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「東京都立松沢病院」の版間の差分

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[[1943年]]([[昭和]]18年)[[7月]]の都制開始とともに現在の名称になる。
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* 長岡和『爆弾精神科医』[[情報センター出版局]]、[[2008年]][[11月5日]] 第1刷、ISBN 978-4795849426
* 長岡和『爆弾精神科医』[[情報センター出版局]]、[[2008年]][[11月5日]] 第1刷、ISBN 978-4795849426
* 東京大学医学部創立百年記念会編『東京大学医学部百年史』[[東京大学出版会]]、[[1967年]]
* 東京大学医学部創立百年記念会編『東京大学医学部百年史』[[東京大学出版会]]、[[1967年]]
*風祭元『松沢病院院長日記』[[星和書店]][[2004年]][[4月17日]]初版第1刷、ISBN4-7911-0534-6
*風祭元『松沢病院院長日記』[[星和書店]][[2004年]][[4月17日]]初版第1刷、ISBN 4-7911-0534-6


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2016年11月15日 (火) 18:32時点における版

東京都立松沢病院

東京都立松沢病院西門から見た正面入口
(2015年(平成27年)11月26日)
情報
英語名称 Tokyo Metropolitan Matsuzawa Hospital
前身 東京府癲狂院
東京府巣鴨病院
東京府松澤病院
標榜診療科 精神科、神経内科、内科、外科、整形外科、脳神経外科、放射線科、麻酔科、歯科
許可病床数 1264床
一般病床:90床
精神病床:1174床
開設者 東京都
管理者 齋藤正彦(院長)
地方公営企業法 一部適用
開設年月日 1879年明治12年)7月
所在地
156-0057
位置 北緯35度40分4秒 東経139度37分7秒 / 北緯35.66778度 東経139.61861度 / 35.66778; 139.61861
二次医療圏 区西南部
特記事項 精神科応急入院指定病院
PJ 医療機関
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当時の東京府立松沢病院

東京都立松沢病院(とうきょうとりつまつざわびょういん)とは、東京都世田谷区にある医療機関である。東京都(病院経営本部)が設置・運営する病院のひとつであり、精神科の専門病院となっている。

概要

精神科の専門病院として知られる。それまで東京・巣鴨にあった精神病院、東京府巣鴨病院が1919年(大正8年)に現在地に移り、「東京府松澤病院」として診療を始めたのが始まりである。松沢病院は敷地面積が61,000坪で、分棟式の建物が並び、当時から開放病棟や作業場が建てられているなど、先進的な精神病院として開院した[1]

現在は東京都の精神科応急入院指定病院となっており、措置入院用の施設も備えてある。また、東京都災害拠点病院に指定されている。診療の対象は原則として成年者であり、未成年者の場合には東京都立小児総合医療センターを紹介する。やむを得ない場合は、未成年の入院を認めることもある。

2012年平成24年)5月、新たに建設された病院本館診療棟が開業した[2]。これに伴い、身体疾患を合併した精神病患者を管理する「精神科身体合併症医療」や「薬物依存症アルコール依存症医療」のための病床が増設されたほか、15-25歳の患者を対象とした「青年期病棟」が新設された[2]

歴史

沿革

松沢病院の前身は、明治5年(1872年)に東京府本郷に設置された養育院に始まる。その目的は、明治政府樹立後の内戦や廃藩置県による混乱によって生まれた浮浪者や行き場のない病人を収容することにあった[3]

1879年(明治12年)7月に養育院が東京府神田に移転した際に収容者を調査したところ、120人中68人が精神疾患者であることが判明し、彼らの収容目的として、同年7月に東京府上野上野恩賜公園に建てられた東京府癲狂院(とうきょうふてんきょういん、当時の精神科病院はこの様に呼ばれていた)を設立する。初代院長は東京府病院長長谷川泰[4]である[3]

その後1881年(明治14年)8月本郷区向ヶ丘1886年(明治19年)6月小石川区巣鴨駕籠町に移転。第3代院長には、東京帝国大学医科大学精神病学教室初代教授に就任した榊俶(さかき はじめ)が兼任する[5]

1889年(明治22年)に東京府巣鴨病院と改称。

1901年(明治34年)に東京帝国大学精神病理学講座主任教授・呉秀三が巣鴨病院院長を兼任し、病院改革を始める。大きな改革は次のとおり[6]

