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その後しばらくの間招集されることはなかったが、2003年に横浜を年間優勝に導く活躍から代表へと復帰を果たす。復帰してからしばらくは控えであったものの、[[ジーコ]]監督が本格的に3バックを導入した頃からレギュラーとして出場することが増え、[[AFCアジアカップ2004]]ではグループリーグの[[サッカータイ王国代表|タイ]]戦で決勝点を含む2得点、[[バーレーン]]との準決勝では敗戦の危機を救う同点ゴールを決めるなど、[[玉田圭司]]と並んでチームトップタイの3得点を記録する活躍で優勝の原動力となった。その後もレギュラーとして出場を続け、[[2006 FIFAワールドカップ]]本大会ではグループリーグ全3試合にフル出場したが、決勝トーナメント進出はならなかった。 |
その後しばらくの間招集されることはなかったが、2003年に横浜を年間優勝に導く活躍から代表へと復帰を果たす。復帰してからしばらくは控えであったものの、[[ジーコ]]監督が本格的に3バックを導入した頃からレギュラーとして出場することが増え、[[AFCアジアカップ2004]]ではグループリーグの[[サッカータイ王国代表|タイ]]戦で決勝点を含む2得点、[[バーレーン]]との準決勝では敗戦の危機を救う同点ゴールを決めるなど、[[玉田圭司]]と並んでチームトップタイの3得点を記録する活躍で優勝の原動力となった。その後もレギュラーとして出場を続け、[[2006 FIFAワールドカップ]]本大会ではグループリーグ全3試合にフル出場したが、決勝トーナメント進出はならなかった。 |
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ワールドカップ終了後に日本代表から引退することを発表し、2006年内は代表戦に出場しなかったものの、2007年2月[[千葉県]]内で行われる日本代表候補合宿の[[オシムジャパン]]体制でメンバーに初選出され、代表復帰を果たした。その後は不動のレギュラーとして君臨し、[[2010 FIFAワールドカップ]]では[[田中マルクス闘莉王]]とともにセンターバックのコンビを組んでグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合に先発出場し、日本代表の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献。大会終了後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成した報告書では、空中戦の強さと視野の広さがあると評されている<ref>[http://web.archive.org/web/20100905195823/http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20100903024.html ドリブル技術の高さ 空中戦の強さ FIFAが評価した日本代表3人] - スポニチ 2010年9月3日(2010年9月5日時点の[[インターネット |
ワールドカップ終了後に日本代表から引退することを発表し、2006年内は代表戦に出場しなかったものの、2007年2月[[千葉県]]内で行われる日本代表候補合宿の[[オシムジャパン]]体制でメンバーに初選出され、代表復帰を果たした。その後は不動のレギュラーとして君臨し、[[2010 FIFAワールドカップ]]では[[田中マルクス闘莉王]]とともにセンターバックのコンビを組んでグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合に先発出場し、日本代表の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献。大会終了後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成した報告書では、空中戦の強さと視野の広さがあると評されている<ref>[http://web.archive.org/web/20100905195823/http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20100903024.html ドリブル技術の高さ 空中戦の強さ FIFAが評価した日本代表3人] - スポニチ 2010年9月3日(2010年9月5日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。[[彩の国功労賞]]を受賞。 |
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日本代表では守備だけでなくセットプレーにおける得点源としても活躍し、通算得点数17は日本代表におけるDF登録の選手では史上最多記録である。 |
