「香取 (戦艦)」の版間の差分
国立国会図書館資料追加、皇太子の韓国訪問について補足 |
m cewbot: 修正ウィキ文法 69: ISBNの構文違反 |
||
146行目: | 146行目: | ||
* <!-- ハタノ1998-5 -->{{Cite book|和書|author=[[波多野勝]]|coauthors=|authorlink=|year=1998|month=5|title=裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記|chapter=|publisher=草思社|ISBN=4-7942-0821-9|ref=皇太子外遊記}} |
* <!-- ハタノ1998-5 -->{{Cite book|和書|author=[[波多野勝]]|coauthors=|authorlink=|year=1998|month=5|title=裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記|chapter=|publisher=草思社|ISBN=4-7942-0821-9|ref=皇太子外遊記}} |
||
* <!-- ハラ2000-11 -->{{Cite book|和書|author=[[原武史]]|coauthors=|authorlink=|year=2000|month=3|title=大正天皇 {{small|朝日選書663}}|chapter=|publisher=朝日新聞社|ISBN=4-02-259763-1|ref=大正天皇(原、2000)}} |
* <!-- ハラ2000-11 -->{{Cite book|和書|author=[[原武史]]|coauthors=|authorlink=|year=2000|month=3|title=大正天皇 {{small|朝日選書663}}|chapter=|publisher=朝日新聞社|ISBN=4-02-259763-1|ref=大正天皇(原、2000)}} |
||
*福井静夫『日本戦艦物語(I) 福井静夫著作集第一巻』光人社 |
*福井静夫『日本戦艦物語(I) 福井静夫著作集第一巻』光人社 ISBN 4-7698-0607-8 |
||
* <!-- メグミ2009-9 -->{{Cite book|和書|author=[[恵隆之介]]|coauthors=|authorlink=|year=2009|month=9|title=昭和天皇の艦長 {{small|沖縄出身提督漢那憲和の生涯}}|chapter=|publisher=産経新聞出版|ISBN=978-4-8191-1069-3|ref=昭和天皇の艦長}} |
* <!-- メグミ2009-9 -->{{Cite book|和書|author=[[恵隆之介]]|coauthors=|authorlink=|year=2009|month=9|title=昭和天皇の艦長 {{small|沖縄出身提督漢那憲和の生涯}}|chapter=|publisher=産経新聞出版|ISBN=978-4-8191-1069-3|ref=昭和天皇の艦長}} |
||
*『[[官報]]』 |
*『[[官報]]』 |
2016年11月15日 (火) 19:50時点における版
艦歴 | |
---|---|
起工 | 1904年4月27日 |
進水 | 1905年7月4日 |
竣工 | 1906年5月20日 |
除籍 | 1923年9月20日 |
その後 | 1924年11月解体 |
性能諸元 | |
排水量 | 15,950トン(常備) |
全長 | 139m |
幅 | 23.8m |
吃水 | 8.2m (平均) |
機関 | 缶20基,蒸気レシプロ機関2基,2軸 |
最大速 | 18.5ノット (34.26km/h) |
航続距離 | 10ノットで10,000浬 |
兵員 | 864名 |
兵装 | 30.5cm45口径連装砲2基 25.4cm45口径単装砲4基 15.2cm45口径単装砲12基 7.6cm40口径単装砲16基 47mm単装砲3基 45cm水中魚雷発射管5門 |
香取(かとり)は大日本帝国海軍の戦艦[1]。 艦名は香取神宮(千葉県香取市)に由来する[2]。 艦名は香取型練習巡洋艦1番艦「香取」[3]、海上自衛隊の練習艦「かとり」に引き継がれた。本艦は皇太子時代の大正天皇・昭和天皇の御召艦として、たびたび用いられた。
艦歴
日露戦争に備えてイギリス・ヴィッカースへ発注し建造された戦艦であるが、日本海海戦の勝利により早期に戦争が終結し、就役は戦後の1906年(明治39年)のこととなった。戦艦鹿島も同形だが、工事期間が短く、また費用を圧縮するため細部は造船所に一任したため多少の違いが見られる[4]。ただし、一般的に2隻(香取、鹿島)は姉妹艦として扱われる[4][2][5]。
1904年(明治37年)2月13日、日本海軍はイギリスで建造の第一号甲鉄艦を香取、第二号甲鉄艦を鹿島と呼称することを内定[6]。 4月27日、「香取」は起工[2]。 1905年(明治38年)4月27日、進水[2]。7月4日、制式に「香取」と命名される[7][1]。 1906年(明治39年)5月20日、竣工[2]。 5月28日、2隻(香取、鹿島)は戦艦に類別される[8][9]。8月15日、「香取」は日本に到着[2][10]。 8月29日、当時5歳の裕仁親王(昭和天皇)は秩父宮雍仁親王と共に横須賀に到着[11]。横須賀鎮守府司令長官上村彦之丞中将の案内で「香取」を見学した[11]。
1907年(明治40年)10月、韓国総監伊藤博文の要請により明治天皇皇太子(嘉仁親王。のち大正天皇)は大韓帝国を巡啓することになった[12][13]。 10月12日、皇太子は宇品(広島県)で御召艦「香取」に乗艦して宿泊[14][15]。 翌13日、艦隊(香取《皇太子御召艦》、鹿島、常磐、出雲、浅間、磐手)は宇品を出港[16][14]。 10月16日、仁川港(朝鮮半島)で皇太子は上陸した(香取を退艦)[14][17][18]。 李垠(大韓帝国皇太子)との対面を終えた嘉仁親王(皇太子)は10月20日、仁川で再び「香取」に乗艦[14][19]。鎮海港へ移動した[14][20]。 10月22日、「香取」(御召艦)は対馬に寄港、皇太子は竹敷要港部を見学する[13][21][20]。 10月23日、佐世保に寄港(上陸)[21][22][20]。 10月24日、佐世保海軍工廠が初めて建造した巡洋艦「利根」進水式に臨席する[23][24]。 同日、艦隊(香取、薩摩)は佐世保から長崎に移動[25]。 翌25日には鹿児島へ移動[26]。皇太子は引続き、東郷平八郎元帥等と共に「香取」で九州・四国太平洋沿岸各地を訪問する[21][22]。なお皇太子韓国訪問に同伴していた有栖川宮威仁親王は、日本で「香取」を退艦、10月30日に帰京した[27]。 11月14日朝、「香取」は横浜港に到着[21][28]。皇太子は35日ぶりに東京に戻った[21]。
