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:現時点で傍受を証明する資料は存在しない。当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することであり、アメリカの対日戦争計画も日本軍が[[フィリピン]]に攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは想定していなかった([[オレンジ計画]])。日本海軍は囮の艦船を派遣して偽装通信を頻繁に行い、艦隊が南方に向かっているように装っていた。また、艦隊決戦が主流であった時代であって、航空機による海戦はあまり考慮されていなかった。真珠湾内での魚雷攻撃は、浅瀬のため技術上きわめて困難であるとも考えられていた。また日本の用いていた暗号のうち海軍暗号は1941年12月の段階では解読されていなかった。 |
:現時点で傍受を証明する資料は存在しない。当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することであり、アメリカの対日戦争計画も日本軍が[[フィリピン]]に攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは想定していなかった([[オレンジ計画]])。日本海軍は囮の艦船を派遣して偽装通信を頻繁に行い、艦隊が南方に向かっているように装っていた。また、艦隊決戦が主流であった時代であって、航空機による海戦はあまり考慮されていなかった。真珠湾内での魚雷攻撃は、浅瀬のため技術上きわめて困難であるとも考えられていた。また日本の用いていた暗号のうち海軍暗号は1941年12月の段階では解読されていなかった。 |
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:また、真珠湾攻撃は海軍により徹底的に秘匿が図られ、日本の外務省すら内容を知らされておらず、解読済みの外務省暗号では開戦日時や攻撃場所はそれを察知できなかった。しかも真珠湾攻撃に向かう艦船はすべて無電封止(無線通信の禁止)を行っており<ref name="rekishikaidou200109zoukan-65" />、モールス打鍵器にロックが掛けられていたとの証言もある。更に呉・柱島泊地からは機動艦隊発に見せかけた偽のモールス信号が大量に発信されていたため<ref group="注釈">実際に機動部隊に乗務していた電信員が引き抜かれ、打鍵時の癖まで機動部隊のそれと同じであった。</ref>、11月25日時点でアメリカ海軍情報部は、艦隊は呉~鹿児島南部のあたりにいると予想していた<ref>[[佐藤大輔]] 『真珠湾の暁』、[[徳間書店]]、徳間文庫、2002年11月15日、ISBN 4-19-891792-2 |
:また、真珠湾攻撃は海軍により徹底的に秘匿が図られ、日本の外務省すら内容を知らされておらず、解読済みの外務省暗号では開戦日時や攻撃場所はそれを察知できなかった。しかも真珠湾攻撃に向かう艦船はすべて無電封止(無線通信の禁止)を行っており<ref name="rekishikaidou200109zoukan-65" />、モールス打鍵器にロックが掛けられていたとの証言もある。更に呉・柱島泊地からは機動艦隊発に見せかけた偽のモールス信号が大量に発信されていたため<ref group="注釈">実際に機動部隊に乗務していた電信員が引き抜かれ、打鍵時の癖まで機動部隊のそれと同じであった。</ref>、11月25日時点でアメリカ海軍情報部は、艦隊は呉~鹿児島南部のあたりにいると予想していた<ref>[[佐藤大輔]] 『真珠湾の暁』、[[徳間書店]]、徳間文庫、2002年11月15日、ISBN 4-19-891792-2--参考文献。</ref>。 |
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:さらに、仮に無線を傍受していたとしても、作戦概要は本土から空母「赤城」の金庫に保管されており、出撃命令も1941年11月20日に軍令部第一部長、[[福留繁]]少将から手交によって行われているので<ref>『戦史叢書 10 ハワイ作戦』--参考文献</ref>、無線の内容で攻撃目標が真珠湾であることや、作戦概要を知ることは不可能であった。 |
:さらに、仮に無線を傍受していたとしても、作戦概要は本土から空母「赤城」の金庫に保管されており、出撃命令も1941年11月20日に軍令部第一部長、[[福留繁]]少将から手交によって行われているので<ref>『戦史叢書 10 ハワイ作戦』--参考文献</ref>、無線の内容で攻撃目標が真珠湾であることや、作戦概要を知ることは不可能であった。 |
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:*当時のアメリカ国務長官ハルの回顧には、1941年1月27日に東京のグルー大使から、「日本の軍部は日米間に事が起こった場合には真珠湾を奇襲する準備をしている」という情報を受けたため、陸、海両省に報告したという記述がある<ref>[[コーデル・ハル]] 『ハル回顧録』、[[中央公論新社]]、2001年10月15日、ISBN 4-12-203920-7 |
:*当時のアメリカ国務長官ハルの回顧には、1941年1月27日に東京のグルー大使から、「日本の軍部は日米間に事が起こった場合には真珠湾を奇襲する準備をしている」という情報を受けたため、陸、海両省に報告したという記述がある<ref>[[コーデル・ハル]] 『ハル回顧録』、[[中央公論新社]]、2001年10月15日、ISBN 4-12-203920-7--参考文献</ref>。[[今野勉]]の『真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか』には、グルーが国務省に送った電文が以下のように紹介されている<ref>今野勉『真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか』PHP文庫、2001年。ISBN 4-569-57573-0。P277 --参考文献</ref>。 |
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{{Cquote|わが友人駐日[[ペルー]]公使<ref>今野によると、リカルド・シュライバー</ref>が当大使館員に語ったところによると、友人は一日本人を含む複数の情報源から、日本は、万一アメリカと紛争となった場合、全軍事力を使用して、真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ旨、聞いた。わが友人ペルー公使は、この計画は空想的なように思えたけれど、多くの筋から聞いたので、当方に伝達するに足るものと認めたものである。}} |
{{Cquote|わが友人駐日[[ペルー]]公使<ref>今野によると、リカルド・シュライバー</ref>が当大使館員に語ったところによると、友人は一日本人を含む複数の情報源から、日本は、万一アメリカと紛争となった場合、全軍事力を使用して、真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ旨、聞いた。わが友人ペルー公使は、この計画は空想的なように思えたけれど、多くの筋から聞いたので、当方に伝達するに足るものと認めたものである。}} |
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::この内容を国務省から知らされた[[ハロルド・スターク]]海軍作戦部長は、2月1日にキンメル太平洋艦隊司令長官に宛てた電報で「海軍情報部としては、この流言は信じられないものと考える。さらに、日本陸海軍の現在の配備と行動について知りえたデータによれば、真珠湾に対する行動が迫っているとか、予測できる将来において、こうした行動が計画されているとは考えられない」という情報部の見解をつけてこの内容を伝えている<ref>今野、2001年、P309</ref>。とはいえ、米政府が事前に真珠湾攻撃の可能性ありという報告を駐日大使から受けていたのは事実である<ref group="注釈">ただし、その時点では日本海軍の真珠湾攻撃はまだ山本五十六の腹案にとどまり、知っていたのは山本のほかに[[大西瀧治郎]]と[[及川古志郎]]しかいなかった。今野は、ペルー公使の情報の出所に関して、1940年に松尾樹明という人物が出版した『三国同盟と日米戦』という書籍において、「日米開戦は不可避で、その場合日本は開戦劈頭に真珠湾を攻撃してハワイを占領するべき」と記されている内容の影響を指摘している。(今野、2001年、P167 - 168,P278)</ref>。グルー自身は、1941年1月27日の日記において「対米開戦時には、日本は真珠湾に集中的に奇襲攻撃をかけるという計画が進行中であると噂になっていたので、政府に報告した」<ref>Joseph C. Grew 『Ten Years In Japan』P318, Hesperides 2006年11月12日 --参考文献。</ref>と記述している。 |
::この内容を国務省から知らされた[[ハロルド・スターク]]海軍作戦部長は、2月1日にキンメル太平洋艦隊司令長官に宛てた電報で「海軍情報部としては、この流言は信じられないものと考える。さらに、日本陸海軍の現在の配備と行動について知りえたデータによれば、真珠湾に対する行動が迫っているとか、予測できる将来において、こうした行動が計画されているとは考えられない」という情報部の見解をつけてこの内容を伝えている<ref>今野、2001年、P309</ref>。とはいえ、米政府が事前に真珠湾攻撃の可能性ありという報告を駐日大使から受けていたのは事実である<ref group="注釈">ただし、その時点では日本海軍の真珠湾攻撃はまだ山本五十六の腹案にとどまり、知っていたのは山本のほかに[[大西瀧治郎]]と[[及川古志郎]]しかいなかった。今野は、ペルー公使の情報の出所に関して、1940年に松尾樹明という人物が出版した『三国同盟と日米戦』という書籍において、「日米開戦は不可避で、その場合日本は開戦劈頭に真珠湾を攻撃してハワイを占領するべき」と記されている内容の影響を指摘している。(今野、2001年、P167 - 168,P278)</ref>。グルー自身は、1941年1月27日の日記において「対米開戦時には、日本は真珠湾に集中的に奇襲攻撃をかけるという計画が進行中であると噂になっていたので、政府に報告した」<ref>Joseph C. Grew 『Ten Years In Japan』P318, Hesperides 2006年11月12日 --参考文献。</ref>と記述している。 |
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|year=2001 |
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}}原著Day of Decent,Robert B. Stinnett,Chandler Crawford Agency Inc.(2000)</ref>。 |
}}原著Day of Decent,Robert B. Stinnett,Chandler Crawford Agency Inc.(2000)</ref>。 |
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:**FBIの記録によると、「五数字暗号」とアメリカ側で呼ばれていた日本海軍暗号について、1940年10月には解読に成功していた。これは暗号解読方法説明資料「RIP73」、「RIP80」としてまとめられた(但し、添付資料の傍受日付は1941年11月18日だが、解読日付は戦後の1946年4月26日であることが[[左近允尚敏]]により指摘されており<ref name="秦郁彦">[[秦郁彦]] 『検証・真珠湾の謎と真実』、[[PHP研究所]]、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 |
:**FBIの記録によると、「五数字暗号」とアメリカ側で呼ばれていた日本海軍暗号について、1940年10月には解読に成功していた。これは暗号解読方法説明資料「RIP73」、「RIP80」としてまとめられた(但し、添付資料の傍受日付は1941年11月18日だが、解読日付は戦後の1946年4月26日であることが[[左近允尚敏]]により指摘されており<ref name="秦郁彦">[[秦郁彦]] 『検証・真珠湾の謎と真実』、[[PHP研究所]]、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4--参考文献。</ref>、解読が成功したかについては疑問がある)。 |
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:**「RIP73」、「RIP80」は、アメリカ軍の諜報無線局であるハワイのHYPO、フィリピンのCASTおよびイギリスに提供され、日本海軍無線の暗号解読が可能な状態であった(上記の理由により、1941年10月時点での海軍暗号解読には疑問がある)。 |
:**「RIP73」、「RIP80」は、アメリカ軍の諜報無線局であるハワイのHYPO、フィリピンのCASTおよびイギリスに提供され、日本海軍無線の暗号解読が可能な状態であった(上記の理由により、1941年10月時点での海軍暗号解読には疑問がある)。 |
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:**国防総省は上記暗号解読方法説明資料の配達記録の開示を拒んでいるが、配達の事実を公文書から確認できた<ref name="国立">国立第二公文書館資料</ref>。 |
:**国防総省は上記暗号解読方法説明資料の配達記録の開示を拒んでいるが、配達の事実を公文書から確認できた<ref name="国立">国立第二公文書館資料</ref>。 |
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* 山川新作『空母艦爆隊 {{small|艦爆搭乗員死闘の記録}}』([[今日の話題社]]、1985年) ISBN 4-87565-118-x<br /> 著者は空母「加賀」九九艦爆操縦者。第二次攻撃隊に参加。 |
* 山川新作『空母艦爆隊 {{small|艦爆搭乗員死闘の記録}}』([[今日の話題社]]、1985年) ISBN 4-87565-118-x<br /> 著者は空母「加賀」九九艦爆操縦者。第二次攻撃隊に参加。 |
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*『歴史街道』2001年9月特別増刊号『真珠湾攻撃』PHP研究所 |
*『歴史街道』2001年9月特別増刊号『真珠湾攻撃』PHP研究所 |
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*[[半藤一利]]、[[江坂彰]]『撤退戦の研究』光文社 |
*[[半藤一利]]、[[江坂彰]]『撤退戦の研究』光文社 ISBN 4-334-00680-9 |
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* [[秋元健治]]『真珠湾攻撃全記録―日本海軍・勝利の限界点』現代書館 2010年 ISBN |
* [[秋元健治]]『真珠湾攻撃全記録―日本海軍・勝利の限界点』現代書館 2010年 ISBN 978-4768456323 |
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* [[イアン・トール]]『太平洋の試練』文春文庫 2013年 ISBN |
* [[イアン・トール]]『太平洋の試練』文春文庫 2013年 ISBN 978-4163764207 |
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* [[エレノア・ルーズベルト]]『This I Remember』プレイガー 1975年 ISBN |
* [[エレノア・ルーズベルト]]『This I Remember』プレイガー 1975年 ISBN 978-0837177021 |
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* [[ドリス・カーンズ・グッドウィン]]『No Ordinary Time: Franklin and Eleanor Roosevelt: The Home Front in World War II』サイモン&シュースター 1995年 ISBN |
* [[ドリス・カーンズ・グッドウィン]]『No Ordinary Time: Franklin and Eleanor Roosevelt: The Home Front in World War II』サイモン&シュースター 1995年 ISBN 978-0684804484 |
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* ロバート・シャーウッド『ルーズヴェルトとホプキンズ』 村上 光彦 (訳) 未知谷 2015年 ISBN |
* ロバート・シャーウッド『ルーズヴェルトとホプキンズ』 村上 光彦 (訳) 未知谷 2015年 ISBN 978-4896424744 |
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* E・B・ポッター『提督ニミッツ』南郷 洋一郎 (訳) フジ出版社 1979年 |
* E・B・ポッター『提督ニミッツ』南郷 洋一郎 (訳) フジ出版社 1979年 |
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* ポール・スティルウェル『Air Raid, Pearl Harbor!』ネ―バルインスティテュート 1981年 |
* ポール・スティルウェル『Air Raid, Pearl Harbor!』ネ―バルインスティテュート 1981年 ISBN 978-0870210860 |
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* ウォルター・ヒクソン『Pearl Harbor in History and Memory: The American Experience in World War II』ラウトレッジ 2002 ISBN |
* ウォルター・ヒクソン『Pearl Harbor in History and Memory: The American Experience in World War II』ラウトレッジ 2002 ISBN 978-0415940320 |
