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[[1958年]](昭和33年)、東宝と専属契約を結ぶ。主演作を作り続けるが、専属初主演は「旅姿鼠小僧」で[[岡本喜八]]監督「[[暗黒街の顔役]]」と「[[暗黒街の対決]]」は興行的にも作品評価も高い成功作だがいずれも名コンビだった三船敏郎の方が評価が高く単独主演ではかつてのような大ヒットに恵まれず、初めてのスランプを味わう。
[[1958年]](昭和33年)、東宝と専属契約を結ぶ。主演作を作り続けるが、専属初主演は「旅姿鼠小僧」で[[岡本喜八]]監督「[[暗黒街の顔役]]」と「[[暗黒街の対決]]」は興行的にも作品評価も高い成功作だがいずれも名コンビだった三船敏郎の方が評価が高く単独主演ではかつてのような大ヒットに恵まれず、初めてのスランプを味わう。


[[1960年]](昭和35年)、東映の[[ゼネラルマネージャー]]的立場にあった[[岡田茂 (東映)|岡田茂]](のち、同社社長)が<ref>[https://web.archive.org/web/20060724085318/http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】](2006年2月3日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、第二東映の設立による役者不足を補うため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』と[[俊藤浩滋]]に相談し、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と俊藤が鶴田を口説き<ref>{{Cite book | 和書 | title = 波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝 | author = 岡田茂 | publisher = [[角川書店]] | year = 2004 | pages = 148-149 | id = ISBN 4-04-883871-7 }}、{{Cite book | 和書 | title = 風雲映画城 | volume = 下 | author = [[松島利行]] | publisher = [[講談社]] | year = 1992 | page = 105 | id = ISBN 4-06-206226-7 }}</ref><ref name="俊藤">{{Cite book | 和書 | title = 任侠映画伝 | author = [[俊藤浩滋]]・[[山根貞男]] | publisher = 講談社 | year = 1999 | pages = 92-98 | id = ISBN 4-06-209594-7 }}</ref>、当時は[[五社協定]](この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の[[藤本真澄]]プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、東映に円満移籍となった<ref name="俊藤" />。時代劇ブームを巻き起こした[[東映京都撮影所]]に比べヒットがなかった現代劇の[[東映東京撮影所]]の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのを始め、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた<ref name="俊藤" />。
[[1960年]](昭和35年)、東映の[[ゼネラルマネージャー]]的立場にあった[[岡田茂 (東映)|岡田茂]](のち、同社社長)が<ref>[https://web.archive.org/web/20060724085318/http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】](2006年2月3日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、第二東映の設立による役者不足を補うため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』と[[俊藤浩滋]]に相談し、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と俊藤が鶴田を口説き<ref>{{Cite book | 和書 | title = 波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝 | author = 岡田茂 | publisher = [[角川書店]] | year = 2004 | pages = 148-149 | id = ISBN 4-04-883871-7 }}、{{Cite book | 和書 | title = 風雲映画城 | volume = 下 | author = [[松島利行]] | publisher = [[講談社]] | year = 1992 | page = 105 | id = ISBN 4-06-206226-7 }}</ref><ref name="俊藤">{{Cite book | 和書 | title = 任侠映画伝 | author = [[俊藤浩滋]]・[[山根貞男]] | publisher = 講談社 | year = 1999 | pages = 92-98 | id = ISBN 4-06-209594-7 }}</ref>、当時は[[五社協定]](この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の[[藤本真澄]]プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、東映に円満移籍となった<ref name="俊藤" />。時代劇ブームを巻き起こした[[東映京都撮影所]]に比べヒットがなかった現代劇の[[東映東京撮影所]]の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのを始め、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた<ref name="俊藤" />。


[[1963年]](昭和38年)、『[[人生劇場 飛車角]]』に主演し大ヒットさせる<ref>[http://www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕]<br />[https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103571 東映キネマ旬報 2007年春号 Vol.2 | 電子ブックポータルサイト 2-9頁]{{リンク切れ|date=October 2016}}<br />[https://web.archive.org/web/20141031055815/https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト 4-7頁](2014年10月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])<br />[http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1TT000003244 人生劇場 飛車角/東映チャンネル]<br />[https://ja-jp.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E7%A7%81%E3%81%A8%E6%9D%B1%E6%98%A0-%EF%BD%98-%E6%B2%A2%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E5%90%89%E7%94%B0%E9%81%94%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-%E5%85%A82%E5%9B%9E/315508851797110 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)]、{{Cite book | 和書 | title = クロニクル東映:1947-1991 | volume = 1 | author = 東映 | publisher = 東映 | year = 1992 |pages = 170-171 }}</ref>。ここから世に言う[[任侠映画]]ブームが始まる<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41760 高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」~現代ビジネス]</ref>。時代劇の東映といわれた同社だが時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど社は傾いていた。この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。鶴田も任侠路線のトップスターとして[[高倉健]]と共に多くのヤクザ映画に出演。本職も唸らすその男の情念は熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画はテレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴く中、多くの観衆を集め続けた。「[[人生劇場 飛車角|人生劇場シリーズ]]」、「[[博徒シリーズ]]」、『[[明治侠客伝 三代目襲名]]』、「関東シリーズ」、「[[博奕打ち 総長賭博#博奕打ちシリーズ|博奕打ちシリーズ]]」、『[[人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊]]』、オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。
[[1963年]](昭和38年)、『[[人生劇場 飛車角]]』に主演し大ヒットさせる<ref>[http://www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕]<br />[https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103571 東映キネマ旬報 2007年春号 Vol.2 | 電子ブックポータルサイト 2-9頁]{{リンク切れ|date=October 2016}}<br />[https://web.archive.org/web/20141031055815/https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト 4-7頁](2014年10月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])<br />[http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1TT000003244 人生劇場 飛車角/東映チャンネル]<br />[https://ja-jp.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E7%A7%81%E3%81%A8%E6%9D%B1%E6%98%A0-%EF%BD%98-%E6%B2%A2%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E5%90%89%E7%94%B0%E9%81%94%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-%E5%85%A82%E5%9B%9E/315508851797110 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)]、{{Cite book | 和書 | title = クロニクル東映:1947-1991 | volume = 1 | author = 東映 | publisher = 東映 | year = 1992 |pages = 170-171 }}</ref>。ここから世に言う[[任侠映画]]ブームが始まる<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41760 高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」~現代ビジネス]</ref>。時代劇の東映といわれた同社だが時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど社は傾いていた。この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。鶴田も任侠路線のトップスターとして[[高倉健]]と共に多くのヤクザ映画に出演。本職も唸らすその男の情念は熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画はテレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴く中、多くの観衆を集め続けた。「[[人生劇場 飛車角|人生劇場シリーズ]]」、「[[博徒シリーズ]]」、『[[明治侠客伝 三代目襲名]]』、「関東シリーズ」、「[[博奕打ち 総長賭博#博奕打ちシリーズ|博奕打ちシリーズ]]」、『[[人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊]]』、オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。


