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[[PL学園中学校・高等学校|PL学園高校]]に進学。チームメイトの[[吉村禎章]]や[[若井基安]]とともに活躍し、2年生の秋には秋季大阪府大会と秋季近畿大会で優勝。チームは翌年春の[[選抜高等学校野球大会|センバツ大会]]に選出される{{by|1981年}}の[[第53回選抜高等学校野球大会]]では、5試合45回を一人で投げ切り、被安打19、防御率0.20、三振43、四死球7、被打率.123、完封3。打者としても打率.353という成績を残し、特に決勝の[[千葉県立印旛明誠高等学校|印旛高校]]戦では、1-0とリードされて迎えた9回裏一死、代打の選手の同点3塁打が出た直後に、一二塁間を抜くサヨナラヒットを自ら放って逆転優勝を決め、「[[逆転のPL]]」の名を高めた。 |
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高校時代は、前述のように3年春のセンバツ優勝の原動力になっているが、好不調の波が激しい、貧血症で血を増やす薬を常用していた事情などもあり大会前の評価は高くなかったという<ref>『報知高校野球6月号 1981-No.3』 [[報知新聞社]]刊 p57~p58</ref><ref>『第53回選抜高校野球大会総決算 別冊週刊ベースボール陽春号』 [[週刊ベースボールマガジン社]]刊 p102</ref>。 |
2016年11月15日 (火) 19:31時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府南河内郡太子町 |
生年月日 | 1963年7月14日(61歳) |
身長 体重 |
179 cm 83 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1985年 ドラフト1位 |
初出場 | 1986年4月17日 |
最終出場 | 1991年5月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
オリンピック | ||
---|---|---|
男子 野球 | ||
金 | 1984 | 野球 |
西川 佳明(にしかわ よしあき、1963年7月14日 - )は、大阪府南河内郡太子町出身の元プロ野球選手(投手)。
経歴
小学校時代は東住吉のリトルリーグに所属し、左腕のエースとして活躍。その後シニアリーグに入り、中学ではサッカーに勤しんでいた[1]。
PL学園高校に進学。チームメイトの吉村禎章や若井基安とともに活躍し、2年生の秋には秋季大阪府大会と秋季近畿大会で優勝。チームは翌年春のセンバツ大会に選出される1981年の第53回選抜高等学校野球大会では、5試合45回を一人で投げ切り、被安打19、防御率0.20、三振43、四死球7、被打率.123、完封3。打者としても打率.353という成績を残し、特に決勝の印旛高校戦では、1-0とリードされて迎えた9回裏一死、代打の選手の同点3塁打が出た直後に、一二塁間を抜くサヨナラヒットを自ら放って逆転優勝を決め、「逆転のPL」の名を高めた。 今大会で記録した0.20の防御率は現在まで、1975年の金属バット採用後のセンバツ優勝投手の中では、1983年の水野雄仁に次ぐ第2位の好記録となっている。
法政大学進学後は、1年時の秋季リーグ戦から東京六大学リーグ公式戦に登板、2年時の春季立教大学戦から翌年春季の明治大学戦まで16連勝を記録した。これは現在も東京六大学野球の最多連勝記録となっている。在学中に3度のリーグ優勝と2度の大学日本一(1984年春と1985年春)に貢献し、大学通算成績は54試合登板、30勝5敗7完封、防御率1.60、ベストナイン3回受賞。ロサンゼルスオリンピック日本代表にも選ばれた。
1985年のドラフト1位で南海ホークスに入団。プロ1年目の1986年の開幕は二軍で迎え、本人は特に一軍登録を焦ってはいなかったというが、主力投手陣の不調もあり、ウエスタン・リーグで先発予定だった4月17日に急遽一軍登録され、阪急西宮球場で行われた対阪急戦にベンチ入り。中継ぎに起用され、プロ初登板で初勝利を飾る。4月29日には先発として登板し、5月5日に藤井寺球場で行われた近鉄戦では完投勝利し、南海の主力投手陣の一人として定着。7月半ばまでに7勝を上げ、オールスターゲームにも選出され、第2戦で先発登板し3イニングを無失点に抑えている[2]。同年は10勝10敗、防御率3.89(リーグ10位)という成績を収めた[3]。
プロ2年目となる1987年には、故障が続き9月に二軍落ちしたため7勝10敗、防御率5.59の成績にとどまった。3年目の1988年3月23日のオープン戦ではヤクルト相手にノーヒットノーランを達成した[4]。4月9日に前日の試合が雨天中止となり、初の開幕投手を務めることになった西武との開幕戦でも8回途中まで西武打線を無安打に抑えていたが、清家政和に二塁打を打たれてから均衡を破られ、結局敗戦投手となってしまった。その後チームは球団史上初の開幕7連敗を喫してしまう。9月14日に球団の譲渡が正式発表され10月20日に行われた南海最後の試合となる対ロッテ戦には先発投手としてマウンドに立った[5]。
1990年オフに5対4のトレード[6]で阪神に移籍。在籍2年間で5試合の登板にとどまり1992年限りで現役を引退した。
引退後は、大阪にてゴルフのアシスタントプロを経て、現在はサラリーマン。休日には子供たちに野球を指導している[7]。
選手としての特徴・人物
この選手の選手としての特徴に関する文献や情報源が必要です。 (2012年7月) |
