「ACFフィオレンティーナ」の版間の差分
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=== カルチョ・スキャンダルを越えて === |
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勝ち点の大幅剥奪から始まった2006-07シーズンであったが、トーニの破壊力は健在であり、クラブは連戦連勝、勝ち点剥奪がなければチャンピオンズリーグ圏内のリーグ3位(最終順位は5位)というシーズンとなった。またシーズン中にレギュラーポジションを獲得し成長した[[アレッサンドロ・ガンベリーニ]]やゴールキーパーの[[セバスティアン・フレイ]]を中心とした守備陣も奮闘し、チームはリーグ最少失点でシーズンを終えた。トーニはこのシーズン限りで[[バイエルン・ミュンヘン]]に去ったが、長い放浪の末フィオレンティーナでかつての輝きを取り戻した[[アドリアン・ムトゥ]]、[[チェーザレ・プランデッリ]]監督就任以降じっくりと育ててきた若手の[[ジャンパオロ・パッツィーニ]]やモントリーヴォがクラブの屋台骨を支える存在へと成長し<ref>二人はいずれもアタランタ育ちで同じ年にフィオレンティーナに移籍したこと、背丈や顔立ちも似ていることから、ティフォージの間ではまとめて「パッツォリーヴォPazzolivo」との愛称で呼ばれる存在である。[http://pazzolivo.splinder.com/]</ref>、2007-08シーズンはリーグ戦4位、UEFAカップ準決勝進出というセリエA復帰後最高の成績で終わった。 |
勝ち点の大幅剥奪から始まった2006-07シーズンであったが、トーニの破壊力は健在であり、クラブは連戦連勝、勝ち点剥奪がなければチャンピオンズリーグ圏内のリーグ3位(最終順位は5位)というシーズンとなった。またシーズン中にレギュラーポジションを獲得し成長した[[アレッサンドロ・ガンベリーニ]]やゴールキーパーの[[セバスティアン・フレイ]]を中心とした守備陣も奮闘し、チームはリーグ最少失点でシーズンを終えた。トーニはこのシーズン限りで[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]に去ったが、長い放浪の末フィオレンティーナでかつての輝きを取り戻した[[アドリアン・ムトゥ]]、[[チェーザレ・プランデッリ]]監督就任以降じっくりと育ててきた若手の[[ジャンパオロ・パッツィーニ]]やモントリーヴォがクラブの屋台骨を支える存在へと成長し<ref>二人はいずれもアタランタ育ちで同じ年にフィオレンティーナに移籍したこと、背丈や顔立ちも似ていることから、ティフォージの間ではまとめて「パッツォリーヴォPazzolivo」との愛称で呼ばれる存在である。[http://pazzolivo.splinder.com/]</ref>、2007-08シーズンはリーグ戦4位、UEFAカップ準決勝進出というセリエA復帰後最高の成績で終わった。 |
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2008-09シーズンは[[UEFAチャンピオンズリーグ]]に出場するにあたり、大型補強を敢行する。[[アルベルト・ジラルディーノ]]、[[ステヴァン・ヨヴェティッチ]]、[[フアン・マヌエル・バルガス]]、[[フェリペ・メロ]]などの高額移籍金選手に投資した。かつての恩師の下で復活を果たしたジラルディーノや、ブラジル代表に初選出される程の存在感を示したフェリペ・メロら新戦力の活躍もあり、チャンピオンズリーグとの二足の草鞋にも耐え2年連続でリーグ戦を4位で終える。一方で大型補強の煽りを受け出場機会を減らした若手選手が不満を訴え、クラブはパッツィーニや[[パブロ・ダニエル・オスヴァルド]]らの有望若手選手数人を手放すことになる。9シーズンぶりに参加したチャンピオンズリーグでは予備予選を勝ち抜き本大会に出場するが、バイエルン・ミュンヘン、[[オリンピック・リヨン]]らに退けられ、グループリーグで敗退した。 |
2008-09シーズンは[[UEFAチャンピオンズリーグ]]に出場するにあたり、大型補強を敢行する。[[アルベルト・ジラルディーノ]]、[[ステヴァン・ヨヴェティッチ]]、[[フアン・マヌエル・バルガス]]、[[フェリペ・メロ]]などの高額移籍金選手に投資した。かつての恩師の下で復活を果たしたジラルディーノや、ブラジル代表に初選出される程の存在感を示したフェリペ・メロら新戦力の活躍もあり、チャンピオンズリーグとの二足の草鞋にも耐え2年連続でリーグ戦を4位で終える。一方で大型補強の煽りを受け出場機会を減らした若手選手が不満を訴え、クラブはパッツィーニや[[パブロ・ダニエル・オスヴァルド]]らの有望若手選手数人を手放すことになる。9シーズンぶりに参加したチャンピオンズリーグでは予備予選を勝ち抜き本大会に出場するが、バイエルン・ミュンヘン、[[オリンピック・リヨン]]らに退けられ、グループリーグで敗退した。 |