1970年代に入って歌「[[傷だらけの人生]]」がヒット。同名で映画化もされた。左手を耳に添えて歌う独特のスタイルはよく知られているところである。[[第二次世界大戦]]中に海軍軍人として多くの戦友を失ったことから、戦争の悲劇に対する思いは人一倍であり、それが役者人生の原動力にもなっていたと言っていい。
1970年代に入って歌「[[傷だらけの人生]]」がヒット。同名で映画化もされた。左手を耳に添えて歌う独特のスタイルはよく知られているところである。[[第二次世界大戦]]中に海軍軍人として多くの戦友を失ったことから、戦争の悲劇に対する思いは人一倍であり、それが役者人生の原動力にもなっていたと言っていい。

2017年9月4日 (月) 14:24時点における版

つるた こうじ
鶴田 浩二
鶴田 浩二
ブロマイド(1950年代)
本名 小野 榮一
おの えいいち
生年月日 (1924-12-06) 1924年12月6日
没年月日 (1987-06-16) 1987年6月16日(62歳没)
出生地 日本の旗 日本 兵庫県西宮市
職業 俳優歌手
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1948年(昭和23年) - 1987年(昭和62年)
配偶者 あり
著名な家族 娘:鶴田さやか
息子:北斗学
孫:清元昂洋
孫:二代目尾上右近
主な作品

映画シリーズ
人生劇場シリーズ』、『博徒シリーズ』、『博奕打ちシリーズ』、『列伝シリーズ』、『関東シリーズ』、『次郎長三国志』シリーズ、『暗黒街シリーズ』 『傷だらけの人生』シリーズ、
映画単独作
明治侠客伝 三代目襲名』、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、『ハワイの夜』、『婦系図 湯島の白梅』、『弥太郎笠 前後篇』、『黄金の犬
ドラマ

男たちの旅路』、『大空港』、『鶴田浩二アワー』
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鶴田 浩二(つるた こうじ、1924年(大正13年)12月6日 - 1987年(昭和62年)6月16日)は、日本俳優歌手。本名は小野 榮一(おの えいいち)。兵庫県西宮市出生。静岡県浜松市出身。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演した。また歌手としても多くのヒットを出し、独特の歌唱法でも有名だった。

人物

戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた抜群の風貌で一躍トップスターに躍り出た。初期はその甘い表情でアイドル的人気を博したが、中年期からは任侠映画や戦争ものでみせた渋い魅力で、日本映画を代表する大スターとして長らく君臨した。また、独特の哀愁を帯びた声と歌唱法により、歌手としても人気が高かった。

家族

女優の鶴田さやかは三女。他に7代目清元延寿太夫に嫁いだ次女の長男・清元節三味線方の清元昂洋と次男・歌舞伎役者の二代目尾上右近は実孫にあたる。

また、弟と称していた俳優の北斗学(北十学)は、若い頃の恋人との間に生まれた実子である。

経歴

生い立ち

戸籍上の出身地は、静岡県浜松市

西宮時代はは結婚しておらず、鶴田の父である大鳥の家が鶴田の母との入籍を許可しなかったためである。鶴田の母は、鶴田を連れて西宮から浜松へと移り住み、別の男性と籍を入れた[注釈 1]。母は、水商売をして生計を立てていたため、幼かった鶴田は目の不自由な祖母と狭い長屋で暮らしていた。祖母は、鶴田の母を産んだ際栄養失調によって失明。祖母との二人暮らしは極貧そのもので、洗面器を炊いていたという。

程なく、祖母が他界。家でたった一人の生活となる。母会いたさに遊廓へ一人で向かったが、客商売の仕事中だった母は相手にしてくれなかった。その上、義父は博打好きであった。

こうした幼少期の思い出から、鶴田は嫌いなものに夕日を挙げている。また、鶴田の娘も父が語った自身の少年時代の思い出話について、友達と遊んだとかそういった仄々とした話題が全くなかったと供述している。

少年時代

14歳の時に、俳優に憧れ当時時代劇スターであった高田浩吉の劇団に入団。此花商業学校から19歳で関西大学専門部商科に入学するがその年に学徒出陣令により徴兵[注釈 2]。終戦まで海軍航空隊に所属し、その体験が人生に多く影響を及ぼした。また22歳の時に薬の副作用で、左耳が難聴になってしまう。1951年(昭和26年)公開の松竹映画「地獄の血闘」に出演した際、共演した歌手の田端義夫に、歌唱方法についてのアドバイスを受け、以後、鶴田は「左耳に左手を沿えて歌う」と言う独特の歌唱スタイルになった。他にも右手小指を立て、マイクを白いハンカチで包んで持つ歌唱スタイルでも有名である。

トップスターへ

1948年(昭和23年)、高田浩吉と大曾根辰夫監督の尽力で松竹入り。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられた。いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年(昭和24年)、『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二高橋貞二と共に松竹「青春三羽烏」と謳われヒットを連発。

1950年代に入っても甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌「平凡」の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のブロマイドの売上も1位となる。甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなす。

1952年(昭和27年)には戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロを興した。SKD(松竹歌劇団)のトップスター、ターキーこと水の江瀧子(後に石原裕次郎を発掘しプロデュース)らが所属タレントとなった。恋人と噂された岸惠子と共演した、戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』(新生プロ制作)も大ヒット。戦後最大のロマンスといわれた二人だが、岸が所属する松竹はそれを許さなかった。鶴田は自殺未遂事件を起こす。同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなっていく。

襲撃事件

左から、小野満、田岡一雄、鶴田(1952年)

1953年(昭和28年)1月6日午後7時頃、大阪・天王寺鶴田浩二襲撃事件が発生した。鶴田は美空ひばりの芸能界の兄貴的存在であり、ひばりの後ろ盾である山口組三代目組長の田岡一雄とは旧知の間柄であったにもかかわらず起きた事件であった。後に田岡は鶴田と会う機会があったが、田岡は脅しや暴力に屈しない鶴田の筋を通す生き方を認め和解、親交を深める事になっていく。「三代目の前で堂々としているのは鶴田ぐらいのもの」と周囲が驚くほどであった。