1911年(明治44年)8月、明治天皇皇太子(大正天皇)は北海道を行啓することになった[29]。8月19日、青森港で皇太子は御召艦「香取」に乗艦(供奉艦「音羽」)、本艦で宿泊する[30][31]。 8月20日午前9時30分、函館港で皇太子は「香取」を下艦[32]。以後北海道各地を巡啓する[29][30]。 9月12日午後5時、室蘭で皇太子は「香取」に乗艦[30][33]。 9月14日、2隻(香取、音羽)は横須賀港に到着[34][35]。皇太子は東京に戻り、「香取」は御召艦任務を終えた[29][35]。
1913年(大正2年)11月10日、東京湾で観艦式が行われ、「香取」は大正天皇の御召艦となる[36][37]。観艦式は無事に終了した[38]。
1917年(大正6年)7月、大正天皇皇太子(裕仁親王、のちの昭和天皇)は山陰沿岸を行啓することになり[39]、7月4日に敦賀湾で「香取」(艦長桑島省三大佐)に乗艦、供奉艦は戦艦「安芸」(艦長中川繁丑大佐)[40][41]。 7月5日午前6時、敦賀湾を出港し、午後5時50分に美保湾(鳥取県)到着[42][43]。 7月6日、皇太子は境波止場より上陸、出雲大社を参拝した[44][45]。 松江城等を訪問後、宍道湖中海を経て午後6時20分に「香取」へ帰艦[44][45]。同日は美保湾の本艦に宿泊する[44]。 7月7日午前6時15分、皇太子は境波止場より上陸、名和神社を訪問し、10時15分に「香取」へ帰還[46][45]。艦隊(香取、安芸)は直ちに出港し、午後1時30分に隠岐島前別府湾に到着[46]。皇太子は上陸して後鳥羽天皇火葬塚(隠岐神社)を参拝する[46][45]。一旦「香取」に戻ったあと、西ノ島に上陸して後醍醐天皇黒木御所址を訪問し、「香取」に戻った[46][45]。午後4時30分、2隻(香取、安芸)は出港して関門海峡へ向かう[46][45]。 7月8日、2隻(香取、安芸)は関門海峡を通過して瀬戸内海に入り、広島県早瀬瀬戸で仮泊する[47][48]。 7月9日、皇太子は「香取」から水雷艇に移乗、呉軍港に上陸して各地を見学(亀ヶ首射撃場では16インチ砲、12インチ砲の発射を見学)[49][50]。午後4時25分、「香取」に戻った[49][50]。この日の2隻(香取、安芸)は小部湾(愛媛県今治市)に停泊する[49][50]。 7月10日午後2時20分、2隻(香取、安芸)は小豆島内海湾に到着して仮泊[51][50]。 7月11日午前7時、2隻(香取、安芸)は小豆島を出発[52][53]。午後1時、「香取」より神戸港に上陸して川崎造船所を訪問、建造中の伊勢型戦艦1番艦「伊勢」を見学した(川崎造船所副社長川崎芳太郎、海軍中佐石井祥吉説明)[52][53]。三菱神戸造船所を見学後の午後2時35分、皇太子は「香取」に帰還した[52][53]。 7月12日午前7時25分、皇太子は「香取」を退艦して神戸港に上陸[54][55]。お召し列車で東京に戻った(7月12日は静岡御用邸泊。7月13日、東京到着)[54][55]。
1920年(大正9年)3月下旬、大正天皇皇太子(のちの昭和天皇)が四国・九州地方を巡啓することになり、3月24日に神戸港で御召艦「香取」(艦長南郷次郎大佐)に乗艦する[56][57]。先導艦を戦艦「安芸」(艦長石川秀三郎大佐)、供奉艦を戦艦「薩摩」(艦長森本義寛大佐)他が務めた[56]。 3月25日午後4時20分、鹿児島港到着[56][58]。 3月26日午前8時、皇太子は「香取」を離れ鹿児島に上陸[59][60]。照国神社等を訪問し、午後5時15分に「香取」へ戻った[59][60]。 3月27日午前6時45分、皇太子は鹿児島に上陸[60][61]。鉄道で宮崎県へ移動し、狭野神社等を巡啓した[60][61]。 28日、皇太子は宮崎神宮等を参拝・行啓[62]。29日、鵜戸神宮等を参拝・行啓[63]。 3月30日、皇太子は宮崎県から鹿児島県へ移動、高屋山上陵・可愛山陵・新田神社等を参拝[64][65]。夕刻、「香取」に乗艦し鹿児島を離れた[64][65]。 3月31日午前11時40分、「香取」は三角港(熊本県)に到着[66][65]。皇太子は熊本市各地を行啓した[66][65]。午後7時20分、「香取」に帰艦する[66][65]。 4月1日、皇太子は上陸して熊本城・水前寺成趣園・阿蘇神社等を行啓・参拝[67][68]。午後6時30分、「香取」に戻る[67][68]。午後9時、香取以下艦隊は長崎に向け出港した[67][68]。 4月2日午前7時、「香取」及び供奉艦(安芸、薩摩、海風、山風、榎)は長崎港に入港[69][70][71]。 長崎市各所行啓後の同日午後、皇太子と東郷平八郎元帥は三菱長崎造船所に移動して建造中の峯風型駆逐艦6番艦「矢風」、加賀型戦艦2番艦「土佐」、球磨型軽巡洋艦2番艦「多摩」を見学し、「香取」に戻った[72][71]。 4月3日午前11時、「香取」は佐世保軍港に到着、皇太子は佐世保鎮守府・佐世保海軍工廠等を見学した[73][71]。 4月4日午前7時20分、皇太子は「香取」を退艦[74][71]。佐世保に上陸後、鉄道へ佐賀県および福岡県へ移動し[71][74][75]、大宰府神社・観世音寺等を参拝・行啓[76][77]。 4月7日、皇太子は東公園・筥崎宮・香椎宮等を参拝・行啓[78][77]。午後4時40分、駆逐艦「榎」(皇太子御召駆逐艦)は門司港を出発[78]。午後5時30分、部崎泊地で皇太子は「香取」に帰艦した[78][77]。午後7時、「香取」以下艦隊は出港、帰途につく[77]。 4月8日午後5時30分、艦隊は神戸港に到着[79][80]。 4月9日午前7時30分、皇太子は「香取」を退艦して上陸[81]。鉄道で東京に戻った[81][82]。
