「三里塚闘争」の版間の差分
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警察官4人<br> |
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→[[東峰十字路事件]](3人)<br> |
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→[[芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件]](1人)<br><br> |
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工事作業員2人<br> |
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→[[東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件]]<br><br> |
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収用委員会会長1人<br> |
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→[[千葉県収用委員会会長襲撃事件]]の後遺症を苦にした自殺<br><br> |
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航空機メーカー役員の家族1人<br> |
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→[[日本飛行機専務宅放火殺人事件]]<br><br> |
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反対派活動家3人<br> |
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→[[東山事件]](1人)<br> |
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→[[成田空港管制塔占拠事件]](2人、長期拘留でのノイローゼによる自殺含む)<br><br> |
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反対派農民1人<br> |
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→自殺 |
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'''三里塚闘争'''(さんりづかとうそう)とは、[[千葉県]][[成田市]]の[[農村]]地区名称である三里塚とその近辺で継続している、住民及び新左翼活動家らによる[[成田国際空港|新東京国際空港(現成田国際空港)]]建設に反対する闘争のことを指す。'''成田闘争'''(なりたとうそう)とも呼ばれる。 |
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空港の建設地が現在の位置に決定するまでの経緯もあり、空港用地内外の民有地取得問題や騒音問題等をめぐって地元住民らが[[革新政党]]指導の下で「[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]」を結成し、反対運動を行った。更に開港を急ぐ[[日本国政府|政府]]による機動隊投入等の強硬策に対抗するために[[日本の新左翼|新左翼]]党派と合同したことで、反対運動が過激化した。激しい反対運動によって開港が当初予定より大幅に遅れただけでなく、政府側と反対派の双方に死者を出す惨事となった。 |
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開港後も過激派による[[テロ事件]]や強固な反対運動が継続し空港の拡張が停滞したため、[[1986年]]から10年間連続して世界1位の国際貨物取扱量<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.npf-airport.jp/news/airportnews/news_0205/tokusyuu2.html |title=世界の国際線空港ランキング |publisher=[[成田国際空港振興協会]] |accessdate=2017-08-29}}</ref>を誇っていた成田空港も各国間の空港開発競争で次第に劣勢となり、[[日本の経済]]に甚大な損失を与えることとなった。また、住民間の対立など[[地域社会]]にも爪痕を残している。 |
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一方で、この闘争は国内外に大きな衝撃を与え、[[公共事業]]のあり方を一変させた<ref name="sankei150803">{{cite news | author = 大島悠亮 | url = http://www.sankei.com/region/news/150803/rgn1508030020-n3.html | title=【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(下) 公共事業のあり方一変 | newspaper = [[産経新聞]] | publisher = [[産経新聞社]] | date = 2015-08-03 | accessdate = 2017-08-29 }}</ref><ref name="drum111112">朝日新聞成田支局[1998]111-112頁。</ref>。 |
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'''三里塚闘争'''(さんりづかとうそう)は、[[千葉県]][[成田市]]の[[農村]]地区名称である三里塚とその近辺で継続している、地元住民及び新左翼活動家らによる[[成田国際空港|新東京国際空港(現成田国際空港)]]建設に反対する闘争およびこれに関連する事柄のことを指す。'''成田闘争'''(なりたとうそう)とも呼ばれる。 |
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{{see also|成田空港問題}} |
{{see also|成田空港問題|成田空港問題の年表}} |
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== 空港計画浮上前の三里塚周辺 == |
== 空港計画浮上前の三里塚周辺 == |
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=== 御料牧場 === |
=== 御料牧場 === |
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[[File:Shimofusa Imperial Stock Farm.JPG|thumb|300px|1930年当時の宮内省下総御料牧場]] |
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千葉県の北部は古代から野生馬の産地として知られており、[[江戸時代]]には[[小金五牧]]及び[[佐倉七牧]]が設けられ、[[軍馬]]の飼育生産が行われていた。 |
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千葉県の北部は古代から[[ウマ|野生馬]]の産地として知られていた。[[江戸時代]]には[[小金五牧]]及び[[佐倉七牧]]が設けられ、[[軍馬]]の飼育生産が行われる。 |
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[[20世紀]]に入り、[[殖産興業]]を推進していた[[明治政府]]は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代[[牧畜]]による[[羊毛]]自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に[[宮内庁下総御料牧場]](以下、御料牧場)となる。 |
[[20世紀]]に入り、[[殖産興業]]を推進していた[[明治政府]]は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代[[牧畜]]による[[羊毛]]自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に[[宮内庁下総御料牧場]](以下、御料牧場)となる。 |
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三里塚の街は[[牧場]]関係の[[商売]]で潤い、[[八百屋]]、[[魚屋]]、[[仕立て屋]]といった[[商店]]は飛ぶ鳥を落とす勢いであったという<ref>福田克彦[2001], |
三里塚の街は[[牧場]]関係の[[商売]]で潤い、[[八百屋]]、[[魚屋]]、[[仕立て屋]]といった[[商店]]は飛ぶ鳥を落とす勢いであったという<ref name="fukuda46">福田克彦[2001], 46頁。</ref>。しばしば御料牧場を訪れる[[皇族]]も住民らにとっては身近で親しみを感じる存在であった。裕仁親王(後の[[昭和天皇]])成婚を記念して植えられた竹の美林に隣接する御料牧場には春先になると遠方からも大勢が[[花見]]に訪れる日本有数の[[桜並木]]があり、三里塚は千葉県随一を誇る景勝の地と言われた<ref name="uzawa">宇沢弘文(1992)72頁。</ref>。 |
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御料牧場は住民にとって物心両面で欠くべからざるものであった。 |
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また、[[高村光太郎]]が、『春駒』と題する「三里塚の春は大きいよ」から始まる詩で、在りし日の御料牧場の様子を詠んでいる<ref name="sanridukanoharu">{{Cite web|url=http://mitoho.com/109/05-minami-kanto/chi-01-3riduka.html|title=航空科学博物館-成田空港滑走路先端 |accessdate=2017-10-09|date=2012-02|publisher=今日は近くの図書館}}</ref>。 |
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「御料牧場を知らない奴は空港に反対する根拠がない」「本当のとこをいうと、(空港建設で)御料牧場がなくなるっていうんで、ここらの人はみんな気がおかしくなったのだ」と地元住民が後に語った程<ref name="fukuda46"/>、御料牧場は近隣で生活を営む住民にとって物心両面で欠くべからざるものであった。 |
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=== 古村 === |
=== 古村 === |
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[[File:Shibayama Chiba.jpg|thumb|200px|芝山町の谷津田(2009年4月)]] |
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[[下総台地]]が削られてできた谷地では[[谷津田]]と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む[[江戸時代]]から続く[[集落]]は古村と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香や駒井野がこれに該当する。 |
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[[下総台地]]が削られてできた谷地では[[谷津田]]と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む[[江戸時代]]から続く[[集落]]は古村(こそん)と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香や駒井野がこれに該当する<ref name="moyu172">伊藤睦[2017]172頁。</ref>。 |
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なお、駒井野には[[水野葉舟]]が居住しており、開墾の様子を「我はもよ野にみそきすと しもふさの あらまきに来て土を耕す」と謳っている<ref name="sanridukanoharu"/>。 |
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=== 開拓部落 === |
=== 開拓部落 === |
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[[File:成田市東峰・天神峰地区の開拓農家.jpg|thumb|200px|開拓農家の例。それぞれの家ごとに四角い区画を有しているのが特徴である。]] |
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[[第二次世界大戦]]敗北直後である[[1946年]]に、[[戦後開拓]]の一環として御料牧場の敷地1000[[町歩]]が農地として開放された<ref name="uzawa"/>他、県有林の一部であった[[土地]]が払い下げられたことで入植が始められた。成田側の耕作地(三里塚や東峰等)はこの時に[[開墾]]が始められたものが多く、入植者は元[[満蒙開拓団]]員の[[引揚者]]や[[沖縄戦|戦闘による荒廃]]と[[アメリカ合衆国による沖縄統治|米国による統治]]等により帰郷ができなくなってしまった[[沖縄]]出身者等で占められていた。彼らはほとんど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。開墾は困難を極め<ref>開拓地のほとんどは耕作向きの土地ではなかったが、特に困難だったのが[[地下茎]]が張り巡らされていた[[竹林]]が分配された東峰地区であったという。</ref>、入植者らは昼間は古村での小作で収入を得て、その後月明かりの下で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分の米を纏めて炊き、空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら、あばら家で生活をしていたという。 |
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[[第二次世界大戦]]敗北直後である[[1946年]]に、[[戦後開拓]]の一環として御料牧場の敷地のうち約1000[[町歩]]が農地として開放された<ref name="uzawa"/><ref>1954年11月6日の国会では、革新政党の仲立ちのもと、開拓農民らが更なる牧場解放を求めて請願を行っている。このとき牧場の経営について「はなはだ粗放で、いかなる駄農も驚く拙劣な営農ぶりで、赤字だらけの経営を続けている」としたうえで、日本の食料困難解決への貢献を大義名分としている。朝鮮特需後に食糧難が解消されたこともあり、実行されなかったが、請願にかかわった農民は「御料牧場を残したことが空港を招く要因となった」と主張している。(福田克彦[2001]42-43頁)</ref>他、県有林の一部であった[[土地]]が払い下げられたことで入植が始められた。成田側の耕作地(三里塚や東峰等)はこの時に[[開墾]]が始められたものが多く、入植者は元[[満蒙開拓団]]員で[[満州国]]からの[[引揚者]]や、[[沖縄戦|戦闘による荒廃]]と[[アメリカ合衆国による沖縄統治|米国による統治]]等により、帰郷ができなくなってしまった[[沖縄県]]出身者等で占められていた。 |
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彼らはほとんど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。開墾は困難を極め<ref>開拓地のほとんどは耕作向きの土地ではなかったが、特に困難だったのが[[地下茎]]が張り巡らされていた[[竹林]]が分配された東峰地区であったという。(朝日新聞成田支局[1998]17-20頁、福田克彦[2001]59-60頁)</ref>、入植者らは昼間は古村での小作で収入を得て、その後月明かりの下で[[鍬]]1本で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分の米を纏めて炊き、空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら、"オガミ"と呼ばれる三角形の粗末な藁小屋で生活をしていたという<ref name="fukuda355867">福田克彦[2001], 35・58-67頁。</ref><ref>朝日新聞成田支局[1998]17-20頁。</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.rekishidensho.jp/kikakutenji.html# |title=企画展示 |publisher=NAA歴史伝承委員会|accessdate=2017-08-29}}</ref><ref name="drum284">朝日新聞成田支局[1998]284頁。</ref>。 |
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入植地では農家としての生き残りをかけた土地争いも発生し、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々脱落していった。結果、この地に残ったのは脱落者から農地を買い取り生計を立てられるだけの規模を確保した者達だった。 |
入植地では、農家としての生き残りをかけた土地争いも発生し、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々脱落していった。結果として、この地に残ったのは、脱落者から農地を買い取り、生計を立てられるだけの規模を確保した者達だった<ref name="fukuda355867"/>。 |
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[[1923年]]にも御料牧場の2000町歩が払い下げられており<ref name="uzawa"/>、[[明治]]・[[大正]]期に[[原野]]を開墾して成り立った天神峰等の部落もあった。それらの地区 |
[[1923年]]にも、宮内省御料牧場の2000町歩が払い下げられており<ref name="uzawa"/>、[[明治]]・[[大正]]期に[[原野]]を開墾して成り立った天神峰等の部落もあった。それらの地区は過去には小作料の上納をめぐり[[東京府|東京]]の[[豪商]]と争ったことなどもあるが<ref>福田克彦[2001], 31頁。</ref>、空港建設が決まった頃には家督が二代目・三代目に移っており、営農も比較的安定してきていた。 |
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== 紛争発生の経緯 == |
== 紛争発生の経緯 == |
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=== 逼迫する航空需要 === |
=== 逼迫する航空需要 === |
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[[1960年代]]初頭、経済成長と所得水準の向上の後押しを受けて日本の航空産業 |
[[1960年代]]初頭、経済成長と所得水準の向上の後押しを受けて日本の航空産業は著しい発展を見せており、旅客需要の伸びと[[航空機]]の発着回数の増加傾向がこのまま推移すれば、1970年頃に[[東京国際空港]](羽田空港)の能力が限界に達すると予想された。 |
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しかし、羽田空港は以下の理由で拡張性が見込めなかったため、首都圏第二空港の開設が急務とされた。 |
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しかし、羽田空港は |
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* 隣接する地域 |
* 西側に隣接する[[大田区]]地域が建物の密集地であるうえ既に航空機騒音問題が発生しており、南側は[[多摩川]]の[[河口]]に面しているため<ref>2010年、最先端の土木技術と約6000億円を投じて埋立・桟橋ハイブリッド構造のD滑走路が河口付近の海上に設置された。</ref>、拡張できるのは東の[[東京湾]]沖合しかないこと |
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* 当時[[東京港]]には[[船舶]]が殺到してパンク状態となっており、沖合いへの拡張は[[海上輸送]]に著しい支障をきたすこと |
* 当時[[東京港]]には[[船舶]]が殺到してパンク状態となっており、沖合いへの拡張は[[海上輸送]]に著しい支障をきたすこと<ref name="ohtsubo16-17">大坪景章(1978年)16-17頁。</ref> |
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* 当時の港湾[[土木技術]]では水深20メートルある海床の埋め立て |
* 当時の港湾[[土木技術]]では水深20メートルにある海床の埋め立てが困難とされたこと<ref name="ohtsubo16-17"/><ref> 更に1970年代に東京都から「[[東京ゴミ戦争|ごみ戦争宣言]]」が出され、浚渫土の投棄が行われたことで「羽田マヨネーズ層」と呼ばれる超軟弱な[[ヘドロ]]の堆積層ができてしまい、強固な地盤が求められる空港建設がより一層困難なものになった。( {{Cite web |url=https://www.scopenet.or.jp/main/columns/wagakuni/no9.html |title=羽田空港の不幸 |publisher=港湾空港総合技術センター|accessdate=2017-03}})</ref> |
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* [[米軍]]が管理している[[横田飛行場#横田空域|東京西部空域]]との兼ね合いがあること |
* [[在日米軍]]が管理している[[横田飛行場#横田空域|東京西部空域]]他、軍用飛行場群が有する空域との兼ね合いがあること<ref name="20th164">新東京国際空港公団[1987年],164頁。</ref> |
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などにより拡張性が見込めなかったため、首都圏第二空港の開設が急務とされた。 |
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そこで政府は、来るべき国際化に伴う航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手し |
そこで[[日本国政府|政府]]([[池田内閣]])は、来るべき国際化に伴う航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手し、[[1962年]][[11月16日]]に第2国際空港建設方針が[[閣議決定]]される<ref name="story105109">大和田武士 鹿野幹夫[2010年]105-109頁。</ref>。 |
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=== 新空港計画の策定と富里空港案 === |
=== 新空港計画の策定と富里空港案 === |
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==== 新空港の青写真と航空審議会答申 ==== |