1955年(昭和30年)、マネージャーの兼松廉吉が青酸カリを飲み死亡。1956年(昭和31年)1月15日、元山口組興行部の西本一三は関西汽船「ひかり丸」から海に落ち死亡。いずれも自殺とされているが、原因ははっきりしない。

映画界のトップスターを襲った鶴田浩二襲撃事件は大きく報道され、当時まだ一地方の組織であった山口組が一気に全国的知名度を持つことになった。それと同時に山口組の機嫌を損ねると酷い目に遭うという恐怖を日本の芸能界興行界に定着させることになった。

新境地

凄惨な事件の後も人気は衰えず、1953年(昭和28年)夏、『野戦看護婦』(児井プロ制作・新東宝配給)ではたった1日の拘束で出演料が300万円という日本映画史上最高額のギャラを得る。これまで松竹との契約ギャラが1本につき180万円で45日間拘束であった。因みにこの年の映画館の入場料は80円であった。尤も松竹入社駆け出しの頃は1本が15万円と言う薄給だった苦痛も味わっておりそれが松竹退社と独立プロ設立につながったとマキノ雅弘監督はコメントしている。花道を通る間に真っ白い着物が女性ファンの口紅で真っ赤になるほど浩ちゃん人気は凄まじく、平凡明星でも人気投票No.1を守り続け、昭和20年代最大のアイドルとして君臨した。裕次郎以前の映画界において抜群の集客力であった。

新生プロは「ハワイの夜」の他「弥太郎笠」等ヒット映画を複数出し、クレインズ・クラブ・プロも主宰したが、信頼していた経理担当者に2000万円を持ち逃げされ鶴田は独立プロの難しさを実感し、フリーとなり、松竹新東宝大映東宝の各映画会社で主演した。が東宝のプロデューサー藤本真澄稲垣浩監督&三船敏郎主演宮本武蔵三部作で佐々木小次郎を演じさせる為に松竹から引き抜いたとコメントしており真偽は不明である。

1953年には海軍飛行予備学生の手記集を原作とする独立プロ系作品『雲流るる果てに』に主演。レッドパージで浪人中だった家城巳代治監督、木村功ら新劇系の共演陣とは特攻観をめぐって対立することもあったが、夜を徹しての討論などでわだかまりを解き、初期の代表作となった。鶴田は試写で人目もはばからず泣き続け、「天皇陛下にご覧いただきたい」とも発言している。

東宝との契約では、必ずクレジットのトップとすること、専属マネージャーを帯同する等の条項が入っていた。鶴田は東宝のスタジオにも大スターらしく、常に大勢の取り巻きを連れて入った。しかしそれは三船敏郎や戦前から活躍する大御所俳優、大監督でも専属のマネージャーは勿論、付き人、個室もないという民主的な社風の東宝ではスタッフの反発を招いた。1955年の『宮本武蔵 完結篇 決闘巌流島』では佐々木小次郎役の準主演者鶴田が、宮本武蔵役の主演者三船を差し置いてクレジットのトップとなった。

1955年(昭和30年)、大映で山本富士子と共演した『婦系図 湯島の白梅』(衣笠貞之助監督。泉鏡花の名作『婦系図』の映画化)での美しく哀しい恋愛シーンは今も語り継がれている。しかし、1956年(昭和31年)の作品『日本橋』(市川崑監督。原作は同じく泉鏡花)にも出演予定だったが、撮影所所長と交際していたある女優を寝取る、というスキャンダルを起こし[1]、降板となる。

1958年(昭和33年)、東宝と専属契約を結ぶ。主演作を作り続けるが、専属初主演は「旅姿鼠小僧」で岡本喜八監督「暗黒街の顔役」と「暗黒街の対決」は興行的にも作品評価も高い成功作だがいずれも名コンビだった三船敏郎の方が評価が高く単独主演ではかつてのような大ヒットに恵まれず、初めてのスランプを味わう。

1960年(昭和35年)、東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂(のち、同社社長)が[2]、第二東映の設立による役者不足を補うため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』と俊藤浩滋に相談し、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と俊藤が鶴田を口説き[3][4]、当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、東映に円満移籍となった[4]。時代劇ブームを巻き起こした東映京都撮影所に比べヒットがなかった現代劇の東映東京撮影所の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのを始め、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた[4]

1963年(昭和38年)、『人生劇場 飛車角』に主演し大ヒットさせる[5]。ここから世に言う任侠映画ブームが始まる[6]。時代劇の東映といわれた同社だが時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど社は傾いていた。この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健と共に多くのヤクザ映画に出演。本職も唸らすその男の情念は熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画はテレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴く中、多くの観衆を集め続けた。「人生劇場シリーズ」、「博徒シリーズ」、『明治侠客伝 三代目襲名』、「関東シリーズ」、「博奕打ちシリーズ」、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。

1970年代に入って歌「傷だらけの人生」がヒット。同名で映画化もされた。左手を耳に添えて歌う独特のスタイルはよく知られているところである。第二次世界大戦中に海軍軍人として多くの戦友を失ったことから、戦争の悲劇に対する思いは人一倍であり、それが役者人生の原動力にもなっていたと言っていい。

一方、テレビドラマにも黎明期から出演している。中でも1976年(昭和51年) - 1982年(昭和57年)まで放送されたNHKのドラマ「男たちの旅路」シリーズ(山田太一原作)は大ヒットとなった。

