「海防艦」の版間の差分
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'''海防艦'''(かいぼうかん)は、戦闘用[[艦艇]]の一種<ref name="海軍図説55海防艦">{{Citation |和書|author=木村浩吉|year=1903|month=6|title=海軍圖説|chapter=海防艦|publisher=大日本圖書|url={{NDLDC|1082819/55}}}}コマ55(原本58頁)『<strong><ruby><rb>海</rb><rt>コースト</rt></ruby><ruby><rb>防</rb><rt>デフェンス</rt></ruby><ruby><rb>艦</rb><rt>シップ</rt></ruby></strong> 海防艦ハ海岸防禦ニ必要ナル軍艦ニシテ戰艦ト等シク攻撃防禦ノ兩力ヲ完全ニ備フルヲ要ス然レモ遠ク外國ニ派遣セラレザル爲メ石炭積載量及ビ速力ハ多キヲ要セズ而シテ喫水ヲ成ルベク淺ク製造スルハ之レヲ淺水中ニ利用シテ敵艦ニ當ラシムニアリ實ニ此艦ハ水雷艇、布設水雷及ビ海岸砲臺等ノ如キ防港機關ノ補助ヲ得テ自國ノ海岸ヲ防禦スルノ任務ヲ盡スベキモノトス』</ref>。 |
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'''海防艦'''(かいぼうかん)とは、戦闘用[[艦艇]]の一種。[[沿岸]]・[[領海]][[警備]]、[[船団護衛]]、[[潜水艦#対潜作戦|対潜哨戒]]などを主要な任務とする艦のことを指す。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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英語ではcoast defense shipと言い、沿岸防御用の軍艦のこと<ref name="補助艦艇物語(1993)p137">[[#福井著作10]]p.137</ref>。 |
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艦の大きさや[[武装]]などによる分類は特に無く、小型艦から[[戦艦]]クラスのものまで多岐に渡るが、任務の性質上、武装・装甲を重視し、速度・航洋性を犠牲にした艦が多い。[[北ヨーロッパ|北欧]]においては、近海防衛用に[[海防戦艦]]の整備を行っていたこともある。 |
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小型で浅喫水の小[[戦艦]]や大型[[砲艦]]のようなものもある<ref name="補助艦艇物語(1993)p137"/>。 |
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[[北ヨーロッパ|北欧]]においては、近海防衛用に[[海防戦艦]]の整備を行っていた<ref name="丸写真七212a">[[#丸写真七|写真日本の軍艦7巻]]212頁『対潜護衛艦の出現とその系統』</ref>。[[第二次世界大戦]]までの艦種で、普通、旧式になった[[戦艦]]や[[巡洋艦]]をあてた<ref>{{Cite web|和書|title=海防艦とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E9%98%B2%E8%89%A6-42905|website=コトバンク|accessdate=2021-09-06|language=ja|first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,世界大百科事典|last=第2版}}</ref>。 |
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== 日本の海防艦 == |
== 日本の海防艦 == |
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日本の海防艦は、1万トン級の[[戦艦]]クラスから、千トン未満の小型艦に至るまで、多岐に渡る<ref name="海軍制度8巻47別表">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ47(原本54頁)『◎海軍大臣ニ於テ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラルルノ件/明治三十一年三月二十一日(達三四) <small>明治三十三年六月一二一號廢止</small> 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル(別表)』</ref><ref name="木俣海防15">[[#木俣海防|海防艦戦記]]13-15頁『古典的海防艦と混同するなかれ』</ref>。 |
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[[大日本帝国海軍|日本海軍]]における海防艦は、1942年7月1日の類別変更を境にその性格が大きく異なる。 |
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[[沿岸]]・[[領海]][[警備]]、[[橋頭堡|拠点防衛]]、[[船団護衛]]、[[潜水艦|対潜哨戒]]等を主要任務とする艦のことを指す<ref name="平易知識169">[[#平易陸海軍知識|平易に説いた陸海軍の知識]]コマ169-170(原本71-72頁)より『我が海軍でも、日進、春日、出雲、磐手と云へば、これに淺間、常磐を加へて、日露戰爭の時分には世界最新の装甲巡洋艦でしたが、二十有餘年後の今日では、最早古くなってしまって到底[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]や、[[那智 (重巡洋艦)|那智]]などの對手になれませんので、今日海防艦の仲間入りをしてをります。/新しい軍艦が澤山あれば、何もこんな舊式の軍艦を海防艦などと云って使ってゐる必要もありませんけれど、仲々さう新しいものを澤山造ることは出來ませんから、舊式のものでも殘して出來るだけ利用してをりますので、戰爭の時には、根據地の守備 陸軍運送船の護衛、又平時には海上の取締りをする警備艦、いろいろの海軍の教育のための練習艦などに使ひますので、仲々仕事が澤山あります。』</ref><ref>[[#桑野戦争智識|桑野、戦争の智識]]コマ93-94(原本150-153頁)『二十、海防艦と砲艦』</ref>。 |
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任務の性質上、武装・装甲を重視し、速度・航洋性を犠牲にした艦が多い<ref name="海軍図説55海防艦"/><ref>{{Cite book|和書|author=日本青年教育会|year=1918|month=11|title=陸軍海軍|chapter=四.海防艦|publisher=日本青年教育界|series=青年文庫;第6篇|url={{NDLDC|958822/127}}|ref=陸軍海軍}}</ref>。 |
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[[日露戦争]]時の[[ロシア海軍]]海防戦艦も、日本海軍では海防艦に類別して運用したこともある<ref name="海軍制度8巻199">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]第199コマ(原本358頁)『◎戰利軍艦石見壹岐沖島見島命名ノ件 明治三十八年六月六日(達七三) 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル|戰艦「アリヨール」 <ruby><rb>石</rb><rt>イハ</rt></ruby><ruby><rb>見</rb><rt>ミ</rt></ruby>|戰艦「インペラートルニコライ」第一世 <ruby><rb>壹</rb><rt>イ</rt></ruby><ruby><rb>岐</rb><rt>キ</rt></ruby>|海防艦「ゲネラルアドミラル、アプラキシン」 <ruby><rb>沖</rb><rt>オキノ</rt></ruby><ruby><rb>島</rb><rt>シマ</rt></ruby>|海防艦「アドミラル、セニヤーウヰン」 <ruby><rb>見</rb><rt>ミ</rt></ruby><ruby><rb>島</rb><rt>シマ</rt></ruby>』</ref>。 |
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[[太平洋戦争]]以前の日本の海防艦は<ref name="丸写真七212a" />、旧式化した軍艦の総称である<ref name="P年鑑1935八雲">[[#P年鑑1935|ポケット海軍年鑑(1935年版)]]コマ66(原本114-115頁)『海防艦 "八雲 やくも" 全要目{排水量9,010噸 速力16節 備砲20糎砲4門 15糎砲12門 8糎砲4門 8糎高角砲1門 魚雷發射管2門 起工明治31年9月 竣工明治33年6月 建造所獨國ヴアルカン會社} 海防艦と云ふ艦種は現代海戰の第一線に立つ艦ではないが何れも過去の戰役に於て華々しい戰功を樹てた艦揃ひである。現在我が海軍の有する海防艦は"淺間 あさま" "吾妻 あずま" "出雲 いづも" "磐手 いはて" "春日 かすが" "對馬 つしま"及び本艦の計7隻である。/そしてこれ等は平時練習艦隊や支那方面警備と云ふ任務に就くのが常で、またこの艦種にとってはそれ等の任務が要するに活躍舞臺である。/八雲は全長124.66米、幅19.58米、平均吃水7.24米。/昭和10年度のこれ等海防艦のそれぞれの役務を擧げて見ると次の如くである。八雲、淺間の2隻は練習艦隊に、吾妻は呉鎭守府麾下の豫備艦、出雲は第三艦隊の第十戰隊に、磐手は佐世保鎭守府麾下の豫備艦、春日は海軍航海學校の練習艦に、對馬は第三艦隊第十一戰隊に属してゐる。』</ref><ref>[[#軍艦2600|日本軍艦集2600年版]]コマ87(原本、附録12-13頁)『''海防艦、砲艦、敷設艦、掃海艇'' 海防艦は、攻防力とも相當大きく、専ら沿岸の防禦を任務とする艦であるが、近年各國では新しくこの艦種を建造することなく、舊式戰艦や巡洋艦等を之に充ててゐる向が多い。我國の淺間、八雲、吾妻、出雲、磐手、對馬、春日等の海防艦もその例に漏れず、曾ての戰爭に華々しい活躍を示した古つはものである。この中で、今度の日支事變において旗艦となつて活躍してゐる出雲は、過去幾多の輝かしい戰歴と武勲を有する艦である。(以下略)』</ref>。 |
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変更前は、旧式化した[[戦艦]]や[[巡洋艦]]を海防艦として類別し<ref name="tamura2002">海防艦発達史,田村尚也,帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ(37),P102-109,学習研究社,2002年, ISBN 9784056027808</ref>、[[軍艦]]籍のまま近海・沿岸の防備に用いていた(以下「旧定義艦」)。 |
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[[日本海海戦]]([[日露戦争]])における[[連合艦隊]]旗艦(司令長官[[東郷平八郎]]大将座乗)だった戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]も、最終的に海防艦へ類別変更されている<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ59(原本78頁)『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』</ref><ref name="大正10年達164">[[#達大正10年9月]]p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』</ref>。 |
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[[大日本帝国海軍|日本海軍]]における海防艦は、1942年(昭和17年)7月1日の類別変更を境にその性格が大きく異なる<ref name="S17内令1178"/><ref name="丸写真七212a" />。 |
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これに対し変更後は、漁業保護や海上護衛を目的とし、昭和12年以降に新造された小型の護衛用艦艇を海防艦と改めた。 |
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軍縮条約脱退後の[[③計画]]において、日本海軍は[[大和型戦艦]]や[[翔鶴型航空母艦]]と共に[[占守型海防艦]](1000トン未満)を計画および建造する<ref name="雨倉コンボイ93">[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]93-94頁『海上交通保護に目が向いた?』</ref>。 |
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太平洋戦争突入後の[[1942年]](昭和17年)7月1日<ref name="S17内令1178"/>、海防艦の定義を大幅に変更<ref name="木俣海防15"/><ref name="雨倉護衛139">[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]139-141頁『"対潜"専門の予備士官養成開始』</ref>。占守型の改良型や<ref>[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]112頁</ref><ref name="雨倉護衛139" />、さらに簡易化・量産化をすすめた新型海防艦を多数建造した<ref name="丸写真七212a" /><ref>[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]199-200頁</ref>。 |
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===類別制定前=== |
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1887年(明治20年)6月6日、日本海軍は建造予定の艦艇7隻について、艦名を内定<ref>{{アジア歴史資料センター|A15111325300|新造ノ第一海防艦外六艦ニ仮名ヲ附ス}}</ref><ref name="海軍制度巻8駒197M20訓令62">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ197(原本355頁)〔◎海防艦嚴島松島橋立報知艦八重山千島練習艦滿珠命名ノ件〕『明治二十年六月六日(訓令六二)新艦ニ命名セラルヽコト左ノ如シ 但命名式相濟マテノ間ハ假名ト心得ヘシ<br />第一海防艦 <small>佛國ニ於テ建造</small> <ruby><rb>嚴</rb><rt>イツク</rt></ruby><ruby><rb>島</rb><rt>シマ</rt></ruby><br/>第二海防艦 <small>同上</small> <ruby><rb>松</rb><rt>マツ</rt></ruby><ruby><rb>島</rb><rt>シマ</rt></ruby><br/>第三海防艦 <small>横須賀造船所ニ於テ建造</small> <ruby><rb>橋</rb><rt>ハシ</rt></ruby><ruby>立<rb></rb><rt>ダテ</rt></ruby><br/>第一報知艦 <small>同上</small> <ruby><rb>八</rb><rt>ヤ</rt></ruby><ruby><rb>重</rb><rt>ヘ</rt></ruby><ruby><rb>山</rb><rt>ヤマ</rt></ruby><br/>第二報知艦 <small>計畫中</small> <ruby><rb>千</rb><rt>チ</rt></ruby><ruby><rb>島</rb><rt>シマ</rt></ruby><br/>風帆練習艦 <small>小濱造船所ニ於テ建造</small> <ruby><rb>滿</rb><rt>マン</rt></ruby><ruby><rb>珠</rb><rt>ジュ</rt></ruby><br/>同 <small>同上</small> <ruby><rb>干</rb><rt>カン</rt></ruby><ruby>珠<rb></rb><rt>ジュ</rt></ruby>』</ref>。 |
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*[[1898年]](明治31年)3月21日 「[[大日本帝国海軍艦艇類別変遷|海軍軍艦及水雷艇類別標準]]」を初めて制定。[[軍艦]]の中に海防艦3等級を規定。 |
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このうちフランス人技官[[ルイ=エミール・ベルタン]]の設計による軍艦3隻は、第一海防艦=[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]、第二海防艦=[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]、第三海防艦=[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]と命名された([[松島型防護巡洋艦]])<ref name="海軍制度巻8駒197M20訓令62"/>。 |
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*[[1905年]](明治38年)12月12日 2等[[戦艦]]を廃止し、既存の2等戦艦3隻を海防艦に編入 |
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=== 明治31年から昭和17年まで === |
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*[[1912年]](大正元年)8月28日 「海軍艦艇類別標準」改正 |
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1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は'''海防艦'''という艦種を新設する<ref name="海軍制度8巻47別表"/><ref name="明治31達34号">[[#達明治31年3月(1)]]pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣 侯爵西郷從道(別表)』</ref>。 |
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**3等海防艦を廃止し、2等海防艦に統合 |
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旧式化した[[戦艦]]や[[巡洋艦]]([[装甲巡洋艦]]、[[防護巡洋艦]])を海防艦として類別し<ref name="tamura2002">海防艦発達史,田村尚也,帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ(37),P102-109,学習研究社,2002年, ISBN 9784056027808</ref>、[[軍艦]]籍のまま近海・沿岸の防備に用いることになった(以下「旧定義艦」)<ref name="藤田、写真帖26海防艦">{{Cite book|和書|author=藤田精一|year=1924|month=9|title=大日本軍艦写真帖|chapter=海防艦|publisher=海上協会|url={{NDLDC|967820/26}}|ref=軍艦写真大正13藤田}}コマ26『'''海防艦''' 海防艦とはその戰艦たると巡洋戰艦たると巡洋艦たるとを問はず艦齢第三期(竣工年より起算し十七年以上二十四年未満)に在るもの又は艦齢満了するも、未だ廢艦とならずして在籍する老朽艦に附ける名稱で、素より戰線に立つべきものではなく、その名の如き目的を以て戰時その用を爲すに過ぎないのである。/因に艦齢第一期とは竣工年より起算し八年未満、同第二期とは九年以上十六年未満の謂である。/海防艦は我海軍にては便宜上之を區別して、排水噸數七千噸以上のものを一等海防艦、以下のものを二等海防艦と呼んでいる。/現今我一等海防艦は元は一等巡洋艦(装甲巡洋艦)として、日本海海戰には主力艦として取扱はれた淺間級等が之に属し、二等海防艦には二等巡洋艦たりし千歳、對馬、明石杯が之に属してゐる。』</ref>。 |
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**[[水雷母艦]]及び[[通報艦]]類別を廃止し、海防艦に編入 |
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当初は、計画排水量7000トン以上の海防艦を'''一等海防艦'''、7000トン未満3500トン以上の海防艦を'''二等海防艦'''、3500トン未満の海防艦を'''三等海防艦'''と定義(1912年8月28日、三等海防艦の等級廃止<ref name="海軍制度8巻コマ48大正元年達11別表"/>。1931年6月1日、等級廃止)<ref name="明治31達34号"/><ref name="海軍制度巻8コマ67、S06内令111"/>。 |
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*[[1920年]](大正9年)4月1日 「海軍艦艇類別標準」改正 |
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これらの海防艦は、領海警備、拠点防衛、海上護衛、母艦任務、[[練習艦]]等、多岐にわたる任務に従事した<ref>[[#百科10国防|児童百科大事典、国防篇]]コマ152(原本267頁)『六、海防艦 攻撃力及び防禦力稍大にして専ら沿海を防禦する任務に當る。今日はいづれの海軍でも新にこの艦種を建造することなく、舊式の戰艦、巡洋艦等を以てこれに充てるのを普通とする。「淺間」「吾妻」「磐手」「出雲」「春日」「對馬」は海防艦である。「出雲」「春日」等は日露戰爭時代に赫々たる勲を立てた艦である。』</ref><ref name="阿部読本91海防艦">[[#阿部読本1937|海軍読本(1937)]]コマ91(原本160頁)『'''海防艦''' 攻防力とも相當に大きく、専ら沿岸防禦を任務とする。近年各國共新にこの艦種を建造することなく舊式戰艦、巡洋艦等を以て之に充てるのを普通とする。我が國には現在七隻の海防艦があり、其の中には「八雲」級の如く、三十數年の老齢を以て、能く練習艦として世界の海上に行動していゐるものもあり、尚上海事變の如きに際して敵國沿岸に腰を据ゑて、海陸共同作戰に活躍、武勲赫々たるものもある。』</ref>。 |
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**[[航空母艦]]類別新設により[[若宮 (水上機母艦)|若宮]]、[[水雷母艦]]類別復活により[[韓崎 (潜水母艦)|韓崎]]・[[駒橋 (潜水母艦)|駒橋]]を該当類別に転出 |
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例えば1920年(大正9年)の[[尼港事件]]([[シベリア出兵]])では、海防艦[[見島 (海防艦)|見島]](元ロシア軍艦アドミラール・セニャーヴィン)が[[砕氷艦]]として出動している<ref>[[#幕末以降史実|幕末以降帝国軍艦写真と史実]]コマ68(原本102頁)『<ins>見島(みしま)</ins> <ins>艦種</ins>海防艦二等 二檣(戰闘檣あり)(以下略)』</ref>。 |