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* ウォルター・ロード『ニイタカヤマノボレ―12月8日の真珠湾 』大久保 康雄(訳) 早川書房 1962年 |
* ウォルター・ロード『ニイタカヤマノボレ―12月8日の真珠湾 』大久保 康雄(訳) 早川書房 1962年 |
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* [[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]]『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』千早 正隆 (訳) 日本[[リーダーズダイジェスト]]社 1969年 |
* [[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]]『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』千早 正隆 (訳) 日本[[リーダーズダイジェスト]]社 1969年 |
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* ドナルド・M・ゴールドスタイン [[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]]『December 7, 1941: The Day the Japanese Attacked Pearl Harbor』 Grand Central Publishing 1989年 |
* ドナルド・M・ゴールドスタイン [[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]]『December 7, 1941: The Day the Japanese Attacked Pearl Harbor』 Grand Central Publishing 1989年 |
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* [[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]] ドナルド・M・ゴールドスタイン キャサリン・ディロン『At Dawn We Slept: The Untold Story of Pearl Harbor』ペンギンブック社 1981年 ISBN |
* [[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]] ドナルド・M・ゴールドスタイン キャサリン・ディロン『At Dawn We Slept: The Untold Story of Pearl Harbor』ペンギンブック社 1981年 ISBN 978-0140157345 |
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* ベス・ベイリー デビット・ファーバー共著『The First Strange Place』ジョンズ・ホプキンス大学出版 1994年 |
* ベス・ベイリー デビット・ファーバー共著『The First Strange Place』ジョンズ・ホプキンス大学出版 1994年 |
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* ロバート・ラフォルテ ロナルド・マルチェロ『Remembering Pearl Harbor: Eyewitness Accounts by U.S. Military Men and Women』スコライリ―・リソース社 1991年 ISBN |
* ロバート・ラフォルテ ロナルド・マルチェロ『Remembering Pearl Harbor: Eyewitness Accounts by U.S. Military Men and Women』スコライリ―・リソース社 1991年 ISBN 978-0842023719 |
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* ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録(上)』 津島一夫訳、朝日新聞社 |
* ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録(上)』 津島一夫訳、朝日新聞社 |
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* シドニー・メイヤー 『マッカーサー 東京への長い道 第二次世界大戦ブックス23』 芳地昌三訳、[[サンケイ新聞社]]出版局、1971年 |
* シドニー・メイヤー 『マッカーサー 東京への長い道 第二次世界大戦ブックス23』 芳地昌三訳、[[サンケイ新聞社]]出版局、1971年 |
2016年11月15日 (火) 18:55時点における版
真珠湾攻撃 | |
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炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機 | |
戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争 | |
年月日:日本時間1941年12月8日未明, ハワイ時間12月7日 | |
場所:アメリカ合衆国ハワイ州(当時はアメリカ合衆国の準州)オアフ島真珠湾 | |
結果:日本の圧勝と対米戦勃発 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
南雲忠一 | ハズバンド・キンメル ウォルター・ショート |
戦力 | |
航空母艦6隻 戦艦2隻 重巡洋艦2隻 軽巡洋艦1隻 駆逐艦9隻 特殊潜航艇5隻 艦上航空機350機他 |
戦艦8隻 重巡2隻 軽巡6隻 駆逐艦30隻 その他48隻 カタリナ哨戒機14機 基地航空機399機 |
損害 | |
未帰還機29機 損傷74機 戦死55 特別攻撃隊:未帰還5隻 戦死9 捕虜1 |
戦艦4隻沈没 戦艦1隻中破 戦艦3隻小破 軽巡洋艦2隻大破 軽巡洋艦1隻小破 駆逐艦2隻大破 駆逐艦1隻中破 標的艦1隻沈没 その他1隻沈没、2隻小破 航空機188破壊 航空機155損傷 戦死2,345 民間人68 |
真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英: Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾[注釈 1]にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である。
当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、イギリスの植民地のマレー半島のイギリス軍に対するマレー作戦に次いで開始された作戦である。一方的な戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に喪失した。
背景
作戦構想
オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年(明治41年)に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、中には戦艦と撃ち合える40cm砲も設置されていた。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。日本軍は工事労働者に変装したスパイを多数送り込み、要塞の詳細を把握していたと言われる[誰?]。また1910年(明治43年)11月、山本英輔海軍少佐が斎藤実海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出している[1]。
日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は異なる構想を持っていた。アメリカに長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えており、1928年(昭和3年)の時点でハワイ攻撃を提唱していた。
1941年1月14日頃、連合艦隊司令長官山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎に手紙があり、1月26日、27日頃長門を訪ねた大西は山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼された[2]。手紙は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった[3]。
鹿屋司令部に戻った大西は、幕僚である前田孝成に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談したが、真珠湾は浅いため技術的に不可能という回答だった。2月初旬、今度は第1航空戦隊参謀源田実を呼びつけ、中旬に訪れた源田に大西は同様の質問をした。源田からは、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではないという回答があった。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼する。源田は2週間ほどで仕上げて提出、それに大西が手を加えて作案し、3月初旬頃、山本に提出した[4]。
源田案は、出発基地を父島か厚岸として、空母を200海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。一つ目は雷撃可能な時、艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案、二つ目は雷撃不可能な時、艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。航路は機密保持のために北方から進攻する。急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になるため計算に入れなかった[5]。これに対して大西は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行うこと、出発を単冠湾として作案した[6]。9月頃、源田が大西から参考のために手渡されたものには、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、戦艦に致命傷がなくても行動できなくすることになっていたという[7]。
山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ所期効果を期待しえないので空襲作戦は断念するつもりであった。しかし、不可能ではないと判断されたため、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった[8]。
真珠湾の状況
1898年7月、アメリカはハワイ併合を行うと[9]、順次海軍基地を整備していき、太平洋上における戦略上の軍事拠点として、またフィリピンへの中継拠点として、その存在意義が高まっていった。1940年5月には、日本の南方政策を牽制するためサンディエゴに駐留していた太平洋艦隊の主力が、ハワイの真珠湾に駐留するようになった[10]。当時のハワイはアメリカが巨費を投じて構築した要塞であり、太平洋のジブラルタルと呼ばれ、難攻不落と思われていた。軍事評論家フレッチア・ブラッドは「真珠湾はおそらく、世界中で最良の海軍基地であり、これほど最良の位置にあり、最高に防御され、また最高に補給された基地は他のどこにもない。」と評価し[11]、アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーも「真珠湾はアメリカが太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛陣は高射砲陣地、アメリカの持つ最も優秀な航空機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらにアメリカ太平洋艦隊に守られ、当時私がもっていた不完全な陸海空の間に合わせ部隊に比べれば、お話しにならないほど強力なものだった。」と分析していた[12]。アメリカの新聞が「日本は我々を攻撃することはできない。それは軍事的に不可能なことである。ハワイの基地でさえ日本の艦隊の有効な攻撃力の圏外にある。」と報じ、ジャーナリストのクラーク・ビーチが「日本の真珠湾に対する攻撃は、もっともありうべからざることで ある。成功のチャンスは百万にひとつしかない。」と寄稿したように、アメリカの国民や軍の多くの人々は“金城鉄壁の真珠湾”という真珠湾の触れ込みを信じ切っており、日本軍の攻撃への警戒が非常に希薄であった[13]。
しかし、ハワイへの空からの攻撃の可能性については、かなり前から指摘され続けており、古くは1920年代に航空主兵論の熱心な論者ウィリアム・ミッチェルが、ハワイ・オアフ島の防空体制の不備を指摘する意見を公表しており[14]、また1932年にはアジア艦隊司令官ハリー・E・ヤーネル大将が、日本が宣戦布告前に空母でハワイもしくはアメリカ西海岸を攻撃する可能性を指摘し、実際に就役間もない空母レキシントンとサラトガを使用し、オアフ島沖96㎞の海上から真珠湾を奇襲する模擬訓練を行ったところ、完全に成功している[15]。第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍の快進撃が続いていた1940年になると、太平洋艦隊司令長官ジェームズ・リチャードソン大将はフランクリン・ルーズベルト大統領に太平洋艦隊主力を真珠湾に置いていることの危険性について進言すると共に、日本軍の奇襲に備え洋上哨戒を強化したが、ルーズベルトとは意見が合わず、1941年2月にはハズバンド・キンメル大将が太平洋艦隊司令に就任している[16]。
キンメルも前任のリチャードソンと同様に、オアフ島の危険性については十分認識しており、司令になると直ちに「開戦の布告に先立って、真珠湾の艦船に攻撃があるかも知れない」と極秘指令を出し艦隊に警戒をよびかけた。また、1941年8月にはハワイ陸軍航空隊指揮官、フレデリック・L・マーチン少将と第5爆撃航空隊指揮官ウィリアム・C・ファーシング大佐と数名のスタッフによる作戦研究で「日本海軍は6隻の空母を使用し、北方から攻撃をかけてくる。オアフ島に対する攻撃は早朝が敵にとってもっとも有利であろう。」という、ほぼ完全に日本軍の作戦を予見した研究結果が出て、キンメルや陸軍省にも報告されている[17]。しかし、この頃のアメリカは大西洋の戦局に大きな関心を向けており、日本軍の真珠湾での攻撃の可能性については十分に認識していたが、それを現実的な脅威とは考えていなかった。キンメルはハロルド・スタークアメリカ海軍作戦部長に「大西洋の問題を問題を軽く見るわけではないが、ここから見ていると、太平洋は依然として世界情勢の一部である。」と愚痴めいた書面を贈ったのに対し、スタークは「私自身はジャップがやってくるとは思わない」と答えている[18]。
それは、ハワイ方面陸軍司令長官ウォルター・ショート中将の陸軍も同様で、ハワイには二個師団の防衛部隊が配置されていたが、常に補給と訓練の問題に悩まされていた。強力な戦力となる『空の要塞』B-17はアメリカ本土の工場で製造されると、オアフ島に空輸されて武装その他の最終装備が施されるが、それからB-17はハワイに殆どとどまることなく、フィリピンに送られていた。陸軍の誰もがハワイでB-17が必要になるとは思っていなかったからである[19]。こうした大西洋重視、日本軍に対する過小評価がアメリカ軍の油断を生じさせていた。
計画
攻撃順序の主目的は戦艦・空母、副目的は航空基地・敵飛行機となった。その意図は、心理的効果と、敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪うためには、戦力を二分して敵艦隊と工廠、油槽等施設を攻撃していずれも不徹底に終わるより水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えたためである。水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断したため、工廠や油槽などの後方施設の戦略的価値の重要性は認めながらも、兵力の関係から見逃さざるを得なかった[20]。山本はハワイ空襲と関連し、ハワイにはアメリカ海軍の半数が存在したため捕虜にすれば回復が困難と見てハワイ上陸も相談していた[21]。
実施部隊に作戦が伝えられると、第一航空艦隊では、先任参謀大石保と航空参謀源田実にハワイ奇襲作戦実行計画の完成を命じた[22]。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、予定通り洋上燃料補給ができない場合を考慮して艦艇の航続力が問題となったが、燃料問題は一航艦長官南雲忠一の責任で軍務局の暗黙の了解を得て、燃料庫以外にもドラム缶で、法規上許されない各艦の強度が許すかぎりの燃料を搭載することで解決した[23]。
使用航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、9月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母2隻となり、連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にすること、山本の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成することから、搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部は4隻案で考えていた[24]。1941年10月9日-13日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。軍令部航空部員三代辰吉はこの研究会出席のため出張してきたが、研究会に間に合わず終了後来艦し、六隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った[25]。
軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。
実施許可
第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎と第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地のフィリピン方面に集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した[26]。