日本代表では守備だけでなくセットプレーにおける得点源としても活躍し、通算得点数17は日本代表におけるDF登録の選手では史上最多記録である。 |
2017年9月4日 (月) 15:05時点における版
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中澤佑二(2008年) | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ボンバーヘッド、ボンバー、ユウジ | |||||
カタカナ | ナカザワ ユウジ | |||||
ラテン文字 | NAKAZAWA Yuji | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1978年2月25日(46歳) | |||||
出身地 | 埼玉県北葛飾郡吉川町 | |||||
身長 | 187cm | |||||
体重 | 78kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 横浜F・マリノス | |||||
ポジション | DF | |||||
背番号 | 22 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1996-1997 | アメリカFC | |||||
1998-2001 | V川崎/東京V | 83 | (5) | |||
2002- | 横浜F・マリノス | 454 | (29) | |||
代表歴2 | ||||||
2000 | 日本 U-23 | |||||
1999-2010 | 日本 | 110 | (17) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2016年12月4日現在。 2. 2010年9月4日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
中澤 佑二(なかざわ ゆうじ、1978年2月25日 - )は、埼玉県北葛飾郡吉川町(現:吉川市)出身のプロサッカー選手。横浜F・マリノス所属。ポジションはディフェンダー(センターバック)。元日本代表。
日本代表でも長年中心選手として活躍しており、出場数は歴代4位の110試合を記録している。また、2010 FIFAワールドカップの開幕前までキャプテンを務めていた(開幕時より長谷部誠に変更)。フィールドプレーヤーとしてはJ1史上のフルタイム出場を記録中である。
来歴
プロ入り前
サッカーを始めたのは小学校6年生とプロ選手の中では遅めだった[1]。埼玉県立三郷工業技術高等学校はサッカーの名門校ではなかったために、卒業後Jリーグに売り込む価値を上げるべくブラジルへサッカー留学を計画する。ブラジルのサッカークラブ・アメリカFCに加入し、次第に練習試合などにも起用されるようになった。チームメイトにはジウベルト・シウバなどがいた。一年後にビザ更新の為日本に帰国したところクラブから必要書類が届かずブラジルでのプレーを断念した。
Jリーグの各クラブへ売り込みをかけたがどのクラブからも誘いは来ず、母校のサッカー部で在校生に混じって練習を続ける。1998年にヴェルディ川崎のユースチームとの練習試合で得点を挙げる活躍を見せ、これをきっかけに練習生契約での加入が決まる。練習生契約では給料は支払われず、必要費用をクラブに支払って練習に参加する。認められればプロと一緒に練習が出来るが、クラブからは交通費など金銭補助は一切無く自腹での練習参加の身となり、地元の埼玉県吉川市からヴェルディの練習場がある東京都稲城市まで(交通費は往復で約1800円)片道2時間かけて練習に参加していた。この時の待遇と経験は本人にとっても屈辱だったようで、プロの練習を横目に単調な反復の基礎体力練習に明け暮れ、練習に付き合ってくれたトレーナーと共に嘆息していた[2]。
東京ヴェルディ
1999年からプロ契約がきまった。同年のシーズンでレギュラーポジションを獲得し、Jリーグ新人王に輝き、シドニー五輪をめざすトルシエ率いるU-23サッカー日本代表に招集され本大会にも出場した。
横浜F・マリノス
2002年に横浜F・マリノスに移籍し、チーム初の2連覇(2003年、2004年)と3ステージ連続優勝(2003年1st、2ndステージ完全制覇、2004年1stステージ)。2004年度にはJリーグMVPを受賞した。2006年のオールスターゲームでは、当時の日本代表GK川口能活から直接フリーキックを決め、DFとして初めてMVPを受賞した[3]。本人のインタビューによれば、直接フリーキックでのゴールは初めてとのこと[4]。 2013年から3年連続リーグ戦全試合出場、2015年10月ヴィッセル神戸戦にてJ1通算500試合出場を達成した[5]。
2017年5月27日、J1リーグ第13節(対戦相手: 清水エスパルス)に出場し、J1通算550試合出場の記録を達成した[6]。6月25日、第16節のヴィッセル神戸戦ではフィールドプレーヤーでは阿部勇樹に並ぶ139試合連続フル出場を果たした。続く、17節の大宮アルディージャでもフル出場をして、フィールドプレーヤーとして歴代1位となる140試合連続フル出場を果たした。
