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2017年4月20日 (木) 08:24時点における版
SUBARU本社(エビススバルビル) | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 | |
略称 | スバル |
本社所在地 |
日本 〒150-8554 東京都渋谷区恵比寿1丁目20-8(エビススバルビル) |
設立 |
1945年(昭和20年)12月27日 (東邦化学株式会社) |
業種 | 輸送用機器 |
法人番号 | 5011101019196 |
事業内容 |
自動車・航空機の製造・整備(自動車はスバルを参照) 産業用機器の製造・整備 |
代表者 | 吉永泰之(代表取締役社長) |
資本金 | 1537億9500万円 |
発行済株式総数 | 7億8286万5873株 |
売上高 |
連結:2兆8779億1300万円 (2015年3月期) |
営業利益 |
連結:4230億4500万円 (2015年3月期) |
純利益 |
連結:2618億7300万円 (2015年3月期) |
純資産 |
連結:1兆307億1900万円 (2015年3月31日現在) |
総資産 |
連結:2兆1997億1400万円 (2015年3月31日現在) |
従業員数 |
連結:3万1151人 (2016年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | 有限責任あずさ監査法人 |
主要株主 |
トヨタ自動車:16.77% |
主要子会社 |
スバル・オブ・アメリカ SUBARUテクノ株式会社 |
外部リンク | http://www.subaru.co.jp/ |
特記事項:事実上の存続会社である富士重工業(旧社)の設立は1953年7月17日[注 1] |
株式会社SUBARU(スバル、英語:Subaru Corporation)は、日本の重工業メーカーである。
かつての商号は、「富士重工業株式会社」(ふじじゅうこうぎょう)であったが、2017年4月1日に自動車のブランド名として広く浸透していた「SUBARU」(スバル)に商号を変更した。
歴史
1917年(大正6年)5月、中島知久平(元海軍機関大尉)によって群馬県新田郡尾島町(現: 群馬県太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とし、太平洋戦争(第二次世界大戦)終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった中島飛行機(1945年(昭和20年)に富士産業と改称)がプリンス自動車とに解体され 、富士重工業のルーツである。
軍需から非軍需産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により1953年(昭和28年)に富士重工業を設立、1955年(昭和30年)に参画各社が富士重工業に合併されることで企業としての再合同を果たした。
1958年(昭和33年)発売の軽乗用車「スバル・360」と、その派生型である1961年(昭和36年)発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、以後「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立し、その他の分野にも多角的に進出しながら現在に至っている。
富士重工業の誕生まで
中島飛行機
中島飛行機は、主として太平洋戦争時までの陸海軍の需要に応え、軍用機および航空用エンジン開発に取り組んだメーカーである。三菱重工業、川崎航空機と共に大手航空機メーカーとして、日本最大規模の存在であった。
特に技師長小山悌を設計主務者に開発され、陸軍(陸軍航空部隊)の歴代主力戦闘機となった九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」[注 2]など、多数の著名な軍用機を送り出した。
エンジンメーカーとしては、一式戦「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)に搭載された「榮(ハ25)」、四式戦「疾風」や「紫電改」に搭載された「誉(ハ45)」などを開発している。