1921年(大正10年)には大正天皇皇太子(後の昭和天皇)渡欧に際し戦艦2隻(香取《艦長漢那憲和大佐、海兵27期。沖縄出身》、鹿島《艦長小山武大佐、海兵26期》)は遣欧艦隊を編成し、皇太子は「香取」を御召艦とする[83][2]。「鹿島」(随艦)は旗艦を務めた(第三艦隊司令長官小栗孝三郎中将、参謀長田口久盛少将座乗)[5]。この際イギリスに対する好誼の表現として国産主力艦によらず、わざわざイギリス製の戦艦を使用したのである。また日本海軍は「筑波」(1917年1月14日)、「河内」(1918年7月12日)を火薬庫爆発事故で喪失しており、皇太子訪欧に際し問題になった[84]。そこで呉火薬試験所に模擬火薬庫を設置、異常発生の徴候がみられた時は2隻(香取、鹿島)の火薬を海中投棄することになった[84]。
3月3日、2隻(香取《御召艦》、鹿島《随艦》)は連合艦隊各艦(長門、扶桑)等に見送られて横浜を出発[85][86][87]。 コロンボ出発後の4月2日、「鹿島」の機関部でパイプが破裂、死者3名を出す[85][88]。4月7日には「香取」でも機関部事故が起こり死者2名・負傷者2名を出した[89][90]。4月16日、スエズ運河通過中に「鹿島」が座礁、「香取」と衝突しかけている[91]。 ジブラルタル海峡を通過して、2隻(香取、鹿島)は5月7日にスピットヘッド(ポーツマス軍港沖投錨地)へ到着[85]。クイーン・エリザベス級戦艦1番艦「クイーン・エリザベス」(大西洋艦隊旗艦)は21発の皇礼砲で2隻を出迎えた[92][93]。5月9日、ポーツマス軍港で皇太子は「香取」を降りる[94][95]。 5月30日、皇太子はポーツマスで「香取」に乗艦、第三艦隊(香取、鹿島)はイギリスを離れ、ル・アーブル(フランス)に移動した[96]。
7月18日、2隻(香取、鹿島)はナポリ(イタリア)を出港、帰路に就いた[97][98]。8月1日、ソコトラ島近海で大阪商船の「シャム号」が座礁し、手違いにより「鹿島」がシャム号救援に向かうことになった[99][100]。 8月21日、カムラン湾で巡洋艦「新高」と給炭艦「室戸」(侍従甘露寺受長乗艦)の出迎えを受ける[101][102]。8月28日には台湾海峡通過中に巡洋艦「利根」[103]、8月31日には栃内曽次郎連合艦隊司令長官指揮下の主力艦隊が奉迎[104]、9月2日に扶桑型戦艦2番艦「山城」(奉迎艦)が出迎える中で館山市(千葉県)入港[105][106]。9月3日、2隻(香取、鹿島)は横浜港に到着、皇太子は「香取」を退艦した[107][108]。
1923年(大正12年)9月20日、ワシントン海軍軍縮条約により除籍[5][109]。艦艇類別等級表からも削除[110][111]。解体された。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 回航委員長
- 坂本一 大佐:1905年12月12日 - 1906年1月15日
- 艦長
- 坂本一 大佐:1906年1月15日 - 11月22日
- 井手麟六 大佐:1906年11月22日 - 1908年5月15日
- 大城源三郎 大佐:1908年5月15日 - 1909年3月4日
- 真野巌次郎 大佐:1909年3月4日 - 1910年12月1日
- 秀島七三郎 大佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
- 小栗孝三郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日
- 小笠原長生 大佐:1912年12月1日 - 1913年2月12日
- 千坂智次郎 大佐:1913年2月12日 - 4月1日
- 岩村団次郎 大佐:1913年5月24日 - 12月1日
- 近藤常松 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
- 下村延太郎 大佐:1914年12月1日 - 1915年3月17日
- 堀輝房 大佐:1915年6月30日 - 12月13日
- (兼)久保来復 大佐:1915年12月13日 - 12月23日
- 吉田増次郎 大佐:1916年2月12日 - 12月1日
- 桑島省三 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 山梨勝之進 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月1日
- 大見丙子郎 大佐:1918年11月1日 - 11月25日
- 宇佐川知義 大佐:1919年2月6日 - 8月5日
- 南郷次郎 大佐:1919年8月5日 - 1920年10月5日
- 漢那憲和 大佐:1920年10月5日 - 1921年12月1日
- 横地錠二 大佐:1921年12月1日 - 1922年1月26日
- (兼)有田秀道 大佐:不詳 - 1922年3月15日[112]
- 森脇栄枝 大佐:1922年3月15日[112] -
参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第一 自明治三十四年至大正二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 9784487744015。
- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4487-74402-2。
- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 9784487744039。
- 波多野勝『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』草思社、1998年5月。ISBN 4-7942-0821-9。
- 原武史『大正天皇 朝日選書663』朝日新聞社、2000年3月。ISBN 4-02-259763-1。
- 福井静夫『日本戦艦物語(I) 福井静夫著作集第一巻』光人社 ISBN 4-7698-0607-8
- 恵隆之介『昭和天皇の艦長 沖縄出身提督漢那憲和の生涯』産経新聞出版、2009年9月。ISBN 978-4-8191-1069-3。
- 『官報』
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』海軍大臣官房、1939年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』海軍大臣官房、1940年。
- 河村貞編「初瀬、吉野の二艦沈没」『日露戦争大本営公報集 info:ndljp/pid/774421』立誠堂、1906年1月。