リトルリーグの頃から速球以外に時折カーブも投げていた[1]といわれ、制球力にも優れた投手であった。
高校時代は、前述のように3年春のセンバツ優勝の原動力になっているが、好不調の波が激しい、貧血症で血を増やす薬を常用していた事情などもあり大会前の評価は高くなかったという[8][9]。
プロ入り後は、大学時代からの武器であるシュートを捨て、球速がない代わりにスライダーやナックルボールを武器に、80キロ台から130キロ台の緩急とコントロールで勝負する技巧派のピッチャーとなった。阪急監督の上田利治はその投球術を「公園で草野球をしとるおっさんみたいなボールや」と喩えている[4]。しかし、試合序盤か終盤で好不調がもろに出てしまうなど安定感に欠けるところに大きな課題があった。
後に、「プロ野球生活で残念だったこと」として、プロ入り一年目の1986年に新人王を獲得できなかったこと、10勝しながらも契約更改で年俸が思ったほど上がらなかったことに抵抗しなかったこと、1988年4月9日の西武との開幕戦で好投しながらも敗戦投手になってしまったことの3つを上げている[4]。
ニックネームは「ガンノ」だったが、その由来は芦屋雁之助に似ているから、というものだった [10]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986 | 南海 ダイエー |
26 | 22 | 9 | 1 | 2 | 10 | 10 | 1 | -- | .500 | 682 | 159.2 | 165 | 18 | 44 | 4 | 4 | 75 | 0 | 1 | 77 | 69 | 3.89 | 1.31 |
1987 | 23 | 20 | 4 | 0 | 0 | 7 | 10 | 0 | -- | .412 | 564 | 122.1 | 151 | 19 | 55 | 8 | 3 | 60 | 1 | 0 | 84 | 76 | 5.59 | 1.68 | |
1988 | 28 | 26 | 6 | 1 | 0 | 6 | 10 | 0 | -- | .375 | 618 | 139.1 | 149 | 23 | 58 | 1 | 2 | 68 | 2 | 0 | 88 | 70 | 4.52 | 1.49 | |
1989 | 23 | 11 | 1 | 0 | 0 | 1 | 6 | 0 | -- | .143 | 310 | 63.0 | 83 | 13 | 37 | 3 | 1 | 22 | 2 | 0 | 53 | 48 | 6.86 | 1.90 | |
1990 | 5 | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 65 | 14.1 | 16 | 4 | 7 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 12 | 12 | 7.53 | 1.60 | |
1991 | 阪神 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 47 | 10.0 | 11 | 1 | 5 | 1 | 1 | 8 | 0 | 0 | 7 | 5 | 4.50 | 1.60 |
通算:6年 | 110 | 84 | 21 | 2 | 2 | 25 | 39 | 1 | -- | .391 | 2286 | 508.2 | 577 | 78 | 206 | 17 | 11 | 238 | 6 | 1 | 321 | 280 | 4.95 | 1.54 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
記録
- 初登板・初勝利:1986年4月17日、対阪急ブレーブス4回戦(阪急西宮球場)、7回裏から3番手で救援登板、1回1/3を無失点
- 初先発・初完投:1986年4月29日、対西武ライオンズ4回戦(大阪球場)、10回1失点で勝敗つかず
- 初先発勝利・初完封:1986年5月5日、対近鉄バファローズ4回戦(藤井寺球場)
- 初セーブ:1986年7月12日、対阪急ブレーブス12回戦(大阪)、9回表1死から2番手で救援登板・完了、2/3回を無失点
- 初打席:1991年5月7日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、2回表に宮本賢治の前に凡退
- オールスターゲーム出場:1回 (1986年)
背番号
- 21 (1986年 - 1990年)
- 41 (1991年 - 1992年)
脚注
- ^ a b 『ルーキー』 山際淳司/著 毎日新聞社刊 ISBN 4-620-30561-8(再版未定) / 文庫版:角川書店刊 ISBN 4-04-154005-4(再版未定)
- ^ 1986年度オールスターゲーム 試合結果(第2戦)
- ^ 年度別成績 1986年 パシフィック・リーグ
- ^ a b c オープン戦ですが…史上2人目、34年ぶりの無安打無得点試合達成
- ^ “10・19”祭りの後は…南海、川崎球場で幕下ろす
- ^ 阪神からは池田親興、大野久、岩切英司、渡真利克則が、ダイエーからは西川の他に藤本修二、右田雅彦、近田豊年、吉田博之が移籍。
- ^ 『プロ野球 いぶし銀のベストナイン』 澤宮優/著 河出書房新社刊 ISBN 978-4-309-27003-6
- ^ 『報知高校野球6月号 1981-No.3』 報知新聞社刊 p57~p58
- ^ 『第53回選抜高校野球大会総決算 別冊週刊ベースボール陽春号』 週刊ベースボールマガジン社刊 p102
- ^ 1988年 南海ホークス ファンブック