「横井軍平」の版間の差分
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== 参考文献 == |
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* 「追悼、横井軍平氏「彼は任天堂そのものだったんです」」 『ゲーム批評 vol.18』 第4巻第9号通巻24号 1998年1月1日発行 [[マイクロマガジン社|マイクロデザイン出版局]] pp.52-61 |
* 「追悼、横井軍平氏「彼は任天堂そのものだったんです」」 『ゲーム批評 vol.18』 第4巻第9号通巻24号 1998年1月1日発行 [[マイクロマガジン社|マイクロデザイン出版局]] pp.52-61 |
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* 横井軍平・牧野武文 『横井軍平 ゲーム館』1997年5月 アスキー ISBN |
* 横井軍平・牧野武文 『横井軍平 ゲーム館』1997年5月 アスキー ISBN 978-4893666963 |
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* 横井軍平・牧野武文 『横井軍平 ゲーム館 RETURNS ゲームボーイを生んだ発想力』2010年6月25日 フィルムアート ISBN |
* 横井軍平・牧野武文 『横井軍平 ゲーム館 RETURNS ゲームボーイを生んだ発想力』2010年6月25日 フィルムアート ISBN 978-4845910502 ※『横井軍平 ゲーム館』の増補改訂版 |
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* 牧野武文 『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』 角川書店 2010年6月11日 ISBN |
* 牧野武文 『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』 角川書店 2010年6月11日 ISBN 978-4048850582 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2016年11月15日 (火) 19:09時点における版
よこい ぐんぺい 横井 軍平 | |
---|---|
生誕 |
1941年9月10日 日本 京都府京都市 |
死没 |
1997年10月4日(56歳没) 日本 石川県小松市 |
出身校 | 同志社大学 |
職業 |
工業デザイナー ゲームクリエイター |
横井 軍平(よこい ぐんぺい、1941年9月10日 - 1997年10月4日)は、日本の技術者、ゲームクリエイター。京都府京都市出身。同志社大学工学部電子工学科卒。
任天堂開発第一部部長として、『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイ』、『バーチャルボーイ』等の開発に携わり、宮本茂と並んで任天堂を世界的大企業へと押し上げる原動力となった。
経歴
学生時代
小学3年生でOゲージ鉄道模型を買ってもらい、中学2年生でHOゲージに転向、高校生時代に完成させたレイアウト、SPライン(Sはsilk=絹、Pはparasol=傘、絹傘→きぬかさ→衣笠、当時の住所から使ったとのこと)を専門誌『鉄道模型趣味』に投稿し、1958年1月号に掲載されている。その後に進学し、大学でも鉄道研究会に在籍している。
任天堂入社
1965年、同志社大学工学部電子工学科卒業後、大手家電メーカーへの就職を希望していたが、成績不良によりいずれも就職試験に落ち、近所にあってなおかつ採用してくれたという理由で任天堂に入社する。当時の任天堂は京都の花札・トランプメーカーにすぎず、横井は工学部卒の入社第一号だったと言われている。
入社当初は設備機器の保守点検の仕事を任されていたが、暇つぶしで格子状の伸び縮みするおもちゃを作り遊んでいたところを社長の山内溥に見つかり、社長室に呼び出される。処罰を受けることを覚悟したが、山内の言葉は「それをゲーム化して商品化しろ」であり、物を掴めるように改良を加えて『ウルトラハンド』として商品化。ウルトラハンドはコピー品が出回るほどの大人気商品となる。
同作のヒットをきっかけに「開発課」が設置され、任天堂の玩具開発を担当することになる。当初開発課は横井と経理担当の今西絋史の二人だけだったが、作品数が増加するにつれ人員も増加していった。
開発課としての玩具開発
開発課時代に、枯れた技術の水平思考を元に数多くの玩具を手掛け、主な作品に小型のピッチングマシーン『ウルトラマシン』、簡易版嘘発見器『ラブテスター』、射撃玩具『光線銃シリーズ』などがある。