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*[[1931年]](昭和6年)5月30日 海防艦の等級を廃止 |
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[[上海事変]]以降の[[日中戦争]]では、海防艦[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]](元[[出雲型装甲巡洋艦|装甲巡洋艦]])が上海に進出し、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]や[[支那方面艦隊]]旗艦として作戦を指揮した<ref name="P年鑑1935八雲" /><ref name="阿部読本91海防艦"/>。 |
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*[[1942年]](昭和17年)7月1日 「海防艦」の定義を見直し、軍艦としての類別から除外 |
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姉妹艦[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]と[[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]]は、[[練習艦隊]]を編成して多くの海軍士官を送り出した<ref>[[#幕末以降史実|幕末以降帝国軍艦写真と史実]]コマ61(原本89頁)『<ins>磐手(いはて)</ins> <ins>艦種</ins>巡洋艦一等 二檣(戰闘檣あり)出雲と姉妹艦なり <ins>艦歴</ins>(中略)同10年一等海防艦に編入。練習艦隊の一艦として從來屡々海軍少尉候補生等の練習任務に服す。 ―要目―(略)』</ref><ref>[[#幕末以降史実|幕末以降帝国軍艦写真と史実]]コマ61(原本88頁)『<ins>八雲(やくも)</ins> <ins>艦種</ins>巡洋艦一等 二檣(戰闘檣あり) <ins>艦歴</ins>(中略)同10年一等海防艦に編入、昭和6・7年(日支)事變に從軍:同6年12月北支方面警備に從事(艦長大佐新見政一)。練習艦隊として屡々海軍少尉候補生練習任務に服す。 ―要目―(略)』</ref>。 |
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**新造の護衛艦を新たに艦艇の一種である「海防艦」に類別 |
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二等海防艦[[新高 (防護巡洋艦)|新高]](元[[新高型防護巡洋艦|防護巡洋艦]])のように、オホーツク海での漁業保護活動中に遭難した艦もあった<ref>[[#幕末以降史実|幕末以降帝国軍艦写真と史実]]コマ63(原本93頁)『<ins>新高(にひたか)</ins> <ins>艦種</ins>三等巡洋艦 二檣(信號用)(以下略)』</ref>。 |
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**旧来の海防艦は、航行能力のあるものを1等巡洋艦、ないものを練習特務艦に定めて海防艦籍より除外 |
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これらの旧定義艦に対し1942年(昭和17年)7月の変更後は、小型で対潜水艦能力を備えた海上護衛用艦艇を「海防艦」と改めた<ref name="木俣海防15"/>。 |
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=== 新海防艦の概要 === |
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日本海軍が太平洋戦争後期に多数建造した船団護衛等のシーレーン防衛や沿岸警備を主任務とする小型戦闘艦で、大戦前半の護衛艦艇(旧式駆逐艦、水雷艇、掃海艇、駆潜艇、特設艦艇等)にかわる護衛戦力の主力となった<ref name="叢書(46)433">[[#叢書46海上護衛戦]]433頁『護衛艦艇としての海防艦』</ref>。他国でいう[[フリゲート]]に相当する。海防艦の英語表記はEscort(護衛艦)であり、対空・対潜武装を中心としたものであった。戦後、初期に配備された海上自衛隊護衛艦や海上保安庁の巡視船の原型になった艦である。 |
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=== 海防艦類別の変遷 ===<!-- |
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当初、海防艦は[[オホーツク海]]周辺における[[ソビエト連邦|ソ連]]との漁業紛争に対処するための小型艦(900トンクラス)として建造された([[占守型海防艦|占守型]])<ref name="tamura2002"/>。紛争地での対外交渉に従事することを考慮し、「軍艦」と位置づけられ、[[菊花紋章#皇室・皇族の菊紋|菊のご紋章]]を艦首に装着していた(後に格下げ)。新艦種としたのは、より北洋に対応した艦とすることと、[[ロンドン軍縮条約]]による補助艦制限により、それまで北洋警備に用いていた[[駆逐艦]]を正面戦力へと移すことが考慮されたためでもあった<ref name="tamura2002"/>。 |
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*[[1887年]](明治20年)6月6日、第一海防艦、第二海防艦、第三海防艦をそれぞれ[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]、[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]、[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]と命名<ref name="海軍制度巻8駒197M20訓令62"/>。第一種<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ49(原本55頁)〔◎軍艦種別の件〕『明治二十三年八月二十三日(達三〇四) 横須賀鎭守府所管軍艦浪速、扶桑、高雄、武藏、八重山、橋立、筑波、愛宕、天城ヲ第一種ト定メラレ水雷艇小鷹、第一水雷艇、第二水雷艇、第三水雷艇、第四水雷艇ヲ第二種ト定メラレ軍艦龍驤、迅鯨、淺間、干珠ヲ第三種ト定メラレ呉鎭守府所管軍艦金剛、比叡、大和、築紫、摩耶、赤城、嚴島、千代田、天龍、鳳翔ヲ第一種ト定メラレ軍艦館山、石川ヲ第三種ト定メラレ佐世保鎭守府所管軍艦高千穂、葛城、磐城、松島、千島、大島、秋津洲、大島、秋津洲、日進、海門、鳥海ヲ第一種ト定メラレ軍艦春日、滿珠ヲ第三種ト定メラル』</ref>。(類別の海防艦では無い)--> |
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*[[1898年]](明治31年)3月21日 「[[大日本帝国海軍艦艇類別変遷|海軍軍艦及水雷艇類別標準]]」を初めて制定<ref name="海軍制度8巻47別表"/>。 |
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**[[軍艦]]の中に海防艦(一等、二等、三等)を規定<ref name="海軍制度8巻47別表"/><ref name="明治31達34号"/>。 |
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**初期の[[スループ]]や[[コルベット]]など計10隻([[筑波 (コルベット)|筑波]]、[[金剛 (コルベット)|金剛]]、[[比叡 (コルベット)|比叡]]、[[済遠 (防護巡洋艦)|済遠]]、[[海門 (スループ)|海門]]、[[天龍 (スループ)|天龍]]、[[葛城 (スループ)|葛城]]、[[大和 (スループ)|大和]]、[[武蔵 (スループ)|武蔵]]、[[高雄 (巡洋艦)|高雄]])を三等海防艦に類別<ref name="明治31達35号">[[#達明治31年3月(1)]]pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣 侯爵西郷從道 |軍艦|巡洋艦|二等|浪速、高千穂、嚴島、松島、橋立、吉野、高砂、笠置、千歳|/海防艦|三等|筑波 金剛 比叡 濟遠 海門 天龍 葛城 大和 武藏 高雄』</ref>。 |
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**海防艦として計画された軍艦3隻(厳島、松島、橋立)は二等巡洋艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。 |
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*[[1905年]](明治38年)12月12日 二等[[戦艦]]を廃止<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ47(原本55頁)『◎艦艇類別標準 明治三十八年十二月十二日(達一八一) <small>大正元年八月一一號消滅</small> 艦艇類別標準別表ノ通改メラル(別表)』</ref><ref>[[#達明治38年12月]]pp.6-7『達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣 男爵山本權兵衛(別表)』</ref>。既存の3隻を海防艦に編入([[鎮遠 (戦艦)|鎮遠]]と[[壱岐 (戦艦)|壱岐]]は一等海防艦。[[扶桑 (甲鉄艦)|扶桑]]は二等海防艦に類別)<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ53(原本66-67頁)『◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)』</ref><ref name="明治38年達182">[[#達明治38年12月]]pp.8-9『達第百八十二號 艦艇類別標準別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣 男爵山本權兵衛(別表)|軍艦|海防艦|一等|鎭遠、壹岐、|/海防艦|二等|扶桑、沖島、見島、|/海防艦|三等|金剛、比叡、天龍、葛城、大和、武藏、高雄、|(以下表略)〔備考〕軍艦ヲ稱呼スルニハ其ノ艦別ノ何タルヲ問ハズ「軍艦何」ヲ以テス但シ場合ニ依リ類別稱若ハ類別及等級ヲ以テスルコトアリ「戰艦何」「海防艦何」「何等巡洋艦何」等ノ如シ 驅逐艦ヲ稱呼スルニハ「驅逐艦何」ヲ以テス(以下略)』</ref>。 |
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*[[1912年]](大正元年)8月28日 「海軍艦艇類別標準」改正<ref name="海軍制度8巻コマ48大正元年達11別表">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ48(原本56頁)『◎艦艇類別標準 大正元年八月二十八日(達一一) <small>改正{大正五年八月一一七號、八年三月二六號、九年四月三七號、十二年六月一五四號、十三年十一月軍令海四廢止</small> 艦艇類別標準別表ノ通改メラル(別表)』</ref><ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ56(原本72-73頁)『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)』</ref> |
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**三等海防艦を廃止し、二等海防艦(計画排水量7,000トン未満)に統合<ref name="大正元年達11号">[[#達大正元年8月]]p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實(別表)』</ref><ref name="大正元年達13号">[[#達大正元年8月]]p.35『達第十三號 今般艦艇類別標準改正セラレタル結果海軍諸法令中「一等巡洋艦」トアルハ「巡洋戰艦、一等巡洋艦」ニ、「三等巡洋艦」トアルハ「二等巡洋艦」ニ、「三等海防艦」トアルハ「二等海防艦」ニ、「通報艦」トアルハ「一等砲艦」ニ、「三等水雷艇」トアルハ「二等水雷艇」ニ改メラシタル儀ト心得ヘシ 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實』</ref>。 |
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**既存の三等海防艦は、二等海防艦に編入<ref name="大正元年達12号">[[#達大正元年8月]]pp.33-34『達第十二號 艦艇類別標準別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實(別表)|軍艦|一等|壹岐、丹後、富士、石見、相模、周防|/海防艦|二等|沖島、見島、高千穂、嚴島、橋立、千代田、秋津洲、鈴谷、満州、豊橋、韓崎、葛城、大和、武藏、松江|』</ref>。 |
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**[[水雷母艦]]及び[[通報艦]]類別を廃止し、一部は海防艦に編入<ref name="大正元年達11号"/><ref name="大正元年達13号"/>。 |
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*[[1920年]](大正9年)4月1日 「海軍艦艇類別標準」改正<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ48(原本56頁)『◎大正九年四月一日(達三七)艦艇類別標準中左ノ通改定セラル 別表中巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ三欄ヲ加フ |航空母艦| | |/水雷母艦| | |/敷設艦| | |』</ref><ref>[[#達大正9年4月]]p.1『達第三十七號 艦艇類別標準中左ノ通改定セラル 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎 別表中巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ三欄ヲ加フ |航空母艦|水雷母艦|敷設艦|』</ref>。 |
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**[[航空母艦]]類別新設により二等海防艦[[若宮 (水上機母艦)|若宮]]を<ref name="大正9年達38号"/>、[[水雷母艦]]類別復活により二等海防艦[[韓崎 (潜水母艦)|韓崎]]と[[駒橋 (潜水母艦)|駒橋]]を、それぞれ該当類別に転出<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ58(原本77頁)『大正九年四月一日(達三八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦一等ノ欄内「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル/海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル/巡洋艦ノ欄ニ左ノ如ク加フ』-『航空母艦| |若宮|/|水雷母艦| |韓崎、駒橋|/|敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力』</ref><ref name="大正9年達38号">[[#達大正9年4月]]p.1『達第三十八號 艦艇類別標準中左ノ通改正ス 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎 巡洋艦一等ノ欄内「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル 海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル 巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ如ク加フ |航空母艦| |若宮|/水雷母艦| |韓崎、駒橋|/敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力|』</ref>。 |
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*[[1931年]](昭和6年)6月1日 海防艦の等級を廃止<ref name="海軍制度巻8コマ67、S06内令111">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ67(原本95頁)『昭和六年六月一日(内令一一一)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』</ref> |
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*[[1942年]](昭和17年)7月1日 「海防艦」の定義を大幅に見直す<ref name="木俣海防15"/>。 |
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**③計画新造の4隻([[占守 (海防艦)|占守]]、[[国後 (海防艦)|国後]]、[[石垣 (海防艦)|石垣]]、[[八丈 (海防艦)|八丈]])を軍艦籍より除籍<ref name="S17内令1178">[[#内令昭和17年7月(1)]]pp.1-2『内令第千百七十八號 横須賀鎭守府在籍 軍艦 春日/呉鎭守府在籍 軍艦 淺間/舞鶴鎭守府在籍 軍艦 吾妻 軍艦 占守 軍艦 國後 軍艦 石垣 軍艦 八丈 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。海防艦○○と呼称変更<ref name="S17達192">[[#達昭和17年7月(1)]]p.1『達第百九十二號 軍艦淺間外六隻艦種變更ニ付左ノ通命名ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|海防艦 占守(舊軍艦占守) 海防艦 國後(舊軍艦國後) 海防艦 八丈(舊軍艦八丈) 海防艦 石垣(舊軍艦石垣) 特務艦 淺間(舊軍艦淺間) 特務艦 吾妻(舊軍艦吾妻) 特務艦 春日(舊軍艦春日)』</ref><ref name="S17内令1179">[[#内令昭和17年7月(1)]]pp.2-3『内令第千百七十九號 海防艦 占守 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル|特務艦 春日 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト定メラル|特務艦 淺間 右本籍ヲ呉鎭守府ト定メラル|特務艦 吾妻 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル| 舞鶴鎭守府在籍 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル|横須賀鎭守府在籍 特務艦 春日 呉鎭守府在籍 特務艦 淺間 舞鶴鎭守府在籍 特務艦 吾妻 右第四豫備艦ト定ム|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。 |
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**艦艇類別等級表に艦艇として'''海防艦'''を設け、[[占守型海防艦|海防艦占守型]]を新設<ref name="S17内令1186">[[#内令昭和17年7月(1)]]pp.8-9『内令第千百八十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |八雲、磐手、出雲| 同海防艦ノ項ヲ削ル/同砲艦ノ部中「多多良」ノ下ニ「、須磨」ヲ加フ/潜水艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海防艦| | |占守型|占守、國後、八丈、石垣|(内令提要巻三、三三頁参照)』</ref>。 |
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**○○艦長の役職名を、○○海防艦長に変更、他役職名も同様<ref name="S17海軍公報(部内限)4131">{{アジア歴史資料センター|C12070421700|昭和17年7月2日(木)海軍公報(部内限)第4131号 p.20}}『官房機密第八一八六號 本年達第百九二號艦種變更命名ノ際舊艦名ノ職名ヲ有スル者ハ特ニ發令セラルルモノノ外別ニ辭令ヲ用ヒズシテ新艦種名ノ相當職員ニ補命セラレタル義ト心得ベシ 昭和十七年七月一日 海軍大臣』</ref>。 |
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**旧来の海防艦は、航行能力のある軍艦3隻([[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]]、[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]、[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]])を海防艦から[[重巡洋艦|一等巡洋艦]](重巡洋艦)に類別変更<ref name="S17内令1186"/>。それ以外の海防艦3隻([[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]]、[[吾妻 (装甲巡洋艦)|吾妻]]、[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]])を軍艦籍より除籍<ref name="S17内令1178"/>。練習特務艦に類別する<ref name="S17達192"/><ref name="S17内令1187">[[#内令昭和17年7月(1)]]pp.9-10『内令第千百八十七號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|練習特務艦ノ項中「敷島」ノ下ニ「、淺間、吾妻、春日」ヲ加フ(内令提要巻三、四〇頁参照)』</ref>。 |
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=== 新海防艦の概要 === |
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しかし、[[太平洋戦争]]開戦直前、拡大する戦域を航行する[[輸送船]]の護衛としてこの艦種が有用と見込まれ、占守型の設計を若干簡略化し、対潜装備を強化した[[択捉型海防艦|択捉型]]の建造を開始する<ref name="tamura2002"/>。さらに戦局悪化による護衛艦の不足により、大量生産向けに設計を大幅に簡略化した[[日振型海防艦|日振型]]などを大量に建造する。いわば、当時の日本において海防艦建造は、海軍[[艦政本部]]、[[海上護衛総司令部]]の軍当局に加え、民間の[[三菱重工業]]、[[日本鋼管]]、[[日立造船]]などの造船メーカーを巻き込んだ一大国家プロジェクトであった。 |
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日本海軍が太平洋戦争時に多数建造した船団護衛等のシーレーン防衛や沿岸警備を主任務とする小型戦闘艦で、大戦前半の護衛艦艇(旧式駆逐艦、哨戒艇、機雷敷設艦、急設網艦、水雷艇、掃海艇、駆潜艇、特設艦艇等)にかわる護衛戦力の主力となった<ref>[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]155-156頁『沿岸用小艦艇―海上護衛に馳せ参ず』</ref><ref name="叢書(46)433">[[#叢書46海上護衛戦]]433頁『護衛艦艇としての海防艦』</ref>。他国でいう[[フリゲート]]に相当する<ref name="寺崎補助45">[[#寺崎、補助艦艇|補助艦艇奮戦記]]45-46頁『▽海防艦』</ref>。海防艦の英語表記はEscort(護衛艦)であり、対空・対潜武装を中心としたものであった。戦後、初期に配備された海上自衛隊護衛艦や海上保安庁の巡視船の原型になった艦である。 |
