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* イギリス空軍はパイロットの撃墜認定で「確実撃墜(moral victory)」は個人撃墜機数にカウントされた。<ref>確実撃墜(moral victory)、撃墜破:敵飛行機を攻撃して敵前線であっても地上に落した、制御を失わせ(out of control)降下させた、撃破(damaged)し降下させた場合。</ref> イギリス空軍は協同撃墜(shared victory)では各機に1機の撃墜認定(fully credit)が与えられた。 |
* イギリス空軍はパイロットの撃墜認定で「確実撃墜(moral victory)」は個人撃墜機数にカウントされた。<ref>確実撃墜(moral victory)、撃墜破:敵飛行機を攻撃して敵前線であっても地上に落した、制御を失わせ(out of control)降下させた、撃破(damaged)し降下させた場合。</ref> イギリス空軍は協同撃墜(shared victory)では各機に1機の撃墜認定(fully credit)が与えられた。 |
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: 例として、複数機のイギリス機が1機のドイツ機を撃墜した場合は各機はともに1機の撃墜が認定された。<ref> |
: 例として、複数機のイギリス機が1機のドイツ機を撃墜した場合は各機はともに1機の撃墜が認定された。<ref> |
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Christopher Shores, Norman Franks, and Russell Guest, 'Above the Trenches: A Complete Record of the Fighter Aces and Units of the British Empire Air Forces, 1915-1920' (Grub Street the Basement, London, 1991/01) ISBN |
Christopher Shores, Norman Franks, and Russell Guest, 'Above the Trenches: A Complete Record of the Fighter Aces and Units of the British Empire Air Forces, 1915-1920' (Grub Street the Basement, London, 1991/01) ISBN 0948817194</ref> |
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* フランス空軍ではイギリス式の確実撃墜(moral victory)は個人撃墜機数として認められなかったが、協同撃墜に対するイギリス式の個人撃墜機数カウント方法は採用した。 |
* フランス空軍ではイギリス式の確実撃墜(moral victory)は個人撃墜機数として認められなかったが、協同撃墜に対するイギリス式の個人撃墜機数カウント方法は採用した。 |
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* [[アメリカ陸軍航空隊|アメリカ陸軍航空部]]はフランス軍、イギリス軍の指揮下で戦ったので、それぞれ対応するルールをあてはめた。<ref>Norman L. R. Franks and Frank W. Bailey, 'Over the Front: A Complete Record of the Fighter Aces and Units of the United States and French Air Services, 1914-1918' |
* [[アメリカ陸軍航空隊|アメリカ陸軍航空部]]はフランス軍、イギリス軍の指揮下で戦ったので、それぞれ対応するルールをあてはめた。<ref>Norman L. R. Franks and Frank W. Bailey, 'Over the Front: A Complete Record of the Fighter Aces and Units of the United States and French Air Services, 1914-1918' |
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(Grub Street the Basement, London, May 1992) ISBN |
(Grub Street the Basement, London, May 1992) ISBN 0948817542 </ref> |
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* ドイツ空軍はイギリス式の撃墜確実(moral victory)は個人撃墜機数にカウントしなかった。 |
* ドイツ空軍はイギリス式の撃墜確実(moral victory)は個人撃墜機数にカウントしなかった。 |