- 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第3輯 info:ndljp/pid/1447108』財団有終會、1928年1月。
- 山本政雄「軍艦爆沈事故と海軍当局の対応 : 査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察」防衛省/戦史研究年報.(9)(国立国会図書館)
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『明治38年 達 完/7月』。Ref.C12070053100。
- 『明治39年 達完/5月』。Ref.C12070054300。
- 『大正12年 達完/9月』。Ref.C12070082500。
脚注
- ^ a b #達明治38年3月(3)p.2『達第九十一號 英國毘社ニ於テ製造ノ第一號甲鐡戰艦ヲ
香 取 ト命名セラル 明治三十八年七月四日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』 - ^ a b c d e f g #幕末以降帝国軍艦写真と史実第89コマ(原本141頁)『香取(かとり) 艦種戰艦 二檣(信號用)鹿島と姉妹艦なり。
艦名考神社名なり、下總國香取町に鎮座する香取神宮に採る、此神宮の祭神は經 津 主命 なり、經津主命は武甕槌命と共に勅命を拝し國土を平定して大業を輔翼し、其の功勲赫灼たり、乃ち神武天皇の御宇、經津主命を香取に、武甕槌命を常陸の鹿島に鎮祭し、各神宮を創立せられたりと傳ふ。されば此二神は世々軍神と仰ぎ尊ばれて上下の崇敬頗る篤し。
艦歴明治39年5月20日英國にて竣工、同8月15日本邦到着。大正3年乃至9年戰役に從軍:同3年10月「サイパン」及び「マリアナ」群島占領竝警戒に任ず(艦長大佐山梨勝之進)、同7年1月第三艦隊に属し露領沿岸警備に從事(艦長同前)、同10年東宮殿下御渡欧の節御召艦たり。同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍制限條約による)。
―要目― 長420呎/幅78呎/吃水27呎/排水量15,950噸/機關 直立三聯成汽機2臺 ニクロース罐/馬力16,000/速力18.5/乗組人員864/船材 鋼/兵装 12吋砲4/10吋砲4/6吋砲12/14听砲16/其他輕砲7/發射管5/起工 明治37-4-27/進水 同38-7-4/竣工 同39-5-20/建造所 英國毘社』 - ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ204番『◎練習巡洋艦香取鹿島、驅逐艦早潮及敷設艇巨濟命名ノ件 昭和十四年三月三十一日(達四八)』
- ^ a b #昭和天皇実録三巻33-34頁『第三艦隊旗艦鹿島と御召艦香取の来歴』
- ^ a b c #幕末以降帝国軍艦写真と史実第90コマ(原本142頁)『鹿島(かしま) 艦種戰艦 二檣(信號用)香取と姉妹艦 艦名考神社名なり、常陸國鹿島町に鎮座する鹿島神宮に採る、此神宮の祭神は武神
武 甕 槌命 なり。其の由緒は軍艦香取の項に在り。
艦歴明治39年5月23日英國「アームストロング」社に於て竣工、同年8月4日本邦到着。大正3年乃至9年戰役に從軍:同7年1月第三艦隊に属し露領沿岸警備に從事(艦長大佐田口久盛)、同10年東宮殿下御渡欧の節供奉艦たり(第三艦隊司令長官海軍中将小栗孝三郎坐乗)、同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍制限條約による)。
―要目― 長470呎/幅78.25呎/吃水26.75呎/排水量16,400噸/機關 四汽筩直立四聯成汽機2臺 ニクロース式/馬力15,600/速力18.5/乗組人員864/船材 鋼(甲帶9吋)/兵装 12吋砲4/10吋砲4/6吋砲12/14听砲16/其他輕砲7/發射管5/起工 明治37-2-29/進水 同38-3-22/竣工 同39-5-23/建造所 英國エルスウィック社』 - ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199番『◎甲鐡戰艦香取及鹿島目名ノ件 明治三十七年二月十三日(内令九五)英國ニ於テ製造ノ甲鐡戰艦二隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行迄部内限限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|英國毘社ニ於テ製造 第一號甲鐡戰艦
香 取 |英國安社ニ於テ製造 第二甲鐡戰艦鹿 島 』 - ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199番『◎戰艦香取命名ノ件 明治三十八七月四日(達九一)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ54番『明治三十九年五月二十八日(達七五)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄「周防」ノ次ニ「香取、鹿島」ヲ加フ』
- ^ #達明治39年5月p.7『達第七十五號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄「周防」ノ次ニ「香取、鹿島」ヲ加フ 明治三十九年五月二十八日 海軍大臣斎藤實』
- ^ 明治39年8月17日官報第6941号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○軍艦發箸 各港ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ〔海軍省〕香取 八一五 横須賀』
- ^ a b #昭和天皇実録一巻168-169頁『(明治三十九年八月)二十九日水曜日(軍艦香取に御乗艦)午前七時五十分、雍仁親王と共に御出門になり、逗子停車場より列車にて横須賀にお成りになる。横須賀停車場において横須賀鎮守府司令長官上村彦之丞、横須賀海軍工廠長伊東義五郎・同夫人等の奉迎をお受けになる。ついで逸見波止場より小蒸気船に召され、軍艦香取に御乗艦になる。香取艦長坂本一の奉迎をお受けになる。それより上村長官・坂本艦長の案内にて艦内を御巡覧になり、司令塔より探照灯を、上甲板にては軍艦扶桑との手旗信号などを御覧になる。小蒸気船に移られ、軍艦厳島の周囲を巡られ、ついでドック及び工場を御見学になり、再び小蒸気船にて横須賀軍港内を御覧になる。十一時二十分横須賀停車場を御発射になり、御帰邸になる(以下略)』