10月19日連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は作戦実施を認めた。
また草鹿龍之介によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げし陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたようだという[27]。
空襲の準備
真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[28]。また、この作戦のため空中指揮官淵田美津雄と雷撃専門家村田重治が指名されて一航艦に異動した[29]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[30]。
当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、フォード北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[31]。
技術的な課題は、第1に水深12mという浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、第2に戦艦の装甲をどうやって貫通させるか、の2点であった。
第1の点に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた愛甲魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑えることに成功したことと、鴨池航空隊による超低空飛行訓練により、最低60mの水深が必要だったものを10m以下に引き下げることに成功、実際の攻撃では投下された魚雷40本のうち、射点沈下が認められたのは1本のみであった。第2の点に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施され、模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場(現;日立金属安来工場)製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。
鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった[32]。なお、ワイキキやダウンタウンなどの市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が厳重に言い渡されていた。
特殊潜航艇の準備
航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであったり、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想があったことを示している。[33]。甲標的は1940年9月に正式採用され34基の建造が命令された。1941年1月中旬から訓練が開始され、8月20日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。訓練により戦力化に目処が立つとともに日米関係が悪化する状況に、搭乗員から開戦時に甲標的を使って港湾奇襲を行うべきであるとの意見が盛り上がり、先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束した。
9月初旬に原田艦長と岩佐中尉が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが搭乗員の生還が難しいことから却下された。司令部を納得させるため、甲標的から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行ったが、搭乗員の収容に確実性がないとの山本長官の判断で再度却下された。部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長する等の研究を行い、10月初旬に三度の具申を行った。この結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、ついに計画が採用された。10月11~13日に長門で行われた図上演習には甲標的を搭載した潜水艦5隻による特別攻撃隊が使用された。特別攻撃隊の甲標的5隻には岩佐大尉ら10名の搭乗員が選抜され、作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊一六、伊一八、伊二〇、伊二二、伊二四が選ばれた。[34]
攻撃直前の真珠湾
1941年11月27日午前9時にホノルルにて、太平洋艦隊司令官ハズバンド・キンメル大将とハワイ方面陸軍司令長官ウォルター・ショート中将を筆頭とするハワイ駐屯のアメリカ陸海軍の幕僚が、ウェーク島とミッドウェイ島への増援について協議していた。両島に陸軍航空隊の戦闘機を増援として送ることの是非について話し合われていたが、両島ともに荷揚げ桟橋の設備がなかったため、陸軍機を空母に搭載して、両島に到着したら空母から発艦して飛行場に着陸させる必要があった。陸軍機は発艦はできても着艦はできなかったため、両島へ送った陸軍機はハワイの防衛に再び利用できない可能性があった。そこで陸軍参謀のジェームス・モリソン大佐が「我々の任務はオアフ島を守ることであって、陸軍機を両島に派遣することは、防衛能力を低下させることになります。」と意見を述べるとキンメルは「君はなぜそんなに心配するのか?我々が攻撃を受けるとでも思っているのか」と質した。そして、海軍のマックスモリス参謀に「日本軍がここを飛行機で攻撃してくる見込みについて、どう思うかね?」と聞くと、マックスモリスは「そんな見込みはまったくありません。」と答えている[35]。
会議が終わった後にキンメルとショートはそれぞれ陸海軍省から日米交渉が破局に至ったことの連絡と、日本軍が近日中に戦争行為を起こす可能性が高いので警戒を怠らないようにとの指示があったが、キンメルに届いた警報については、日本軍の侵略的行動に対する警戒の呼びかけの後段に、日本軍が上陸作戦を行う可能性が高い地域として、フィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオが挙げられていたため、深刻には受け取られず、哨戒が取り立てて強化されることもなかった。そのため予定通りウェーク島とミッドウェイ島には増援を送ることとし、翌28日に、ウェーク島にはウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将率いる第8任務部隊の空母エンタープライズと3隻の重巡洋艦と駆逐艦隊を派遣することとした。キンメルはハルゼーに「戦艦を連れていくかね?」と尋ねるとハルゼーは「高速で行かなければいけないときに足手まといになるからいりません」と拒否している。逆にハルゼーが「日本軍と行き会った場合はどうするんです?」とキンメルに指示を仰ぐと、キンメルは「常識でやるんだよ」と暗に攻撃を許可した。それを聞いたハルゼーは「射程距離に入ってきたらただちに撃沈します。」と宣言している。但し、前日の会議の陸軍の意見を尊重し、陸軍の戦闘機は搭載せず、海兵隊の兵士と戦闘機を搭載し出港した[36]。さらに12月4日には空母レキシントンが陸軍機を満載し、重巡洋艦3隻と駆逐艦を護衛に引き連れて真珠湾を出港し、日本軍攻撃前に真珠湾から全ての空母がいなくなってしまった[37]。
12月6日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方にルーズベルト大統領に翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ。しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントはまったくなかった。しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後にすべての暗号機を破壊せよとの指令も付されており、攻撃時間を連想されるものであったが、そのワシントン時間午後1時が、ハワイ時間7時30分であることを思いつく者はいなかった[38]。この情報を陸軍情報部から知らされた海軍は、海軍情報部長セオドア・S・ウィルキンスン大佐がスターク作戦部長にすぐにでもキンメルに知らせるべきと進言したが、スタークは「ハワイの防衛は陸軍の責任であるため、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将からハワイに連絡するべき」と考え、マーシャルに要請した。マーシャルもこの覚書が開戦を意味すると考えて、ハワイとマニラに警報を送ることとしたが、手続きに時間がかかった上に、ハワイの陸軍無線機が故障しており、商用チャンネルを通じてこの警報がショートに届いたのは、攻撃が終わった数時間後でそれも自転車にのった少年から配達された[39]
12月6日の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報がキンメルとショートにも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と、真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させると市民に不安を抱かせると判断し、艦隊をそのまま在港させることとした。しかし、これは真珠湾の攻撃を予測していたのではなく、あくまでもワシントン当局の警告通り、日本軍が攻撃してくるのは東南アジアだと考えていた[40]。ショートにはさらにFBIが盗聴したホノルル東京間の新聞特派員の国際電話通話記録の情報が報告された。その通話記録では、特派員が東京とオアフ島上空の天候などを頻繁に話し合うなど、航空攻撃を示唆するような情報であったが、ショートも幕僚もこの情報の重要性に気が付くことは無かった。真珠湾攻撃前夜となったこの夜は、キンメルもショートももたらされる重要情報に気を配る事もなく、どちらもパーティに出席し飲酒している[41]。
経過
ニイタカヤマノボレ
1941年11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。
11月13日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。山本長官は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。これに二、三の指揮官が不服を唱えたが、山本は「百年兵を養うは、ただ平和を護るためである。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、ただいまから出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったという[42]。
11月17日、山本は佐伯湾にあった赤城を訪れ、機動部隊将兵を激励するとももに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している[43]。11月22日、南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結[44]。出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃することを告げた[45]。赤城艦長は山本長官の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している[45]。11月26日8時[46]、南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾を出港した[47]。
航路は奇襲成立のため隠密行動が必要であった。連合艦隊参謀の雀部利三郎が過去10年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べ、その結果11月から12月にかけては北緯40度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し[48]、困難な北方航路が採用された[49]。
なお、草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったという[50]。
12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。12月2日17時30分[46]、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文が発信された[51]。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「X(エックス)日を12月8日(日本時間)と定める」の意の符丁であった[注釈 2]。ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。重責を背負った南雲は航海中、えらいことを引き受けてしまった、断ればよかった、うまくいくかしら、と草鹿に語りかけたと言う[52]。
12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。草加は189機が発進したとしているが、爆装の艦攻50機が戦艦を、雷装の40機が戦艦および空母を目標とし、艦爆54機は航空基地を、艦戦45機は空中および地上の敵機を目標と定めていたという[53][54]。
午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。草鹿によれば54機の艦攻は航空基地を、81機の艦爆は空母および巡洋艦を、36機の艦戦はやはり敵機を目標と定めていた[53][55]。
なお敵空母の動勢は不明であったが、付近を索敵するなどの案は排され、真珠湾攻撃に全力が向けられた[56]。また攻撃隊を二派に分けているのは航空母艦の飛行甲板の広さや滑走距離による制限である。当時の日本の航空母艦は、搭載する全航空機を全て甲板に並べ、一斉に発進させることはできなかった[57]。
なおこの攻撃に先立ち、陸軍はイギリスの植民地のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば、その情報が直ちにイギリスからアメリカに伝えられることとなり、他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった[58]。しかし、結果的にマレー上陸の報がアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響することはなかった。
トラ・トラ・トラ
ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。当時ハワイには移動式のサーチレーダーステーションが6箇所設置されていた。その内、オアフ島北端のオパナに設置されてあったレーダーステーションが、6時45分から7時の間に、真珠湾を偵察にきた日本軍の偵察機の機影を発見した。レーダーを操作していた二人の二等兵はまだ訓練途上であり、この日も実際に敵機を見張るというよりは、操作の訓練という意味合いの方が強かった。兵士はすぐに機影を発見したことを無線情報センターに連絡したが、当直の少尉も経験がない新米少尉であり、この報告を聞き流した上で、レーダーを撤収して帰還を命じている。しかし7時2分には多数の機影がスクリーン上に現れた。それはどうみても100機以上の大編隊に見えたため、あわてて再度当直少尉に電話したが、少尉は本土からB-17が飛来する予定と聞いていたため、その機影をB-17のものと思い込み、兵士らに「忘れろ」と命じている[59]。
7時10分(日本時間8日午前2時40分)には、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった。このようにアメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を何度も逃しており、ワシントンかハワイにいる責任のある者のたった一人でももう少し用心深ければ日本軍の奇襲は成功しなかった[60]。
7時35分(同3時5分)に航空隊はオアフ島北端カフク岬を雲の切れ目に発見し7時40分(同3時10分)に「突撃準備隊形作れ」を意味する「トツレ」が発信され、信号弾が発射された。この際、奇襲の場合[注釈 3]には合図が信号弾1発で火災による煙に妨げられることない状況で対艦攻撃を実施させるべく艦攻による攻撃を先行させ、強襲の場合には合図が信号弾2発で艦爆による対空防御制圧が先行させる作戦計画になっていたが、信号弾1発で村田重治率いる雷撃隊が展開行動を起こさないのを見て淵田美津雄は合図を見逃したと誤解しもう1発信号弾を発射、艦爆隊指揮官である翔鶴飛行隊長高橋赫一海軍少佐はこれを合わせて信号弾2発と誤解し先行した[61]。
間もなく重巡筑摩の偵察機から「在泊艦は戦艦一〇、甲巡一、乙巡一〇」との報告があり、それと前後してラハイナ泊地に向かった重巡利根の偵察機からは「敵艦隊はラハイナ泊地にはあらず」との報告が入った[61](草鹿によれば筑摩より、3時10分に入った報告とされている[62])。
7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した[46]。
7時52分(同3時22分)、淵田は旗艦赤城に対してトラ連送「トラ・トラ・トラ」を打電した[46]。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号である[61]。この電波は赤城で中継したが、中継を待つまでもなく広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営でも指揮官機の電波を直接受信した[61]。7時53分(同3時23分)に赤城から「隊長、先の発信、赤城了解」と返信があった[61]。奇襲に成功したことを知った草鹿は南雲の手を固く握り落涙したと言う[63]。
航空機による攻撃は8時00分(同3時30分)に雷撃により開始される予定だったが、これより5分早い7時55分(同3時25分)に急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ250kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となった[46]