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: 敵機が破壊(destroy)されたか、ドイツの勢力圏内に不時着させられ敵機の乗員が捕虜となるか、となる必要があった。敵機を撃墜し不時着してもそれが敵勢力圏内で救助された場合はスコアとして認められなかった。<ref>第一次大戦ドイツ空軍のスコアカウント基準: |
: 敵機が破壊(destroy)されたか、ドイツの勢力圏内に不時着させられ敵機の乗員が捕虜となるか、となる必要があった。敵機を撃墜し不時着してもそれが敵勢力圏内で救助された場合はスコアとして認められなかった。<ref>第一次大戦ドイツ空軍のスコアカウント基準: |
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: またドイツは協同撃墜に対するイギリス式の個人撃墜機数カウント方法も採用しなかった。複数機で1機を協同撃墜した場合もそのなかの一人だけが個人撃墜機数スコアに加えることを認められ、それはエースだけが、エース同士の場合ならばより多数機撃墜スコアの上位エースだけが、その1機撃墜を自分のものとしてスコアに加えていた傾向が強かった<ref> |
: またドイツは協同撃墜に対するイギリス式の個人撃墜機数カウント方法も採用しなかった。複数機で1機を協同撃墜した場合もそのなかの一人だけが個人撃墜機数スコアに加えることを認められ、それはエースだけが、エース同士の場合ならばより多数機撃墜スコアの上位エースだけが、その1機撃墜を自分のものとしてスコアに加えていた傾向が強かった<ref> |
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Norman L. R. Franks, Frank W. Bailey, and Russell Guest, 'Above the Lines: The Aces and Fighter Units of the German Air Service, Naval Air Service and Flanders Marine Corps, 1914 - 1918' (Grub Street the Basement, London, (1994/01)) |
Norman L. R. Franks, Frank W. Bailey, and Russell Guest, 'Above the Lines: The Aces and Fighter Units of the German Air Service, Naval Air Service and Flanders Marine Corps, 1914 - 1918' (Grub Street the Basement, London, (1994/01)) |
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ISBN 0948817739 |
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=== 編隊戦闘への移行とアメリカ軍の協同撃墜判定・被撃墜認定システム === |
=== 編隊戦闘への移行とアメリカ軍の協同撃墜判定・被撃墜認定システム === |
2016年11月15日 (火) 13:51時点における版
エース・パイロット(米・英:Flying Ace フライング・エース、仏:As アス、独:Fliegerass フリーガーアス、日本:撃墜王(げきついおう))は、多数の敵機(現在は5機以上)を主に空中戦で撃墜したパイロット(主に戦闘機パイロット)に与えられる称号。航空機が戦闘に使用され始めた第一次世界大戦時からある名称である。単にエースとも称し、中でも撃墜機数上位者はトップ・エースと称される。
概要
第一次世界大戦で戦闘機が誕生した当初、フランスが10機以上撃墜者をエースの資格と定義し、同じ連合国のイギリスや、対戦相手(中央同盟国)のドイツも同様に10機以上撃墜者をエースとした。しかし大戦終盤の1917年に参戦したアメリカは戦闘が短期間であったことを考慮し、5機以上撃墜者をエースの資格と定義した。戦間期を経て第二次世界大戦が開始されると、各国は各々の第一次大戦の定義で使用を再開したが、のちに連合国・枢軸国ともに5機以上撃墜者をエースの資格とした。
エースの定義とは別に、第一次大戦時のフランス軍、および第二次大戦時のドイツ軍は、東部戦線・西部戦線作戦方面の難易度に応じたポイント制により叙勲と昇進で表彰した。また、第二次大戦終盤に空中戦機会が乏しくなったアメリカ軍は、地上破壊機数を貢献ポイントとして別途カウントした。
日本には「多数機撃墜者」という通称があり、日本軍航空部隊が本格的に参戦した日中戦争以降は上級部隊からの感状(部隊感状/個人感状)・賞詞・叙勲・祝品授与などで表彰され、隷下の各飛行部隊は個人の功績を記録した。陸軍では将兵の士気高揚の面からも太平洋戦争時も奨励されたが、敗戦により記録文書の多くは焼却されており、海軍では1943年後半以降軍令部の指示で多くの部隊は個人撃墜数の記録を廃止している。そのため操縦者の日記記録などを除き戦歴の詳細が不明な部分が少なくなく、戦後日本の戦史家達は1970年代に当時の関係者の体裁を考慮しつつ撃墜数を一定率の掛け算などで引き下げ、戦果を縮小し全体数の調整を試みたことがあったが結論は出なかった。しかし1990年代以降、梅本弘などによって日本軍の戦果報告と連合国軍の損害報告という双方の一次資料を極力照合することにより、客観的に真の撃墜機数を検証する活動がなされている。