企業解体と非軍需産業への転進
日本の敗戦とともに、GHQより航空機の研究・製造の一切が禁止され、中島飛行機は新たに富士産業[注 3]と改称された。戦時中、最先端の航空機開発に取り組んだ優秀な技術者たちの生活は、各工場毎に、自転車、リヤカー、自動車修理、果ては鍋や釜、衣類箱、乳母車などを作って糊口を凌ぐ日々へと一変した。
このような状況の中、太田と三鷹工場の技術者たちは、当時進駐軍の兵士たちが移動に利用していたアメリカ製の簡易なスクーター「パウエル」に着目する。軽便な移動手段としての販路を見込めると考えられたことからスクーターの国産化が計画され、早速、敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作、1947年(昭和22年)に「ラビットスクーター」として発売した。「ラビット」は運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、メーカーの屋台骨を支える重要な商品となった。「ラビット」シリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰り返しつつ富士重工業成立後の1968年(昭和43年)まで生産された。
また航空機製造で培った板金・木工技術を活用し、1946年(昭和21年)からバスボディ架装にも進出、特に従前の「ボンネットバス」より床面積を大きく取れるキャブオーバー型ボディの架装で、輸送力不足に悩むバス会社から人気を得た。さらに1949年(昭和24年)にはアメリカ製リアエンジンバスにならい、得意の航空機製造技術を生かした、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」が完成。フロントエンジン型キャブオーバーバスよりさらにスペース効率に優れることから成功を収め、以降、日本のバスボディ・シャーシの主流は続々とリアエンジンへ移行していく。
このようにして非軍需産業へ転進した富士産業であったが、1950年(昭和25年)8月、当時の政策によって財閥解体の対象となり、工場毎に15社以上に分割されてしまった。
富士重工業成立
1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらしただけでなく、GHQの日本の占領政策を一変させた。1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ講和条約が発効すると、旧・財閥から民間賠償用としてGHQに接収されていた土地・建物の所有者に返還がはじまり、富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化、1952年(昭和27年)12月、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)を加えた4社が合併同意文書に調印した。
同じ頃、1953年(昭和28年)の保安庁(現:防衛省)予算に練習機調達予算が計上され、航空機生産再開に向けて、ビーチ・エアクラフトT-34 メンターの製造ライセンス獲得に国内航空機メーカー各社は一斉に動き出した。当時、再合同の途上にあった旧・中島飛行機グループも再合同の動きを加速。1953年(昭和28年)5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年(昭和28年)7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社富士重工業株式会社が発足[注 4]。
1954年(昭和29年)9月、6社が合併契約書に調印。1955年(昭和30年)4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に富士重工業株式会社としてスタートした(当時の資本金:8億3,050万円、従業員:5,643名)。ロゴは「富士重工」で、「重」の1画目がない形になっており、長らく使用された。