ただ鶴田の評判は必ずしも良好なものばかりではなく、好き嫌いが激しく屈折したプライドから周囲との衝突や暴言も多かったとされる[注釈 3]。撮影所において宇野重吉加藤泰三國連太郎とは口も利かなかったという。何か伝言しなくてはならない時には人を介し行った。その場合丹波哲郎が多かった[7]。また山城新伍も快く思っていなかった。山城は鶴田存命中からラジオ番組で 「殺したい俳優がいて鶴田浩二と言う」 など実名をあげて非難していた。一例として 「あの人は必ず遅れてくる、それもわざと。あの人が大スターだと言うのは誰でも知っている。それを皆んなの前でやらないと気が済まないんだ。1時間、2時間経っても鶴田さんが来ない。監督も痺れを切らして次の撮影に移行する。そうすると判で押したように鶴田さんが来て監督の横に椅子を置き撮影を見ている。おもむろに 〝監督、俺は誰だ?〟 はい? 〝俺は誰だと聞いているんだ?〟 鶴田浩二さんです。〝鶴田浩二だろう? 俺の撮影を先にやろう!〟 と言って現在の撮影をストップさせ自分の撮影に入らせる。そして悠然と撮影所を後にする。それの繰り返しで、それを皆んなの前でわざとやるんだよ、あの人は!」 山城の憤りは凄く鶴田存命中から批判していたのだから相当なものだったのだろう。また自著で「当時は、新人俳優が楽屋周りを掃除することが慣習的になっていたが、“俺は芝居をやりに来たんだ。掃除しに来たんじゃねぇ!”って突っ張って一切の雑務を行わなかったし、若山先生側にいたこともあって、鶴田さんとか先輩からかなり嫌われた。かなりとんがってたからね」と述懐した。そのため親しい友人は一人もいなかった一方で、寂しがり屋な一面もあり自分の誕生日には役者仲間を自宅に招待して、バースデーパーティーを開いていたという。 反面、頼まれれば引立て役として若手を育てるため助演するのも厭わず、東宝移籍時に助監督だった福田純が監督昇進した第一作「電送人間」に主演したり佐原健二が「空の大怪獣ラドン」撮影中に大怪我をした際に撮影を強行を知った鶴田は“佐原健二を殺す気か!”と撮影所長に怒鳴り込んだ逸話や東映でも松方弘樹梅宮辰夫などを公私にわたり可愛がり、松方は俳優だけでなく人生の師匠としても鶴田を慕い、葬儀では号泣した。

晩年と没後

1985年(昭和60年)にガンが判明したが、本人には本当の病名を伏せていた。翌1986(昭和61)年に病をおして主演したNHKのドラマ『シャツの店』が、彼の遺作となった。その後、闘病生活が続いたものの、1987(昭和62)年6月16日に肺癌のため62歳で死去。鶴田の葬儀の際には多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、鶴田の亡骸に旧海軍の第二種軍装(白い夏服)を着せた上、棺を旭日旗(いわゆる軍艦旗)で包み、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていった。弔辞は池部良が務めた。故人の遺志により墓碑は高野山奥の院、位牌は高野山大円院に安置されている。墓所は鎌倉霊園。

尚、鶴田の死去からわずか1か月後の1987年7月17日、鶴田と同じく昭和の大スターだった石原裕次郎が、52歳の若さで肝細胞癌により亡くなっている。又鶴田とも親交が深かった美空ひばりは当時入院中で、同年8月3日に一旦退院したものの、1989(平成元)年3月に再入院、同年6月24日に間質性肺炎呼吸不全のため、石原と同じ52歳でこの世を去った。

鶴田の没後、少年期の多彩な女性関係や、母親の証言による衝撃的な出生のいわれ、財産分与等についてのスキャンダラスな報道がマスコミで報道され、家族は精神的な痛手を蒙った。

人物像

無類の野球好きとしても知られ、鶴田ヤンガースなる私設野球チームを率いたこともある。

生前の右派的言動、また多くの軍歌を歌ったことや戦争映画の主演から右翼と評される事もあり、実際に右翼の宣伝車による街頭行動の際、彼が唄う曲が流される事も多い。「博奕打ち 総長賭博」を絶賛していた鶴田ファンの三島由紀夫と雑誌で対談して以来、同い年ということもあり親交を暖めるようになる。反面、戦争責任者を憎むこと甚だしく、「東條英機は切腹するべきであった」、「特攻隊は外道の戦術」と公に批判してもいた(軍歌『同期の櫻』を唄う際には、涙ぐみながら唄う姿が見られた)。要するに、戦争経験で多くの知己を亡くした彼の年代の多くがそうであったように、愛国心と反骨心の持ち主であったといえよう。

特攻基地を飛び立つ戦友たちを見送っていった鶴田は、シベリアで倒れていった戦友たちを見ていた作曲家吉田正と親交が深かった。「鶴さん」「吉さん」と呼び合う仲で、鶴田のヒット曲のほとんどは彼の作曲のもの。

「特攻崩れ」の虚実

上の記述の通り元海軍軍人である。若き特攻隊員の苦悩を描いた『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督、1953)に主演して以来、特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、実際には元大井海軍航空隊整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送る立場だった。戦後、元特攻隊員と称するようになる者は多く一つの流行でもあったが、鶴田はあまりにも有名人であるため同隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかった。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった。また、各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通した。これらの行動に、当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れた。

特攻隊生き残りの経歴については、映画会社が宣伝の一環ででっち上げ、本人も積極的に否定せず、特攻崩れを自称する当時の風潮に迎合しただけというのが実情とされている。しかし特攻隊員を見送る立場であった経験から、実際の特攻隊の生き残りよりも本物らしく演じ、『男たちの旅路』においてはこのイメージが最大限に活用された。