主に撃墜の記録はパイロット自身の自己申告によるが、基本的に空中戦の世界(とりわけ第二次大戦)では誤認が大変多く、実際の敵機撃墜数の何倍もの数を「撃墜した」と報告してしまうことは珍しくなかった。そのため、僚機や地上の目撃者の証言、被撃墜敵機の残骸確認・捕虜の尋問、敵軍の通信傍受・暗号解読、ガンカメラの記録に基づき検証されることも多い。なお「撃墜」のほかに、敵機の墜落・空中分解・炎上などは見届けなかったが確実に撃墜に至る損害を与えたとされる「未確認撃墜」、友軍機とともに協同して敵機を撃墜した「協同撃墜」、撃墜までは至らなかったが敵機に被害(被弾)を与えたという「撃破」などが存在し、これらも戦果となった(個人撃墜機数のカウント)。第二次世界大戦の枢軸陣営では、爆撃もしくは雷撃によって連合国の艦船を撃沈した航空機搭乗員に対し、「撃沈王」(Anti-shipping expert)と称する事もあった。[1]
エース・パイロットのリスト
以下、世界の主要なエース・パイロットを英語版項目から日本語表記に修正・転載・加筆。
第一次世界大戦
スペイン内戦
氏名 | 出身国 | 所属 | 撃墜機数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
ホアキン・ガルシア=モラト | スペイン | ナショナリスト空軍 | 40 | |
アンヘル・サラス・ララサーバル | スペイン | ナショナリスト空軍 | 16 | 後の第二次世界大戦では7機撃墜。 |
アーロイス・ヴァサタク | チェコスロバキア | スペイン共和国空軍 | 17 | |
アベル・ガイド | フランス | スペイン共和国空軍 | 10 | |
レフ・シェスタコフ | ロシア | スペイン共和国空軍 | 8 | 他、共同撃墜が31機ある。後の第二次世界大戦でも活躍。1944年3月に撃墜され戦死するが、このとき彼を撃墜したのはハンス・ウルリッヒ・ルーデル少佐(当時)といわれている。 |
ボジダール・ペトロヴィッチ | ユーゴスラビア | スペイン共和国空軍 | 7 | |
ヴェルナー・メルダース | ドイツ | コンドル軍団 | 14 | ロッテ戦法・シュヴァルム戦法を生み出した。後の第二次世界大戦では、人類初の100機撃墜を達成。 |
ハーロー・ハルダー | ドイツ | コンドル軍団 | 11 | |
ヘルベルト・イーレフェルト | ドイツ | コンドル軍団 | 9 | |
ヴァルター・エーザウ | ドイツ | コンドル軍団 | 8 | |
ギュンター・リュッツオウ | ドイツ | コンドル軍団 | 5 | |
マリオ・ボンザーノ | イタリア | ナショナリスト空軍 | 15 | |
ブルネット・ディ・モンテグネッコ | イタリア | ナショナリスト空軍 | 14 | |
ガイド・プレーセル | イタリア | ナショナリスト空軍 | 13 | |
ロドルフ・ド・エムリクール・ド・グリュヌ | ベルギー | ナショナリスト空軍 | 10 | 後に第二次世界大戦でも3機を撃墜するが、1941年5月に戦死。 |
第二次世界大戦
朝鮮戦争
氏名 | 国名 | 所属 | 撃墜機数 |
---|---|---|---|
ジョセフ・M・マコーネル | アメリカ | アメリカ空軍 | 16 |
ジェームズ・ジャバラ | アメリカ | アメリカ空軍 | 15 |
マニョエル・J・フェルナンデス | アメリカ | アメリカ空軍 | 14.5 |
ジョージ・A・デイビス | アメリカ | アメリカ空軍 | 14 |
アイヴン・キンチェロー | アメリカ | アメリカ空軍 | 5 |
ニコライ・スチャウギン | ソビエト | ソビエト空軍 | 21 |
エヴゲーニー・ペペスチャーヴェ | ソビエト | ソビエト空軍 | 19 |
レフ・シチェーキン | ソビエト | ソビエト空軍 | 13 |
セルゲイ・クロマレンコ | ソビエト | ソビエト空軍 | 13 |
キム・キンオク | 北朝鮮 | 朝鮮人民軍空軍 | 11 |
カン・ヨンドゥク | 北朝鮮 | 朝鮮人民軍空軍 | 10 |
リ・ドンギュ | 北朝鮮 | 朝鮮人民軍空軍 | 5 |
王海 | 中華人民共和国 | 人民解放軍空軍 | 9 |
李漢 | 中華人民共和国 | 人民解放軍空軍 | 8 |
劉玉堤 | 中華人民共和国 | 人民解放軍空軍 | 6 |
ベトナム戦争
氏名 | 国名 | 所属 | 撃墜機数 |
---|---|---|---|
グエン・バン・コク | 北ベトナム | ベトナム人民空軍 | 9 |
マイ・バン・クオン | 北ベトナム | ベトナム人民空軍 | 8 |
グエン・ドゥク・ソアト | 北ベトナム | ベトナム人民空軍 | 5 |
チャールズ・B・デベリーヴ | アメリカ | アメリカ空軍 | 6 |
スティーブ・リッチー | アメリカ | アメリカ空軍 | 5 |
ジェフ・ファインスタイン | アメリカ | アメリカ空軍 | 5 |
ランドル・カニンガム | アメリカ | アメリカ海軍 | 5 |
ウィリアム・ドリスコル | アメリカ | アメリカ海軍 | 5 |