旧・中島飛行機の発動機開発の拠点で、荻窪工場と浜松工場を引き継いだ富士精密工業は、中島飛行機再合同の動きが本格化した1952年(昭和27年)には、事実上、すでにタイヤメーカーのブリヂストンの資本下に入っており[注 5]、再合同には参加しなかった[注 6]。また、この時再合同に加わらなかった、富士機械工業[注 7]など3社は、のちに富士重工業の関連会社として加わっている。
富士重工業は、1966年(昭和41年)に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。この存続会社の東邦化学株式会社は1965年(昭和40年)に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年(昭和40年)に一旦消滅している。これは株式額面金額変更が目的の事務的なものである。
1966年(昭和41年)、それまで丸の内の内外ビルディングに所在していた本社機能が新宿駅西口に自社建設した「新宿スバルビル」に移転する。
その後の推移と業務提携
この節では自動車部門について述べる。
レオーネを発売した1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始。オイルショックや排気ガス規制などの消費者の自動車に対する要求の変化や、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功した。
1968年(昭和43年)から1999年(平成11年)まではメインバンク(日本興業銀行/現: みずほ銀行)が同じ日産自動車と提携、日産・チェリー、パルサー、サニーなどの委託生産を請負い、工場稼働率のアップを図っていたが、設計の共同化や部品の共用化などが本格的に行われることはなかった。
1970年代中盤からは、南米、オーストラリアを中心としたアジア・オセアニア地方、中東、ヨーロッパなどにも進出。1970年代以前には年産10万台にはるかに満たなかった生産台数を、1970年代後半には20万台規模にまで増やし順調に企業規模を拡大した。
しかし、1985年(昭和60年)9月のプラザ合意以降の急激な円高とアメリカ市場との「共生」が求められるようになった時代背景の中で、北米市場での深刻な販売不振に直面。1987年(昭和62年)、いすゞ自動車との共同出資で、スバル・イスズ・オートモーティブ (SIA)を設立して現地生産も開始した[注 8]が、主に魅力的な車種展開が図れなかったことや、企業規模から他国産メーカーと比べ製造コストを劇的に下げることができなかったことなどから、1989年には300億円もの営業赤字を抱え、深刻な経営危機が報じられるまでになった。
しかし、折からの「バブル景気」によって資金調達のめどが順調に立ったことや、1989年1月、レガシィの発売以来、順調に国内市場、北米市場での販売を回復することに成功。1990年(平成2年)には日産ディーゼル(現UDトラックス)の経営再建に手腕を発揮した川合勇のもとで地道なコスト削減努力が続けられ、WRCへの出場など、CI(コーポレーテッド・イメージ)の積極的な訴求効果とあわせ、年産30万台規模の世界的に見て比較的小規模なマスプロダクツ・メーカーとして現在に至っている。
バブル崩壊後、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有の富士重工業株の売却を決め、2000年(平成12年)に放出株全てがゼネラルモーターズ(GM)に売却された[注 9]。
しかし、GMの業績悪化に伴い2005年(平成17年)10月5日には、GMが保有する富士重工株20%をすべて放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が買い取って筆頭株主となり、富士重工業とトヨタ自動車が提携することで合意した。GMグループのスズキと、軽自動車の部品の共通化などをすすめてきていたが、今後、トヨタ自動車およびトヨタグループ(トヨタ傘下)のダイハツ工業との開発部門の交流や部品共通化によるコスト削減効果が期待される。
2008年(平成20年)4月10日、軽自動車の自社開発・生産を行わない方針を発表。2012年(平成24年)2月を以って6代目サンバーを最後に軽自動車の自社生産を全て完了(終了)した。以降、登場する新型の軽自動車は全てダイハツからの供給によるOEM車となっている。