ホノルル海軍航空基地作戦士官ローガン・ラムジー中佐は7時55分ごろに基地に対して急降下してくる航空機の耳をつんざく音に気が付き、近くにいた当直士官のバリンジャー大尉に「あいつの機体番号を調べろ。あいつの安全ルール違反を報告しなきゃならん」と命令した。その航空機はさらに突っ込んできたため、ラムジーは「機体番号はわかったか?」とバリンジャーに聞いたが「いや、わかりません。赤のバンドがついてるから隊長機と思います。」という返答があった。ラムジーが苦々しい顔をしているとバリンジャーが「急降下爆撃機が機体を引き起こして上昇するとき何か黒いものが落下しました。」と報告した瞬間に凄い爆発音が格納庫の方で鳴り響いた。ラムジーは表情を強張らせ「ディック、飛行隊長を調べる必要はない、あれは日本の飛行機だ」と叫ぶと、無線室に向かって廊下を走り、当番兵に次の電文を平文で打てと命じた[64]。
Air Raid Pearl Harbor This Is No Drill !!!(真珠湾空襲、演習にあらず)
この史上もっとも有名なものの一つとなった電報は、攻撃が始まってしばらくしてからようやく海軍省のフランク・ノックスアメリカ合衆国海軍長官に伝えられた。その電報を手にしたノックスは「何だと!こんなことはあり得ない!フィリピンのことに違いない!」と報告したハロルド・スタークアメリカ海軍作戦部長に向かって叫んだが、スタークは「いや長官、これは真珠湾のことです。」と答えている[65]。
真珠湾空襲、演習にあらず
機雷敷設艦オグララの甲板上を歩いていた太平洋基地部隊司令官ウィリアム・ファーロング少将は、航空機が急降下して航空基地の格納庫に向けて爆弾を落とすところを見た。しかし、これがアメリカ軍機でないとは夢にも考えず「爆弾投下装置をしっかり止めておかないとは、なんとまぬけなパイロットだ」と舌打ちしたが、その航空機が左に大きく機首を起こした際に、主翼の日の丸マークがはっきりと見えた。ファーロングは状況を理解すると、「日本軍だ」「配置につけ」と叫びながら、オグララの艦橋に向かい『在港の全艦艇出撃せよ』と警報を出させた[66]。
続いてヒッカム飛行場からも爆煙が上がった[61]。雷撃隊を率いていた村田重治は正しく奇襲と理解し予定通りヒッカム飛行場上空を通る雷撃コースに入ろうとしていたがヒッカム飛行場からの爆煙に驚き、目標が見えなくなっては一大事と近道を取り、7時57分(同3時27分)に雷撃を開始した[61]。淵田美津雄は飛行場攻撃の爆煙があまり激しくならないうちに水平爆撃を開始する旨を決意し、水平爆撃隊に「突撃」(ツ・ツ・ツ・・・のツ連送)を下命した[61]。8時00分(同3時30分)、戦闘機隊による地上銃撃が開始され、8時5分(同3時35分)、水平爆撃隊による戦艦爆撃が開始された。
アメリカの軍艦は朝8時ちょうどに艦尾に星条旗を掲揚するという習わしがあり、この日も各艦の後部露天甲板に士官と水兵が整列していたが、その時に日本軍の攻撃が開始された[67]。ネバダでは23名の軍楽隊によるアメリカ国歌『The Star-Spangled Banner』の演奏が開始されていた。その上をアリゾナに魚雷を投下した雷撃機が低空飛行で飛び越えていったが、軍楽隊は誰も隊列を離れることなく最後まで演奏している[68]。
最初の魚雷は8時前にウエストバージニアに命中し、8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こしたが、大爆発で吹き上げられた鋼鉄や木片やキャンバスやアリゾナ乗組員の遺体の一部が近くの戦艦に沢山降り注いだ。爆発で約1,000名の乗組員は即死し、海上に投げ出された生存者も殆どが大火傷を負っており、他の艦の乗組員はどう救出してよいか途方に暮れた[69]。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった。日本軍の攻撃で“戦艦通り”と呼ばれた戦艦泊地(バトルシップロウ)の主力戦艦部隊は、攻撃開始後のわずか15分後となる8時10分には、カリフォルニアは半分沈没し、ウエストバージニアは大破炎上し、メリーランドとテネシーも行動不能に陥るなどほぼ壊滅してしまった。あまりにも濃い黒煙が戦艦泊地を覆ってしまったため、どの艦がやられたのか殆ど判らないほどであった[70]。
オアフ島各航空基地は、日系人による破壊工作を警戒し、警備しやすいように航空機を分散せず、集結させて配置していた。これが、裏目に出て、日本軍の爆撃や銃撃で航空機の損害を大きくする結果を招いた[71]。ハワイ航空軍のオアフ島防衛の要となるホイラー飛行場は、真珠湾攻撃で一番目に日本軍の攻撃を受けることとなった。ホイラー飛行場には、アメリカ陸軍航空隊主力戦闘機P-40、87機を主力とする180機が配備されていたが、坂本明大尉率いる急降下爆撃隊25機の爆撃で、集結駐機していたアメリカ機の燃料に引火し、次々と航空機が炎上、また板谷茂少佐率いる制空隊の戦闘機43機も地上に並んでいるアメリカ軍戦闘機に機銃掃射を行い次々と撃破、たちまち半数の88機が撃破され戦闘力を喪失した。爆撃機が主力のヒッカム飛行場も同様の攻撃で大打撃を被り、34機の爆撃機が撃破され、航空基地では最大の人的被害となる182名の戦死者を出し壊滅した[72]。
太平洋艦隊司令官キンメルは、この日は早朝からハワイ方面陸軍司令長官ショートとゴルフの予定であったが、ワード号事件の報告があり、司令部に出頭するため、ゴルフを諦めて着替えに一旦自宅に帰っていた。そこへ司令部から「日本機、真珠湾を攻撃中」という電話が入ったため、驚愕したキンメルは受話器を叩きつけ、慌てて戸外に出ると、戦艦列に群がる日本軍機が見え呆然と立ち尽くした。キンメルは迎えに来た車両に飛び乗ると、8時5分には司令部に到着したが、車から降りる際には爆弾の爆発音や対空砲火の砲声などの爆音や、火薬や燃料の匂いで、周囲は地獄さながらの状況となっていた[73]。司令部についてもキンメルにできることは、戦艦隊が日本軍機に攻撃される状況を見守るだけであった。その時、流れ弾がガラスを破って、窓際で戦況を見つめていたキンメルの胸に当たった。しかし、流れ弾には勢いがなく、軍服の胸の部分に黒い汚れを残しただけであったが、キンメルは悲嘆と絶望で「いっそのこと、この弾が私を殺してくれたらよかったのに」とつぶやいたのを副官が聞いている[74]。
ホノルルの繁華街では、水兵たちがバス、タクシー、乗用車、軍用トラックといったあらゆる交通手段を使って基地に辿りつこうとしていた。それにパトカーや消防車などの緊急車両も加わり、真珠湾に向かう二車線のアスファルト道路は車で溢れたが、制限速度を守っている車はなかった[75]。その頃、真珠湾で日本軍の攻撃に曝されているアメリカ兵たちは、日本軍のパイロットの技量に驚愕していた。この日の朝までアメリカ人は日本軍の航空戦力など取るに足らず、三流のパイロットが操縦する二級品の飛行機の寄せ集めと思い込んでいた。しかし、日本軍の急降下爆撃機は見事な降下で針の先に命中させるような精度で爆弾を命中させ、雷撃機は教科書通りの魚雷投下を行っていた。特にアメリカ兵を驚かしたのは日本軍機の低空飛行であり、あまりにも巧みに低空を飛行していくため、戦艦泊地に突撃を開始した雷撃機は、海軍工廠病院の最上階(三階)から見下すことができ、日本軍機の操縦席どころかパイロットの表情まで見えたほどであった[76]。
日本軍の第一波攻撃がひと段落した頃に被った損害が明らかになってきたが、戦艦2隻が完全に撃沈、戦艦3隻が大破し、多数の死傷者が出ているとの報告を聞いてキンメルは苦悶の声を上げた。キンメルは日本軍に対する復讐のチャンスを願ったが、この大敗北が自身の海軍生活に終止符をうつものであるということも十分認識しており、事実、その通りとなった[77]。
第二波攻撃
ハワイ時間午前8時54分(日本時間4時24分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。水平爆撃隊の艦攻54機は航空基地を爆撃し、急降下爆撃隊78機が第一波が大損害を与えたアメリカ艦船に追い打ちをかける作戦であった[78]。しかし、アメリカ軍は第二波攻撃隊襲来まで攻撃が下火になった15分~30分の“小休み”を使って、攻撃に対する準備を行っていた。飛行場の滑走路に飛び散った残骸を片付け、対空機銃や高射砲を据えつけ、海兵隊や陸軍歩兵は陣地を構築し、小銃まで対空射撃に投入した[79]。旗艦赤城の阿部善次大尉は熾烈なアメリカ軍の対空砲火を見て「オアフ島の北端に達するやいなや、激しい防空放火が次第に我々に近づいてきたので、ぞっとするものを感じた。」と述べ、急降下爆撃隊の千早猛彦大尉は「敵の防御砲火熾烈」と打電している。また、攻撃隊が真珠湾に侵入したときには大火災の黒煙で戦艦泊地(バトルシップ・ロウ)が覆われており、正確に爆撃するのが困難となっており、攻撃隊は激しい対空砲火をあびながら、狙うことが可能な目標を攻撃するしかなかった[80]。
戦艦「ネバダ」は第一波攻撃で魚雷が命中していたのと、近くで爆沈したアリゾナの燃料火災が迫っていたため、外洋に退避することとした。そのために戦艦泊地の投錨地のブイに係留している舫を解くためエドウィン・J・ヒル大尉と部下が作業していたところに急降下爆撃機が襲い掛かり、舫を解いた刹那に日本軍機が投下した爆弾がヒルらが作業していた近くの海面に着弾し、ヒルらは戦死した。舫が解けたおかげでネバダは戦艦泊地を脱出することができ、外洋に向け南水路を前進始めた[81]。しかし、急降下爆撃隊隊長の江草隆繁少佐が発見、江草は源田より戦艦を主水道で沈没させ真珠湾を封鎖できるチャンスを掴むよう指示されており、これが絶好のチャンスと感じ、攻撃を集中した[82]。激しいネバダや地上からの対空射撃に急降下爆撃機はたちまち3機を撃墜されたが、ネバダも6発の直撃弾と2発の至近弾を浴びて沈没の危機に瀕した。それを地上の艦船管制塔から見ていたファーロングが、ネバダに浅瀬に退避するよう信号を送ると共にタグボート2隻を派遣した。ネバダは指示通り外洋脱出を諦め、ホスピタル・ポイント(避難用浅瀬)にタグボートの支援を得ながら到達し、自ら座礁し沈没を回避した[83]。他の急降下爆撃機は戦艦「ペンシルバニア」や駆逐艦が収容されていたドッグへの攻撃を行ない、ペンシルベニアを損傷させ、駆逐艦3隻に大きな損害を与えた[84]。
艦攻隊と制空の戦闘機隊はフォード島の航空基地攻撃を行った。飯田房太大尉率いる蒼龍の零戦隊は、陸軍航空隊ベロース基地を攻撃し、離陸しようとするP-40戦闘機を機銃掃射で撃破、また駐機しているP-40にも機銃掃射を加え合計5機を撃破している[85]。その後、蒼龍零戦隊は海軍航空隊のカネオヘ基地に転戦したが、飯田機はカネオヘ基地の対空砲火により燃料タンクが損傷し燃料が噴出が止まらなくなったため、母艦に帰還するのは困難と判断、一旦は列機を帰投進路に誘導した後、引き返しカネオヘ基地の格納庫に突入、自爆した[86]。対空射撃をしたアメリカ兵に機銃掃射を加えながら、兵舎近くの道路に突っ込んだという証言もある。飯田の遺体は四散していたが、日本軍の攻撃が終わった後に、アメリカ海兵隊兵士が丹念に拾い集めてきれいな箱に収めて名誉ある埋葬を行っている[87]。日本軍はハワイの全ての航空基地を攻撃したつもりであったが、もっとも遠方にあったハレイワ基地の存在を知らず、日本軍から攻撃されず被害もなかった。同基地より出撃したケネス・テイラー中尉とジョージ・ウェルチ中尉のP-40は、真珠湾上空で急降下爆撃隊の艦爆4機を撃墜、その後にホイラー飛行場で燃料と弾薬を補給すると再度離陸し、制空隊の零戦2機~3機を撃墜し一矢を報いている[88]。ホイラー飛行場からはテイラーとウェルチ以外も4機の戦闘機が離陸し、日本軍機を迎撃しているが、蒼龍零戦隊で飯田の部下であった藤田怡与蔵中尉もその空戦に参戦し、P-36戦闘機1機を撃墜している[89]。
多くのハワイの市民は、8時少し前に始まった砲声や爆発音で騒ぎを知ったが、1941年初めより太平洋艦隊は実弾演習を繰り返しており、今回も演習と思って無視しようとした。低空を飛び交う日本軍機や落下してくる高射砲の破片等でいつもの演習ではないことを認識し、パジャマ姿のまま家を飛び出し真珠湾方面に上がっている黒煙を見たが、それでも攻撃と認識できない市民も多かった。ホノルル市長のレスター・ペトリーもその内の一人で、この日を振り返って「演習用の煙幕であり、私はあれが完璧なデモンストレーションと思っていた。」と述べている[90]。
ラジオ局のKGMBは日本軍攻撃開始前まで通常の番組を放送していたが、まず8時4分に通常の番組を中断してアナウンサーのウェブリー・エドワーズが全軍人・軍属に基地に召集する軍の短い声明を読み上げた。その後は通常番組に戻ったが、数分ごとに、消防士、医師、救助隊員等を召集するアナウンスで中断され、ついに8時40分にエドワーズが「この放送を中断して、この重要なニュースをお知らせします。どうかしっかりお聞き下さい。島は攻撃を受けています。くりかえします。島は敵軍の攻撃を受けています。」と伝えた。しかしこの放送を聞いても真に迫った演習と考える市民もおり、中には3年前に宇宙戦争 (ラジオ)のラジオ放送で起こったパニックと同じと疑った市民もいた[91]。仕方なくエドワーズは9時に再度「これは演習ではありません。日本軍が島を攻撃しているのです。これはreal McCoy(真実)なのです。」と震える声で自分を信じてもらいたいと訴えている[92]。
第二波攻撃隊の被害はアメリカ軍の対空砲火が激烈となったため第一波攻撃隊と比べて大きかった。第二波攻撃で未帰還となった日本軍機は20機と第一波の2倍以上となった上、被弾した損傷機も増加し、第二波攻撃隊帰還時点で、艦戦23機、艦爆41機、艦攻10機の合計74機に達しており、損傷機の多くがようやく帰還した状況であった[93]。また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳 一飛曹)は[94]ニイハウ島に不時着、12月13日のニイハウ島事件で死亡した。なお第二波の攻撃の最中に、アメリカ本土から回航されてきたボーイングB-17の第二陣6機がヒッカム基地に着陸しようとしたが、日本軍機による強行着陸と誤認した地上兵に対空砲火を受けたため、3機は無事着陸したものの、2機はハレイワ基地に向かい、残りの1機はカフクにあるゴルフコースに不時着した。
特殊潜航艇による攻撃
機動部隊とは別に特殊潜航艇の甲標的を搭載した伊号潜水艦5隻は下記の編成で11月18~19日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃し、12月7日オアフ島沖5.3~12.6海里まで接近した。特殊潜航艇はハワイ時間午前0時42分(日本時間20時12分)から約30分間隔で順次真珠湾に向かって出撃した。
- 特別攻撃隊指揮官・佐々木半九大佐
- 伊二二搭載・岩佐艇(岩佐直治大尉、佐々木直吉一曹)
- 伊一六搭載・横山艇(横山正治中尉、上田定二曹)
- 伊一八搭載・古野艇(古野繁実中尉、横山薫範一曹)
- 伊二〇搭載・広尾艇(広尾彰少尉、片山義雄二曹)
- 伊二四搭載・酒巻艇(酒巻和男少尉、稲垣清二曹)
湾入り口の対潜水艦防御門が空いていたこともあり、攻撃は5隻全艇が湾内に潜入することに成功し、3隻が魚雷攻撃を行った。しかし4隻が撃沈、出航時からジャイロコンパスが不具合を起こしていたものの、艦長の判断で出港した1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わった[34]。その後、行方不明であった特殊潜航艇が発見され、魚雷は未発射であったことから魚雷攻撃を行ったのは2隻とされている[95]。
近年までは、中村秀樹のように成果なしと評価するものがあったが[96]、特殊潜航艇によって戦艦ウェストバージニアと戦艦オクラホマへの雷撃が行われており、このうちオクラホマは特殊潜航艇による雷撃が転覆をもたらしたとするアメリカ側からの評価がなされている[97]。
日本では、撃沈された4隻(雷撃に成功した1隻は自沈[97])の乗組員8名と、座礁した艇から脱出して水死した1名を加えた9名が二階級特進し、「九軍神」として顕彰された[98]。座礁した艇から艇長の酒巻和男海軍少尉が脱出して漂流中に捕虜となったが公表されなかった。また、九軍神とされた将兵を顕彰する配慮から、撃沈ではなく自沈であり、空中攻撃隊の800kg爆弾で撃沈された戦艦アリゾナは特殊潜航艇による撃沈という発表が大本営から行われた[99][100]。
帰投
機動部隊は攻撃隊の収容に備え真珠湾北方190裡にまで南下していた[101]。
攻撃後は次席指揮官の第三戦隊司令官三川軍一から再攻撃の意見具申があった[102]が、一航艦長官南雲忠一は参謀長草鹿龍之介の進言もあり、予定通り離脱した[103][注釈 4][104]。山口多聞は「第二撃準備完了」とそれとなく催促はしたが、搭乗員や参謀からの再攻撃を意見具申する要望に「南雲さんはやらないよ」と意見具申まではしなかった[105]。連合艦隊司令部では連合艦隊長官山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言したが、山本は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令は発しなかった[106]。
日本時間午前8時30分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。午前9時頃、日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた。
軍令部は、南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまで米艦隊主力を抑え、かつ敵減殺を本作戦の主目的としていたため、一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した[107]。一方、連合艦隊長官山本五十六は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたいという考えだったが、草鹿によれば南雲にはその真意が知らされていなかったという[108]。また、アメリカ側ではヘンリー・スティムソン陸軍長官が真珠湾攻撃について次のように評している。「日本が戦略的にはばかげた行為であったが戦術的には大成功をおさめたことを私が知ったのは、その日の夕方になってからであった。(当初、スティムソンはハワイの部隊が反撃して、日本の攻撃部隊に大損害を与え得るだろうと考えていた)」「日本軍部は唯一の終局の結果しかない戦争をはじめたのであるが、日本のすべり出しは明らかにすばらしいりっぱなものであった。」[109]
12月8日、山本五十六連合艦隊司令長官は第一艦隊の戦艦長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城及び第三航空戦隊(空母《瑞鳳、鳳翔》、三日月、夕風)と護衛駆逐艦(若葉、子日、初春、初霜、有明、夕暮、白露、時雨)等を率いて瀬戸内海を出撃した。その際、司令部付だった近江兵次郎は藤井茂参謀に「野村大使の書類は間に合ったか?」と尋ねる山本連合艦隊司令長官を目撃している。なお同日、瀬戸内海では大和型戦艦大和が試験航海を終えて呉へ帰港中であり、豊後水道で長門らとすれ違っている[110]。南雲機動部隊収容のためという名目だったが、特に何もせず、対潜哨戒を実施しつつ小笠原諸島附近で反転した[111]。 12月10日、鳳翔は哨戒機収容のため戦艦部隊から分離して風上へ向かい、駆逐艦3隻と共にそのまま行方不明となった[112]。翌日になっても鳳翔との連絡はつかず、長門乗艦の宇垣纏連合艦隊参謀長は『そんな馬鹿げた事があるものか』と呆れている[112]。この時の鳳翔は小笠原諸島東(戦艦部隊から500浬)の地点まで離れており[112]、鳳翔舷側の起倒式アンテナは波浪でもぎとられていた[111]。12月13日、豊後水道を通過[113]。ところが鳳翔入泊を護衛していた駆逐艦早苗が米潜水艦(実際には存在せず)を発見して爆雷攻撃を開始する[114][115]。呉では鳳翔沈没の噂が流れており、鳳翔艦長は山本五十六連合艦隊司令長官から「水戦司令官となった気分だどうだった」と笑顔で迎えられたという[116]。