- ^ #大正天皇(原、2000)120-121頁『伊藤博文の要請』
- ^ a b #大正天皇(原、2000)123頁『1907年(明治40年)韓国行啓』
- ^ a b c d e #大正天皇(原、2000)125-126頁『韓国上陸』
- ^ 明治40年10月14日官報第7289号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御發艦 皇太子陛下ハ御豫定ノ如ク一昨十二日午前八時三十分舞子停車場御發車午後四時二十五分宇品停車場御箸車同五時五十五分軍艦香取ニ御乗艦同夜御假泊昨十三日午前六時三十分宇品港御發艦アラセラレタリ』
- ^ 明治40年10月15日官報第7290号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○軍艦發箸 各港灣ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ〔海軍省〕(艦名)香取 鹿島 常磐 出雲 淺間 磐手} (月日)一〇、一三 (發)宇品(行先)仁川』
- ^ 明治40年10月18日官報第7292号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○東宮韓國京城御安箸 皇太子陛下ハ本月十三日午前六時三十分宇品港御發艦一昨十六日午前十一時四十分仁川御箸艦午後一時四十五分御上陸同二時三十分仁川停車場御發車同三時四十分南大門停車場御箸車同四時五分御旅館総監艦艇ヘ御安箸アラセラレタリ』
- ^ 明治40年10月19日官報第7293号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○軍艦發箸 各港湾ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ〔海軍省〕(艦名)香取 鹿島 出雲 磐手 常磐 淺間} (月日)一〇、一六 (箸)仁川』
- ^ 明治40年10月22日官報第7295号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○皇后宮行啓 皇后陛下ハ御豫定ノ如ク昨二十一日横須賀軍港ニ於テ軍艦鞍馬進水式擧行ニ付キ午前十一時三十分御出門正午十二時新橋停車場御發車同港ヘ行啓午後五時五十五分新橋停車場御箸車御箸車同六時二十分還御アラセラレタリ(略)○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨二十日午前十時二十分京城御發車同十一時三十分仁川港御箸車午後一時同港御發艦アラセラレタリ(以下略)』
- ^ a b c 明治40年10月24日官報第7297号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨二十二日朝鎮海灣御寄港午前十時同所御發午後二時十五分竹敷港御箸艦御上陸同六時同港御發艦昨二十三日午前七時四十五分佐世保軍港ヘ御箸艦アラセラレタリ』
- ^ a b c d e #大正天皇(原、2000)132-134頁『南九州高地行啓』
- ^ a b #大正天皇(原、2000)133頁『1907年(明治40)南九州高地巡啓/1908年(明治41)山口徳島巡啓』
- ^ 明治40年10月25日官報第7298号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮臨御 皇太子殿下ハ昨二十四日佐世保軍港ニ於ケル軍艦利根進水式ニ臨マセラレタリ』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ238(原本84頁)『一、佐世保にて初めて巡洋艦を起工す―明治三十八年(一九〇五)巡洋艦「利根」起工』
- ^ 明治40年10月26日官報第7229号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ一昨二十四日午後二時佐世保軍港御發艦午後五時長崎港御箸艦アラセラレタリ』
- ^ 明治40年10月28日官報第7230号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮行啓竝御安箸 皇太子殿下ハ本月二十五日午前九時三十分長崎港御上陸目下開設ノ關西九州府縣聯合水産共進會ヘ行啓午後二時五分御歸關同四時同港御發艦一昨二十六日午前十時鹿兒島灣御箸關午後一時三十分御上陸同二時十分鹿兒島御旅館公爵島津忠重別邸ヘ御安箸アラセラレタリ』
- ^ 明治40年10月31日官報第7303号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨二十九日鹿兒島御旅館御發艦午後四時二十五分御乗艦御假泊昨三十日午前六時鹿兒島灣御發艦アラセラレタリ|○皇族發箸 皇太子殿下ニ御同伴韓國ヘ御渡航ノ威仁親王殿下ハ昨三十日御歸京アラセラレタリ』
- ^ 明治40年11月15日官報第7316号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮還御竝御奉送 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨十四日午前七時四十五分横濱港御箸艦御上陸同十時横濱停車場御發車同十時三十五分新橋停車場御箸車同所ヨリ直ニ上野停車場ヘ行啓茨城縣下行幸御發輦御奉送アラセラレ午後零時二十分還御アラセラレタリ』
- ^ a b c #大正天皇(原、2000)169頁『1911年(明治44)北海道行啓』
- ^ a b c #大正天皇(原、2000)170-171頁『行啓の日程』
- ^ 明治44年8月21日官報第8450号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月十八日午前六時四十分御出門同七時三十分上野停車場御發車午後四時四十分仙臺停車場御箸車同四時五十五分御旅館仙臺偕行社ヘ御安箸アラセラレタリ|○東宮御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十九日午前七時十五分御旅館仙臺偕行社御出門同七時四十分仙臺停車場御發車午後五時四十分青森停車場御箸車續テ御乗艦軍艦香取アラセラレタリ』