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昭和時代に入ると[[装甲巡洋艦]]や[[防護巡洋艦]]由来の海防艦は老朽化が進み、順次退役していった。 |
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上記の艦艇が完成する頃には戦況悪化が著しく、輸送艦の被害が拡大していた。そこで開戦時前決定[[マル急計画]]30隻(択捉型、御蔵型、日振型、鵜来型)、[[マル5計画]]および[[改マル5計画]]の海防艦34隻に加え、1943年(昭和18年)4月[[軍令部]]提議330隻建造に対し、同年6月に244隻建造計画が決定<ref name="叢書(46)580">[[#叢書46海上護衛戦]]580頁『(1)海防艦の建造』</ref>。小規模な造船所でも建造できるよう、また更に急造できるよう小型化(700トンクラス)、簡略化を徹底した新しい海防艦が短期間で設計され、100隻を超える艦艇が建造された([[丙型海防艦|丙型]]・[[丁型海防艦|丁型]])。戦時中、帝国海軍が建造した艦種の中で、最も多い艦種となった。1944年(昭和19年)度82隻、1945年(昭和20年)43隻、計125隻が完成<ref name="叢書(46)580"/>。ただし、あまりにも種類と仕様が雑多で統一性がなく(甲型、乙型、丙型、丁型、タービン機関、ディーゼル機関)、また艦ごとに艤装や計器の仕様が異なり、用兵側は編隊航行にも苦労することになった<ref>[[#叢書46海上護衛戦]]435-436頁『樋口直海軍大尉(対潜訓練對司令部附)回想』</ref>。結局、護衛戦力としては高速の[[駆逐艦]]が最適であり、護衛指揮官の乗艦としては[[睦月型駆逐艦]]、護衛としては[[若竹型駆逐艦]]や[[鴻型水雷艇]]が重用された<ref>[[#叢書46海上護衛戦]]436-437頁『護衛艦としての旧式駆逐艦及び水雷艇』</ref><ref name="叢書(46)437">[[#叢書46海上護衛戦]]437頁『小山貞海軍大佐(臨時護衛船団参謀)回想』</ref>。 |
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[[1931年]](昭和6年)8月、日本海軍は北洋警備を主任務とする小型海防艦の建造計画をまとめる<ref name="丸写真七212a" /><ref name="叢書八五8">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]8-10頁『ロンドン条約締結前後から昭和九年ころまで』</ref>。新艦種としたのは、より北洋に対応した艦とすることと、[[ロンドン軍縮条約]]による補助艦制限により、それまで北洋警備に用いていた[[駆逐艦]]を正面戦力へと移すことが考慮されたためでもあった<ref name="tamura2002"/>。日本海軍が[[潜水艦]]に対処するため開発・整備していた艦艇は、[[駆潜艇]]であった<ref>[[#寺崎、補助艦艇|補助艦艇奮戦記]]44-45頁</ref><ref>[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]73-74頁『「駆潜艇」新造の提言』</ref>。日本海軍は[[ロンドン軍縮会議|ロンドン海軍軍縮条約]]の制限外艦艇として、[[①計画]]に排水量1,200トン型海防艦4隻が盛り込んだが、実現しなかった<ref name="丸写真七212b">[[#丸写真七|写真日本の軍艦7巻]]212-214頁『◇占守型◇』</ref><ref name="叢書八五8" />。当時、[[世界恐慌]]の影響により日本は財政緊縮時代であり、軍事予算も大幅に縮小<ref name="叢書八五8" />。戦列部隊(第一線部隊)の整備だけで手一杯で、防備兵力の整備は後回しにせざるを得なかった<ref name="叢書八五8" />。[[1933年]](昭和8年)の[[②計画]]でも新型海防艦4隻の建造を要求したが、予算不足のため実現しなかった<ref name="丸写真七212b" /><ref name="叢書八五8" />。 |
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[[1936年]](昭和11年)5月、[[伏見宮博恭王]]軍令部総長は、[[昭和天皇]]に国防方針の改訂を説明<ref name="雨倉コンボイ91">[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]91-92頁『対馬海峡は確実に防衛』</ref>。このなかで、「所要兵力」における第二区分(防備用兵力)について「主トシテ内地防御作戦ニ任ズベキ内戦部隊デ、ソノ所要兵力ハ航空機オヨビ艦齢超過艦ヲモッテアテマスホカ、所要ノ艦艇ヲ新造充実イタシマス」と言上した<ref name="雨倉コンボイ91" /><ref>[[#御説明案]]p.16『第二 ハ主トシテ内地防禦作戰ニ任ズベキ内戰部隊デ御座イマシテ其所要兵力ハ航空機及艦齢超過艦ヲ以テ充テマスル外所要ノ艦艇ヲ新造充實致シマス』</ref>。 |
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これらの海防艦のほとんどは、戦争の後期から末期にかけて、南方や日本近海で[[通商破壊戦]]を展開する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍[[潜水艦]]・[[航空機]]に対抗し、輸送船を護衛して苛酷な戦いを繰り広げた。新型海防艦の最大の欠点は低速力(丙型、丁型とも17ノット前後)で、水上航行中の[[潜水艦]]や、護衛対象の優秀船にも劣った<ref name="叢書(46)433"/>。この速力不足は、現場の指揮官や海防艦艦長自身が痛感している<ref>[[#叢書46海上護衛戦]]435頁『松林元哉海軍大佐(佐渡海防艦長)回想』</ref>。サイパン輸送作戦時(昭和19年5月)の指揮官(睦月型駆逐艦「[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]」座乗)は、敵潜水艦(洋上航行速力19ノット)が輸送船団を追従した場合「海防艦では手の施しようがない」「とにかく一隻でも駆逐艦を有するということは強みだった」「とにかく一船団に少なくとも(駆逐艦)一隻は配属せしめる必要を痛感した」と回想している<ref name="叢書(46)437"/>。[[戦史叢書]]では『敵潜水艦より劣速の海防艦は、対潜護衛艦艇としての本質的要件に欠けるともいえるものである。』と評する<ref name="叢書(46)433"/>。しかし戦局の逼迫から、性能不充分ながら欠陥を承知で運用せざるを得なかった<ref name="叢書(46)433"/>。その結果、終戦までに完成した海防艦171隻のうち72隻(戦史叢書では開戦以後167隻完成、71隻喪失)<ref name="叢書(46)580"/>が失われた。この奮闘にもかかわらず、圧倒的な連合軍の前に、戦争末期には日本の海上輸送はほぼ壊滅することとなる。 |
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このような方針下<ref>[[#御説明参考資料(1)]]p.37『五.内戰部隊所要兵力ニハ航空機及艦齢超過艦ヲ以テスル外所要艦艇ハ新造充實スベキ旨新ニ加フ』</ref><ref>[[#御説明参考資料(2)]]p.14『十 内戰部隊及補助兵力(イ)内戰部隊ニハ艦齢超過艦ヲ以テ充ツベキモノ尠カラズト雖モ特種艦艇即チ 敷設艦 掃海艇 砲艦 海防艦([[スループ#戦闘用のスループ|スループ型]])等新造充實ノ要アリ』</ref>、新型海防艦は[[オホーツク海]]周辺における[[ソビエト連邦|ソ連]]との漁業紛争に対処するための小型艦(900トンクラス)として建造された([[③計画]]、[[占守型海防艦|占守型]])<ref name="叢書八五10">[[#叢書85|本土方面海軍作戦]]10-11頁『無条約時代』</ref><ref name="寺崎補助65">[[#寺崎、補助艦艇|補助艦艇奮戦記]]65-66頁『▽初期の海防艦長は古参の中佐』</ref>。紛争地での対外交渉に従事することを考慮し、「[[軍艦]]」と位置づけられ、[[菊花紋章#天皇・皇室・国の機関の菊紋|菊のご紋章]]を艦首に装着していた<ref name="寺崎補助65"/><ref>[[#丸写真七|写真日本の軍艦7巻]]196-197頁『鈴木範樹、海防艦と御紋章』</ref>(昭和17年7月1日附で軍艦籍より除籍。役職も"艦長"から"海防艦長"に変更)<ref name="S17内令1178"/><ref name="S17海軍公報(部内限)4131"/>。この頃は海防艦の艦長は兵学校出身の中佐が務めていた<ref name="雨倉護衛164">[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]164-166頁『海防艦の幹部たち』</ref>。 |
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[[1937年]](昭和12年)7月以降の[[日中戦争]]([[支那事変]])勃発により、新型海防艦の建造計画は頓挫してしまった<ref name="叢書八五10" />。しかし[[太平洋戦争]]開戦前<ref name="雨倉護衛139" />、拡大する戦域を航行する[[輸送船]]の護衛としてこの艦種が有用と見込まれ、占守型の設計を若干簡略化し、対潜装備を強化した[[択捉型海防艦|択捉型]]<ref>[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]162-163頁『待望の新・海防艦竣工』</ref><ref>[[#丸写真七|写真日本の軍艦7巻]]214-215頁『◇擇捉型◇』</ref>や[[御蔵型海防艦|御蔵型]]<ref>[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]189-190頁</ref><ref>[[#丸写真七|写真日本の軍艦7巻]]215-216頁『◇御蔵型◇』</ref>の開発および建造を開始する<ref name="tamura2002"/>。さらに戦局悪化による護衛艦の不足により、大量生産向けに設計を大幅に簡略化した[[鵜来型海防艦|鵜来型]]・[[日振型海防艦|日振型]]などを大量に建造する<ref>[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]146-147頁、216-217頁</ref><ref>[[#丸写真七|写真日本の軍艦7巻]]216-218頁『◇鵜来型◇』</ref>。いわば、当時の日本において海防艦建造は、海軍[[艦政本部]]、[[海上護衛総司令部]]の軍当局に加え、民間の[[三菱重工業]]、[[日本鋼管]]、[[日立造船]]などの造船メーカーを巻き込んだ一大国家プロジェクトであった。 |
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また、[[レイテ沖海戦]]及び[[マリアナ沖海戦]]で[[連合艦隊]]が事実上壊滅すると、残存の戦力として、海防艦が第一線に押し出され、終戦まで作戦行動を継続した。 |
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上記の艦艇が完成する頃には戦況悪化が著しく、輸送船舶の被害が拡大していた。一方、当時の日本海軍は[[航空母艦]]、[[松型駆逐艦|丁型駆逐艦(松型駆逐艦)]]、[[輸送艦]]([[第一号型輸送艦|第一号型]]、[[第百一号型輸送艦|第百一号型]])、[[潜水艦]]の量産、既定の商船建造に傾注しており、護衛艦艇の建造は後回しにされがちだった<ref>[[#海軍軍備(5)]]コマ1(原本1-2頁)『一、經緯』</ref><ref>[[#海護、第二復員局|海上護衛作戦]]コマ10-11(原本13-15頁)『第四章 昭和十八年一月より同十八年十月迄の經過』</ref>。 |
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海防艦の運用の中心を担ったのは、東京及び神戸の[[高等商船学校]]出身の[[海軍予備員|海軍予備将校]]であった。一般商船の高級船員がそのまま充員召集され、海防艦長、航海長、機関長などの任務に就いた。新造とはいえ、戦時の粗末な構造で、兵器も充実していたといえず、それでも、戦争遂行に不可欠な[[シーレーン]]防衛のために決死の戦いを強いられた各海防艦、商船隊の活躍は、海防艦自体の評価はともかくとして、評価に値するといえよう。さらに、戦後の[[海上自衛隊]]が艦艇を保有するにあたっての基本コンセプトの原型となった艦種という意味でも、海防艦の残した価値は意外と大きい。また、生産性の向上を徹底的に追求するなかで、[[ブロック工法]]や[[電気溶接]]を本格的に採用し、戦後の造船技術の潮流を作ったといえる。 |
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その中でも開戦時前決定[[マル急計画]]30隻(択捉型、御蔵型、日振型、鵜来型)、[[⑤計画]]および[[改⑤計画]]の海防艦34隻に加え<ref name="寺崎補助45"/>、1943年(昭和18年)4月の[[軍令部]]提議330隻建造に対し、同年6月に244隻建造計画が決定<ref name="叢書(46)580">[[#叢書46海上護衛戦]]580頁『(1)海防艦の建造』</ref><ref>[[#海軍軍備(5)]]コマ13(原本19頁)『別紙 一、艦船建造(イ)緩急順序(一)海防艦 (二)魚雷艇及潜水艦 (三)哨戒艇及輸送用艦船 (ロ)竣工目途|海防艦|年度一八:二四|一九:一〇〇|二〇:一二〇|計:二四四|要求兵力:三三〇|備考:速力一六節附近ニ低下の見込』</ref>。 |
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小規模な造船所でも建造できるよう、また更に急造できるよう小型化(700トンクラス)<ref>[[#海軍軍備(5)]]コマ9-10(原本11-13頁)『(別紙)第一、艦船建造補充』</ref>、簡略化を徹底した新しい海防艦が短期間で設計され、100隻を超える艦艇が建造された([[丙型海防艦|丙型]]・[[丁型海防艦|丁型]])<ref name="寺崎補助46">[[#寺崎、補助艦艇|補助艦艇奮戦記]]46-47頁『▽丙型丁型海防艦/砲艦』</ref><ref>[[#海軍軍備(5)]]コマ40-41(原本71-73頁)『(イ)実行計畫 昭和十九年度戰時建造艦艇、昭和二十年度戰時建造艦艇として、夫々昭和十八、十九年度に於て計畫された新規追加建造計畫艦艇次の通り』</ref>。 |
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戦時中、帝国海軍が建造した艦種の中で、最も多い艦種となった。これらの新型海防艦は、他国でいう[[コルベット]]に相当する<ref name="寺崎補助46"/>。 |
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1944年(昭和19年)度82隻、1945年(昭和20年)43隻、計125隻が完成<ref name="叢書(46)580"/>。ただし、あまりにも種類と仕様が雑多で統一性がなく(甲型、乙型、丙型、丁型、タービン機関、ディーゼル機関)、また艦ごとに艤装や計器の仕様が異なり、用兵側は編隊航行にも苦労することになった<ref>[[#叢書46海上護衛戦]]435-436頁『樋口直海軍大尉(対潜訓練對司令部附)回想』</ref>。結局、護衛戦力としては高速の[[駆逐艦]]が最適であり、護衛指揮官の乗艦としては[[睦月型駆逐艦]]、護衛としては[[若竹型駆逐艦]]や[[鴻型水雷艇]]が重用された<ref>[[#叢書46海上護衛戦]]436-437頁『護衛艦としての旧式駆逐艦及び水雷艇』</ref><ref name="叢書(46)437">[[#叢書46海上護衛戦]]437頁『小山貞海軍大佐(臨時護衛船団参謀)回想』</ref>。 |
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こうして就役した海防艦のほとんどは、戦争の後期から末期にかけて、南方や日本近海で[[通商破壊戦]]を展開する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍[[潜水艦]]・[[航空機]]に対抗し、輸送船を護衛して苛酷な戦いを繰り広げた<ref>[[#海護、第二復員局|海上護衛作戦]]コマ16(原本25-26頁)『護衛艦は昭和十八年度(自十八年四月至十九年三月)建造計畫四三隻、昭和十九年度(自十九年四月至二十年三月)建造計畫一八八隻に對するものが續々就役し昭和二十年三月迄には約一三〇隻の新海防艦が實施部隊に加つて居たが戰局に立遅れて居たので遂に敵潜水艦を壓倒することが出來ず戰況酷烈となるや敵潜水艦の外航空機、機雷の爲少なからず喪失するといふ情況であつた。』</ref>。 |
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戦後、生き残った艦の多くは[[復員]]業務に従事した後、[[賠償艦]]として連合軍に引き渡されたが、日振型と鵜来型のうち、[[志賀 (海防艦)|志賀]]など計5隻が[[おじか型巡視船 (初代)|おじか型巡視船]]として[[海上保安庁]]で再就役し、昭和30年代後半まで活躍した。 |
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新型海防艦の最大の欠点は低速力(丙型、丁型とも17ノット前後)で、水上航行中の[[潜水艦]]や、護衛対象の優秀船にも劣った<ref name="叢書(46)433"/>。この速力不足は、現場の指揮官や海防艦艦長自身が痛感している<ref>[[#叢書46海上護衛戦]]435頁『松林元哉海軍大佐(佐渡海防艦長)回想』</ref>。サイパン輸送作戦時(昭和19年5月)の指揮官(睦月型駆逐艦「[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]」座乗)は、敵潜水艦(洋上航行速力19ノット)が輸送船団を追従した場合「海防艦では手の施しようがない」「とにかく一隻でも駆逐艦を有するということは強みだった」「とにかく一船団に少なくとも(駆逐艦)一隻は配属せしめる必要を痛感した」と回想している<ref name="叢書(46)437"/><ref>海防艦は駆逐艦や輸送艦に比べて喫水が浅いために、魚雷を回避するうえでは有利だったという証言もある(北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、10頁)。</ref>。[[戦史叢書]]では『敵潜水艦より劣速の海防艦は、対潜護衛艦艇としての本質的要件に欠けるともいえるものである。』と評する<ref name="叢書(46)433"/>。しかし戦局の逼迫から、性能不充分ながら欠陥を承知で運用せざるを得なかった<ref name="叢書(46)433"/>。その結果、終戦までに完成した海防艦167隻(占守型4隻〈占守、国後、八丈、石垣〉、中華民国からの戦利艦海防艦2隻〈[[寧海 (巡洋艦)|五百島]]と[[平海 (巡洋艦)|八十島]]〉を含めれば173隻)<ref>[[#叢書46|戦史叢書46巻]](付表第六)『大東亞戦争期間中に竣工した海防艦隻数』</ref>のうち71隻<ref name="叢書(46)580"/>が失われた<ref>[[#丸写真七|写真日本の軍艦7巻]]223頁</ref>。海防艦乗組員の戦死者は1万人以上と伝えられる<ref name="両舷直125">[[#両舷直|両舷直の航跡]]125-127頁『船団護衛と海防艦』(護国海防艦碑の碑文より)</ref>。この奮闘にもかかわらず、圧倒的な連合軍の前に、戦争末期には日本の海上輸送はほぼ壊滅することとなる。 |
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また新型海防艦の就役数増加により、海防艦を主力とする諸部隊も新たに登場した([[特設護衛船団司令部]])<ref>[[#海護、第二復員局|海上護衛作戦]]コマ16(原本25-26頁)『然し兎に角海防艦も増加して來たので編制を強固ならしめる必要を生じ昭和十九年七月初めて海防艦四隻を以て第一海防隊を組織し第一海上護衛隊に編入 十一月には練習巡洋艦「香椎」を旗艦とする海防艦六隻を以て第一〇一戰隊を組織し海上護衛總司令部に編入 更に十二月十日附第一海上護衛隊は第一海上護衛艦隊に昇格、海防隊、海防戰隊(一〇一、一〇二戰隊等と呼稱)の數も逐次増加して居た。』</ref>。 |
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== 海防艦各型(日本海軍)== |
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これらの部隊は、[[連合艦隊]]が[[マリアナ沖海戦]]及び[[レイテ沖海戦]]で事実上壊滅すると、残存戦力として第一線に押し出され、終戦まで作戦行動を継続した。 |
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大戦中盤以降の海防艦の運用の中心を担ったのは、東京及び神戸の[[高等商船学校]]出身の[[海軍予備員|海軍予備将校]]であった<ref name="両舷直125"/><ref name="雨倉護衛176">[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]176-178頁『リザーブ・オフィサー、大活躍』</ref>。一般商船の高級船員がそのまま充員召集され、海防艦長、航海長、機関長などの任務に就いた<ref name="雨倉護衛164" /><ref name="雨倉護衛176" />。新造とはいえ、戦時の粗末な構造で、兵器も充実していたといえず、各方面から集められた乗組員の訓練も不十分だった<ref name="両舷直125"/>。それでも、戦争遂行に不可欠な[[シーレーン]]防衛のために決死の戦いを強いられた各海防艦、商船隊の活躍は、海防艦自体の評価はともかくとして、評価に値するといえよう。さらに、戦後の[[海上自衛隊]]が艦艇を保有するにあたっての基本コンセプトの原型となった艦種という意味でも、海防艦の残した価値は意外と大きい。また、生産性の向上を徹底的に追求するなかで、[[ブロック工法]]や[[電気溶接]]を本格的に採用し、戦後の造船技術の潮流を作ったといえる。 |
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*[[占守型海防艦]](甲型) |
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*[[択捉型海防艦]](甲型) |
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*[[御蔵型海防艦]](甲型) |
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*[[日振型海防艦]](甲型) |
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*[[鵜来型海防艦]](甲型) |
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*[[丙型海防艦]](一号型海防艦) |
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*[[丁型海防艦]](二号型海防艦) |