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2009-10シーズンには昨年活躍したメロの他、[[ズドラヴコ・クズマノヴィッチ]]、[[フランコ・セミオーリ]]らを放出するも、思うように補強が進まず不安を抱えたままシーズンをスタートする。しかしながらチャンピオンズリーグでは[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]とのプレーオフを[[アウェーゴール]]の差で辛くも突破し、続くグループリーグではヨヴェティッチらの活躍もあり名門[[リヴァプールFC|リヴァプール]]に連勝。昨年苦杯を呈した[[オリンピック・リヨン]]らを抑え見事を首位で通過する。迎えた決勝トーナメント1回戦では[[バイエルン・ミュンヘン]]と対戦。ファーストレグでは試合終了間際オフサイドポジションに居た[[ミロスラフ・クローゼ]]のゴールが認められる誤審もあり、トータルスコア4-4ながらもアウェーゴールの差で大会を去ることとなった。一方リーグ戦ではカップ戦での疲労もあってか不安定な戦いが続き、中位から下位を彷徨う事になる。冬には主将を務めていた[[ダリオ・ダイネッリ]]がジェノアに移籍、更にムトゥのドーピング陽性反応が発覚。これによりで同選手は9ヶ月の出場停止を言い渡されることになる。これらがチームのさらなるモチベーション低下に大きく影響したと見られ、その後もチームの調子は上がらず最終的にリーグを11位で終え、3年ぶりに欧州カップ戦の舞台から姿を消すこととなった。 |
2009-10シーズンには昨年活躍したメロの他、[[ズドラヴコ・クズマノヴィッチ]]、[[フランコ・セミオーリ]]らを放出するも、思うように補強が進まず不安を抱えたままシーズンをスタートする。しかしながらチャンピオンズリーグでは[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]とのプレーオフを[[アウェーゴール]]の差で辛くも突破し、続くグループリーグではヨヴェティッチらの活躍もあり名門[[リヴァプールFC|リヴァプール]]に連勝。昨年苦杯を呈した[[オリンピック・リヨン]]らを抑え見事を首位で通過する。迎えた決勝トーナメント1回戦では[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]と対戦。ファーストレグでは試合終了間際オフサイドポジションに居た[[ミロスラフ・クローゼ]]のゴールが認められる誤審もあり、トータルスコア4-4ながらもアウェーゴールの差で大会を去ることとなった。一方リーグ戦ではカップ戦での疲労もあってか不安定な戦いが続き、中位から下位を彷徨う事になる。冬には主将を務めていた[[ダリオ・ダイネッリ]]がジェノアに移籍、更にムトゥのドーピング陽性反応が発覚。これによりで同選手は9ヶ月の出場停止を言い渡されることになる。これらがチームのさらなるモチベーション低下に大きく影響したと見られ、その後もチームの調子は上がらず最終的にリーグを11位で終え、3年ぶりに欧州カップ戦の舞台から姿を消すこととなった。 |
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2010-11シーズンは開幕前にヨヴェティッチが負傷で長期離脱が決定。出場停止のムトゥと併せ2大エースを欠いたままリーグ開幕を迎えたチームはその後も負傷者が相次ぎ、一時はリーグ最下位まで低迷する。しかしながら先述の両エースの戦線復帰に伴いチームは徐々に復調。最終的には降格圏の18位に勝ち点15差を付けリーグ9位でシーズンを終えた。 |
2010-11シーズンは開幕前にヨヴェティッチが負傷で長期離脱が決定。出場停止のムトゥと併せ2大エースを欠いたままリーグ開幕を迎えたチームはその後も負傷者が相次ぎ、一時はリーグ最下位まで低迷する。しかしながら先述の両エースの戦線復帰に伴いチームは徐々に復調。最終的には降格圏の18位に勝ち点15差を付けリーグ9位でシーズンを終えた。 |
2017年8月29日 (火) 09:30時点における版
ACFフィオレンティーナ | |||
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原語表記 | ACF Fiorentina S.p.A. | ||
愛称 | Viola, Gigliati | ||
クラブカラー | 紫 | ||
創設年 | 2002年 | ||
所属リーグ | セリエA | ||
ホームタウン | フィレンツェ | ||
ホームスタジアム | スタディオ・アルテミオ・フランキ | ||
収容人数 | 47,495 | ||
代表者 | マリオ・コーニーニ | ||
監督 | ステファノ・ピオリ | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
ACFフィオレンティーナ (イタリア語: ACF Fiorentina) は、イタリアのトスカーナ州フィレンツェを本拠地とするサッカークラブである[1]。
概要
クラブカラーからヴィオラ(イタリア語で「紫・菫色」)の愛称で呼ばれる。また、フィレンツェ市のシンボルである百合の紋章からジリアーティ(イタリア語で「百合の人」)とも呼ばれる。
クラブの全盛期にはリーグ戦、コッパ・イタリア、カップウィナーズカップなどで優勝を経験するなど、インテル、ミラン、ユヴェントス、ローマなどのトップグループに次ぐ強豪クラブとして確固たる地位を築いた。
1990年代中期以降もガブリエル・バティストゥータ、マヌエル・ルイ・コスタらを擁して上位に食い込んだ。
なお、日本にもフィオレンティーナのサポーターは多く、クラブ公認サポーターズクラブ「ヴィオラクラブ・ジャパン」も存在している。クラブとしても1997年から任天堂と2年間、1999年からTOYOTAと8年間(クラブ消滅により2002年からセリエAに復帰する2004年までは一時撤退)、2011年から2014年までMAZDAと3年間それぞれメインスポンサー契約を結んでおり、延べ10年以上に渡って日本企業をユニフォームの胸ロゴとしている他、2004年には中田英寿を獲得するなど日本とは浅からぬ縁があるといえる。ちなみに、任天堂は京都サンガF.C.、MAZDAはサンフレッチェ広島のスポンサーでいずれも紫がチームカラーである(TOYOTAがスポンサーの名古屋グランパスのチームカラーは赤)。
歴史
