006年オフシーズン中の12月14日に、坐骨神経痛腰椎分離症手術した。

2012年はエントリーした全22試合で予選落ちまたは棄権する。2012年オフシーズンにテーラーメイドゴルフ社の傘下に入って間もないアダムスゴルフ社と契約する。

2013年4月25日に、兵庫県川西市の山の原ゴルフクラブ 山の原コースで催された第20回つるやオープンの初日を1イーグル、9バーディー、2ボギーと計62打の9アンダーで周り、コースレコードにタイでレギュラーツアー初のエージシュートとなり単独で首位となるも、最終結果は51位だった。2013年シーズンの予選通過はこの試合のみで、2016年のシーズン終了時点で最後の予選通過である。

2016年3月、日本ゴルフツアー機構特別顧問に就任する[9]

海外メジャー選手権成績

大会 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979
マスターズ CUT T8 CUT T43 T33 DNP CUT CUT
全米オープン DNP DNP DNP DNP DNP DNP DNP DNP
全英オープン DNP DNP DNP DNP DNP DNP T14 T10
PGA選手権 DNP DNP DNP DNP DNP DNP DNP DNP
大会 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989
マスターズ DNP DNP DNP DNP DNP DNP DNP CUT DNP T18
全米オープン DNP DNP DNP DNP DNP DNP DNP T17 CUT T6
全英オープン T60 T35 DNP DNP DNP DNP DNP T11 DNP T40
PGA選手権 DNP CUT DNP DNP DNP DNP DNP DNP DNP DNP
大会 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000
マスターズ 23 T35 DNP T45 CUT T29 CUT 42 CUT CUT T28
全米オープン T24 CUT T23 T33 T28 T28 T67 CUT CUT CUT DNP
全英オープン CUT DNP CUT DNP T38 CUT DNP DNP DNP DNP DNP
PGA選手権 T69 DNP DNP DNP T47 T49 CUT DNP CUT DNP 78

DNP = 出場せず
CUT = ハーフウェイ・カット
T =順位タイ
黄色はトップ10入り。

クラブ

尾崎はクラブに対しても常に今よりも良いものをと求めた。この点では同じクラブを調整しながら長く使った青木とは正反対とも言える。

ドライバー

  • パワービルト : 1971年から1978年
  • ホンマ コレクト : 1970年代後半から1980年代前半
  • マグレガー・ターニーM85 : 1983年
  • テーラーメイド ツアープリファード : 1987年 -
  • ブリヂストン - Jumbo
  • ブリヂストン - J's Professional Weapon
  • ブリヂストン - J's Professional Secret Weapon JB model R
  • ブリヂストン - J's World Stage Metal
  • ブリヂストン - J's World Stage Titanium
  • ワールドワン - O'ja
  • TMJ - JO-33A
  • TMJ - ミサイラー
  • PRGR - TR-X
  • PRGR - TR-X DUO
  • キャスコ
  • GMA - ロイヤルスター

アイアン

  • パワービルト - サイテーション
  • ベンホーガン - パーソナル
  • ブリヂストン - Jumbo MTN III : 1983年 -
  • ブリヂストン - Jumbo MTN III Limited Edition : 1984年 -
  • ブリヂストン - Jumbo MTN III PRO MODEL : 1988年 -
  • ブリヂストン - J's Classical Edition : 1992年
  • ブリヂストン - J's Professional Weapon : 1992年 -
  • ブリヂストン - J's Professional Secret Weapon : 1994年 -
  • ブリヂストン - J's Titanium Muscle Back : 1996年 -
  • ブリヂストン - J's King's Spirit : 1997年
  • ワールドワン - O'ja 2001
  • TMJ - ミレニアム
  • TMJ - ミサイラー
  • PRGR
  • GMA - ロイヤルスター

アイアンの型番として長く使われた MTN III は「M:将司、T:健夫、N:直道、III:三兄弟」の意で、Jumbo、Jet、Joe、の3重 J をマークにし、J's マークは中心のJ'sを囲む三角形が三兄弟を現している。