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戦後、生き残った艦の多くは[[復員]]業務に従事した後、[[賠償艦]]として連合軍に引き渡された。日振型と鵜来型のうち、[[志賀 (海防艦)|志賀]]など計5隻が[[おじか型巡視船 (初代)|おじか型巡視船]]として[[海上保安庁]]で再就役し、昭和30年代後半まで活躍した<ref>[[#木俣海防|海防艦戦記]]281-284頁『再び海を守って(昭和二十九年)』</ref>。 |
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== 旧定義艦の一覧(日本海軍) == |
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[[1980年]](昭和55年)[[5月5日]]、海防艦顕彰会により[[靖国神社]][[遊就館]]前に、『護国海防艦の碑』および海防艦像が建立された<ref name="両舷直125"/><ref>[[#木俣海防|海防艦戦記]]8-10頁『海防艦ってどんな船?』</ref>。 |
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記念艦となっていた志賀は<ref>[[#木俣海防|海防艦戦記]]285頁</ref>、老朽化により解体撤去された。日本国内に現存する海防艦籍にあった艦艇は[[三笠 (戦艦)|三笠]]<ref name="大正10年達164"/><ref name="大正12年達196"/>のみである。 |
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== 海防艦各艦(日本海軍)== |
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;[[筑波 (コルベット)|筑波]](つくば):[[コルベット]]。3等海防艦に類別。主に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[練習船]]として航海の実習教材となる。1905年(明治38年)6月10日に除籍後、売却。 |
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=== 旧定義艦 === |
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;[[天龍 (スループ)|天龍]](てんりゅう):[[スループ]]。3等海防艦に類別。主に海軍兵学校練習船として航海術の実習教材となる。1906年(明治40年)10月20日除籍 |
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;[[ |
;[[筑波 (コルベット)|筑波]](つくば):[[コルベット]]。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。主に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[練習船]]として航海の実習教材となる。1905年(明治38年)6月10日に除籍後、売却。 |
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;[[ |
;[[天龍 (スループ)|天龍]](てんりゅう):[[スループ]]。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。主に海軍兵学校練習船として航海術の実習教材となる。1906年(明治40年)10月20日除籍 |
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;[[ |
;[[海門 (スループ)|海門]](かいもん):[[スループ]]。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。[[日露戦争]]において第3艦隊に所属。1904年(明治37年)7月5日、掃海援護からの帰途において[[大連]]沖で触雷戦没。 |
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;[[ |
;[[葛城 (スループ)|葛城]](かつらぎ):[[スループ]]。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。日露戦争においては[[長崎港]]警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。翌年1913年(大正2年)4月11日除籍。 |
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;[[ |
;[[大和 (スループ)|大和]](やまと):[[スループ]]。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。日露戦争においては[[関門海峡]]警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。1922年(大正11年)9月1日、測量艦に変更。昭和10年まで海軍に在籍し、敗戦直後の[[枕崎台風]]のため遭難。 |
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;[[ |
;[[武蔵 (スループ)|武蔵]](むさし):[[スループ]]。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。日露戦争においては[[津軽海峡]]警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。1922年(大正11年)9月1日、測量艦に変更。昭和3年まで海軍に在籍し、昭和10年解体。 |
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;[[ |
;[[高雄 (巡洋艦)|高雄]](たかお):巡洋艦。国産初の鉄製軍艦。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。日露戦争において津軽海峡・宗谷海峡での哨戒任務に従事。1911年(明治44年)4月1日除籍、売却解体。 |
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;[[ |
;[[済遠 (防護巡洋艦)|済遠]](さいえん):元[[清朝]]巡洋艦。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。日露戦争において第3艦隊に所属。1904年(明治37年)11月30日、[[旅順要塞]][[203高地]]攻撃援護中に触雷戦没。 |
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;[[金剛 (コルベット)|金剛]](こんごう):装甲コルベット。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。1909年(明治42年)除籍。 |
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;[[見島 (海防艦)|見島]](みしま):元ロシア[[海防戦艦]]アドミラル・セニャーウィン。1905年(明治38年)6月6日、2等海防艦に編入。主に舞鶴海兵団練習船として使用後、[[シベリア出兵]]の際に砕氷艦として使用。1922年(大正11年)4月1日、潜水艦母艇に転籍して佐世保で使用後、1935年(昭和10年)に除籍後処分。日本海軍最大の特務艇である。 |
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;[[比叡 (コルベット)|比叡]] (ひえい):装甲コルベット。3等海防艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。1911年(明治44年)除籍。 |
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;[[沖島 (海防艦)|沖島]](おきのしま):元ロシア海防戦艦ゲネラルアドミラル・グラーフ・アプラクシン。1905年(明治38年)6月6日、2等海防艦に編入。主に佐世保海兵団練習船として使用。1922年(大正11年)4月1日、雑役船に転籍して払い下げ。しかし輸送中に座礁放棄。 |
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;[[見島 (海防艦)|見島]](みしま):元ロシア[[海防戦艦]]アドミラル・セニャーウィン<ref name="海軍制度8巻199"/>。1905年(明治38年)6月6日、2等海防艦に編入<ref name="海軍制度8巻199"/>。主に舞鶴海兵団練習船として使用後、[[シベリア出兵]]の際に砕氷艦として使用。1922年(大正11年)4月1日、潜水艦母艇に転籍して佐世保で使用後、1935年(昭和10年)に除籍後、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]航空隊の標的艦として使用中に沈没。日本海軍最大の特務艇である。 |
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;[[扶桑 (甲鉄艦)|扶桑]](ふそう):元2等戦艦。1905年(明治38年)12月12日、2等戦艦類別廃止にともない2等海防艦に変更。特に目立つ行動はなく1908年(明治41年)4月1日除籍、売却解体。 |
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;[[ |
;[[沖島 (海防艦)|沖島]](おきのしま):元ロシア海防戦艦ゲネラルアドミラル・グラーフ・アプラクシン<ref name="海軍制度8巻199"/>。1905年(明治38年)6月6日、2等海防艦に編入<ref name="海軍制度8巻199"/>。主に佐世保海兵団練習船として使用。1922年(大正11年)4月1日、雑役船に転籍して払い下げ。記念艦にするため輸送中に座礁、放棄。 |
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;[[ |
;[[扶桑 (甲鉄艦)|扶桑]](ふそう):元2等戦艦<ref name="制度8巻、明治31年達35、戦艦">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ50(原本60-61頁)『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五){{small|改正 明治三十二年十月一七八號、三十三年六月一二二號消滅}}軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)』『軍艦|戰艦|一等|富士 八島 敷島 朝日|/|二等|扶桑 鎭遠』</ref>。1905年(明治38年)12月12日、2等戦艦類別廃止にともない二等海防艦に変更<ref name="明治38年達182"/>。特に目立つ行動はなく1908年(明治41年)4月1日除籍、売却解体。 |
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;[[ |
;[[鎮遠 (戦艦)|鎮遠]](ちんえん):元[[清朝]]甲鉄砲塔艦、元二等戦艦<ref name="制度8巻、明治31年達35、戦艦" />。1905年(明治38年)12月12日、二等戦艦類別廃止にともない一等海防艦に類別変更<ref name="明治38年達182"/>。[[日露戦争]]に参加、[[旅順攻囲戦]]で鹵獲した元ロシア海軍艦艇の護衛・曳航にも従事した。1911年(明治44年)4月1日除籍、売却解体。 |
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;[[壱岐 (戦艦)|壱岐]](いき):元[[ロシア]]戦艦インペラートル・ニコライ1世、二等戦艦<ref name="海軍制度8巻199"/><ref name="制度8巻、明治31年達35、戦艦" />。1905年(明治38年)12月12日、二等戦艦類別廃止にともない一等海防艦に変更<ref name="明治38年達182"/>。主に横須賀海兵団練習船として使用。1915年(大正4年)5月1日除籍。[[昭和天皇|大正天皇皇太子]]親閲下(御召艦[[榛名 (戦艦)|榛名]])、[[金剛型戦艦|金剛型巡洋戦艦]]([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]])の砲撃標的として撃沈処分。 |
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;[[富士 (戦艦)|富士]](ふじ):元戦艦。1912年(大正元年)8月28日、陳腐化のため1等海防艦に変更。[[膠州湾]]の自沈貨物船の内地曳航など、大型船の曳航に従事。1922年(大正11年)9月1日運送艦に変更。練習特務艦として敗戦まで在籍。 |
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;[[ |
;[[松江 (海防艦)|松江]](まつえ):元ロシア東清鉄道貨物船スンガリ。1906年(明治40年)3月8日、3等海防艦に類別。主に南洋方面の測量任務に従事。1912年(大正元年)8月28日、三等海防艦類別廃止につき二等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。さらに1918年(大正7年)2月1日、運送船に変更。のち運送艦をへて1922年(大正11年)4月1日、測量艦へ変更。1929年(昭和4年)4月1日除籍。 |
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;[[富士 (戦艦)|富士]](ふじ):元戦艦。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。[[膠州湾]]の自沈貨物船の内地曳航、[[加賀型戦艦]]2隻([[加賀 (空母)|加賀]]《神戸→横須賀》、土佐《長崎→呉》)の曳航など、大型船の曳航に従事。1922年(大正11年)9月1日、運送艦に変更<ref name="大正11達160">[[#達大正11年9月]]p.1『達第百六十號 特務艦類別等級別表中運送艦ノ欄内「神威」ノ次ニ「、富士」ヲ加フ 大正十一年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』</ref>。同年12月1日、練習特務艦に類別変更<ref name="大正11達212">[[#達大正11年12月]]p.1『達第二百十二號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年十二月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎 運送艦ノ項中「、富士」ヲ削リ測量艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |練習特務艦| |富士|』</ref>。横須賀繋留中の1945年(昭和20年)7月18日、米軍機動部隊艦載機の空襲により大破、着底。 |
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;[[周防 (戦艦)|周防]](すおう):元ロシア戦艦ポビエダ。1912年(大正元年)8月28日、1等海防艦に変更。膠州湾攻略作戦に従事。1922年(大正11年)9月1日除籍、雑役船として使用中に漏水転覆、解体。 |
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;[[ |
;[[石見 (戦艦)|石見]](いわみ):元ロシア戦艦アリヨール<ref name="海軍制度8巻199"/>。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。膠州湾攻略作戦に従事。1922年(大正11年)9月1日除籍、雑役船として使用後、航空攻撃の標的艦として処分。 |
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;[[ |
;[[周防 (戦艦)|周防]](すおう):元ロシア戦艦ポビエダ。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。膠州湾攻略作戦に従事。1922年(大正11年)9月1日除籍。解体中に漏水転覆、自沈。 |
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;[[ |
;[[相模 (戦艦)|相模]](さがみ):元ロシア戦艦ペレスウェート。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。膠州湾攻略作戦に従事。1916年(大正5年)4月4日、ロシアに返還後戦没。 |
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;[[ |
;[[丹後 (戦艦)|丹後]](たんご):元ロシア戦艦ポルタワ。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。膠州湾攻略作戦に従事。1916年(大正5年)4月4日、ロシアに返還後1922年(大正11年)に解体。 |
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;[[ |
;[[高千穂 (防護巡洋艦)|高千穂]](たかちほ):元2等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、[[敷設艦]]改装にともない二等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。膠州湾攻略作戦中の1914年(大正3年)10月17日、ドイツ海軍水雷艇の奇襲により戦没。 |
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;[[ |
;[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]](いつくしま):第一号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第一号海防艦は[[厳島]]と命名される<ref name="海軍制度巻8駒197M20訓令62"/>。[[1898年]](明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。呉海兵団練習船を経て潜水学校練習船として使用。1919年(大正8年)4月1日、雑役船厳島丸となる。のち潜水艦母艇(特務艇)、再度雑役船を経て大正14年(1925年)4月14日廃船。 |
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;[[ |
;[[松島 (防護巡洋艦)|松島]](まつしま):第二号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第二号海防艦は[[松島]]と命名される<ref name="海軍制度巻8駒197M20訓令62"/>。[[1898年]](明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。1908年(明治41年)4月30日、練習艦として航海中、寄港先の台湾で火薬庫爆発事故により爆沈。旧定義における海防艦には類別されていない。 |
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;[[ |
;[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]](はしだて):第三号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第三号海防艦は[[橋立]]と命名される<ref name="海軍制度巻8駒197M20訓令62"/>。[[1898年]](明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別<ref name="明治31達35号"/>。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。主に横須賀海兵団練習船として使用。1922年(大正11年)4月1日、横須賀海兵団宿舎(雑役船)となり昭和初期に解体。 |
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;[[ |
;[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]](ちよだ):元3等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。主に沿岸警備に使用。1921年(大正10年)4月30日、水雷母艦に変更。のちに潜水艦母艇として大正末期まで使用後、[[昭和天皇]](御召艦[[山城 (戦艦)|山城]])親閲下、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]航空隊等の標的艦として処分。 |
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;[[ |
;[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]](あきつしま):元3等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。主に沿岸警備に使用。1921年(大正10年)4月30日、潜水艦母艇に変更後、1927年(昭和2年)1月10日除籍。 |
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;[[ |
;[[鈴谷 (通報艦)|鈴谷]](すずや):元ロシア巡洋艦ノーヴィク。元通報艦。1912年(大正元年)8月28日、通報艦廃止にともない二等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。主に旅順周辺の防御に従事。翌年1913年(大正2年)4月1日除籍。 |
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;[[ |
;[[満州 (通報艦)|満洲]](まんしゅう):元ロシア東清鉄道貨客船マンジュリア。元通報艦。1912年(大正元年)8月28日、通報艦廃止にともない二等海防艦に変更<ref name="大正元年達12号"/>。主に列強各国の駐日武官や皇室関係者の歓待等、迎賓艦として機能した。1932年(昭和7年)4月1日除籍。 |
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;[[ |
;[[豊橋 (水雷母艦)|豊橋]](とよはし):元水雷母艦。類別整理のため1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に編入<ref name="大正元年達12号"/>。主に潜水母艦として支援任務に従事。1914年(大正3年)4月1日除籍、払い下げ。 |
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;[[ |
;[[韓崎 (潜水母艦)|韓崎]](からさき):元水雷母艦。類別整理のため1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に編入<ref name="大正元年達12号"/>。主に潜水母艦として第4水雷戦隊(のちに第1潜水戦隊)旗艦として指揮に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により水雷母艦に復帰<ref name="大正9年達38号"/>。昭和14年(1939年)に除籍。 |
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;[[ |