2010年(平成22年)8月、東京都新宿区の本社ビル(新宿スバルビル)が老朽化したことなどに伴い、建物を小田急電鉄に売却した上で本社機能を東京都渋谷区恵比寿に東京スバルの本社が入っていた「エビススバルビル(旧)」の跡地に新たに建て替える「エビススバルビル(新)」へ移転させることを発表。2014年(平成26年)8月18日、本社移転が完了した。尚、エビススバルビル(新)の一角はスバル恵比寿ショールーム(スバル スター スクエア)および東京スバル恵比寿店として機能する。
2013年(平成23年)1月、ロボット開発で国からの補助金を不正受給していたことが判明し、経済産業省と新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)から計8億250万円の返還処分及び補助金交付停止処分を受ける[1]。
2016年(平成28年)5月、2017年(平成29年)4月1日付で社名を「富士重工業株式会社」から「株式会社SUBARU」に変更することを臨時取締役会で決議した[2]。
2016年10月1日、産業機器部門が自動車部門に統合されたが、その後12月7日に2017年9月30日をもって、事業を終息すると正式発表。10月1日をもって、一部技術資産と米国販売子会社をヤマハ発動機へ譲渡する契約を締結したと発表した[3]。これにより、SUBARUは、今後自動車生産と航空関連に特化した企業となり、商号変更とともに新時代を迎えることとなる。
航空機再生産
1953年(昭和28年)9月、富士重工業は「ビーチ・エアクラフト」と「T-34 メンター」製造ライセンス契約に調印。1955年(昭和30年)10月、国産1号機を完成させ、防衛庁への納入が始まった。さらに1957年(昭和32年)11月、戦後初の国産ジェット機「T-1 (練習機)(初鷹)」の開発に成功。中等練習機として1963年(昭和38年)までに66機を防衛庁(現: 防衛省)に納入した。
1965年(昭和40年)8月、民間向け軽飛行機FA-200「エアロスバル」の初飛行に成功。翌1966年(昭和41年)10月から販売を開始。低翼式の機体を採用したFA-200は低速時の安定性に優れ、アクロバット飛行なども可能な万能機として好評を博し、298機を生産した。
戦後初の国産旅客機「YS-11」の開発にも参加。主翼桁と尾翼を担当。この経験はのちに、1973年(昭和48年)12月、アメリカ・ボーイング社とボーイング747の生産分担契約に実を結び、1974年(昭和49年)には新世代旅客機ボーイング767の国際共同開発プロジェクトに参加。国際分業に大きな役割を果たした。
1974年(昭和49年)、富士重工業はアメリカ・ロックウェル・インターナショナル社と双発ビジネス機、FA-300の共同開発を開始。1975年(昭和50年)11月に初飛行に成功、1977年(昭和52年)から販売を開始した。しかし、その後、ロックウェル社が軽飛行機部門からの撤退したため、計画が頓挫。42機の生産実績に留まった。
以上のように民需(民間機)については限定された実績にとどまるが、官需(もっぱら陸海空の各自衛隊機)についてはT-34やT-1の後も順調に実績を重ねてきた。詳細は#航空宇宙部門の節を参照。民間機についても、1990年代以後の潮流として増えてきている国際・複数企業による共同開発にいくつか関与している。
生産部門
自動車部門
航空宇宙部門
産業機器部門
環境技術部門
- エコ宇都宮工場(栃木県宇都宮市)
- かつて鉄道車両や塵芥収集車・フジマイティーを生産していた。業界ではトップシェアを誇っていた。現在は航空機部品を主に製造している。
住宅事業部門
航空宇宙部門
日本航空業界の草分けである中島飛行機の後身で、現在も日本の航空宇宙業界で第三位であり、防衛省向け航空機の製造・開発及び定期整備やボーイング社向け分担生産を中心とし、その他 海上保安庁、消防や警察向けのヘリコプターの生産・整備も広く行っている。中でも固定翼機の主翼製造には業界屈指の技術と品質を誇り、ボーイングからボーイング787の開発に関わる企業の中で特に高度な能力を持つサプライヤーとして高く評価する表彰を受けているほか、対潜哨戒機P-1や輸送機C-2など(主に主翼を製造)の国内開発でも大きく貢献している。 40m超の主翼製造能力・設備は世界でもボーイング/エアバスに次ぐレベル。
