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[[2002年]]にはブンデスリーガの強豪クラブである[[バイエルン・ミュンヘン]]に加入し、中盤の核として活躍。
[[2002年]]にはブンデスリーガの強豪クラブである[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]に加入し、中盤の核として活躍。


その活躍ぶりから同クラブのかつての名選手・[[フランツ・ベッケンバウアー]]の後継者との評価も高く、ベッケンバウアーのニックネーム「[[皇帝]]」に準え、バラックは「小皇帝 (''kleiner Kaiser'') 」と呼ばれていた。
その活躍ぶりから同クラブのかつての名選手・[[フランツ・ベッケンバウアー]]の後継者との評価も高く、ベッケンバウアーのニックネーム「[[皇帝]]」に準え、バラックは「小皇帝 (''kleiner Kaiser'') 」と呼ばれていた。
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2017年8月29日 (火) 09:35時点における版

ミヒャエル・バラック
2014年のバラック
名前
愛称 ミヒャ、バッカ、バレ、小皇帝
ラテン文字 Michael BALLACK
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1976-09-26) 1976年9月26日(48歳)
出身地 ゲルリッツ
身長 189cm
体重 85kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1983-1995 東ドイツの旗ドイツの旗 カール=マルクス=シュタット/ケムニッツ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-1997 ドイツの旗 ケムニッツII 18 (5)
1995-1997 ドイツの旗 ケムニッツ 49 (10)
1997-1998 ドイツの旗 カイザースラウテルンII 17 (8)
1997-1999 ドイツの旗 カイザースラウテルン 46 (4)
1999-2002 ドイツの旗 バイヤー・レバークーゼン 79 (27)
2002-2005 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 107 (44)
2006-2010 イングランドの旗 チェルシー 105 (17)
2010-2012 ドイツの旗 バイヤー・レバークーゼン 35 (2)
代表歴
1996-1998 ドイツの旗 ドイツ U-21 19 (7)
1999-2010 ドイツの旗 ドイツ 98 (42)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
バイエルン・ミュンヘン時代

ミヒャエル・バラック(Michael Ballack, 1976年9月26日 - )は、ドイツゲルリッツ(旧東ドイツ)出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダーオフェンシブハーフセンターハーフ)。

経歴

1997年、ブンデスリーガ・1.FCカイザースラウテルンに入団。2年目よりレギュラーとして定着し、能力の高さを発揮する。1999年バイヤー・レバークーゼンへ移籍するとドイツ代表にも招集された。2001-02シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ・国内リーグ・国内カップ戦でそれぞれ準優勝に貢献した。

2002年にはブンデスリーガの強豪クラブであるバイエルン・ミュンヘンに加入し、中盤の核として活躍。

その活躍ぶりから同クラブのかつての名選手・フランツ・ベッケンバウアーの後継者との評価も高く、ベッケンバウアーのニックネーム「皇帝」に準え、バラックは「小皇帝 (kleiner Kaiser) 」と呼ばれていた。

2006年5月プレミアリーグチェルシーFCに移籍。

2007年4月、ニューカッスル戦で相手選手との接触により左足首を負傷。以降、2度に渡って手術を行い、8ヶ月の戦線離脱となる。しかし、足首の負傷が完治した2007年12月以降はパフォーマンスも向上し、完全に復調。イングランドのスタイルにも適応し、チャンピオンズリーグではクラブ史上初の決勝進出への原動力となった。

2009-10シーズンは32試合に出場し、チェルシーの4シーズンぶりのプレミアリーグ優勝に貢献。しかし、シーズン最終戦であるFAカップ決勝のポーツマスFC戦で、ブンデスリーガ時代から因縁があったケヴィン=プリンス・ボアテングに右足首を踏みつけられた際に靭帯を痛め、2010 FIFAワールドカップ出場が絶望となった。チェルシーでは4シーズンでリーグ戦105試合に出場した。2010年夏、契約満了によりチェルシーを退団し、2010年6月25日にブンデスリーガのバイヤー・レバークーゼンへ復帰した[1]

2012年6月末でレバークーゼンとの契約が満了し、2012年10月には弁護士を通して現役引退が発表された[2]