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[[運輸省]]が作成した冊子『新東京国際空港』(通称、「青本」)で示された当初計画での新空港は、[[超音速旅客機]]用主[[滑走路]](4000[[メートル]])2本、横風用済走路(3600メートル)1本、国内線用滑走路(2500メートル)2本を具備し、総敷地面積は約2300[[ヘクタール]]と、当時の羽田空港(350ヘクタール)はおろか他国の主要空港([[ロンドン・ヒースロー空港|ヒースロー空港]]1100ヘクタール、[[パリ=オルリー空港|オルリー空港]]1600ヘクタール、[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク国際空港]](現・JFK)2000ヘクタール)と比較しても先進的なものであった。 |
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[[ファイル:FigIII-38.gif|サムネイル|新東京国際空港計画案(当初)]] |
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[[運輸省]]が作成した冊子『新東京国際空港』(通称「青本」)で示された「当初計画での新空港」は、[[超音速旅客機]]用主[[滑走路]](4,000[[メートル]])2本、横風用済走路(3,600メートル)1本、国内線用滑走路(2,500メートル)2本を具備し、総敷地面積は約2,300[[ヘクタール]]と、当時の羽田空港(350ヘクタール)はおろか、[[世界]]の主要空港([[ロンドン・ヒースロー空港|ヒースロー空港]]1,100ヘクタール、[[パリ=オルリー空港|オルリー空港]]1,600ヘクタール、[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク国際空港]](現・JFK)2,000ヘクタール)と比較しても先進的なものであった。 |
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[[1963年]]頃から建設地についても本格的な検討が進められ、候補地としては[[千葉県]][[浦安]]沖 |
[[1963年]]頃から建設地についても本格的な検討が進められ、候補地としては[[千葉県]][[浦安]]沖、[[印旛沼]]・[[木更津]]沖、富里村(現・[[富里市]])・八街町(現・[[八街市]])附近、[[茨城県]][[霞ヶ浦]]周辺、[[谷田部 (つくば市)|谷田部]]、[[白井市|白井]]等が挙げられた<ref name="yakuwari136138">成田国際空港株式会社『[http://www.naa.jp/jp/issue/yakuwarigenjyo/list.html 成田空港~その役割と現状~ 2016年度]』2016年11月、136-138頁。</ref>。 |
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1963年[[12月11日]]に[[交通政策審議会|航空審議会]]が最も有力な3候補地について[[綾部健太郎]][[運輸大臣]]に以下のように答申し、富里村附近が最も候補地として適当であるとした。 |
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[[1965年]][[11月18日]]の関係閣僚懇談会で、[[管制空域]]の確保・都心との連絡・気象条件・土木技術的観点等を総合的に勘案した結果として、新空港の位置は富里に内定した。 |
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* 浦安沖は公衆の利便の点では最も魅力的であるものの、羽田との[[航空交通管制|管制]]上の関係<ref>新空港の能力を優先すると羽田空港の年間限界能力が1/6程度にまで低下し、風向きによっては使用不能となる。</ref>や埋め立てに伴う造成経費<ref>近接する人家密集地帯の騒音対策で2キロメートル沖に埋め立て地点を選ばざるを得ないとすれば、内陸の場合に比較して用地造成経費が2倍以上となる。</ref>が難点であり、気象条件についても臨海工業地帯の造成がさらに進んだ場合は[[スモッグ]]による障害が懸念される。 |
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* 霞ヶ浦沖周辺は[[航空自衛隊]][[百里飛行場]]の影響がある。 |
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* 富里村附近は気象条件から滑走路の方向を弾力的に決定でき、地形・都心との距離の両面において霞ヶ浦沖よりも優れている。 |
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なお、航空審議会は「この際中途半端な空港を作ることはかえって将来に禍根を残すことになるので、可能な限り能力の大きい空港とすることを基本的態度として考えるべきである」としている<ref name="symposium8-9"/>。 |
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しかし、巨大な空港の面積は富里村の半分に匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地<ref>大久保利通が取香牧で牧畜を行うことを決めたのが現在の富里市両国といわれる。</ref>であり[[末廣農場]]をはじめ日本の農場経営のモデルケースとされてきた村がほとんど消滅することを意味していた。当時、現在に比べれば航空機の利用は大衆に浸透しておらず、騒音等の[[外部不経済]]の負担が大きい空港は単なる[[迷惑施設]]としか世間で認識されていなかったこともあり、突如突きつけられた計画に対し地元住民らは激しい反対運動を展開したうえ、根回しがされなかった自治体<ref>1965年2月に佐藤首相は「事前に相談する」としていたが、胃潰瘍手術の病後療養のため熱海温泉にいた友納知事や富里出身の川島自民党副総裁は事前相談なく決定を知らされ激怒したとされる。(稲毛新聞[http://www.chiba-shinbun.co.jp/0410_02.html 『成田国際空港「血と涙の歴史」4]』2004年10月8日、2017年3月閲覧。)</ref>からも反発を呼んだ。 |
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==== 建設省・党人派との対立 ==== |
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このとき運輸当局は用地取得について地元農民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議した千葉県側に対しても「[[新東京国際空港公団法]]を次の国会に出して、その公団に各省から人を出してもらい、相談してもらう」とした。地元は政府の決めたことに従えばいいといわんばかりの運輸[[官僚]]のこのような態度は更に火に油を注ぐこととなった<ref>稲毛新聞[http://www.chiba-shinbun.co.jp/0410_02.html 『成田国際空港「血と涙の歴史」4]』2004年10月8日、2017年3月閲覧。</ref>。 |
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上記航空審議会答申では、候補の一つだった木更津附近が羽田空港の進入出発経路の要衝となっているため候補地から除外されている<ref name="symposium8-9">成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、8-9頁。</ref>。木更津案は[[建設省]]と[[河野一郎]]が推進していたものであり、特に河野が羽田空港を廃止してでも木更津案を採用すべきと主張して譲らず、これに[[田中角栄]]大蔵相や[[赤城宗徳]]農林相も同調するなど、答申後も攻防が続いた<ref name=":0">大坪景章(1978年)22頁。</ref>。これは運輸・建設両省間の縄張り争いであるだけでなく、[[自由民主党]]内の[[官僚派]]と[[党人派]]の駆け引きでもあり、さらにその背景には[[浚渫]]工事や土地売買を巡る利権が控えていた<ref name=":0" /><ref name="kosyo"> 藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年、1427-1579/2884</ref>。管制の面から下総台地こそが理想の立地と考えながらも政治力のない運輸省がこのような実力者の動向に気を遣うあまりに、地域住民の存在がないがしろにされたとの指摘もある<ref name="story105109">大和田武士 鹿野幹夫[2010年]105-109頁。</ref><ref name="kosyo"/><ref>朝日新聞成田支局[1998]20頁。</ref>。 |
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=== |
==== 富里案の一時内定 ==== |
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[[1965年]][[11月18日]]、[[第1次佐藤内閣 (第1次改造)|佐藤栄作内閣]]は同年に実施された[[ボーリング]]調査の結果、霞ヶ浦が候補地として適当でなかった<ref name="kosyo"/>として空港建設地を富里に関係閣僚懇談会で内定し、[[橋本登美三郎]][[官房長官]]が[[記者会見]]で「関係閣僚協で新空港を富里にすることに内定した。あす閣議決定する」と突如発表した<ref name="ohtsubo28">大坪景章(1978年)28頁。</ref>。木更津案を強力に推していた河野の急逝と、内陸案に難色を示していた[[友納武人]][[千葉県知事]]の病気療養による不在を奇貨としたのではないかとの指摘もある<ref name="ohtsubo28"/>。 |
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[[1966年]]になっても富里空港反対派のデモ隊が[[千葉県庁]]に乱入するなど、反対運動が収束する気配はなく、新空港建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した[[佐藤栄作]]内閣は[[友納武人]][[千葉県知事]]と水面下で交渉を進め、富里案を縮小、更に位置を約4キロメートル北東に移動させて[[国有地]]である総御料牧場を建設地に充て[[収用]]を最小限に抑えることで両者は合意した。なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓民が相手であれば「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である<ref>福田克彦[2001], p.70。『文藝春秋』1971年6月号記載の友納知事発言の伝聞供述として引用。</ref>」との思惑があり、古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる<ref>福田克彦[2001], p.69。</ref>。 |
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巨大な空港の面積は富里村の半分に匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地<ref>[[大久保利通]]が取香牧で牧畜を行うことを決めたのが、現在の富里市両国といわれる。</ref>であるとともに[[末廣農場]]を始めとする日本の農場経営のモデルケースとされてきた村がほとんど消滅することを意味していた。 |
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同年[[6月22日]]に、佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案を発表する。今回は県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取等は行われておらず、寝耳に水の状態で閣議決定を報道で知った三里塚・芝山地区の住民らは、富里と同様に猛反発した。 |
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当時、現在に比べれば航空機の利用は大衆に浸透しておらず、騒音等の[[外部不経済]]の負担が大きい空港は単なる[[迷惑施設]]としか世間で認識されていなかったこともあり<ref>成田空港問題が起きた当初、お年寄りが「あの飛行機というのはすごくて、一反歩もあるようなものが降りてくんだぞ。そんなもの降りてきたらどうすんだ」と述べていたという。(伊藤睦[2017]143頁)</ref>、既に富里が候補に挙がった段階で「日本一の農耕地」を自負する農民らは反対運動を行っていたが<ref>富里農家の平均耕地面積は県平均の約1.5倍であり、農業粗収入も51万5千円と県平均(36万9千円)を大幅に上回っていた。(大坪景章(1978年)21頁)</ref>、突如突きつけられた内定に対し、地元住民らは革新政党と連帯して激しい反対運動を展開するようになった。根回しがされなかった[[地方公共団体]]<ref>1965年2月に佐藤首相は「事前に相談する」としていたが、胃潰瘍手術の病後療養のため[[熱海温泉]]にいた友納知事や、千葉県選出で早期から空港問題の調停にあたっていた川島自民党副総裁は、事前相談なく内定を知らされ激怒したとされる。(稲毛新聞[http://www.chiba-shinbun.co.jp/0410_02.html 『成田国際空港「血と涙の歴史」4]』2004年10月8日、2017年3月閲覧。)</ref>からも反発を呼び、閣議決定は結局延期となった。千葉県には「富里に決定したら命をもらう」「[[南ベトナム解放民族戦線|ベトコン]]作戦で徹底的に戦う」などの脅迫まがいの電話や直談判が殺到した<ref name="ohtsubo29">大坪景章(1978年)29頁。</ref>。 |
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切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ政府は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、[[7月4日]]に、新空港の位置及び規模(平行滑走路4,000メートル・2,500メートル、横風用滑走路3200メートル、総敷地面積1065ヘクタール)を[[閣議決定]]した。この時の決定内容は現在の成田国際空港の[[基本計画]]となっている<ref>ただし、横風用滑走路については、「航空機の飛行性能が著しく進歩し、成田空港の運用実績においても横風を含む強風等の理由で他空港へダイバートした便の比率は過去10年間で0.03%と極めて少ないことから、(中略)必要性は低くなっている」として成田国際空港株式会社が2016年(平成28年)に撤回している。また、2017年(平成29年)現在検討が進められている第3滑走路はこの計画に含まれていない。</ref>。 |
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これまで地元の陳情・請願を受けて飛行場を造ることが殆どであった[[運輸省]]当局は<ref>大坪景章(1978年)32頁。</ref>、用地取得に関する地元住民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、住民対策として「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議してきた千葉県側に対しても、「[[新東京国際空港公団法]]を次の国会に出して、その公団に各省から人を出してもらい、相談してもらう」とした。地元は政府の決めたことに従えばいいと言わんばかりの運輸[[官僚]]のこのような態度は、更に火に油を注ぐこととなった<ref>稲毛新聞[http://www.chiba-shinbun.co.jp/0410_02.html 『成田国際空港「血と涙の歴史」4]』2004年10月8日、2017年3月閲覧。</ref>。なお、後述する1966年7月4日の閣議決定の前夜に、地元農民への対処について農林[[事務次官]]に問われた運輸事務次官が「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決めて、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであって、一度も問題になったことはない。」と答えたとされる<ref>宇沢弘文(1992年)78頁。</ref><ref>山口幸夫「三里塚と脱原発運動」高草木光一・編『一九六〇年代〜未来へつづく思想』岩波書店 2011年 235頁。</ref>。 |
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新しい空港計画は富里案に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも御料牧場の面積は空港予定地の4割に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った。 |
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=== 三里塚・芝山の登場 === |
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==== 水面下の調整 ==== |
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[[1966年]]になっても富里空港反対派のデモ隊が[[千葉県庁]]に乱入するなど、反対運動が収束する気配はなく、新空港建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤内閣は[[若狭得治]]運輸事務次官に友納[[千葉県知事]]との水面下での交渉を行わせた<ref name="ohtsubo35">大坪景章(1978年)35頁。</ref>。[[川島正次郎]][[自由民主党副総裁]]の斡旋等もあった結果、富里案を縮小、更に位置を約4キロメートル北東に移動させて[[国有地]]である下総御料牧場を建設地に充て[[収用]]を最小限に抑える方向で調整された(なお、御料牧場は既に富里案での移転農家向けの代替地として検討されていた)<ref name="fukuda74-77">福田克彦[2001], 74-77頁。</ref>。この計画は羽田空港の存続を前提とした技術的な見地を重視する運輸省と「運輸省はじめ、航空関係者は空ばかり見て、地に足がついていない」と批判してきていた"現実政治家"との妥協の産物ともいえる<ref name="kosyo"/>。なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓農民が相手であれば「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である<ref>福田克彦[2001], 70頁。</ref><ref>事業認定取消訴訟控訴審での1990年11月8日の若狭得治証言。(成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、22頁。)</ref>」との思惑があり、古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる<ref>福田克彦[2001], 68頁。『文藝春秋』1971年6月号から千葉県企画部空港調査室長の証言を転載。自民党政調会交通部局の案を千葉県が手直しし、取香などの古村を避けるように敷地を削ったとしている。</ref>。 |
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一方運輸省では、富里案こそが理想の新空港の形であり、三里塚案は"つなぎ"・"暫定案"という認識が残っていた。既に三里塚案での調整が政府・千葉県の間で進められていた同年6月21日に、[[中村寅太]]運輸相が「新空港は富里・八街以外にない」と記者会見で述べており、7月12日には新設される空港公団の総裁に指名された成田努が「地元農民の賛成があれば(現行案以上に)拡張したい」と述べている<ref name="fukuda74-77"/>。 |
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==== 閣議決定と動揺する地域 ==== |
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中村運輸相が「富里・八街以外にない」と述べた翌日である[[6月22日]]に、佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納千葉県知事と協議し、その内容が報道される<ref>なお、後に反対運動擁護の記事で反対同盟支援を続けた朝日新聞も、6月23日には「(政府は)友納知事に、強行すれば流血の惨事も起こりかねないという現地(富里)の情勢を聞いたうえで、国有地を活用し移転農家を最小限にとどめ、これによって紛糾を避けるという道を選んだ」と三里塚案に理解を示す記事を掲載している。(前田伸夫[2005]46頁、朝日新聞1966年6月23日(12版)1面)</ref>。今回は県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取等はやはり行われていなかった。富里での空港建設を対岸の火事と思い、空港建設による経済的恩恵さえ期待していた三里塚・芝山地区の住民らは、寝耳に水の状態で空港建設の内定を報道で知ると富里と同様に猛反発した。[[日本共産党]]や[[日本社会党]]の指示を受けて、富里の反対運動を支援していた両党の[[オルグ (社会運動)|オルグ]]団や反対派の富里住民らが直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対して「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」と謳った<ref>福田克彦[2001], 129頁。</ref><ref name="drum2627">朝日新聞成田支局[1998]26-27頁。</ref><ref>なお、社会党は後に自らが主張していた米軍基地への移設案について調査したところ実現困難なことがわかり、結局具体的な対案を出せなかった。(藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年)</ref>。 |
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切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、2週間後の[[7月4日]]に新空港の位置及び規模(平行滑走路4,000メートル・2,500メートル、横風用滑走路3200メートル、総敷地面積1065ヘクタール)を閣議決定した。この時の決定内容は現在の成田国際空港の[[基本計画]]となっている<ref>ただし、横風用滑走路については、「航空機の飛行性能が著しく進歩し、成田空港の運用実績においても横風を含む強風等の理由で他空港へダイバートした便の比率は過去10年間で0.03%と極めて少ないことから、(中略)必要性は低くなっている」として成田国際空港株式会社が2016年(平成28年)に撤回している。また、2017年(平成29年)現在検討が進められている第3滑走路はこの計画に含まれていない。({{Cite web |date=2016-09|url=https://www.narita-kinoukyouka.jp/document/160927_02.pdf|title=成田空港の更なる機能強化に関する調査報告について(その3)|publisher=成田国際空港株式会社|accessdate=2017-08-15}})</ref>。 |
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新しい空港計画は富里案に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも空港建設用地は[[成田市]]・[[芝山町]]・[[大栄町]]・[[多古町]]に跨る1065ヘクタールもの広大なものであり、御料牧場等の面積は空港予定地の4割(国有地は243ヘクタール、公有地は152ヘクタール)に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った<ref name="yakuwari136138"/>。 |