複合材製品についても、世界屈指の技術力を持つ。 複合材料の実機適用は国内メーカーの先駆的役割を果たしている。
民間分野ではYS-11開発参加やFA-200販売で国産機の実績を積んでいる。
無人航空機の開発にも積極的であり、標的機や無人偵察機など自衛隊向けの機体を主とし、将来の無人機の活躍を見据えた複数の新型無人機開発に関わっている。 任務多様化、機能高度化に向け、様々な技術を研究・開発中である。
さらにはJAXAの超音速実験機D-SENDの製造・開発や航空自衛隊の先進技術実証機(後のX-2)の主翼・尾翼製造・開発など日本の航空宇宙産業発展のための高度な先進技術の研究開発にも数多く参加し、実績を残している。
沿革
- 1958年(昭和33年)1月16日 - 第二次世界大戦後日本初のジェット機T-1練習機を開発し初飛行に成功する。
- 1978年(昭和53年)1月17日 - T-3練習機が初飛行。3月から量産機が納入された。生産機数は50機。
- 1987年(昭和62年)4月27日 - T-5練習機が初飛行。
- 1994年(平成6年)4月9日、ボーイング777の1号機がロールアウト。「世界最大の双発旅客機」の開発・製造に参加し中央翼を分担する。
- 2002年(平成14年)7月9日 - T-3改が初飛行。2003年(平成15年)4月にT-7練習機として制式採用された。
- 2002年(平成14年)6月 - エアバスA380に参加。垂直尾翼前縁・翼端、フェアリングを分担する。
- 2005年(平成17年)に開発が決定したボーイング787の開発にも参加している(詳しくはYX共同開発を参照)。
- 2008年(平成20年)から、MRJ(三菱リージョナルジェット)の設計のために技術者4名が出向している。
納入実績
防衛省(自衛隊)向
- T-1A/B中等練習機
- J/AQM-1 無人標的機
- 遠隔操縦観測システム FFOS
- 航空機用シミュレータ
ライセンス生産
- T-34A練習機(ビーチクラフト)
- LM-1/2多座席連絡機(国内開発)
- KM-2練習機・TL-1練習連絡機(国内開発)
- T-3初等練習機(国内開発)
- T-5初等練習機(国内開発)
- T-7初等練習機(国内開発)
- UH-1B/H/J 多用途ヘリコプタ(ベルエアクラフト)
- AH-1S対戦車ヘリコプター(ベルエアクラフト)
- AH-64D戦闘ヘリコプター(ボーイング)
- ペトリオット中距離地対空誘導弾用アンテナマストグループ(レイセオン)
分担生産
- F-2戦闘機(主翼・尾翼等)
- T-4中等練習機(主翼・尾翼・キャノピィ)
- OH-1小型観測ヘリコプタ(尾翼・キャノピィ等)
- US-1A救難飛行艇(主翼外翼・ナセル・尾翼)等
- P-3C対潜哨戒機(主翼ライセンス生産)
- U-125A救難捜索機(装備品取り付け・納入前整備)等
- P-1哨戒機 (主翼・垂直尾翼等)
- C-2輸送機 (主翼等)
民間向
自社開発
- FA-200 エアロスバル
- FA-300(富士710、ロックウェル・インターナショナル社と共同開発)
- ドライビング・シミュレータ
- 遠隔操縦観測システム 防衛省向け無人ヘリコプター(民間向けに同型機種でRPH-2が存在)
分担生産
- ボーイング737(昇降舵)
- ボーイング747(補助翼、スポイラー)
- ボーイング757(アウトボードフラップ)
- ボーイング767(YX共同開発、主脚扉・翼胴フェアリング)
- ボーイング777(共同開発、中央翼・主脚扉・翼胴フェアリング)
- ボーイング787 ドリームライナー(共同開発、中央翼)
- エアバスA380(垂直尾翼構造)
- ホーカー ホライゾン M4000(主翼構造およびシステム開発)
- ベル・アグスタウェストランド AW609 ティルトローター機(胴体構造開発)
- エクリプス・アビエーション エクリプス 500(主翼)
- ボンバルディアDASH-8
ライセンス生産
宇宙関連機器
産業機器