創設から最初の全盛期まで
旅先のイングランドで観たサッカーに魅了された創設者のルイジ・リドルフィ伯爵は、パレストラ・ジンナスティカ・リベルタス (Palestra Ginnastica Libertas) とクラブ・スポルティーヴォ・フィレンツェ (Club Sportivo Firenze) というフィレンツェの2つのサッカークラブを合併させて、1926年8月26日にACフィオレンティーナ (Associazione Calcistica Fiorentina) を創設した。初期のクラブカラーは紫ではなく、フィレンツェの市章と同じ赤と白のシャツを着ていた。[2][3]
1930-31シーズンのセリエBで優勝して、[4]1931-32シーズンよりセリエAに参加。1930年W杯優勝メンバーだったウルグアイ人FWペドロ・ペトローネがリーグ得点王となる活躍を見せ、セリエA初年度は18チーム中4位に食い込んだ。[5]1931年9月13日にはホームスタジアムのスタディオ・アルテミオ・フランキ(当時はスタディオ・ジョヴァンニ・ベルタと呼称)が開場した。1938-39シーズンにセリエBへと降格したが、1シーズンでセリエAに復帰。1939-40シーズンのコッパ・イタリアではジェノアを決勝で破り、クラブ初タイトルを獲得した。
1950年代から1960年代にかけてクラブは全盛期を迎えた。初めてスクデットを獲得した1955-56シーズンは2位のACミランに勝ち点12差をつけての独走優勝だった。[6]1956-57シーズンにはUEFAチャンピオンズカップで準優勝(優勝はレアル・マドリード)。1960-61シーズンにはUEFAカップウィナーズカップで優勝したが、これはイタリアのクラブにとって最初の欧州タイトルでもあった。
チェッキ・ゴーリ時代
1980年にクラブを買収した宅建業者のフラヴィオ・ポンテッロは、1990年に人気選手のロベルト・バッジョをユヴェントスに売却したことでティフォージから大きな批判を浴びつつオーナーの座を追われた。[3][2]クラブ経営は映画王のマリオ・チェッキ・ゴーリが引き継いだが、補強に失敗して1993-94シーズンに54年ぶりにセリエBへ降格した。[7]マリオの没後は息子のヴィットーリオ・チェッキ・ゴーリが会長に就任した。
セリエB降格でも、クラウディオ・ラニエリが監督に就任してチームを立て直し、残留したアルゼンチン人FWガブリエル・バティストゥータの活躍もあり、1年でセリエAに復帰。セリエAに昇格した1994-95シーズン以降はバティストゥータとポルトガル人ゲームメーカーのマヌエル・ルイ・コスタらを擁して上位に食い込み、1996年にはコッパ・イタリアを制覇した。
1998-99シーズンは、ジョバンニ・トラパットーニが監督に就任しシーズン前半を首位で折り返すも、最終的には首位から勝ち点差14の3位に終わった。[8]
経営破綻と4部降格
1999-2000シーズン終了後、トラパットーニが監督退任したことで、バティストゥータの移籍は決定的となりASローマへ移籍。絶対的なエースを失ったチームは、2000-01シーズンには9位と低迷する。ルイ・コスタをACミランへ放出した2001-02シーズンに至っては17位となり、2002年夏には親会社が破綻。1990年代後半における放漫経営の結果、2000年代に入ると主力選手を次々に放出したことで戦力ダウンして成績は下降した。
2002年、クラブは4部リーグ(セリエC2)に強制降格された。この結果、クラブは消滅し、「フィオレンティーナ」の名称の使用権も旧クラブの債権者に渡ってしまう。しかし、フィレンツェ財界とティフォージたちは新会社「フィオレンティーナ1926」を設立して新チーム フロレンティア・ヴィオラ (Florentia Viola) を結成 (フロレンティアはフィレンツェの古称である) 。フィオレンティーナ再建に取り組んだ。クラブの新オーナーには革靴ブランド企業家のディエゴ・デッラ・ヴァッレが就任した。
セリエA復帰とカルチョ・スキャンダル
フロレンティア・ヴィオラは2002-03シーズン、主将のアンジェロ・ディ・リービオとエースストライカーのクリスティアン・リガノを中心に戦い、セリエC2を優勝。2003年には管財人より「フィオレンティーナ」の商標権を入札により250万ユーロで獲得し、2003-04シーズンからはACFフィオレンティーナ (ACF Fiorentina) として戦うことになった。また特例によりこのシーズンは3部ではなく2部のセリエBに編入された。[9]
いきなり2つ上のリーグで戦うことになったフィオレンティーナは苦戦するも、リガノの得点力はセリエBでも群を抜いており、なんとかセリエA下位クラブとのプレーオフ権が与えられる6位を確保。プレーオフではリガノとディ=リーヴィオが故障で出場出来ないという危機的状況であったが、ACペルージャを下して3季ぶりにセリエAへ復帰することとなった。
2004-05シーズンには中田英寿やマルティン・ヨルゲンセン、トマーシュ・ウイファルシ、ジョルジョ・キエッリーニ、ファブリツィオ・ミッコリ、エンツォ・マレスカなどの有力選手を一気に獲得してセリエAを戦ったが、急造チーム故なかなか勝ち点を獲得出来ず、シーズンを通して残留争いをすることとなる。実はこの苦戦の裏には、ユヴェントスのオーナーが仕掛けた審判による八百長、いわゆるカルチョ・スキャンダルが存在していた(八百長に加わらないクラブに対しては不利な判定を下すというもの)。また、大型補強により加わった新加入の外国人選手達と、それにより出場機会を奪われたセリエB時代からクラブを支えていたと自負する一部のイタリア人選手達との間に軋轢が生じ、ロッカールームの空気もまとまりにかけるものであった。結果、フィオレンティーナは最終節で勝たなければ再び降格という所まで追い詰められたが、アルテミオ・フランキで開催されたシーズン最終節ではディ=リーヴィオの活躍などもあり、残留を決めることとなった。このシーズンは16位でセリエAを終えた。