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しかし、この時政府は空港建設をまだ楽観視しており、あくまで「5年間で完成させるプロジェクトチーム」として各方面からの寄せ集めの人員で[[新東京国際空港公団]]を立ち上げている<ref name="tokumei47">前田伸夫[2005]47頁。</ref>。後に一律に定められた補償額等の制約や激しい反対の中で、空港公団職員らは必死の用地買収交渉を行うこととなるが、省庁などから出向してきた職員らの中には横柄な態度で地権者に接し不評を買った者もおり、「民間業者に任せればもっと早かったと思う」と振り返る空港公団OBもいる<ref name="story9096">大和田武士 鹿野幹夫[2010年]90-96頁。</ref>。 |
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1966年[[12月12日]]に運輸省が空港公団に指示した基本計画では、1971年春に滑走路1本と西側半分の施設(一期地区)で開港することとし(工事を1970年度中完成)、残りの施設(二期地区)を1973年度末までに完成することを目標としていた<ref>原口和久[2000年]254-255頁。</ref>。 |
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== 紛争の経過 == |
== 紛争の経過 == |
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{{main|成田空港問題 |
{{main|成田空港問題の年表}} |
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=== 初期の三里塚闘争 === |
=== 初期の三里塚闘争 === |
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==== 反対同盟の結成 ==== |
==== 反対同盟の結成 ==== |
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[[File:SanrizukaDoumei.gif|thumb|150px|[[三里塚芝山連合空港反対同盟]] シンボルマーク]] |
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閣議決定直後の[[成田市]]及び[[芝山町]]はほぼ反対一色となった。空港建設に反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、自発的に各地区で反対運動団体を組織した。 |
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[[File:NaritaAirportSyokoFlg.jpg|thumb|150px|反対同盟少年行動隊が用いていた旗([[成田空港 空と大地の歴史館]]展示)]] |
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閣議決定直後、空港建設用地と騒音地域の大部分を占める成田市及び芝山町はほぼ反対一色となった。空港建設に反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、富里の反対運動組織や現地に団結小屋を建てて常駐した革新政党オルグらの指導を受けながら各地区で反対運動団体を組織した<ref name="drum2627"/><ref name="moyu1617">伊藤睦[2017]16-17頁。</ref><ref>飯高春吉[1976]7頁。</ref>。 |
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戦後開拓で入植した |
当時、戦後開拓で入植した農民らにとっては、住宅資金や営農資金の返済が終わって農業がようやく軌道に乗り始めており、これまでの労苦の成果が実りつつある時期に当たっていた。また食糧不足の東京に[[農作物]]を供給し[[戦後復興期|復興]]を影で支えていたという自負もあり<ref name="story7278">大和田武士 鹿野幹夫[2010年]72-78頁。</ref><ref>朝日新聞成田支局[1998]20頁。</ref>、自分たちを標的とした三里塚案に大いに[[自尊心]]を傷つけられた<ref>福田克彦[2001], 70-71頁。</ref>。兵役・開拓・空港と国に翻弄されてきた農民からは「三度目の[[召集令状|赤紙]]だ」との声も上がった<ref name="drum284"/>。したがって、彼らは降って湧いた空港建設計画をこれまでの努力を否定するものと捉え、政府側の期待に反して強く反発した。 |
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他にも、古村を開発や騒音から守ろうとする芝山地区等の住民や、[[皇室]]ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、行政が推進していた東山地区営農改善計画(シルクコンビナート計画)に応じて[[養蚕]]用の[[桑]]の栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家等、様々な背景を持つ者が反対運動に合流した<ref name="fukuda">福田克彦[2001], 47-52・390-394頁。</ref><ref name="moyu170172">伊藤睦[2017]170-172頁。</ref>。 |
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1966年[[7月20日]]に「三里塚空港反対同盟」及び「芝山空港反対同盟」が合同し、「[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]」(以下、反対同盟。)が結成された<ref>反対同盟の結成は8月22日とする記録も多数あり、いずれが正しいか定かではない。 参考:http://clio.seesaa.net/article/133048321.html 2017年1月14日閲覧。</ref>。ここに本格的な三里塚闘争が始まった。 |
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1966年7月から8月にかけて「三里塚空港反対同盟」及び「芝山空港反対同盟」が合同し、「[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]」(以下、反対同盟。)が結成された<ref>両反対同盟連合の日付は文献によって異なる。 参考:http://clio.seesaa.net/article/133048321.html 2017年1月14日閲覧。</ref>。ここに本格的な三里塚闘争が始まった。 |
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初期段階での反対同盟は農民を中心に用地外も含め1500戸の世帯により構成された。下部組織として少年行動隊、青年行動隊、婦人行動隊、老人行動隊が組織され、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ。 |
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初期段階での反対同盟は、農民を中心に用地外も含め約1200戸・約1500人で構成された。各部落には独立性が認められていたが、反対同盟の下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織されたことにより各世代間での横でのつながりが生まれ、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ<ref name="moyu173175">伊藤睦[2017]173-175頁。</ref>。 |
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==== 条件派の動き ==== |
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閣議決定に前後して、行政や新たに設立された[[新東京国際空港公団]](以下、空港公団)により、空港の意義や移転補償内容について住民説明が行われた。 |
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==== 条件賛成派の動き ==== |
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このとき県の「国際空港相談所」所長は、買い取りに応じない[[地権者]]への[[強制収用]]の実施を匂わせつつも、 |
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閣議決定に前後して、県・運輸省<ref>「七人の侍」と呼ばれる、運輸省の係官7人が現地入りし、現地説明を行った。(大坪景章[1978年],52-54頁)</ref>・新たに設立された[[新東京国際空港公団]](以下、空港公団)等により、空港の意義や移転補償内容について住民説明が行われた。 |
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* 畑一反100万円(相場の4倍から5倍程度)を基準として用地は高額で買い取り、現金で支払う |
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このとき県の「国際空港相談所」所長は、買い取りに応じない[[地権者]]への[[強制収用]]([[土地収用法]]による[[行政代執行]])の実施を匂わせつつも、 |
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* [[畑]]一[[反]]100万円(相場の4倍から5倍程度であり、当時の[[国家公務員]][[初任給]]は2万円程度<ref>{{Cite web |date=2016-08-08|url=http://www.jinji.go.jp/kyuuyo/index_pdf/starting_salary.pdf|title=国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))|publisher=[[人事院]]|accessdate=2017-04-17}}</ref>。)を基準として用地は高額で買い取り、現金で支払う |
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* 買取額を代替地購入に充当すれば耕地面積を1.5倍に増やせるように調整する |
* 買取額を代替地購入に充当すれば耕地面積を1.5倍に増やせるように調整する |
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* [[離農]]する地権者には廃止補償を出す |
* [[離農]]する地権者には廃止補償を出す |
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* 家屋建て替えの費用は新築見合いで算出する |
* 家屋建て替えの費用は新築見合いで算出する |
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* 騒音地域内の農耕地に対しては、国費で畑地灌漑施設を整備する([[成田用水]]) |
* 騒音地域内の農耕地に対しては、国費で畑地[[灌漑]]施設を整備する([[成田用水]]) |
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等と説明をしており<ref>福田克彦[2001], |
等と説明をしており<ref name="fukuda7886">福田克彦[2001], 78-86頁。</ref>、「買い上げ価格を相当思い切ってやる」とする政府側の意向が反映された補償方針が示された<ref>比較として、1945年9月21日に行われた羽田空港の拡張では、終戦間もない頃にGHQが出した指令によるものとはいえ、僅かな補償金のみを渡された住民は48時間で立ち退きを強いられた。</ref>。 |
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また、閣議決定においても土地等の補償<ref>新東京国際空港建設予定地の土地取得、物件移転等の補償については、土地代及び家屋等の物件の移転費、移転に伴う離農料、営業補償等の通常生ずる損失について個別的に算定する建前のもとに、千葉県知事の意向を十分尊重して決定する。</ref>・代替地の確保<ref>①営農を継続する意思のある農民に対しては、国は県の協力を得て、移転先等につき申出者の希望を尊重して所要の代替地を用意し、営農が円滑に行なえるよう資金および技術等の援助をする。②商工業を営む者についても、これに準じた措置を講ずる。③下総御料牧場並びにその従業員については、国が責任をもって措置することとする。</ref>・騒音対策<ref>①騒音対策については、今回建設が予定される新空港の性格にかんがみ、現在国が実施している騒音対策の基準等を勘案して、一定ホン以上のものについて格別の配慮を行なう。なお、地元関係者を含めた「騒音対策委員会」を設置する。②騒音対策区域内の住家及び店舗で移転を希望するものについては、実情に応じ、移転先のあっせん、移転料の支払等について国が所要の措置を講ずる。学校、病院については国費をもって措置する。③騒音対策区域内の農耕地については、必要なものにつき畑地かんがい施設を建設し、農業収入の増大を図る。</ref>・職業転換対策<ref>離職者の職業あっせんについては、住民の希望を徹し、国が責任をもって空港の事業、関連事業等に就業せしめるよう措置する。殊に、空港における構内営業は、地元民に優先的に開放する。</ref>・インフラ整備<ref>道路・鉄道・用排水・新都市計画</ref>等を県当局の要望に沿って行うことが掲げられていた。県の要望によって閣議決定の内容に地元との交渉条件が含まれるのは極めて異例な措置であった<ref name="yakuwari136138"/>。 |
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これを受けて、閣議決定後の数か月で地権者の8割が「条件次第によっては、国策に沿って移転もやむなし」とする条件賛成派に転向し<ref>福田克彦[2001], 71頁。</ref><ref>飯高春吉[1976]42頁。</ref>、成田市議会及び芝山町議会も当初可決した反対決議を白紙撤回した。古村では部落の有力者の影響が強い傾向があり、特に成田側の駒井野・取香では有力者が条件賛成派に転じると部落全体も宗旨替えをした<ref name="moyu172"/>。 |
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用地買収に応じた者の心情として、[[小川プロダクション]]の取材で条件賛成派となった農民らが、 |
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* 共産党や社会党に援農などで恩を着せられると反対運動から抜けるに抜けられなくなるが、このままいったら国や県の援助を得られず代替地もいいところをとられてしまう |
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* 圧力を覚悟で声を上げたところ、実は条件賛成派になりたかったが近所手前のことで声を上げられなかったとする者が半数以上いた |
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* 既に空港公団との売買に応じていても、反対運動がすごく、下手な口をきいたら殺されてしまうのでみんなに話せなかった |
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* 来客があっても自分の塩梅を見に来たと思い、腹の底からじっくり安心して話ができなかった |
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* (疑心暗鬼で)ずいぶん辛い思いをした。この精神補償ももらいたいくらいだ |
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* 自分は空港反対だが部落がそうなった以上は条件賛成派に入らなければ生活が成り立たない |
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* 物価の上昇等も考えると条件賛成派になったのはうまくなかったな(売却を先延ばした方が土地を高く売れた)、という感じはあるものの、自分の身の振り方を考えた時には空港が来てよかったと思っている |
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等とそれぞれの思いを語っている。なお、この取材記録は同プロダクションの映画作品には使われていない<ref name="fukuda7886" />。 |
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[[1968年]][[4月6日]]には[[中曽根康弘]]運輸大臣及び友納知事立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用地民有地の89%(597ヘクタール)を確保した。 |
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覚書では、反当たりの買取価格が当初の説明からさらに上昇して、畑:140万円、田:153万円、宅地:200万円、山林原野115万円となった |
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これを受けて条件次第によっては移転に応じても良いとする条件賛成派に転向する地権者が相次ぎ、成田市議会及び芝山町議会も当初可決した反対決議を白紙撤回した。 |
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<ref>{{Cite web |date=|url=https://kotobank.jp/word/%E7%94%A8%E5%9C%B0%E5%A3%B2%E3%82%8A%E6%B8%A1%E3%81%97%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A6%9A%E6%9B%B8-885805|title=用地売り渡しに関する覚書|publisher=[[コトバンク]]|accessdate=2017-02-04}}</ref>。また、畑の代替地基準価格は90万円とされ、当初の説明内容に沿う形で代替地の耕作地の価格は買取額の2/3程度に抑えられたほか(他の[[地目]]でも同じ比率)、空港公団が用地提供者に対し空港内の営業を優先的に考慮することや、代替地を早急に造成し速やかに引き渡す努力をすることが約された<ref name="20th4041">新東京国際空港公団[1987年],40-41頁。</ref>。 |
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希望者に対して必要な代替地自体が十分に確保できなかったために移転先の耕地面積が移転前よりも却って減少するなど、問題がないわけではなかった<ref>福田克彦[2001], 79頁。</ref>が、相場以上の土地の買い取り価格と手厚い補償が提示された結果、9割の地主が一定の理解を示し移転に応じる形となった<ref name="houdoukyoku">{{Cite web |date=2017-07-29|url=https://www.houdoukyoku.jp/posts/15800|title=【利用客10億人突破】闘争と共存共栄の成田空港|publisher=[[ホウドウキョク]]|accessdate=2017-08-03}}</ref>。 |
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1968年[[4月6日]]には[[中曽根康弘]][[運輸大臣]]立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用地民有地の89%(597ヘクタール)を確保した。 |
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移転を機に[[専業農家]]を辞めた元地権者らの多くは、空港公団の斡旋を受けるなどして[[警備業]]や店舗経営等の空港関連の業種に転職したため、彼らにとっては新たな生活を営む上で新空港の早期開港が切実なものとなった。また、警備業に就いた元地権者の中には[[測量]]や代執行を行う空港公団を守る[[警備員]]となった者もおり、反対派として闘争を継続する親族と対峙する事態も発生した<ref>朝日新聞成田支局[1998]53頁。</ref>。 |
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覚書での反当たりの買取価格は当初の説明からさらに上昇して、畑:140万円、田:153万円、宅地:200万円、山林原野115万円となった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%94%A8%E5%9C%B0%E5%A3%B2%E3%82%8A%E6%B8%A1%E3%81%97%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A6%9A%E6%9B%B8-885805 コトバンク『用地売り渡しに関する覚書』]、2017年2月4日閲覧。</ref>。また、畑の代替地基準価格は90万円とされ、説明内容に沿う形で代替地の耕作地の価格は買取額の2/3程度に抑えられた。しかし、希望者に対して必要な代替地自体が十分に確保できなかったために移転先の耕地面積が移転前よりも却って減少するなど、問題がないわけではなかった<ref>福田克彦[2001], p.79。</ref>。 |
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条件賛成派に対する反対派の怨嗟は少なからずあり、支援学生が提案してきた条件賛成派との再共闘が反対派の会議で一蹴されたり、闘争で荒んだ反対派農家が条件賛成派農家の農作物を荒らすことなども起きた<ref>福田克彦[2001], 133-134頁。</ref>。闘争初期において反対派が多かった古村で条件賛成派農家への[[村八分]]が行われ、その農家が[[人権擁護局]]に訴えたこともあった<ref>村八分にあった家は隣人から口もきかれず、物も売ってもらえない状態となった。本来村八分は葬式と火事を例外とするが、その家の家人が死亡した際、たまたま反対同盟からの動員がかかったこともあり、故人は長らく地域の小学校の校長等を務めた人物であったにも関わらずその家の葬式には誰も訪れずに出棺もままならず、更には「葬家の犬」と大書きした嫌がらせの看板が出される始末であった。結局、人権擁護局も手出しができず、その家は追われるように村を離れた。(飯高春吉[1976]45-46頁、朝日新聞成田支局[1998]21頁)</ref><ref>福田克彦[2001], 94頁。</ref>。 |
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移転を機に[[専業農家]]を辞めた元地権者らの多くは空港公団の斡旋を受けるなどして[[警備業]]や店舗経営等の空港関連の業種に転職したため、彼らにとっては新たな生活を営む上で新空港の早期開港が切実なものとなった。また、警備業に就いた元地権者の中には測量や代執行を行う空港公団のガードマンとなった者もおり、反対派として闘争を継続する親族と対峙する事態も発生した<ref>朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、53p</ref>。 |
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==== 測量クイ打ち阻止闘争と革新政党の離反 ==== |
==== 測量クイ打ち阻止闘争と革新政党の離反 ==== |
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[[File:NaritaAirportTachiki.jpg|thumb|150px|[[立木]]トラストの明認札([[成田空港 空と大地の歴史館]]展示)。社会党の[[佐々木更三]]・[[成田知巳]]、三里塚平和塔の建立にかかわった[[佐藤行通]]の名前が見える。]] |