「ロビン」ブランドの小型汎用エンジンを開発・生産し、汎用エンジン業界ではシェア世界第4位。富士重工業内では唯一、米国と中国に生産拠点を持っている。
これらのエンジンは取り扱いの容易さと抜群の耐久性などで、主に土木工事現場で使われるランマーや発電機、コンクリートカッター、灌漑用のポンプ、構内作業車(モートラック)などに動力源として搭載される。また、ゴルフカート、スノーモービル、ATV(バギー車)などに搭載されるエンジンも開発、生産している。これらのエンジンのほとんどはOEM供給されているため、一般人の目に触れる機会はほとんど無い。
なお、富士重工業は、2016年10月1日をもって自動車部門の競争力強化のため、産業機器カンパニーをスバル自動車部門に統合し、既存商品の製造、販売、サービスに特化した上で、開発案件の停止による人員の自動車部門への配置転換など、将来的には事業縮小・撤退の意向であると発表した[4]。 そして、2016年12月7日、2017年9月30日をもって、事業を終息すると正式発表し、10月1日をもって、一部技術資産と米国販売子会社をヤマハ発動機へ譲渡する契約を締結したと発表した。[5]。
- ロビンエンジン
- EY15(汎用)
- EY20(汎用)
- EX17(汎用)
- EX30(汎用)
- EH29(ゴルフカート用)
- EH50(ATV用)
- ES50(ATV用)
- EC55(スノーモービル用)
- ロビンジェネレーター
- スバル・ナイター(投光機)
- 電動刈払い機
- スノーモービル
環境技術
現在は各種環境用プラント設備のみを生産している。それ以外の製品については後述。
住宅事業
富士重工では、小型のプレハブ住宅を製造しており、以前は通信販売で名高いセシールでも扱っていたことがある。
過去の商品
軽三輪
- 「ダイナスター」
二輪車(スクーター)
二輪車(オートバイ)
- 「ハリケーン」
バス車体架装事業
1946年(昭和21年)に小泉ボデー製作所(当初別会社)でスタートし、日本で初めてのフレームレスモノコック構造によるリヤエンジンバス「ふじ号」(1949年(昭和24年))の開発に成功。のちに富士自動車工業となり、スバル360等の開発を行ない、現在の主力であるスバルブランドの乗用車にも発展した事業である。この分野では「スバル」ブランドを使っておらず、エンブレムとしてもプレアデス星団をあしらったスバルのエンブレムではなく、カタカナの「フ」の字をあしらったエンブレムを使用している(右の写真を参照)。
一時期は民生デイゼル→日産ディーゼル(現・UDトラックス)を中心に大型自動車メーカー5社[注 10]のバス車体を架装し、バス車体シェア1位を誇っていたが、シャーシメーカーのバス車体メーカーの系列化(子会社での生産)で生産台数が減少した。1998年(平成10年)に三菱ふそうと日野自動車の架装から撤退、2002年(平成14年)1月に日産ディーゼルがバス車体の架装を西日本車体工業(西工、福岡県北九州市小倉北区)に集約することを決定したため[6]、同年5月に事業存続は困難と判断し、伊勢崎製作所で行なっていたバス車体架装事業を終了する決定をした。このため、バス車体架装事業は日産ディーゼルとごく少数のいすゞ自動車を最後に2003年(平成15年)3月で終えた[注 11]。またボルボ社のシャシーを輸入し、アステローペシリーズと連節バスを製造していたが、これらも2000年(平成12年)に生産が終了している。
なお、伊勢崎製作所はその後スバルカスタマイズ工房(現:桐生工業伊勢崎工場)となり、販売済みの車両に対するアフターサービスを行なっている。
鉄道車両事業
1950年(昭和25年)頃から主に客車と気動車を旧国鉄やJR、私鉄、第三セクター向けに、また、群馬・栃木に路線を持つ東武鉄道向けには電車を生産していたが、生産両数の低下により2002年(平成14年)5月に事業存続は困難と判断し、宇都宮車両工場(現在のエコ宇都宮工場)で行っていた鉄道車両事業を終える決定をした。2003年(平成15年)2月に新潟トランシス新潟事業所(新潟県北蒲原郡聖籠町)へ事業譲渡。JR四国2000系気動車などの振り子式気動車はすべて富士重工製。
最後に製造された電車は東武30000系電車(31406Fの4両)。最終製造車両は地元を走る真岡鐵道のモオカ14形一般形気動車(2両)となった。