『光線銃シリーズ』は大ヒットしたものの、不良品問題で儲けがほとんど出なかった。しかし社長の山内溥が乗り気になり、「レーザークレーシステム」として積極的にアーケード展開をもくろむ。軌道に乗るかと思った矢先、オイルショックの影響で建設計画撤回が相次ぎ、横井には責任はないものの、任天堂が傾く程の赤字を出すことになった。
レーザークレーシステムは失敗に終わったものの、その後任天堂はアーケードゲーム事業に乗り出したため、アーケードゲームの開発を手掛けるようになる。その他にゲーム性を取り入れた掃除機「チリトリー」も手掛けた。この掃除機は早すぎたルンバとも言える。
開発第一部としてのゲーム開発
1979年に開発課は分割され、横井は開発第一部の部長となり、1996年に退社するまで同部署の不動のエースとして活動した。なお、この頃から横井自身は主にアイディアを出す人になり、実際に技術面での開発に当たるのは岡田智を筆頭とした他の技術者という体制が取られた。横井はコンピューター嫌いであり、上村雅之曰く「(コンピュータ好きの僕とは)技術者としての道がおのずから別れていった」[1]。
開発第一部は任天堂の携帯ゲーム機のハード・ソフト開発の部署として生まれたが、他の部署が担当している仕事も平然とやってしまう遊撃手的存在でもあり、開発第二部が担当していたアーケードゲーム開発、据え置き型テレビゲーム開発にも積極的に関わっていた。
NOA(任天堂のアメリカ支社)で在庫問題が起きた際に、任天堂本社で新しいゲームを誰に作らせるかというコンベンションが開かれることになった。その際に横井は、従来のようにハード側の人間ではなくソフト側の人間に作らせれば新しいゲームが出来るのではないか[2]と考え、クリエイティブ課の宮本茂を推薦する。当時の宮本はいわゆる工業デザイナーでありソフト製作の実績は全くなかったが、これに応え、結果的に出来上がった『ドンキーコング』は世界的な大ヒットになり、またマリオというキャラクターを生みだすきっかけになった。部署の垣根を越えた人材活用路線は後の宮本に多大な影響を与えた(宮本が1990年代末に言っていた「会社内のクリエイティブ」がこの影響下にある)。
主に手掛けたゲーム機は『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイシリーズ』、『バーチャルボーイ』など。また、ゲームウォッチ時代に「十字キー」を考案[3]し、これは後続の任天堂のテレビゲームのデファクトスタンダードになった。
退職と独立、突然の死
1996年8月15日に任天堂を退職。開発第一部部長の後任は出石武宏。
元々「50歳を過ぎたら好きな事をする」と語っており、自主退社だったが、日本経済新聞が「バーチャルボーイの不振の損失の責任を取るために辞任」と報じたため、横井は『文藝春秋』1996年11月号で反論を執筆した。
退社後、より自分のやりたい商品開発を目指し、株式会社コトを設立。『くねっくねっちょ』等の携帯ゲームや玩具などを企画した他、『ワンダースワン』の開発にもアドバイザーとして参加。ワンダースワン用のパズルゲーム『GUNPEY』は横井の監修によるもので、ワンダースワン用ソフトとしてはかなりのヒット作となった。
独立から1年後の1997年10月4日、石川県能美郡根上町(後の能美市)の北陸自動車道上り線で、知人男性が運転していた車が前の軽トラックに追突する事故を起こし、その追突した軽トラックを動かすため車外にでたところ後続の乗用車にはねられ、同日午後9時、搬送された小松市民病院で外傷性ショックのため、56歳で死去した。
2003年にGame Developers Choice Awards(英語版)において、Lifetime Achievement Award(特別功労賞)を受賞。[4]
人物
ヨコイズム
横井の開発商品は、コミュニケーション性が特徴である。大学時代に遊び人だった経験が活かされている。時としてそれが大ヒットを誘発する要因となる。
- ラブテスターは、男女が手を繋ぎ、愛情度を測るための玩具だが、開発の動機は「女性と気兼ねなく手を繋げる」というものだった。なお、機能や構造は嘘発見器の機能を簡易的に応用したものであり、この設計にも下記する「枯れた技術の水平思考」が使われている。
- コンピューター麻雀 役満は、2台繋げて人間同士でも対決できるボード型の麻雀ゲーム端末である。2人で線を繋いで対戦できなければしょうがないという横井の思想がある。
- ゲームボーイは削れる要素は削りに削ってコスト削減したが、発売当初は用途があまり重要ではなかった通信ポートを搭載した理由は、「あまりコストが跳ねないから、付けておけばなにか面白いゲームができるかもしれない」といった希望的観測によるものだった。これは後に、世界初のオリジナルモードとなる『対戦型テトリス』やプレイヤー間の通信がゲームの中心要素となった『ポケットモンスター』で本格的に陽の目をみる。ニンテンドーDSへとシフトした携帯ゲーム機市場においても、ユーザー間通信が重要なファクターとなっている。
- ゲーム&ウオッチで初搭載した十字キーは、感触によって押している方向が手元を見なくても分かる。
