南郷次郎
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生誕 |
1876年12月21日 日本・東京府 |
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死没 | 1951年3月5日(74歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1898年 - 1924年 |
最終階級 | 海軍少将 |
除隊後 | 講道館長 |
墓所 | 豊島区の染井霊園 |
南郷 次郎(なんごう じろう、1876年(明治9年)12月21日 - 1951年(昭和26年)3月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。講道館長(第2代)
経歴
[編集]東京府出身。南郷茂光の長男として生まれる。学習院海軍予科を経て、1898年(明治31年)12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年(明治33年)1月、海軍少尉任官。日露戦争に第4艇隊艇長として出征し、さらに第1艇隊に属する第67号艇長として日本海海戦に参戦した。1905年(明治38年)12月、海兵幹事に就任。海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科学生として学び、1907年(明治40年)9月、「初霜」駆逐艦長となり、「鹿島」水雷長心得を経て、1908年(明治41年)9月、海軍少佐に昇進し「常磐」水雷長に就任。水雷学校教官を経て、1910年(明治43年)11月、海軍大学校(甲種8期)を卒業した。
1910年12月、「薩摩」水雷長となり、海兵教官を経て「浅間」副長として第一次世界大戦に出征した。1913年(大正2年)12月、海軍中佐に進級。1916年(大正5年)2月から東伏見宮依仁親王付武官を務め、1917年(大正6年)12月、海軍大佐に昇進。
1919年(大正8年)2月、「春日」艦長に就任し、以後、「香取」艦長、軍令部副官、軍令部出仕を歴任。1922年(大正11年)12月、海軍少将に進み佐世保防備隊司令に就任した。1923年(大正12年)12月、待命となり、1924年(大正13年)2月、予備役に編入された。
講道館の創始者である嘉納治五郎の甥である縁から、海軍退役後に講道館第2代館長を務めた。
栄典
[編集]- 位階
- 1900年(明治33年)2月20日 - 正八位[1]
- 1901年(明治34年)12月17日 - 従七位[2]
- 1903年(明治36年)12月19日 - 正七位[3]
- 1908年(明治41年)12月11日 - 従六位[4]
- 1914年(大正3年)1月30日 - 正六位[5]
- 1918年(大正7年)1月30日 - 従五位[6]
- 1922年(大正11年)12月28日 - 正五位[7]
- 1924年(大正13年)3月24日 - 従四位[8]
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
- 1919年(大正8年)1月22日
- イギリス帝国:ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー[11]
- イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章コメンダトーレ[11]
- ベルギー王国:王冠第三等勲章[11]
- フランス共和国:レジオンドヌール勲章オフィシエ[11]
親族
[編集]- 長男 南郷茂章(海軍少佐、戦死)
- 三男 南郷茂男(陸軍中佐、戦死)
- 娘婿 矢田健二(海軍技術大佐)
- 弟 南郷三郎(日本綿花社長)・九里四郎(洋画家)
- 叔父 嘉納治五郎(母の弟)・遠藤喜太郎(海軍少将、父の弟)
- 義父 堤正誼(男爵)
脚注
[編集]- ^ 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
- ^ 『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
- ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
- ^ 『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
- ^ 『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
- ^ 『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ a b c d 『官報』第3369号「叙任及辞令」1919年1月24日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 「軍艦浅間准士官以上名簿」 アジア歴史資料センター Ref.C11081162800 (防衛省防衛研究所所蔵 海軍省-遣英遣米-T3-13-19 海軍省公文備考類 遣米枝隊関係書類 巻15)