なお、先述の伊勢崎事業所でも、東京都電2500形(軌間1,067mmの杉並線専用車で、足回りは戦前の車両のものを利用。杉並線廃止後は車体のみ荒川線で再利用された)を製造していた。
生産された鉄道車両
気動車
- 南部縦貫鉄道キハ101・102、羽幌炭礦鉄道キハ11(富士重工業版レールバス)
- LE-Car(バス車体の中・小型気動車)
- LE-DC(ボギー台車 一般形気動車)
- 国鉄型気動車の一部
- JR北海道キハ150系・キハ201系・ キハ281系・キハ283系・キハ261系[基本番台のみ](振り子式特急形気動車)
- JR東日本キハ100系気動車
- JR東海キハ85系気動車
- JR四国2000系気動車(振り子式特急形気動車)
- 智頭急行HOT7000系気動車(振り子式特急形気動車)
- 真岡鐵道モオカ14形気動車(1・2のみ)(富士重工業最後の製造車両)
- 北近畿タンゴ鉄道KTR001形・KTR8000形
他、第三セクターの特急・一般形気動車
電車
- 東武鉄道
- 2000系・2080系
- 5000系・5050系・5070系
- 6050系
- 8000系
- 9000系・9050系
- 10000系・10030系・10080系
- 30000系
- 100形(日光軌道線用車両)
- 200形(日光軌道線用車両)
- 帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)
- 東京都交通局
- 都電2500形の改造等
客車
貨車
- 私有貨車の一部の車両等
- 国鉄所有コンテナ(5000形(試作・量産)・6000形)
軌道モーターカー
- 大型軌道モーターカー
- TMC100・101・200・201・300・301・400・500・501
- 除雪用モーターカー
- MCR400-W・TMC400Sと大型軌道モーターカーの除雪型
スノーボード・自転車・望遠鏡
- 1998年(平成10年)には、宇宙関連機器および航空機部門の技術を使って、中空桁構造オールドライカーボンのスノーボード「VTOL」が少数販売された。尚、販売はインターネットのみ当初は50枚限定で販売された。スバルと名乗らず別ブランドで販売された。現在は販売されておらず、貴重な製品である。
- 2008年(平成20年)12月には、99台限定で自転車(クロスバイク)「SUBARU XB」が発売された。価格は36万円。マウンテンバイクに軽量大口径ホイールを装着して、オンロードでの走行性能を向上させた自転車で、レガシィなど富士重工の車と同様、オンロードとオフロード双方の走破性を合わせもつ自転車として「クロスバイク」と呼称している。また、2013年(平成25年)1月に、ブリヂストンサイクルとのコラボレーションによるクロスバイクが、SUBARU Online Shopにて販売している(但し、仕様は全く異なる)。
- 2009年(平成21年)12月には、屈折式天体望遠鏡「SUBARUメローペ80A」を発売した。外部の専門メーカーと富士重内部の開発チームの共作で、スバルブランドをイメージさせるブルーで塗装されているが、車の色とはやや異なり、車のボディに比べて曲率が大きい望遠鏡の鏡筒を仕上げるために専用塗料を採用している。現在このクラスの望遠鏡は、大部分が中国製だが光学系の製作や検査をすべて日本のメーカーが行っているのが特徴となっている。「メローペ」はプレアデス星団の最も下にある星の名称。
環境技術
- フジマイティー(塵芥車)
- スバル風力発電システム
エピソード
- 社歌
作詞は富士重工業の元社員。作曲は團伊玖磨。富士重工業時代に創立10周年記念として制定された社歌である。
SUBARUへの社名変更にあたって、「社歌を変えないでほしい」という従業員の声を受けて、社名変更後も社歌として使われることとなった。
ただし、富士重工業時代の歌詞には「富士重工」を連呼するパートがあるので、その部分は「わがスバル」に置き換えられた。[9]
脚注
注釈
- ^ 株式額面金額変更のため、東邦化学→富士重工業(新社)を存続会社として旧社は吸収合併されている。
- ^ 終戦後、アメリカに接収されて、140オクタンの高品質な燃料を使用しての綿密なテストの結果、アメリカをして「第二次大戦の日本戦闘機のベストワン」と絶賛させた。