日本代表
1999年9月8日に行なわれたイランとの親善試合でフル代表デビューを果たし、翌2000年に行なわれたAFCアジアカップ2000予選のシンガポール戦で代表初得点。その後はシドニーオリンピックやAFCアジアカップ2000ではレギュラーとして活躍するが、2001年に入ってからスランプに陥り、代表でも同ポジションの松田直樹の控えに甘んじる事が増え、2002 FIFAワールドカップ本大会のメンバー発表前最後の試合であるアウェイのノルウェー戦にはフル出場(同年唯一のAキャップ)するが0-3で敗れ、秋田豊の選出もあってメンバー入りは叶わなかった。
その後しばらくの間招集されることはなかったが、2003年に横浜を年間優勝に導く活躍から代表へと復帰を果たす。復帰してからしばらくは控えであったものの、ジーコ監督が本格的に3バックを導入した頃からレギュラーとして出場することが増え、AFCアジアカップ2004ではグループリーグのタイ戦で決勝点を含む2得点、バーレーンとの準決勝では敗戦の危機を救う同点ゴールを決めるなど、玉田圭司と並んでチームトップタイの3得点を記録する活躍で優勝の原動力となった。その後もレギュラーとして出場を続け、2006 FIFAワールドカップ本大会ではグループリーグ全3試合にフル出場したが、決勝トーナメント進出はならなかった。
ワールドカップ終了後に日本代表から引退することを発表し、2006年内は代表戦に出場しなかったものの、2007年2月千葉県内で行われる日本代表候補合宿のオシムジャパン体制でメンバーに初選出され、代表復帰を果たした。その後は不動のレギュラーとして君臨し、2010 FIFAワールドカップでは田中マルクス闘莉王とともにセンターバックのコンビを組んでグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合に先発出場し、日本代表の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献。大会終了後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成した報告書では、空中戦の強さと視野の広さがあると評されている[7]。彩の国功労賞を受賞。
日本代表では守備だけでなくセットプレーにおける得点源としても活躍し、通算得点数17は日本代表におけるDF登録の選手では史上最多記録である。
評価
デンマークで発行されているワールドカップ専門雑誌『VM2010』において、1対1での守備力の高さや得点力を理由に、田中マルクス闘莉王と共に脅威的存在であると報道されている[8]。
AFCアジアカップ2004では、主要な守備スタッツ7部門中5部門で日本代表1位を記録(サッカー解析システム「opta(オプタ)」より)[9]。同大会MVPには選ばれなかったが、メディアなどからは中澤をMVPに推す声もあった[9]。
所属クラブ
- ユース経歴
- 三輪野江小学校
- 1990年 - 1992年 吉川東中学校
- 1993年 - 1995年 埼玉県立三郷工業技術高等学校
- プロ経歴
- 1996年 - 1997年 アメリカFC
- 1998年 - 2001年 ヴェルディ川崎 / 東京ヴェルディ1969(1998年は練習生契約)
- 2002年 - 横浜F・マリノス
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1996 | アメリカ-MG | ||||||||||
1997 | |||||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1999 | V川崎 | 22 | J1 | 28 | 1 | 2 | 0 | 3 | 1 | 33 | 2 |
2000 | 29 | 4 | 3 | 0 | 2 | 0 | 34 | 4 | |||
2001 | 東京V | 26 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 28 | 0 | ||
2002 | 横浜FM | 38 | 27 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 29 | 1 | |
2003 | 22 | 29 | 4 | 7 | 2 | 2 | 0 | 38 | 6 | ||
2004 | 27 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 28 | 1 | |||
2005 | 27 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 31 | 3 | |||
2006 | 23 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 28 | 1 | |||