- 1990年代半ばに「家庭用ゲーム機はアイデア不足。アイデア不足の逃げ道はCPU競争であり色競争しかないものだ」と、高性能化する家庭用ゲーム機を皮肉った。横井の死後のこととなるが、日本の市場はCPU競争が一段落した1990年代後半から大きく減速し、2000年以降のゲーム業界でのグラフィック重視の風潮やそれらの開発費の高騰が起こって大きな問題となっており、行き着く先を言い当てていたこととなる。
- 社内では、管理職も平社員も違う部署の人間でも会社で働く身同士、立場は対等であるという考えを貫いた。
これらのヨコイズムは、宮本茂の「万人向け」ゲームの開発など、任天堂のゲーム開発方針そのものにも大きな影響を与えている。
枯れた技術の水平思考
横井は「枯れた技術の水平思考」という独自の哲学を持ち、自作に反映していた。
「枯れた技術」は、「すでに広く使用されてメリット・デメリットが明らかになっている技術」のことで、「水平思考」(エドワード・デボノ提唱)は、「既存の概念に捉われず新しい角度から物事を見る」ということであり、要は「既存の技術を既存の商品とは異なる使い方をしてまったく新しい商品を生み出す」。結果的に開発コストを低く抑えることができるのが特徴。
射撃玩具『光線銃SP』が代表的な存在で、太陽電池を電池としてではなく、光に反応する性質に着目しセンサーとして使用。一方その光の発信源はというと豆電球といった次第である。
開発第一部が手掛けていた携帯ゲーム機においてもその哲学は反映されているが、その一方で、前述の横井のコンピュータ嫌いがあり、「ハイテクが必要なわけではない。むしろ高価なハイテクは商品開発の邪魔になる」とローテク路線も取っていた。枯れた技術の水平思考とローテク路線が完全に噛み合ったのは『ゲームボーイ』においてであり、『ゲームギア』や『リンクス』といった他社の高性能の携帯ゲーム機を次々と葬っていった(なお、両者ともゲームボーイのローテクさを揶揄する比較広告を行っていた)。
低コスト路線は任天堂の据え置きゲーム機開発でも取られ、開発第二部が手掛けていた据え置き型ゲーム機『ファミコン』や『スーパーファミコン』もこの方式で作られていた。しかし1990年代中盤の次世代ゲーム機戦争において、3D化の代償として当時の最新技術を投入せざるを得なくなり、ファミコンカセットの特殊チップなどを開発していた開発第三部が『NINTENDO64』の開発に当たることになる。結果的に枯れた技術の水平思考もローテク路線も否定された形になり、横井は『NINTENDO64』を推進する宮本茂に対して「お前もそっちへ行くのか」とこぼしていたという。
横井は同時期にひとつの答えとして、枯れた技術の水平思考とローテク路線を貫いた3Dゲーム機『バーチャルボーイ』を開発したが、商業的に大失敗に終わる(しかし、枯れた技術の水平思考→低コストが幸いして任天堂の業績にほとんど影響がなかった)。横井はその後任天堂を退社した。
枯れた技術の水平思考とヨコイズムの「その後」
横井の退社後、『NINTENDO64』が日本市場で苦戦する一方、『ポケットモンスター』の大ヒットにより『ゲームボーイ』がコミュニケーションツールとして復権。そのため『NINTENDO64』を日本市場で苦戦させる一端を担った『64DD』が更に迷走する事になり、『NINTENDO64』はさらなる泥沼に陥った。
2000年代になり、岩田聡が「数字主義、スペック主義からの決別」を謳い、据え置き型ゲーム機『ニンテンドーゲームキューブ』を発売した頃から流れが変わる。その後社長になった岩田はコミュニケーションを重視した社内改革を始める。
その結果生まれた携帯ゲーム機『ニンテンドーDS』では既存のゲームとは異なる『Touch! Generations』を次々と投入し、かつての『ゲームボーイ』時代のように性能で上回る『PlayStation Portable』を圧倒。また据え置き型ゲーム機『Wii』では、性能で上回るXbox 360やPlayStation 3を尻目に、小型化・低消費電力化路線を図り、新しいコントローラーを導入しゲームプレイの差別化を行うなど、「遊び方」の変革で対抗しようとして注目を集め、成功をおさめた。岩田聡は、現在の戦略が枯れた技術の水平思考の伝統に則ったものであると言及している[5]。
関与した作品
- ドライブゲーム (1966年 玩具)[6]
- ウルトラハンド (1966年[7] 玩具)[8]
- ウルトラマシン (1968年 玩具)[8]
- ラブテスター (1969年 玩具)[8]
- 光線銃SP (1970年 玩具)[8]
- N&Bブロック クレーター (1970年 玩具)[8]
- エレコンガ (1970年 玩具)[8]
- ウルトラスコープ (1971年 玩具)[8]
- 光線電話LT (1971年 玩具)[8]
- レフティRX (1972年 玩具)[8]
- タイムショック (1973年 玩具)[8]
- レーザークレー (1973年 業務用)[8]
- ワイルドガンマン (1974年 業務用玩具)[8]
- シューティングトレーナー (1974年 業務用)[8]