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政府側の硬軟織り交ぜた働きかけを受けても反対同盟に留まった者達の決意は固く、用地を細分化して空港用地買収交渉を困難にする目的で、土地一坪を地権者相互に売買し合う「一坪運動」が展開された。 |
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[[File:NaritaAirportDoramukan.jpg|thumb|150px|反対同盟が用いていた連絡用の[[ドラム缶]]([[成田空港 空と大地の歴史館]]展示)。叩く音で同盟員を招集していた。]] |
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政府側の硬軟織り交ぜた働きかけを受けても反対同盟に留まった1割ほどの者達の決意は固く、用地を細分化して空港用地買収交渉を困難にする目的で、革新政党主導の下で土地一坪を地権者や支援者が相互に売買して登記する「一坪運動」や[[立木]]一本一本を売買して表札を掲げる立木トラストが展開された<ref name="moyu178183">伊藤睦[2017]178-183頁。</ref>。これらの登記には社会党議員らも名を連ねている<ref>{{Cite web |date=2017-5-28 |url=http://www.sankei.com/premium/news/170528/prm1705280004-n1.html |title=成田空港反対闘争、煽って逃げた社会党 テロ集団を育てたといっても過言ではない 小川国彦氏の死去に思う |publisher=産経新聞 |accessdate=2017-06-24}}</ref><ref>北原鉱治[1996]39-40頁</ref>。 |
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空港反対運動の組織にかかわっていた革新政党であるが、反対同盟が[[1967年]][[8月16日]]に「あらゆる民主勢力との共闘」として敵対する新左翼党派([[反代々木派]])の受け入れを表明したことで、共産党との関係に亀裂が生じ始めた<ref name="moyu178183"/>。 |
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[[8月21日]]に、友納知事が土地収用法に基づく空港公団による土地の立入調査が行われる旨を通知した。この間に反対同盟は[[陳情]]・[[デモ]]・[[署名運動]]・[[リコール (地方公共団体)|解職請求]]などの様々な抗議運動を行うが芳しい成果は上がらなかった<ref name="drum2223">朝日新聞成田支局[1998]22-23頁。</ref>。このころの反対派の中には自民党支持者も多く、自民党議員への陳情も行われたが、陳情後も空港賛成の言動が継続されることを見て取ると離れていった<ref name="drum2627"/>。 |
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[[8月21日]]に友納知事が[[土地収用法]]に基づき空港公団が土地の立入調査を行う旨を通知した。 |
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この間に反対同盟は[[陳情]]や[[デモ]]などの様々な抗議運動を行うが芳しい成果は上がらなかった。 |
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[[10月10日]]の早朝に、外郭測量用のクイを打つため、空港公団 |
[[10月10日]]の早朝に、外郭測量用のクイを打つため、空港公団職員らが[[警視庁]]・[[千葉県警察]]・[[神奈川県警察]]の[[機動隊]]に守られながら空港建設予定地に現れる。これに対し反対派は進路上での[[座り込み]]等による阻止を試みたが、[[道路交通法]]違反等として警告を受けた後に機動隊に暴力的に排除されてしまう('''測量クイ打ち阻止闘争''')<ref>飯高春吉[1976]56・57頁。</ref><ref name="drum2830">朝日新聞成田支局[1998]28-30頁。</ref>。このとき、同盟員の先頭に立っていた共産党と[[民青]]の部隊は早々に座り込みをやめて隊列を離れ、[[労働歌]]「[[がんばろう#労働歌としてのがんばろう|がんばろう]]」を歌いながら、機動隊と反対派住民らの衝突を傍観<ref>共産党員らは反対派住民に対し「警察の挑発に乗るな」などと訴えたが、土地の防衛に必死な彼らが応じるはずもなかった。(朝日新聞成田支局[1998]29頁)</ref>した。 |
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同盟員は政府の横暴と共産党の「裏切り」に驚愕し、憤った。一方共産党は、同年[[11月14日]]に[[大橋武夫 (政治家)|大橋武夫]]運輸大臣及び空港公団総裁が反対同盟代表の[[戸村一作]]らと座談会を開いたことについて、「同盟の大方針に反するばかりでなく、同盟を一部の人々でひきまわす非民主的なやり方」と糾弾したうえ、その後も反対同盟幹部の寝返りの噂を流して主導権の取り戻しを図ったことで、反対同盟との対立は決定的となった<ref name="moyu178183"/>。 |
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一方、この日は1本でもクイを打ち込めれば成功と考えていた空港公団では、3本とも打ち込めた予想外の成果に「空港建設への突破口が開けた」と今後を楽観視した。しかしながら、それは長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けであった。 |
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一方、この日は1本でもクイを打ち込めれば成功と考えていた空港公団では、3本とも打ち込めた予想外の成果に「空港建設への突破口が開けた」と今後を楽観視した<ref name="iwadare">{{Cite web |author=[[岩垂弘]] |date=2006-02-18 |url=http://www.econfn.com/iwadare/page176.html |title=第68回 流血の成田空港反対闘争 |publisher=もの書きを目指す人びとへ |accessdate=2017-10-6}}</ref>。 |
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政府の仕打ちに激怒した反対同盟は、暴力を厭わない実力闘争に舵を切る決意を固めると同時に、[[12月15日]]に共産党の支援と介入を排除する声明を発表した。反対同盟の共産党に対する拒絶は、共産党を支持したり共産党員の家族がいる世帯に対する[[村八分]]が古村で行われるほど徹底していた<ref>福田克彦[2001], p.95-100。</ref>。これをもって革新政党による反対同盟への協力は失われた。革新政党は反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、農民たちに不信感を持たれたとも分析されている<ref name="sankei150802">{{Cite web |date=2015-08-02 |url=http://www.sankei.com/region/news/150802/rgn1508020033-n1.html |title=【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦 |publisher=[[産経新聞]] |accessdate=2015-08-03}}</ref>。 |
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しかしながら、それは長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けであった。政府の対応に激怒した反対同盟は、暴力を厭わない実力闘争に舵を切る決意を固めると同時に、[[12月15日]]に共産党の支援と介入を排除する声明を発表した。反対同盟の共産党に対する拒絶は、共産党を支持したり共産党員の家族がいる世帯に対する村八分が古村で行われるほど徹底していた<ref>福田克彦[2001], 95-100頁。</ref>。 |
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社会党はその後もしばらく支援を続けていたが、闘争開始から3年程度で反対運動の隊列から消えていき、一坪共有運動に参加していた者も反対同盟に通告もしないまま土地を空港公団に売却した<ref>朝日新聞成田支局[1998]200頁。</ref><ref>北原鉱治[1996]44-45頁</ref>。 |
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革新政党は反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、反対派住民らに不信感を持たれたとも分析されている<ref name="sankei150802">{{Cite web |date=2015-08-02 |url=http://www.sankei.com/region/news/150802/rgn1508020033-n1.html |title=【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦 |publisher=[[産経新聞]] |accessdate=2015-08-03}}</ref>。 |
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=== 新左翼党派の介入 === |
=== 新左翼党派の介入 === |
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[[File:NaritaAirportHelmet.jpg|thumb|150px|新左翼党派や反対同盟員が用いた[[ヘルメット]]等装備([[成田空港 空と大地の歴史館]]展示)]] |
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測量クイ打ち阻止闘争で機動隊の威力を目の当たりにした農民たちは、決別した革新政党の替わりとして同時期に発生した[[羽田事件]]で機動隊と渡り合った新左翼党派に期待し、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取った。一方、反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとっても、三里塚闘争は[[ベトナム戦争]]反戦運動<ref>新左翼は新東京国際空港が「日帝の海外侵略基地」・「軍事空港」であるとした(警察庁『焦点』第269号 第2章)。開港以降の使用状況を鑑みると突飛な主張に見えるが、ベトナム戦争当時は羽田空港に多数の米軍のチャーター機が飛来していたことも事実ではある。空港公団は左派系の地元団体と軍事使用を否定する覚書を交わしており、現在でも[http://www.page.sannet.ne.jp/km_iwata/gunjisitumonkaisya.html 燃料不足を理由として米軍チャーター機が臨時着陸した際には詳細の明示と軍事不使用の再認を空港会社が求められる]など、強い監視下にある。また、反対同盟北原派は現在でも第3滑走路建設の動きを軍事転用のためのものであるとして[http://www.sanrizuka-doumei.jp/home02/170326syoseijo.pdf 集会参加を呼びかけ]ている。</ref>や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として映り、双方の思惑が一致した。ただし、新左翼党派の中でも[[階級闘争]]至上主義の[[革マル派]]は三里塚闘争を「[[小ブルジョア]]農民の自己保身」と揶揄したことから、運動から追放された。 |
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折しも反対同盟が機動隊の威力を目の当たりにした1967年は、[[70年安保]]と連なる[[日本の学生運動]]が勃興しつつある時期と重なっていた。 |
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反対同盟は、測量クイ打ち阻止闘争と同時期に発生した[[羽田事件]]で機動隊と渡り合った学生ら(新左翼党派)に期待し、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取った<ref name="houdoukyoku"/>。一方、反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとっても、三里塚闘争は[[ベトナム戦争]]反戦運動<ref>新左翼は新東京国際空港が「日帝の海外侵略基地」・「軍事空港」であると決めつけて闘争対象とした(警察庁『焦点』第269号 第2章)。開港以降の使用状況を考えると突飛な主張に見えるが、ベトナム戦争当時は羽田空港に多数の米軍のチャーター機が飛来していたことも事実ではある。空港公団は左派系の地元団体と軍事使用を否定する覚書を交わしており、現在でも[http://www.page.sannet.ne.jp/km_iwata/gunjisitumonkaisya.html 燃料不足を理由として米軍チャーター機が臨時着陸した際には詳細の明示と軍事不使用の再認を空港会社が求められる]など、強い監視下にある。また、反対同盟北原派は現在でも第3滑走路建設の動きを軍事転用のためのものであるとして[http://www.sanrizuka-doumei.jp/home02/170326syoseijo.pdf 集会参加を呼びかけ]ている。</ref>や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として映り、双方の思惑が一致した<ref name="moyu178183" /><ref name="drum97">朝日新聞成田支局[1998]97頁。</ref><ref>原口和久[2000年]182頁。</ref>。 |
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翌1968年[[2月26日]]及び[[3月10日]]には、成田市内で空港公団分室への突入を図った学生集団と機動隊との間で激しい衝突があり、反対派住民らは抗争力を発揮した学生らを自宅に招いて歓待した。このことや反対同盟代表の[[戸村一作]]が2月26日の衝突で機動隊に殴打されて負傷したことを切っ掛けに、反対同盟は[[武装闘争]]路線の新左翼である[[中核派]]・[[共産同]]・[[社青同解放派]]が主導する[[三派全学連]]の全面的な支援を受けることになった<ref name="drum2830"/>。この反対派住民らの熱狂ぶりは「おばさんや青年や老人たちの間では、農民の為に血を流してくれた闘う中核(派)が大もて」等と報じられた<ref name="moyu178183"/>。 |
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ただし、新左翼党派の中でも[[階級闘争]]至上主義の[[革マル派]]は三里塚闘争を「[[小ブルジョア]]農民の自己保身」と揶揄したほか、[[内ゲバ]]や地元の食堂での[[無銭飲食]]など素行の悪さが目立ったため<ref name="kitahara54"> 北原鉱治[1996]54頁</ref>、[[1970年]]1月に反対同盟の幹部会で「現地闘争に主体的に参加せず、他派に対する誹謗のみを目的とした」として、運動から追放された<ref>{{Cite web |url=http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/book/book_sanrizukatosoco.htm |title=三里塚闘争概略 |accessdate=2017-08-19}}</ref>。その後、革マル派は三里塚闘争への妨害活動を続けている<ref name="kitahara54"/>。 |
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反対同盟は新左翼各派の支援を受けつつ、座り込み・空港公団職員から強奪した調査用具の損壊・[[投石]]・[[バリケード]]構築・空港関係者の自宅への嫌がらせなど様々な手段を用いて空港公団や機動隊を相手に実力で対抗した<ref name="fukuda145166">福田克彦[2001], 145-166頁</ref><ref name="maeda7085">前田伸夫[2005]70-85頁</ref>。 |
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最終的に反対同盟は、[[武装闘争]]路線の新左翼である[[中核派]]・[[共産同]]・[[社青同解放派]]が主導する[[三派全学連]]の全面的な支援を受けることになった。これに伴い、機動隊との衝突を始めとする実力闘争は次第に過激さを増していった。 |
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開港までの闘争では |
開港までの闘争では戸村代表の指導の下、共通の敵である政府に打撃を与えるため、現地に乗り込んだ新左翼各派の活動家らと古村・開拓部落の反対派住民<ref>空港問題が持ち上がる前は保守的な農民が多く、反対派の中には過去に自民党の票集めをしていた元自民党員もいた。保守的な農民と新左翼の組み合わせの象徴として、1968年4月18日に宮内庁請願が行われた際、「明治大帝の偉業達成せし下総御料牧場の存続を訴う」という横断幕を持ち、「南無遍照金剛」と書かれたたすきをかけ、襟元に新左翼から配られた毛沢東バッジをつけた老人行動隊長のミスマッチな出で立ちに学生らが衝撃を受け、唖然としたり嘲笑したりしたというエピソードがある。(福田克彦[2001], 51・163頁。)(大坪景章(1978年)43・51頁)</ref><ref>古村からの開拓部落に対する差別意識もあった。(伊藤睦[2017]94頁)</ref>らとが互いに協力又は利用し合いながら呉越同舟の形で活動を行っていった<ref name="houdoukyoku"/>。 |
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反対同盟は様々な新左翼党派を受け入れたことで武闘派の支援者を大動員して政府勢力と対抗することには成功した。しかし |
反対同盟は様々な新左翼党派を受け入れたことで武闘派の支援者を大動員して政府勢力と対抗することには成功した。しかしそれは後に、新左翼党派間の反目や、新左翼党派との関係性のあり方についての地元住民間の意見の相違を産み、反対同盟の分裂・闘争の泥沼化に繋がっていくこととなる<ref name="moyu122127">伊藤睦[2017]122-127頁。</ref><ref name="drum8298">朝日新聞成田支局[1998]82-98頁。</ref>。 |
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=== 闘争の激化、開港 === |
=== 闘争の激化、開港 === |
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==== 一期地区の収用 ==== |
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こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、[[1971年]][[2月22日]]に建設予定地で[[第一次行政代執行]]を敢行し、反対同盟と[[機動隊]]が衝突した。同年[[9月16日]]にも建設予定地で[[第二次行政代執行]]があり、激しい闘争によって機動隊員3名が死亡([[東峰十字路事件]])した他、双方に多数の負傷者を出した。 |
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空港公団は移転補償費を算出するため、同意した条件賛成派の不動産に対して「百日調査」と呼ばれる調査を1968年[[4月20日]]から[[7月19日]]にかけて実施したが、これに新左翼党派だけでなく農民が空港公団職員や機動隊に対して[[角材]]をふるったりスクラムを組むなどして抵抗した。このときデモや乱闘で条件賛成派の家屋や畑が破壊されている<ref name="maeda7085"/><ref name="fukuda135">福田克彦[2001], 135頁</ref>。 |
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また、[[1969年]][[8月18日]]には御料牧場の閉場式が挙行されたが、反対同盟が乱入したうえ青年行動隊が会場を破壊し、青年行動隊隊長が全国[[指名手配]]されている<ref>この時は親同盟や婦人行動隊は会場入り口に留まり、実力闘争に参加していない。(福田克彦[2001], 141-145頁)</ref>。 |
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同年[[10月1日]]、青年行動隊主要メンバーの1人が「空港をこの地にもってきたものをにくむ。」「私は、もうこれ以上、たたかっていく気力を失いました。」などと記した[[遺書]]を残して[[自殺]]し、反対同盟内に衝撃が走った。 |
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警察側でも、これらの動きに対して、同年 [[11月12日]]に反対同盟が工事用道路に座り込んでブルドーザーを阻止した際に戸村代表以下13名を逮捕するなど、断固とした措置をとるようになった<ref name="fukuda147">福田克彦[2001], 147頁</ref>。 |
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[[1972年]][[3月15日]]反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ63メートルの[[鉄塔]](通称:岩山大鉄塔)を建設し、[[飛行検査用航空機|飛行検査]]を中止に追い込んだ。 |
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1970年には、収用委員会への強制収用申請に必要な土地調書及び物件調書を作成するために、空港公団が[[土地収用法]]第35条に基づく未買収地への立入調査を実施した<ref>{{Cite web |author= |date=1971-01-16 |url=http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/093/touh/t093003.htm |title=第93回国会(臨時会) 答弁書第三号]別表四 |publisher=参議院 |accessdate=2017-10-14}}</ref>。反対派はこれに対して[[屎尿]]や[[クロルピクリン]]の投擲・[[投石]]・[[鎌]]・[[竹槍]]等で対抗した。更に反対派は、強制収用を困難なものにするため、空港公団に買収された土地での不法耕作や条件賛成派の畑から盗み出した作物の処分により得た資金や、御料牧場から盗み出した材木等を使い、強固な団結小屋である「砦」や地下要塞の構築にも乗り出した<ref name="drum3234">朝日新聞成田支局[1998]32-34頁。</ref>。 |
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[[1977年]][[1月11日]]、福田内閣は[[閣議]]で年内開港を宣言。航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、同年[[1月19日]]重機を運び込む道路建設に着工した。[[4月17日]]には三里塚第一公園に2万3000人が結集して「鉄塔防衛全国総決起集会」が開催された。 |