2005-06シーズンには、前年度の低迷を受けクラブは幹部の大刷新を行う。オーナー兼会長であったディエゴ・デッラ・ヴァッレは名誉会長に退き、実際的なクラブの舵取りは、副会長であった弟のアンドレア・デッラ・ヴァッレに譲りアンドレアが会長に就任。また当時レッチェの躍進を支えていたパンタレオ・コルヴィーノを新たにスポーツディレクターに迎え、夫人の看病のために監督業を休業していたチェーザレ・プランデッリを新体制の監督として招聘。クラブのプロジェクトも中長期的なものに変更し、2010年以降にスクデットを狙える「有望な若手選手と共に成長するクラブ」をスローガンとした。新体制の幹部は前年度に造反したとされる選手達を格安で放出し、新たにルカ・トーニ、ステファノ・フィオーレ、クリスティアン・ブロッキ、セバスティアン・フレイなどのベテラン選手やプランデッリ監督の元教え子を集め、また無名の有望選手を発掘することに長けたコルヴィーノはアレッサンドロ・ガンベリーニ、リッカルド・モントリーヴォ、マヌエル・パスクアルらの若手選手に投資した。このシーズンは前年に獲得した選手たちが漸くまとまってきたことに加え、新加入のルカ・トーニの大活躍もあってクラブは躍進し、チャンピオンズリーグ出場権が与えられる4位となった。
ユヴェントス、ミラン、ラツィオと同様に、セリエAの八百長問題に関わったとして、2006年7月14日に「セリエB降格および勝ち点-12点からのリーグ戦開始」との判決が下された。同年7月25日の控訴審判決において、セリエA残留で2006-07シーズンは-19点からのスタート、2005-06シーズンの勝ち点-30点の判決が下った(カルチョ・スキャンダルの項を参照)。この判決を不服とした一部サポーターがフーリガン化し、フィレンツェ周辺の鉄道を一時不法占拠する事態にまで発展した。
カルチョ・スキャンダルを越えて
勝ち点の大幅剥奪から始まった2006-07シーズンであったが、トーニの破壊力は健在であり、クラブは連戦連勝、勝ち点剥奪がなければチャンピオンズリーグ圏内のリーグ3位(最終順位は5位)というシーズンとなった。またシーズン中にレギュラーポジションを獲得し成長したアレッサンドロ・ガンベリーニやゴールキーパーのセバスティアン・フレイを中心とした守備陣も奮闘し、チームはリーグ最少失点でシーズンを終えた。トーニはこのシーズン限りでバイエルン・ミュンヘンに去ったが、長い放浪の末フィオレンティーナでかつての輝きを取り戻したアドリアン・ムトゥ、チェーザレ・プランデッリ監督就任以降じっくりと育ててきた若手のジャンパオロ・パッツィーニやモントリーヴォがクラブの屋台骨を支える存在へと成長し[10]、2007-08シーズンはリーグ戦4位、UEFAカップ準決勝進出というセリエA復帰後最高の成績で終わった。
2008-09シーズンはUEFAチャンピオンズリーグに出場するにあたり、大型補強を敢行する。アルベルト・ジラルディーノ、ステヴァン・ヨヴェティッチ、フアン・マヌエル・バルガス、フェリペ・メロなどの高額移籍金選手に投資した。かつての恩師の下で復活を果たしたジラルディーノや、ブラジル代表に初選出される程の存在感を示したフェリペ・メロら新戦力の活躍もあり、チャンピオンズリーグとの二足の草鞋にも耐え2年連続でリーグ戦を4位で終える。一方で大型補強の煽りを受け出場機会を減らした若手選手が不満を訴え、クラブはパッツィーニやパブロ・ダニエル・オスヴァルドらの有望若手選手数人を手放すことになる。9シーズンぶりに参加したチャンピオンズリーグでは予備予選を勝ち抜き本大会に出場するが、バイエルン・ミュンヘン、オリンピック・リヨンらに退けられ、グループリーグで敗退した。
2009-10シーズンには昨年活躍したメロの他、ズドラヴコ・クズマノヴィッチ、フランコ・セミオーリらを放出するも、思うように補強が進まず不安を抱えたままシーズンをスタートする。しかしながらチャンピオンズリーグではスポルティングCPとのプレーオフをアウェーゴールの差で辛くも突破し、続くグループリーグではヨヴェティッチらの活躍もあり名門リヴァプールに連勝。昨年苦杯を呈したオリンピック・リヨンらを抑え見事を首位で通過する。迎えた決勝トーナメント1回戦ではバイエルン・ミュンヘンと対戦。ファーストレグでは試合終了間際オフサイドポジションに居たミロスラフ・クローゼのゴールが認められる誤審もあり、トータルスコア4-4ながらもアウェーゴールの差で大会を去ることとなった。一方リーグ戦ではカップ戦での疲労もあってか不安定な戦いが続き、中位から下位を彷徨う事になる。冬には主将を務めていたダリオ・ダイネッリがジェノアに移籍、更にムトゥのドーピング陽性反応が発覚。これによりで同選手は9ヶ月の出場停止を言い渡されることになる。これらがチームのさらなるモチベーション低下に大きく影響したと見られ、その後もチームの調子は上がらず最終的にリーグを11位で終え、3年ぶりに欧州カップ戦の舞台から姿を消すこととなった。
2010-11シーズンは開幕前にヨヴェティッチが負傷で長期離脱が決定。出場停止のムトゥと併せ2大エースを欠いたままリーグ開幕を迎えたチームはその後も負傷者が相次ぎ、一時はリーグ最下位まで低迷する。しかしながら先述の両エースの戦線復帰に伴いチームは徐々に復調。最終的には降格圏の18位に勝ち点15差を付けリーグ9位でシーズンを終えた。