12月16日、第二航空戦隊司令山口多聞少将の指揮下、「飛龍」「蒼龍」と護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」がウェーク島攻略支援に向かった(ウェーク島の戦い)。12月23日、機動部隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還し、作戦は終了した。
12月26日、異例ながら佐官級による昭和天皇への真珠湾攻撃の軍状奏上が行われ、第一波空中攻撃隊隊長の淵田美津雄中佐は艦船攻撃について、第二波空中攻撃隊隊長の嶋崎重和少佐は航空基地攻撃について奏上した。続く海軍大臣官邸での祝賀会では海軍軍事参議官が参集したり、翌27日に霞ヶ関離宮で成人皇族達と面会するなど真珠湾攻撃の影響の大きさがうかがえる。
アメリカ合衆国恥辱の日
この日、フランクリン・ルーズベルト大統領はホワイトハウスにて来賓30名と昼食会を行う予定であったが、疲労していたため、妻のエレノア・ルーズベルトを通じて断りを入れ、書斎でくつろいでいた。真珠湾攻撃の第一報が届いたのが、ワシントン時間で1941年12月7日午後1時40分であった。フランク・ノックスアメリカ合衆国海軍長官より電話で「真珠湾に空襲、演習にあらず」と知らされたが、補佐官のハリー・ホプキンスがその情報の信憑性を疑っていたのに対して、ルーズベルトは「たぶん本当だ」「これはまさに日本人がやりそうな種類の予期せぬ出来事だ」と述べている[117]。その後にホワイトハウスに外交政策の顧問と軍の首脳を集めて対策を協議したが、ルーズベルトの「損害はどのくらいか?」「日本軍は次になにをやりそうか?」と矢継ぎ早の質問に対し、軍首脳らは十分な回答をするだけの情報を持たなかった。真珠湾の情報がある程度準備できそうな夜8時半に各省の長官を集めて再度会議を招集することを決めて一旦散会したが、ルーズベルトの周囲の人間はルーズベルトがほっとしていたと感じていた。妻のエレノアは「フランリンは心配していたが、長い間そう見えていたよりは落ち着いて見えた。やっと賽が投げられたことを知ってほっとしたのであろう。」と感じている[118]。
9時ごろに全員が到着すると会議が開始された。会議の最中に艦隊の損害状況の報告が何回も入ったが、ルーズベルトはその報告を電話で聞くたびに一同に聞こえるぐらい大きなうめき声をあげ、会議の出席者はルーズベルトの苦悶に強い印象を植え付けられた。ルーズベルトはウッドロウ・ウィルソン政権で8年間も海軍次官補を務め、海軍を並々ならぬ愛情を抱いていた。自らもヨット操縦を本格的に学んだ経験を持つホワイトハウス1のヨットマンで、船舶模型の世界的なコレクターとして有名になるなど船と海を愛していた。そのルーズベルトが自分が手塩をかけて育ててきた海軍が油断につけこまれ、戦闘態勢もとれず満足に動くこともできずに係留されたまま爆弾を落とされた、という事実を受け入れるだけでもみじめな思いであったようで、ノックスに対し「たのむから、なぜ戦艦が列になって係留していたのかつきとめるんだ」と詰め寄ったのに対し、ノックスは「それが停泊のやり方なのです」と答えるのがやっとであった[119]。その後会議に議会の重鎮らも合流したが、あまりのアメリカ軍のぶざまさに、その内の上院議員の1人が「我が軍の軍艦が真珠湾でアヒルのように捕まるということがなぜ起こったのです?やつらは我々がパンツを下ろしているところをどうやって捕まえたんです?我が軍の哨戒機はどこにいたんです?」と怒りの声を上げたが、ルーズベルトは「わからないんだよ、わたしにもね」と答えている[120]。
会議の席でルーズベルトが明日の両院合同議会で行う予定の演説の草案について話し合われたが、ルーズベルトの案がそのまま採用された。ルーズベルトは会議が10時45分に終わり自宅に帰った後も、深夜1時まで草案に手を加えていた。そして翌12月8日12時29分にルーズベルトは議会と国民に向けて演説を行った。『アメリカ合衆国にとって恥辱の日』とのフレーズが印象強いこの演説は、ルーズベルトがコピーライターの力も借りずに完全に独力で書き上げた。聴取率によればアメリカ国民6,000万人が聴いたという、ラジオ史上もっとも聴かれた演説となった[121]。
この演説は国民と議会に熱狂的に受け入れられた。劇作家でルーズベルトの側近でもあったロバート・シャーウッドはこの演説を聞いて「ルーズベルトが全アメリカ国民をこれほど完璧に代表していたことは2度となかった。」と振り返っている[122]。その後も、アメリカ国内で日本軍進攻に対する恐怖が蔓延するなか(#アメリカ本土上陸の恐怖)ルーズベルトは『炉辺談話』としてラジオで国民に語りかけた。
敵が、タイミングを完璧も調整し、見事な手際で遂行して、欺瞞の見事な偉業を成し遂げたことは認めていいでしょう。まったく卑劣な行為でしたが、ナチの流儀で行われる現代の戦争が不愉快なものであるという事実に立ち向かわねばなりません。私たちはこういう戦争を好みません。巻き込まれたかったわけではありませんが、現にこうして巻き込まれ、私たちは持てるもの全てを使って戦うのです。
ルーズベルトは日本軍の成功を否定しなかったが、国民の奮起を促し、団結を呼びかけた。この談話は国民の恐怖やヒステリーを和らげ、ルーズベルトは圧倒的に支持され続けた[123]。
ルーズベルトと議会は、戦争準備と並行して日本軍に真珠湾攻撃を許した責任追及も開始した。攻撃翌日には早くもルーズベルト直々の命により真珠湾攻撃について全面的な調査を行う委員会が組織され、委員会の議長には最高裁判事オーウェン・J・ロバーツが選ばれた。しかし、海軍長官のノックスが攻撃の数日後に被害状況を調査するためハワイを訪れた際に、キンメルに対し辛辣な質問を行い、その後にマスコミの取材に対して「地上および海上部隊は警戒していなかった」と明言したことから[124]、ワシントンのアメリカ上層部は責任追及を現地司令官に向ける方針であるのは明らかだった[125]。
現地司令官であった陸軍のショートと海軍のキンメルは『職務の怠慢』があったとして、調査委員会の調査結果が出る前に更迭された。その後もショートとキンメルは、マスコミ報道で不当にさらしものにされ、非難をワシントンから逸らすように仕組まれた調査に戦争が終わるまで延々とつきあわされることになった[126]。
キンメルの後任の太平洋艦隊司令官には、当時56歳の航海局長チェスター・ニミッツをルーズベルトが直々に指名した。ルーズベルトはノックスに「ニミッツに、とっとと真珠湾に行って戦争が終わるまでそこにいろ、といえ」と命じたが[127]その後自らニミッツのオフィスに電話し、直接ニミッツに太平洋艦隊司令官への任命を伝えた[128]。ニミッツは1941年前半にも太平洋艦隊司令長官への任命をルーズベルトから打診されていたが、50名の先任がおり、先任から恨みを買い職務を果たす事が困難であるという理由で辞退した経緯があった。しかし、戦争が始まった今となっては名簿の順番を気に掛ける者もいないと思われた[129]。 ニミッツは妻より「あなたはいつも太平洋艦隊を指揮したがっていたものね」と司令長官就任を祝福されたが、「艦隊は海の底なんだよ。これはきっと誰も知らないが、お前には話しておかなければならん」と返している[130]。
ニミッツは1941年のクリスマスの日に真珠湾に着任した。キンメルとの引き継ぎを行い、真珠湾の被害状況を確認した、確かに日本軍の攻撃は凄まじく、アメリカ海海軍は米西戦争と第一次世界大戦の3倍の死傷者を被り、約30万トンの艦船が戦闘不能になり、太平洋戦域の2/3の航空機が戦闘不能になっていたが、ニミッツは「もっと甚大な損害をもたらせてもおかしくなかった」[131]と分析し(#評価)、ニミッツの指揮下でアメリカ海軍は再建されていくこととなった。(#アメリカ軍の再建)
影響
第二次世界大戦の拡大
日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。真珠湾攻撃の直前にイギリスの植民地であるマレー半島での上陸作戦が開始されていることで、日本とイギリス(とオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との戦争が開始されたことに続いて、真珠湾攻撃でアメリカとの間にも戦争が開始された。真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会はアメリカと日本は開戦したと宣言した。
12月10日、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争(支那事変)にも介入には消極的であり、連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。
さらに、駐アメリカ日本大使館員の不手際により、日本政府の意思に反して日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃が始まることとなったことにより、真珠湾攻撃が真実とは反して「日本人による卑劣な騙し討ち」として、主としてアメリカ政府により宣伝されることとなったことも、アメリカおよび連合国の世論に影響した。イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信した」と回想している。
航空主兵への転換
当時、航空機による戦艦など主力艦の撃沈は不可能であるという考えが主流であったが、真珠湾攻撃以前の段階で航空機の脅威は無視できないものになっていた。例えば1940年(昭和15年)11月のタラント空襲でイギリス軍空母「イラストリアス」搭載のソードフィッシュ雷撃機21機がイタリア軍戦艦1隻を撃沈・2隻を大破させる大戦果をあげ、1941年(昭和16年)5月にはドイツ戦艦「ビスマルク」がイギリス軍雷撃機により舵を破壊され、間接的に撃沈されている。
さらに真珠湾攻撃から2日後、12月10日のマレー沖海戦では、航行中のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が、日本軍機による航空攻撃のみで撃沈された。これらの海戦結果により、それまで海戦において補助的な位置付けにあった航空機が主役として注目されると同時に、いかなる艦船でも航空機によって撃沈されうることが浮き彫りとなった。
こうして大艦巨砲主義時代は終焉を迎え、時代は航空主兵時代へと移るのである。それでも戦艦の建造は少数ながら続けられ、日本海軍が大和型戦艦3番艦を空母「信濃」に改造したのに対し、アメリカ海軍がアイオワ級戦艦「イリノイ」「ケンタッキー」の建造を中止したのは1945年8月と1950年1月、イギリス海軍は1946年8月に戦艦「ヴァンガード」を、フランス海軍は1949年に戦艦「ジャン・バール」を完成させた。
アメリカ本土上陸の恐怖
真珠湾攻撃以降の日本海軍による開戦当初の進撃と、連合軍の度重なる敗退を受けて、日本軍によるアメリカ本土空襲およびアメリカ本土への上陸計画の可能性が高いと考えられるようになった。ルーズベルト大統領は日本軍の上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討した。
実際に1942年に入り、日本海軍の潜水艦によるカリフォルニア州やカナダのバンクーバー島などへのアメリカ本土砲撃が複数回にわたり行われたうえ、西海岸沿岸において通商破壊戦が繰り広げられたほか、潜水艦の搭載機によるアメリカ本土空襲が二度に渡り行われた。
また戦争開始後数か月の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局にたびたび報告され、「ロサンゼルスの戦い」のような事件も起きた他、防空壕の整備や沿岸地区への陸軍部隊の配置が進んだほか、アメリカ西海岸やカナダ、メキシコなどでは日系人の強制収容措置が取られた。
ハワイにおいては日本軍の上陸と占領がより緊迫性を持って議論され、「反米的」とみなされていた日本人や日系アメリカ人の逮捕、監禁が直ちに行われたほか、ハワイが占領されたときに、日本軍によってハワイ内に流通する大量のアメリカドル紙幣が押収され、国際上において軍需品の決済に使われることを避けるため、ハワイ内において使用される全てのアメリカドル紙幣にスタンプが押され、ハワイが日本軍の占領下に置かれた際にはすべてが無効となる措置が取られていた。
アメリカ軍の再建
アメリカ軍の受けた被害は戦艦などの艦船と飛行場などに集中し、その被害の大きさに比べて、艦船乗組員の多くは上陸していたため人的被害は大きくなかった。乗艦を失った乗組員の多くは、新たに建造された空母へと配置転換された。追加的な攻撃もなされなかったため、乾ドックなど港湾施設の損害も少なかった。これは沈んだ戦艦の再生など被害からの復旧の助けとなった。
大本営海軍報道部は、アメリカ戦艦5隻撃沈・3隻大破修理不能と大本営発表を行った[132]。だが沈んだ戦艦8隻のうち6隻は後に引き揚げられ修理され復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は2隻であった[注釈 5]。太平洋戦争中この時以外でアメリカ戦艦の喪失はない。空母「エンタープライズ」「レキシントン」は真珠湾外で航空機輸送任務に従事していたため無傷であり、残る空母「サラトガ」「ホーネット」「ヨークタウン」「ワスプ」「レンジャー」は西海岸または大西洋配置で日本軍が撃沈できる可能性は皆無であり、これらの空母はその後の作戦において大きな力を発揮した。
また、給油艦ネオショーや重油タンクといった補給設備は奇襲攻撃の対象とはならなかった。これについて、日本軍の攻撃不足であったとする批判が持ち上がることがあり、特に450万バレルの重油タンクを攻撃しなかったことが槍玉に挙げられることが多い[133]。ただし「450万バレル(トン数になおすと60万t)」という貯蓄量は、1930年代の時点で米海軍省がおこなった総石油消費量試算で、「太平洋艦隊は戦闘時で1カ月あたり50万トンの燃料を消費する」という結果が出ているのと、その後米海軍は対日本戦を意識して強化され保有艦数も増えていること、さらに米国の豊富な石油資源(1940年の米国の石油保有数は19,500億kl[134])と米軍の輸送能力を考慮に入れればそれほど大きな量ではない上に、そもそも非常に燃え辛い性質である重油がタンクに貯蔵された状態で多少の爆撃を受けた程度で爆発炎上するとは考えにくく、少数精鋭の航空機をすべて艦隊攻撃に回す他ない奇襲計画自体の余裕のなさを考え合わせれば、タンクを攻撃してもしなくても同じような状況だったと言える[135]。また、日本海軍でも空襲に備え燃料は地下に貯蓄されていたため、「地表のタンクは囮である」と攻撃隊が判断し、あくまで主目標である艦隊への攻撃に集中するという判断に至ったとしても批判の対象とするには厳し過ぎる[136]。
当初からアメリカの国力差から、日本軍は短期決戦を想定していたが、攻撃目標に含まれていた主力空母2隻を撃沈できなかったことは緒戦でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となった。もっとも大本営海軍報道部は日本軍潜水艦が「エンタープライズ」を不確実ながら沈めたと発表した[137]。翌年3月7日のニューギニア沖海戦でも、日本軍は空母「レキシントン」を攻撃して大損害を与えたものの、エンタープライズ型空母1隻撃沈を発表している[138]。マーシャル・ギルバート諸島機動空襲やドーリットル空襲など一撃離脱を行う米海軍機動部隊は日本軍にとって悩ましい存在であり、これを一挙に撃滅すべく山本長官と連合艦隊司令部はミッドウェー作戦を発動することになった。
アメリカ側の評価
戦争当時、真珠湾攻撃に対しては様々な視点から多くの評価がなされていたので列挙する
肯定的な評価
パール・ハーバー作戦に使用された航空部隊は、日本空軍(航空隊)最高の部隊であった。各隊はすでに1940年から十分な訓練をつんでおり、ほとんどすべての部隊から、この作戦のために引き抜かれたパイロットたちで増強されていた。機動部隊が11月に出港したとき、それは、かつてどこの国の空軍も集結したことのない、もっとも危険な部隊のひとつであった。わずかな装甲板を持つか、装甲板を持たず、燃料タンクは防弾式でなく、エンジンは1,000馬力程度、巡航速度150マイル、最大速度200マイルの急降下爆撃機や雷撃機が『このもっとも華麗な、成功した攻撃』を実施したことは、今から思えば、まったく驚くべきことである。攻撃は計画通りに、約1時間間隔で二波にわかれて実施された。パールハーバーの攻撃の結果については詳述する必要もなく、日本空軍は文字通り空前絶後の完成度のピーク時で戦争を開始したといえば十分であろう。 — 米国戦略爆撃調査団報告書[139]
この航空攻撃は見事に計画され、見事に実施された作戦だと言わなければならない。残念ながら彼等(日本軍)の勝ちを認めなければならない。彼等はひとたびやり始めたのちは、すばらしいことをやってのけた。 — アメリカ太平洋艦隊前司令官ハズバンド・キンメル[140]
真珠湾はアメリカが太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛陣は高射砲陣地、アメリカの持つ最も優秀な航空機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらにアメリカ太平洋艦隊に守られ、当時私がもっていた不完全な陸海空の間に合わせ部隊に比べれば、お話しにならないほど強力なものだった。従って、ワシントンから(真珠湾攻撃について)電話を聞いたときに私がまず感じたことは、日本軍部隊はおそらく手厳しい敗北を喫したに違いないということだった。私がアメリカ側の大損害を知ったのは、それからだいぶ経ってからのことであり、私は日本軍がハワイ攻撃に成功したことを聞いて驚愕した。 — アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー[141]
小さな日本が強大なアメリカに対して攻撃をかけること自体は、根本的には狂気の沙汰であったかもしれないが、ひとたびそのことが決すると、攻撃はすばらしいやり方で実行された。最初に敵の心臓部に対して大胆に攻撃を加えるやり方は軍事作戦の最高の伝統にかなうものである。 — Lewiston Evening Journal[142]
否定的な評価