;[[駒橋 (潜水母艦)|駒橋]](こまはし):元雑役船。1914年(大正3年)4月1日、豊橋の代船として2等海防艦に編入、主に潜水母艦として支援任務に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により水雷母艦に変更<ref name="大正9年達38号"/>。1942年(昭和17年)に測量艦となり、終戦直前に戦没。 |
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;[[ |
;[[若宮 (水上機母艦)|若宮]](わかみや):元運送船。1915年(大正4年)6月1日、2等海防艦に編入。主に水上機母艦として演習時の偵察・観測任務に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により新設した[[航空母艦]]に転籍<ref name="大正9年達38号"/>。1931年(昭和6年)に除籍、解体。 |
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;[[ |
;[[敷島 (戦艦)|敷島]](しきしま):元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。[[1923年]](大正12年)4月1日、軍艦籍より除籍され練習特務艦となる<ref name="大正12達72">[[#達大正12年4月(1)]]p.12『達第七十二號 艦艇類別等級別表中練習特務艦ノ欄内「富士」ノ次ニ「、敷島、朝日」ヲ加フ 大正十二年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』</ref>。終戦時まで残存。 |
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;[[朝日 (戦艦)|朝日]](あさひ):元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。[[1923年]](大正12年)4月1日、軍艦籍より除籍され練習特務艦となる<ref name="大正12達72">[[#達大正12年4月(1)]]p.12『達第七十二號 艦艇類別等級別表中練習特務艦ノ欄内「富士」ノ次ニ「、敷島、朝日」ヲ加フ 大正十二年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』</ref>。1937年(昭和12年)8月16日、[[工作艦]]に類別変更<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ73(原本106頁)『昭和十二年八月十六日(内令四七二)特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 工作艦ノ部中「明石」ノ下ニ「、朝日」ヲ加フ 練習特務艦ノ部中「、朝日」ヲ削ル』</ref>。1942年(昭和17年)5月25日、米潜水艦[[サーモン (SS-182)|サーモン]]に撃沈される。 |
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;[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]](いずも):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)。主に前半は練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。後半は[[支那方面艦隊]]旗艦として大陸に駐留。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日に1等巡洋艦に復帰。1945年(昭和20年)7月24日、呉で空襲戦没するまで練習艦として使用。 |
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;[[ |
;[[三笠 (戦艦)|三笠]](みかさ):元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]、[[関東大震災]]で大破着底。[[9月20日]]、除籍<ref name="大正12年達196"/>。記念艦として現存。 |
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;[[肥前 (戦艦)|肥前]](ひぜん):元ロシア戦艦[[レトヴィザン (戦艦)|レトヴィザン]]。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。[[1923年]](大正12年)[[9月20日]]、除籍<ref name="大正12年達196">[[#達大正12年9月]]p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』</ref>。[[1924年]](大正13年)[[7月25日]]、長門型戦艦(長門、陸奥)他の標的となり撃沈処分。 |
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;[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]](かすが):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)。主に横須賀海兵団練習船として使用。1942年(昭和17年)7月1日に練習特務艦に変更。1945年(昭和20年)7月18日、横須賀で空襲戦没。 |
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;[[ |
;[[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]](やくも):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)<ref name="大正10年達164"/>。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰<ref name="S17内令1186"/>。敗戦まで練習艦として残存。 |
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;[[ |
;[[吾妻 (装甲巡洋艦)|吾妻]](あづま):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)<ref name="大正10年達164"/>。主に[[海軍機関学校]]実習船として[[舞鶴港]]固定係留のうえ教材化。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍<ref name="S17内令1178"/>。練習特務艦に類別変更<ref name="S17達192"/><ref name="S17内令1187"/>。1944年(昭和19年)2月15日除籍、解体。 |
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;[[ |
;[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]](あさま):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)<ref name="大正10年達164"/>。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。1935年(昭和10年)10月14日に座礁事故を起こして航行を断念、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]練習船となる。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍<ref name="S17内令1178"/>。練習特務艦に類別変更<ref name="S17達192"/><ref name="S17内令1187"/>。敗戦まで残存。 |
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;[[ |
;[[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]](ときわ):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。1年後の1922年(大正11年)9月30日に[[敷設艦]]として再就役。1945年(昭和20年)8月9日に[[大湊 (むつ市)|大湊]]で空襲戦没するまで日本近海の機雷敷設に従事。 |
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;[[ |
;[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]](いずも):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)<ref name="大正10年達164"/>。主に前半は練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。後半は[[支那方面艦隊]]旗艦として大陸に駐留。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰<ref name="S17内令1186"/>。1945年(昭和20年)7月24日、呉で空襲戦没するまで練習艦として使用。 |
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;[[ |
;[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]](いわて):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)<ref name="大正10年達164"/>。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰<ref name="S17内令1186"/>。1945年(昭和20年)7月26日、呉で空襲戦没するまで練習艦として使用。 |
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;[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]](かすが):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)<ref name="大正10年達164"/>。主に横須賀海兵団練習船として使用。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍<ref name="S17内令1178"/>。練習特務艦に類別変更<ref name="S17達192"/><ref name="S17内令1187"/>。1945年(昭和20年)7月18日、横須賀で空襲戦没。 |
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;[[日進 (装甲巡洋艦)|日進]](にっしん):元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)<ref name="大正10年達164"/>。主に横須賀海兵団練習船として使用。老朽化のため漏水着底。1935年(昭和10年)4月1日除籍後、[[大和型戦艦]]搭載予定の46cm砲の標的として使用中、浸水して転覆。後に解体。 |
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;[[千歳 (防護巡洋艦)|千歳]](ちとせ):元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。目立つ行動はなく1928年(昭和3年)4月1日に除籍。空母[[赤城 (空母)|赤城]]・[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]他航空隊の標的艦となり、沈没。 |
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;[[須磨 (防護巡洋艦)|須磨]](すま):元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。目立つ行動はなく1年半後の1923年(大正12年)4月1日に除籍、解体。 |
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;[[明石 (防護巡洋艦)|明石]](あかし):元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。主に中国駐留・居留民保護に従事、1928年(昭和3年)4月1日に除籍、処分。 |
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;[[新高 (防護巡洋艦)|新高]](にいたか):元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。主に北方哨戒に従事。1年後の1922年(大正11年)8月26日、カムチャツカ沖で荒天のため遭難座礁。 |
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;[[対馬 (防護巡洋艦)|対馬]](つしま):元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更<ref name="大正10年達164"/>。主に中国駐留任務に従事。1939年(昭和14年)4月1日の除籍直前まで中国駐留を断続的に経験した。 |
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=== 新定義艦各型=== |
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*[[占守型海防艦]](甲型)- 4隻<ref name="S19内令738">[[#内令昭和19年6月]]pp.6-7『内令第七百三十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎/驅逐艦、一等松型ノ項中「桑」ノ下ニ「、杉、槇、樅」ヲ加フ/潜水艦、一等伊三百六十一号型ノ項中「伊號第三百七十一」ノ下ニ「、伊號第三百七十二」ヲ、同伊四百型ノ項中「、伊號第四百二」ノ下ニ「、伊號第四百四」ヲ加フ/海防艦ノ部中占守型及御藏型ノ項ヲ左ノ如ク改ム |占守型|占守、國後、八丈、石垣、擇捉、松輪、佐渡、隠岐、壹岐、對島、平戸、福江、天草、満珠、干珠、笠戸| |御藏型|御藏、三宅、淡路、能美、倉橋、屋代、千振、日振、大東、草垣、昭南| |鵜來型|鵜來、沖縄、奄美、粟國| 同第一號型ノ項中「第四十三號」ノ下ニ「、第五十一號、第六十一號」ヲ、同第二號型ノ項中「第三十四號」ノ下ニ「、第三十六號、第三十八號、第四十號、第四十二號、第四十四號、第四十六號」ヲ加フ』</ref> |
|||
*[[択捉型海防艦]](甲型。海軍の法令上は占守型に含まれる)- 14隻<ref name="S19内令738"/><ref name="特攻戦備8">[[#海軍軍備(6)特攻戦備]]コマ8-10(別表第一 艦艇の1944年1月以降完成量(隻數・屯籔)(1949-10-28調)</ref> |
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*[[御蔵型海防艦]](甲型)- 8隻<ref name="S19内令738"/><ref name="特攻戦備8"/> |
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**[[日振型海防艦]](甲型。海軍の法令上は御蔵型に含まれる)- 9隻<ref name="S19内令738"/><ref name="特攻戦備8"/> |
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*[[鵜来型海防艦]](甲型)- 20隻<ref name="S19内令738"/><ref name="特攻戦備8"/> |
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*[[丙型海防艦|一号型海防艦]](丙型海防艦)- 56隻<ref name="S19内令738"/><ref name="特攻戦備8"/> |
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*[[丁型海防艦|二号型海防艦]](丁型海防艦)- 67隻<ref name="S19内令738"/><ref name="特攻戦備8"/> |
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*[[寧海級巡洋艦|八十島型海防艦]](支那事変鹵獲艦)- 2隻 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] |
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*木俣 滋郎 『日本海防艦戦史』 図書出版社 1994年 299頁 |
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* |
**{{Citation |和書|author=阿部信夫|year=1937|month=2|title=海軍読本|chapter=第三 現代の軍艦|publisher=日本評論社|url={{NDLDC|1461743/53}}|ref=阿部読本1937}} |
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**{{Citation |和書|author=小原国芳|year=1932|month=6|title=児童百科大事典.10(国防篇)|chapter=第三編 海軍|series=児童百科大辞典|publisher=児童百科大事典刊行会|url={{NDLDC|1740770/143}}|ref=百科10国防}} |
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**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1935|month=5|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. 1935年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1109500}}|ref=P年鑑1935}} |
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**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1937|month=2|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1231209}}|ref=P年鑑1937}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1940|month=7|title=日本軍艦集 2600年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1903831}}|ref=軍艦2600}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1940|month=|title=海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)|publisher=海軍大臣官房|url={{NDLDC|1886716}}|ref=海軍制度沿革(巻8、1940)}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=海軍有終会編|year=1935|month=11|title=幕末以降帝国軍艦写真と史実|publisher=海軍有終会|url={{NDLDC|1466489}}|ref=幕末以降史実}} |
|||
**{{Cite book|和書|author={{small|東京日日新聞記者}}桑野正夫|year=1914|month=11|title={{small|通俗講話}} 戦争の智識|chapter=二十 海防艦と砲艦|publisher=籾山書店|url={{NDLDC|953100/93}}|ref=桑野戦争智識}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=国防科学研究会|year=1934|month=1|title=平易に説いた陸海軍の知識|chapter=(七)海防艦、砲艦、敷設艦其他|publisher=二松堂書店|url={{NDLDC|1452574/169}}|ref=平易陸海軍知識}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|year=1949|month=6|title=海上護衛作戦(自一九四一年十二月至一九四五年八月)|url={{NDLDC|8815645}}|publisher=|ref=海護、第二復員局}} |
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**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|year=1951|month=6|title=海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の四(開戦から改(5)計画発足まで|url={{NDLDC|8815691}}|publisher=|ref=海軍軍備(4)}} |
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**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|year=1951|month=8|title=海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の五(第二段戦備及び第三段戦備) |url={{NDLDC|8815694}}|publisher=|ref=海軍軍備(5)}} |
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**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|year=1952|month=3|title=海軍の軍備並びに戦備の全貌. 其の六(敗退に伴う戦備並びに特攻戦備)|url={{NDLDC|8815696}}|publisher=|ref=海軍軍備(6)特攻戦備}} |