出演

映画

  • 遊侠の群れ(1948.12.21、松竹京都)
  • わが恋は燃えぬ(1949.02.09、松竹京都) - 壮士・久保光雄
  • フランチェスカの鐘(1949.05.09、松竹京都)
  • 殺人鬼(1949.06.29、松竹大船)
  • 薔薇はなぜ紅い(1949.10.11、松竹京都)
  • 恋愛三羽烏(1949.11.26、松竹京都)
  • 影法師 寛永坂の決闘(1949.12.25、松竹京都) - 宇津木新二郎
  • 続影法師 龍虎相搏つ (1950.01.08、松竹京都) - 宇津木新二郎
  • 栄光への道(1950.02.19、松竹京都)
  • 危険な年令(1950.04.01、松竹大船)
  • 童貞(1950.05.28、松竹大船)
  • 春の潮 前篇(1950.06.16、松竹大船)
  • 春の潮 後篇(1950.06.25、松竹大船)
  • 接吻第一号(1950.08.05、松竹大船)
  • 大学の虎(1950.08.19、松竹大船)
  • 悲恋華(1950.09.16、松竹京都)
  • エデンの海(1950.10.14、松竹京都=綜芸プロ)
  • 薔薇合戦(1950.10.28、松竹京都=映画芸術協会) - 園池雀太郎
  • 黒い花(1950.11.18、松竹京都)
  • 地獄の血闘(1951.01.20、松竹京都)
  • 乾杯!若旦那(1951.02.04、松竹大船)
  • 海を渡る千万長者(1951.03.01、松竹京都)
  • 怪塔伝(1951.03.17、松竹京都) - 菅野新四郎、矢部源之丞、安財芳太郎
  • 男の哀愁(1951.04.13、松竹大船)
  • 獣の宿(1951.06.08、松竹京都)
  • 東京のお嬢さん(1951.07.06、松竹大船)
  • 若い季節(1951.07.19、松竹大船)
  • 天使も夢を見る(1951.09.05、松竹大船) - 淀川良平
  • 飛び出した若旦那(1951.09.21、松竹大船)
  • あの丘越えて(1951.11.01、松竹大船)
  • 唄くらべ青春三銃士(1952.01.07、松竹京都)
  • 若人の誓い(1952.02.01、松竹大船)
  • 本日休診(1952.02.29、松竹大船)
  • 東京騎士伝(1952.05.08、松竹大船)
  • 坊ちゃん重役(1952.08.21、松竹大船)
  • お茶漬の味(1952.10.01、松竹大船) - 岡田登
  • 弥太郎笠 前後篇(1952.10.30、新東宝=新生プロ) - りゃんこの弥太郎
  • 学生社長(1953.01.03、松竹大船) - 山地丈太郎
  • ハワイの夜(1953.01.09、新東宝=新生プロ)
  • 闘魂(1953.03.05、松竹京都)
  • 岸壁(1953.04.22、松竹大船)
  • ひばりの歌う玉手箱(1953.04.29、松竹大船)
  • 雲ながるる果てに(1953.06.09、重宗プロ=新世紀映画)
  • 野戦看護婦(1953.07.14、新東宝=児井プロ)
  • 薔薇と拳銃(1953.09.22、新生プロ)
  • 花の生涯 彦根篇 江戸篇(1953.10.14、松竹京都)
  • 蛮から社員(1954.01.03、松竹大船)
  • 美空ひばりの春は唄から(1954.01.03、松竹大船)
  • 叛乱(1954.01.03、新東宝)
  • 日の果て(1954.02.03、八木プロ=青年俳優クラブ)
  • 愛染かつら(1954.04.21、大映東京)
  • 昨日と明日の間(1954.06.15、松竹大船) - 白戸魁太郎
  • やくざ囃子(1954.06.30、東京映画=滝村プロ) - 弥太郎
  • 浅草の夜(1954.07.14、大映東京)
  • 此村大吉(1954.09.01、大映京都)
  • 忠臣蔵 花の巻、雪の巻(1954.10.17、松竹京都) - 毛利小平太
  • 結婚記(1954.11.16、クレインズ・クラブ) - 北山悠一
  • 顔役無用 男性No.1(1955.01.03、東宝) - ラッキョウの健
  • 俺も男さ(1955.03.14、新東宝)
  • 風雪講道館(1955.04.01、大映東京)
  • 獄門帳(1955.06.21、松竹京都)
  • 続宮本武蔵 一乗寺の決斗(1955.07.12、東宝) - 佐々木小次郎
  • 女の学校(1955.08.21、宝塚映画) - 佐山信一
  • 愛の歴史(1955.09.07、東京映画) - 小野木清
  • 婦系図 湯島の白梅(1955.09.28、大映東京)
  • 帰って来た若旦那(1955.11.01、東宝) - 岸本修一
  • 応仁絵巻 吉野の盗族(1955.11.22、松竹京都)
  • あばれ行燈(1956.01.03、新東宝)
  • 宮本武蔵 完結篇 決闘巌流島(1956.01.03、東宝) - 佐々木小次郎
  • 四人の誓い(1956.03.11、シネマプロデュース・サークル)
  • 火花(1956.05.01、大映東京)
  • 無法者の島(1956.06.01、大映東京)
  • 与太者と若旦那(1956.06.28、東宝) - 藤井京太郎、沢田健
  • 殉愛(1956.10.31、東宝) - 伊東敏郎
  • 眠狂四郎無頼控(1956.12.26、東宝) - 眠狂四郎
  • いとはん物語(1957.01.15、大映東京) - 友七
  • 慕情の河(1957.02.05、大映東京)
  • 眠狂四郎無頼控 第二話 円月殺法(1957.04.02、東宝) - 眠狂四郎
  • 柳生武芸帳(1957.04.14、東宝) - 霞の千四郎
  • おしどり喧嘩笠(1957.05.22、新芸術プロ)
  • 地獄花(1957.06.25、大映京都) - 野伏の勝
  • 最後の脱走(1957.08.18、東宝)
  • 冥土の顔役(1957.10.22、大映東京) - 南郷次郎
  • 柳生武芸帳 双龍秘剣(1958.01.03、東宝) - 大月千四郎(霞の忍者浮月斉の隠密)
  • 春高樓の花の宴(1958.01.29、大映東京) - 大原光雄役
  • 母(1958.03.05、大映東京) - 山川
  • 忠臣蔵(1958.04.01、大映京都) - 岡野金右衛門
  • 天竜しぶき笠(1958.04.22、大映京都)
  • 天保水滸伝(1958.05.13、松竹京都)
  • 旅姿鼠小僧(1958.07.22、東宝)
  • 眠狂四郎無頼控 魔剣地獄(1958.10.21、東宝)
  • 弥次喜多道中記夫婦篇 弥次喜多道中双六(1958.12.07、東宝) - 薬屋の鶴太郎
  • 暗黒街シリーズ(東宝)
  • 愛情不動(1959.05.19、宝塚映画)
  • 森の石松幽霊道中(1959.07.14、宝塚映画) - 追分三五郎
  • 戦国群盗伝(1959.08.09、東宝)
  • 暴れん坊森の石松(1959.08.30、宝塚映画)
  • 独立愚連隊(1959.10.06) - 馬賊の兄妹ヤン亜東
  • 夜を探がせ(1959.10.18、東宝)
  • 日本誕生(1959.10.25) - 熊曽建(クマソタケルの弟)
  • 夜霧の決闘(1959.12.01、宝塚映画)
  • 電送人間(1960.04.10) - 桐岡勝
  • ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960.04.26) - 友成大尉
  • 大学の山賊たち(1960.07.31、東宝) - 先輩 湯山登
  • 砂漠を渡る太陽(1960.08.24、東映東京) - 曽田力
  • 風流深川唄(1960.09.13、東映東京)
  • 半七捕物帖 三つの謎(1960.10.16、東映京都)
  • 森の石松鬼より怖い(1960.11.22、東映京都)
  • 狐剣は折れず 月影一刀流(1960.12.11、東映京都)
  • 俺が地獄の手品師だ(1961.01.15、東映東京) - 早打ちサブ
  • 鳴門秘帖(1961.01.26)
  • 鳴門秘帖 完結篇(1961.02.19)
  • 地獄に真紅な花が咲く(1961.05.03、ニュー東映東京)
  • 白馬城の花嫁(1961.05.17、東映京都)
  • 花と嵐とギャング(1961.06.23、ニュー東映東京) - 香港ジョー
  • 荒原牧場の決闘(1961.07.15、ニュー東映東京)
  • 幽霊島の掟(1961.08.13、東映京都)
  • モーガン警部と謎の男(1961.08.13、東映東京)
  • 黄色い風土(1961.09.23、ニュー東映東京) - 若宮四郎
  • 湖畔の人(1961.11.22、ニュー東映東京) - 緒方覚太郎(三協電工資金課長)
  • 南太平洋波高し(1962.01.09、東映東京)
  • 霧の港の赤い花(1962.02.21、東映東京)
  • さくら判官(1962.02.28、東映京都) - 松平直之介
  • 誇り高き挑戦(1962.03.28、東映東京) - 黒木
  • 松本清張のスリラー 考える葉(1962.05.16) - 井上代造
  • ギャング対ギャング(1962.07.13、東映東京) - 水原
  • 地獄の裁きは俺がする(1962.08.04、東映東京)
  • 八月十五日の動乱(1962.08.22、東映東京)
  • 三百六十五夜(1962.09.09、東映東京)
  • 暗黒街最後の日(1962.10.12、東映東京)
  • ギャング対Gメン(1962.11.02、東映東京)
  • 裏切者は地獄だぜ(1962.12.23、東映東京) - キューバのジョー
  • 暗黒街の顔役 十一人のギャング(1963.01.15、東映東京) - 権藤