アメリカ側の観点から見た場合、真珠湾の惨敗の程度は、当初思われた程は大きくなかった。真珠湾で沈没した二隻の旧式戦艦は、アメリカの高速空母と行動をともにするにはあまりに速力が低かった。旧式戦艦を失ったことは、他方、当時非常に不足をしていた訓練を積んだ乗組員を空母と水陸両用部隊に充当することができ、決定的と立証された空母戦法を採用させることとなった。攻撃を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は港内近くににある燃料タンクに貯蔵されてあった450万バレルの重油を見逃した。この燃料がなければ、艦隊は数か月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であった。アメリカにとってもっとも幸運だったことは、空母が危難をまぬがれたことである。その上損害を受けた巡洋艦や駆逐艦は、きわめて少なかった。このようにして、もっとも効果的な海軍兵器である高速空母攻撃部隊を編成するための艦船は、損害を受けずにすんだのである。 — アメリカ太平洋艦隊新司令官チェスター・ニミッツ[143]
日本の開戦が決定されると、開戦時に合衆国海軍を無力化するベストな方法について、山本は天才的頭脳を働かせはじめた。事実、山本はこの問題について1941年1月以来、研究を続けていた。パールハーバーに停泊中の太平洋艦隊に奇襲航空攻撃をかけることが解答だと、山本が決定してからのことだった。山本ほど知能のある人が、このような決定をしたことは奇妙だ。この決定は、戦略的に間違っているだけでなく、破滅的なものであった。 — サミュエル・モリソン海軍少将[144]
我々海軍士官のものの考え方が、1941年12月7日の敗北を可能にしたことに関係があったと言える。真珠湾攻撃の前には我々は、日本海軍を我々と同様に名誉を重んずる海軍と考えていたが、彼らは開戦を宣告して堂々と海上で戦う代わりに、ヒット・エンド・ラン戦法で背後から突き刺す策に出たのである。 — 元アメリカ海軍作戦部長ウィリアム・プラット大将[145]
戦後にGHQで戦史研究の責任者として、多くの日米両当事者と面談・事情聴取したアメリカの歴史学者ゴードン・ウィリアム・プランゲは以下の評価を著書に記述している。
客観的な物の見方をするアメリカの人たちはみな、例え世論に驚かされても、日本の真珠湾攻撃が輝かしい海軍作戦であったことははっきり認めた。それは、独創性、不断の訓練、技術的な知識、そつのないタイミング、正確無比な実施行動、非情な勇気、それに途方もない幸運を要する作戦であった。数えることができないほどの困難や大変な障害にもかかわらず、日本海軍は広範な規模の独創的な計画を立て、それをいささかの支障もなく実施したのであった。しかし、戦術的にいかに輝かしいものであったにしても、日本の真珠湾攻撃は、政治的にはまったく比較するものがないほど愚かしい行動であったと言わなければならない。アメリカ国民を、ルーズベルト大統領の下に鋼鉄のように堅く結束せしめるのに、これ以上確実な方法はなかったからである。 — ゴードン・ウィリアム・プランゲ[147]
参加兵力
日本海軍
- 第一航空艦隊 - 司令長官:南雲忠一中将、参謀長:草鹿龍之介少将
- 第一航空戦隊 - 南雲長官直率、空母「赤城」、「加賀」
- 第二航空戦隊 - 司令官:山口多聞少将、空母「蒼龍」、「飛龍」
- 第五航空戦隊 - 司令官:原忠一少将、空母「瑞鶴」、「翔鶴」、駆逐艦「秋雲」
- 艦載航空機399機(零式艦上戦闘機120機、九九式艦上爆撃機135機、九七式艦上攻撃機144機)
- 第三戦隊 - 司令官:三川軍一中将、戦艦「比叡」、「霧島」
- 第八戦隊 - 重巡洋艦「利根」、「筑摩」
- 第一水雷戦隊 - 司令官:大森仙太郎少将、軽巡洋艦「阿武隈」
- 第二潜水隊 - 司令:今和泉喜次郎大佐、潜水艦「伊19」、「伊21」、「伊23」
- 第一補給隊 - 司令:大藤正直大佐、油槽船、「極東丸」、「健洋丸」、「国洋丸」、「神国丸」
- 第二補給隊 - 油槽船「東邦丸」、「東栄丸」、「日本丸」
- 特殊潜航艇5隻(甲標的5隻)- 指揮官:佐々木半九大佐
- 他
アメリカ海軍
- 太平洋艦隊 - 司令長官:ハズバンド・キンメル大将
損害
日本海軍
攻撃隊ごとの損失機数[148]
機種 | 第一波攻撃隊 | 第二波攻撃隊 | 合計 |
---|---|---|---|
零式艦上戦闘機 | 3 | 6 | 9 |
九九式艦上爆撃機 | 1 | 14 | 15 |
九七式艦上攻撃機 | 5 | 0 | 5 |
合計 | 9 | 20 | 29 |
搭乗員 | 20 | 34 | 54 |
- 他に損傷74機
- 完全な奇襲に成功した第一次攻撃隊の損失率は4.9%であったが、アメリカ軍の対空砲火が激しくなった第二次攻撃隊の損失率は12%に跳ね上がり、平均では8.3%となった。
- 九七式艦上攻撃機は水平爆撃隊の損失は0であったが、低空を低速度で敵艦船に接近しないといけない雷撃隊の方は5機が未帰還となっており、雷撃隊の損失率は12.5%にもなった。この雷撃隊の損失率の高さと対空砲火の激化を見て、源田はこれ以上の雷撃は困難と判断していた[149]。
- 急降下により接敵距離が最も短くなる九九式艦上爆撃機は15機の損失で機種別損失率は11.6%ともっとも高くなった。
所属母艦ごとの未帰還数[150]
艦名 | 赤城 | 加賀 | 蒼龍 | 飛龍 | 翔鶴 | 瑞鶴 | 合計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
零式艦上戦闘機 | 1 | 4 | 3 | 1 | 0 | 0 | 9 |
九九式艦上爆撃機 | 4 | 6 | 2 | 2 | 1 | 0 | 15 |
九七式艦上攻撃機 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 |
合計 | 5 | 15 | 5 | 3 | 1 | 0 | 29 |
- 加賀航空隊が最も多くの未帰還機を出したのに対し、瑞鶴航空隊は全機帰還している。
アメリカ陸海軍及び海兵隊
死傷者
出典[151]
軍 | 戦死者 | 負傷者 | 合計 |
---|---|---|---|
海軍 | 2,004 | 912 | 2,916 |
海兵隊 | 108 | 75 | 183 |
陸軍 | 222 | 360 | 582 |
合計 | 2,345 | 1,347 | 3,692 |
艦艇の損失
沈没艦(完全損失艦)
- アリゾナ(戦艦)[152]
- 被弾 - 800㎏爆弾4・航空魚雷0~2
- 人的損失 - 戦死者1,177名・負傷者39名
- 被害詳細 - 命中した800㎏徹甲爆弾の内の1発が第2主砲塔横の甲板を貫通し、前部主砲弾火薬庫で爆発。誘爆により艦首が破断、破断部分より大量の浸水があり沈没着底。艦体から漏れ出した重油に引火し大火災が発生、海面上にあった鐘楼も炎に包まれ、第1戦艦部隊の司令官および戦艦戦闘部隊司令官の幕僚長アイザック・C・キッド少将と艦長のフランクリン・ヴァン・ヴァルケンバーグ大佐が戦死。大爆発により爆沈したため、戦死者は1,177名にも上ったが、これはアメリカ海軍の単一の軍艦で戦闘で生じた最多の戦死者数である。艦体損傷が酷かった為、遺族の要望にも関わらず引き揚げは行わず、第3、第5砲塔や対空機関砲、探照灯、カタパルトなどが取り外され、戦艦ペンシルベニアの修理に使用されたり、ハワイの要塞砲として設置されたりした。その後、沈没した戦艦アリゾナの真上にアリゾナ記念館が建設された[153]。
- オクラホマ(戦艦)[154]
- 被弾 - 航空魚雷5~9(内1は特殊潜航艇から発射された魚雷の可能性あり)
- 人的損失 - 戦死者456名・負傷者30名
- 被害詳細 - 最初の魚雷が命中してからわずか8分後に転覆した。1999年からの検証で、本艦を転覆させた最後の魚雷は特殊潜航が発射した魚雷の可能性があるという研究結果が公表されている[155]。あまりにも転覆するのが早かったため、400名が艦内に閉じ込められた。翌日に艦底をアセチレントーチで焼き切り救助を試みたが生存していたのはわずか32名だけであった。1943年3月に艦体をワイヤーケーブルで引き起こししたが、艦体の損傷が激しく修理は断念、終戦後にアメリカ本土に移送中に沈没した。
- ユタ(標的艦)[156]
- 被弾 - 航空魚雷2
- 人的損失 - 戦死者64名
- 被害詳細 - 本艦は戦艦を改造した大型艦であったため、日本軍が戦艦もしくは空母と誤認し攻撃、魚雷2発が相次いで命中してからわずか10分で転覆、艦内に約70名が閉じ込められたが、救出されたのはわずか1名であった。ユタはコストの面より引き揚げは行われず、海底に沈んだままとなっている。
沈没艦(復旧艦)
- ウエストバージニア(戦艦)[157]
- 被弾 - 800㎏爆弾2(1不発)・航空魚雷7
- 人的損失 - 戦死者157名・負傷者52名
- 被害詳細 - 魚雷の命中により左舷が大きく傾いた為、転覆防止のためと、弾薬誘爆防止のための大量注水で、主甲板まで沈下したが、その後に水平爆撃の800㎏徹甲爆弾が2発着弾、内1発が艦橋を貫通した後に第2甲板まで達して炸裂、燃料火災が発生し、浸水もさらに進んだために総員退艦命令が出され、後に着底した。徹甲爆弾の炸裂により艦長のマーヴィン・シャープ・ベニオン大佐が重傷を負い後に戦死している。1942年5月に引き上げられ修理と近代化改装を受けたが、修理中に艦内から20名の遺体が発見された。その遺体が発見された付近の隔壁にはその水兵らが残した文字が刻まれていたが、艦が沈没後、明かりも水も食料もない中で、水兵らが12月23日まで16日間も生存していたことが判明している。修理と近代化改装は1944年7月に完了した。
- カルフォルニア(戦艦)[158]
- 被弾 - 800㎏爆弾1・250㎏爆弾1・航空魚雷2~3
- 人的損失 - 戦死者106名・負傷者100名
- 被害詳細 - 水平爆撃で高度4,000mから投下された800㎏爆弾が露天甲板を貫通後主甲板で炸裂、副砲の弾薬庫が誘爆し深刻な火災が発生。その後に、魚雷2~3発が左舷に命中、燃料タンクが破裂し大量の重油が流出。また燃料漏れの検査のため5区画でマンホールを開放していたため、命中した魚雷は3発であったが浸水は急激で、たちまち左舷に7.5°傾斜した。弾薬火災と流出した重油火災で復旧活動は困難となったため、総員退艦が命じられた。しかし艦はすぐには沈まず、日本軍の攻撃完了後に消火活動と救出活動を再開したが、その活動中の12月20日に着底している。
- オグララ(機雷敷設艦)[159]
- 被弾 - なし(魚雷至近爆発)
- 人的損失 - なし
- 被害詳細 - 蒼龍雷撃隊より大型艦と誤認されて雷撃されるが、喫水線が浅かったため、魚雷は艦底を通過し隣接して停泊していた軽巡洋艦ヘレナに命中した。しかしヘレナに命中して爆発した魚雷の爆圧で、水面下の船体が破壊されて浸水が始まり大きく傾斜した。横転してヘレナと接触する危険が高まったため、タグボートでヘレナから離れた位置に曳航していく途中で転覆した。引き揚げられた後、ドッグ艦に改修され1944年2月に再就役。
損傷艦(座礁艦)
- ネバダ(戦艦)[160]
- 被弾 - 250㎏爆弾6・航空魚雷1~2
- 人的損失 - 戦死者52名・負傷者116名
- 被害詳細[161] - 戦艦泊地に停泊中に1~2発の魚雷が命中したが沈まなかった。しかしネバダの艦首側に停泊していたアリゾナが大爆発を起こし、流出した重油で大火災が発生したため、火災に巻き込まれない様に外洋に脱出することとした。それを日本軍の第二次攻撃隊の急降下爆撃隊23機が発見、大型艦を真珠湾の狭い水路に沈め、軍港の水路を塞ぐことを狙ってネバダに集中攻撃を加えた。6発の250㎏爆弾の命中と2発の至近弾で艦は大きく損傷し脱出は不可能となったため、ホスピタルアイランド(避難用浅瀬)に自ら座礁し沈没を回避した。1942年2月に引き上げられ、1942年12月に一旦修理完了し艦隊復帰したが、1943年に再度ドッグ入りし近代化改修を受けている。
- テネシー(戦艦)[162]
- 被弾 - 800㎏爆弾2(内1不発)
- 人的損失 - 戦死者6名・負傷者200名
- 被害詳細[163] - 水平爆撃の800㎏徹甲爆弾が第1主砲塔と第主3砲塔に着弾。第3主砲塔に命中した爆弾は砲塔の天蓋を貫通し爆発、第3主砲塔を破壊し砲員を殺傷した。第1主砲塔に命中した爆弾は天蓋を貫通できず、弾殻が粉砕したため火薬が飛び散り爆発しなかった。損傷は軽微だったので、1942年8月には修理完了して一旦艦隊復帰したが、1943年に再度ドッグ入りし近代化改修を受けている。
- ショー(駆逐艦)[164]
- 被弾 - 250㎏爆弾1
- 人的損失 - 戦死者24名
- 被害詳細 - 浮きドッグに入渠中であったが、急降下爆撃機の250㎏爆弾1が命中。発生した火災で前部の主砲弾薬庫が誘爆し、艦首が吹き飛ばされた。その爆発の規模は戦艦アリゾナの誘爆に次ぐ大きな規模であり、遠くからも視認されている。艦体の損傷は壊滅的であったが、ドック内におり沈没は免れたため、大修理と近代化改装が施され、1942年6月に艦隊復帰した。
- ダウンズ(駆逐艦)[165]
- 被弾 - 250㎏爆弾2
- 人的損失 - 戦死者12名
- 被害詳細 - 乾ドック内で改修中に急降下爆撃機により2発の250㎏爆弾が命中し火災が発生、火災により魚雷が誘爆し大破、火勢を増した火災は隣接していた駆逐艦カッシンにも延焼した。同じ乾ドッグ内にいた戦艦ペンシルベニアの火薬庫誘爆防止のため、乾ドッグに注水され、隣接していたカッシンが浸水により横転しダウンズに接触、両艦ともさらに損傷が拡大した。修復は困難と思われ、一旦除籍されたが、その後船体の残存部分を本土のピュージェット・サウンド海軍造船所に持ち込んで新造並みの補修を行い、1943年11月再度就役。
- カッシン(駆逐艦)[166]
- 被弾 - なし、ダウンズの火災延焼
- 人的損失 - なし
- 被害詳細 - ダウンズの火災が延焼したのち、大爆発に巻き込まれ大破。乾ドッグ内への注水で浸水し横転、ダウンズと接触しダウンズと同レベルの深刻な損傷を被る。カッシンも一旦は除籍されたが、ダウンズと同様に大補修により1944年2月再就役。
- ベスタル(工作艦)[167]
- 被弾 - 800㎏爆弾2
- 人的損失 - 戦死者7名
- 被害詳細 - アリゾナの横に停泊していたため、水平爆撃の800㎏徹甲爆弾が2発、艦尾と艦首に命中。大量に浸水し、沈没は避けられなかったため、タグボートで浅瀬に曳航され、沈没回避のため座礁させられた。応急修理終了だが他の艦の修理を優先で1942年2月に修理完了。
損傷艦
- メリーランド(戦艦)[168]
- 被弾 - 800㎏爆弾1・250㎏爆弾1
- 人的損失 - 戦死者3名・負傷者14名・他に偵察に出撃したOS2U水上偵察機が墜落しパイロット1名戦死[169]
- 被害詳細 - 第1次攻撃隊の水平爆撃機の800㎏徹甲爆弾が1発命中し甲板上で爆発、喫水線に50cmの破孔が生じ少量の浸水あり。第2次攻撃隊の急降下爆撃機の250㎏爆弾も命中したが被害は少なかった。損傷は軽微であった為、横で転覆したオクラホマの救出活動を行い、多くの生存者を救出した。1942年6月一線に復帰。
- ペンシルベニア(戦艦)[170]
- 被弾 - 250㎏爆弾1
- 人的損失 - 戦死者28名・負傷者30名
- 被害詳細 - ドッグで補修中であった際に急降下爆撃機の250㎏爆弾1発を被弾。短艇用甲板を貫通し第9副砲の砲郭内で爆発。修理の際にオクラホマとアリゾナから取り外した主砲を搭載し、1942年4月から8月まで訓練と巡察をした。
- ロウリー(軽巡洋艦)[171]
- 被弾 - 航空魚雷1~2
- 人的損失 - 負傷者数名
- 被害詳細 - 艦体中央部に1~2発魚雷命中、傾斜したが艦内の重量物を投棄するなどのダメージコントロールで転覆を逃れた。艦の損傷は大きかったが戦死者は出なかった。1942年7月艦隊に復帰。
- ヘレナ(軽巡洋艦)[172]
- 被弾 - 航空魚雷1
- 人的損失 - 戦死者20名
- 被害詳細 - 機雷敷設艦オグララを狙った魚雷がオグララの艦底を通り越してヘレナに命中。機関室に浸水し、一時は停電となるなど損害は大きかったが沈没には至らず。1942年9月艦隊に復帰。
- ホノルル(軽巡洋艦)[173]
- 被弾 - 250㎏爆弾至近弾1
- 人的損失 - なし
- 被害詳細 - 海軍工廠岸壁に停泊していたが、急降下爆撃機の投下した250㎏爆弾が岸壁の突提に着弾し爆発。その衝撃で鋼板接合部のリベットが弛緩し浸水、一時的に第2主砲塔への通電ができなくなった。
- ドビン (駆逐艦母艦)[174]
- 被弾 - 250㎏爆弾3至近弾
- 人的損失 - 戦死者1名・負傷者2名
- 被害詳細 - 至近弾のうち一発が艦尾の真下で爆発。断片と衝撃で無線室が破損し死傷者が生じた。
- カーチス(水上機母艦)[175]
- 被弾 - 250㎏爆弾1・体当たり1機
- 人的損失 - 戦死者21名
- 被害詳細 - 第二次攻撃隊の急降下爆撃機による250㎏爆弾が1発命中。水上機格納庫が破壊された。また、対空砲火で損傷した蒼龍艦爆隊の丸山賢治三飛曹と桑原秀安二飛曹の搭乗機が体当たりを行い、クレーンとアンテナを破壊した[176]。
航空機の損失
出典[177]
撃破 | 損傷 | 合計 | |
---|---|---|---|
陸軍航空隊 | 96 | 128 | 224 |
海軍航空隊 | 92 | 31 | 123 |
合計 | 188 | 159 | 347 |
陸軍の主要戦闘機・爆撃機の機種別損失数
出典[178]
機種 | 配備機数 | 撃破 | 損傷 | 撃破・損傷合計 |
---|---|---|---|---|
B-17爆撃機 | 12 | 4 | 4 | 8 |
B-18爆撃機 | 33 | 12 | 10 | 22 |
A-20攻撃機 | 12 | 2 | 5 | 7 |
P-40戦闘機 | 99 | 42 | 30 | 72 |
P-36戦闘機 | 39 | 4 | 19 | 23 |
合計 | 209 | 64 | 82 | 146 |
海軍の種類別損失数
出典[179]
航空機の種類 | 損失数 |
---|---|
戦闘機 | 13 |
急降下爆撃機 | 26 |
哨戒爆撃機 | 46 |
偵察機 | 1 |
雑用機 | 3 |
練習機 | 1 |
輸送機 | 2 |
合計 | 92 |
日本海軍側の戦果判定
機動部隊は連合艦隊に対し、主力艦2隻轟沈、4隻大破、巡洋艦4隻大破との無電を送っている[104]。
なお攻撃直後、各空母の攻撃隊は敵艦戦に与えた損害を
- 赤城
- 水平爆撃隊が戦艦に命中4以上、雷撃隊は戦艦3に対し命中11本。急降下爆撃隊は戦艦に命中、オマハ型に命中1。
- 加賀
- 水平爆撃隊がアリゾナ、カリフォルニア、メリーランドに計4発以上、雷撃隊はアリゾナ、テネシーに各4本命中。急降下爆撃隊はカリフォルニア型を含む戦艦3隻に相当数命中と推察。
- 蒼龍・飛龍
- 総合して水平爆撃隊は戦艦に1発命中轟沈、戦艦に2発命中大爆発轟沈、雷撃隊は戦艦3隻に合計11本命中、内1隻轟沈(水平爆撃隊と重複)、重巡に3本命中。急降下爆撃隊は軽巡2に合計5発、入渠中駆逐艦に命中1。
- 翔鶴・瑞鶴
- 飛行場攻撃に専念しており艦艇への戦果なし。
と報告している。雲や火災の煙のため推定も多く入ったものであった[180]。
民間人の被害