- ^ 明治44年8月22日官報第8451号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月十九日午後十一時青森灣御發艦一昨二十日午前九時三十分函館港御箸艦御上陸同十一時十五分函館御旅館函館公會堂ヘ御安箸アラセラレタリ(以下略)』
- ^ 明治44年9月14日官報第8471号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○東宮行啓竝御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十二日午前七時三十分御旅館飯田信三別邸御出門鵡河ニ於テ御小憩同十時十分鵡河御發車輕便鉄道正午十二時苫小牧御箸車王子製紙株式會社苫小牧工場ヘ行啓午後二時五十分苫小牧停車場御發車同四時四十七分室蘭停車場御箸車同五時五分御乗艦軍艦香取アラセラレタリ』
- ^ 明治44年9月16日官報第8473号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9『○軍艦發箸 各港灣ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ〔海軍省〕 (艦名)香取 音羽} (月日)九、一四 (箸)横須賀』
- ^ a b 明治44年9月15日官報第8472号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮還御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月十二日午後六時十五分室蘭御發艦昨十四日午後一時五十分横須賀軍港御箸艦御上陸同三時横須賀停車場御發車同四時四十分新橋停車場御箸車同五時還御アラセラレタリ』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第239コマ(原本86頁)『大正二-一一-一〇|横須賀軍港恒例観艦式|軍艦香取』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第239コマ(原本87頁)『大正二-一一-一〇|横須賀沖|恒例観艦式|香取|五七(隻數)|三五三,九六五(噸數)|飛行機四(同航空機)』
- ^ 大正2年11月11日官報第386号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨十日午前六時四十五分御出門同七時十分新橋停車場御發車同八時五十五分横須賀停車場御箸車横須賀軍港ニ於テ軍艦香取ニ乗艦東京灣ニ於ケル大正二年恒例観艦式御親閲終テ午後三時十五分横須賀停車場御發車同五時新橋停車場御箸車同五時二十分還幸アラセラレタリ』
- ^ #昭和天皇実録二巻304頁(山陰沿岸行啓/静岡御用邸御着)
- ^ #昭和天皇実録二巻304-305頁『御召艦香取に乗艦』
- ^ 大正6年7月6日官報第1479号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○東宮御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨四日午前八時二十分静岡御用邸御出門同八時三十分静岡停車場御發車午後四時三十五分金ヶ崎停車場御箸車同四時五十分軍艦香取ニ御乗艦アラセラレタリ』
- ^ #昭和天皇実録二巻305頁(敦賀湾御出港/美保湾御着)
- ^ 大正6年7月7日官報第1480号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如一昨日五日午前六時敦賀港御發艦午後五時五十分美保灣ニ御箸艦アラセラレタリ』
- ^ a b c #昭和天皇実録二巻305-306頁(境より御上陸/出雲大社参拝/松江城/歩兵第六十三聯隊)
- ^ a b c d e f 大正6年7月9日官報第1481号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御参拝 皇太子殿下ハ本月六日午前八時十五分境御上陸同八時三十分境停車場御發車同従事五十五分大社停車場御箸車出雲大社御参拝午後零時三十分大社停車場御發車同一時三十分松江停車場御箸車松江市舊城天守閣、興雲閣、歩兵第六十三聯隊ヘ御立寄ノ上同六時二十五分御歸艦アラセラレタリ|○東宮御發艦 皇太子殿下ハ一昨七日午前六時十五分境御上陸同六時三十分境停車場御發車同七時四十分御來屋停車場御箸車 後醍醐天皇御上陸地點御覽明和神社ニ御立寄同八時三十五分名和停車場御發車同九時四十分境停車場御箸車同十時十五分御歸艦アラセラレ同十一時美保灣御發艦午後二時隠岐別府灣御箸艦海士村御上陸 後鳥羽院天皇火葬塚御拝、同行在所跡及 後醍醐天皇黒木御所跡御覽ノ上御歸艦同四時三十分別府灣御發艦アラセラレタリ』
- ^ a b c d e #昭和天皇実録二巻307-308頁(名和神社/美保湾を御出港/隠岐島御着/後鳥羽天皇火葬塚/黒木御所址/隠岐御出港)
- ^ #昭和天皇実録二巻308-309頁(関門海峡御通過/早瀬瀬戸口に御仮泊)
- ^ 大正6年7月10日官報第1482号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨八日午後六時廣島縣下倉橋島附近ニ御箸艦アラセラレタリ』
- ^ a b c #昭和天皇実録二巻309-310頁(呉軍港に御上陸/呉鎮守府/亀ヶ首大砲試射場/小部湾御着)
- ^ a b c d 大正6年7月11日官報第1483号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ一昨九日午前九時十分呉軍港御上陸呉海軍工廠御巡覽畢テ射撃御覽ノ上御歸艦午後四時二十五分廣島縣下倉橋島附近御發艦同六時二十分愛媛縣下小部灣ニ御箸艦アラセラレ又御豫定ノ如ク昨十日午前六時愛媛縣下小部灣御發艦午後二時二十分香川縣下小豆島附近ニ御發艦アラセラレタリ』
- ^ #昭和天皇実録二巻310-311頁(小部湾御出港/小豆島内海湾に御着)
- ^ a b c #昭和天皇実録二巻311頁(内海湾御出港/神戸御入港/川崎造船所/三菱神戸造船所)
- ^ a b c 大正6年7月13日官報第1485号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十一日午前七時小豆島附近御發艦午後零時十分神戸港御箸艦川崎造船所、三菱合資會社神戸造船所御覽同二時三十五分御歸艦アラセラレタリ』