ヴァディム・ペトロヴィチ・シチェルバコフ | ソビエト | ソビエト防空軍 | 6 |
中東戦争
氏名 | 国名 | 所属 | 撃墜機数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
ギオラ・エプスタイン | イスラエル | イスラエル空軍 | 17[2] | イスラエル空軍のトップエース。第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで8機、ネシェルで9機撃墜。 |
アブラハム・サルモン | イスラエル | イスラエル空軍 | 14.5[2] | 第119飛行隊、第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで13.5機、ネシェルで1機撃墜。他に未公認3機があり、これらを含めるとギオラ・エプスタインと同等の記録となる[3] 。 |
アミル・ナフミ | イスラエル | イスラエル空軍 | 14 | 第107飛行隊、第110飛行隊に所属。F-4で7機、F-16で7機撃墜。F-16での世界初の敵戦闘機撃墜記録も持つ。イラク原子炉爆撃作戦に参加。 |
アシュエル・スニール | イスラエル | イスラエル空軍 | 13.5[2][4] | 第119飛行隊に所属。ミラージュIIIで12機、F-4で1.5機[5] 。 |
イスラエル・バハラヴ | イスラエル | イスラエル空軍 | 12[2] | 第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで10機、ネシェルで2機撃墜[6]。 |
イフタ・スペクター | イスラエル | イスラエル空軍 | 12[2][4] | 第101飛行隊、第107飛行隊に所属。ミラージュIIIで8機、F-4で4機撃墜。[7] |
オデッド・マロム | イスラエル | イスラエル空軍 | 11[8] | 第101飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜。未公認記録が多く、全て含めると18機ないし17.5機の記録となり、ギオラ・エプスタインと同等あるいは超える記録となる[9]。 |
ヤアコヴ・リヒター | イスラエル | イスラエル空軍 | 10.5[2] | 第117飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[10]。 |
イェフダ・コレン | イスラエル | イスラエル空軍 | 10.5[2] | 第117飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[11]。 |
シュロモ・レビ | イスラエル | イスラエル空軍 | 10[2] | 第113飛行隊に所属。全てネシェルでの撃墜[12]。 |
Dror Harish | イスラエル | イスラエル空軍 | 9[2] | 第119飛行隊、第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで6機、ネシェルで3機撃墜。他に未公認3機。[13] |
Eitan Carmi | イスラエル | イスラエル空軍 | 9[2] | 第119飛行隊、第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで7機、ネシェルで2機撃墜[14]。 |
Moshe Melnik | イスラエル | イスラエル空軍 | 8.5[4]or 9.5[15] | 第119飛行隊、第101飛行隊に所属。F-4で5.5機、F-15で4機撃墜。他に未公認1機[15]。 |
Shlomo Egozi | イスラエル | イスラエル空軍 | 8[4] | 第107飛行隊に所属。全てF-4での撃墜。8機中5機はエジプト軍のMi-8で、Roy Manoffとの同乗機で第四次中東戦争の初日(1973年10月6日)に撃墜[16]。 |
Ilan Gonen | イスラエル | イスラエル空軍 | 8[2] | 第101飛行隊、第113飛行隊に所属。ミラージュIIIで3機、ネシェルで5機撃墜[17]。 |
Amos Bar | イスラエル | イスラエル空軍 | 8[2]or 7[18] | 第117飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[18]。 |
Ran Ronen (Pecker) | イスラエル | イスラエル空軍 | 8[8]or 7[19] | 第119飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[19]。 |
ウリ・ギル | イスラエル | イスラエル空軍 | 7.5[2] | 1982年までにミラージュIIIで5機撃墜[20]。18歳から60歳まで現役の戦闘機パイロットを続け、ギネス世界記録の『世界で最も長く飛行した戦闘機パイロット』に認定された。 |
Menachem Enian | イスラエル | イスラエル空軍 | 7.5 or 8[21] | 所属、搭乗機は不明。1967年~1982年にかけて8機撃墜[21]。 |