日本軍は、市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が事前に厳重に言い渡されていた。実際にアメリカの女性インストラクター・パイロットコーネリア・フォートが、飛行訓練生と訓練のために搭乗していたインターステート カデット機が日本軍攻撃隊とオアフ島上空で遭遇したが、日本軍機に視認されていたにも拘らず攻撃を受けなかった[181]。しかし、日本軍の攻撃により、ハワイの民間人に68名の死亡者と35名の負傷者が出ている。これは、日本軍が意図して行ったものではなく、民間人犠牲者の多くは軍施設内にいた軍関係者か作業等に従事していた際に巻き添えとなったものである。しかし、アメリカの激しい対空砲火の弾片や不発弾が真珠湾より15㎞も離れたホノルル市街にも降り注ぎ、死傷者が生じている。この被害は当初、アメリカ軍側のプロパガンダで日本軍の攻撃によるものと報じられたが、実際には、ホノルル市街に落ちた日本軍の爆弾は、97式艦上攻撃機の爆弾投下機誤作動による1発だけであった[182]。降り注ぐ不発弾や弾片でホノルル市街では40回もの爆発があり、50万ドルの経済的損失と33名の民間人が犠牲となった[183]。その中には多くの日系人も含まれていた[184]。
アメリカ軍基地以外の市街地での民間人死亡者
出典[185]
場所 | 死亡者数 |
---|---|
ホノルル | 33 |
パールシティ | 1 |
ワヒアワ | 2 |
ワイパフ | 1 |
合計 | 37 |
「対米覚書」遅延問題
東郷茂徳外務大臣は対米宣戦布告をしなくてもよいと考えていた上に、開戦とほぼ同時にこのような大規模攻撃をかけるとは知らず、また11月30日開戦と思い込んでいて時間的にも余裕がないと考えていた。国際法上自衛戦争であるならば宣戦布告は不要でもあった[48]。しかし、途中で話がおかしいと気づいて開戦通告する方向に傾いた[48]。12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は東郷茂徳に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。
東郷から駐米大使野村吉三郎宛、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。
「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日7時までに到着したと見られる。九〇四号は覚書の作成にタイピストを利用しないようにとの注意、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。
朝に大使館に出勤した電信課員は午前10時頃に解読作業を開始し、昼の12時30分頃に全文書の解読を終了した。解読が終わったものから順に一等書記官の奥村勝蔵により修正・清書された。
覚書は現地時間午後2時20分に来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使より、国務省においてコーデル・ハル国務長官に手交された。これは指定時間から1時間20分遅れで、マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、真珠湾攻撃の1時間後だった。
「米国及び英国に対する宣戦布告の詔書」は日本時間11時45分に渙発された。
この問題について外務省は調査委員会を設立し調査を行ったが、調査結果は公表されなかった。1994年11月20日に外務省は当時の調査委員会による調査記録「昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」を公開した。現在この資料は外交史料館報第8号で閲覧可能である。この調査などに基づく通説では、6日夜に大使館員が南アメリカへ転勤する寺崎英成の送別会をメイフラワー・ホテルの中国料理店で行っていたこと、奥村が送別会後も大使館に戻って浄書を行わず知人の家にトランプをしに行っていたこと、奥村の英訳親書の浄書・タイプが遅れたこと、14分割目に「大至急」の指示が付されておらず覚書本文の続きであることがわからなかったことなどが原因であるとされている。
このような大使館のミスによる失態であるとの通説に対して、奥村とともに責任を問われることがある館務総括参事官の井口貞夫は生前に「自分の管掌事務ではなく承知していなかった」と主張していた。またその息子である井口武夫元ニュージーランド大使も、外務省本省が負うべき落度を現地大使館に責任転嫁しているとして、奥村書記官を含めて大使館側に失態はなかったと主張している。
問題の覚書が宣戦布告とみなせるのかどうかについて議論の余地が存在する。覚書本文の最終部分(第7項3)は次のようになっている。
- 仍テ帝国政府ハ、茲ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニスルヲ得ズト認ムル外ナキ旨ヲ、合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ。
これは極めて強い調子の交渉打ち切り宣告であるが、正式な宣戦布告は「宣戦布告の詔書」において行われている。
コタバル上陸により始まったマレー作戦は本来の手交時間よりも先に無通告で開始されているが、イギリスはウィンストン・チャーチルが皮肉を言った程度で抗議すらしていない[48]。
アメリカは当時すでにパープル暗号の解読に成功しており文書が手交される前に内容を知悉していた。ルーズベルトは12月6日の午後9時半過ぎに十三部を読み、「これは戦争ということだね(This means war.)」とつぶやいたという[186]。ハルの回想によると12月7日の午前中に全十四部の傍受電報を受け取ったとあり、「日本の回答は無礼きわまるものであった」「この通告は宣戦の布告はしていなかった。また外交関係を断絶するともいっていなかった。日本はこのような予備行為なしに攻撃してきたのである」とある[187]。また通告が遅れたことについては「日本政府が午後一時に私に合うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私に手渡すつもりであったのだ。(中略)野村は、この指定時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかでき上がっていないにしても、あとはできしだい持ってくるように大使館員にまかせて、正一時に会いに来るべきであった」としている[188]。
なお、対米最後通牒の遅延問題と「敵対行為の開始に関するハーグ第三条約」との関連について、極東国際軍事裁判における本判決は次のように述べている―「この条約は、敵対行為を開始する前に、明確な事前の通告を与える義務を追わせていることは疑いもないが、この通告を与えてから敵対行為を開始する間に、どれだけの時間の余裕を置かなければならないかを明確にしていない」「一切の事が順調にいったならば、真珠湾の軍隊に警告するために、ワシントンに二十分の余裕を与えただろう。しかし、攻撃が奇襲になることを確実にしたいと切望する余り、彼等は思いがけない事故に備えて余裕を置くということを全然しなかった」。その上で、日本大使館の不手際による遅延を認定し、「奇襲という目的のために、時間の余裕をこのように少なくすれば、通告の伝達を遅らせる間違いや手違いや怠慢に対して余裕をおいて置くことができなくなる。そうして、この条約の義務的であるとしている事前の通告は、実際には与えられない事になるという可能性が大きい」と条約の構造上の欠陥を注意喚起している[189]。
陰謀論
須藤真志によると真珠湾攻撃及び日米開戦にまつわる陰謀論について、整理すれば次の3つのバージョンとなるという[190]。
- ルーズベルト政権が日本の真珠湾攻撃を予測していながら、それをハワイの司令官たちに伝えなかった
- ルーズベルトが個人的に日本の真珠湾攻撃を事前に知っており、太平洋艦隊を囮にした
- ルーズベルトが日本からの開戦を仕向けるために挑発を行った
こうした陰謀論が起こる背景として、秦郁彦はアメリカ側の真珠湾攻撃への屈辱、長期にわたったルーズベルト民主党政権に対する共和党系の反感、現地司令官の名誉回復を願う動きを挙げ、日本側では太平洋戦争について日本だけが悪者とされていることに不満を持つ人々が日本側記録との対照やアメリカ側の背景分析もせず、聞こえの良い陰謀論を鵜呑みにする傾向があったと述べている[191]。
「アメリカは事前に察知していた」との主張
「アメリカは真珠湾攻撃を事前に察知していた」という噂は既に戦時中からあった。主張によれば、アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に察知したのだが、暗号を解読している事実を日本に知らせないためには、事前に真珠湾に警戒態勢をとらせることはできなかったのだという。
さらには、そのまま攻撃させたほうが政治的に有利であるため、あえて見過ごしたのだとする主張もある。こうした陰謀論でよく語られる「根拠」として、当時日本の外交暗号はほぼ解読されていたこと、民主党のルーズベルトが対独開戦を指向していたにもかかわらず共和党を中心とした反戦世論により妨げられていたが、真珠湾攻撃を受けたことにより実現したことなどがある。
- 否定説
- 現時点で傍受を証明する資料は存在しない。当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することであり、アメリカの対日戦争計画も日本軍がフィリピンに攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは想定していなかった(オレンジ計画)。日本海軍は囮の艦船を派遣して偽装通信を頻繁に行い、艦隊が南方に向かっているように装っていた。また、艦隊決戦が主流であった時代であって、航空機による海戦はあまり考慮されていなかった。真珠湾内での魚雷攻撃は、浅瀬のため技術上きわめて困難であるとも考えられていた。また日本の用いていた暗号のうち海軍暗号は1941年12月の段階では解読されていなかった。
- また、真珠湾攻撃は海軍により徹底的に秘匿が図られ、日本の外務省すら内容を知らされておらず、解読済みの外務省暗号では開戦日時や攻撃場所はそれを察知できなかった。しかも真珠湾攻撃に向かう艦船はすべて無電封止(無線通信の禁止)を行っており[46]、モールス打鍵器にロックが掛けられていたとの証言もある。更に呉・柱島泊地からは機動艦隊発に見せかけた偽のモールス信号が大量に発信されていたため[注釈 7]、11月25日時点でアメリカ海軍情報部は、艦隊は呉~鹿児島南部のあたりにいると予想していた[192]。
- さらに、仮に無線を傍受していたとしても、作戦概要は本土から空母「赤城」の金庫に保管されており、出撃命令も1941年11月20日に軍令部第一部長、福留繁少将から手交によって行われているので[193]、無線の内容で攻撃目標が真珠湾であることや、作戦概要を知ることは不可能であった。
- 肯定説
「 | わが友人駐日ペルー公使[196]が当大使館員に語ったところによると、友人は一日本人を含む複数の情報源から、日本は、万一アメリカと紛争となった場合、全軍事力を使用して、真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ旨、聞いた。わが友人ペルー公使は、この計画は空想的なように思えたけれど、多くの筋から聞いたので、当方に伝達するに足るものと認めたものである。 | 」 |
- この内容を国務省から知らされたハロルド・スターク海軍作戦部長は、2月1日にキンメル太平洋艦隊司令長官に宛てた電報で「海軍情報部としては、この流言は信じられないものと考える。さらに、日本陸海軍の現在の配備と行動について知りえたデータによれば、真珠湾に対する行動が迫っているとか、予測できる将来において、こうした行動が計画されているとは考えられない」という情報部の見解をつけてこの内容を伝えている[197]。とはいえ、米政府が事前に真珠湾攻撃の可能性ありという報告を駐日大使から受けていたのは事実である[注釈 8]。グルー自身は、1941年1月27日の日記において「対米開戦時には、日本は真珠湾に集中的に奇襲攻撃をかけるという計画が進行中であると噂になっていたので、政府に報告した」[198]と記述している。
- 情報の自由法により公開された米軍機密資料および公文書館資料を活用して詳細な調査を行ったロバート・スティネットは次のような主張をしている[199]。
- FBIの記録によると、「五数字暗号」とアメリカ側で呼ばれていた日本海軍暗号について、1940年10月には解読に成功していた。これは暗号解読方法説明資料「RIP73」、「RIP80」としてまとめられた(但し、添付資料の傍受日付は1941年11月18日だが、解読日付は戦後の1946年4月26日であることが左近允尚敏により指摘されており[200]、解読が成功したかについては疑問がある)。
- 「RIP73」、「RIP80」は、アメリカ軍の諜報無線局であるハワイのHYPO、フィリピンのCASTおよびイギリスに提供され、日本海軍無線の暗号解読が可能な状態であった(上記の理由により、1941年10月時点での海軍暗号解読には疑問がある)。
- 国防総省は上記暗号解読方法説明資料の配達記録の開示を拒んでいるが、配達の事実を公文書から確認できた[201]。
- シアトルの諜報無線局SAILが東京-ワシントン間の無線通信を集中的に傍受したところ、ほとんどがパープル暗号を用いたものであり、ワシントンの陸海軍暗号解読班により、数時間で解読翻訳されていた(解読させることには意図が働く場合がある)。
- フィリピンのCASTの暗号分析班は、1941年11月30日に日本軍が実施した呼出符号変更を解析して、ハワイに向かう日本機動部隊のほとんどの艦船を特定していた(ハワイに向う指令は、無線では行われておらず、呼出符号変更の解析でハワイに向かう日本機動部隊の艦船の特定は不可能であることが、秦郁彦らに指摘されている[200])。
- 無線方位測定機による日本機動部隊に関する位置情報は、すべて大統領にも提供されていた[201](軍令部が船橋送信所から発信した「A情報」を、機動部隊発信の無線と誤認した可能性を、今野勉により指摘されている[200])。
- サンフランシスコ第12海軍区は1941年11月30日から12月3日の間、日本の艦隊がハワイ北方海域を北緯43度から38度まで航行するのを捕捉していた(コールサインから、商船「竜田丸」の交信を誤認した可能性を今野勉により指摘されている[200])。
- 真珠湾攻撃前に日本機動部隊は無線封鎖を実施したとアメリカ側日本側ともに主張するが、アメリカ軍の傍受記録からは、日本機動部隊が無線封鎖を無視して頻繁に通信していたことを立証できる(その時期、日本海軍は大規模な偽電工作を行っており、それに引っ掛かった可能性を、秦郁彦らに指摘されている[200])。
- (マッカラム覚書の)アーサー・マッカラム少佐は、「ハワイで傍受された報告は断片的であった」と主張しているが、ハワイの無線通信解析主任は、当時「毎日1000通以上の日本海軍無線を傍受しており、我々の報告は断片的ではなかった」と反論している(上記同様に、偽電工作による偽電文を傍受した可能性が高い[200])。
- 海軍作戦部次長ロイヤル・インガソル少将の決定により、ハワイのキンメル提督は、解読電報の報告先から除外されていた。
- 1979年のカーター政権下で公開された傍受電報に関する文章は全体のごく一部に過ぎず、国家安全保障局により、出所がすべて伏せられている。
- 国家安全保障局が情報開示を拒んできたことについて、その職員は「それは公共の利益のためである。この問題は公に討論すべきことではない。政府の立場を弁明すること自体が、政府が守らねばならない秘密の一部となっている場合、政府の立場を明らかにすることはできない」と語った。
- 日本無線傍受電報の原本記録はすべて機密暗号グループに分類され、現在でもほとんど公開されていない。
- 情報の自由法により公開された米軍機密資料および公文書館資料を活用して詳細な調査を行ったロバート・スティネットは次のような主張をしている[199]。
誘い出したとの主張
アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に察知していたと論ずる者の中には、さらに一歩論を進めて、アメリカが、わざと日本の攻撃を誘い出したという説を唱える論者もいる。また軍事的政治的な理由として、日本が先制攻撃を行う以外に、アメリカが対日戦争を引き起こす手立てがない。
- 否定説
- アメリカが日本を誘い出したという説を唱える者の中には、時代遅れになった戦艦を生け贄としてあえて真珠湾に停泊させ、空母を出港させて温存したのがその証拠だと主張するものもあり、実際にミッドウェー海戦において、"温存した"空母の活躍によって、完全に劣勢のアメリカが日本に対して反撃する端緒となったが、しかしそもそも戦艦が時代遅れになり空母が主役になったと認知されるようになったのはこの真珠湾攻撃と後の日本軍によるイギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」への攻撃がきっかけであり、原因と結果を取り違えた主張であると言わざるを得ない。真珠湾奇襲は大艦巨砲主義時代を終焉させ、航空主兵時代へ移行するという、軍事の一大転換をもたらしたと言えるが、仮に陰謀論が正しかったとすれば、アメリカはこの軍事的な一大転換すら事前察知していたことになる。また、出港した空母が南雲機動艦隊と遭遇しなかったことは偶然の産物であり、遭遇した場合は少数で圧倒的多数の日本艦隊と対峙することとなり、湾内に停泊した艦よりも状態としてはむしろ危険だったはずである。出港した空母が本来の生贄であり、その思惑が外れて空母が助かり、温存するはずの戦艦が被害を受けたという論も成り立つが、そうなると真珠湾攻撃は「陰謀の結果」ではなく「陰謀が失敗した結果」ということになる。なお、これはロバート・スティネットの主張したマッカラム覚書の内容(主力艦隊の維持)とは矛盾する(後述「マッカラム覚書」F項)。
- ロバート・スティネットの著書『真珠湾の真実』で参照される資料数は膨大で全容は掴みづらく、秦郁彦ら歴史研究者が日本側の資料と照合した結果では、事実関係の誤りや日付の誤認、牽強付会の解釈が多数あると指摘されている[200]。
- 肯定説
- 軍事的政治的な理由として、日本が先制攻撃を行う以外に、アメリカが対日戦争を引き起こす手立てがない。当初、本営の対米作戦にはマレー沖で米艦隊を迎え撃つ作戦が用意されていたが、国内である海軍将官により熱烈な真珠湾攻撃への押しが数年続き、アメリカに絶対に勝てないという意図の下、戦火が開かれた。また日本は、対アメリカへの国力差を当然常識的に認識しており戦争反対論と対話外交が主流派だった。