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**{{Citation |和書|author=平田潤雄、秋間保郎|year=1929|month=3|title=戦争兵器の新智識|series=趣味の文化叢書 7|publisher=子供の日本社|url={{NDLDC|1720256}}|ref=戦争兵器新智識}} |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070040500|title=明治31年 達 完/3月(1)|ref=達明治31年3月(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070053600|title=明治38年 達 完/12月|ref=達明治38年12月}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070064400|title=大正1年 達 完/8月|ref=達大正元年8月}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070077000|title=大正9年 達 完/4月|ref=達大正9年4月}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070079200|title=大正10年 達 完/9月|ref=達大正10年9月}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070080900|title=大正11年 達 完/9月|ref=達大正11年9月}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070081200|title=大正11年 達 完/12月|ref=達大正11年12月}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070081900|title=大正12年 達 完/4月(1)|ref=達大正12年4月(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070082500|title=大正12年 達 完/9月|ref=達大正12年9月}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070115100|title=昭和17年1月~12月 達/7月(1)|ref=達昭和17年7月(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070171600|title=昭和17年5月~8月 内令/昭和17年7月(1)|ref=内令昭和17年7月(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070195400|title=自昭和19年1月 至昭和19年7月 内令/昭和19年6月|ref=内令昭和19年6月}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121170400|title=軍令部総長・参謀総長帝国国防方針及帝国軍の用兵綱領改定案 上奏の際先任総長朗演 御説明案|ref=御説明案}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121170500|title=帝国国防方針 帝国軍の用兵綱領関係綴 昭和11.2~11.6/御説明参考資料(1)|ref=御説明参考資料(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121170600|title=帝国国防方針 帝国軍の用兵綱領関係綴 昭和11.2~11.6/御説明参考資料(2)|ref=御説明参考資料(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121171000|title=元帥会議に関する件 仰裁 昭和11年5月8日起案|ref=元帥会議(S11.05.08)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121171400|title=帝国国防方針改定御親裁の件通牒 昭和11年6月3日 等|ref=S11.06.03帝国国防方針改定御親裁通牒}} |
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<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 --> |
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*<!-- アメクラ -->{{Cite book|和書|author=雨倉孝之|authorlink=雨倉孝之|coauthors=|year=2009|month=2|title=海軍<ruby><rb>護衛艦</rb><rt>コンボイ</rt></ruby>物語|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-1417-7|ref=雨倉コンボイ}} |
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*<!-- オオイ2014 -->{{Cite book|和書|author=大井篤|authorlink=大井篤|coauthors=|year=2014|month=5|origyear=1953|title=海上護衛戦|publisher=株式会社KADOKAWA|series=角川文庫|isbn=978-4-04-101598-8|ref=海上護衛戦(角川)}} |
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*<!-- キマタ1994 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|authorlink=木俣滋郎|coauthors=|year=1994|month=9|title=日本海防艦戦史|publisher=図書出版社|isbn=4-8099-0192-0|ref=木俣海防}} |
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*<!-- サカグチ -->{{Cite book|和書|author=坂口大助|year=2011|month=12|title=太平洋戦争器の海上交通保護問題の研究 {{smaller|日本海軍の対応を中心に}}|publisher=芙蓉書房出版|isbn=978-4-8295-0544-1|ref=坂口研究}} |
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*<!-- テラサキ -->{{Cite book|和書|author=寺崎隆治ほか|coauthors=|year=2016|month=6|title=補助艦艇奮戦記 {{smaller|縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1620-1|ref=寺崎、補助艦艇}} |
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**{{small|戦史研究家}}横田晋『七ツ道具を完備した日本の機雷&哨戒艦艇 {{small|戦局荒天のカギとして急造された掃海、敷設、護衛、対潜艦艇たち}} |
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**{{small|戦史研究家}}落合康夫、{{small|艦艇研究家}}正岡勝直『日本海軍補助艦艇ものしり雑学メモ {{small|敷設特務艇、哨戒特務艇、掃海艇一覧資料収載}} |
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*<!-- フクイ1993 -->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|year=1993|month=12|title=<small>福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻</small> 日本補助艦艇物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0658-2|ref=福井著作10}} |
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*<!-- ボウエイショウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|year=1971|month=5|title=戦史叢書46 海上護衛戦|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref=叢書46海上護衛戦}} |
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*<!--ホウエイチョウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 本土方面海軍作戦|volume=第85巻|year=1975|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書85}} |
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*<!--マル1990-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|year=1990|month=2|title=写真 日本の軍艦 {{small|重巡Ⅲ}} 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦|volume=第7巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0457-1|ref=写真七}} |
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*{{Cite book|和書|author=山本佐次郎|year=1994|month=1|title=両舷直の航跡|chapter=第十章 海防艦|publisher=成山堂書店|isbn=4-425-94471-2|ref=両舷直}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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[[File:護国海防艦の碑.jpg|thumb|200px|護国海防艦の碑、靖国神社遊就館前2017年7月8日撮影]] |
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*[[護送船団]] |
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*[[ |
* [[海防戦艦]] |
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* [[モニター艦]] |
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*[[海上護衛総司令部]] |
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*[[ |
* [[護衛駆逐艦]] |
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* [[フリゲート]] |
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*[[特設護衛船団司令部]] |
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* [[哨戒艦艇]] |
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* [[スループ]] |
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* [[シーレーン]] |
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* [[護送船団]] |
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* [[通商破壊]] |
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* [[海上護衛総司令部]] |
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* [[海上護衛隊]] |
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* [[特設護衛船団司令部]] |
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== 外部リンク == |
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{{日本の海防艦}} |
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* {{YouTube|GPDJMiXXAuU|海防艦}}第1号海防艦の進水式と爆雷投射シーン |
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* {{Kotobank}} |
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{{-}} |
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{{日本の海防艦}} |
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[[Category:軍艦|かいほうかん]] |
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{{Warship-stub}} |
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[[Category:日本の海防艦|かいほうかん]] |
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[[Category:軍艦]] |
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[[Category:日本の海防艦|*]] |
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概要
[編集]英語ではcoast defense shipと言い、沿岸防御用の軍艦のこと[2]。 小型で浅喫水の小戦艦や大型砲艦のようなものもある[2]。 北欧においては、近海防衛用に海防戦艦の整備を行っていた[3]。第二次世界大戦までの艦種で、普通、旧式になった戦艦や巡洋艦をあてた[4]。
日本の海防艦
[編集]日本の海防艦は、1万トン級の戦艦クラスから、千トン未満の小型艦に至るまで、多岐に渡る[5][6]。 沿岸・領海警備、拠点防衛、船団護衛、対潜哨戒等を主要任務とする艦のことを指す[7][8]。 任務の性質上、武装・装甲を重視し、速度・航洋性を犠牲にした艦が多い[1][9]。 日露戦争時のロシア海軍海防戦艦も、日本海軍では海防艦に類別して運用したこともある[10]。
太平洋戦争以前の日本の海防艦は[3]、旧式化した軍艦の総称である[11][12]。 日本海海戦(日露戦争)における連合艦隊旗艦(司令長官東郷平八郎大将座乗)だった戦艦三笠も、最終的に海防艦へ類別変更されている[13][14]。
日本海軍における海防艦は、1942年(昭和17年)7月1日の類別変更を境にその性格が大きく異なる[15][3]。 軍縮条約脱退後の③計画において、日本海軍は大和型戦艦や翔鶴型航空母艦と共に占守型海防艦(1000トン未満)を計画および建造する[16]。 太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)7月1日[15]、海防艦の定義を大幅に変更[6][17]。占守型の改良型や[18][17]、さらに簡易化・量産化をすすめた新型海防艦を多数建造した[3][19]。
類別制定前
[編集]1887年(明治20年)6月6日、日本海軍は建造予定の艦艇7隻について、艦名を内定[20][21]。 このうちフランス人技官ルイ=エミール・ベルタンの設計による軍艦3隻は、第一海防艦=厳島、第二海防艦=松島、第三海防艦=橋立と命名された(松島型防護巡洋艦)[21]。
明治31年から昭和17年まで
[編集]1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海防艦という艦種を新設する[5][22]。 旧式化した戦艦や巡洋艦(装甲巡洋艦、防護巡洋艦)を海防艦として類別し[23]、軍艦籍のまま近海・沿岸の防備に用いることになった(以下「旧定義艦」)[24]。 当初は、計画排水量7000トン以上の海防艦を一等海防艦、7000トン未満3500トン以上の海防艦を二等海防艦、3500トン未満の海防艦を三等海防艦と定義(1912年8月28日、三等海防艦の等級廃止[25]。1931年6月1日、等級廃止)[22][26]。 これらの海防艦は、領海警備、拠点防衛、海上護衛、母艦任務、練習艦等、多岐にわたる任務に従事した[27][28]。 例えば1920年(大正9年)の尼港事件(シベリア出兵)では、海防艦見島(元ロシア軍艦アドミラール・セニャーヴィン)が砕氷艦として出動している[29]。 上海事変以降の日中戦争では、海防艦出雲(元装甲巡洋艦)が上海に進出し、第三艦隊や支那方面艦隊旗艦として作戦を指揮した[11][28]。 姉妹艦磐手と八雲は、練習艦隊を編成して多くの海軍士官を送り出した[30][31]。 二等海防艦新高(元防護巡洋艦)のように、オホーツク海での漁業保護活動中に遭難した艦もあった[32]。
これらの旧定義艦に対し1942年(昭和17年)7月の変更後は、小型で対潜水艦能力を備えた海上護衛用艦艇を「海防艦」と改めた[6]。
海防艦類別の変遷
[編集]- 1898年(明治31年)3月21日 「海軍軍艦及水雷艇類別標準」を初めて制定[5]。
- 1905年(明治38年)12月12日 二等戦艦を廃止[34][35]。既存の3隻を海防艦に編入(鎮遠と壱岐は一等海防艦。扶桑は二等海防艦に類別)[36][37]。
- 1912年(大正元年)8月28日 「海軍艦艇類別標準」改正[25][38]
- 1920年(大正9年)4月1日 「海軍艦艇類別標準」改正[42][43]。
- 1931年(昭和6年)6月1日 海防艦の等級を廃止[26]
- 1942年(昭和17年)7月1日 「海防艦」の定義を大幅に見直す[6]。
新海防艦の概要
[編集]日本海軍が太平洋戦争時に多数建造した船団護衛等のシーレーン防衛や沿岸警備を主任務とする小型戦闘艦で、大戦前半の護衛艦艇(旧式駆逐艦、哨戒艇、機雷敷設艦、急設網艦、水雷艇、掃海艇、駆潜艇、特設艦艇等)にかわる護衛戦力の主力となった[51][52]。他国でいうフリゲートに相当する[53]。海防艦の英語表記はEscort(護衛艦)であり、対空・対潜武装を中心としたものであった。戦後、初期に配備された海上自衛隊護衛艦や海上保安庁の巡視船の原型になった艦である。
昭和時代に入ると装甲巡洋艦や防護巡洋艦由来の海防艦は老朽化が進み、順次退役していった。 1931年(昭和6年)8月、日本海軍は北洋警備を主任務とする小型海防艦の建造計画をまとめる[3][54]。新艦種としたのは、より北洋に対応した艦とすることと、ロンドン軍縮条約による補助艦制限により、それまで北洋警備に用いていた駆逐艦を正面戦力へと移すことが考慮されたためでもあった[23]。日本海軍が潜水艦に対処するため開発・整備していた艦艇は、駆潜艇であった[55][56]。日本海軍はロンドン海軍軍縮条約の制限外艦艇として、①計画に排水量1,200トン型海防艦4隻が盛り込んだが、実現しなかった[57][54]。当時、世界恐慌の影響により日本は財政緊縮時代であり、軍事予算も大幅に縮小[54]。戦列部隊(第一線部隊)の整備だけで手一杯で、防備兵力の整備は後回しにせざるを得なかった[54]。1933年(昭和8年)の②計画でも新型海防艦4隻の建造を要求したが、予算不足のため実現しなかった[57][54]。
1936年(昭和11年)5月、伏見宮博恭王軍令部総長は、昭和天皇に国防方針の改訂を説明[58]。このなかで、「所要兵力」における第二区分(防備用兵力)について「主トシテ内地防御作戦ニ任ズベキ内戦部隊デ、ソノ所要兵力ハ航空機オヨビ艦齢超過艦ヲモッテアテマスホカ、所要ノ艦艇ヲ新造充実イタシマス」と言上した[58][59]。 このような方針下[60][61]、新型海防艦はオホーツク海周辺におけるソ連との漁業紛争に対処するための小型艦(900トンクラス)として建造された(③計画、占守型)[62][63]。紛争地での対外交渉に従事することを考慮し、「軍艦」と位置づけられ、菊のご紋章を艦首に装着していた[63][64](昭和17年7月1日附で軍艦籍より除籍。役職も"艦長"から"海防艦長"に変更)[15][49]。この頃は海防艦の艦長は兵学校出身の中佐が務めていた[65]。
1937年(昭和12年)7月以降の日中戦争(支那事変)勃発により、新型海防艦の建造計画は頓挫してしまった[62]。しかし太平洋戦争開戦前[17]、拡大する戦域を航行する輸送船の護衛としてこの艦種が有用と見込まれ、占守型の設計を若干簡略化し、対潜装備を強化した択捉型[66][67]や御蔵型[68][69]の開発および建造を開始する[23]。さらに戦局悪化による護衛艦の不足により、大量生産向けに設計を大幅に簡略化した鵜来型・日振型などを大量に建造する[70][71]。いわば、当時の日本において海防艦建造は、海軍艦政本部、海上護衛総司令部の軍当局に加え、民間の三菱重工業、日本鋼管、日立造船などの造船メーカーを巻き込んだ一大国家プロジェクトであった。
上記の艦艇が完成する頃には戦況悪化が著しく、輸送船舶の被害が拡大していた。一方、当時の日本海軍は航空母艦、丁型駆逐艦(松型駆逐艦)、輸送艦(第一号型、第百一号型)、潜水艦の量産、既定の商船建造に傾注しており、護衛艦艇の建造は後回しにされがちだった[72][73]。 その中でも開戦時前決定マル急計画30隻(択捉型、御蔵型、日振型、鵜来型)、⑤計画および改⑤計画の海防艦34隻に加え[53]、1943年(昭和18年)4月の軍令部提議330隻建造に対し、同年6月に244隻建造計画が決定[74][75]。 小規模な造船所でも建造できるよう、また更に急造できるよう小型化(700トンクラス)[76]、簡略化を徹底した新しい海防艦が短期間で設計され、100隻を超える艦艇が建造された(丙型・丁型)[77][78]。 戦時中、帝国海軍が建造した艦種の中で、最も多い艦種となった。これらの新型海防艦は、他国でいうコルベットに相当する[77]。 1944年(昭和19年)度82隻、1945年(昭和20年)43隻、計125隻が完成[74]。ただし、あまりにも種類と仕様が雑多で統一性がなく(甲型、乙型、丙型、丁型、タービン機関、ディーゼル機関)、また艦ごとに艤装や計器の仕様が異なり、用兵側は編隊航行にも苦労することになった[79]。結局、護衛戦力としては高速の駆逐艦が最適であり、護衛指揮官の乗艦としては睦月型駆逐艦、護衛としては若竹型駆逐艦や鴻型水雷艇が重用された[80][81]。
こうして就役した海防艦のほとんどは、戦争の後期から末期にかけて、南方や日本近海で通商破壊戦を展開する連合国軍潜水艦・航空機に対抗し、輸送船を護衛して苛酷な戦いを繰り広げた[82]。 新型海防艦の最大の欠点は低速力(丙型、丁型とも17ノット前後)で、水上航行中の潜水艦や、護衛対象の優秀船にも劣った[52]。この速力不足は、現場の指揮官や海防艦艦長自身が痛感している[83]。サイパン輸送作戦時(昭和19年5月)の指揮官(睦月型駆逐艦「皐月」座乗)は、敵潜水艦(洋上航行速力19ノット)が輸送船団を追従した場合「海防艦では手の施しようがない」「とにかく一隻でも駆逐艦を有するということは強みだった」「とにかく一船団に少なくとも(駆逐艦)一隻は配属せしめる必要を痛感した」と回想している[81][84]。戦史叢書では『敵潜水艦より劣速の海防艦は、対潜護衛艦艇としての本質的要件に欠けるともいえるものである。』と評する[52]。しかし戦局の逼迫から、性能不充分ながら欠陥を承知で運用せざるを得なかった[52]。その結果、終戦までに完成した海防艦167隻(占守型4隻〈占守、国後、八丈、石垣〉、中華民国からの戦利艦海防艦2隻〈五百島と八十島〉を含めれば173隻)[85]のうち71隻[74]が失われた[86]。海防艦乗組員の戦死者は1万人以上と伝えられる[87]。この奮闘にもかかわらず、圧倒的な連合軍の前に、戦争末期には日本の海上輸送はほぼ壊滅することとなる。