2011-12シーズンは開幕10試合で3勝4敗3分の成績不振からシニシャ・ミハイロヴィチが2011年11月6日のキエーヴォ戦に敗れた翌日、解任された[11]。後任にはデリオ・ロッシが就任し、3バックに切り替えるなどしたものの、成績は上昇せず、終盤戦には残留争いに巻き込まれた。冬にはアマウリをユヴェントスから獲得したものの、1ゴールと完全な期待外れだった。2012年5月2日のノヴァーラ戦では、前半32分に途中交代を命じられたことに腹を立て、皮肉を込めた拍手をしたアデム・リャイッチにロッシが殴りかかり、試合後ロッシは解任された。後任にはチームマネジャーを務めていたヴィンチェンツォ・グエリーニが就任[12]。残り2試合を指揮した。昨シーズン公式戦出場ゼロだったヨヴェティッチが14ゴールを決めてひとり気を吐くも、最終的には13位で終える。また、この年のシーズン終了後SDを務めたコルヴィーノが任期満了により退任した。
コルヴィーノの退任とモンテッラによる改革
2012-13シーズンは前シーズン攻撃的なサッカーでカターニアを躍進させたヴィンチェンツォ・モンテッラを新監督に迎えた。ナスタシッチ、ガンベリーニ、ベーラミを放出した一方、レンタルバックを含め15人もの補強を敢行。フアン・クアドラード、ボルハ・バレロ、ゴンサロ・ロドリゲス、アルベルト・アクィラーニ、ダビド・ピサーロ、ステファン・サヴィッチら新加入の選手が多く主力を担った。冬の移籍市場ではジュゼッペ・ロッシも獲得している。シーズンではピサーロ、バレーロ、アクイラーニらを中心とした攻撃的なポゼッションサッカーを展開。ヨヴェティッチ、リャイッチらの活躍もあり、得点数リーグ1位のナポリと1点差の72得点を記録。最終的にはチャンピオンズリーグ出場権は逃したが4位に入り、ヨーロッパリーグ出場権を獲得した。
2013-14シーズンはエースのヨヴェティッチがマンチェスター・シティFCに移籍、リャイッチもASローマに移籍。しかしマラガからホアキン・サンチェス、ACミランからマッシモ・アンブロジーニ、バイエルン・ミュンヘンからマリオ・ゴメス、パレルモからヨシップ・イリチッチら有力選手を獲得。新加入のマリオ・ゴメスの活躍が期待されていたが早々に故障。代わりにジュゼッペ・ロッシが開幕から前半戦はセリエA得点ランキングで首位を走るなど際立った活躍を見せた。ロッシは2014年初に故障したもののクアドラードなどの活躍でチームも好調を保ち、リーグ戦は前年と同じ4位で終わってヨーロッパリーグ出場権を獲得。コッパ・イタリアは決勝でSSCナポリに敗れて準優勝、ヨーロッパリーグはラウンド16でユヴェントスFCに敗れてベスト16で終わった。シーズン途中にマンチェスター・ユナイテッドFCからアンデルソン、ACミランからアレッサンドロ・マトリをどちらも期限付き移籍で獲得(シーズン終了後に復帰)。
2014-15シーズン開幕前、アンブロジーニが契約満了につき引退、ラファウ・ヴォルスキがFCバーリ1908へ期限付き移籍。ムニル・エル・ハムダウィが期限付き移籍していたマラガCFから復帰。チェルシーFC(2013-14シーズンはセビージャFCに期限付き移籍)からマルコ・マリン、マンチェスター・シティからマイカ・リチャーズが期限付き移籍で加入。ミラン・バデリがハンブルガーSVから完全移籍。と例年に比べて動きの少ないオフシーズンとなった。開幕前の練習中にロッシがまたしても故障してシーズン全ての離脱となる。これを初めとして攻撃陣に負傷者が非常に多く、前半戦は中位をさまようこととなる。冬の市場でFWの穴を埋めるために広州恒大からアレッサンドロ・ディアマンティ、アルベルト・ジラルディーノをどちらも期限付きで獲得。クアドラードがチェルシーFCへ移籍したが、同じチェルシーからエジプト代表モハメド・サラーを期限付きで獲得。加入直後はサラーが出色の活躍を見せたものの元イタリア代表の二人は期待に応えられず苦戦が続いたが、上位が落ちてきたこともあって最終戦で去年と同じ4位に滑り込み、EL出場権を獲得した。しかしチーム得点王がイリチッチの8点、2位タイの7点の中にDFのゴンサロ・ロドリゲスがいるという攻撃陣の不甲斐なさが目立ったシーズンとなった。ヨーロッパリーグは準決勝で前年度優勝(この大会でも優勝している)のセビージャFCに敗れてベスト4、コッパ・イタリアも準決勝でユヴェントスに敗れてベスト4に終わった。シーズン終了後に意見の相違などからモンテッラ監督を解任。スイス王者FCバーゼル監督であったパウロ・ソウザが新監督に就任。[13]。
2015-16シーズン、GKでは正GKのネトがユベントスへ、ロサーティはペルージャ・カルチョへ移籍し、クリスティアーノ・ルパテッリは引退した。DFではマイカ・リチャーズはマンチェスター・シティへ復帰。ステファン・サヴィッチがマリオ・スアレスとの交換トレードの形でアトレティコ・マドリードへ、ミケーレ・カンポレーゼはエンポリへ移籍。MFではモハメド・サラーがチェルシー復帰(のちにローマに期限付き移籍)、ホアキン・サンチェスとフアン・マヌエル・バルガスがレアル・ベティスへ、アルベルト・アクィラーニがスポルティングCPへ移籍。FWではマリオ・ゴメスがベシクタシュJKへ移籍した。これに代わってFWニコラ・カリニッチ・ジョアン・ベルドゥ、DFダヴィデ・アストーリ・ジウベルト・ジュニオール、GKルイージ・セーペなどを獲得し、多数の選手の入れ替えが行われた。
チームはシーズン開幕から好調を維持し、第7節でアタランタを3-0で下し約16年ぶりにリーグ首位に立った。しかし第13節でエンポリと引き分け首位を明け渡すと徐々に調子を落とし、2016年1月からの23試合では僅か7勝と大苦戦。結局この年もCL出場権を得たユーベ、ローマ、ナポリの3チームからは1つも勝ち星を得ることができず、5位でシーズンを終えることとなった。カップ戦においてはコパ・イタリア初戦でカルピに、ELは決勝T一回戦でトッテナムに敗れ、大会を後にした。またシーズン終了後にはチームに11年間在籍しキャプテンを務めたマヌエル・パスクアルが契約満了により退団、後にエンポリに加入した。