- 誘い出したという説の根拠として、チャールズ・ビアードらは陸軍長官スティムソンの日記を挙げている。日記では11月25日のホワイトハウスでのルーズベルトの発言として、「攻撃を受けるかもしれない」、「いかにして彼らに最初の一発を撃たせるかが問題なのである。これはむずかしい話だ。」とある。『大日本帝国の興亡』の著者ジョン・トーランドはこれに対して、日記やスティムソンの後の発言からはこの説が正しいように見える。しかし、11月下旬に行われた大統領と顧問による討議録から、攻撃の可能性を信じていたのはアメリカの植民地のフィリピンを除く、マレー半島やインドネシアなどの東南アジアにあるイギリスやオランダの植民地であることがわかるとしている。また、ルーズベルトが「むずかしい話」と言ったのは、アメリカ以外への攻撃をアメリカへの攻撃だと強弁するのがむずかしいからであるとしている。日本に警告を送るなどの方法で、これが可能になることをトーランドは指摘している。後に、トーランドは新事実を基にして事前察知説に転向し、『真珠湾攻撃』(文藝春秋刊)を著している。主張の一つとして、南雲艦隊の無線封止は真珠湾攻撃を英雄視する日本人による美化であるというものがある[202]。
- ロバート・スティネットの著書は『真珠湾の真実』として日本語訳が出版されている。『真珠湾の真実』で語られたマッカラム覚書(英語)を参照されたい。マッカラム覚書は日本帝国の強みと弱み、アメリカ合衆国の第二次世界大戦における立場[注釈 9]と今後の展望を述べたもので、最後にA-H項からなる日本を追いつめるであろう項目が進言されている[注釈 10]。同書論調の最たる根拠としてはこれが真珠湾攻撃以前に用意された文書であること、この書簡が大統領側近に回されたこと、公開された資料からは大統領自身の指紋を著者が確認したことなど。またその項目は後に実行された現実の合衆国政策と符合ないし類似したことなど。また、同項はABCD包囲網とほぼ同義である。
- マッカラム覚書F項は、当時、米艦隊の主力兵力は本土に配備されていたことを見ると、ハワイを増強して日本を挑発しようとする意図によるものであり、1940年の年次演習により米艦隊の主力兵力がはじめてハワイに集結したが、当初、演習終了後、艦隊主力をアメリカ西海岸に帰投させる計画であったものをサムナー・ウェルズ国務長官が計画修正して駐留させるよう圧力をかけたとロバート・スティネットは言う。
マッカラム覚書
(Page4抜粋:邦訳Wikipedia)
9. It is not believed that in the present state of political opinion the United States government is capable of declaring war against Japan without more ado; and it is barely possible that vigorous action on our part might lead the Japanese to modify their attitude. Therefore, the following course of action is suggested:(現在の政治的状況においては、相当な苦心なしに合衆国政府が自ら日本に宣戦を布告できるとは考えられない。そして当方の積極的行動によって日本の態度を変えさせることもほとんど不可能である。そこで以下の行動を提案する。)
- A. Make an arrangement with Britain for the use of British bases in the Pacific, particularly Singapore.(太平洋内のイギリス基地、特にシンガポールを使用できるようイギリス政府と合意する。)
- B. Make an arrangement with Holland for the use of base facilities and acquisition of supplies in the Dutch East Indies.(蘭領東インド諸島の基地を使用し、同地の補給品を取得できるようオランダ政府と合意する。)
- C. Give all possible aid to the Chinese government of Chiang-Kai-Shek.(中国の蒋介石政府にできる限りの援助をする。)
- D. Send a division of long range heavy cruisers to the Orient, Philippines, or Singapore.(極東、フィリピン、シンガポールのいずれかに航続距離の長い重巡洋艦1個戦隊を派遣する。)
- E. Send two divisions of submarines to the Orient.(極東に潜水艦2個戦隊を派遣する。)
- F. Keep the main strength of the U.S. fleet now in the Pacific in the vicinity of the Hawaiian Islands.(現在太平洋にある合衆国艦隊について、その主力をハワイ諸島周辺に留めておく。)
- G. Insist that the Dutch refuse to grant Japanese demands for undue economic concessions, particularly oil.(日本からの不当な経済的譲歩(特に原油)の要求を拒絶するようオランダに強く要請する。)
- H. Completely embargo all U.S. trade with Japan, in collaboration with a similar embargo imposed by the British Empire.(日米間すべての通商について禁輸措置を取り、イギリス帝国による同様の禁輸措置とも連携する。)
10. If by these means Japan could be led to commit an overt act of war, so much the better. At all events we must be fully prepared to accept the threat of war.(もしこれらの手段により日本に明確な戦争行為を冒させることができれば、そのほうがずっとよい。いかなる場合であれ、当方は戦争の脅威を受け入れる準備が完全にできていなくてはならない。)
真珠湾攻撃を題材とした作品
- 文学
- 映画
- 『ハワイ・マレー沖海戦』1942年、日本(東宝)
- 『真珠湾攻撃』1943年、アメリカ(ケイブルホーグ) 監督:ジョン・フォード
- 『地上より永遠に』1953年、アメリカ(コロンビア映画)
- 『太平洋の鷲』1953年、日本(東宝)
- 『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』1960年、日本(東宝)
- 『トラ・トラ・トラ!』1970年、日米合作(20世紀フォックス・東映)
- 『ファイナル・カウントダウン』1980年、アメリカ(ユナイテッド・アーティスツ)
- 『連合艦隊』1981年、日本(東宝)
- 『パール・ハーバー』2001年、アメリカ(ブエナビスタ) 監督:マイケル・ベイ
- テレビドラマ
- 『真珠湾からの帰還』
- 『Hawaii Five-0』シーズン4第10話
- アニメ
- 『桃太郎の海鷲』
- 音楽
- Shing02『Pearl Harbor』
注釈
- ^ "Pearl Harbor"を「真珠湾」と訳すことには異論もある。詳細は真珠湾を参照。
- ^ 真珠湾作戦を含む海軍全般の作戦の詳細は、すでに大海令として全海軍部隊・部署に対して布告済であり、この電文の眼目は、それら作戦の発動の基準となる日時についてであって、このような、日時を伝える電文となった。
- ^ 敵の防御が効力を発揮する前に攻撃可能であると空中指揮官が判断した場合
- ^ 草鹿は自らの手記で、何の躊躇いも無く引き上げを進言したとしている。理由としては機動部隊の立ち向かう敵はまだまだある、また既に所定の目的は達成していることを挙げ、後年指摘されている残敵の殲滅や港湾施設の破壊、敵空母の探索などは下司の戦法であると断じている。
- ^ しかし、「オクラホマ」はその後の戦闘参加の機会がなくなり、後述の"損害"の項目にあるとおり「カリフォルニア」「ウェストヴァージニア」は修理のため1944年まで戦闘に加わることができなかった
- ^ 階級は作戦時のものであり特進前。
- ^ 実際に機動部隊に乗務していた電信員が引き抜かれ、打鍵時の癖まで機動部隊のそれと同じであった。
- ^ ただし、その時点では日本海軍の真珠湾攻撃はまだ山本五十六の腹案にとどまり、知っていたのは山本のほかに大西瀧治郎と及川古志郎しかいなかった。今野は、ペルー公使の情報の出所に関して、1940年に松尾樹明という人物が出版した『三国同盟と日米戦』という書籍において、「日米開戦は不可避で、その場合日本は開戦劈頭に真珠湾を攻撃してハワイを占領するべき」と記されている内容の影響を指摘している。(今野、2001年、P167 - 168,P278)
- ^ 国民には孤立主義が念頭していた時候であった。そのため、当時は欧州戦線とは距離をおいていた。また、戦況としてはドイツがイギリスより優位であり、イギリスはアメリカの支援を望んだが、国民は干渉を望まなかった。詳しくは「第二次世界大戦#1940年」を参照。
- ^ マッカラムの人物像としては日本語に堪能かつ日本で育った人物であり、軍のなかではとりわけ日本の情勢と国民に詳しかったという。
脚注
- ^ #山本調査報告pp.2-3
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101–102頁
- ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫11-13頁
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101–103頁
- ^ 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁、源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁
- ^ 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁
- ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁
- ^ 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁
- ^ 『文化誌世界の国24 ハワイ・太平洋諸島』P.172
- ^ 『真珠湾攻撃全記録―日本海軍・勝利の限界点』P.194
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.225
- ^ 『マッカーサー回想録(上)』 P.189
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.107
- ^ 『マッカーサー:東京への長い道』 P.56
- ^ Notes for Harry Ervin YARNELL - The Pennocks of Primitive Hall 2016年6月26日閲覧
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.98
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.103
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.111
- ^ 『モリソンの太平洋戦記』P.54
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 180頁
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 93頁
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 110頁
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 176頁
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 111頁
- ^ 戦史叢書10ハワイ作戦112頁
- ^ 戦史叢書10ハワイ作戦110頁
- ^ 草鹿 1979, p. 30.
- ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年172-178頁
- ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年181-184頁
- ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年57-60頁
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 181頁
- ^ 真珠湾攻撃 - 西日本新聞
- ^ オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争 [Kindle版]48頁
- ^ a b 佐藤和正『太平洋海戦 1 進攻篇』講談社、1988年
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.225
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.226
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.231
- ^ 『モリソンの太平洋海戦史』P.71
- ^ 『モリソンの太平洋海戦史』P.72
- ^ 『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』P.235
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- ^ 実松譲 『真珠湾までの365日』 光人社〈光人社NF文庫〉、292-293頁
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- ^ 山川『空母艦爆隊』単行本50頁
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- ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』2巻 昇る太陽、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 4150501025。
- ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』5巻 平和への道、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 415050105X。
- 山川新作『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録』(今日の話題社、1985年) ISBN 4-87565-118-x
著者は空母「加賀」九九艦爆操縦者。第二次攻撃隊に参加。 - 『歴史街道』2001年9月特別増刊号『真珠湾攻撃』PHP研究所
- 半藤一利、江坂彰『撤退戦の研究』光文社 ISBN 4-334-00680-9
- 秋元健治『真珠湾攻撃全記録―日本海軍・勝利の限界点』現代書館 2010年 ISBN 978-4768456323
- イアン・トール『太平洋の試練』文春文庫 2013年 ISBN 978-4163764207
- エレノア・ルーズベルト『This I Remember』プレイガー 1975年 ISBN 978-0837177021
- ドリス・カーンズ・グッドウィン『No Ordinary Time: Franklin and Eleanor Roosevelt: The Home Front in World War II』サイモン&シュースター 1995年 ISBN 978-0684804484
- ロバート・シャーウッド『ルーズヴェルトとホプキンズ』 村上 光彦 (訳) 未知谷 2015年 ISBN 978-4896424744
- E・B・ポッター『提督ニミッツ』南郷 洋一郎 (訳) フジ出版社 1979年
- ポール・スティルウェル『Air Raid, Pearl Harbor!』ネ―バルインスティテュート 1981年 ISBN 978-0870210860
- ウォルター・ヒクソン『Pearl Harbor in History and Memory: The American Experience in World War II』ラウトレッジ 2002 ISBN 978-0415940320
- ウォルター・ロード『ニイタカヤマノボレ―12月8日の真珠湾 』大久保 康雄(訳) 早川書房 1962年
- ゴードン・ウィリアム・プランゲ『トラトラトラ―真珠湾奇襲秘話』千早 正隆 (訳) 日本リーダーズダイジェスト社 1969年
- ドナルド・M・ゴールドスタイン ゴードン・ウィリアム・プランゲ『December 7, 1941: The Day the Japanese Attacked Pearl Harbor』 Grand Central Publishing 1989年
- ゴードン・ウィリアム・プランゲ ドナルド・M・ゴールドスタイン キャサリン・ディロン『At Dawn We Slept: The Untold Story of Pearl Harbor』ペンギンブック社 1981年 ISBN 978-0140157345
- ベス・ベイリー デビット・ファーバー共著『The First Strange Place』ジョンズ・ホプキンス大学出版 1994年
- ロバート・ラフォルテ ロナルド・マルチェロ『Remembering Pearl Harbor: Eyewitness Accounts by U.S. Military Men and Women』スコライリ―・リソース社 1991年 ISBN 978-0842023719
- ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録(上)』 津島一夫訳、朝日新聞社
- シドニー・メイヤー 『マッカーサー 東京への長い道 第二次世界大戦ブックス23』 芳地昌三訳、サンケイ新聞社出版局、1971年
関連項目
- 奇襲
- タラント空襲
- ハル・ノート
- アメリカ本土空襲
- ドーリットル空襲
- ワシントン海軍軍縮条約
- ニイハウ島事件
- 九一式魚雷 - 世界初の本格的な航空魚雷
- 成瀬正二 - 九一式魚雷の開発チームリーダー(工学者)
- 白い巨塔 - 作中「真珠湾攻撃」と俗称される、納入商品の強引な回収シーンがある。
- 新潟県長岡市 - 山本五十六の出身地。真珠湾攻撃の縁でホノルルと姉妹都市となっている。