  • ギャング対Gメン 集団金庫破り(1963.02.23、東映東京) - 菊川志郎
  • 人生劇場 飛車角(1963.03.16) - 飛車角
  • 人生劇場 続飛車角(1963.05.25、東映東京) - 飛車角
  • 暗黒街最大の決闘(1963.07.13、東映東京) - 大平健一
  • 暴力団(1963.08.07、東映東京) - 桜木譲
  • 昭和侠客伝(1963.10.05、東映東京) - 重宗
  • 次郎長三国志(1963.10.20)
  • ギャング忠臣蔵(1963.10.20、東映東京) - 田原星夫
  • 続・次郎長三国志(1963.11.10、東映京都)
  • 東京ギャング対香港ギャング(1964.01.01、東映東京) - 藤島
  • 次郎長三国志 第三部(1964.02.08、東映京都)
  • 人生劇場 新・飛車角(1964.03.01、東映東京)
  • 銃殺(1964.06.20、東映東京)
  • 博徒(1964.07.11、東映京都) - 立花猪三郎
  • 竜虎一代(1964.09.23、東映東京)
  • 監獄博徒(1964.10.21、東映京都) - 立花猪三郎
  • 博徒対テキ屋(1964.12.24、東映京都) - 貴島竜太郎
  • 顔役(1965.01.03、東映東京) - 中神正治
  • 日本侠客伝シリーズ 浪花篇(1965.01.30)
  • いれずみ判官(1965.02.25、東映京都)
  • 関東流れ者(1965.04.18、東映京都) - 大谷清次郎
  • 暗黒街仁義(1965.06.13、東映東京)
  • 関東やくざ者(1965.07.10、東映東京) - 大谷清次郎
  • 日本侠客伝 関東篇(1965.08.12、東映京都)
  • 次郎長三国志 甲州路殴り込み(1965.08.25、東映京都)
  • 明治侠客伝 三代目襲名(1965.09.18) - 菊地浅次郎
  • 任侠男一匹(1965.10.15、東映東京)
  • 関東破門状(1965.10.31、東映京都) - 秩父弥三郎
  • 無頼漢仁義(1965.12.04、東映東京)
  • 関東果し状(1965.12.31、東映京都) - 滝井政次郎
  • 日本侠客伝 血斗神田祭り(1966.02.03、東映京都) - 長次
  • 昭和最大の顔役(1966.02.25、東映東京)
  • 日本大侠客(1966.03.19、東映京都)
  • 兄弟仁義(1966.04.23) - 藤上栄次郎
  • 関東やくざ嵐(1966.05.03、東映京都) - 尾形菊治
  • 遊侠三代(1966.05.15、東映東京)
  • 大陸流れ者(1966.06.19、東映東京) - 国分銀次郎
  • 博徒七人(1966.07.09、東映京都) - 柏木半次郎
  • 続兄弟仁義(1966.08.13) - 稲上長次郎
  • 日本暗黒街(1966.08.26、東映京都)
  • 侠客三国志 佐渡ケ島の決斗(1966.10.01、東映東京)
  • お尋ね者七人(1966.11.19、東映京都) - 柏木半次郎
  • 兄弟仁義 関東三兄弟(1966.12.30、東映京都) - 一力良次郎
  • 暗黒街シリーズ 荒っぽいのは御免出せ(1967.01.14、東映京都)
  • 博奕打ち(1967.01.28、東映京都) - 海津銀次郎
  • 組織暴力(1967.02.25、東映東京) - 特別出演
  • 男の勝負 仁王の刺青(1967.03.10、東映京都)
  • 解散式(1967.04.01、東映東京) - 沢木隆三
  • 博奕打ち 一匹竜(1967.05.03、東映京都) - 相生宇之吉
  • 兄弟仁義 続・関東三兄弟(1967.05.20、東映京都) - 末広勝次郎
  • あゝ同期の桜(1967.06.03、東映京都)
  • 男涙の波門状(1967.06.17、東映京都) - 菊石直治
  • 博奕打ち 不死身の勝負(1967.07.08、東映京都) - 朝倉常太郎
  • 渡世人(1967.07.30、東映東京)
  • 兄弟仁義 関東命知らず1967.08.12(、東映京都) - 稲上長次郎
  • 浪花侠客伝 度胸七人斬り(1967.08.26、東映京都) - 直木栄次郎
  • 続渡世人(1967.11.23、東映東京)
  • 三人の博徒(1967.12.01、東映京都) - 大島直次郎
  • 兄弟仁義 関東兄貴分(1967.12.23、東映京都)
  • 人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊(1968.01.03、東映京都) - 大里史郎
  • 博奕打ち 総長賭博(1968.01.14) - 中井信次郎(天龍一家六人衆・中井組組長)
  • 男の勝負 白虎の鉄(1968.01.27、東映京都)
  • 博徒解散式(1968.02.09、東映東京)
  • 極道(1968.03.05、東映京都) - 杵島正
  • 博奕打ち 殴り込み(1968.03.30、東映京都) - 小嵐幸次郎
  • 代貸(1968.04.19、東映東京)
  • 馬賊やくざ(1968.05.21、東映京都) - 南洋之助役
  • あゝ予科練(1968.06.01、東映東京)
  • 侠客列伝(1968.08.01、東映京都)
  • 裏切りの暗黒街 (1968.08.14、東映東京)
  • いかさま博奕(1968.09.03、東映京都) - 明石常次郎役
  • 人生劇場 飛車角と吉良常(1968.10.25、東映東京)
  • 緋牡丹博徒 一宿一飯(1968.11.22、東映京都) - 風間周太郎
  • 博徒列伝(1968.12.28、東映京都) - 若松勇次郎
  • 戦後最大の賭場(1969.04.19、東映京都) - 五木正治
  • 日本暴力団 組長(1969.07.08、東映東京)
  • 賞金稼ぎ(1969.08.13、東映京都) - 徳川家重
  • 必殺博奕打ち(1969.09.06、東映京都)
  • 緋牡丹博徒 鉄火場列伝(1969.10.01、東映京都) - 仏壇三次
  • 日本暗殺秘録(1969.10.15) - 磯部浅一
  • 日本暴力団 組長と刺客(1969.11.20、東映東京)
  • 渡世人列伝(1969.12.27、東映京都) - 稲垣長吉
  • 現代任侠道 兄弟分(1970.01.20、東映東京)
  • 血染の代紋(1970.01.31、東映東京)
  • 任侠興亡史 組長と代貸(1970.02.21、東映東京)
  • 博徒一家(1970.03.29、東映京都) - 橘清次郎
  • 博奕打ち 流れ者(1970.04.18、東映京都) - 舟木栄次郎
  • 日本暴力団 組長くずれ(1970.06.20、東映東京)
  • 札つき博徒(1970.09.09、東映京都) - 柏木竜次
  • 最後の特攻隊(1970.10.29、東映東京)
  • 日本侠客伝 昇り龍(1970.12.03、東映京都) - 島崎勇次
  • 博徒外人部隊(1971.01.12、東映東京)
  • 女渡世人(1971.01.23、東映京都) - 筑波常治
  • 博奕打ち いのち札(1971.02.13、東映京都) - 相川清次郎
  • 日本やくざ伝 総長への道(1971.03.06、東映京都) - 河合己之吉(河合組貸元)
  • 暴力団再武装(1971.05.08、東映東京)
  • 緋牡丹博徒 お命戴きます(1971.06.01、東映京都) - 結城菊太郎
  • 傷だらけの人生(1971.07.03) - 大島清治
  • 博徒斬り込み隊(1971.10.14、東映東京)
  • 昭和残侠伝 吼えろ唐獅子(1971.10.27、東映東京)
  • 任侠列伝 男(1971.12.03、東映京都) - 杉山竜吉
  • 傷だらけの人生 古い奴でござんす(1972.01.22、東映京都) - 大西栄次郎
  • 関東緋桜一家(1972.03.04、東映京都)
  • ギャング対ギャング 赤と黒のブルース(1972.04.14、東映東京)
  • 日本暴力団 殺しの盃(1972.05.27、東映京都)
  • 博奕打ち外伝(1972.07.30、東映京都) - 江川周吉(一匹狼船頭組頭)
  • 着流し百人(1972.10.12、東映京都) - 山田角太郎
  • 日蔭者(1972.11.21、東映京都) - 小池鉄太郎
  • 昭和残侠伝シリーズ 破れ傘(1972.12.30)
  • 三池監獄 兇悪犯(1973.05.12、東映京都) - 友時常次(通称・北海常無期従刑囚)
  • あゝ決戦航空隊(1974.09.14、東映京都) - 大西瀧治郎
  • やくざ戦争 日本の首領(1977.01.22) - 辰巳周平(若頭)
  • 日本の仁義(1977.05.28、東映京都)
  • ゴルゴ13 九竜の首(1977.09.15) - 調達屋・重宗千造
  • 人間の証明(1977.10.08) - 那須警部
  • 聖職の碑(1978.09.23)
  • 総長の首(1979.03.24、東映京都) - 有田栄吉
  • 黄金の犬(1979.06.02)
  • 戒厳令の夜(1980.07.05) - 鳴海望洋
  • 青春の門(1981.01.15)
  • ちゃんばらグラフィティー 斬る!(1981.04.11、東映京都)
  • 連合艦隊(1981.08.08) - 伊藤整一(第二艦隊長官)
  • 制覇(1982.10.30) - 大友兼継(病院長)
  • 修羅の群れ(1984.11.17) - 横山新二郎
  • 最後の博徒(1985.11.16、東映京都) - 菅田猛雄