2017-18シーズンはゴンサロ・ロドリゲス、フェデリコ・ベルナルデスキ、ヨシップ・イリチッチ、チプリアン・タタルシャヌ、マティアス・ベシーノ、ボルハ・バレロら主力が多く退団した。[14]
タイトル
国内タイトル
- セリエA:2回
- 1955-56, 1968-69
- コッパ・イタリア:6回
- 1939-40, 1960-61, 1965-66, 1974-75, 1995-96, 2000-01
国際タイトル
- UEFAカップウィナーズカップ:1回
- 1960-61
過去の成績
シーズン | ディビジョン | コッパ・イタリア | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
リーグ | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 点 | 順位 | ||
1945-46 | セリエA | 20 | 10 | 3 | 7 | 32 | 16 | 23 | 5位 | |
1946-47 | セリエA | 38 | 10 | 12 | 16 | 46 | 69 | 32 | 17位 | |
1947-48 | セリエA | 40 | 18 | 5 | 17 | 49 | 55 | 41 | 7位 | |
1948-49 | セリエA | 38 | 15 | 8 | 15 | 51 | 60 | 38 | 10位 | |
1949-50 | セリエA | 38 | 18 | 8 | 12 | 76 | 57 | 44 | 5位 | |
1950-51 | セリエA | 38 | 18 | 8 | 12 | 52 | 42 | 44 | 5位 | |
1951-52 | セリエA | 38 | 17 | 9 | 12 | 52 | 38 | 43 | 4位 | |
1952-53 | セリエA | 34 | 11 | 11 | 12 | 31 | 47 | 33 | 7位 | |
1953-54 | セリエA | 34 | 15 | 14 | 5 | 45 | 27 | 44 | 4位 | |
1954-55 | セリエA | 34 | 14 | 11 | 9 | 49 | 48 | 39 | 5位 | |
1955-56 | セリエA | 34 | 20 | 13 | 1 | 59 | 20 | 53 | 1位 | |
1956-57 | セリエA | 34 | 16 | 10 | 8 | 55 | 40 | 43 | 2位 | |
1957-58 | セリエA | 34 | 16 | 11 | 7 | 56 | 36 | 43 | 2位 | 準優勝 |
1958-59 | セリエA | 34 | 20 | 9 | 5 | 95 | 35 | 49 | 2位 | 準々決勝敗退 |
1959-60 | セリエA | 34 | 20 | 7 | 7 | 68 | 31 | 47 | 2位 | 準優勝 |
1960-61 | セリエA | 34 | 13 | 11 | 10 | 46 | 34 | 37 | 7位 | 優勝 |
1961-62 | セリエA | 34 | 19 | 8 | 7 | 57 | 32 | 46 | 3位 | ベスト16 |
1962-63 | セリエA | 34 | 15 | 8 | 11 | 52 | 32 | 38 | 6位 | 2回戦敗退 |
1963-64 | セリエA | 34 | 14 | 10 | 10 | 43 | 27 | 38 | 4位 | 準決勝敗退 |
1964-65 | セリエA | 34 | 16 | 9 | 9 | 52 | 37 | 41 | 5位 | 1回戦敗退 |
1965-66 | セリエA | 34 | 16 | 11 | 7 | 45 | 22 | 43 | 4位 | 優勝 |
1966-67 | セリエA | 34 | 15 | 13 | 6 | 53 | 29 | 43 | 5位 | 準々決勝敗退 |
1967-68 | セリエA | 30 | 13 | 9 | 8 | 35 | 23 | 35 | 4位 | ベスト16 |
1968-69 | セリエA | 30 | 16 | 13 | 1 | 38 | 18 | 45 | 1位 | GS敗退 |
1969-70 | セリエA | 30 | 15 | 6 | 9 | 40 | 33 | 36 | 5位 | 準々決勝敗退 |
1970-71 | セリエA | 30 | 3 | 19 | 8 | 26 | 32 | 25 | 13位 | GS敗退 |
1971-72 | セリエA | 30 | 12 | 12 | 6 | 28 | 20 | 36 | 6位 | 2回戦敗退 |
1972-73 | セリエA | 30 | 16 | 5 | 9 | 39 | 26 | 37 | 4位 | 1回戦敗退 |
1973-74 | セリエA | 30 | 10 | 13 | 7 | 32 | 26 | 33 | 6位 | 1回戦敗退 |
1974-75 | セリエA | 30 | 9 | 13 | 8 | 31 | 27 | 31 | 8位 | 優勝 |
1975-76 | セリエA | 30 | 9 | 9 | 12 | 39 | 39 | 27 | 9位 | 2回戦敗退 |
1976-77 | セリエA | 30 | 12 | 11 | 7 | 38 | 31 | 35 | 3位 | 1回戦敗退 |
1977-78 | セリエA | 30 | 7 | 11 | 12 | 28 | 37 | 25 | 13位 | 2回戦敗退 |
1978-79 | セリエA | 30 | 10 | 12 | 8 | 26 | 26 | 32 | 7位 | 1回戦敗退 |