クラブに対する造詣が深く、P/S、ウェッジのフェース面ノンメッキ、アイアンでのカーボンシャフトパター上部の白いサイトラインなどを積極的に取り入れた。Jumbo MTN III PRO MODEL はスランプから復活時に使用したことから、人気を博して他社でも類似製品が見られた。ブリヂストン時代はグラファイトデザイン社製のカーボンシャフト HM-70、HM-80 9002、HM-80 9003 などを愛用した。

ジャンボ軍団

プロデビュー後に兄弟や飯合肇など同志の後輩らとジャンボ軍団を結成して合同自主トレを開催し、多くのプロゴルファーが参加した。鈴木健などプロ野球選手も参加して自主トレする者もいた。

現在のメンバー

過去のメンバー

人物

千葉真一の『影の軍団シリーズ』を好み、千葉が演ずる主人公が敵を倒す前に唱える「天魔覆滅」を“無”と解釈し、パター打つ直前に「天魔覆滅」と唱え始め[10]「リズムが出ていい」と語っている[10]

歌手としてシングルアルバムを発売し、TV番組ぴったんこカンカンで弟の結婚式が放送された際に五木ひろし山河を歌った。

エース稲尾和久は、別府で催すミニキャンプに入団2年目で帯同を許し、尾崎が球団を辞してプロボウラーへ転向を思慮中にゴルフを勧めるなど「よくかわいがってもらった」[4]

日本食を好み、海外遠征中も白米納豆味噌汁を食した。

関連情報

ディスコグラフィ

シングル

アルバム

  • On The Green(発売時期不明)

出演テレビ番組

  • ジャンボ尾崎のチャレンジゴルフ(NETテレビ、1970年代頃)
  • 旅がらす事件帖 第16話「無情街道にみた風車」(関西テレビ、1981年) - 十六夜十兵衛(特別出演
  • ゴルフ 尾崎兄弟・飯合に挑戦!!(テレビ東京、1980年代から2001年3月まで) - 番組開始当初は『ゴルフ 尾崎兄弟に挑戦!!』。

出演テレビCM

ゲームソフト

脚注

  1. ^ 該当リンク(インターネット・アーカイブ2004年12月5日付保存キャッシュ)
  2. ^ ゴルフ:66歳尾崎将司がエージシュート 史上初の快挙 毎日新聞 2013年04月25日
  3. ^ ISPS HANDA・ヤーマン&ストゥービ オーナーズカップ開催! デイリースポーツ 2017年4月29日
  4. ^ a b c 【12月28日】1967年(昭42) 西鉄投手だったジャンボ尾崎、退団申し出に球団社長キレる”. Sponichi Annex (2007年12月11日). 2013年7月12日閲覧。
  5. ^
  6. ^ 元西鉄外野手の花井悠さん死去 - 『nikkansports.com』野球ニュース 2007年12月15日9時18分 紙面から
  7. ^ a b c d 外部リンク(プロ野球マスターズリーグオフィシャルサイト内プロフィール)を参照。
  8. ^ 参考外部リンク(プロ野球マスターズリーグオフィシャルサイト内福岡ドンタクズメンバー一覧):
    • 2004年8月当時のページ(インターネット・アーカイブ2004年8月17日付保存キャッシュ) ※尾崎の名が明記された最後の保存版
    • 2004年10月当時のページ(インターネット・アーカイブ2004年10月14日付保存キャッシュ) ※尾崎の名が除外された最初の保存版
  9. ^ 青木功氏を新会長に選任 日本ゴルフツアー機構
  10. ^ a b 「ジャンボも唱える影の軍団「天魔覆滅」」『週刊ゴルフダイジェスト』第36巻9月24号、ゴルフダイジェスト社、東京都港区新橋6丁目18-5、2013年9月24日、126頁。 
  11. ^ 尾崎紀世彦がオリジナルとなるこの曲をカバーして発売。

関連項目

外部リンク