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|年=1975-1979<br />1979-1987 |
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|出場(得点)=104 (44)<br />224 (102)<!--国内リーグ戦に限る--> |
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== 経歴 == |
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プロ選手としてのキャリアを始める以前にVfBウルムとSSVウルム1846でアマチュア選手としてプレーをした。そして1975年に[[VfBシュトゥットガルト]]とプロ契約を結び、1979年からは[[バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍した。バイエルン時代には最も成功した時間を過ごし、5度のブンデスリーガ(1980、1981、1985、1986、1987)と3度の[[DFBポカール]](1982、1984、1986)制覇に貢献した。また強烈なヘディングシュートが持ち味で、1987年に現役を退くまでブンデスリーガ通算258試合出場127得点を記録した。 |
プロ選手としてのキャリアを始める以前にVfBウルムとSSVウルム1846でアマチュア選手としてプレーをした。そして1975年に[[VfBシュトゥットガルト]]とプロ契約を結び、1979年からは[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍した。バイエルン時代には最も成功した時間を過ごし、5度のブンデスリーガ(1980、1981、1985、1986、1987)と3度の[[DFBポカール]](1982、1984、1986)制覇に貢献した。また強烈なヘディングシュートが持ち味で、1987年に現役を退くまでブンデスリーガ通算258試合出場127得点を記録した。 |
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[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]としては1979年から1986年の間に国際Aマッチ6試合出場4得点を記録し、1986年の[[1986 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・メキシコ大会]]にも出場し準優勝に貢献した。また33歳と173日の年齢で同大会の決勝戦にも出場した。 |
[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]としては1979年から1986年の間に国際Aマッチ6試合出場4得点を記録し、1986年の[[1986 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・メキシコ大会]]にも出場し準優勝に貢献した。また33歳と173日の年齢で同大会の決勝戦にも出場した。 |
2017年8月29日 (火) 10:37時点における版
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Dieter Hoeneß | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1953年1月7日(71歳) | |||||
出身地 | ウルム | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1975-1979 1979-1987 |
VfBシュトゥットガルト バイエルン・ミュンヘン |
104 (44) 224 (102) | ||||
代表歴 | ||||||
1979-1986 | 西ドイツ | 6 (4) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ディーター・ヘーネス(Dieter Hoeneß, 1953年1月7日 - )は、ドイツ出身の元サッカー選手。ポジションはFW。実兄のウリ・ヘーネスも元サッカー選手。
経歴
プロ選手としてのキャリアを始める以前にVfBウルムとSSVウルム1846でアマチュア選手としてプレーをした。そして1975年にVfBシュトゥットガルトとプロ契約を結び、1979年からはバイエルン・ミュンヘンへ移籍した。バイエルン時代には最も成功した時間を過ごし、5度のブンデスリーガ(1980、1981、1985、1986、1987)と3度のDFBポカール(1982、1984、1986)制覇に貢献した。また強烈なヘディングシュートが持ち味で、1987年に現役を退くまでブンデスリーガ通算258試合出場127得点を記録した。
西ドイツ代表としては1979年から1986年の間に国際Aマッチ6試合出場4得点を記録し、1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会にも出場し準優勝に貢献した。また33歳と173日の年齢で同大会の決勝戦にも出場した。
現役引退後はバイエルン・ミュンヘンの主要なスポンサーであったコンピューターメーカーのコモドール社の広報担当を務めた。1990年からはVfBシュトゥットガルトのゼネラルマネージャーに就任。1996年から2009年まではヘルタ・ベルリンの副会長を務めていた。2010年よりVfLヴォルフスブルクのゼネラルマネージャーに就任した。