1979-80 | セリエA | 30 | 11 | 11 | 8 | 33 | 27 | 33 | 5位 | 1回戦敗退 |
1980-81 | セリエA | 30 | 9 | 14 | 7 | 28 | 25 | 32 | 5位 | 準々決勝敗退 |
1981-82 | セリエA | 30 | 17 | 11 | 2 | 48 | 14 | 45 | 2位 | 準々決勝敗退 |
1982-83 | セリエA | 30 | 12 | 10 | 8 | 36 | 25 | 34 | 5位 | 1回戦敗退 |
1983-84 | セリエA | 30 | 12 | 12 | 6 | 48 | 31 | 36 | 3位 | 準々決勝敗退 |
1984-85 | セリエA | 30 | 8 | 13 | 9 | 33 | 31 | 29 | 9位 | 準決勝敗退 |
1985-86 | セリエA | 30 | 10 | 13 | 7 | 29 | 23 | 33 | 4位 | 準決勝敗退 |
1986-87 | セリエA | 30 | 8 | 10 | 12 | 30 | 35 | 26 | 10位 | GS敗退 |
1987-88 | セリエA | 30 | 9 | 10 | 11 | 29 | 33 | 28 | 8位 | ベスト16 |
1988-89 | セリエA | 34 | 12 | 10 | 12 | 44 | 43 | 34 | 7位 | 準々決勝敗退 |
1989-90 | セリエA | 34 | 7 | 14 | 13 | 41 | 42 | 28 | 12位 | GS敗退 |
1990-91 | セリエA | 34 | 8 | 15 | 11 | 40 | 34 | 31 | 12位 | 3回戦敗退 |
1991-92 | セリエA | 34 | 10 | 12 | 12 | 44 | 41 | 32 | 12位 | ベスト16 |
1992-93 | セリエA | 34 | 8 | 14 | 12 | 53 | 56 | 30 | 16位 | ベスト16 |
1993-94 | セリエB | 38 | 17 | 16 | 5 | 53 | 19 | 50 | 1位 | ベスト16 |
1994-95 | セリエA | 34 | 12 | 11 | 11 | 61 | 57 | 47 | 10位 | 準々決勝敗退 |
1995-96 | セリエA | 34 | 17 | 8 | 9 | 53 | 41 | 59 | 4位 | 優勝 |
1996-97 | セリエA | 34 | 10 | 15 | 9 | 46 | 41 | 45 | 9位 | ベスト16 |
1997-98 | セリエA | 34 | 15 | 12 | 7 | 65 | 36 | 57 | 5位 | 準々決勝敗退 |
1998-99 | セリエA | 34 | 16 | 8 | 10 | 55 | 41 | 56 | 3位 | 準優勝 |
1999-2000 | セリエA | 34 | 13 | 12 | 9 | 48 | 38 | 51 | 7位 | 準々決勝敗退 |
2000-01 | セリエA | 34 | 10 | 13 | 11 | 53 | 52 | 43 | 9位 | 優勝 |
2001-02 | セリエA | 34 | 5 | 7 | 22 | 29 | 63 | 22 | 17位 | 2回戦敗退 |
2002-03 | セリエC2 | 34 | 20 | 10 | 4 | 56 | 20 | 70 | 1位 | |
2003-04 | セリエB | 46 | 19 | 16 | 11 | 53 | 48 | 73 | 6位 | |
2004-05 | セリエA | 38 | 9 | 15 | 14 | 42 | 50 | 42 | 16位 | 準々決勝敗退 |
2005-06 | セリエA | 38 | 22 | 8 | 8 | 66 | 41 | 44 | 9位 | ベスト16 |
2006-07 | セリエA | 38 | 21 | 10 | 7 | 62 | 31 | 58 | 6位 | 2回戦敗退 |
2007-08 | セリエA | 38 | 19 | 9 | 10 | 55 | 39 | 66 | 4位 | 準々決勝敗退 |
2008-09 | セリエA | 38 | 21 | 5 | 12 | 53 | 38 | 68 | 4位 | ベスト16 |
2009-10 | セリエA | 38 | 13 | 8 | 17 | 48 | 47 | 47 | 11位 | 準決勝敗退 |
2010-11 | セリエA | 38 | 12 | 15 | 11 | 49 | 44 | 51 | 9位 | ベスト16 |
2011-12 | セリエA | 38 | 11 | 13 | 14 | 37 | 43 | 46 | 13位 | ベスト16 |
2012-13 | セリエA | 38 | 21 | 7 | 9 | 72 | 44 | 70 | 4位 | 準々決勝敗退 |
2013-14 | セリエA | 38 | 19 | 8 | 11 | 65 | 44 | 65 | 4位 | 準優勝 |
2014-15 | セリエA | 38 | 18 | 10 | 10 | 61 | 46 | 64 | 4位 | 準決勝敗退 |
2015-16 | セリエA | 38 | 18 | 10 | 10 | 60 | 42 | 64 | 5位 | ベスト16 |
2016-17 | セリエA | 38 | 16 | 12 | 10 | 63 | 57 | 60 | 8位 | 準々決勝敗退 |
2017-18 | セリエA |
現所属メンバー
フォーメーション