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こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、[[1971年]][[2月22日]]に建設予定地で[[第一次行政代執行]]を敢行し、反対同盟と[[機動隊]]が衝突した。その後反対派が立てこもる地下壕や「農民放送塔」が撤去された他、同年[[9月16日]]にも建設予定地で[[第二次行政代執行]]がなされた。これらの激しい闘争によって臨時編成の機動隊の3名が死亡([[東峰十字路事件]])した他、双方に多数の負傷者を出した<ref name="Moyu191193">伊藤睦[2017]191-193頁。</ref>。なお、この間に青年行動隊等により[[日本幻野祭]]が開催され、多くの若者が現地を訪れている。 |
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同年[[5月2日]]空港公団は[[航空法]]四十九条一項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を[[千葉地裁]]に提出。[[5月4日]]千葉地裁は書面審理のみで仮処分を決定。[[5月6日]]午前3時ごろ2100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した[[北原鉱治]]事務局長(当時)に千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を一方的に通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した<ref>[http://www.narita-kyousei.gr.jp/activity/record_symposium.html 成田空港問題シンポジウム記録集]</ref>。 |
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同年[[9月20日]]、この日は代執行をしないとの[[千葉県知事]][[友納武人]]による[[9月19日|前日]]の発表に反して、突如警察の機動隊と作業員らが現れ、庭で[[稲]]の[[脱穀]]をしていた小泉(大木)よねを排除して住居を撤去した。空港建設での行政代執行としては最初で最後となる民家への実施をもって、第二次行政代執行が終結した<ref name="Moyu191193"/>。 |
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この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、[[5月8日]]には大規模な衝突が発生。「三里塚野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部に[[ガス弾]]の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の[[5月10日]]死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」と国と県に約9400万円の[[損害賠償]]を求めて[[提訴]]した([[東山事件]])。 |
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同年[[10月1日]]、青年行動隊の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきたものをにくむ。」「私は、もうこれ以上、たたかっていく気力を失いました。」などと記した[[遺書]]を残して[[自殺]]し、反対同盟内に衝撃が走った<ref name="Moyu191193"/><ref name="drum5054">朝日新聞成田支局[1998]50-54頁。</ref>。 |
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[[5月9日]]にはこれに対する報復と見られる襲撃により、警察官1名が死亡した。([[芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件]]) |
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==== 膠着期 ==== |
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上記のような過程を経て一期地区工事は推し進められ、滑走路1本の片肺ではあるものの、新東京国際空港は[[1978年]][[3月30日]]に漸く開港することとなった。しかし、この政府の威信をかけた開港を目前に控えた[[3月26日]]に、[[日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)|第四インターナショナル]](略称:第四インター)、[[プロレタリア青年同盟]]、[[戦旗・共産主義者同盟]]等が空港を襲撃し、これに呼応して地下に潜んでいた別働隊が空港敷地内のマンホールから飛び出して空港管理ビルに突入、[[管制塔]]を占拠し各種設備を破壊した([[成田空港管制塔占拠事件]])。このため開港延期を余儀なくされた政府は、いわゆる[[成田新法]]を制定して秩序の回復を図った。 |
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[[File:NaritaIwayama.jpg|thumb|岩山鉄塔の鉄塔跡]] |
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[[File:Sanrizuka 1982 Red-Helmets-with-Hammer-and-Sickle.tif|thumb|200px|[[第四インターナショナル]]の[[ゲバヘル|赤ヘル]]]] |
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[[1972年]][[3月15日]]、反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ60.6[[メートル]]の[[鉄塔]](通称:岩山大鉄塔)を[[鳶職]]の協力のもと建設し、[[飛行検査用航空機|飛行検査]]を中止に追い込んだ。更に[[千葉港]]から航空燃料を空港に輸送するためのパイプライン建設が経由地での反対運動や技術的問題によって停滞し、代替としての鉄道輸送(暫定輸送)も自治体との調整が難航した。そのため、滑走路等施設の建設は進められたものの、開港自体は先延ばしが続いた<ref name="Moyu202223">伊藤睦[2017]202-223頁。</ref>。 |
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反対同盟側も、代執行阻止闘争での大量逮捕により打撃を受けており、反対同盟結成時に320戸あった用地内反対派農家は代執行前後には45戸、1976年には23戸にまで減少していた<ref name="Moyu202223"/>。 |
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この開港遅れの期間中に、納車されたまま定期運用が無い状態だった[[京成電鉄]]の[[スカイライナー]][[京成AE形電車_(初代)|AE形(初代)]]が[[放火]]される事件が起きた([[京成スカイライナー放火事件]])。さらに[[5月19日]]にも[[京成本線]]で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、新左翼党派らによる闘争は先鋭化していった。 |
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一方、この期間に戸村代表の[[第10回参議院議員通常選挙]]出馬や[[有機農業]](ワンパック運動)の導入などの取り組みがあった<ref name="Moyu202223"/>。 |
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管制塔襲撃から2ヶ月後の[[5月20日]]に、新東京国際空港は周辺での激しい衝突や周辺の関連施設への襲撃などを受けながらも開港を果たした。このときの関係者の思いは、[[福永健司]][[運輸大臣]]が式典で述べた「難産の子は健やかに育つ」との言葉に凝縮されている。 |
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==== 妨害の中での開港 ==== |
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[[1977年]][[1月11日]]、「さあ働こう内閣だ」と自称した[[福田赳夫内閣]]が[[閣議]]で年内開港を宣言。[[1月17日]]には関係閣僚協議会が開かれて閣僚からは積極的発言が相次ぎ、福田も「年内開港を目指す。『有言実行』を唱える福田内閣が言った以上は実現しなければならない」と改めて決意を述べて大号令を発した<ref name="haraguchi16">原口和久[2000年]16頁。</ref>。 |
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同年[[1月19日]]に、航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、重機を運び込む道路の延長工事が始まるなど、早くも空港建設に向けた動きがあり、反対派も[[4月17日]]に闘争史上最大となる1万7500人<ref>文献によっては2万人以上とも。(朝日新聞成田支局[1998]69頁)</ref>を結集し「空港粉砕,鉄塔決戦勝利,仮処分粉砕全国総決起集会」を三里塚第一公園で開催した<ref name="ohtsubo204206">大坪景章(1978年)204-206頁。</ref>。 |
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同年[[5月2日]]、空港公団は[[航空法]]第49条1項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を[[千葉地方裁判所]]に提出。[[5月4日]]千葉地裁は書面審理のみで[[仮処分]]を決定。[[5月6日]]午前3時ごろ、2,100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した[[北原鉱治]]事務局長に、千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を一方的に通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した<ref>成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集』1995年、332頁。</ref>。 |
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この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、[[5月8日]]には大規模な衝突が発生。「三里塚野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部に[[ガス弾]]の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の[[5月10日]]死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」として、政府と千葉県に約9,400万円の[[損害賠償]]を求めて[[提訴]]した([[東山事件]])<ref name="ohtsubo213217">大坪景章(1978年)213-217頁。</ref>。 |
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[[5月9日]]には、これに対する報復と見られる襲撃により、警察官1名が死亡した([[芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件]])<ref name="ohtsubo213217"/>。 |
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上記のような過程を経て一期地区工事は推し進められ、滑走路1本の片肺ではあるものの、新東京国際空港は翌[[1978年]][[3月30日]]に漸く開港することとなった。しかし、政府の威信を賭けた開港を目前に控えた[[3月26日]]に、[[日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)|第四インターナショナル]](略称:第四インター)、[[プロレタリア青年同盟]]、[[戦旗・共産主義者同盟]]等が空港を襲撃し、これに呼応して地下に潜んでいた別働隊が空港敷地内のマンホールから飛び出して空港管理ビルに突入、[[管制塔]]を占拠し各種設備を破壊した([[成田空港管制塔占拠事件]])。このため開港延期を余儀なくされた政府は、いわゆる[[成田新法]]を制定して秩序の回復を図った。 |
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この開港遅れの期間中であった[[5月5日]]に、納車されたまま定期運用が無い状態だった[[京成電鉄]]の[[スカイライナー]][[京成AE形電車 (初代)|用車両]]が[[放火]]される事件が起きた([[京成スカイライナー放火事件]])。さらに[[5月19日]]にも[[京成本線]]で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、新左翼党派らによる闘争は先鋭化していった<ref>{{Cite web|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s54/s540700.html|title=昭和54年 警察白書 |accessdate=2017-10-09|date=|publisher=警察庁}}</ref>。 |
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管制塔襲撃から2ヶ月後の[[5月20日]]に、新東京国際空港は周辺での激しい衝突や周辺の関連施設への襲撃などを受けながらも漸く開港を果たした。このときの関係者の思いは、[[福永健司]][[運輸大臣]]が式典で述べた「難産の子は健やかに育つ」との言葉に凝縮されている。この時点で未成の二期地区内には反対派農家17戸が残され、うち15戸が反対同盟で占められた。開港に前後して過激派によるゲリラ事件も頻発した<ref name="haraguchi104">原口和久[2000年]104頁。</ref><ref name="tokumei186191">前田伸夫[2005]186-191頁。</ref>。 |
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== 開港後の動き == |
== 開港後の動き == |
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=== 日本の玄関 |
=== 日本の表玄関となった成田 === |
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[[ファイル:Narita International Airport Gate 2.JPG|thumb|240px|成田国際空港の検問所。2015年3月で検問を廃止した。]] |
[[ファイル:Narita International Airport Gate 2.JPG|thumb|240px|成田国際空港の検問所。2015年3月で検問を廃止した。]] |
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開港時点においてもなお反対運動が活発であったことから、来港者全員に対する[[検問]]が実施され<ref>来港者への検問は2015年3月まで実施された。</ref>、当時としては世界でも稀にみる警備体制が敷かれる空港としてスタートした新東京国際空港であったが、開港翌年の[[1979年]]には日本人出国者数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人 |
開港時点においてもなお反対運動が活発であったことから、来港者全員に対する[[検問]]が実施され<ref>来港者への検問は2015年3月まで実施された。({{Cite web |date=2015-03-26 |url=http://www.aviationwire.jp/archives/58059 |title=成田空港、30日に検問廃止 ノンストップゲート実施へ |publisher=Yusuke KOHASE|accessdate=2017-10-09}})</ref>、当時としては世界でも稀にみる警備体制が敷かれる空港としてスタートした新東京国際空港であったが、開港翌年の[[1979年]]には日本人出国者数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人を超える等、最新設備を具備した大型空港が開港したことで日本の[[国際化]]は大きく進展した<ref> {{Cite web |date=2014-11-11 |url=https://www.travelvoice.jp/20141111-27393 |title=1980年代に海外旅行が急拡大した理由 -海外渡航自由化50年の歴史 |publisher=トラベルボイス |accessdate=2017-09-07}}</ref>。開港から10年目の節目である1988年度には成田の国際線日本人旅客数が1000万人の大台を突破している<ref>{{Cite web |date=2014-06-19 |url=https://www.jata-net.or.jp/about/release/2014/pdf/140619_50th5th.pdf |title=JATAニュースレター |publisher=[[日本旅行業協会]] |accessdate=2017-09-07}}</ref>。 |
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[[2002年]]に至るまで滑走路一本のみで運用されたとは言え、空港には世界各地から[[ジャンボジェット機]]が飛来し、限られた発着枠の配分を待つ乗り入れ希望の[[航空会社]]が引きも切らない状態が続いた。本邦社のみならず[[ノースウエスト航空]]等の[[以遠権]]を行使する[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の航空会社が太平洋路線とアジア路線の結節点として成田を[[ハブ空港]]にしたことから、成田は国際線の拠点として長らく[[アジア]]の中でも中心的な役割を果たしていった。 |
[[2002年]]に至るまで滑走路一本のみで運用されたとは言え、空港には世界各地から[[ジャンボジェット機]]が飛来し、限られた発着枠の配分を待つ乗り入れ希望の[[航空会社]]が引きも切らない状態が続いた<ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/128/1290/12810261290001c.html|title=第128回国会 運輸委員会 第1号|accessdate=2017-10-25|date=1993-10-26|publisher=国会会議録検索システム}}</ref>。本邦社のみならず[[ノースウエスト航空]]等の[[以遠権]]を行使する[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の航空会社が太平洋路線とアジア路線の結節点として成田を[[ハブ空港]]にしたことから、成田は国際線の拠点として長らく[[アジア]]の中でも中心的な役割を果たしていった。 |
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周辺地域には空港関連事業で働く多くの[[労働者]]とその家族が流入し、地元住民やその[[親族]]の多くも経済的に空港へ依存するようになったことや、自治体もその財政を空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中、反対派は地域においても「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していくこととなる。 |
周辺地域には空港関連事業で働く多くの[[労働者]]とその家族が流入し、地元住民やその[[親族]]の多くも経済的に空港へ依存するようになったことや、自治体もその財政を空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中、反対派は地域においても「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していくこととなる<ref name="tokumei186191"/><ref>成田市の2017年度予算では空港会社からの周辺対策交付金が約11億、空港関連の固定資産税が約117億円である。({{Cite web |date=2017-07-07 |url=https://mainichi.jp/articles/20170707/ddl/k12/040/186000c |title=機能強化策の陰で/下 広がる周辺9市町の格差 交付金増額で明暗 /千葉 |publisher=毎日新聞|accessdate=2017-10-09}})</ref><ref name="drum127128">朝日新聞成田支局[1998]127-128頁。</ref>。 |
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=== 反対同盟の分裂と過激化する新左翼 === |
=== 反対同盟の分裂と過激化する新左翼 === |
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「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争への転向や反対同盟から離脱する者が続出しただけでなく、反対同盟自体も闘争方針をめぐって数派に分裂し、初期の反対運動を牽引していた地元農民らは次第に実力闘争から離れていった。 |
「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。反対運動の中心的人物であった戸村代表の病死とともに空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争への転向や反対同盟から離脱する者が続出しただけでなく、反対同盟自体も闘争方針をめぐって数派に分裂し、初期の反対運動を牽引していた地元農民らは次第に実力闘争から離れていった<ref name="story7278" /><ref name="drum127128"/><ref name="fukuda197198">福田克彦[2001], 197-198頁。</ref>。 |
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また開港と前後して、事態を危惧した反対同盟幹部らが政府側との水面下での交渉を模索し、中には覚書の締結にまで漕ぎつけたものもあったが、情報漏洩により不成功に終わった<ref name="moyu233239">伊藤睦[2017]233-239頁。</ref>。 |
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一方で、開港後においても[[10.20成田現地闘争]]を始めとする新左翼活動家らによる[[暴動]]・破壊行為だけでなく、[[東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件]]や[[千葉県収用委員会会長襲撃事件]]のような関係者を標的とした[[左翼テロ]]が横行し、更には反対運動を断念して空港公団に土地を売却し移転した農家への放火等嫌がらせや新左翼党派間での |
一方で、開港後においても[[10.20成田現地闘争]]を始めとする新左翼活動家らによる[[暴動]]・破壊行為だけでなく、[[東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件]]や[[千葉県収用委員会会長襲撃事件]]のような関係者を標的とした[[左翼テロ]]が横行し、更には反対運動を断念して空港公団に土地を売却し移転した農家への放火等嫌がらせや新左翼党派間での内ゲバも発生した<ref name="drumterror">朝日新聞成田支局[1998]93-95・107・113-114・160頁。</ref>。 |