- ファッシネーション (1974年 業務用)[8]
- 光線銃カスタム (1976年 玩具)[8]
- バトルシャーク (1977年 業務用)[8]
- スカイホーク (1977年 業務用)[8]
- シーホーク (1977年 業務用)[8]
- ダックハント (1977年 玩具)[8]
- デッドライン (1978年 業務用)[8]
- ファンシーボール (1978年 業務用)[8]
- チリトリー (1979年 玩具)[8]
- テンビリオン (1980年 玩具)[8]
- ゲーム&ウオッチ (1980年 携帯型ゲーム機)[6]
- ドンキーコング (1981年 アーケードゲーム) - プログラミング以外は全て宮本茂が開発[8]。
- ドンキーコングJR. (1983年 アーケードゲーム)[8]
- ドンキーコング3 (1985年 アーケードゲーム)[8]
- コンピューター麻雀 役満 (1982年)[8]
- ファミリーコンピュータ (1983年 ゲーム機)ハウジング及び十字キー[8]
- ダックハント (1984年 ファミリーコンピュータ++光線銃)[8]
- ワイルドガンマン (1984年 ファミリーコンピュータ+光線銃)[8]
- ホーガンズアレイ (1984年 ファミリーコンピュータ+光線銃)[8]
- マリオブラザーズ (1984年 アーケードゲーム)[8]
- レッキングクルー (1984年 アーケードゲーム)[8]
- バルーンファイト (1984年 アーケードゲーム)[8]
- アーバンチャンピオン (1984年 ファミリーコンピュータ)[8]
- ファミリーコンピュータ ロボット (1985年7月26日 ファミリーコンピュータ周辺機器)[6]
- メトロイドシリーズ
- メトロイド (1986年8月6日 ファミリーコンピュータ) プロデューサー[6]
- メトロイドII RETURN OF SAMUS (1992年1月21日 ゲームボーイ) プロデューサー
- スーパーメトロイド (1994年3月19日 スーパーファミコン) ゼネラルマネージャー[6]
- 光神話 パルテナの鏡 (1986年12月19日 ファミリーコンピュータ) プロデューサー[9]
- ガムシュー (1987年 アーケードゲーム) - 海外展開のみ[6][8]。
- 中山美穂のトキメキハイスクール (1987年 ファミリーコンピュータ)[8]
- ファミコン探偵倶楽部シリーズ
- ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者 (前編1988年4月27日 後編1988年6月14日 ファミリーコンピュータ) プロデューサー[6]
- ファミコン探偵倶楽部PartII うしろに立つ少女 (前編1989年5月23日 後編1989年6月30日 ファミリーコンピュータ) プロデューサー[6]
- ファミコンウォーズ (1988年 ファミリーコンピュータ)[6]
- ファイアーエムブレムシリーズ[6]
- ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣 (1990年4月20日 ファミリーコンピュータ) プロデューサー
- ファイアーエムブレム外伝 (1992年3月14日 ファミリーコンピュータ) プロデューサー
- ファイアーエムブレム 紋章の謎 (1994年1月21日 スーパーファミコン) プロデューサー
- ファイアーエムブレム 聖戦の系譜 (1996年5月14日 スーパーファミコン) プロデューサー
- スーパーマリオランド(1989年4月21日 ゲームボーイ) プロデューサー
- Dr.マリオ (1990年7月27日 ファミリーコンピュータ) プロデューサー[6]
- ソーラーストライカー(1990年1月26日 ゲームボーイ) プロデューサー[6]
- ヨッシーのたまご (1991年 ファミリーコンピュータ)[6]
- マリオペイント (1992年7月14日 スーパーファミコン+マウス) プロデューサー[8]
- スーパーマリオランド2 6つの金貨(1992年10月21日 ゲームボーイ) プロデューサー
- ヨッシーのクッキー (1992年11月21日 ファミリーコンピュータ ゲームボーイ) プロデューサー[6]
- スーパースコープ6 (1993年 スーパーファミコン+バズーカ)[8]
- ヨッシーのロードハンティング (1993年 スーパーファミコン+バズーカ) プロデューサー[8]
- マリオとワリオ (1993年 スーパーファミコン+マウス) プロデューサー[8]
- スーパーマリオランド3 ワリオランド (1994年1月21日 ゲームボーイ) プロデューサー
- テトリスフラッシュ (1994年 スーパーファミコン)[8]
- スヌーピーコンサート(1995年 スーパーファミコン) スペシャルサンクス
- バーチャルボーイ (1995年 ゲーム機)[8]
- パネルでポン (1995年10月27日 スーパーファミコン) プロデューサー