- ^ a b #昭和天皇実録二巻311-312頁(神戸御上陸/静岡御用邸御着/還啓)
- ^ a b 大正6年7月14日官報第1486号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○東宮御安艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十二日午前七時四十五分神戸御上陸同八時神戸停車場御發車午後五時四十分静岡停車場御箸車同五時五十分静岡御用邸ヘ御安箸アラセラレタリ|○東宮還御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨十三日午前九時十分静岡御用邸御出門同九時二十分静岡停車場御發車午後二時十分東京停車場御箸車同二時三十五分還御アラセラレタリ』
- ^ a b c #昭和天皇実録二巻552-553頁(神戸港御出発/鹿児島港御箸)
- ^ 大正9年3月26日官報第2292号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ一昨二十四日午前六時四十分二條離宮御出門同七時京都驛御發車同八時五十五分神戸驛御箸車御乗艦同十一時神戸港御發艦アラセラレタリ』
- ^ 大正9年3月27日官報第2293号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○東宮御入港 皇太子殿下ハ一昨二十五日午後四時二十分鹿兒島港ニ御入港アラセラレタリ』
- ^ a b #昭和天皇実録二巻553-555頁(鹿児島県庁/島津侯爵別邸/城山/七高造士館/照國神社/伊敷練兵場/高等農林学校/)
- ^ a b c d 大正9年3月29日官報第2294号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『◎東宮行啓 皇太子殿下ハ本月二十六日午前八時御上陸鹿兒島縣廰竝ニ公爵島津忠重別邸ヘ行啓城山御登臨第七高等學校造士館ヘ行啓鹿兒島縣立物産陳列場及照國神社ヘ御立寄歩兵第三十六旅團司令部及歩兵第四十五聯隊、鹿兒島高等農林學校ヘ行啓午後五時二十五分御歸艦アラセラレタリ|◎東宮御安箸 皇太子殿下ハ一昨二十七日午前六時四十五分鹿兒島御上陸同六時五十五分鹿兒島驛御發車同九時五十五分高原驛御箸車狭野神社ヘ御立寄同十一時二十五分高原驛御發車正午都城驛御箸車小松原公園ヘ御立寄ノ上歩兵第六十四聯隊ヘ行啓午後三時五分都城驛御發車同四時二十五分宮崎驛御箸車同四時四十分御泊所ヘ御安箸アラセラレタリ』
- ^ a b #昭和天皇実録二巻555-556頁(狭野神社/都城町/歩兵第六十四聯隊/宮崎町御箸)
- ^ 大正9年3月30日官報第2295号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ14『◎東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨二十八日午前九時御泊所紫明館御出門宮崎縣廰竝ニ宮崎縣立物産陳列場ヘ行啓、還御ノ上更ニ午後一時御出門官幣大社宮崎神宮御参拝徴古館竝ニ教育品展覽會(宮崎中學校)ヘ行啓同四時十五分還御アラセラレタリ』
- ^ 大正9年3月31日官報第2296号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ16『◎東宮御参拝 皇太子殿下ハ一昨二十九日午前九時三十分御泊所紫明館御出門青島ヘ御立寄次テ内海港御出港鵜戸崎御入港官幣大社鵜戸神宮御参拝ノ上鵜戸崎御出港内海港御入港午後六時十五分還御アラセラレタリ』
- ^ a b #昭和天皇実録二巻558-559頁(高屋山上陵/可愛山陵/市来より香取に御乗艦)
- ^ a b c d e 大正9年4月2日官報第2298号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ12『◎東宮御出港 皇太子殿下ハ去月三十日午前六時四十分御泊所紫明館御出門同六時五十五分宮崎驛御發車同十一時嘉例川驛御箸車高屋山上陵御参拝午後零時五十五分嘉例川驛御發車同三時二十五分川内町驛御箸車愛山陵竝ニ国幣中社新田神社御参拝同五時川内町驛御發車同五時三十五分西市來驛御箸車御乗艦同八時四十五分三角ヘ向ケ御出港アラセラレタリ|◎東宮御入港竝行啓 皇太子殿下ハ去月三十一日午前十一時四十分三角港御入港午後零時四十五分三角驛御發車同一時四十五分熊本驛御箸車熊本縣廰第二師範學校ヘ行啓同五時四十分熊本驛御發車同六時四十五分三角駅御箸車同七時二十五分御歸艦アラセラレタリ』
- ^ a b c #昭和天皇実録二巻559-561頁(三角港御上陸/熊本県庁/物産館/第五高等学校/高等工業学校/第二師範学校)
- ^ a b c #昭和天皇実録二巻561-562頁(第六師団司令部/熊本城/渡鹿練兵場/水前寺成趣/阿蘇神社)
- ^ a b c 大正9年4月5日官報第2299号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『◎東宮御出港 皇太子殿下ハ本月一日午前六時五十五分御上陸同七時五分三角驛御發車同八時五分熊本驛御箸車第六師團司令部ヘ行啓渡鹿練兵場ニ於テ演習御覽ノ上水前寺ヘ御立寄同十一時三十五分水前寺驛御發車午後一時四十五分宮地驛御箸車官幣大社阿蘇神社御参拝同二時五十分宮地驛御發車同六時三角驛御箸車同六時三十分御歸艦同九時長崎ヘ向ケ御出港アラセラレタリ』
- ^ #昭和天皇実録二巻562-563頁(長崎御入港/長崎県庁/諏訪神社/長崎図書館/商品陳列所/長崎重砲兵大隊)
- ^ 「海軍公報 第2256号 大正9年4月2日 pp.15-16」 アジア歴史資料センター Ref.C12070269800 『○艦船所在○四月二日午前十時調【航海中】(将旗)安藝、薩摩、香取、海風、山風、榎(二日三角發長崎へ)』
- ^ a b c d e 大正9年4月6日官報第2300号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『宮廷録事(略)◎東宮御入港竝行啓 皇太子殿下ハ本月二日午前七時長崎港御入港同八時三十分御上陸長崎縣庁ヘ行啓次テ諏訪神社御参拝諏訪公園、縣立圖書館、長崎商品陳列所ヘ御立寄長崎重砲兵大隊ヘ行啓歩兵第四十六聯隊御閲兵午後三菱造船所御覽同三時四十分御歸艦同三日午前六時三十分長崎港御出港同十一時佐世保軍港入港午後零時二十分御上陸佐世保鎮守府、佐世保重砲兵大隊、佐世保海軍工廠ヘ行啓同四時四十分御歸艦アラセラレタリ|◎東宮御安箸 皇太子殿下ハ一昨四日午前七時三十分御上陸同八時佐世保驛御發車同九時五十五分佐賀驛御箸車佐賀県廰、佐賀縣師範學校、縣立佐賀中學校ヘ行啓 佐賀縣立物産陳列館ヘ御立寄午後歩兵第五十五聯隊ヘ行啓同二時五十五分嵯峨驛御發車同四時十五分博多驛御箸車福岡縣廰ヘ行啓同五時二十五分御泊所福岡縣第一公會堂ヘ御安箸アラセラレタリ』