Michael Tsuk | イスラエル | イスラエル空軍 | 7[2] | 第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで5機、ネシェルで2機撃墜[22]。 |
Yirmiahu Kadar | イスラエル | イスラエル空軍 | 7[2] | |
Amos Amir | イスラエル | イスラエル空軍 | 7[2] | 第101飛行隊、第119飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜。他に未公認1機[23] 。 |
Roy Manoff | イスラエル | イスラエル空軍 | 7[4] | 第107飛行隊に所属。全てF-4での撃墜。7機中5機はエジプト軍のMi-8で、Shlomo Egoziとの同乗機で第四次中東戦争の初日(1973年10月6日)に撃墜[24]。 |
Moshe Hertz | イスラエル | イスラエル空軍 | 6.5[2]or 5[25] | 第101飛行隊、第113飛行隊に所属。ミラージュIIIで1機、ネシェルで4機撃墜。他に未公認3機[25]。 |
Ehud Hankin | イスラエル | イスラエル空軍 | 6[26]or 3.5[27] | 第117飛行隊、第69飛行隊に所属。ミラージュIIIで2.5機、F-4で1機。他に未公認2機があり、これを含めるとエース(5機以上撃墜)となる[27]。 |
ルドルフ・アウガルテン | イスラエル | イスラエル空軍 | 6 | 第2次世界大戦中はドイツ軍に所属。Bf 109で2機のP-47Dを撃墜。第一次中東戦争当時の第101飛行隊に所属し、S-199で1機、P-51Dで1機、スピットファイアで2機撃墜。他に大戦中の未公認1機(Fw 190での記録)、第101飛行隊での未公認1機[28]。 |
ヨラム・アグモン | イスラエル | イスラエル空軍 | 6[2][4] | 第101飛行隊、第69飛行隊に所属。ミラージュIIIで3機、F-4で3機撃墜。第69飛行隊では飛行隊長を務めた[29]。 |
Uri Even-Nir | イスラエル | イスラエル空軍 | 6[2] | 第117飛行隊、第144飛行隊に所属。ミラージュIIIで4機、ネシェルで2機撃墜。他に未公認2機[30]。 |
メナヘム・シャロン | イスラエル | イスラエル空軍 | 6[2] | 第101飛行隊、第144飛行隊に所属。ミラージュIIIで2機、ネシェルで4機撃墜。他に未公認2機[31]。 |
Eli Menachem | イスラエル | イスラエル空軍 | 6[2] | |
Eitan Peled | イスラエル | イスラエル空軍 | 6[4] | 第201飛行隊に所属。全てF-4での撃墜[32]。 |
Yossi Yavin | イスラエル | イスラエル空軍 | 6[4] | |
Gideon Livni | イスラエル | イスラエル空軍 | 5.5[2] | 第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで1機、ネシェルで4.5機撃墜[33]。 |
エズラ・ドタン | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | 第109飛行隊の飛行隊長。A-4攻撃機で2機撃墜し、"ミスター・スカイホーク"と呼ばれた。 |
Reuven Rozen | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2]or 6[34] | 第119飛行隊、第113飛行隊に所属。ミラージュIIIで5機、ネシェルで1機撃墜[34]。 |
Gideon Dror | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | 第117飛行隊、第113飛行隊に所属。ミラージュIIIで1機、ネシェルで4機撃墜[35]。 |
Shlomo Navot | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | 第117飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[36]。 |
Itzchak Amitay | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[4] | 第201飛行隊に所属。全てF-4での撃墜。5機中3機はエジプト軍のMi-8で、Ben-Ami Periとの同乗機で第四次中東戦争の初日(1973年10月6日)に撃墜[37]。 |
Ben-Ami Peri | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[4] | 第201飛行隊、第105飛行隊に所属。全てF-4での撃墜。5機中3機はエジプト軍のMi-8で、Itzchak Amitayとの同乗機で第四次中東戦争の初日(1973年10月6日)に撃墜[38]。 |
Itamar Neuner | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | |
Avraham Gilad | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | |
Yoram Geva | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | 第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで2機、ネシェルで3機撃墜[39]。 |
アリエル・コーエン | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | 第144飛行隊に所属。全てネシェルでの撃墜。他に未公認2機[40]。 |
アサフ・ベン=ヌン | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | 第109飛行隊、第144飛行隊に所属。ミステール IV Aで1機、ネシェルで4機撃墜。他に未公認1機[41]。 |
ギオラ・ロム | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2] | 第119飛行隊に所属。1967年の第三次中東戦争においてミラージュIIIで5機を撃墜し、イスラエル空軍初のエースパイロットとなった。1987年にはイスラエル空軍の副司令官に就いた。 |
Menachem Shmul | イスラエル | イスラエル空軍 | 5[2][4] | 第119飛行隊、第144飛行隊に所属。ミラージュIIIで4機、ネシェルで1機撃墜。他に未公認2機[42]。 |
Fayez Mansour | シリア | シリア空軍 | 15[43][44] | シリア空軍のトップエース。15機中1機はイギリス空軍機の撃墜(他はイスラエル空軍)。1953年~1970年まではMiG-17、これ以降はMiG-21に搭乗。1982年に戦死。 |
Bassam Hamshu | シリア | シリア空軍 | 7[45] | |
Adeeb Al-Jarf | シリア | シリア空軍 | 7[46] | |
Majid Zugbi | シリア | シリア空軍 | 7[47] | |
Majad Halabi | シリア | シリア空軍 | 6[48] | |
Dzhur Abid Adib | シリア | シリア空軍 | 5[49] | |
Muhammad Mansour | シリア | シリア空軍 | 5[50] | |
Ali Wajai | エジプト | エジプト空軍 | 6[51] | エジプト空軍のトップエース。1970年に2機、1973年に4機撃墜。 |
Ahmed Atef | エジプト | エジプト空軍 | 5[51] | |
Sami Marei | エジプト | エジプト空軍 | 5[51] | 1970年に戦死。 |
Samir Aziz Mikhail | エジプト | エジプト空軍 | 5[51] | |
Hussein Samy | エジプト | エジプト空軍 | 5[51] |
印パ戦争
氏名 | 国名 | 所属 | 撃墜機数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
ムハンマド・マフムード・アラム | パキスタン | パキスタン空軍 | 7 (他に未公認2)[52][53][54][55] | パキスタン空軍第11飛行隊の飛行隊長としてF-86 セイバーに搭乗。撃墜機は全てインド空軍のホーカー ハンター。1965年9月7日の空中戦では1度の出撃で5機のハンターを撃墜した[56]。 |
イラン・イラク戦争
氏名 | 国名 | 所属 | 撃墜機数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
ジャリル・ザンディ | イラン | イラン空軍 | 8 | F-14Aに搭乗し8機撃墜[57][58][59]。他に未公認3機。撃墜機の内訳はMiG-23を4機、Su-22を2機、MiG-21を2機、ミラージュF1を3機。 |
シャフラム・ロスタミ | イラン | イラン空軍 | 6 | F-14Aに搭乗し6機撃墜。撃墜機の内訳はMiG-21を1機、MiG-25を2機、ミラージュF1を3機。世界で初めて空中戦でMiG-25を撃墜した人物である[60][61][62][63]。 |
湾岸戦争
湾岸戦争において撃墜を記録したパイロットは複数存在するが、最高記録がひとりにつき3機であるため、湾岸戦争におけるエースは存在しない。
個人撃墜機数のカウント
エースのリストでは個人撃墜機数(撃墜数。score,スコア)も主要構成要素の一つになっている。各時代、各国軍で異なる個人撃墜機数カウント方法が存在していた。のちの時代に新規導入・変更・施行された基準は、その国での施行時点以前の時期に遡っては適用されず、戦歴も修正されることはない(基準の適用による見直しは無いが、調査の結果修正されることはある)。
- 部隊総合撃墜機数は個人撃墜機数の累計とは異なる。
- 第一次大戦でエースが登場した当時、部隊の撃墜機記録とは別に、個人撃墜機数記録が生まれた。
- 第一次大戦終戦時の欧州空戦では所属する各国軍によって相違する個人スコアの数え方が数種類存在した。
- 第二次大戦開戦時には各国はその基準を再び適用した。
- 第二次大戦中にアメリカ軍は、編隊空戦での協同撃墜に対する基準を変更し分割公認戦果を導入した。
- 第二次大戦終戦以降、現在までの戦果には戦勝国である旧連合国軍の標準が採用されている。