- 2017-18シーズンスターティングメンバー[15]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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共同保有
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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歴代所属選手
GK
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DF
MF
FW
歴代会長
歴代監督
氏名 | 国籍 | 期間 |
---|---|---|
スヴェン・ゴラン・エリクソン | スウェーデン | 1987-1989 |
セバスティアン・ラザロニ | ブラジル | 1990-1992 |
ルイジ・ラディーチェ | イタリア | 1992 |
アルド・アグロッピ | イタリア | 1992-1993 |
クラウディオ・ラニエリ | イタリア | 1993-1997 |
アルベルト・マレザーニ | イタリア | 1997 |
ジョバンニ・トラパットーニ | イタリア | 1998-2000 |
ファティ・テリム | トルコ | 2000-2001 |
ロベルト・マンチーニ | イタリア | 2001-2002 |
ピエトロ・ヴィエルコウッド | イタリア | 2002.8.10-2002.10.29 |
アルベルト・カヴァジン | イタリア | 2002.10.29-2004.2.10 |
エミリアーノ・モンドニコ | イタリア | 2004.2.12-2004.10.25 |
セルジョ・ブーゾ | イタリア | 2004.10.25-2005.1.24 |
ディノ・ゾフ | イタリア | 2005.1.24-2005.6.7 |
チェーザレ・プランデッリ | イタリア | 2005.6.7-2010.6.3 |
シニシャ・ミハイロヴィチ | セルビア | 2010.6.3-2011.11.7 |
デリオ・ロッシ | イタリア | 2011.11.7-2012.5.2 |
ヴィンチェンツォ・グエリーニ | イタリア | 2012.5.3-2012.6.10 |
ヴィンチェンツォ・モンテッラ | イタリア | 2012.6.11-2015.6.8 |
パウロ・ソウザ | ポルトガル | 2015.6.21-2017.6.6 |
ステファノ・ピオリ | イタリア | 2017.6.6- |
近年の歴代キャプテン
- マヌエル・パスクアル 2012-2016
- アレッサンドロ・ガンベリーニ 2011.7-2012.7
- リッカルド・モントリーヴォ 2010.2-2011.7
- ダリオ・ダイネッリ 2005-2010.1
- ルカ・アリアッティ 2004-2005
- アンジェロ・ディ・リービオ 2001-2004
- マヌエル・ルイ・コスタ 2000-2001
- ガブリエル・バティストゥータ 1995-2000
- フランチェスコ・バイアーノ 1994-1995
- シュテファン・エッフェンベルク 1993-1994
注
- ^ クラブは2002年に倒産を経験しており、厳密に言えば1926年に創設されたクラブと現在のクラブは別組織であるが、現在のクラブが前身となったクラブの商標権を継承していること、2002年に倒産したクラブの最後の主将だった人物が2002年に創設されたクラブの最初の主将でもあったことなどから、本項ではこの二つのクラブをまとめて解説する。
- ^ a b “La Storia della Fiorentina”. ACF Fiorentina - Official Site (2006年1月23日). 2008年5月25日閲覧。
- ^ a b ラフガイド社『欧州サッカー60都市現地観戦ハンドブック2000 ヨーロピアンフットボール』(ダイナゲイト、2000年)
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital31.html
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital32.html
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital56.html
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital93.html
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital99.html
- ^ “中田英寿とヴィオラの再出発 - 悲劇、そして王国復興へ - 思わぬセリエB昇格 巨額の投資でチーム強化”. CALCIO 2002. 2008年5月25日閲覧。 [リンク切れ]
- ^ 二人はいずれもアタランタ育ちで同じ年にフィオレンティーナに移籍したこと、背丈や顔立ちも似ていることから、ティフォージの間ではまとめて「パッツォリーヴォPazzolivo」との愛称で呼ばれる存在である。[1]
- ^ フィオレンティーナがミハイロビッチを解任 - Goal.com[2]
- ^ フィオレンティーナ、残り2戦はグエリーニ氏が指揮 殴られた選手は謝罪[3]
- ^ フィオレンティーナ、バーゼルと契約解消のP・ソウザが新監督に就任Goal、2015年6月22日
- ^ 主力退団が相次ぐフィオレンティーナ…正守護神がナントへ移籍 SOCCERKING (2017/07/28)
- ^ 2017年8月23日に行われたサンティアゴ・ベルナベウ杯での対レアル・マドリード戦メンバー