- バーチャルボーイワリオランド (1995年12月1日 バーチャルボーイ) プロデューサー
- カービィのブロックボール (1995年12月14日 ゲームボーイ) プロデューサー (宮本茂と共同)
- ゲームボーイポケット (1996年 ゲーム機) - 任天堂所属での最後の作品[8]。
- くねっくねっちょ (1997年 携帯ゲーム機) - コト所属で製作の作品[8]。
- へのへの (1997年 携帯ゲーム機)[10] - コト所属で製作の作品[6]。
- GUNPEY (1999年 ワンダースワン) 監修 - コト所属で製作の作品。発売はバンダイ(後のバンダイナムコゲームス)。
関連書籍
- 「なぜ私は任天堂を辞めたのか」『文藝春秋』1996年11月号
- 横井軍平/牧野武文『横井軍平ゲーム館』1996年、アスペクト、ISBN 4893666967
- 木村立哉「競争のない世界、枯れた技術の水平思考 -- 指と手のひらから世界へ」『ユリイカ』2006年6月号、ISBN 479170147X
- 横井軍平/牧野武文『横井軍平ゲーム館 RETURNS ─ゲームボーイを生んだ発想力』2010年6月25日、フィルムアート社 ISBN 4845910500
- 牧野武文『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』2010年6月10日、角川書店(角川グループパブリッシング)ISBN 404885058X
- 『決定版・ゲームの神様 横井軍平のことば (P-Vine Books) 』2012年9月28日、スペースシャワーネットワーク ISBN 4906700470
- 牧野武文『任天堂ノスタルジー 横井軍平とその時代 (角川新書)』(上記の2010年刊『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』の文庫版、追加文章あり)2015年6月9日、KADOKAWA/角川書店 ISBN 4041023742
- 横井軍平/牧野武文『横井軍平ゲーム館 :「世界の任天堂」を築いた発想力 』(上記の1996年刊『横井軍平ゲーム館』の文庫版)2015年8月6日、ちくま文庫 ISBN 4480432930
脚注
- ^ 武田亨「It’s The NINTENDO」(2000年、ティーツー出版)p.80
- ^ 当時の任天堂のアーケードゲームは上村雅之らを初めとしたハード技術者がソフトも手掛けていた。
- ^ ただし、技術面では全くかかわっておらず、更に当時非常に多忙だったため、特許関連の作業で無駄な時間を使いたくないという理由で、特許出願の際に名前を出していない。
- ^ なお、この賞を受賞した他の日本人は「小島秀夫」「宮本茂」「中裕司」などがいる(『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男(牧野武文 著、角川書店)』 19ページ)。
- ^ PC Watch「後藤弘茂のWeekly海外ニュース 任天堂 岩田聡社長インタビュー(1) マンマシンインターフェイスを直感的にすることがカギ」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「横井軍平 ゲーム館」および「横井軍平 ゲーム館 RETURNS ゲームボーイを生んだ発想力」より。「ドライブゲーム」に関しては、自身もインタビューの最中に思い出すまで長いこと忘れていた。
- ^ 発売は1967年。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax 隔月刊 ゲーム批評1月号Vol.18 「追悼企画 横井軍平の時代を振り返る・横井軍平作品集」より。
- ^ Nintendo Entertainment System版のエンディングスタッフロールに「G・Yokoi」と記載。
- ^ 「GUNPEY」の前身にあたる作品。
参考文献
- 「追悼、横井軍平氏「彼は任天堂そのものだったんです」」 『ゲーム批評 vol.18』 第4巻第9号通巻24号 1998年1月1日発行 マイクロデザイン出版局 pp.52-61
- 横井軍平・牧野武文 『横井軍平 ゲーム館』1997年5月 アスキー ISBN 978-4893666963
- 横井軍平・牧野武文 『横井軍平 ゲーム館 RETURNS ゲームボーイを生んだ発想力』2010年6月25日 フィルムアート ISBN 978-4845910502 ※『横井軍平 ゲーム館』の増補改訂版
- 牧野武文 『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』 角川書店 2010年6月11日 ISBN 978-4048850582
関連項目
- 任天堂
- メイド イン ワリオ - 開発した玩具をモチーフとしたミニゲームが収録されている
- 軍平ナイト - 横井軍平の功績や思想、その生涯や日本のゲームのクリエイティビティについて語り合うイベント