第一次大戦時、疲弊した国民の戦意を鼓舞するための過剰な英雄報道への要領よい対応とは別に、エースには実際の戦場で、冷静な判断で味方の最小リスク・損害で敵戦力に最大効率で損害を与え続ける役割が期待された。多くのトップ・エースのスコアには、上空から不意をつき反撃できない状態の戦闘機や、爆撃機を確実に撃墜した機数が多数ふくまれる[64] [65] 。
第一次大戦参戦各国の個人撃墜機数カウント
第一次大戦終戦時の各国の個人撃墜機数のカウント方法の違い
- イギリス空軍はパイロットの撃墜認定で「確実撃墜(moral victory)」は個人撃墜機数にカウントされた。[66] イギリス空軍は協同撃墜(shared victory)では各機に1機の撃墜認定(fully credit)が与えられた。
- 例として、複数機のイギリス機が1機のドイツ機を撃墜した場合は各機はともに1機の撃墜が認定された。[67]
- フランス空軍ではイギリス式の確実撃墜(moral victory)は個人撃墜機数として認められなかったが、協同撃墜に対するイギリス式の個人撃墜機数カウント方法は採用した。
- アメリカ陸軍航空部はフランス軍、イギリス軍の指揮下で戦ったので、それぞれ対応するルールをあてはめた。[68]
- ドイツ空軍はイギリス式の撃墜確実(moral victory)は個人撃墜機数にカウントしなかった。
- 敵機が破壊(destroy)されたか、ドイツの勢力圏内に不時着させられ敵機の乗員が捕虜となるか、となる必要があった。敵機を撃墜し不時着してもそれが敵勢力圏内で救助された場合はスコアとして認められなかった。[69]
- またドイツは協同撃墜に対するイギリス式の個人撃墜機数カウント方法も採用しなかった。複数機で1機を協同撃墜した場合もそのなかの一人だけが個人撃墜機数スコアに加えることを認められ、それはエースだけが、エース同士の場合ならばより多数機撃墜スコアの上位エースだけが、その1機撃墜を自分のものとしてスコアに加えていた傾向が強かった[70] [71]。
編隊戦闘への移行とアメリカ軍の協同撃墜判定・被撃墜認定システム
スペイン内戦ではドイツ空軍のヴェルナー・メルダースにより、3機編隊を最小単位としたケッテから2機編隊を最小単位とするロッテ(Rotte)と、そのロッテを2組とする4機編隊のシュヴァルム(Schwarm)という編隊戦法が編み出され、第二次大戦中の欧州戦線ではそのロッテ戦法が形を変えながらもイギリス空軍を筆頭に各国に普及した[72] 。
- 日本陸軍航空部隊は欧州戦線を注目しており、1942年春に研究機として購入したBf 109Eとともに来日したドイツ空軍のエース、フリッツ・ロージヒカイト大尉(後にドイツ帰国、最終撃墜数68機)と、メッサーシュミットのテスト・パイロットであるヴィリー・シュテーアから伝えられたこのシュヴァルム戦法を明野陸軍飛行学校で研究し、2機x2の4機編隊を「ロッテ戦法」と総称して採用。2機のロッテを分隊、4機のシュヴァルムを小隊と定義し、従来の3機編隊(ケッテ)から移行する形で1942年末から順次実戦投入された。
- アメリカ海軍は応用編隊戦法として、2機が数100m離れた戦闘隊形に展開した隊形で相互掩護する戦法を研究提唱しサッチ・ウィーブと命名、ソロモン戦線で本格的に実戦導入され有効な成果を上げた。
- 太平洋戦線で余裕なく苦戦だったガダルカナル攻防戦をしのいだ翌年1943年に、編隊空戦での協同撃墜の戦果認定基準を変更し、陸海軍海兵隊の航空部隊に分割公認戦果システムを新規導入した。協同撃墜の場合は戦闘後、上官の協議により戦果判定され、撃墜1機に有効打撃を与えた複数機の各パイロットに1機を頭数で割算した値を個人撃墜数(score)として平等に割り振るシステムを制定した(分数値で追加)[73]。
イギリスとアメリカの場合、ガンカメラなどの記録があったためある程度撃墜の確認は可能であったが、戦意高揚のためパイロットの個人申告を重視することが多々あった。一方ドイツは、ガンカメラの映像や僚機の証言、地上での目撃者など事細かに調査した後に撃墜を認定したため、戦後は疑いの目で見られていたエースの戦果は、このような調査結果を知った連合国側からも認められている。
日本における空中戦闘方法推移と撃墜・被撃墜判断
第一次大戦後、日本は当時最先端の欧州空軍のシステムを導入した。日本陸海軍戦闘機パイロットの個人撃墜機数のカウントの仕方も欧州先進各国に準じた。
- 日本陸軍はフランス式空軍のシステムを導入した。
- 日本海軍はイギリス式空軍のシステムを導入した。
- 日本海軍最初の空戦撃墜は亀井大尉がイギリスで学び伝えた3機編隊空戦による戦果だった(1932年2月22日午後4時、空母加賀戦闘機隊生田乃木次大尉、黒岩利雄3飛曹、武雄一夫1空兵、上海公大飛行場発進、蘇州上空戦)。
- 日中戦争初期から第1次ノモンハン戦線(1939年5月)までの小型機撃墜については、単機空戦がほとんどだった。
- 第2次ノモンハン戦線(1939年6月-9月)から太平洋戦線のソロモン戦線、ニューギニア戦線以降(1942年11月~)は、小型機空戦も中隊同士の激戦になり編隊空戦に移行した。[75] ノモンハン事件末期の9月には日本陸軍戦闘隊の全てが中隊ごとの編隊空戦に移行しており、各中隊が一丸で行動し糸を結び合ったように各機が相互に掩護連携して戦っていた[76]。