- ^ 「富士」は「富士山」に由来する。中島飛行機の創立者である中島知久平は、日本を代表する名山である富士山をこよなく愛した。
- ^ 本社は東京都新宿区角筈(新宿スバルビル所在地)である
- ^ 当時、ブリヂストン会長でもあった石橋正二郎個人が筆頭株主の会社(つまり、厳密にはブリヂストンの資本系列ではなかったが、銀行は事実上のブリヂストン支配の会社と認定していた)となっていた。
- ^ 1954年(昭和29年)、戦前の立川飛行機の転進で、同じくブリヂストン傘下にあったプリンス自動車工業と合併、富士精密工業としてスタートした後、1961年(昭和36年)、プリンス自動車工業と名称を変更、スカイライン、グロリア、皇室御料車プリンスロイヤルなどを開発。1966年(昭和41年)、日産自動車に吸収合併された。
- ^ のちの富士ロビン。2007年に富士重工系列を離れマキタ沼津を経てマキタに吸収合併。
- ^ OEMによる完成車の相互供給も行なわれたが、2003年(平成15年)にいすゞのSIAからの撤退をもって関係を解消している。
- ^ GM傘下在籍中には、同傘下のSAABにインプレッサ・スポーツワゴンのOEM車種サーブ9-2Xを提供したり、GMのタイ工場からオペル車のOEMであるトラヴィックなどの供給を受けていた。また2003年(平成15年)から開発がスタートした「B9トライベッカ」ではサーブ版を最初からサーブ側と共同開発する計画だった。
- ^ 大型専業4社のほかにトヨタ自動車を含む。
- ^ 最終生産車は、東濃鉄道に納入された日産ディーゼル大型観光バス。
出典
- ^ “不正受給:富士重に補助金8億円返還処分”. 毎日jp (毎日新聞社). (2013年2月1日). オリジナルの2013年5月1日時点におけるアーカイブ。 2013年2月1日閲覧。
- ^ “富士重工業株式会社が「株式会社SUBARU」に社名を変更” (PDF). プレスリリース (2016年5月12日). 2016年5月12日閲覧。
- ^ “ヤマハ発動機と富士重工業の間で 汎用エンジンの一部および米国販売会社の譲渡に関する契約を締結”. ヤマハ発動機プレスリリース (2016年12月7日). 2017年1月8日閲覧。
- ^ “富士重工業 産業機器カンパニーをスバル自動車部門へ統合”. 富士重工業プレスリリース (2016年5月12日). 2016年5月12日閲覧。
- ^ “ヤマハ発動機と富士重工業の間で 汎用エンジンの一部および米国販売会社の譲渡に関する契約を締結”. ヤマハ発動機プレスリリース (2016年12月7日). 2017年1月8日閲覧。
- ^ “日産ディ、西日本車体へのバスボディー発注集約を発表”. NIKKEI NET (日本経済新聞社). (2002年1月16日). オリジナルの2002年1月18日時点におけるアーカイブ。 2017年3月15日閲覧。
- ^ “富士重工業 塵芥収集車フジマイティーの生産を終了” (PDF). プレスリリース (2012年12月21日). 2016年5月12日閲覧。
- ^ “事業譲り受けに関するお知らせ” (PDF). 新明和工業 (2013年1月7日). 2016年5月12日閲覧。
- ^ https://members.subaru.jp/event//ceremony/20170331/
関連項目
- 新井敏弘
- SUBARUテクノ株式会社
- 桐生工業(特装車架装メーカー。過去にはサンバーを受託生産していた)
- 富士重工業硬式野球部
- FM TARO
- FJ1600
- コローニ
- エンフィールド=ロビン・D-R400D
- ジオット・キャスピタ
- 矢島タクシー
- 北宇都宮駐屯地
- チームミヤタ
- マキタ沼津(現・マキタ)
- IHIシバウラ
- 総合太田病院(富士重工業健康保険組合が開設・看護学校も併設)
- 百瀬晋六
- ステラタウン(富士重工業旧大宮製作所跡地に出来た大型ショッピングモール。この土地は中島飛行機時代から使われており、富士重工にとって由緒ある場所である。)
- 黒井千次
- 多国籍企業
- 放課後のプレアデス
- 五月女舞香 青森テレビのアナウンサー。元スバルスターズ
- スバル町
- スバルビジターセンター