2007 | 32 | 2 | 7 | 0 | 1 | 0 | 40 | 2 | |||
2008 | 33 | 4 | 3 | 0 | 3 | 1 | 39 | 5 | |||
2009 | 32 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 36 | 3 | |||
2010 | 22 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 24 | 1 | |||
2011 | 33 | 1 | 5 | 0 | 5 | 0 | 43 | 1 | |||
2012 | 33 | 3 | 3 | 0 | 5 | 0 | 41 | 3 | |||
2013 | 34 | 1 | 8 | 0 | 3 | 1 | 45 | 2 | |||
2014 | 34 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 36 | 3 | |||
2015 | 34 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 40 | 0 | |||
2016 | 34 | 3 | 6 | 0 | 5 | 0 | 43 | 3 | |||
2017 | |||||||||||
通算 | ブラジル | ||||||||||
日本 | J1 | 537 | 34 | 61 | 4 | 40 | 3 | 638 | 41 | ||
総通算 |
その他の公式戦
- 2004年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2005年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2014年
- スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2004 | 横浜FM | 22 | 2 | 0 |
2005 | 4 | 0 | ||
2014 | 5 | 0 | ||
通算 | AFC | 11 | 0 |
個人タイトル
- Jリーグ最優秀選手賞:1回(2004年)
- Jリーグ新人王(1999年)
- Jリーグベストイレブン:6回(1999年、2003年、2004年、2005年、2008年、2013年)
- AFC All Star Team:1回(1999年)
- 日本年間最優秀選手賞:1回(2004年)
- AFCアジアカップベストイレブン:1回(2004年)
- 東アジアサッカー選手権最優秀DF:1回(2008年)
- Jクロニクルベスト ベストイレブン(2013年)
- Jリーグフェアプレー個人賞:1回(2015年)
- J1リーグ・月間MVP:1回(2017年6月)
代表歴
出場大会
- 2000年 シドニーオリンピック
- 2000年 AFCアジアカップ2000
- 2004年 AFCアジアカップ2004
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ
- 2007年 AFCアジアカップ2007
- 2010年 2010 FIFAワールドカップ
試合数
- 国際Aマッチ 110試合 17得点 (1999年 -2010年)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1999 | 1 | 0 |
2000 | 6 | 2 |
2001 | 2 | 0 |
2002 | 1 | 0 |
2003 | 4 | 0 |
2004 | 15 | 5 |
2005 | 12 | 1 |
2006 | 12 | 1 |
2007 | 13 | 2 |
2008 | 16 | 4 |
2009 | 14 | 2 |
2010 | 14 | 0 |
通算 | 110 | 17 |
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2000年2月13日 | マカオ | シンガポール | ○ 3-0 | AFCアジアカップ2007 (予選) |
2. | |||||
3. | 2004年6月9日 | 日本、埼玉 | インド | ○ 7-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
4. | |||||
5. | 2004年7月24日 | 中国、重慶 | タイ | ○ 4-1 | AFCアジアカップ2004 |
6. | |||||
7. | 2004年8月3日 | 中国、済南 | バーレーン | ○ 4-3 | |
8. | 2005年8月7日 | 韓国、大邱 | 韓国 | ○ 1-0 | 東アジアサッカー選手権2005 |
9. | 2006年2月10日 | アメリカ合衆国、サンフランシスコ | アメリカ合衆国 | ● 2-3 | 国際親善試合 |