- 太平洋戦線ではソロモン戦線前期すでに、攻撃機・爆撃機、船団上空の掩護を担当する戦闘隊は空戦戦闘に入ることは許可されず牽制し蹴散らすまでで、空戦戦闘に入って離れたため攻撃隊や船団が被害を受けた際の行動評価は低く評点された。
- 日本軍はパイロットの視認により、炸裂弾により敵翼飛散・爆発・炎上した機、空域離脱後を捕捉攻撃し不時着させた機は撃墜数にカウントした。
- 各戦闘機パイロットは戦闘直後のブリーフィングで中隊ごとに集合し、空中指揮官たる中隊長に個人撃墜数など戦果報告を行い、空中指揮官(中隊長、分隊士)は戦果を確認し重複など整理したうえで部隊長に報告した。その後戦闘詳報、戦闘行動図などが製作され上級部隊に提出した。
- B-29本土爆撃の夜間迎撃戦では、二式複座戦闘機「屠龍」のホ203・37mm機関砲に代表される大口径砲弾を命中させ、大破させたらその後暗闇で見失っても帰途墜落・洋上不時着後に行方不明になった喪失機数を敵無線の傍受や、暗号解読で確認できた場合には撃墜数にカウントした。
- 被撃墜では、空中指揮官(陸軍では中隊長以上、海軍で中隊を率いる分隊士以上)が被撃墜を確認した機を自爆戦死とし、それ以外を未帰還機とした。未帰還機パイロットは約1ヶ月あとまで待ってから戦死と認定された[77]。
脚注
- ^ ドイツ空軍のカール=ハインツ・グレーフェ (ドイツ語)、あるいはヨハネス・ギースマンなど。 John Weal著、Osprey Publishing刊 Osprey Combat Aircraft 75 "Junkers Ju 88 Kampfgeschwader in North Africa and the Mediterranean"、ISBN 978-1-84603-318-6、2009年
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- ^ 確実撃墜(moral victory)、撃墜破:敵飛行機を攻撃して敵前線であっても地上に落した、制御を失わせ(out of control)降下させた、撃破(damaged)し降下させた場合。
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- ^ 第一次大戦ドイツ空軍のスコアカウント基準:
- 撃墜数カウントする- KIA 行動中に殺した、WIA/DOW 行動中に負傷し負傷が元で後に死亡した、POW 戦争捕虜として確保した
- 撃墜数カウントしない- WIA 行動中に負傷したが生き延びた(不時着救助含む)
- ^ Norman L. R. Franks, Frank W. Bailey, and Russell Guest, 'Above the Lines: The Aces and Fighter Units of the German Air Service, Naval Air Service and Flanders Marine Corps, 1914 - 1918' (Grub Street the Basement, London, (1994/01)) ISBN 0948817739
- ^ Norman Franks, 'JASTA PILOTS: Detailed listings and histories August 1916 - November 1918' (Grub Street August 2002, London) ISBN 1898697477
- ^ イギリス軍戦闘機隊はマランの編隊隊形を編み出した:
- イギリスはバトル・オブ・ブリテンでは旧式な傘型3機編隊x4の密集隊形で迎撃戦闘したが3機編隊では旋回内側機が脱落し編隊が崩れ被害があった。
- マランの編隊形式は、通常は1個分隊4機単縦列陣の3列で列間隔を数100m離し互いに相互の後方を見張り、戦闘では各1個分隊単縦列陣4機が2機ペアの編隊最小単位に分離し戦闘に入る(フィンガー・フォー)。
- ^ バレット・ティルマン『第二次大戦のワイルドキャットエース』オスプレイ・ミリタリー・シリーズ、岩重多四郎訳、大日本絵画、ISBN 4-499-22742-9
- (Barrett Tillman 'Wildcat Aces of World War 2' Ospray Aircraft of the Aces)
- ^ グレゴリー・ボイントン BAA BAA BLACKSHEEP 『海兵隊空戦記』
- ^ 日本傑作機物語 -97式戦闘機/イ-15, 16 との比較- (酣燈社編, 1959年)
- ^ 吉良勝秋 元陸軍准尉 太平洋戦争ドキュメンタリー 第3巻 『大草原にソ連空軍と渡り合う -群蜂と群蜂と-』今日の話題社、1968年。
- ^ 岩本徹三 『零戦撃墜王』、角田和男『修羅の翼』、斉藤三朗『零戦虎徹』、神立尚紀著『零戦隊長』
参考文献
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- Aloni, Shlomo (2004). Israeli Mirage and Nesher Aces. Osprey Publishing. ISBN 1-84176-653-4
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