  1. 拘束具使用禁止。それらをすべて焼却処分する。*現在は、やむを得ない場合において使用されている。
  2. 患者の室外運動の自由化 - 看護職員や家族が付き添い、病院構内での運動を自由化。
  3. 旧来の看護観を持つ看護長などリーダー格の職員を更迭し、看護職員の人員と意識の刷新を図る。
  4. 新しい看護長には医科大学附属病院で看護学講習を聴講させ、看護技術の向上を図る。
  5. 患者処遇の改善と治療方針の刷新。
  6. 作業療法の積極的活用。
  7. 病棟の増改築の実行。

1916年大正5年)、東京帝国大学精神病理学講座が巣鴨病院から分離[7]

1919年(大正8年)11月7日荏原郡松沢村に移転し、東京府松沢病院になった。敷地面積は6万坪。これは呉秀三院長(当時)が入院患者を約600名とする予定で「患者さん一人100。全部で6万坪が必要」と東京府に要請したものが承認されたため[8]。各病棟は□型をしており、閉鎖病棟の患者も中庭には出られる構造になっている[7]

1943年昭和18年)7月の都制開始とともに現在の名称になる。

1949年(昭和24年)、公務員法による国家公務員地方公務員の兼職禁止により、院長内村祐之東京大学教授)が退任する。

2009年平成21年)からは、根拠に基づく医療が難しいと言われる精神科精神科医に於いて、うつ状態の先進医療として、光トポグラフィー検査を用いたうつ病統合失調症に対する「補助的診断」として、実施している[9]

このような歴史的経緯から、松沢病院は設立当初から日本の精神科医療の中心となり、大きな役割を果してきたことがわかる。

年表

診療科目等

医療機関の指定等

認定専門医人数

逸話

精神科病院での死亡率

立津政順1958年(昭和33年)に「戦争中の松沢病院入院患者死亡率」(精神神経科学雑誌、60:596-605,1958)を発表し、敗戦の1945年(昭和20年)に東京都立松沢病院に在籍した1169名(年初在院668名、年間入院501名)中、478名が死亡し、年間在籍患者数に対する死亡率が40.9%と発表した。

岡田靖雄はその他の病院の死亡率を検討し、「戦前の精神科病院における死亡率」近代庶民生活史、20,病気・衛生226-240,三一書房,1995. で、死亡率に影響を与える要因として、

  1. 病院経営が安定すると死亡率が減少する。
  2. 太平洋戦争前は米価が上がると脚気による死亡率が上がる。

と述べ、赤痢、腸チフス、流行性感冒より影響が大であった。

患者の入院費用種目は、終戦直後の食料不足による栄養障害が最も重要で、松沢病院では62.3%が栄養障害で1000キロカロリー以下のことも多かったのではないかとしている。

佐川一政

松沢病院の患者で著名な人物は、パリ人肉事件の加害者である佐川一政である。フランスの精神病院で精神病と診断されて不起訴処分になり帰国した佐川を患者として1984年5月に受け入れたが、フランスの診断は誤診であり精神病患者ではなく人格障害者であるため刑事責任を問うべきと診断した。フランス警察が捜査資料の引き渡しを拒否して日本では起訴されずに1985年10月(15か月後)に退院[11]している。

大川周明

大川周明A級戦犯として東京裁判被告人になるも、精神障害と診断されて裁判から外され、東大病院へ入院後に松沢病院へ転院した。主治医は西丸四方[12]である。

交通アクセス

関連項目

脚注

  1. ^ 八木剛平・田辺英 『日本精神病治療史』 金原出版 平成14年刊
  2. ^ a b 都立松沢病院の新しい本館診療棟が5月28日オープン! 『広報東京都』 第800号 平成24年5月1日発行
  3. ^ a b c d 『爆弾精神科医』(p136) より。
  4. ^ 日本医科大学の前身済生学舎創設者 --『爆弾精神科医』(p136) より。
  5. ^ 『爆弾精神科医』(p137) より。
  6. ^ 『爆弾精神科医』(p138, p139) より。
  7. ^ a b c 『爆弾精神科医』(p140) より。
  8. ^ 『松沢病院院長日記』(p8)より。
  9. ^ a b "ー精神科医療ー 東京都立松沢病院 光トポグラフィー検査" (Press release). 東京都立松沢病院. 2012年10月28日閲覧
  10. ^ 『爆弾精神科医』(p138) より。
  11. ^ 風祭元『松沢病院院長日記』(p122)
  12. ^ 『精神医学彷徨記』(p95) より。

参考文献

外部リンク