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=== 和解と現状 === |
=== 和解と現状 === |
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1990年代に入ると、B滑走路を含む二期工事を進めたい政府と反対運動の風化を懸念した反対同盟熱田派のメンバーの間で話し合いの機運が生まれ、[[合意形成]]の場として[[成田空港問題シンポジウム]]及び[[成田空港問題円卓会議]]が開催された。 |
1990年代に入ると、B滑走路を含む二期工事を進めたい政府と反対運動の風化を懸念した反対同盟熱田派のメンバーの間で話し合いの機運が生まれ、[[合意形成]]の場として[[成田空港問題シンポジウム]]及び[[成田空港問題円卓会議]]が開催された。 |
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それらを契機として、[[1995年]]([[平成]]7年)に当時の[[内閣総理大臣]]・[[村山富市]]( |
それらを契機として、[[1995年]]([[平成]]7年)に当時の[[内閣総理大臣]]・[[村山富市]](社会党)が行った反対同盟に対する謝罪をはじめ、政府・官僚・空港公団が過去の過ちを認めたことや空港東側の住民への補償として[[芝山鉄道線]]の建設が約束されたこと<ref>朝日新聞成田支局[1998]245-246頁。</ref>等により、菱田地区等の多くの地権者が集団移転に応じることとなった。 |
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現在 |
空港公団の[[民営化]]に伴い成田国際空港に空港名を改められた現在においても、当初B滑走路建設の予定地とされていた東峰地区<ref>現在の成田空港ではこの地区を避けて北側に延長することでB滑走路を2500m化している。</ref>の農家や[[一坪地主]]などの用地買収に応じていない地権者が若干名残っている状況である。空港公団の後身である[[成田国際空港 (企業)|成田国際空港株式会社]](以下、空港会社)によると、2016年8月末の空港用地内の未買収地は、敷地内居住者2件1.7ヘクタール、敷地外居住者4件0.6ヘクタール、一般共有地3件0.5ヘクタール、一坪共有地2件0.1ヘクタールで、合計2.9ヘクタールとなっている<ref>成田国際空港株式会社『[http://www.naa.jp/jp/issue/yakuwarigenjyo/list.html 成田空港~その役割と現状~ 2016年度]』2016年11月、155頁。</ref>。もはやごく僅かとなった反対同盟を他の地域に居住しながら未だ支援し、地域を犠牲にしてでも政治闘争や反権力闘争を続けようとする新左翼党派に対しては元反対派からも批判の声がある<ref name="drum263">朝日新聞成田支局[1998]263頁。</ref>。 |
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[[2011年]][[6月23日]]に空港 |
[[2011年]][[6月23日]]に空港会社が三里塚闘争を後世に伝えるための施設として「[[成田空港 空と大地の歴史館]]」を開館した<ref>{{Cite press release|title=「成田空港 空と大地の歴史館」の開館について|publisher=[[芝山町]]|date=2011-07-11|url=http://www.town.shibayama.lg.jp/0000001235.html|format=html|language=日本語|accessdate=2017-06-29|archiveurl=|archivedate=|quote=}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 参考文献 == |
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* 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年 |
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* [[尾瀬あきら]]『[[ぼくの村の話]]』 |
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* 東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年 |
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* [[戸村一作]]『わが三里塚風と炎の記録』田畑書店、1980年。 |
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* [[戸村一作]]『わが三里塚風と炎の記録』田畑書店、1980年 |
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* 朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年。 |
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* 新東京国際空港公団『新東京国際空港公団 20年のあゆみ』、1987年 |
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* [[宇沢弘文]]『「成田」とは何か』岩波書店、1992年 |
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* [[隅谷三喜男]]『成田の空と大地』岩波書店、1996年 |
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* [[北原鉱治]]『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年 |
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* 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年 |
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* 原口和久『成田空港365日』[[崙書房]]、2000年 |
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* 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年 |
* 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年 |
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* 前田伸夫『特命交渉人用地屋』[[アスコム (出版社)|アスコム]]、2005年 |
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* [[隅谷三喜男]]『成田の空と大地』岩波書店 1996年 |
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* |
* 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年 |
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* 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[砂川闘争]] |
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* [[三里塚芝山連合空港反対同盟]] |
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* [[北富士演習場問題]] |
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* [[TBS成田事件]] |
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* [[東峰十字路事件]] |
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* [[東山事件]] |
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* [[芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件]] |
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* [[成田空港管制塔占拠事件]] |
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* [[10.20成田現地闘争]] |
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* [[土地収用]] |
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* [[成田用水]] |
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* [[団結小屋]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Demonstrations and protests against the construction and expansion of Narita International Airport}} |
{{Commonscat|Demonstrations and protests against the construction and expansion of Narita International Airport}} |
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* [http://www.narita-kyousei.gr.jp/activity/record.html 共生委員会記録集]([[成田空港地域共生・共栄会議]]) |
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* [http://bund.jp/modules/text/index.php?content_id=1 戸村一作『小説・三里塚』] |
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* [http://bund.jp/modules/text/index.php?content_id=1 戸村一作『小説・三里塚』](ブント) |
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* [http://www.sanrizuka-doumei.jp/blog/ 三里塚芝山連合空港反対同盟] |
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* [http://www. |
* [http://www.sanrizuka-doumei.jp/ 三里塚芝山連合空港反対同盟] (北原派) |
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* [http://blog.livedoor.jp/kyouyutisanri/ 三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会〈Ⅱ〉](熱田派) |
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* [http://www.zenshin.org/zh/s-kiji/ 週刊『三里塚』](中核派) |
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{{成田空港問題}} |
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[[Category:千葉県の歴史]] |
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[[Category:芝山町]] |
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[[Category:日本の抗議行動]] |
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[[Category:日本社会党の事件]] |
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[[Category:日本共産党の事件]] |
2017年10月30日 (月) 09:00時点における版
三里塚闘争 | |||
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日時 | 1966年6月22日から現在 | ||
場所 | 千葉県成田市及び芝山町 北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度座標: 北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 | ||
原因 | 日本国政府が地域住民との合意形成を軽視して強硬な空港建設を推進したため | ||
手段 | デモ活動、座り込み、暴動、テロ | ||
参加集団 | |||
指導者 | |||
死傷者数 | |||
死者 | 警察官4人 |
三里塚闘争(さんりづかとうそう)とは、千葉県成田市の農村地区名称である三里塚とその近辺で継続している、住民及び新左翼活動家らによる新東京国際空港(現成田国際空港)建設に反対する闘争のことを指す。成田闘争(なりたとうそう)とも呼ばれる。
空港の建設地が現在の位置に決定するまでの経緯もあり、空港用地内外の民有地取得問題や騒音問題等をめぐって地元住民らが革新政党指導の下で「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成し、反対運動を行った。更に開港を急ぐ政府による機動隊投入等の強硬策に対抗するために新左翼党派と合同したことで、反対運動が過激化した。激しい反対運動によって開港が当初予定より大幅に遅れただけでなく、政府側と反対派の双方に死者を出す惨事となった。
開港後も過激派によるテロ事件や強固な反対運動が継続し空港の拡張が停滞したため、1986年から10年間連続して世界1位の国際貨物取扱量[1]を誇っていた成田空港も各国間の空港開発競争で次第に劣勢となり、日本の経済に甚大な損失を与えることとなった。また、住民間の対立など地域社会にも爪痕を残している。
一方で、この闘争は国内外に大きな衝撃を与え、公共事業のあり方を一変させた[2][3]。
空港計画浮上前の三里塚周辺
御料牧場
千葉県の北部は古代から野生馬の産地として知られていた。江戸時代には小金五牧及び佐倉七牧が設けられ、軍馬の飼育生産が行われる。
20世紀に入り、殖産興業を推進していた明治政府は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代牧畜による羊毛自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に宮内庁下総御料牧場(以下、御料牧場)となる。
三里塚の街は牧場関係の商売で潤い、八百屋、魚屋、仕立て屋といった商店は飛ぶ鳥を落とす勢いであったという[4]。しばしば御料牧場を訪れる皇族も住民らにとっては身近で親しみを感じる存在であった。裕仁親王(後の昭和天皇)成婚を記念して植えられた竹の美林に隣接する御料牧場には春先になると遠方からも大勢が花見に訪れる日本有数の桜並木があり、三里塚は千葉県随一を誇る景勝の地と言われた[5]。
また、高村光太郎が、『春駒』と題する「三里塚の春は大きいよ」から始まる詩で、在りし日の御料牧場の様子を詠んでいる[6]。
「御料牧場を知らない奴は空港に反対する根拠がない」「本当のとこをいうと、(空港建設で)御料牧場がなくなるっていうんで、ここらの人はみんな気がおかしくなったのだ」と地元住民が後に語った程[4]、御料牧場は近隣で生活を営む住民にとって物心両面で欠くべからざるものであった。
古村
下総台地が削られてできた谷地では谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む江戸時代から続く集落は古村(こそん)と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香や駒井野がこれに該当する[7]。
なお、駒井野には水野葉舟が居住しており、開墾の様子を「我はもよ野にみそきすと しもふさの あらまきに来て土を耕す」と謳っている[6]。
開拓部落
第二次世界大戦敗北直後である1946年に、戦後開拓の一環として御料牧場の敷地のうち約1000町歩が農地として開放された[5][8]他、県有林の一部であった土地が払い下げられたことで入植が始められた。成田側の耕作地(三里塚や東峰等)はこの時に開墾が始められたものが多く、入植者は元満蒙開拓団員で満州国からの引揚者や、戦闘による荒廃と米国による統治等により、帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者等で占められていた。
彼らはほとんど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。開墾は困難を極め[9]、入植者らは昼間は古村での小作で収入を得て、その後月明かりの下で鍬1本で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分の米を纏めて炊き、空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら、"オガミ"と呼ばれる三角形の粗末な藁小屋で生活をしていたという[10][11][12][13]。
入植地では、農家としての生き残りをかけた土地争いも発生し、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々脱落していった。結果として、この地に残ったのは、脱落者から農地を買い取り、生計を立てられるだけの規模を確保した者達だった[10]。
1923年にも、宮内省御料牧場の2000町歩が払い下げられており[5]、明治・大正期に原野を開墾して成り立った天神峰等の部落もあった。それらの地区は過去には小作料の上納をめぐり東京の豪商と争ったことなどもあるが[14]、空港建設が決まった頃には家督が二代目・三代目に移っており、営農も比較的安定してきていた。
紛争発生の経緯
逼迫する航空需要
1960年代初頭、経済成長と所得水準の向上の後押しを受けて日本の航空産業は著しい発展を見せており、旅客需要の伸びと航空機の発着回数の増加傾向がこのまま推移すれば、1970年頃に東京国際空港(羽田空港)の能力が限界に達すると予想された。
しかし、羽田空港は以下の理由で拡張性が見込めなかったため、首都圏第二空港の開設が急務とされた。
- 西側に隣接する大田区地域が建物の密集地であるうえ既に航空機騒音問題が発生しており、南側は多摩川の河口に面しているため[15]、拡張できるのは東の東京湾沖合しかないこと
- 当時東京港には船舶が殺到してパンク状態となっており、沖合いへの拡張は海上輸送に著しい支障をきたすこと[16]
- 当時の港湾土木技術では水深20メートルにある海床の埋め立てが困難とされたこと[16][17]
- 在日米軍が管理している東京西部空域他、軍用飛行場群が有する空域との兼ね合いがあること[18]
そこで政府(池田内閣)は、来るべき国際化に伴う航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手し、1962年11月16日に第2国際空港建設方針が閣議決定される[19]。
新空港計画の策定と富里空港案
新空港の青写真と航空審議会答申
運輸省が作成した冊子『新東京国際空港』(通称「青本」)で示された「当初計画での新空港」は、超音速旅客機用主滑走路(4,000メートル)2本、横風用済走路(3,600メートル)1本、国内線用滑走路(2,500メートル)2本を具備し、総敷地面積は約2,300ヘクタールと、当時の羽田空港(350ヘクタール)はおろか、世界の主要空港(ヒースロー空港1,100ヘクタール、オルリー空港1,600ヘクタール、ニューヨーク国際空港(現・JFK)2,000ヘクタール)と比較しても先進的なものであった。
1963年頃から建設地についても本格的な検討が進められ、候補地としては千葉県浦安沖、印旛沼・木更津沖、富里村(現・富里市)・八街町(現・八街市)附近、茨城県霞ヶ浦周辺、谷田部、白井等が挙げられた[20]。
1963年12月11日に航空審議会が最も有力な3候補地について綾部健太郎運輸大臣に以下のように答申し、富里村附近が最も候補地として適当であるとした。
- 浦安沖は公衆の利便の点では最も魅力的であるものの、羽田との管制上の関係[21]や埋め立てに伴う造成経費[22]が難点であり、気象条件についても臨海工業地帯の造成がさらに進んだ場合はスモッグによる障害が懸念される。
- 霞ヶ浦沖周辺は航空自衛隊百里飛行場の影響がある。
- 富里村附近は気象条件から滑走路の方向を弾力的に決定でき、地形・都心との距離の両面において霞ヶ浦沖よりも優れている。
なお、航空審議会は「この際中途半端な空港を作ることはかえって将来に禍根を残すことになるので、可能な限り能力の大きい空港とすることを基本的態度として考えるべきである」としている[23]。
建設省・党人派との対立
上記航空審議会答申では、候補の一つだった木更津附近が羽田空港の進入出発経路の要衝となっているため候補地から除外されている[23]。木更津案は建設省と河野一郎が推進していたものであり、特に河野が羽田空港を廃止してでも木更津案を採用すべきと主張して譲らず、これに田中角栄大蔵相や赤城宗徳農林相も同調するなど、答申後も攻防が続いた[24]。これは運輸・建設両省間の縄張り争いであるだけでなく、自由民主党内の官僚派と党人派の駆け引きでもあり、さらにその背景には浚渫工事や土地売買を巡る利権が控えていた[24][25]。管制の面から下総台地こそが理想の立地と考えながらも政治力のない運輸省がこのような実力者の動向に気を遣うあまりに、地域住民の存在がないがしろにされたとの指摘もある[19][25][26]。
富里案の一時内定
1965年11月18日、佐藤栄作内閣は同年に実施されたボーリング調査の結果、霞ヶ浦が候補地として適当でなかった[25]として空港建設地を富里に関係閣僚懇談会で内定し、橋本登美三郎官房長官が記者会見で「関係閣僚協で新空港を富里にすることに内定した。あす閣議決定する」と突如発表した[27]。木更津案を強力に推していた河野の急逝と、内陸案に難色を示していた友納武人千葉県知事の病気療養による不在を奇貨としたのではないかとの指摘もある[27]。
巨大な空港の面積は富里村の半分に匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地[28]であるとともに末廣農場を始めとする日本の農場経営のモデルケースとされてきた村がほとんど消滅することを意味していた。
当時、現在に比べれば航空機の利用は大衆に浸透しておらず、騒音等の外部不経済の負担が大きい空港は単なる迷惑施設としか世間で認識されていなかったこともあり[29]、既に富里が候補に挙がった段階で「日本一の農耕地」を自負する農民らは反対運動を行っていたが[30]、突如突きつけられた内定に対し、地元住民らは革新政党と連帯して激しい反対運動を展開するようになった。根回しがされなかった地方公共団体[31]からも反発を呼び、閣議決定は結局延期となった。千葉県には「富里に決定したら命をもらう」「ベトコン作戦で徹底的に戦う」などの脅迫まがいの電話や直談判が殺到した[32]。