- ^ #昭和天皇実録二巻564-565頁(三菱長崎造船所/海軍関係者に御陪食)
- ^ #昭和天皇実録二巻565-566頁(神武天皇祭/佐世保鎮守府/佐世保重砲兵大隊/佐世保海軍工廠)
- ^ a b #昭和天皇実録二巻566-567頁(佐世保御上陸/佐賀県庁/師範学校/佐賀中学校物産陳列館/歩兵第五十五聯隊)
- ^ 大正9年4月7日官報第2301号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『◎東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨五日午前九時御泊所福岡縣第一公會堂御出門縣立物産陳列所ヘ御立寄ノ上工業博覽會第一會場ヘ行啓同十一時四十五分還御午後一時再ビ御出門歩兵第三十五旅團司令部、歩兵第二十四聯隊及工業博覽會第二會場ヘ行啓西公園ヘ御立寄侯爵黒田長成別邸ヘ行啓同四時五十分還御アラセラレタリ』
- ^ 大正9年4月8日官報第2302号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4-5『◎東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨六日午前八時五十分御泊所福岡縣第一公會堂御出門同九時博多驛御發車同九時五十五分久留米驛御箸車久留米偕行社ヘ行啓午後一時二十五分久留米驛御發車同二時二日市駅御箸車大宰府神社、観世音寺、都府棲城趾御巡覽同五時十五分還御アラセラレタリ(略)』
- ^ a b c d 大正9年4月9日官報第2303号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『◎東宮御出港 皇太子殿下ハ一昨七日午前八時四十分御泊所福岡縣第一公會堂御出門東公園ヘ御立寄官幣大社筥崎宮御参拝九州帝國大學工學部ヘ行啓午後官幣大社香椎宮御参拝同一時五十五分香椎驛御發車同五時五十五分門司驛御箸車部崎泊地ニ於テ御乗艦同七時御出港アラセラレタリ』
- ^ a b c #昭和天皇実録二巻570-571頁(東公園/筥崎宮/九州帝国大学工学部/香椎宮/香取に御帰艦)
- ^ #昭和天皇実録二巻571-572頁(神戸御入港)
- ^ 大正9年4月10日官報第2304号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9『◎東宮御入港 皇太子殿下ハ一昨八日午後五時三十分神戸港ニ御入港アラセラレタリ』
- ^ a b #昭和天皇実録二巻572頁(御上陸/静岡御用邸御箸/葉山御用邸御立寄/還啓)
- ^ 大正9年4月12日官報第2305号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ10『◎東宮行啓竝還御 皇太子殿下ハ一昨十日午前九時二十分静岡御用邸御出門九時三十分静岡驛御發車午後一時三十五分逗子驛御箸車葉山御用邸ヘ行啓同三時二十五分葉山御用邸御出門伺同三時四十分逗子驛御發車同五時東京驛御箸車同五時三十分還御アラセラレタリ』
- ^ #昭和天皇実録三巻32頁『御召艦香取に御乗艦』
- ^ a b #昭和天皇の艦長105-106頁
- ^ a b c #皇太子外遊記255-258頁『裕仁皇太子渡欧日程表〔主な会見者と行事〕』
- ^ #皇太子外遊記63頁
- ^ #昭和天皇実録三巻32-33頁『御出航』
- ^ #昭和天皇実録三巻69-70頁『(大正十年四月)三日 日曜日 鹿島における罐管破裂事故』
- ^ #皇太子外遊記70頁
- ^ #昭和天皇実録三巻72-73頁『(大正十年四月)七日 木曜日 香取における罐管破裂事故』
- ^ #昭和天皇実録三巻75-76頁『(大正十年四月)十六日 土曜日 スエズ運河/鹿島の座礁/グレート・ビター湖』
- ^ #皇太子外遊記83-84頁
- ^ #昭和天皇実録三巻113-114頁『(大正十年五月)七日 土曜日 スピットヘッド御到着』
- ^ #皇太子外遊記85頁
- ^ #昭和天皇実録三巻121-122頁『(大正十年五月)九日 月曜日 ポーツマス軍港に御入港』
- ^ #昭和天皇実録三巻245頁『(大正十年五月)三十日 月曜日 ポーツマル御出港/フランス駆逐艦隊の奉迎/ル・アーブル御入港』
- ^ #皇太子外遊記145頁
- ^ #昭和天皇実録三巻417頁『ナポリ御出港』
- ^ #皇太子外遊記149頁
- ^ #昭和天皇実録三巻431-432頁『(大正十年八月)一日 月曜日 大阪商船暹羅丸の救難要請』
- ^ #皇太子外遊記150頁
- ^ #昭和天皇実録三巻438-439頁『(大正十年八月)二十一日 日曜日』
- ^ #昭和天皇実録三巻442-443頁『(大正十年八月)二十八日 日曜日 軍艦利根の奉迎』
- ^ #昭和天皇実録三巻443-444頁『(大正十年八月)三十一日 水曜日 聯合艦隊の奉迎』
- ^ #皇太子外遊記151頁
- ^ #昭和天皇実録三巻446-447頁『(大正十年九月)二日 金曜日 館山湾御入港』
- ^ #皇太子外遊記153頁
- ^ #昭和天皇実録三巻448-450頁『香取を御退艦』
- ^ #達大正12年9月p.2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.60『◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス』
- ^ #達大正12年9月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
- ^ a b 『官報』第2884号、大正11年3月16日。
関連項目
- キング・エドワードVII世級戦艦 - 香取型戦艦の基になった
- 経津主神
- 香取神宮
- 大正天皇
- 昭和天皇
- 香取 (練習巡洋艦)
- かとり (練習艦)
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 戦艦一覧