テレビドラマ

歌手活動

1949年(昭和24年)の「男の夜曲」で歌手活動を始める。これは、師匠の高田浩吉から「鶴田は歌が上手い」と聞いたポリドールに懇願されたことによるものであった。

しかし本人はこのデビュー曲について「嫌々連れていかれたスタジオで、無理やりレコーディングさせられた曲」と後年語っている。[8]それが40年近い歌手人生のスタートであったが、それ以来彼は歌う場面であってもあくまで「俳優の鶴田浩二」として挨拶し、歌手が本職であるという態度は終生取らなかった。「歌手は本業ではない」という謙虚さ故か、ハンドマイクで歌う際は持ち手をハンカチで包むようにして手の汗が付かないよう気遣いを見せた。上述にもあるように左手を左耳に添え、音程を確かめるように歌う姿とともに、「鶴田独自の歌唱スタイル」として広く知られることとなった。

1960年(昭和35年)頃までの歌手としての鶴田は、甘い歌声で恋愛を主とした映画主題歌などを歌うことが多かったが、「好きだった」ヒット後はそれほど大きなヒットに恵まれなかった。しかし1960年代半ばから任侠映画や戦争映画への出演が増えたのに伴い、任侠や中年男の悲哀、そして戦友への鎮魂歌(主に軍歌)を、渋みの加わった声で熱唱する新たな一面を見せるようになっていった。それを代表するのが「傷だらけの人生」そして「同期の桜」である。また、こうしたオリジナル曲の他に、鶴田は軍歌も多数歌っている。