10. | 2007年6月1日 | 日本、袋井 | モンテネグロ | ○ 2-0 | キリンカップサッカー2007 |
11. | 2007年7月25日 | ベトナム、ハノイ | サウジアラビア | ● 2-3 | AFCアジアカップ2007 |
12. | 2008年1月30日 | 日本、埼玉 | ボスニア・ヘルツェゴビナ | ○ 3-0 | キリンチャレンジカップ2008 |
13. | 2008年2月6日 | 日本、横浜 | タイ | ○ 4-1 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
14. | 2008年6月2日 | 日本、東京 | オマーン | ○ 3-0 | |
15. | 2008年6月14日 | タイ、バンコク | タイ | ○ 3-0 | |
16. | 2009年2月4日 | 日本、東京 | フィンランド | ○ 5-1 | キリンチャレンジカップ2009 |
17. | 2009年10月8日 | 日本、静岡 | 香港 | ○ 6-0 | AFCアジアカップ2011 (予選) |
エピソード
- 週刊ヤングマガジンに『中澤佑二物語』(塀内夏子原作)という漫画が不定期連載され、2009年に講談社より単行本化された。中澤のブラジル時代からのエピソードが描かれている。単行本化に際し受けたインタビューでは「本屋で見つけたら目立つように並べ替えたいくらいです」と語り、喜びを表した[10]。
- 2010年6月11日に放送されたアニメ「クレヨンしんちゃん」にサッカー仙人役で出演し、声優デビューを果たした[11]。
- 雑誌Athlete Safariが主催する『Athlete Dresser Award』で第1回、第2回と2年連続で、お洒落なアスリートとして表彰されている[12]。
関連情報
出演CM
- 明治乳業明治エッセルスーパーカップ(2000年)
- コナミスポーツ(2001年)
- 興和 バンテリン(2000年)、バンテリンエアロゲル(2005年)
- 厚生労働省 労働契約法(2008年)
- オークリー(2009年〜)
- ゆうちょ銀行(2009年〜)
- ウォルト・ディズニー・ジャパン トイストーリー3(2010年)
- アリコジャパン スマートナビ(2010年〜)
- 正友地所 THE WANGAN TOWER(2010年〜)
- SEIKO SEIKOブライツアナンタ(2010年〜)
- オークローンマーケティング スレンダートーンエボリューション(2011年〜)
- JUCOLA クエン酸POWER&ナンコツPOWER(2013年〜)
著書
- 『自分を動かす言葉』ベストセラーズ、2013年。ISBN 9784584123928 。
- 『下手くそ』ダイヤモンド社、2014年。ISBN 9784478026816 。
関連書籍
- 佐藤岳『中澤佑二 不屈』文藝春秋、2010年。ISBN 9784163718804 。
注釈
参考文献
- ^ プロフェッショナル 仕事の流儀 第113回 2009年3月17日放送。
- ^ 媒体などでこの頃を振り返る時もかなりトーンダウンで語っているが、自らの体験を踏まえ、実績がなくて無名であってもプロの門を叩く者らにエールを送っている。
- ^ MVPは中澤(横浜FM)の手に!年に一度のJリーグの祭典にサポーターが酔いしれた、J's GOAL、2006年7月16日発行。
- ^ MVP賞を受賞した中澤佑二選手(EAST/横浜FM)の試合終了後のコメント、J's GOAL、2006年7月16日発行。
- ^ 横浜FMのDF中澤佑二、在籍15年目へ…小林祐三も契約更新 サッカーキング 2016年1月18日
- ^ 横浜F・マリノスDF中澤佑二、史上2人目のJ1通算550試合を達成! Goal.com日本語版 2017.5.27付記事
- ^ ドリブル技術の高さ 空中戦の強さ FIFAが評価した日本代表3人 - スポニチ 2010年9月3日(2010年9月5日時点のアーカイブ)
- ^ “得点源”中沢&闘莉王をデンマークが警戒 スポーツニッポン 2010.5.23付記事
- ^ a b “陰のMVP!中沢!! 守備7部門中5部門でトップ”. nikkansports.com. 2004年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月12日閲覧。
- ^ 週刊ヤングマガジン 2009年6月15日号
- ^ http://www.tv-asahi.co.jp/shinchan/contents/news/100601_a/
- ^ 田臥勇太や中澤佑二、宮﨑大輔らが「アスリートドレッサーアワード」を受賞
関連項目
外部リンク
- 中澤佑二 – FIFA主催大会成績
- 中澤佑二 - National-Football-Teams.com
- 横浜F・マリノスによる公式プロフィール
- 公式ウェブサイト
先代 宮本恒靖 |
日本代表 キャプテン 2006年 - 2010年 |
次代 長谷部誠 |