また新型海防艦の就役数増加により、海防艦を主力とする諸部隊も新たに登場した(特設護衛船団司令部)[88]。 これらの部隊は、連合艦隊がマリアナ沖海戦及びレイテ沖海戦で事実上壊滅すると、残存戦力として第一線に押し出され、終戦まで作戦行動を継続した。
大戦中盤以降の海防艦の運用の中心を担ったのは、東京及び神戸の高等商船学校出身の海軍予備将校であった[87][89]。一般商船の高級船員がそのまま充員召集され、海防艦長、航海長、機関長などの任務に就いた[65][89]。新造とはいえ、戦時の粗末な構造で、兵器も充実していたといえず、各方面から集められた乗組員の訓練も不十分だった[87]。それでも、戦争遂行に不可欠なシーレーン防衛のために決死の戦いを強いられた各海防艦、商船隊の活躍は、海防艦自体の評価はともかくとして、評価に値するといえよう。さらに、戦後の海上自衛隊が艦艇を保有するにあたっての基本コンセプトの原型となった艦種という意味でも、海防艦の残した価値は意外と大きい。また、生産性の向上を徹底的に追求するなかで、ブロック工法や電気溶接を本格的に採用し、戦後の造船技術の潮流を作ったといえる。
戦後、生き残った艦の多くは復員業務に従事した後、賠償艦として連合軍に引き渡された。日振型と鵜来型のうち、志賀など計5隻がおじか型巡視船として海上保安庁で再就役し、昭和30年代後半まで活躍した[90]。 1980年(昭和55年)5月5日、海防艦顕彰会により靖国神社遊就館前に、『護国海防艦の碑』および海防艦像が建立された[87][91]。 記念艦となっていた志賀は[92]、老朽化により解体撤去された。日本国内に現存する海防艦籍にあった艦艇は三笠[14][93]のみである。
海防艦各艦(日本海軍)
[編集]旧定義艦
[編集]- 筑波(つくば)
- コルベット。3等海防艦に類別[33]。主に海軍兵学校練習船として航海の実習教材となる。1905年(明治38年)6月10日に除籍後、売却。
- 天龍(てんりゅう)
- スループ。3等海防艦に類別[33]。主に海軍兵学校練習船として航海術の実習教材となる。1906年(明治40年)10月20日除籍
- 海門(かいもん)
- スループ。3等海防艦に類別[33]。日露戦争において第3艦隊に所属。1904年(明治37年)7月5日、掃海援護からの帰途において大連沖で触雷戦没。
- 葛城(かつらぎ)
- スループ。3等海防艦に類別[33]。日露戦争においては長崎港警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更[41]。翌年1913年(大正2年)4月11日除籍。
- 大和(やまと)
- スループ。3等海防艦に類別[33]。日露戦争においては関門海峡警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更[41]。1922年(大正11年)9月1日、測量艦に変更。昭和10年まで海軍に在籍し、敗戦直後の枕崎台風のため遭難。
- 武蔵(むさし)
- スループ。3等海防艦に類別[33]。日露戦争においては津軽海峡警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更[41]。1922年(大正11年)9月1日、測量艦に変更。昭和3年まで海軍に在籍し、昭和10年解体。
- 高雄(たかお)
- 巡洋艦。国産初の鉄製軍艦。3等海防艦に類別[33]。日露戦争において津軽海峡・宗谷海峡での哨戒任務に従事。1911年(明治44年)4月1日除籍、売却解体。
- 済遠(さいえん)
- 元清朝巡洋艦。3等海防艦に類別[33]。日露戦争において第3艦隊に所属。1904年(明治37年)11月30日、旅順要塞203高地攻撃援護中に触雷戦没。
- 金剛(こんごう)
- 装甲コルベット。3等海防艦に類別[33]。1909年(明治42年)除籍。
- 比叡 (ひえい)
- 装甲コルベット。3等海防艦に類別[33]。1911年(明治44年)除籍。
- 見島(みしま)
- 元ロシア海防戦艦アドミラル・セニャーウィン[10]。1905年(明治38年)6月6日、2等海防艦に編入[10]。主に舞鶴海兵団練習船として使用後、シベリア出兵の際に砕氷艦として使用。1922年(大正11年)4月1日、潜水艦母艇に転籍して佐世保で使用後、1935年(昭和10年)に除籍後、空母鳳翔航空隊の標的艦として使用中に沈没。日本海軍最大の特務艇である。
- 沖島(おきのしま)
- 元ロシア海防戦艦ゲネラルアドミラル・グラーフ・アプラクシン[10]。1905年(明治38年)6月6日、2等海防艦に編入[10]。主に佐世保海兵団練習船として使用。1922年(大正11年)4月1日、雑役船に転籍して払い下げ。記念艦にするため輸送中に座礁、放棄。
- 扶桑(ふそう)
- 元2等戦艦[94]。1905年(明治38年)12月12日、2等戦艦類別廃止にともない二等海防艦に変更[37]。特に目立つ行動はなく1908年(明治41年)4月1日除籍、売却解体。
- 鎮遠(ちんえん)
- 元清朝甲鉄砲塔艦、元二等戦艦[94]。1905年(明治38年)12月12日、二等戦艦類別廃止にともない一等海防艦に類別変更[37]。日露戦争に参加、旅順攻囲戦で鹵獲した元ロシア海軍艦艇の護衛・曳航にも従事した。1911年(明治44年)4月1日除籍、売却解体。
- 壱岐(いき)
- 元ロシア戦艦インペラートル・ニコライ1世、二等戦艦[10][94]。1905年(明治38年)12月12日、二等戦艦類別廃止にともない一等海防艦に変更[37]。主に横須賀海兵団練習船として使用。1915年(大正4年)5月1日除籍。大正天皇皇太子親閲下(御召艦榛名)、金剛型巡洋戦艦(金剛、比叡)の砲撃標的として撃沈処分。
- 松江(まつえ)
- 元ロシア東清鉄道貨物船スンガリ。1906年(明治40年)3月8日、3等海防艦に類別。主に南洋方面の測量任務に従事。1912年(大正元年)8月28日、三等海防艦類別廃止につき二等海防艦に変更[41]。さらに1918年(大正7年)2月1日、運送船に変更。のち運送艦をへて1922年(大正11年)4月1日、測量艦へ変更。1929年(昭和4年)4月1日除籍。
- 富士(ふじ)
- 元戦艦。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[41]。膠州湾の自沈貨物船の内地曳航、加賀型戦艦2隻(加賀《神戸→横須賀》、土佐《長崎→呉》)の曳航など、大型船の曳航に従事。1922年(大正11年)9月1日、運送艦に変更[95]。同年12月1日、練習特務艦に類別変更[96]。横須賀繋留中の1945年(昭和20年)7月18日、米軍機動部隊艦載機の空襲により大破、着底。
- 石見(いわみ)
- 元ロシア戦艦アリヨール[10]。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[41]。膠州湾攻略作戦に従事。1922年(大正11年)9月1日除籍、雑役船として使用後、航空攻撃の標的艦として処分。
- 周防(すおう)
- 元ロシア戦艦ポビエダ。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[41]。膠州湾攻略作戦に従事。1922年(大正11年)9月1日除籍。解体中に漏水転覆、自沈。
- 相模(さがみ)
- 元ロシア戦艦ペレスウェート。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[41]。膠州湾攻略作戦に従事。1916年(大正5年)4月4日、ロシアに返還後戦没。
- 丹後(たんご)
- 元ロシア戦艦ポルタワ。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[41]。膠州湾攻略作戦に従事。1916年(大正5年)4月4日、ロシアに返還後1922年(大正11年)に解体。
- 高千穂(たかちほ)
- 元2等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、敷設艦改装にともない二等海防艦に変更[41]。膠州湾攻略作戦中の1914年(大正3年)10月17日、ドイツ海軍水雷艇の奇襲により戦没。
- 厳島(いつくしま)
- 第一号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第一号海防艦は厳島と命名される[21]。1898年(明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別[33]。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更[41]。呉海兵団練習船を経て潜水学校練習船として使用。1919年(大正8年)4月1日、雑役船厳島丸となる。のち潜水艦母艇(特務艇)、再度雑役船を経て大正14年(1925年)4月14日廃船。
- 松島(まつしま)
- 第二号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第二号海防艦は松島と命名される[21]。1898年(明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別[33]。1908年(明治41年)4月30日、練習艦として航海中、寄港先の台湾で火薬庫爆発事故により爆沈。旧定義における海防艦には類別されていない。
- 橋立(はしだて)
- 第三号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第三号海防艦は橋立と命名される[21]。1898年(明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別[33]。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更[41]。主に横須賀海兵団練習船として使用。1922年(大正11年)4月1日、横須賀海兵団宿舎(雑役船)となり昭和初期に解体。
- 千代田(ちよだ)
- 元3等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更[41]。主に沿岸警備に使用。1921年(大正10年)4月30日、水雷母艦に変更。のちに潜水艦母艇として大正末期まで使用後、昭和天皇(御召艦山城)親閲下、空母鳳翔航空隊等の標的艦として処分。
- 秋津洲(あきつしま)
- 元3等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更[41]。主に沿岸警備に使用。1921年(大正10年)4月30日、潜水艦母艇に変更後、1927年(昭和2年)1月10日除籍。
- 鈴谷(すずや)
- 元ロシア巡洋艦ノーヴィク。元通報艦。1912年(大正元年)8月28日、通報艦廃止にともない二等海防艦に変更[41]。主に旅順周辺の防御に従事。翌年1913年(大正2年)4月1日除籍。
- 満洲(まんしゅう)
- 元ロシア東清鉄道貨客船マンジュリア。元通報艦。1912年(大正元年)8月28日、通報艦廃止にともない二等海防艦に変更[41]。主に列強各国の駐日武官や皇室関係者の歓待等、迎賓艦として機能した。1932年(昭和7年)4月1日除籍。
- 豊橋(とよはし)
- 元水雷母艦。類別整理のため1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に編入[41]。主に潜水母艦として支援任務に従事。1914年(大正3年)4月1日除籍、払い下げ。
- 韓崎(からさき)
- 元水雷母艦。類別整理のため1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に編入[41]。主に潜水母艦として第4水雷戦隊(のちに第1潜水戦隊)旗艦として指揮に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により水雷母艦に復帰[44]。昭和14年(1939年)に除籍。
- 駒橋(こまはし)
- 元雑役船。1914年(大正3年)4月1日、豊橋の代船として2等海防艦に編入、主に潜水母艦として支援任務に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により水雷母艦に変更[44]。1942年(昭和17年)に測量艦となり、終戦直前に戦没。
- 若宮(わかみや)
- 元運送船。1915年(大正4年)6月1日、2等海防艦に編入。主に水上機母艦として演習時の偵察・観測任務に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により新設した航空母艦に転籍[44]。1931年(昭和6年)に除籍、解体。
- 敷島(しきしま)
- 元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更[14]。1923年(大正12年)4月1日、軍艦籍より除籍され練習特務艦となる[97]。終戦時まで残存。
- 朝日(あさひ)
- 元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更[14]。1923年(大正12年)4月1日、軍艦籍より除籍され練習特務艦となる[97]。1937年(昭和12年)8月16日、工作艦に類別変更[98]。1942年(昭和17年)5月25日、米潜水艦サーモンに撃沈される。
- 三笠(みかさ)
- 元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更[14]。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で大破着底。9月20日、除籍[93]。記念艦として現存。
- 肥前(ひぜん)
- 元ロシア戦艦レトヴィザン。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更[14]。1923年(大正12年)9月20日、除籍[93]。1924年(大正13年)7月25日、長門型戦艦(長門、陸奥)他の標的となり撃沈処分。
- 八雲(やくも)
- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[14]。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰[48]。敗戦まで練習艦として残存。
- 吾妻(あづま)
- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[14]。主に海軍機関学校実習船として舞鶴港固定係留のうえ教材化。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍[15]。練習特務艦に類別変更[46][50]。1944年(昭和19年)2月15日除籍、解体。
- 浅間(あさま)
- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[14]。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。1935年(昭和10年)10月14日に座礁事故を起こして航行を断念、海軍兵学校練習船となる。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍[15]。練習特務艦に類別変更[46][50]。敗戦まで残存。
- 常磐(ときわ)
- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更[14]。1年後の1922年(大正11年)9月30日に敷設艦として再就役。1945年(昭和20年)8月9日に大湊で空襲戦没するまで日本近海の機雷敷設に従事。
- 出雲(いずも)
- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[14]。主に前半は練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。後半は支那方面艦隊旗艦として大陸に駐留。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰[48]。1945年(昭和20年)7月24日、呉で空襲戦没するまで練習艦として使用。
- 磐手(いわて)
- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[14]。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰[48]。1945年(昭和20年)7月26日、呉で空襲戦没するまで練習艦として使用。
- 春日(かすが)
- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[14]。主に横須賀海兵団練習船として使用。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍[15]。練習特務艦に類別変更[46][50]。1945年(昭和20年)7月18日、横須賀で空襲戦没。
- 日進(にっしん)
- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[14]。主に横須賀海兵団練習船として使用。老朽化のため漏水着底。1935年(昭和10年)4月1日除籍後、大和型戦艦搭載予定の46cm砲の標的として使用中、浸水して転覆。後に解体。
- 千歳(ちとせ)
- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[14]。目立つ行動はなく1928年(昭和3年)4月1日に除籍。空母赤城・鳳翔他航空隊の標的艦となり、沈没。
- 須磨(すま)
- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[14]。目立つ行動はなく1年半後の1923年(大正12年)4月1日に除籍、解体。
- 明石(あかし)
- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[14]。主に中国駐留・居留民保護に従事、1928年(昭和3年)4月1日に除籍、処分。
- 新高(にいたか)
- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[14]。主に北方哨戒に従事。1年後の1922年(大正11年)8月26日、カムチャツカ沖で荒天のため遭難座礁。
- 対馬(つしま)
- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[14]。主に中国駐留任務に従事。1939年(昭和14年)4月1日の除籍直前まで中国駐留を断続的に経験した。
新定義艦各型
[編集]- 占守型海防艦(甲型)- 4隻[99]
- 択捉型海防艦(甲型。海軍の法令上は占守型に含まれる)- 14隻[99][100]
- 御蔵型海防艦(甲型)- 8隻[99][100]
- 鵜来型海防艦(甲型)- 20隻[99][100]
- 一号型海防艦(丙型海防艦)- 56隻[99][100]
- 二号型海防艦(丁型海防艦)- 67隻[99][100]
- 八十島型海防艦(支那事変鹵獲艦)- 2隻
脚注
[編集]- ^ a b 木村浩吉「海防艦」『海軍圖説』大日本圖書、1903年6月 。コマ55(原本58頁)『
海 防 艦 海防艦ハ海岸防禦ニ必要ナル軍艦ニシテ戰艦ト等シク攻撃防禦ノ兩力ヲ完全ニ備フルヲ要ス然レモ遠ク外國ニ派遣セラレザル爲メ石炭積載量及ビ速力ハ多キヲ要セズ而シテ喫水ヲ成ルベク淺ク製造スルハ之レヲ淺水中ニ利用シテ敵艦ニ當ラシムニアリ實ニ此艦ハ水雷艇、布設水雷及ビ海岸砲臺等ノ如キ防港機關ノ補助ヲ得テ自國ノ海岸ヲ防禦スルノ任務ヲ盡スベキモノトス』 - ^ a b #福井著作10p.137
- ^ a b c d e 写真日本の軍艦7巻212頁『対潜護衛艦の出現とその系統』
- ^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “海防艦とは”. コトバンク. 2021年9月6日閲覧。
- ^ a b c d #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ47(原本54頁)『◎海軍大臣ニ於テ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラルルノ件/明治三十一年三月二十一日(達三四) 明治三十三年六月一二一號廢止 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル(別表)』
- ^ a b c d 海防艦戦記13-15頁『古典的海防艦と混同するなかれ』
- ^ 平易に説いた陸海軍の知識コマ169-170(原本71-72頁)より『我が海軍でも、日進、春日、出雲、磐手と云へば、これに淺間、常磐を加へて、日露戰爭の時分には世界最新の装甲巡洋艦でしたが、二十有餘年後の今日では、最早古くなってしまって到底古鷹や、那智などの對手になれませんので、今日海防艦の仲間入りをしてをります。/新しい軍艦が澤山あれば、何もこんな舊式の軍艦を海防艦などと云って使ってゐる必要もありませんけれど、仲々さう新しいものを澤山造ることは出來ませんから、舊式のものでも殘して出來るだけ利用してをりますので、戰爭の時には、根據地の守備 陸軍運送船の護衛、又平時には海上の取締りをする警備艦、いろいろの海軍の教育のための練習艦などに使ひますので、仲々仕事が澤山あります。』
- ^ 桑野、戦争の智識コマ93-94(原本150-153頁)『二十、海防艦と砲艦』
- ^ 日本青年教育会「四.海防艦」『陸軍海軍』日本青年教育界〈青年文庫;第6篇〉、1918年11月 。
- ^ a b c d e f g #海軍制度沿革(巻8、1940)第199コマ(原本358頁)『◎戰利軍艦石見壹岐沖島見島命名ノ件 明治三十八年六月六日(達七三) 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル|戰艦「アリヨール」
石 見 |戰艦「インペラートルニコライ」第一世壹 岐 |海防艦「ゲネラルアドミラル、アプラキシン」沖 島 |海防艦「アドミラル、セニヤーウヰン」見 島 』 - ^ a b ポケット海軍年鑑(1935年版)コマ66(原本114-115頁)『海防艦 "八雲 やくも" 全要目{排水量9,010噸 速力16節 備砲20糎砲4門 15糎砲12門 8糎砲4門 8糎高角砲1門 魚雷發射管2門 起工明治31年9月 竣工明治33年6月 建造所獨國ヴアルカン會社} 海防艦と云ふ艦種は現代海戰の第一線に立つ艦ではないが何れも過去の戰役に於て華々しい戰功を樹てた艦揃ひである。現在我が海軍の有する海防艦は"淺間 あさま" "吾妻 あずま" "出雲 いづも" "磐手 いはて" "春日 かすが" "對馬 つしま"及び本艦の計7隻である。/そしてこれ等は平時練習艦隊や支那方面警備と云ふ任務に就くのが常で、またこの艦種にとってはそれ等の任務が要するに活躍舞臺である。/八雲は全長124.66米、幅19.58米、平均吃水7.24米。/昭和10年度のこれ等海防艦のそれぞれの役務を擧げて見ると次の如くである。八雲、淺間の2隻は練習艦隊に、吾妻は呉鎭守府麾下の豫備艦、出雲は第三艦隊の第十戰隊に、磐手は佐世保鎭守府麾下の豫備艦、春日は海軍航海學校の練習艦に、對馬は第三艦隊第十一戰隊に属してゐる。』
- ^ 日本軍艦集2600年版コマ87(原本、附録12-13頁)『海防艦、砲艦、敷設艦、掃海艇 海防艦は、攻防力とも相當大きく、専ら沿岸の防禦を任務とする艦であるが、近年各國では新しくこの艦種を建造することなく、舊式戰艦や巡洋艦等を之に充ててゐる向が多い。我國の淺間、八雲、吾妻、出雲、磐手、對馬、春日等の海防艦もその例に漏れず、曾ての戰爭に華々しい活躍を示した古つはものである。この中で、今度の日支事變において旗艦となつて活躍してゐる出雲は、過去幾多の輝かしい戰歴と武勲を有する艦である。(以下略)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59(原本78頁)『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #達大正10年9月p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
- ^ a b c d e f g h #内令昭和17年7月(1)pp.1-2『内令第千百七十八號 横須賀鎭守府在籍 軍艦 春日/呉鎭守府在籍 軍艦 淺間/舞鶴鎭守府在籍 軍艦 吾妻 軍艦 占守 軍艦 國後 軍艦 石垣 軍艦 八丈 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ 海軍護衛艦物語93-94頁『海上交通保護に目が向いた?』