また、戦前の流行歌のカバーのほか、フランク永井和田弘とマヒナスターズ石原裕次郎などのカバーもしており、生涯歌った曲は約200曲を数える。

2009年(平成21年)、実娘・鶴田さやかはCD「涙の宝石」内で、現在の編集技術を使って「赤と黒のブルース」「好きだった」の2曲で鶴田とデュエットしている。

楽曲

初期

ビクター時代

  • 若人の誓い(1951年)
    佐伯孝夫作詞、加藤光男作曲。
    これ以後、鶴田はビクターで活動。
  • さすらいの舟唄(1952年)
    佐伯孝夫作詞、吉田正作曲。
  • 彌太郎笠(1952年)
    佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲。
    映画『彌太郎笠』主題歌。
  • 彌太郎旅唄(1952年)
    佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲。
    榎本美佐江とデュエット。
  • ハワイの夜(1952年)
    佐伯孝夫作詞、司潤吉作曲。
    映画「ハワイの夜」主題歌。
  • 街のサンドイッチマン(1953年)
    宮川哲夫作詞、吉田正作曲。
    最初の大ヒット作。
  • 赤と黒のブルース(1955年)
    宮川哲夫作詞、吉田正作曲。
    ムード歌謡黎明期を代表する一曲。
  • 好きだった(1956年)
    宮川哲夫作詞、吉田正作曲。
    のちに和田弘とマヒナスターズがカバー。
  • 幸福の星(1960年)
    村尾昭作詞、吉田正作曲。
    カップリングの「想い出にしないで」では、松尾和子とデュエット。
  • 無情のブルース(1965年)
    木賊大次郎作詞、小西潤作曲。
    映画「関東流れ者」主題歌。
  • 歌謡組曲「名もない男の詩」(1968年)
    以下の曲と鶴田の台詞によって構成される長編組曲。鶴田の半生を振り返ったもので、終戦後二十数年間の鶴田の心模様が投影されている。このうち、「いいじゃないか」(「センチメンタル・レイン」にカップリング)と、「リーサに逢いたい」(詞は若干異なる)「名もない男のブルース」とはそれぞれシングル化。なお、ここで「同期の桜(台詞)」とあるが、これはのちに発表される「同期の桜(台詞)」とは別のものである。
    1. 「名もない男の詩テーマ(序章)」
      吉田正作詞・作曲
    2. 「名もない男のブルース」
      宮川哲夫作詞、吉田正作曲
    3. 「同期の桜(台詞)」
      大村能章作曲
    4. 「二人の愛」
      吉田正作詞作曲
    5. 「いいじゃないか」
      井田誠一作詞、吉田正作曲
    6. 「貨物船(カーゴ)の男」
      吉田正作詞作曲
    7. 「リーサに逢いたい」
      宮川哲夫作詞、吉田正作曲
    8. 「名もない男のブルース」
    9. 「名もない男の詩テーマ(終章)」
  • 同期の桜(台詞)(1970年)
    小野榮一作詞(西条八十原詞)、大村能章作曲。
    歌詞の使用権の問題により、鶴田作成で特攻隊員の遺書の形をとる「台詞」を「同期の桜」のメロディにのせて朗読。後年、彼は「台詞」のあとに「同期の桜」を歌うバージョンもレコーディングしている。
    「元特攻隊員・鶴田浩二」のイメージを定着させた。
  • 戦友よ安らかに(1970年)
    小野榮一作詞、吉田正作曲。
    「同期の桜(台詞)」のカップリング曲。本人作詞で、戦友への鎮魂の思いが色濃く出ている作品。
  • 傷だらけの人生(1971年)
    藤田まさと作詞、吉田正作曲。
    日本レコード大賞大衆賞受賞作。最大のヒット曲である。
  • 男(1971年)
    藤田まさと作詞、吉田正作曲。
    映画「任侠列伝 男」主題歌。
  • 望郷の町で/生きる
    阿久悠作詞、吉田正作曲。
  • 日陰者(1972年)
    藤田まさと作詞、吉田正作曲。
    映画「日陰者」主題歌。
  • あゝ戦友(1975年)
    柴田よしかず作詞、豊田あつし作曲。
    カップリング曲は「特攻隊節」。
  • たんぽぽの花(1978年)
    作詞・作曲者不詳、曽我部博士補作。
    特攻隊員の愛唱歌だったという。
  • 散る桜残る桜も散る桜(1979年)
    曽我部博士作詞、吉田正作曲。
  • 想われ人は想い人/シンギング・ボトル(1981年)
    星野哲郎作詞、吉田正作曲。
    三沢あけみとデュエット。
  • 望郷歌(エレジー)(1987年)
    荒木とよひさ作詞、吉田正作曲。
    遺作。鶴田の死の約2ヶ月後に発売。晩年の数年間には、この曲のようにしみじみとした歌謡曲を多く歌っていた。

関連書籍

刺客と組長―男の盟約』のタイトルで所収。
1969年(昭和44年)、雑誌「週刊プレイボーイ」7月8日号に『「刺客と組長」―その時は、お互い日本刀で斬り込むという男の盟約』のタイトルで掲載されたもの。

脚注

注釈

  1. ^ つまり、鶴田は私生児である。
  2. ^ 関西大学推薦校友(中退者で社会的に功績のあったものを認定千成会
  3. ^ 共演したこともある俳優川地民夫も回想記『平成忘れがたみ』(たる出版、2008年)で、鶴田の屈折した一面を描いている。

出典

  1. ^ 快楽亭ブラックの黒色映画図鑑「日本橋」”. 日本映画・邦画を見るなら日本映画専門チャンネル (2012年6月1日). 2013年3月18日閲覧。
  2. ^ NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】(2006年2月3日時点のアーカイブ
  3. ^ 岡田茂『波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝』角川書店、2004年、148-149頁。ISBN 4-04-883871-7 松島利行『風雲映画城』 下、講談社、1992年、105頁。ISBN 4-06-206226-7 
  4. ^ a b c 俊藤浩滋山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、92-98頁。ISBN 4-06-209594-7 
  5. ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕
    東映キネマ旬報 2007年春号 Vol.2 | 電子ブックポータルサイト 2-9頁[リンク切れ]
    東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト 4-7頁(2014年10月31日時点のアーカイブ
    人生劇場 飛車角/東映チャンネル
    『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)東映『クロニクル東映:1947-1991』 1巻、東映、1992年、170-171頁。 
  6. ^ 高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」~現代ビジネス
  7. ^ 『大俳優丹波哲郎』(ワイズ出版、2004年)参照
  8. ^ NHKビッグショー』「鶴田浩二 男の詩」より。

外部リンク