これまで地元の陳情・請願を受けて飛行場を造ることが殆どであった運輸省当局は[33]、用地取得に関する地元住民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、住民対策として「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議してきた千葉県側に対しても、「新東京国際空港公団法を次の国会に出して、その公団に各省から人を出してもらい、相談してもらう」とした。地元は政府の決めたことに従えばいいと言わんばかりの運輸官僚のこのような態度は、更に火に油を注ぐこととなった[34]。なお、後述する1966年7月4日の閣議決定の前夜に、地元農民への対処について農林事務次官に問われた運輸事務次官が「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決めて、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであって、一度も問題になったことはない。」と答えたとされる[35][36]。
三里塚・芝山の登場
水面下の調整
1966年になっても富里空港反対派のデモ隊が千葉県庁に乱入するなど、反対運動が収束する気配はなく、新空港建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤内閣は若狭得治運輸事務次官に友納千葉県知事との水面下での交渉を行わせた[37]。川島正次郎自由民主党副総裁の斡旋等もあった結果、富里案を縮小、更に位置を約4キロメートル北東に移動させて国有地である下総御料牧場を建設地に充て収用を最小限に抑える方向で調整された(なお、御料牧場は既に富里案での移転農家向けの代替地として検討されていた)[38]。この計画は羽田空港の存続を前提とした技術的な見地を重視する運輸省と「運輸省はじめ、航空関係者は空ばかり見て、地に足がついていない」と批判してきていた"現実政治家"との妥協の産物ともいえる[25]。なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓農民が相手であれば「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である[39][40]」との思惑があり、古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる[41]。
一方運輸省では、富里案こそが理想の新空港の形であり、三里塚案は"つなぎ"・"暫定案"という認識が残っていた。既に三里塚案での調整が政府・千葉県の間で進められていた同年6月21日に、中村寅太運輸相が「新空港は富里・八街以外にない」と記者会見で述べており、7月12日には新設される空港公団の総裁に指名された成田努が「地元農民の賛成があれば(現行案以上に)拡張したい」と述べている[38]。
閣議決定と動揺する地域
中村運輸相が「富里・八街以外にない」と述べた翌日である6月22日に、佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納千葉県知事と協議し、その内容が報道される[42]。今回は県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取等はやはり行われていなかった。富里での空港建設を対岸の火事と思い、空港建設による経済的恩恵さえ期待していた三里塚・芝山地区の住民らは、寝耳に水の状態で空港建設の内定を報道で知ると富里と同様に猛反発した。日本共産党や日本社会党の指示を受けて、富里の反対運動を支援していた両党のオルグ団や反対派の富里住民らが直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対して「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」と謳った[43][44][45]。
切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、2週間後の7月4日に新空港の位置及び規模(平行滑走路4,000メートル・2,500メートル、横風用滑走路3200メートル、総敷地面積1065ヘクタール)を閣議決定した。この時の決定内容は現在の成田国際空港の基本計画となっている[46]。
新しい空港計画は富里案に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも空港建設用地は成田市・芝山町・大栄町・多古町に跨る1065ヘクタールもの広大なものであり、御料牧場等の面積は空港予定地の4割(国有地は243ヘクタール、公有地は152ヘクタール)に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った[20]。
しかし、この時政府は空港建設をまだ楽観視しており、あくまで「5年間で完成させるプロジェクトチーム」として各方面からの寄せ集めの人員で新東京国際空港公団を立ち上げている[47]。後に一律に定められた補償額等の制約や激しい反対の中で、空港公団職員らは必死の用地買収交渉を行うこととなるが、省庁などから出向してきた職員らの中には横柄な態度で地権者に接し不評を買った者もおり、「民間業者に任せればもっと早かったと思う」と振り返る空港公団OBもいる[48]。
1966年12月12日に運輸省が空港公団に指示した基本計画では、1971年春に滑走路1本と西側半分の施設(一期地区)で開港することとし(工事を1970年度中完成)、残りの施設(二期地区)を1973年度末までに完成することを目標としていた[49]。
紛争の経過
初期の三里塚闘争
反対同盟の結成
閣議決定直後、空港建設用地と騒音地域の大部分を占める成田市及び芝山町はほぼ反対一色となった。空港建設に反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、富里の反対運動組織や現地に団結小屋を建てて常駐した革新政党オルグらの指導を受けながら各地区で反対運動団体を組織した[44][50][51]。
当時、戦後開拓で入植した農民らにとっては、住宅資金や営農資金の返済が終わって農業がようやく軌道に乗り始めており、これまでの労苦の成果が実りつつある時期に当たっていた。また食糧不足の東京に農作物を供給し復興を影で支えていたという自負もあり[52][53]、自分たちを標的とした三里塚案に大いに自尊心を傷つけられた[54]。兵役・開拓・空港と国に翻弄されてきた農民からは「三度目の赤紙だ」との声も上がった[13]。したがって、彼らは降って湧いた空港建設計画をこれまでの努力を否定するものと捉え、政府側の期待に反して強く反発した。
他にも、古村を開発や騒音から守ろうとする芝山地区等の住民や、皇室ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、行政が推進していた東山地区営農改善計画(シルクコンビナート計画)に応じて養蚕用の桑の栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家等、様々な背景を持つ者が反対運動に合流した[55][56]。
1966年7月から8月にかけて「三里塚空港反対同盟」及び「芝山空港反対同盟」が合同し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下、反対同盟。)が結成された[57]。ここに本格的な三里塚闘争が始まった。
初期段階での反対同盟は、農民を中心に用地外も含め約1200戸・約1500人で構成された。各部落には独立性が認められていたが、反対同盟の下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織されたことにより各世代間での横でのつながりが生まれ、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ[58]。
条件賛成派の動き
閣議決定に前後して、県・運輸省[59]・新たに設立された新東京国際空港公団(以下、空港公団)等により、空港の意義や移転補償内容について住民説明が行われた。
このとき県の「国際空港相談所」所長は、買い取りに応じない地権者への強制収用(土地収用法による行政代執行)の実施を匂わせつつも、
- 畑一反100万円(相場の4倍から5倍程度であり、当時の国家公務員初任給は2万円程度[60]。)を基準として用地は高額で買い取り、現金で支払う
- 買取額を代替地購入に充当すれば耕地面積を1.5倍に増やせるように調整する
- 離農する地権者には廃止補償を出す
- 家屋建て替えの費用は新築見合いで算出する
- 騒音地域内の農耕地に対しては、国費で畑地灌漑施設を整備する(成田用水)
等と説明をしており[61]、「買い上げ価格を相当思い切ってやる」とする政府側の意向が反映された補償方針が示された[62]。
また、閣議決定においても土地等の補償[63]・代替地の確保[64]・騒音対策[65]・職業転換対策[66]・インフラ整備[67]等を県当局の要望に沿って行うことが掲げられていた。県の要望によって閣議決定の内容に地元との交渉条件が含まれるのは極めて異例な措置であった[20]。
これを受けて、閣議決定後の数か月で地権者の8割が「条件次第によっては、国策に沿って移転もやむなし」とする条件賛成派に転向し[68][69]、成田市議会及び芝山町議会も当初可決した反対決議を白紙撤回した。古村では部落の有力者の影響が強い傾向があり、特に成田側の駒井野・取香では有力者が条件賛成派に転じると部落全体も宗旨替えをした[7]。
用地買収に応じた者の心情として、小川プロダクションの取材で条件賛成派となった農民らが、
- 共産党や社会党に援農などで恩を着せられると反対運動から抜けるに抜けられなくなるが、このままいったら国や県の援助を得られず代替地もいいところをとられてしまう
- 圧力を覚悟で声を上げたところ、実は条件賛成派になりたかったが近所手前のことで声を上げられなかったとする者が半数以上いた
- 既に空港公団との売買に応じていても、反対運動がすごく、下手な口をきいたら殺されてしまうのでみんなに話せなかった
- 来客があっても自分の塩梅を見に来たと思い、腹の底からじっくり安心して話ができなかった
- (疑心暗鬼で)ずいぶん辛い思いをした。この精神補償ももらいたいくらいだ
- 自分は空港反対だが部落がそうなった以上は条件賛成派に入らなければ生活が成り立たない
- 物価の上昇等も考えると条件賛成派になったのはうまくなかったな(売却を先延ばした方が土地を高く売れた)、という感じはあるものの、自分の身の振り方を考えた時には空港が来てよかったと思っている
等とそれぞれの思いを語っている。なお、この取材記録は同プロダクションの映画作品には使われていない[61]。
1968年4月6日には中曽根康弘運輸大臣及び友納知事立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用地民有地の89%(597ヘクタール)を確保した。
覚書では、反当たりの買取価格が当初の説明からさらに上昇して、畑:140万円、田:153万円、宅地:200万円、山林原野115万円となった [70]。また、畑の代替地基準価格は90万円とされ、当初の説明内容に沿う形で代替地の耕作地の価格は買取額の2/3程度に抑えられたほか(他の地目でも同じ比率)、空港公団が用地提供者に対し空港内の営業を優先的に考慮することや、代替地を早急に造成し速やかに引き渡す努力をすることが約された[71]。
希望者に対して必要な代替地自体が十分に確保できなかったために移転先の耕地面積が移転前よりも却って減少するなど、問題がないわけではなかった[72]が、相場以上の土地の買い取り価格と手厚い補償が提示された結果、9割の地主が一定の理解を示し移転に応じる形となった[73]。
移転を機に専業農家を辞めた元地権者らの多くは、空港公団の斡旋を受けるなどして警備業や店舗経営等の空港関連の業種に転職したため、彼らにとっては新たな生活を営む上で新空港の早期開港が切実なものとなった。また、警備業に就いた元地権者の中には測量や代執行を行う空港公団を守る警備員となった者もおり、反対派として闘争を継続する親族と対峙する事態も発生した[74]。
条件賛成派に対する反対派の怨嗟は少なからずあり、支援学生が提案してきた条件賛成派との再共闘が反対派の会議で一蹴されたり、闘争で荒んだ反対派農家が条件賛成派農家の農作物を荒らすことなども起きた[75]。闘争初期において反対派が多かった古村で条件賛成派農家への村八分が行われ、その農家が人権擁護局に訴えたこともあった[76][77]。
測量クイ打ち阻止闘争と革新政党の離反
政府側の硬軟織り交ぜた働きかけを受けても反対同盟に留まった1割ほどの者達の決意は固く、用地を細分化して空港用地買収交渉を困難にする目的で、革新政党主導の下で土地一坪を地権者や支援者が相互に売買して登記する「一坪運動」や立木一本一本を売買して表札を掲げる立木トラストが展開された[78]。これらの登記には社会党議員らも名を連ねている[79][80]。
空港反対運動の組織にかかわっていた革新政党であるが、反対同盟が1967年8月16日に「あらゆる民主勢力との共闘」として敵対する新左翼党派(反代々木派)の受け入れを表明したことで、共産党との関係に亀裂が生じ始めた[78]。
8月21日に、友納知事が土地収用法に基づく空港公団による土地の立入調査が行われる旨を通知した。この間に反対同盟は陳情・デモ・署名運動・解職請求などの様々な抗議運動を行うが芳しい成果は上がらなかった[81]。このころの反対派の中には自民党支持者も多く、自民党議員への陳情も行われたが、陳情後も空港賛成の言動が継続されることを見て取ると離れていった[44]。
10月10日の早朝に、外郭測量用のクイを打つため、空港公団職員らが警視庁・千葉県警察・神奈川県警察の機動隊に守られながら空港建設予定地に現れる。これに対し反対派は進路上での座り込み等による阻止を試みたが、道路交通法違反等として警告を受けた後に機動隊に暴力的に排除されてしまう(測量クイ打ち阻止闘争)[82][83]。このとき、同盟員の先頭に立っていた共産党と民青の部隊は早々に座り込みをやめて隊列を離れ、労働歌「がんばろう」を歌いながら、機動隊と反対派住民らの衝突を傍観[84]した。
同盟員は政府の横暴と共産党の「裏切り」に驚愕し、憤った。一方共産党は、同年11月14日に大橋武夫運輸大臣及び空港公団総裁が反対同盟代表の戸村一作らと座談会を開いたことについて、「同盟の大方針に反するばかりでなく、同盟を一部の人々でひきまわす非民主的なやり方」と糾弾したうえ、その後も反対同盟幹部の寝返りの噂を流して主導権の取り戻しを図ったことで、反対同盟との対立は決定的となった[78]。
一方、この日は1本でもクイを打ち込めれば成功と考えていた空港公団では、3本とも打ち込めた予想外の成果に「空港建設への突破口が開けた」と今後を楽観視した[85]。 しかしながら、それは長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けであった。政府の対応に激怒した反対同盟は、暴力を厭わない実力闘争に舵を切る決意を固めると同時に、12月15日に共産党の支援と介入を排除する声明を発表した。反対同盟の共産党に対する拒絶は、共産党を支持したり共産党員の家族がいる世帯に対する村八分が古村で行われるほど徹底していた[86]。
社会党はその後もしばらく支援を続けていたが、闘争開始から3年程度で反対運動の隊列から消えていき、一坪共有運動に参加していた者も反対同盟に通告もしないまま土地を空港公団に売却した[87][88]。
革新政党は反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、反対派住民らに不信感を持たれたとも分析されている[89]。
新左翼党派の介入
折しも反対同盟が機動隊の威力を目の当たりにした1967年は、70年安保と連なる日本の学生運動が勃興しつつある時期と重なっていた。
反対同盟は、測量クイ打ち阻止闘争と同時期に発生した羽田事件で機動隊と渡り合った学生ら(新左翼党派)に期待し、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取った[73]。一方、反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとっても、三里塚闘争はベトナム戦争反戦運動[90]や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として映り、双方の思惑が一致した[78][91][92]。
翌1968年2月26日及び3月10日には、成田市内で空港公団分室への突入を図った学生集団と機動隊との間で激しい衝突があり、反対派住民らは抗争力を発揮した学生らを自宅に招いて歓待した。このことや反対同盟代表の戸村一作が2月26日の衝突で機動隊に殴打されて負傷したことを切っ掛けに、反対同盟は武装闘争路線の新左翼である中核派・共産同・社青同解放派が主導する三派全学連の全面的な支援を受けることになった[83]。この反対派住民らの熱狂ぶりは「おばさんや青年や老人たちの間では、農民の為に血を流してくれた闘う中核(派)が大もて」等と報じられた[78]。
ただし、新左翼党派の中でも階級闘争至上主義の革マル派は三里塚闘争を「小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したほか、内ゲバや地元の食堂での無銭飲食など素行の悪さが目立ったため[93]、1970年1月に反対同盟の幹部会で「現地闘争に主体的に参加せず、他派に対する誹謗のみを目的とした」として、運動から追放された[94]。その後、革マル派は三里塚闘争への妨害活動を続けている[93]。
反対同盟は新左翼各派の支援を受けつつ、座り込み・空港公団職員から強奪した調査用具の損壊・投石・バリケード構築・空港関係者の自宅への嫌がらせなど様々な手段を用いて空港公団や機動隊を相手に実力で対抗した[95][96]。
開港までの闘争では戸村代表の指導の下、共通の敵である政府に打撃を与えるため、現地に乗り込んだ新左翼各派の活動家らと古村・開拓部落の反対派住民[97][98]らとが互いに協力又は利用し合いながら呉越同舟の形で活動を行っていった[73]。
反対同盟は様々な新左翼党派を受け入れたことで武闘派の支援者を大動員して政府勢力と対抗することには成功した。しかしそれは後に、新左翼党派間の反目や、新左翼党派との関係性のあり方についての地元住民間の意見の相違を産み、反対同盟の分裂・闘争の泥沼化に繋がっていくこととなる[99][100]。
闘争の激化、開港
一期地区の収用
空港公団は移転補償費を算出するため、同意した条件賛成派の不動産に対して「百日調査」と呼ばれる調査を1968年4月20日から7月19日にかけて実施したが、これに新左翼党派だけでなく農民が空港公団職員や機動隊に対して角材をふるったりスクラムを組むなどして抵抗した。このときデモや乱闘で条件賛成派の家屋や畑が破壊されている[96][101]。
また、1969年8月18日には御料牧場の閉場式が挙行されたが、反対同盟が乱入したうえ青年行動隊が会場を破壊し、青年行動隊隊長が全国指名手配されている[102]。
警察側でも、これらの動きに対して、同年 11月12日に反対同盟が工事用道路に座り込んでブルドーザーを阻止した際に戸村代表以下13名を逮捕するなど、断固とした措置をとるようになった[103]。
1970年には、収用委員会への強制収用申請に必要な土地調書及び物件調書を作成するために、空港公団が土地収用法第35条に基づく未買収地への立入調査を実施した[104]。反対派はこれに対して屎尿やクロルピクリンの投擲・投石・鎌・竹槍等で対抗した。更に反対派は、強制収用を困難なものにするため、空港公団に買収された土地での不法耕作や条件賛成派の畑から盗み出した作物の処分により得た資金や、御料牧場から盗み出した材木等を使い、強固な団結小屋である「砦」や地下要塞の構築にも乗り出した[105]。
こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、1971年2月22日に建設予定地で第一次行政代執行を敢行し、反対同盟と機動隊が衝突した。その後反対派が立てこもる地下壕や「農民放送塔」が撤去された他、同年9月16日にも建設予定地で第二次行政代執行がなされた。これらの激しい闘争によって臨時編成の機動隊の3名が死亡(東峰十字路事件)した他、双方に多数の負傷者を出した[106]。なお、この間に青年行動隊等により日本幻野祭が開催され、多くの若者が現地を訪れている。
同年9月20日、この日は代執行をしないとの千葉県知事友納武人による前日の発表に反して、突如警察の機動隊と作業員らが現れ、庭で稲の脱穀をしていた小泉(大木)よねを排除して住居を撤去した。空港建設での行政代執行としては最初で最後となる民家への実施をもって、第二次行政代執行が終結した[106]。
同年10月1日、青年行動隊の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきたものをにくむ。」「私は、もうこれ以上、たたかっていく気力を失いました。」などと記した遺書を残して自殺し、反対同盟内に衝撃が走った[106][107]。
膠着期
1972年3月15日、反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ60.6メートルの鉄塔(通称:岩山大鉄塔)を鳶職の協力のもと建設し、飛行検査を中止に追い込んだ。更に千葉港から航空燃料を空港に輸送するためのパイプライン建設が経由地での反対運動や技術的問題によって停滞し、代替としての鉄道輸送(暫定輸送)も自治体との調整が難航した。そのため、滑走路等施設の建設は進められたものの、開港自体は先延ばしが続いた[108]。
反対同盟側も、代執行阻止闘争での大量逮捕により打撃を受けており、反対同盟結成時に320戸あった用地内反対派農家は代執行前後には45戸、1976年には23戸にまで減少していた[108]。
一方、この期間に戸村代表の第10回参議院議員通常選挙出馬や有機農業(ワンパック運動)の導入などの取り組みがあった[108]。
妨害の中での開港
1977年1月11日、「さあ働こう内閣だ」と自称した福田赳夫内閣が閣議で年内開港を宣言。1月17日には関係閣僚協議会が開かれて閣僚からは積極的発言が相次ぎ、福田も「年内開港を目指す。『有言実行』を唱える福田内閣が言った以上は実現しなければならない」と改めて決意を述べて大号令を発した[109]。
同年1月19日に、航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、重機を運び込む道路の延長工事が始まるなど、早くも空港建設に向けた動きがあり、反対派も4月17日に闘争史上最大となる1万7500人[110]を結集し「空港粉砕,鉄塔決戦勝利,仮処分粉砕全国総決起集会」を三里塚第一公園で開催した[111]。
同年5月2日、空港公団は航空法第49条1項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を千葉地方裁判所に提出。5月4日千葉地裁は書面審理のみで仮処分を決定。5月6日午前3時ごろ、2,100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した北原鉱治事務局長に、千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を一方的に通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した[112]。
この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、5月8日には大規模な衝突が発生。「三里塚野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部にガス弾の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の5月10日死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」として、政府と千葉県に約9,400万円の損害賠償を求めて提訴した(東山事件)[113]。
5月9日には、これに対する報復と見られる襲撃により、警察官1名が死亡した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)[113]。
上記のような過程を経て一期地区工事は推し進められ、滑走路1本の片肺ではあるものの、新東京国際空港は翌1978年3月30日に漸く開港することとなった。しかし、政府の威信を賭けた開港を目前に控えた3月26日に、第四インターナショナル(略称:第四インター)、プロレタリア青年同盟、戦旗・共産主義者同盟等が空港を襲撃し、これに呼応して地下に潜んでいた別働隊が空港敷地内のマンホールから飛び出して空港管理ビルに突入、管制塔を占拠し各種設備を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。このため開港延期を余儀なくされた政府は、いわゆる成田新法を制定して秩序の回復を図った。
この開港遅れの期間中であった5月5日に、納車されたまま定期運用が無い状態だった京成電鉄のスカイライナー用車両が放火される事件が起きた(京成スカイライナー放火事件)。さらに5月19日にも京成本線で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、新左翼党派らによる闘争は先鋭化していった[114]。