- ^ a b c 海軍護衛艦物語139-141頁『"対潜"専門の予備士官養成開始』
- ^ 海軍護衛艦物語112頁
- ^ 海軍護衛艦物語199-200頁
- ^ 「新造ノ第一海防艦外六艦ニ仮名ヲ附ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15111325300
- ^ a b c d e #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ197(原本355頁)〔◎海防艦嚴島松島橋立報知艦八重山千島練習艦滿珠命名ノ件〕『明治二十年六月六日(訓令六二)新艦ニ命名セラルヽコト左ノ如シ 但命名式相濟マテノ間ハ假名ト心得ヘシ
第一海防艦 佛國ニ於テ建造嚴 島
第二海防艦 同上松 島
第三海防艦 横須賀造船所ニ於テ建造橋 立
第一報知艦 同上八 重 山
第二報知艦 計畫中千 島
風帆練習艦 小濱造船所ニ於テ建造滿 珠
同 同上干 珠』 - ^ a b c #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣 侯爵西郷從道(別表)』
- ^ a b c 海防艦発達史,田村尚也,帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ(37),P102-109,学習研究社,2002年, ISBN 9784056027808
- ^ 藤田精一「海防艦」『大日本軍艦写真帖』海上協会、1924年9月 。コマ26『海防艦 海防艦とはその戰艦たると巡洋戰艦たると巡洋艦たるとを問はず艦齢第三期(竣工年より起算し十七年以上二十四年未満)に在るもの又は艦齢満了するも、未だ廢艦とならずして在籍する老朽艦に附ける名稱で、素より戰線に立つべきものではなく、その名の如き目的を以て戰時その用を爲すに過ぎないのである。/因に艦齢第一期とは竣工年より起算し八年未満、同第二期とは九年以上十六年未満の謂である。/海防艦は我海軍にては便宜上之を區別して、排水噸數七千噸以上のものを一等海防艦、以下のものを二等海防艦と呼んでいる。/現今我一等海防艦は元は一等巡洋艦(装甲巡洋艦)として、日本海海戰には主力艦として取扱はれた淺間級等が之に属し、二等海防艦には二等巡洋艦たりし千歳、對馬、明石杯が之に属してゐる。』
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ48(原本56頁)『◎艦艇類別標準 大正元年八月二十八日(達一一) 改正{大正五年八月一一七號、八年三月二六號、九年四月三七號、十二年六月一五四號、十三年十一月軍令海四廢止 艦艇類別標準別表ノ通改メラル(別表)』
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ67(原本95頁)『昭和六年六月一日(内令一一一)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』
- ^ 児童百科大事典、国防篇コマ152(原本267頁)『六、海防艦 攻撃力及び防禦力稍大にして専ら沿海を防禦する任務に當る。今日はいづれの海軍でも新にこの艦種を建造することなく、舊式の戰艦、巡洋艦等を以てこれに充てるのを普通とする。「淺間」「吾妻」「磐手」「出雲」「春日」「對馬」は海防艦である。「出雲」「春日」等は日露戰爭時代に赫々たる勲を立てた艦である。』
- ^ a b 海軍読本(1937)コマ91(原本160頁)『海防艦 攻防力とも相當に大きく、専ら沿岸防禦を任務とする。近年各國共新にこの艦種を建造することなく舊式戰艦、巡洋艦等を以て之に充てるのを普通とする。我が國には現在七隻の海防艦があり、其の中には「八雲」級の如く、三十數年の老齢を以て、能く練習艦として世界の海上に行動していゐるものもあり、尚上海事變の如きに際して敵國沿岸に腰を据ゑて、海陸共同作戰に活躍、武勲赫々たるものもある。』
- ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ68(原本102頁)『見島(みしま) 艦種海防艦二等 二檣(戰闘檣あり)(以下略)』
- ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ61(原本89頁)『磐手(いはて) 艦種巡洋艦一等 二檣(戰闘檣あり)出雲と姉妹艦なり 艦歴(中略)同10年一等海防艦に編入。練習艦隊の一艦として從來屡々海軍少尉候補生等の練習任務に服す。 ―要目―(略)』
- ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ61(原本88頁)『八雲(やくも) 艦種巡洋艦一等 二檣(戰闘檣あり) 艦歴(中略)同10年一等海防艦に編入、昭和6・7年(日支)事變に從軍:同6年12月北支方面警備に從事(艦長大佐新見政一)。練習艦隊として屡々海軍少尉候補生練習任務に服す。 ―要目―(略)』
- ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ63(原本93頁)『新高(にひたか) 艦種三等巡洋艦 二檣(信號用)(以下略)』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣 侯爵西郷從道 |軍艦|巡洋艦|二等|浪速、高千穂、嚴島、松島、橋立、吉野、高砂、笠置、千歳|/海防艦|三等|筑波 金剛 比叡 濟遠 海門 天龍 葛城 大和 武藏 高雄』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ47(原本55頁)『◎艦艇類別標準 明治三十八年十二月十二日(達一八一) 大正元年八月一一號消滅 艦艇類別標準別表ノ通改メラル(別表)』
- ^ #達明治38年12月pp.6-7『達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣 男爵山本權兵衛(別表)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ53(原本66-67頁)『◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)』
- ^ a b c d #達明治38年12月pp.8-9『達第百八十二號 艦艇類別標準別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣 男爵山本權兵衛(別表)|軍艦|海防艦|一等|鎭遠、壹岐、|/海防艦|二等|扶桑、沖島、見島、|/海防艦|三等|金剛、比叡、天龍、葛城、大和、武藏、高雄、|(以下表略)〔備考〕軍艦ヲ稱呼スルニハ其ノ艦別ノ何タルヲ問ハズ「軍艦何」ヲ以テス但シ場合ニ依リ類別稱若ハ類別及等級ヲ以テスルコトアリ「戰艦何」「海防艦何」「何等巡洋艦何」等ノ如シ 驅逐艦ヲ稱呼スルニハ「驅逐艦何」ヲ以テス(以下略)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56(原本72-73頁)『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)』
- ^ a b #達大正元年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實(別表)』
- ^ a b #達大正元年8月p.35『達第十三號 今般艦艇類別標準改正セラレタル結果海軍諸法令中「一等巡洋艦」トアルハ「巡洋戰艦、一等巡洋艦」ニ、「三等巡洋艦」トアルハ「二等巡洋艦」ニ、「三等海防艦」トアルハ「二等海防艦」ニ、「通報艦」トアルハ「一等砲艦」ニ、「三等水雷艇」トアルハ「二等水雷艇」ニ改メラシタル儀ト心得ヘシ 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #達大正元年8月pp.33-34『達第十二號 艦艇類別標準別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實(別表)|軍艦|一等|壹岐、丹後、富士、石見、相模、周防|/海防艦|二等|沖島、見島、高千穂、嚴島、橋立、千代田、秋津洲、鈴谷、満州、豊橋、韓崎、葛城、大和、武藏、松江|』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ48(原本56頁)『◎大正九年四月一日(達三七)艦艇類別標準中左ノ通改定セラル 別表中巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ三欄ヲ加フ |航空母艦| | |/水雷母艦| | |/敷設艦| | |』
- ^ #達大正9年4月p.1『達第三十七號 艦艇類別標準中左ノ通改定セラル 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎 別表中巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ三欄ヲ加フ |航空母艦|水雷母艦|敷設艦|』
- ^ a b c d e #達大正9年4月p.1『達第三十八號 艦艇類別標準中左ノ通改正ス 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎 巡洋艦一等ノ欄内「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル 海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル 巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ如ク加フ |航空母艦| |若宮|/水雷母艦| |韓崎、駒橋|/敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力|』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ58(原本77頁)『大正九年四月一日(達三八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦一等ノ欄内「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル/海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル/巡洋艦ノ欄ニ左ノ如ク加フ』-『航空母艦| |若宮|/|水雷母艦| |韓崎、駒橋|/|敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力』
- ^ a b c d e #達昭和17年7月(1)p.1『達第百九十二號 軍艦淺間外六隻艦種變更ニ付左ノ通命名ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|海防艦 占守(舊軍艦占守) 海防艦 國後(舊軍艦國後) 海防艦 八丈(舊軍艦八丈) 海防艦 石垣(舊軍艦石垣) 特務艦 淺間(舊軍艦淺間) 特務艦 吾妻(舊軍艦吾妻) 特務艦 春日(舊軍艦春日)』
- ^ #内令昭和17年7月(1)pp.2-3『内令第千百七十九號 海防艦 占守 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル|特務艦 春日 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト定メラル|特務艦 淺間 右本籍ヲ呉鎭守府ト定メラル|特務艦 吾妻 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル| 舞鶴鎭守府在籍 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル|横須賀鎭守府在籍 特務艦 春日 呉鎭守府在籍 特務艦 淺間 舞鶴鎭守府在籍 特務艦 吾妻 右第四豫備艦ト定ム|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ a b c d e #内令昭和17年7月(1)pp.8-9『内令第千百八十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |八雲、磐手、出雲| 同海防艦ノ項ヲ削ル/同砲艦ノ部中「多多良」ノ下ニ「、須磨」ヲ加フ/潜水艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海防艦| | |占守型|占守、國後、八丈、石垣|(内令提要巻三、三三頁参照)』
- ^ a b 「昭和17年7月2日(木)海軍公報(部内限)第4131号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C12070421700 『官房機密第八一八六號 本年達第百九二號艦種變更命名ノ際舊艦名ノ職名ヲ有スル者ハ特ニ發令セラルルモノノ外別ニ辭令ヲ用ヒズシテ新艦種名ノ相當職員ニ補命セラレタル義ト心得ベシ 昭和十七年七月一日 海軍大臣』
- ^ a b c d #内令昭和17年7月(1)pp.9-10『内令第千百八十七號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|練習特務艦ノ項中「敷島」ノ下ニ「、淺間、吾妻、春日」ヲ加フ(内令提要巻三、四〇頁参照)』
- ^ 海軍護衛艦物語155-156頁『沿岸用小艦艇―海上護衛に馳せ参ず』
- ^ a b c d #叢書46海上護衛戦433頁『護衛艦艇としての海防艦』
- ^ a b 補助艦艇奮戦記45-46頁『▽海防艦』
- ^ a b c d e 本土方面海軍作戦8-10頁『ロンドン条約締結前後から昭和九年ころまで』
- ^ 補助艦艇奮戦記44-45頁
- ^ 海軍護衛艦物語73-74頁『「駆潜艇」新造の提言』
- ^ a b 写真日本の軍艦7巻212-214頁『◇占守型◇』
- ^ a b 海軍護衛艦物語91-92頁『対馬海峡は確実に防衛』
- ^ #御説明案p.16『第二 ハ主トシテ内地防禦作戰ニ任ズベキ内戰部隊デ御座イマシテ其所要兵力ハ航空機及艦齢超過艦ヲ以テ充テマスル外所要ノ艦艇ヲ新造充實致シマス』
- ^ #御説明参考資料(1)p.37『五.内戰部隊所要兵力ニハ航空機及艦齢超過艦ヲ以テスル外所要艦艇ハ新造充實スベキ旨新ニ加フ』
- ^ #御説明参考資料(2)p.14『十 内戰部隊及補助兵力(イ)内戰部隊ニハ艦齢超過艦ヲ以テ充ツベキモノ尠カラズト雖モ特種艦艇即チ 敷設艦 掃海艇 砲艦 海防艦(スループ型)等新造充實ノ要アリ』
- ^ a b 本土方面海軍作戦10-11頁『無条約時代』
- ^ a b 補助艦艇奮戦記65-66頁『▽初期の海防艦長は古参の中佐』
- ^ 写真日本の軍艦7巻196-197頁『鈴木範樹、海防艦と御紋章』
- ^ a b 海軍護衛艦物語164-166頁『海防艦の幹部たち』
- ^ 海軍護衛艦物語162-163頁『待望の新・海防艦竣工』
- ^ 写真日本の軍艦7巻214-215頁『◇擇捉型◇』
- ^ 海軍護衛艦物語189-190頁
- ^ 写真日本の軍艦7巻215-216頁『◇御蔵型◇』
- ^ 海軍護衛艦物語146-147頁、216-217頁
- ^ 写真日本の軍艦7巻216-218頁『◇鵜来型◇』
- ^ #海軍軍備(5)コマ1(原本1-2頁)『一、經緯』
- ^ 海上護衛作戦コマ10-11(原本13-15頁)『第四章 昭和十八年一月より同十八年十月迄の經過』
- ^ a b c #叢書46海上護衛戦580頁『(1)海防艦の建造』
- ^ #海軍軍備(5)コマ13(原本19頁)『別紙 一、艦船建造(イ)緩急順序(一)海防艦 (二)魚雷艇及潜水艦 (三)哨戒艇及輸送用艦船 (ロ)竣工目途|海防艦|年度一八:二四|一九:一〇〇|二〇:一二〇|計:二四四|要求兵力:三三〇|備考:速力一六節附近ニ低下の見込』
- ^ #海軍軍備(5)コマ9-10(原本11-13頁)『(別紙)第一、艦船建造補充』
- ^ a b 補助艦艇奮戦記46-47頁『▽丙型丁型海防艦/砲艦』
- ^ #海軍軍備(5)コマ40-41(原本71-73頁)『(イ)実行計畫 昭和十九年度戰時建造艦艇、昭和二十年度戰時建造艦艇として、夫々昭和十八、十九年度に於て計畫された新規追加建造計畫艦艇次の通り』
- ^ #叢書46海上護衛戦435-436頁『樋口直海軍大尉(対潜訓練對司令部附)回想』
- ^ #叢書46海上護衛戦436-437頁『護衛艦としての旧式駆逐艦及び水雷艇』
- ^ a b #叢書46海上護衛戦437頁『小山貞海軍大佐(臨時護衛船団参謀)回想』
- ^ 海上護衛作戦コマ16(原本25-26頁)『護衛艦は昭和十八年度(自十八年四月至十九年三月)建造計畫四三隻、昭和十九年度(自十九年四月至二十年三月)建造計畫一八八隻に對するものが續々就役し昭和二十年三月迄には約一三〇隻の新海防艦が實施部隊に加つて居たが戰局に立遅れて居たので遂に敵潜水艦を壓倒することが出來ず戰況酷烈となるや敵潜水艦の外航空機、機雷の爲少なからず喪失するといふ情況であつた。』
- ^ #叢書46海上護衛戦435頁『松林元哉海軍大佐(佐渡海防艦長)回想』
- ^ 海防艦は駆逐艦や輸送艦に比べて喫水が浅いために、魚雷を回避するうえでは有利だったという証言もある(北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、10頁)。
- ^ 戦史叢書46巻(付表第六)『大東亞戦争期間中に竣工した海防艦隻数』
- ^ 写真日本の軍艦7巻223頁
- ^ a b c d 両舷直の航跡125-127頁『船団護衛と海防艦』(護国海防艦碑の碑文より)
- ^ 海上護衛作戦コマ16(原本25-26頁)『然し兎に角海防艦も増加して來たので編制を強固ならしめる必要を生じ昭和十九年七月初めて海防艦四隻を以て第一海防隊を組織し第一海上護衛隊に編入 十一月には練習巡洋艦「香椎」を旗艦とする海防艦六隻を以て第一〇一戰隊を組織し海上護衛總司令部に編入 更に十二月十日附第一海上護衛隊は第一海上護衛艦隊に昇格、海防隊、海防戰隊(一〇一、一〇二戰隊等と呼稱)の數も逐次増加して居た。』
- ^ a b 海軍護衛艦物語176-178頁『リザーブ・オフィサー、大活躍』
- ^ 海防艦戦記281-284頁『再び海を守って(昭和二十九年)』
- ^ 海防艦戦記8-10頁『海防艦ってどんな船?』
- ^ 海防艦戦記285頁
- ^ a b c #達大正12年9月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
- ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50(原本60-61頁)『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五)改正 明治三十二年十月一七八號、三十三年六月一二二號消滅軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)』『軍艦|戰艦|一等|富士 八島 敷島 朝日|/|二等|扶桑 鎭遠』
- ^ #達大正11年9月p.1『達第百六十號 特務艦類別等級別表中運送艦ノ欄内「神威」ノ次ニ「、富士」ヲ加フ 大正十一年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
- ^ #達大正11年12月p.1『達第二百十二號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年十二月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎 運送艦ノ項中「、富士」ヲ削リ測量艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |練習特務艦| |富士|』
- ^ a b #達大正12年4月(1)p.12『達第七十二號 艦艇類別等級別表中練習特務艦ノ欄内「富士」ノ次ニ「、敷島、朝日」ヲ加フ 大正十二年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ73(原本106頁)『昭和十二年八月十六日(内令四七二)特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 工作艦ノ部中「明石」ノ下ニ「、朝日」ヲ加フ 練習特務艦ノ部中「、朝日」ヲ削ル』
- ^ a b c d e f g #内令昭和19年6月pp.6-7『内令第七百三十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎/驅逐艦、一等松型ノ項中「桑」ノ下ニ「、杉、槇、樅」ヲ加フ/潜水艦、一等伊三百六十一号型ノ項中「伊號第三百七十一」ノ下ニ「、伊號第三百七十二」ヲ、同伊四百型ノ項中「、伊號第四百二」ノ下ニ「、伊號第四百四」ヲ加フ/海防艦ノ部中占守型及御藏型ノ項ヲ左ノ如ク改ム |占守型|占守、國後、八丈、石垣、擇捉、松輪、佐渡、隠岐、壹岐、對島、平戸、福江、天草、満珠、干珠、笠戸| |御藏型|御藏、三宅、淡路、能美、倉橋、屋代、千振、日振、大東、草垣、昭南| |鵜來型|鵜來、沖縄、奄美、粟國| 同第一號型ノ項中「第四十三號」ノ下ニ「、第五十一號、第六十一號」ヲ、同第二號型ノ項中「第三十四號」ノ下ニ「、第三十六號、第三十八號、第四十號、第四十二號、第四十四號、第四十六號」ヲ加フ』
- ^ a b c d e f #海軍軍備(6)特攻戦備コマ8-10(別表第一 艦艇の1944年1月以降完成量(隻數・屯籔)(1949-10-28調)
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月 。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月 。
- 海軍研究社編輯部 編『日本軍艦集 2600年版』海軍研究社、1940年7月 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月 。
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- 国防科学研究会「(七)海防艦、砲艦、敷設艦其他」『平易に説いた陸海軍の知識』二松堂書店、1934年1月 。
- 第二復員局残務處理部『海上護衛作戦(自一九四一年十二月至一九四五年八月)』1949年6月 。
- 第二復員局残務處理部『海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の四(開戦から改(5)計画発足まで』1951年6月 。
- 第二復員局残務處理部『海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の五(第二段戦備及び第三段戦備)』1951年8月 。
- 第二復員局残務處理部『海軍の軍備並びに戦備の全貌. 其の六(敗退に伴う戦備並びに特攻戦備)』1952年3月 。
- 平田潤雄、秋間保郎『戦争兵器の新智識』子供の日本社〈趣味の文化叢書 7〉、1929年3月 。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。
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- 雨倉孝之『海軍
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- 坂口大助『太平洋戦争器の海上交通保護問題の研究 日本海軍の対応を中心に』芙蓉書房出版、2011年12月。ISBN 978-4-8295-0544-1。
- 寺崎隆治ほか『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1。
- 戦史研究家横田晋『七ツ道具を完備した日本の機雷&哨戒艦艇 戦局荒天のカギとして急造された掃海、敷設、護衛、対潜艦艇たち
- 戦史研究家落合康夫、艦艇研究家正岡勝直『日本海軍補助艦艇ものしり雑学メモ 敷設特務艇、哨戒特務艇、掃海艇一覧資料収載
- 福井静夫『福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書46 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 重巡Ⅲ 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦』 第7巻、光人社、1990年2月。ISBN 4-7698-0457-1。
- 山本佐次郎「第十章 海防艦」『両舷直の航跡』成山堂書店、1994年1月。ISBN 4-425-94471-2。