2013年6月5日ライプツィヒにて、かつての同僚や友人が集まる中で引退試合が開催された。

2000年代を代表する選手の一人であり、長らくドイツ代表の中心選手であったが、国際タイトルとは無縁のまま引退することとなった。

ドイツ代表

1999年4月28日スコットランド戦で代表デビューを果たす。2002 FIFAワールドカップ準決勝の韓国戦では、イエローカードをもらうと累積警告で決勝に出場できなくなることを知りながら、味方のミスをカバーするために戦術的ファウルを犯し、イエローカードをもらう。直後にチームを決勝へと導くゴールを挙げた。欠場した決勝には敗れて準優勝に終わった。

ユルゲン・クリンスマンが2004年に代表監督に就任すると東ドイツ出身の選手として初めてキャプテンに指名された。自国開催となる2006 FIFAワールドカップでは得点こそできなかったが、その構成力とキャプテンシーで自国を3位に導く活躍を見せた。

EURO2008ではグループリーグのオーストリア戦で決勝点を挙げるなどチームの準優勝に貢献した。

2010 FIFAワールドカップは、前述5月の負傷により欠場となった。ポーツマスMFのケヴィン=プリンス・ボアテングによるタックルによるもので、右足首靭帯断裂と診断された[3]。2011年6月には、ドイツサッカー連盟から代表引退が発表された[4]。しかし、バラック自身はこの発表に不満を持っており、引退試合への出場も拒否している[5]

個人成績

クラブ個人成績
シーズン クラブ リーグ 国内リーグ 国内カップ戦 リーグカップ 大陸カップ戦 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ドイツ ブンデスリーガ DFBポカール - 欧州 合計
1995–96 ケムニッツFC ツヴァイテリーガ 15 0 - - 15 0
1996–97 レギオナルリーガ 34 10 - - 34 10
1997–98 カイザースラウテルン ブンデスリーガ 16 0 1 0 - - 17 0
1998–99 30 4 1 0 - 6 0 37 4
1999–2000 バイエル・レバークーゼン ブンデスリーガ 23 3 0 0 - 2 2 25 5
2000–01 27 7 2 0 - 5 2 34 9
2001–02 29 17 4 1 - 15 6 48 24
2002–03 バイエルン・ミュンヘン ブンデスリーガ 26 10 5 4 - 7 1 38 15
2003–04 28 7 3 2 - 8 0 39 9
2004–05 27 13 4 3 - 9 2 40 18
2005–06 26 14 5 1 - 6 1 37 16
イングランド プレミアリーグ FAカップ リーグカップ 欧州 合計
2006–07 チェルシー プレミアリーグ 26 4 3 1 5 0 10 2 44 7
2007-08 18 7 2 0 1 0 7 2 28 9
2008-09 29 1 6 3 1 0 10 0 46 4
2009-10 32 4 4 1 2 0 6 0 44 5
ドイツ ブンデスリーガ DFBポカール - 欧州 合計
2010-11 バイエル・レバークーゼン ブンデスリーガ 17 0 0 0 - 2 1 19 1
2011-12 18 2 1 0 - 6 1 25 3
通算 ドイツ 316 87 26 11 - 66 16 414 115
イングランド 105 16 15 5 9 0 33 4 165 26
合計 421 103 41 16 9 0 99 20 580 141

獲得タイトル

チェルシー時代のバラック(2008年)

個人 

代表

カイザースラウテルン

バイエル・レバークーゼン時代

バイエルン・ミュンヘン

チェルシーFC

脚注

  1. ^ バラック、レバークーゼンに復帰UEFA.com、2010年6月25日
  2. ^ バラックが現役引退goal.com、2012年10月3日
  3. ^ バラック、ワールドカップ絶望UEFA.com、2010年5月17日
  4. ^ バラックが代表引退 ドイツ代表主将務める”. 共同通信 (2011年6月16日). 2011年6月18日閲覧。
  5. ^ バラック、ドイツ代表引退試合への出場を拒否「偽善行為そのもの」”. スポーツナビ (2011年6月18日). 2011年6月18日閲覧。

外部サイト