管制塔襲撃から2ヶ月後の5月20日に、新東京国際空港は周辺での激しい衝突や周辺の関連施設への襲撃などを受けながらも漸く開港を果たした。このときの関係者の思いは、福永健司運輸大臣が式典で述べた「難産の子は健やかに育つ」との言葉に凝縮されている。この時点で未成の二期地区内には反対派農家17戸が残され、うち15戸が反対同盟で占められた。開港に前後して過激派によるゲリラ事件も頻発した[115][116]。
開港後の動き
日本の表玄関となった成田
開港時点においてもなお反対運動が活発であったことから、来港者全員に対する検問が実施され[117]、当時としては世界でも稀にみる警備体制が敷かれる空港としてスタートした新東京国際空港であったが、開港翌年の1979年には日本人出国者数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人を超える等、最新設備を具備した大型空港が開港したことで日本の国際化は大きく進展した[118]。開港から10年目の節目である1988年度には成田の国際線日本人旅客数が1000万人の大台を突破している[119]。
2002年に至るまで滑走路一本のみで運用されたとは言え、空港には世界各地からジャンボジェット機が飛来し、限られた発着枠の配分を待つ乗り入れ希望の航空会社が引きも切らない状態が続いた[120]。本邦社のみならずノースウエスト航空等の以遠権を行使するアメリカの航空会社が太平洋路線とアジア路線の結節点として成田をハブ空港にしたことから、成田は国際線の拠点として長らくアジアの中でも中心的な役割を果たしていった。
周辺地域には空港関連事業で働く多くの労働者とその家族が流入し、地元住民やその親族の多くも経済的に空港へ依存するようになったことや、自治体もその財政を空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中、反対派は地域においても「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していくこととなる[116][121][122]。
反対同盟の分裂と過激化する新左翼
「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。反対運動の中心的人物であった戸村代表の病死とともに空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争への転向や反対同盟から離脱する者が続出しただけでなく、反対同盟自体も闘争方針をめぐって数派に分裂し、初期の反対運動を牽引していた地元農民らは次第に実力闘争から離れていった[52][122][123]。
また開港と前後して、事態を危惧した反対同盟幹部らが政府側との水面下での交渉を模索し、中には覚書の締結にまで漕ぎつけたものもあったが、情報漏洩により不成功に終わった[124]。
一方で、開港後においても10.20成田現地闘争を始めとする新左翼活動家らによる暴動・破壊行為だけでなく、東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件や千葉県収用委員会会長襲撃事件のような関係者を標的とした左翼テロが横行し、更には反対運動を断念して空港公団に土地を売却し移転した農家への放火等嫌がらせや新左翼党派間での内ゲバも発生した[125]。
和解と現状
1990年代に入ると、B滑走路を含む二期工事を進めたい政府と反対運動の風化を懸念した反対同盟熱田派のメンバーの間で話し合いの機運が生まれ、合意形成の場として成田空港問題シンポジウム及び成田空港問題円卓会議が開催された。
それらを契機として、1995年(平成7年)に当時の内閣総理大臣・村山富市(社会党)が行った反対同盟に対する謝罪をはじめ、政府・官僚・空港公団が過去の過ちを認めたことや空港東側の住民への補償として芝山鉄道線の建設が約束されたこと[126]等により、菱田地区等の多くの地権者が集団移転に応じることとなった。
空港公団の民営化に伴い成田国際空港に空港名を改められた現在においても、当初B滑走路建設の予定地とされていた東峰地区[127]の農家や一坪地主などの用地買収に応じていない地権者が若干名残っている状況である。空港公団の後身である成田国際空港株式会社(以下、空港会社)によると、2016年8月末の空港用地内の未買収地は、敷地内居住者2件1.7ヘクタール、敷地外居住者4件0.6ヘクタール、一般共有地3件0.5ヘクタール、一坪共有地2件0.1ヘクタールで、合計2.9ヘクタールとなっている[128]。もはやごく僅かとなった反対同盟を他の地域に居住しながら未だ支援し、地域を犠牲にしてでも政治闘争や反権力闘争を続けようとする新左翼党派に対しては元反対派からも批判の声がある[129]。
2011年6月23日に空港会社が三里塚闘争を後世に伝えるための施設として「成田空港 空と大地の歴史館」を開館した[130]。
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スローガン「滑走路北延伸を阻止しよう」
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スローガン「農地取り上げを許さない」
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空港用地の真ん中にある横堀大鉄塔
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闘争の歴史を伝える「成田空港 空と大地の歴史館」
脚注
- ^ “世界の国際線空港ランキング”. 成田国際空港振興協会. 2017年8月29日閲覧。
- ^ 大島悠亮 (2015年8月3日). “【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(下) 公共事業のあり方一変”. 産経新聞 (産経新聞社) 2017年8月29日閲覧。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]111-112頁。
- ^ a b 福田克彦[2001], 46頁。
- ^ a b c 宇沢弘文(1992)72頁。
- ^ a b “航空科学博物館-成田空港滑走路先端”. 今日は近くの図書館 (2012年2月). 2017年10月9日閲覧。
- ^ a b 伊藤睦[2017]172頁。
- ^ 1954年11月6日の国会では、革新政党の仲立ちのもと、開拓農民らが更なる牧場解放を求めて請願を行っている。このとき牧場の経営について「はなはだ粗放で、いかなる駄農も驚く拙劣な営農ぶりで、赤字だらけの経営を続けている」としたうえで、日本の食料困難解決への貢献を大義名分としている。朝鮮特需後に食糧難が解消されたこともあり、実行されなかったが、請願にかかわった農民は「御料牧場を残したことが空港を招く要因となった」と主張している。(福田克彦[2001]42-43頁)
- ^ 開拓地のほとんどは耕作向きの土地ではなかったが、特に困難だったのが地下茎が張り巡らされていた竹林が分配された東峰地区であったという。(朝日新聞成田支局[1998]17-20頁、福田克彦[2001]59-60頁)
- ^ a b 福田克彦[2001], 35・58-67頁。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]17-20頁。
- ^ “企画展示”. NAA歴史伝承委員会. 2017年8月29日閲覧。
- ^ a b 朝日新聞成田支局[1998]284頁。
- ^ 福田克彦[2001], 31頁。
- ^ 2010年、最先端の土木技術と約6000億円を投じて埋立・桟橋ハイブリッド構造のD滑走路が河口付近の海上に設置された。
- ^ a b 大坪景章(1978年)16-17頁。
- ^ 更に1970年代に東京都から「ごみ戦争宣言」が出され、浚渫土の投棄が行われたことで「羽田マヨネーズ層」と呼ばれる超軟弱なヘドロの堆積層ができてしまい、強固な地盤が求められる空港建設がより一層困難なものになった。( “羽田空港の不幸”. 港湾空港総合技術センター. 2017年3月閲覧。)
- ^ 新東京国際空港公団[1987年],164頁。
- ^ a b 大和田武士 鹿野幹夫[2010年]105-109頁。
- ^ a b c 成田国際空港株式会社『成田空港~その役割と現状~ 2016年度』2016年11月、136-138頁。
- ^ 新空港の能力を優先すると羽田空港の年間限界能力が1/6程度にまで低下し、風向きによっては使用不能となる。
- ^ 近接する人家密集地帯の騒音対策で2キロメートル沖に埋め立て地点を選ばざるを得ないとすれば、内陸の場合に比較して用地造成経費が2倍以上となる。
- ^ a b 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、8-9頁。
- ^ a b 大坪景章(1978年)22頁。
- ^ a b c d 藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年、1427-1579/2884
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]20頁。
- ^ a b 大坪景章(1978年)28頁。
- ^ 大久保利通が取香牧で牧畜を行うことを決めたのが、現在の富里市両国といわれる。
- ^ 成田空港問題が起きた当初、お年寄りが「あの飛行機というのはすごくて、一反歩もあるようなものが降りてくんだぞ。そんなもの降りてきたらどうすんだ」と述べていたという。(伊藤睦[2017]143頁)
- ^ 富里農家の平均耕地面積は県平均の約1.5倍であり、農業粗収入も51万5千円と県平均(36万9千円)を大幅に上回っていた。(大坪景章(1978年)21頁)
- ^ 1965年2月に佐藤首相は「事前に相談する」としていたが、胃潰瘍手術の病後療養のため熱海温泉にいた友納知事や、千葉県選出で早期から空港問題の調停にあたっていた川島自民党副総裁は、事前相談なく内定を知らされ激怒したとされる。(稲毛新聞『成田国際空港「血と涙の歴史」4』2004年10月8日、2017年3月閲覧。)
- ^ 大坪景章(1978年)29頁。
- ^ 大坪景章(1978年)32頁。
- ^ 稲毛新聞『成田国際空港「血と涙の歴史」4』2004年10月8日、2017年3月閲覧。
- ^ 宇沢弘文(1992年)78頁。
- ^ 山口幸夫「三里塚と脱原発運動」高草木光一・編『一九六〇年代〜未来へつづく思想』岩波書店 2011年 235頁。
- ^ 大坪景章(1978年)35頁。
- ^ a b 福田克彦[2001], 74-77頁。
- ^ 福田克彦[2001], 70頁。
- ^ 事業認定取消訴訟控訴審での1990年11月8日の若狭得治証言。(成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、22頁。)
- ^ 福田克彦[2001], 68頁。『文藝春秋』1971年6月号から千葉県企画部空港調査室長の証言を転載。自民党政調会交通部局の案を千葉県が手直しし、取香などの古村を避けるように敷地を削ったとしている。
- ^ なお、後に反対運動擁護の記事で反対同盟支援を続けた朝日新聞も、6月23日には「(政府は)友納知事に、強行すれば流血の惨事も起こりかねないという現地(富里)の情勢を聞いたうえで、国有地を活用し移転農家を最小限にとどめ、これによって紛糾を避けるという道を選んだ」と三里塚案に理解を示す記事を掲載している。(前田伸夫[2005]46頁、朝日新聞1966年6月23日(12版)1面)
- ^ 福田克彦[2001], 129頁。
- ^ a b c 朝日新聞成田支局[1998]26-27頁。
- ^ なお、社会党は後に自らが主張していた米軍基地への移設案について調査したところ実現困難なことがわかり、結局具体的な対案を出せなかった。(藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年)
- ^ ただし、横風用滑走路については、「航空機の飛行性能が著しく進歩し、成田空港の運用実績においても横風を含む強風等の理由で他空港へダイバートした便の比率は過去10年間で0.03%と極めて少ないことから、(中略)必要性は低くなっている」として成田国際空港株式会社が2016年(平成28年)に撤回している。また、2017年(平成29年)現在検討が進められている第3滑走路はこの計画に含まれていない。(“成田空港の更なる機能強化に関する調査報告について(その3)”. 成田国際空港株式会社 (2016年9月). 2017年8月15日閲覧。)
- ^ 前田伸夫[2005]47頁。
- ^ 大和田武士 鹿野幹夫[2010年]90-96頁。
- ^ 原口和久[2000年]254-255頁。
- ^ 伊藤睦[2017]16-17頁。
- ^ 飯高春吉[1976]7頁。
- ^ a b 大和田武士 鹿野幹夫[2010年]72-78頁。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]20頁。
- ^ 福田克彦[2001], 70-71頁。
- ^ 福田克彦[2001], 47-52・390-394頁。
- ^ 伊藤睦[2017]170-172頁。
- ^ 両反対同盟連合の日付は文献によって異なる。 参考:http://clio.seesaa.net/article/133048321.html 2017年1月14日閲覧。
- ^ 伊藤睦[2017]173-175頁。
- ^ 「七人の侍」と呼ばれる、運輸省の係官7人が現地入りし、現地説明を行った。(大坪景章[1978年],52-54頁)
- ^ “国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))”. 人事院 (2016年8月8日). 2017年4月17日閲覧。
- ^ a b 福田克彦[2001], 78-86頁。
- ^ 比較として、1945年9月21日に行われた羽田空港の拡張では、終戦間もない頃にGHQが出した指令によるものとはいえ、僅かな補償金のみを渡された住民は48時間で立ち退きを強いられた。
- ^ 新東京国際空港建設予定地の土地取得、物件移転等の補償については、土地代及び家屋等の物件の移転費、移転に伴う離農料、営業補償等の通常生ずる損失について個別的に算定する建前のもとに、千葉県知事の意向を十分尊重して決定する。
- ^ ①営農を継続する意思のある農民に対しては、国は県の協力を得て、移転先等につき申出者の希望を尊重して所要の代替地を用意し、営農が円滑に行なえるよう資金および技術等の援助をする。②商工業を営む者についても、これに準じた措置を講ずる。③下総御料牧場並びにその従業員については、国が責任をもって措置することとする。
- ^ ①騒音対策については、今回建設が予定される新空港の性格にかんがみ、現在国が実施している騒音対策の基準等を勘案して、一定ホン以上のものについて格別の配慮を行なう。なお、地元関係者を含めた「騒音対策委員会」を設置する。②騒音対策区域内の住家及び店舗で移転を希望するものについては、実情に応じ、移転先のあっせん、移転料の支払等について国が所要の措置を講ずる。学校、病院については国費をもって措置する。③騒音対策区域内の農耕地については、必要なものにつき畑地かんがい施設を建設し、農業収入の増大を図る。
- ^ 離職者の職業あっせんについては、住民の希望を徹し、国が責任をもって空港の事業、関連事業等に就業せしめるよう措置する。殊に、空港における構内営業は、地元民に優先的に開放する。
- ^ 道路・鉄道・用排水・新都市計画
- ^ 福田克彦[2001], 71頁。
- ^ 飯高春吉[1976]42頁。
- ^ “用地売り渡しに関する覚書”. コトバンク. 2017年2月4日閲覧。
- ^ 新東京国際空港公団[1987年],40-41頁。
- ^ 福田克彦[2001], 79頁。
- ^ a b c “【利用客10億人突破】闘争と共存共栄の成田空港”. ホウドウキョク (2017年7月29日). 2017年8月3日閲覧。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]53頁。
- ^ 福田克彦[2001], 133-134頁。
- ^ 村八分にあった家は隣人から口もきかれず、物も売ってもらえない状態となった。本来村八分は葬式と火事を例外とするが、その家の家人が死亡した際、たまたま反対同盟からの動員がかかったこともあり、故人は長らく地域の小学校の校長等を務めた人物であったにも関わらずその家の葬式には誰も訪れずに出棺もままならず、更には「葬家の犬」と大書きした嫌がらせの看板が出される始末であった。結局、人権擁護局も手出しができず、その家は追われるように村を離れた。(飯高春吉[1976]45-46頁、朝日新聞成田支局[1998]21頁)
- ^ 福田克彦[2001], 94頁。
- ^ a b c d e 伊藤睦[2017]178-183頁。
- ^ “成田空港反対闘争、煽って逃げた社会党 テロ集団を育てたといっても過言ではない 小川国彦氏の死去に思う”. 産経新聞 (2017年5月28日). 2017年6月24日閲覧。
- ^ 北原鉱治[1996]39-40頁
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]22-23頁。
- ^ 飯高春吉[1976]56・57頁。
- ^ a b 朝日新聞成田支局[1998]28-30頁。
- ^ 共産党員らは反対派住民に対し「警察の挑発に乗るな」などと訴えたが、土地の防衛に必死な彼らが応じるはずもなかった。(朝日新聞成田支局[1998]29頁)
- ^ 岩垂弘 (2006年2月18日). “第68回 流血の成田空港反対闘争”. もの書きを目指す人びとへ. 2017年10月6日閲覧。
- ^ 福田克彦[2001], 95-100頁。
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- ^ “【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦”. 産経新聞 (2015年8月2日). 2015年8月3日閲覧。
- ^ 新左翼は新東京国際空港が「日帝の海外侵略基地」・「軍事空港」であると決めつけて闘争対象とした(警察庁『焦点』第269号 第2章)。開港以降の使用状況を考えると突飛な主張に見えるが、ベトナム戦争当時は羽田空港に多数の米軍のチャーター機が飛来していたことも事実ではある。空港公団は左派系の地元団体と軍事使用を否定する覚書を交わしており、現在でも燃料不足を理由として米軍チャーター機が臨時着陸した際には詳細の明示と軍事不使用の再認を空港会社が求められるなど、強い監視下にある。また、反対同盟北原派は現在でも第3滑走路建設の動きを軍事転用のためのものであるとして集会参加を呼びかけている。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]97頁。
- ^ 原口和久[2000年]182頁。
- ^ a b 北原鉱治[1996]54頁
- ^ “三里塚闘争概略”. 2017年8月19日閲覧。
- ^ 福田克彦[2001], 145-166頁
- ^ a b 前田伸夫[2005]70-85頁
- ^ 空港問題が持ち上がる前は保守的な農民が多く、反対派の中には過去に自民党の票集めをしていた元自民党員もいた。保守的な農民と新左翼の組み合わせの象徴として、1968年4月18日に宮内庁請願が行われた際、「明治大帝の偉業達成せし下総御料牧場の存続を訴う」という横断幕を持ち、「南無遍照金剛」と書かれたたすきをかけ、襟元に新左翼から配られた毛沢東バッジをつけた老人行動隊長のミスマッチな出で立ちに学生らが衝撃を受け、唖然としたり嘲笑したりしたというエピソードがある。(福田克彦[2001], 51・163頁。)(大坪景章(1978年)43・51頁)
- ^ 古村からの開拓部落に対する差別意識もあった。(伊藤睦[2017]94頁)
- ^ 伊藤睦[2017]122-127頁。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]82-98頁。
- ^ 福田克彦[2001], 135頁
- ^ この時は親同盟や婦人行動隊は会場入り口に留まり、実力闘争に参加していない。(福田克彦[2001], 141-145頁)
- ^ 福田克彦[2001], 147頁
- ^ “第93回国会(臨時会) 答弁書第三号別表四]”. 参議院 (1971年1月16日). 2017年10月14日閲覧。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]32-34頁。
- ^ a b c 伊藤睦[2017]191-193頁。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]50-54頁。
- ^ a b c 伊藤睦[2017]202-223頁。
- ^ 原口和久[2000年]16頁。
- ^ 文献によっては2万人以上とも。(朝日新聞成田支局[1998]69頁)
- ^ 大坪景章(1978年)204-206頁。
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- ^ a b 大坪景章(1978年)213-217頁。
- ^ “昭和54年 警察白書”. 警察庁. 2017年10月9日閲覧。
- ^ 原口和久[2000年]104頁。
- ^ a b 前田伸夫[2005]186-191頁。
- ^ 来港者への検問は2015年3月まで実施された。(“成田空港、30日に検問廃止 ノンストップゲート実施へ”. Yusuke KOHASE (2015年3月26日). 2017年10月9日閲覧。)
- ^ “1980年代に海外旅行が急拡大した理由 -海外渡航自由化50年の歴史”. トラベルボイス (2014年11月11日). 2017年9月7日閲覧。
- ^ “JATAニュースレター”. 日本旅行業協会 (2014年6月19日). 2017年9月7日閲覧。
- ^ “第128回国会 運輸委員会 第1号”. 国会会議録検索システム (1993年10月26日). 2017年10月25日閲覧。
- ^ 成田市の2017年度予算では空港会社からの周辺対策交付金が約11億、空港関連の固定資産税が約117億円である。(“機能強化策の陰で/下 広がる周辺9市町の格差 交付金増額で明暗 /千葉”. 毎日新聞 (2017年7月7日). 2017年10月9日閲覧。)
- ^ a b 朝日新聞成田支局[1998]127-128頁。
- ^ 福田克彦[2001], 197-198頁。
- ^ 伊藤睦[2017]233-239頁。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]93-95・107・113-114・160頁。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]245-246頁。
- ^ 現在の成田空港ではこの地区を避けて北側に延長することでB滑走路を2500m化している。
- ^ 成田国際空港株式会社『成田空港~その役割と現状~ 2016年度』2016年11月、155頁。
- ^ 朝日新聞成田支局[1998]263頁。
- ^ "「成田空港 空と大地の歴史館」の開館について" (html) (Press release). 芝山町. 11 July 2011. 2017年6月29日閲覧。
参考文献
- 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年
- 東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年
- 戸村一作『わが三里塚風と炎の記録』田畑書店、1980年
- 新東京国際空港公団『新東京国際空港公団 20年のあゆみ』、1987年
- 宇沢弘文『「成田」とは何か』岩波書店、1992年
- 隅谷三喜男『成田の空と大地』岩波書店、1996年
- 北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年
- 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年
- 原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年
- 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年
- 前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年
- 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年
- 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年
関連項目
外部リンク
- 共生委員会記録集(成田空港地域共生・共栄会議)
- 戸村一作『小説・三里塚』(ブント)
- 三里塚芝山連合空港反対同盟 (北原派)
- 三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会〈Ⅱ〉(熱田派)
- 週刊『三里塚』(中核派)